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隠岐の出郷者の生活と意識 : 島根県隠岐郡「西ノ島町」の同郷団体の変容

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Academic year: 2021

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隠岐 の出郷 者 の生活 と意識

島 根 県 隠 岐 郡 「西 ノ島 町 」 の 同 郷 団 体 の 変 容

The

Life and Mentality

of "Shukyosha"

from

Oki Islands

—Social research of Nishinoshima's "Dokyo-Dantai."—

Katsuaki Kosaka

は じめ に 私 が初 め て 隠 岐 の 「西 ノ島 町 浦 郷 」 を訪 ね た の は 平 成3年7月 の 由良 比 女(ゆ らひ め)神 社 大 祭 の 時 で あ った 。 この 大祭 は2年 に 一 度 、7月28日 、29日 の 二 日間(平 成 は奇 数 年 開催)、 イ カ 寄 せ 浜 で有 名 な 由 良比 女神 社 で 行 われ る祭 礼 行 事 で 、28日 の夜 は神 幸 の 船 が夜 の 浦 郷 湾 を明 りを 灯 して 周 遊 す る隠 岐 唯 一 の 船 祭 りで あ る。 この 神 幸船 に 乗 り夜 の 海 をゆ っ く り航 行 した経 験 は 、浮 き浮 きす るほ ど新 鮮 で少 年 時 代 に経 験 した 、 あ の祭 りの 高 揚 した気 分 を思 い 起 こす に 充 分 で あ っ た 。 こ の 隠 岐 訪 問 は 隠 岐 に 縁 の 深 い 、 江 戸 川 女 子 短 期 大 学 の宇 野 正 人 助 教 授 の お 誘 い で 実 現 し た も の で あ った 。 隠 岐 を ブ イ ール ド ・ワ ー クの 対 象 に す る こ と を決 心 した の は この 隠 岐 訪 問 の 体 験 が き っ か け に な っ た 。 そ して 文 部 省 の 科 学 研 究 費 の 助 成 を受 け て 平 成5、6年 度 の 二 年 間 、 「離 島 研 究 グル ー プ」(代 表 小 坂 勝 昭)を 組 織 し、 西 ノ 島 町 浦 郷 へ 入 っ た 。 調 査 の 基 本 的方 針 、 お よび 隠 岐 の社 会 史 は越 智 昇 、 小 坂 勝 昭 、 観 光 の 文 化 人 類 学 的 分 析 を斗 鬼 正 一 、宗 教 社 会 学 的 分 析 を 阿南 透 が 担 当 し 、そ の研 究 成 果 は 「隠 岐 諸 島 の 社 会 変 動 に 及 ぼ した 諸 要 因 」(『情 報 と社 会 』 第5号(江 戸 川 大 学 紀 要)、1995、15-36頁 。)と して 発 表 され た 。 この 二 年 間 に わ た る現 地 調 査 に よ り、社 会 学 的 、 文 化 人類 学 的 、宗 教 学 的 な 視 点 か ら隠 岐 の 社 会 構 造 の 特 質 や 、 歴 史 的変 動 を若 干 な が ら明 らか に して き た が 、 こ の 調 査 の 過 程 で 、新 た な研 究 課 題 の 設 定 に迫 られ た 。 こ の 課 題 とは 、過 疎 化 に悩 む 隠 岐 諸 島 の労 働 力 流 出 一還 流 の実 態 を、 隠 岐 の 「社 会 移 動 空 間 」 と設 定 し、 都 市 に お け る隠 岐 出 身 者 の 組 織 的 結 合 態 で あ る 同郷 団体(出 郷 者 集 団) を媒 介 項 に して 、 隠 岐 と出郷 者 の 相 互 依 存 の メ カ ニ ズ ム を明 らか にす る こ とで あ った 。 さ らに 、 同郷 団体 の もつ 機 能 と、 そ の 構成 員 で あ る出郷 者 の都 会 で の 生活 と意 識 を調 査 した か っ た か らで あ る 。 幸 い な こ とに 平 成7、8年 度 の 二 年 間 、 私 学 振 興 財 団 の研 究 振 興 資 金 の 助 成 を 受 け て 調 査 研 究 に 従 事 で き た 。 この 調 査 の結 果 は 上 記4名 の メ ンバ ー に よ っ て 『隠 岐 の 同 郷 団体 の 構 造 と機 能 一隠 岐 郡 西 ノ 島 町 の 出郷 者 の社 会 移 動 空 間 一』(『情 報 と社 会 』 第7号 、1997年3月 刊 行 予 定)と して 既 に 江 戸 川 大 学 紀 要 委 員 会 に 提 出 され て い る。 本 論 文 は 先 の稿 で 充 分 言 い 尽 くせ な か っ た 論 点 を補 充 す る とい う意 図 で 書 か れ た 。 今 回 の私 の 論 文 は 西 ノ 島 、 お よび 隠岐 の 人 々 の 出 郷 先 で あ る大 阪 、東 京 で の調 査 研 究 か ら得 た デ ー タ に 基 づ く もの で あ り、 あ く ま で も 隠 岐 全 島 を視 野 に お さ め た も の で は な い 。 しか し、 島 前 の 西 ノ 島 に つ い て 知 ろ う とす れ ば必 然 的 に 島 後 や 、 島 前 の 知 夫 里 、 中 の 島 な ど との 比 較 が避 け ら れ な い 。 とい うの は 、 隠 岐 四島 はそ れ ぞ れ に 独 自の 言 語 、 文 化 、社 会 構 造 を持 ち 、 独 自の歴 史 的 変 動 を とげ て きた か らで あ る。 そ して 、 隠 岐 の 人 々 の都 市 へ の 出郷 の歴 史 は と りもな お さ ず 隠 岐

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の社 会 的 、経 済 的 変 動 の 反 映 に他 な らず 、島 前 の 人 々 の 生 活 や 意 識 も 島 前 に 特 有 の 社 会 的 変 動 要 因 と連 関 して き た の で あ る 。 本 調 査 は 聴 き 取 り調 査 、 お よ び質 問 紙 票 の 二 方 法 を 採用 した が、 本 論 文 は 私 の 調 査 ノ ー トの 記 録 、 す な わち 聴 き取 り調 査 の デ ー タ を 中 心 に 各 種 の 資料 を も とに 書 き上 げ た も の で あ る。 聴 き取 り調 査 の 過 程 で私 の解 釈 が 誤 解 に基 づ く部 分 が あ るか も しれ な い 。 そ の と き は 調 査 に ご協 力 い た だ い た 方 々に お 詫 び した い 。 日 本 海

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2.隠 岐 「島前 」 の 村 落 構 造 の 変 動 プ ロセ ス 隠 岐 諸 島 は 内 地 か ら約40数 キ ロの 日本 海 に 浮 かぶ 離 島群 で あ る 。 主 要 な 四 島 か らな り、 内 地 に 近 い 三 つ の 島 を 島 前 、 内 地 か ら最 も遠 く、 最 も大 き い 島 を島 後 と呼 ぶ 。 私 た ちの 研 究 対 象 で あ る 西 ノ島 町 浦 郷 は 島 前 に あ る。 西 ノ島 町 は 、 昭 和32年 浦 郷 町 と黒 木 村 が 町 村 合 併 で 誕 生 した が 、 明 治 時 代 は浦 郷 村 と黒 木 村 で あ り、 浦 郷 は 江 戸 時 代 に は 浦 之 郷 とい わ れ た 。 浦 之 郷 は 地理 的 に 山 か らす ぐ に海 岸 線 が 続 く地 形 の た め 耕 地 が少 な く、そ の た め 半 農 半 漁 の 生 活 を強 い られ た 。 他 方 、 黒 木 村 は 田畑 が 多 く、 農 業 と林 業 が盛 ん で あ っ た。 隠 岐 はそ の地 理 的 特 徴 の た め 、 古 代 、 中 世 、近 世 を通 じて 自給 自足 の 経 済 を営 み 、種 々 の 共 同 体 規 制 と同族 団 結 合 に よ、り、 半農 半 漁 の社 会 構 造 を維 持 して き た 地 域 で あ り、 牧 畑 を特徴 とす る。 離 島 と はい え 、 古 代 の 王 朝 政 府 か ら隠 岐 国 と さ だ め られ 常 に 中央 政 府 か らの 文 化 的 影響 を受 け て き た 。 永 見 一 正 の 『隠 岐 の歴 史 』(1965)の 記述 に よ る と隠 岐 国 は 山陰 道 七 ヶ国 の 一 つ で 四等 級 の 最 下 位 に あ る下 国 で、 京 師 か らの 行 程 は 上 り35日 、 下 り18日 の行 程 で あ った 。 中央 か ら赴 任 した 国 司の 任 期 は 四 年 であ っ た が 、 隠 岐 の よ うな 辺 境 の 地 で は 任 命 さ れ た 国 司 が着 任 を 渋 る事 しば し ば で 、 任 期 途 中 の 交替 が 頻 繁 で あ った とい う。(1)隠 岐 は ま た佐 渡 、 八 丈 島 と並 び 、 流 人 の 島 で も あ り、 後 鳥 羽 法 王(承 久3年 、1221)、 御 醍 醐 天 皇(元 弘2年 、1332)が 配 流 され て お り、 そ の ほ か 、 身 分 の 高 い 貴 族 、僧 侶 、 文 人 、歌 人 、 な どが流 され て い る 。 こ れ らの 流 人 た ち と と も に都 の 文化 も輸入 され た とい われ る。 しか し、 昨 年 発 刊 され た待 望 の 町 誌 『隠岐 一 西 ノ島 の 今 昔 』(1996) に よれ ば 、江 戸 時 代 の享 保 年 間(1716)、 隠 岐 に 五 人 組 の 組 織 が確 立 され 、 この 組 織 が村 全 体 を取 り仕 切 る法 律 を定 め た。 当 時 の代 官 か らの 「仰 せ 付 け」(指 令 書)と して 「五 人 組 前 書」 な る法律 が残 され て い るが 、 これ に は 「流 人 に船 渡 しな どを 禁 ず る」、 「流 人 に 国 外 か らの 手 紙 を と りつ ぐ な 」 とい っ た 流 人 との 接 触 に 厳 しい 制 限 を加 え てい た 。 村 民 に対 して も 「無 断 で外 泊 をす るな 」、 「他 国 へ で る とき は往 来 手形 を 申請 し許 可 を求 め る よ う」定 め(2)、村 人 の行 動 は厳 し く制 限 され て い た 。 恐 ら く、 こ の時 代 に は 小 作 人 が 余所 へ 稼 ぎに い く とい うこ と も で きな か っ た であ ろ う。 家 計 の 担 い 手 が 出 稼 ぎ に で るの は 第 一 次 世 界 大 戦後 の 、 す な わ ち 大 正 七 年 以 降 の不 況 の 時 期 か ら と み て よ い だ ろ う。 離 島 で あ るた め 、 島 の 人 口 と食 糧 自給 率 の 均衡 が 維 持 で き な くな る と出 稼 ぎ が 必 然 化 す る。 む しろ 、 日本 の 資 本 主 義 の 構 造 的 変動 、す な わ ち 、 不 況 の 影 響 が 出 稼 ぎ を 引 き起 こ した 。 封 建 制 後 期 の 江 戸 時代 か ら連 綿 と続 く隠 岐 の 社会 構 造 は 、 一 握 りの支 配 層(大 地 主 層)と 大 多 数 の 小 作 農 、 お よ び水 呑 み 百 姓 か ら成 立 す る村 落構 造 で あ り、 地 主 層 が 「出入 り者 」 や 「名 子 」 を支 配 下 に お く階 層 構 造 で あ り、 明 治 維 新 以 降 も続 く の で あ る。 昭和30年 代 に隠 岐村 落 の 調 査 を お こな っ た 元 島 根 大 学 教 授 の 山岡 栄 市 は 、 隠 岐 の 村 落 構 造 の 特 質 を そ の 同 族 関係 の構 造 に 求 め られ 、 封 建 的 な 主従 関係 の 分 析 の 重 要性 を 強 調 され た。 山 岡 の 整 理 に従 えば 、 次 の よ うに 整 理 で き る。(3) (1)家 と家 の 主従 関 係=親 方 子 方 関係 1.同 族 関係(隠 岐 で は 「や うち」 とい う) 2.出 入 関係 3.名 子 関係 (2)個 人 と個 人 の 主 従 関係 二 親 方 子 方 関 係 犠 制 的親 子 関係=か な お や(名 付 親)一 か な む す め(女 子)関 係 、 ふ で 親 一ふ で子 関 係 =か な お や 一契 約子(男 子)関 係

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こ う した 封 建 的 主 従 関係 は 名 子 と地 主(主 人)と の 関 係 に典 型 的 に 現 れ る が 、 これ らの 関 係 は 家 と家 との 支 配 一服 従 関係 と して 村 落 共 同 体 を支 配 した 。 島 前 で も、 黒 木 村 や 海 士 村 の よ うな 田 畑 に め ぐま れ た 地 域 で は 上 述 した よ うな 村 落 の 階層 構 造 が共 同体 規 制 をて こ に 支 配 を維 持 存 続 さ せ た で あ ろ う。典 型 的 に は 、 海 士 村 の 「崎 部 落 」 に は 隠 岐 き っ て の 大 地 主 で あ る渡 辺 家(屋 号 は 中良)が 君 臨 し、 島 前 を支 配 した 。 こ の 渡 辺 家 は 「作 州 の 大 守 、 落 城 の 後 」、 「毛 利 へ の 報 復 を企 て て 」 美作(現 在 の 岡 山 県 の 北 部)か ら崎 へ 渡 って き た もの で 、 軍 資 金 で付 近 の 土 地 を買 収 し崎 周 辺 の ほ とん どの 土 地 を支 配 し、 知 夫 里 島 の 七 割 、現 在 の 西 ノ 島 で あ る浦 郷 、別 府 、 美 田 に も相 当量 の 土 地 を有 した 。 渡 辺 家 の 十 一 代 弥 三 郎 は 隠 岐 の 大庄 屋 と して 島 後 の 西 郷 に 在 住 し、そ の 子 の 十 二代 新 太 郎 は 衆 議 院議 員 に 三 回 当選 し、 隠 岐 汽 船 の初 代 社 長 に 就任 して い る。(4) 渡 辺 家 は 明 治 初 年 か ら30年 あ ま り、 朝鮮 で 運 送 業 や 、 林 檎 園 を経 営 し多 額 の 事 業 資 金 を 要 した 。 そ の た め か 、 さ し もの 渡 辺 家 も土 地 を 売 り、 森 林 を伐 採 した とい う。 こ うして 崎 の ほ と ん どの農 地 を支 配 した 渡 辺 家 も戦 後 の農 地 改 革 で そ の 土 地 の ほ とん ど を失 うが 、 長 期 間 の 中 良 支 配 の 影 響 は 村 の共 同体 支 配 に長 期 に わ た り影 響 を及 ぼ した 。 山 岡の 指 摘 で は 、 農 地 改 革 の 当時 、 隠岐 で50町 歩 以 上 の 所 有 者 は 黒 木 村 の 宇 野 節雄 だ け で あ り、 崎 の 渡 辺 新 太 郎 、 海 士 村 の村 上祐 九 郎 、 島後 犬 来 村 の 佐 藤 貞 次 郎 、 な どの 大 地 主 は 没 落 し 、 隠 岐 の 勢 力 の 変 動 が 激 しか っ た とい う。(5)この 時代 に 、 島 前 の 浦 之 郷(現 在 の 西 ノ島 町 浦 郷)を 治 め た の は 、安 永 四 年 に 渡 辺 家 か ら分 家 独 立 して庄 屋 とな っ た 大 江 家 で あ っ た 。 3.資 本 主 義 経 済 の 変 動 と 出稼 ぎの 増 加 西 ノ島 町浦 郷 は 地 先 漁 業 に 恵 ま れ て い た が 、 町 誌 『隠岐 一西 ノ 島今 昔 』 に は 、 明 治 時 代 の 隠岐 の 漁 師 の 生 活 が 「そ の 日暮 ら し」 で あ っ た こ と、 生 産 活 動 に 対 す る意 識 が低 く、 「漁 法 や 漁 具 も 旧 態依 然 の ま ま 」 で あ った こ と 、 「漁 獲 が あ った と き に は 、 こ こ ぞ とば か り飲 み 食 い に消 費 し蓄 え は しな い 。 した が っ て 、 頼 りに して い る鯖 、鰯 、 烏 賊 の 漁 が な い とた ち ど こ ろ に 困 っ て しま う。」(6) と記 述 され て い る 。 村 長 の 岩 崎 半 太 郎 は村 の漁 業 振 興 の た め 県 の 水 産 試 験 場 を誘 致 す るな どの努 力 を続 けた が 、 明 治21年 頃 か ら、 隠 岐 で は養 蚕 が 盛 ん とな った 。 そ れ以 前 か らも養 蚕 は 行 われ て い た が、 技 術 も未 熟 で 生 産 性 も低 く、 産 業 とは い えな か っ た 。 と こ ろ が養 蚕 が副 業 と して 脚 光 を 浴 び るの は生 糸 の輸 出 が急 増 し、 花 形 産 業 へ と転 換 した か らで あ っ た 。 ま さ に 、 商 品 経 済 の 発 展 こそ 村 の 経 済 を左 右 す る も の に は か な らな か っ た 。 行 政 の努 力 に よ り、 産 業 振 興 策 が 成 果 を 上 げ 始 め た頃 、不 幸 に も 第 一 次 大 戦 が 勃発 した 。 軍 需 ブ ー ム の 影 響 は都 会 を活 況 づ け こ そ す れ 、 隠 岐 ま で 届 か ず 、 大 戦 終 結 と とも に 軍 需 景 気 は 一 挙 に し ぼみ 、 不 況 だ け は確 実 に 隠 岐 を 襲 った 。 こ の 不 況 の影 響 で 、 好 調 で あ った 繭 の価 格 は暴 落 し、 漁 業 不 振 が 重 な り西 ノ島 で は 出稼 ぎが 一 挙 に 増 え 始 めた 。 隠 岐 の 出 郷 者 の 第 一世 代 とい っ て 良 い 。(7) 同 町誌 の 記 述 に よ る と、 大 正14年 と 昭和5年 との 農 産 物 販 売 価 額 を 比 較 す る と、 安 定 して い る の は 牛 く らい で 、米 は 半 額 、 繭 に 至 って は 七割 ダ ウ ン 、 そ れ に 比 して 生 活 物 資 価 額 は 三 割 ダ ウ ン に 止 ま った 。 結果 は 農 民 経 済 の完 全 な 赤 字 で あ った 。(8)昭 和10年 に黒 木 、 浦 郷 両 村 の ま とめ た 経 済 更 生 計 画 に よ る と、 送 金 収 入 は 黒 木 が17,594円 、 浦 郷 は15,500円 、 一 戸 当た り30-40円 の 送 金 が あ った とい う。(9) 大 正3年7,741人 を数 え た 西 ノ島 の 人 口は 、 昭 和10年 に は5,493人 に 減 少 した 。戸 数 の 減 少 が 、 1,397戸 か ら1,326戸 へ と僅 か で あ るか ら、各 戸 の 家 族 員 流 出の 激 し さを物 語 るの で あ る。(表1参 照)郷 土 通 信 誌 「由 良 」、 「く ろ ぎ」 の 出郷 者 名 簿 に よれ ば 、 昭 和10年 の 黒 木 村 と浦 郷 村 の 出郷

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者 の総 数 は 合 計1,546人 に及 ぶ。 出郷 先 は京 阪神 が最 も多 く764人 、 九 州 が154人 、東 京 、 関東 が62 人 で あ る。 特 筆 す べ き は外 地 へ の 出 郷 者 が134人 い た こ とで あ る。 時代 の反 映 で あ るが 、満 州 、 台 湾 が 出稼 ぎ先 で あ っ た 。 明 治 期 、 農 協 の 前 身 で あ る産 業組 合 が 設 立 され 、 昭和4年 浦郷 村信 用組 合 が 、 昭和7年 黒 木 村 信 用 組合 が設 立 され て い た 。 これ らの 両信 用 組 合 が 中 心 とな り、 疲 幣 した 西 ノ 島 の農 業 経 済 の 厚 生 事 業 に着 手 した の で あ る。 戦 前 の村 起 こ し事 業 と して の 経 済 更 生 計 画 の 内 実 は 、生 活 費 圧 縮 と債 務 返 済 と を骨 格 とす る厳 しい も の で あ り、 昭 和7年 黒 木 村 で 、 昭和10年 浦 郷 で農 山漁 村 経 済 更 生 計 画 が樹 立 さ れ た 。 ま た信 用 組 合 は 浦 郷 で は 昭和11年 、 黒 木 は13年 に 、 信 用 購 買販 売 利 用 組 合 へ と衣 替 えす るこ と と な る。 昭和18年 、 食 糧 供 出 配 給 、生 産 の 統 制 機 関 と して 農 業 会 が 発 足 、 農 会 と と も に組 織 は 一 本化 さ れ た 。(1°)こうした 更 生 計 画 に もか か わ らず 昭 和18年 か ら20年 ま で の 三年 間 、天 候 不 順 と風 水 害 の 影 響 で 、 ま た 兵 役 に よ る労 働 力 不 足 の た め 、 米 の 作 付 け面 積 は 減 少 し減 産 の 一 途 をた ど り、 終 戦 の 年 の 島根 県 管 内 の米 の 収 穫 率 は 六割 に 過 ぎ な か った 。(11) 終 戦 に よ り復 員 者 や 、 外 地 か らの 引揚 者 が急 増 した が、 引揚 者 とは 、 「戦 前 、 不 況 の 村 を後 に し て 、外 地 に新 天 地 を 求 め た 出稼 者 」(12)であ っ た 。 台 湾 、 満州 で成 功 した 人 々 もす べ て を失 い 、 着 のみ 着 の ま ま の生 還 で あ っ た 。 終 戦 直 後 、 これ らの 引 揚 、 復 員 に よ り人 口 が急 増 し、 こ れ らの 人 手 の 増加 に よ り、 山 地 の 開墾 が進 ん だ 。 ま た 戦 後 の復 興 が 進 む と次 第 に 隠 岐 の効 率 の 悪 い 農 業 が 廃 れ て い く。 「昭和20年 代 後 半 か ら、農 業 離 れ が 目立 ち 、昭和30年 に は 半減 して い る。」(13)ま た 「農 地 解 放 に よ って 自作 農 は た しか に増 え た が 、 一 農 家 当 り平 均 耕 作 面 積 は2.9反 と県 平 均 の 半 分 に も 満 た な い 状況 」(14)であ っ た 。耕 作 規模 か らみ れ ば 西 ノ島 の農 業 の 限 界 は 明 らか で あ り、必 然 的 に 漁 業 が 見 直 され る こ と に な る。 浦 郷 で 漁 業 が 主 要 な 産 業 と して の 位 置 を 占 め る の は 昭 和 に入 っ て か らで あ るが 、 浦 郷 の 沢 野 岩 太 郎 が 朝 鮮 で行 わ れ て い た 片 手 回 しの 巾着 網 漁 法 を取 り入 れ た の が 漁 法 の近 代 化 の 先 駆 け とな っ た。 とくに、 昭和28年 以 降 、漁 協 直 営 の ま き網(巾 着)操 業 に よ り、 漁 獲 高 は飛 躍 的 に増 大 した 。(15) 昭和31年 、 漁 獲 高 は1万 トン を越 え 、 昭 和34年 に は1万5千 トン を突 破 し、、生 産 額 は4億4千 8百 万 円 に達 した 。 昭和34年 の 町 の 財 政 規 模 が4千3百 万 円 、農 業 生 産 が6千6百 万 円 で あ っ た か ら、 漁 業 生 産 額 の規 模 の 大 き さ が わ か る。 こ の 時 期 、人 手 が 不 足 し氷 見や 長 崎 の 漁 師 が浦 郷 へ 出 稼 ぎ に き た 程 だ っ た 。 しか し 、 こ う した 時 期 は長 く続 か ず 漁 獲 高 は数 年 もた た ず に減 少 し始 め た 。 昭 和36年 か ら巾着 網 の 不 漁 が続 き 、 巾着 か ら撤 退 した業 者 さ え で た 。 昭 和35年 以 降 、 日本 経 済 が高 度 成長 期 に入 り、 か つ て な い ほ どの 労 働 力 不 足 が到 来 し 、若 者 の都 会 流 出 、離 村 向都 が 始 ま っ た 。 隠 岐 も例 外 で は な く、経 済 的 に 余 裕 が で きれ ば 自分 の 子 弟 を 関 西 や 東 京 へ 遊 学 させ る よ うに な る。 そ して 、 そ の 子 弟 が都 会 の 企 業 や 官 公 庁 に職 を求 め 、都 会 に 定 着 して い く。 西 ノ 島 の 人 口流 出 の 状況 を 「過 疎 法 制 定 時 の集 落別 人 口の 動 向」(表2参 照)か ら見 る と、 い か に 急 激 に 人 口 が減 少 した か が読 み 取 れ る。 昭和35年 以 降 の 五年 間 で14%,十 年 間 で23%の 人 口 が減 少 して お り、 西 ノ島 で も三 度(み たべ)、 宇 賀 な どの 「辺 地 の 小 集 落 」 か ら過 疎 が進 行 して い っ た 。(16) 昭和32年 、京 都 大 学 の 臼井 二 尚教 授 が ロ ッ ク ・フ ェ ラ ー財 団 か ら研 究 助 成 を受 け て 隠 岐 調 査 を 実 施 して い る。(17)この調 査 に参 加 した 中 野 三 郎 の 論 文 「隠 岐 島 一 村 落 の 実 態 調 査 報告 一 島根 県知 夫 郡 西 ノ 島 町 三度 部 落 の 狭 少 性 と親 和 性 一 」(『密 教 文 化 』、145、146合 併 号 、1959)の 中 で 、 「三 度 部 落 は 、 地 域 的 に 狭 少 で あ り、 三 度 川 流 域 の 低 地 に 家 屋 が密 集 して お り、 一方 、耕 地 面 積 も狭 く、 しか も用 水 不 足や 酸 性 土 壌 そ の 他 の 要 改 良 田畑 が 多 く、 従 っ て農 業 生 産 力 も低 く、 ま た 、 これ ま で の と こ ろ 、漁 業 の 発 展 も十 分 に な さ れ て い な い 実 状 か ら推 して 、 人 口収 容 力 に 限 界 が あ る の は

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い うま で も な い 。 従 って 、生 産 年 齢 に 達 した 者 は二 、 三 男 の み な らず 、長 男 や 女子 に 至 る ま で も、 多 数 、長 期 の 出稼 ぎ に 出掛 け る有 様 で あ る。」(18)と述 べ られ た 。 この 記述 が 当 時 の実 状 を良 く物 語 っ て い る。 隠 岐 の 出稼 ぎ が こ う した 隠 岐 の零 細 な 農 業 、 漁 業 の生 産 性 の 低 さ 、 お よび 隠 岐 の辺 境 性 が 労働 力 流 出 の プ ッシ ュ 要 因 で あ る こ とは 否 定 で き ず 、 ま た 日本 資 本 主 義 の発 展 に 伴 う労 働 市 場 の 側 の プル 要 因 も無 視 しえ な い の で あ る 。 元 来 、 日本 農 村 の 土着 性 は 祖 先 伝 来 の 土 地 を将 来 に わ た っ て 守 り続 け 、 イ エ を守 る こ と を義 務 とす る も の だ が、 隠 岐 も 内 地 と変 わ らな い 。 しか し、 隠 岐 に 労 働 力 を吸 収 す る余 地 が な けれ ば 島外 へ 出 稼 ぎ に で る ほ か は な い 。 西 ノ 島 浦 郷 は 耕 地 そ の もの が狭 く、 土 地 収 益 性 が低 い 。従 って 、漁 業 が 不 振 とな れ ば 、 次 、 三 男 の 離 村 は 避 け られ な い 。 中 野 論 文 に 見 られ る よ うに 、 三 度 の 出 稼 ぎ が長 男 に も及 ん だ とい う記 述 は 当 時 の 西 ノ島 町 の実 状 を示 す も の で あ る 。 昭和30年 代 、 上 述 の 三 度 の よ うに 、 次 、 三 男 、 あ るい は 四 男 、 五 男 に生 れ 「捨 て お じ」 と 呼 ば れ 低 学 歴 に 甘 ん じ隠 岐 で漁 師 に な る しか 生 計 の道 の な か った 青年 た ち は 出稼 ぎ を選 択 せ ざ る を え な か っ た 。 漁 師 の 生 活 は稼 ぐ時 は稼 ぐが 、 不 漁 が 続 け ばた ち ま ち 生 活 に窮 す る、 そ の 日暮 ら しの 稼 業 で あ る。 町 役 場 の 公 務 員 の 数 か 月 分 の 給 料 を一 日で稼 ぐこ と も あ る が何 時 もで は な い 。 先 行 き も 見 え ず 、 しか も 「板 子 一枚 」 の 世 界 に 見切 りをつ け 離 村 した 青 年 た ち が次 々 に 関 西 の 鉄 工 所(伸 鉄 産 業)や 、電 気 炉 メ ー カ ーに 自分 の夢 を託 して 出郷 して い っ た 。 こ う して 、 隠 岐 に 見 切 りをつ け 関 西 で 中小 企 業 の 経 営 者 とな り、 隠 岐 か ら友 人 や 後 輩 を呼 び 寄 せ 、 「第 二 の 隠 岐 村 落 共 同 体 」 と も い うべ き 同郷 者 の 集 団 を形 成 し た の で あ る。 今 日ま で 隠 岐 の 同郷 団 体 は こ う した 世 代 の 人 々 に よ って 運 営 さ れて き た 。神 島 二 郎 の 「犠 制 村 」(第 二 の ム ラ)の 発 想 は こ う した 出 郷 者 の 結 合 態 を指 す もの とい え よ う。(19) 4.高 度 経 済 成 長 期 の 青 年 の 向 都=離 村 昭 和40年 代 以 降 の 若 者 の都 市 流 出 は 、 そ れ 以 前 の 出 稼 ぎ時 代 と異 な り、家 計 を助 け る とい うよ り進 学 や 仕 事 に お い て 自分 の 人 生 の 生 き が い や 可能 性 を見 い 出 し、 自 らの生 活世 界 の 拡 大 を 志 向 す る とき必 然 的 に都 会 が生 活 の 場 所 と して 選 択 され る こ と を意味 した 。 こ う して 隠 岐 の 出郷 の 様 相 は あ る種 の 変 容 をむ か え る こ と に な る。 平 成8年11月 、 関 西 隠 岐 人 会 の 発 足 に 参加 し、 ま た 東 京 国 賀 会 総 会 に 出席 して 、 会 場 の 隠 岐 出 身 者 の 交 流 を 見 るに つ け 「ふ る さ と」 とは 何 な の か を考 え ざ る を え ず 、 そ して 、都 会 に 出 て きて 都 会 で 生 活 す る隠 岐 出身 者 の こ れ ま で の 生 活 史 や 意 識 の変 化 に 関 心 を持 た ざ る を えな か っ た 。 「ふ る さ と創 生 」 とか 、 「村 起 こ し、 町 起 こ し運 動 」 が 叫 ば れ て久 しい 。 しか し、依 然 と して 地 方 と都 会 の 生 活 格 差 の解 消 は 困難 で あ り、 マ ス メ デ ィ ア の急 激 な 普 及 と浸 透 が情 報 供 給 の 面 で の平 等 化 を次 第 に実 現 した け れ ど、 自分 の 生 活 や 夢 の 実 現 の た め に は 都 会 に ビ ジネ ス チ ャ ンス を求 め ざ る をえ な い とい う構 図 は 依 然 と して 生 き て い る。 む し ろ、 マ ス メ デ ィ ア の 浸 透 こ そ 若 者 が都 会 流 出 を願 望 す る原 因 を 提 供 して き た とい って 過 言 で は な い 。 昭 和40年 ま で 、 西 ノ島 に は全 日制 の 高 校 が 無 か っ た 。 島 後 に は 昭 和23年 に 開 設 され た 隠 岐 高 校 が あ った が 、 島 前 に 隠 岐 高 校 の 分 校(定 時制)が 昭和30年 に よ うや く開 校 され た 。 この 分 校 が 全 日制 の 島 前 高 校 と して 発 足 す るに は 更 に 十 年 待 た ね ば な らな か っ た 。 した が っ て 、 そ れ ま で は 、 島 後 か 、 内 地 へ い く しか な か っ た 。 子 弟 の教 育 重 視 の風 潮 が 一 般 的 に な る と 、少 しで も 良い 学 校 へ 進 学 した い と本 人 や 親 が望 む の は 当然 で あ る。

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中学 生 と もな る と松 江 の 高 等 学 校 へ 進 学 した い とい う意 識 も強 く、 友 人 同 志 で 互 い に 誘 い 合 う 面 も強 い 。 こ れ が現 代 の若 者 意 識 だ ろ う。 そ れ ゆ え 、 高 校 進 学 か ら出郷 が 始 ま る 。 か つ て 、 島 の 上 層 階 層 の子 弟 が 旧制 松 江 中学 へ 進 学 し、 師 範 学 校 へ 進 学 した事 情 と変 わ らな い 。 内 地 の 学 校 へ の 進 学 は と りもな お さ ず 上 級 学 校 へ の進 学 や 、就 職 へ とつ な が り、 関 西 、 東 京 へ と出 て い く。 隠 岐 は こ う して 昭 和40年 以 降 ま す ます 離 村 に 拍 車 が か か る事 に な る 。 隠 岐 の 出郷 者 は 、 戦 前 の 「出 稼 ぎ型 」 か ら、 昭和40年 代 以 降 の 「意 識 的 向 都=出 郷 型 」 へ と変 化 を と げ る 。 これ ま で 見 て き た よ うに 出 郷 の動 機 や 経 緯 は各 人 各 様 、千 差 万 別 で あ る が幾 つ か の タイ プ に分 析 す る こ とが で き る。 「出稼 ぎ」 の タイ プ も厳 密 に は隠 岐 に生 活 の 本 拠 が あ り、稼 ぐこ とが必 要 に な れ ば ま た 出 て い く、 い わ ゆ る本 来 の意 味 の 「出 稼 ぎ」 と、最 初 は 隠 岐 に帰 る 予 定 で 出 た が何 等 か の理 由で 内 地 の 出稼 ぎ先 に そ の ま ま 定着 し た ケ ース も あ る。京 阪神 に は後 者 の ケ ース が 多 い 。 な ぜ な ら、 隠 岐 の人 々 は 内 地 の 人 々 が 考 え る以 上 に 気 軽 に 内地 へ 出 た か らで あ る。 内地 か らは 隠 岐 は 日本 海 に 浮 か ぶ 「孤 島 」 のイ メ ー ジ で あ り、 隠 岐 へ 渡 る に は 決 心 が必 要 か も しれ な い 。 しか し、 隠 岐 の 人 々 は昔 か ら船 で移 動 す る事 に は慣 れ て い る の で あ る。 北 前 船 の 航 路 の 要所 に 位 置 し て い た た め他 国 の船 員 や 商 人 が 始 終 出入 りし、 そ うした 他 国 の 人 や 文 化 と の交 流 が 島 民 の 意 識 を否 応 な く外 の 世 界 に 向 か わ せ た とい え る 。 船 で の 移 動 は 、 内 地 の 人 々の 日常 の バ ス に相 当す る の だ 。 この 気 軽 な移 動 が 隠 岐 の社 会 的 移 動 空 間 を形 成 して き た 。 そ れ で は 、 女性 の 出 郷 につ い て は ど うだ ろ うか 。 結 婚 に よ る出 郷 が多 い と考 え られ る が 、漁 村 共 同体 の 特 徴 と して 、 当時 の 西 ノ島 の 通 婚 圏 は 非 常 に狭 い 範 囲 に 限定 され て い た 。 同一 部 落 内 で のイ トコ婚 が 昭和 ま で は普 通 で あ り、 遠 く は 滋 賀 とい う場合 もあ った が 、 隠 岐 島 内 、 そ れ も 同 じ 部 落 内 が圧 倒 的 に 多 か った 。 しか し、 時 代 と と も に 女性 の 嫁 ぎ先 も 島外 へ と拡 大 して い く 。就 職 で 内 地 に 出て 、 そ こで 結 婚 相 手 を見 つ けて 定着 とい うケ ース も多 い 。 な か に は 、 就 職 で 内地 に 出 て 、 そ の 後 一度 、 隠 岐 へUタ ー ン した 後 、 結 婚 で再 び 出 郷 した ケ ー ス も あ る。 5.同 郷 団体 の 機 能 の 変 容 戦 前 か ら、 関 西 地 区 の 西 ノ島 出身 者 は故 郷 の 隠 岐 に 思 い を馳 せ 、都 会 で の 生 活 の不 満 や 愚 痴 を こぼ し あ う 「隠 岐 出 身 者 の集 ま り」 を持 っ て い た 。彼 等 は独 身 で 、都 会 で の 慣 れ ない 生 活 に不 安 がつ の っ た り、 故 郷 の 土 地や 海 か ら切 り離 され る こ とで 、 都 会 の 根 無 し草 とな る恐 怖 を押 さえ ら れ な か った に違 い な い 。先 輩 と隠 岐 の 言 葉 で 喋 り、 酒 食 を共 にす るこ と が何 よ りも心 の支 え とな っ た で あ ろ う。 彼 等 は苦 労 を重 ね な ん とか生 活 の 目途 がた つ よ うに な る と、 隠 岐 か ら親 類 の子 供 や 学 校 の後 輩 、 あ るい は 友 人 を呼 び寄 せ た 。 こ う して 出 郷 者 の集 ま りは 、 次 第 に 困 っ た 時 に助 け 合 う とい う 「相 互 扶 助 的 」 な 「サ ポ ー ト機 能 」(支 援 機 能)を もつ よ うに な る。 具 体 的 には 、 そ うし た 支 援 は 「下 宿 させ た り、 悩 み の相 談 に の っ た り、 結 婚 相 手 を世 話す る」 な ど生 活 全 般 の 面倒 に ま で及 ん だ 。 そ れ は母 村 の 人 間 関係 が そ の ま ま都 会 に 持 ち込 まれ る こ と を意 味 した 。 こ う した 家 族 主 義 イ デ オ ロギ ーに 根 ざ した 人 間 関係 こそ 自然 村 た る 「第 一 の ム ラ」 の 本 来 の 姿 に ほ か な らな い 。犠 制 的 な 「第 二 の ム ラ」 の存 在 は これ か ら出 郷 し よ う とす る 人 に は 心 強 い も の が あ っ た で あ ろ う。 隠 岐 の 封 建 的 な 人 間 関係 か ら都 会 の 自由 に 憧 れ 、 関 西地 区 に 定 住 した 隠 岐 出 身 者 の数 は 飛 躍 的 に 増 え る こ とに な っ た 。 そ して 昭 和31年 、 西 ノ 島 の代 表 的観 光名 所 で あ る 国賀 海岸 の名 を と り、 親 睦 団体 「近 畿 国 賀 会 」 が 正 式 に 発 足 した 。 現 在 、近 畿 地 方 に は お よそ1710人 に近 い 隠 岐 出 身者 が生 活 して お り、 首都 圏 の770名 よ りは るか に 多 い 。(2°)

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他 方 、東 京 地 区 に 目を転 ず る と、 「東 京 国 賀 会 」 の 発 足 は平 成 元 年 で あ り、近 畿 国賀 会 の 発 足 と 比較 す る とか な り遅 れ て の発 足 とな る。 「東 京 国賀 会 」 は 、 「東 京 隠 岐 会 」 の 結 成 と相 前後 して 結 成 され た 。東 京 地 区へ 進 出 した 隠 岐 出 身 者 は 関 西 地 区 と比 較 す れ ば そ の 数 は 少 な か っ た もの の 、 戦 後 の 隠 岐 の 苦 難 の 時 代 が 終 わ って か ら徐 々 に 増 え 始 め た 。 関 西 か ら東 京 へ 移 動 した者 を含 めて 、 昭和40年 前 後 か ら進 学 、 就 職 で 上京 す る出 郷 者 が 増加 した 。 そ して 、 昭 和50年 前 後 か ら次 第 に 出 郷 の形 も変 容 し、 故 郷 の 先 輩 や 、知 り合 い のつ て に 頼 る こ とな く、個 人 的 な 出 郷 動 機 に基 づ き 、 個 人 と して 出郷 す る よ うに な る。 東 京 国 賀 会 の 元 会 長 の 大 浜 貢 也(故 人)は 「隠 岐 か らバ ラ ンバ ラ ンに 出 て くる 」 と表 現 され た が 、 時代 と と も に隠 岐 か ら知 人 を頼 っ て とい う出 郷 の かた ち が過 去 の も の とな っ た の で あ る。 都 市 化 、 大 衆 化 、個 人 主 義 化 、孤 立 化 の 影 響 で 、 同郷 団体 の 存 在 意 義 も変容 し、 サ ポ ー ト機 能 、 相 互 扶 助 機 能 の衰 退 化 が 顕 著 とな る 。 こ う した 傾 向 は個 人 の 生 活 が職 場 集 団 以外 に も複 数 の 所 属 集 団 を もつ こ とに よ り、 同 郷 団 体 が個 人 生 活 に 占 め る比 重 が 相 対 的 に減 少 した こ と を物 語 る 。 極 端 な 場 合 、 上 京 して初 め て 「国 賀 会 」 の存 在 を知 る若 者 が 決 して 少 な く な い の が 現 状 で あ る 。 と くに 、 資 本 主 義 が 、重 工 業 か ら情 報 産 業 、 サ ー ビス 産 業 へ と移 行 し 、そ の結 果 と して 労 働 市 場 は 当 然 、 熟 練 労 働 よ り知 識 集 約 型 の 労 働 力 を必 要 とす る よ うに な る。 同郷 団体 の構 成 員 の 世 代 別 の 職 業 構 成 が 明 らか に こ の 事 実 を物 語 る。 昭和30年 代 、40年 代 、50年 代 と大 ま か に 区切 って も 、 出 郷 者 の 学 歴 は 中卒 か ら、高 卒 、 さ らに 大 卒 へ と変化 し、 そ れ と と も に職 業 も 、 中小 企 業 経 営 、 熟 練 工 、 船 会 社 勤 務 、 か ら商 社 員 、 銀 行 員 、官 僚 へ と変 化 して い る。 こ う した社 会 変 動 の 中 で 同郷 団体 の 体 質 も 変 化 を余 儀 な く され た 。 世 代 差 と職 業 の 違 い が否 応 な く出 郷 者 の 間 に 、価 値 観 、世 界 観 な どの 違 い を招 き、 そ の結 果 、 同 郷 団体 は 異 質 の 要 素 を 内 に 抱 え込 ま ざ る を え な くな る 。 こ う して 、 ま と ま り とい う観 点 か らは反 統 合 的 な 要素 を 内包 しな が ら も、 「故 郷 を同 じ くす る」、 「隠 岐 の 中 学 同 級 生 」、 「昔 の 漁 師仲 間 」、 厂隠 岐 での 近 所 づ き あい 」 等 々 の 共 通 点 が これ らの 団 体 を維 持 す る 要 因 と して作 用 して い る こ とは 否 定 で き な い 。 都 市化 の 進 行 に よ り、 都 市 に移 住 した 人 々 がつ く る 「地 域 コ ミ ュニ テ ィ=町 内会 」 は 本 来 、 出 身 地 も 学 校 も 異 にす る人 々 の集 ま りで あ るた め 、 こ こ に 「ゲマ イ ンシ ャ フ ト的 人 間 関係 」 を 求 め る こ とは 無 い もの ね だ りに近 い とさ え い え る。 しか し、 同 郷 団体 の 場 合 は 、 母 村 を等 し くす る こ と で 、 地 縁 、 血 縁 に 基 づ く ゲマ イ ンシ ャフ ト的 人 間 関係 を 「第 一 の ム ラ」 か ら引 き継 ぐこ と が で きた の で あ る 。母 村 を同 じく しな け れ ば 「第 二 の ム ラ」 の 成 立 は 困 難 で あ ろ う。 神 島 は 「自然 村 秩 序 の 維 持 に重 要 な役 割 」 を果 たす 「祭 り」 の機 能 を重 視 し、 これ を 「共 同体 成 員 の 情動 的 統合 の機 能 」 と位 置 づ けた 。(21)この指 摘 か ら推 測 で き るの は、 「第 二 の ム ラ」 に も 「祭 り」 が必 要 か とい う事 で あ り、 「国賀 会 」 に も秩 序 維 持 と統合 の 機 能 を司 る 「祭 り」 に 相 当す る代 替 機 能 が あ る の だ ろ うか とい う関 心 を抱 い た 。 年 に 一度 、東 京 と大 阪 で 開 か れ る 「総 会 」 に 出席 す る と 、会 場 はい つ しか 「盆 踊 り」 会 場 に 変 わ り、隠 岐 の 民 謡 が流 れ て く るの が常 で あ っ た 。 私 は 会 場 が突 然 、隠 岐 に な った と錯 覚 を起 こ した 。 そ こ は 隠 岐 の 「祭 り」 の 現 場 に ほ か な らな か っ た 。 こ う した 隠 岐 出身 者 の 行 動 が 同郷 団体 国 賀 会 の 「結 合 の 契 機 」 を付 与 す る とす れ ば 、 彼 等 の 求 め る もの は 一体 何 で あ ろ うか 。小 此 木 啓 吾 は 、 「中年 の 里帰 り心理 」 とい う発 想 を提 起 し 、そ う した 心 理 に は 故 郷 か ら どん な に 遠 く離 れ て い て も 回想 の 中で 幼 少 時 の友 情 とか 人 間 関係 と再 会 し、 自分 自身 の 人 生 を確 認 す る一 つ の 座 標 軸 が含 ま れ て い る と指 摘 す る 。(22) 確 か に 国賀 会 に 出 席 して気 付 くの は20代 、30代 の 青 年 層 の 参加 が極 端 に 少 な い 事 で あ る 。 ま だ 過 去 を振 り返 る こ と に無 縁 の若 者 に と っ て 国賀 会 の 存 在 は た だ 煩 わ しい 時代 錯 誤 の も の と映 るか

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も しれ な い 。但 し 、40才 を過 ぎた 隠岐 出 身 者 か らは 小 此 木 の い う 「中年 の 里 帰 り心 理 」 に非 常 に 近 い 隠岐 へ の 追 憶 の 「心 情 」 を吐 露 され た こ と を改 め て 記 して お か ね ば な らな い 。 多 分 、 国 賀 会 の 存 在 は 、40代 以 降 の世 代 に と って は 自分 の現 在 の 位 置 を知 る上 で の 、そ れ こ そ 座 標 軸 を提 供 す る と同 時 に 、 「ふ る さ と」意 識 の よ り どこ ろ に な って い る こ とは 疑 い な い 。 こ うし た故 郷 へ の 思 い は 、お 盆 の 一 時 的 「帰 省 」 や 、 隠 岐 の 盆 踊 りへ の 参 加 な ど隠 岐 に 帰 る こ とで 満 足 す る の だ と考 え る の は 早 計 に過 ぎ よ う。 隠 岐 の 土 地 や 海 か ら切 り離 され て離 村 し、 そ れ ゆ え 帰 郷 先 を喪 失 した 出 郷 者 が 隠 岐 に帰 っ でそ こに み るの は 子 供 の 頃 の 夢 で あ り、過 去 の 幻 想 にす ぎな い 。 都 会 に移 住 した 人 々 に と って 同郷 団体 が 果 たす 役 割 の 重 要 性 が こ こ に あ る 。 6.同 郷 団 体 研 究 の 位 置 付 け と都 市 社 会 学 一 む す び に か え て 一 こ う した 同 郷 団体 は全 国 的 に遍 く存 在 す るも の で あ り、東 日本 の 同郷 団体 は 、 道 庁 、 県庁 所 在 地 の都 市 と首都 圏 に集 中 し 、西 日本 の そ れ は京 阪 神 都 市 圏 、東 京都 市 圏 、 地 方 の 県 庁 所 在 地 に 集 中 して い る(23)。 こ れ、ま で に、 石 原 昌家 の 沖 縄 の 郷 友 会 の 研 究 、 松 本 通 晴 の京 都 利 賀 亨 友 会 の 研 究 、 山 本 正 和 の尼 崎 の 甑 島 出身 者 の 同 郷 団体 の 研 究 、 な ど が既 に な され て お り、松 本 通 晴 の 研 究 を受 け 継 い だ 研 究 者 グル ー プ の研 究 な ど が今 後 も注 目 され る。(24) 私 が この 小 論 を 書 く と き 、私 の脳 裏 に あ った の は 関 西 隠 岐 人 会 の 会 長 に 就 任 され た 三 沢 悦 男 氏 の 言葉 「私 は 島根 県 の遣 唐 使 を め ざ して お りま す 。」 とい う挨 拶 で あ っ た 。 隠 岐 の 同 郷 集 団の 今 後 の方 向 は 、 離 島 隠 岐 と都 会 の 出郷 者 をつ な ぐ媒 介 機 能 と して の 役 割 に 求 め られ る だ ろ う。 私 が出 郷 者 の 「社 会 移 動 空 間 」 とい う言 葉 に こ め た 意 味 は 、 ま さ し く こ う した 「媒 介 空 間 」 の こ とに ほ か な らな い 。 こ の 媒 介 空 間 とは 、 「ヒ ト」、 「モ ノ 」、 「情 報 」、な どの 資源 の 移 動 空 間 の こ とで あ る。 隠岐 の行 政 サ イ ドも、 不 足 す る漁 師 を全 国 か ら公 募 した り、 定 年 退 職 者 を隠 岐 に 呼 ぶ 「シ ル バ ー アル カ デ ィア 」 計 画 を提 案 す るな ど、 隠 岐 と内 地 を 媒介 す る種 々 の ポ リシ ー を提 案 して お り、 隠 岐 と都 会 を結 ぶ新 た な 可 能 性 が模 索 され て い く こ とだ ろ う。 こ う した 同郷 団体 の 構 造 や 機 能 に つ い て の 分 析 は これ ま で都 市 社 会 学 で は 比 較 的 等 閉視 され て き た もの で あ り、今 後 の 課 題 とい え るだ ろ う。

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(表1)大 正 ∼ 昭和 初 期 の 人 口 推 移 黒 木 村 浦 郷 村 計(西 ノ島) 戸 数 人 口 人 口数 減指数 戸 数 人 口 人 口数減指数 戸 数 人 口 減 指数人 口数 大 正3( 1x14) 858 4,371 100 539 3,370 100 1,397 7,741 100 大 正9 (1920) 783 3,775 86 632 2,896 86 1,415 6,671 86 大 正14 (1925) 758 3,308 76 578 2,623 7s 1,336 5,931 77 昭 和5( 1930) 764 3,329 76 558 2,573 76 1,322 5,902 76 昭 和10 (1935) 763 3,055 70 563 2,438 72 1,326 5,493 71 新修島根県史通史篇2(近 代)よ り作成 (表2)過 疎 法 制 定 時 の 集 落 別 人 口の 動 向 (表3)出 郷 者 分 布 区別 集落 人 口 昭和35年 との比較(指 数) 所 人 数 住 所 人 数 住 所 人 数 住 所 人 昭和35 昭 和40 昭和45 100 昭和35 昭 和40 北 海道 12 東 京 321 滋 賀 27 香 川 5 宇 賀 210 161 1so 77 62 倉 の谷 143 126 101 88 71 青 森 1 神奈川 219 京 都 102 愛 媛 14 物 井 348 302 265 87 76 岩 手 1 新 潟 3 大 阪 1,213 高 知 5 別 府 438 400 370 91 84 美田尻 314 283 297 90 95 宮 城 6 富 山 1 兵 庫 369 福 岡 58 大 山 289 a17 184 75 64 秋 田 0 石 川 5 奈 良 s1 佐 賀 0 波 止 268 219 204 82 76 山 形 0 福 井 5 和歌 山 16 長 崎 4 市 部 14s 126 98 88 69 大 津 408 331 308 81 75 福 島 1 山 梨 2 鳥 取 27 熊 本 3 小 向 244 234 192 96 79 茨 城 27 長 野 4 島 根 591 大 分 9 船 越 658 584 528 89 80 本 郷 1,957 1,770 1,540 90 79 4 12 65 14 赤ノ江 576 492 462 85 80 群 馬 6 静 岡 19 広 島 87 鹿児島 8 三 度 374 285 229 76 61 珍 崎 383 310 251 81 66 127 愛 知 104 山 口 44 沖 縄 0 老人ホーム 一 51 千 葉 111 三 重 33 徳 島 9 外 国 4 計 6,753 5,840 5,210 86 77 (表4)昭 和10年 出郷 者 の 状 況 「く ろ ぎ」 「由 良 」の 出郷 者名 簿 よ り 集 落名 出郷者総 数 出 郷 先 隠 岐 島 内 県 内 鳥取県 九 州 京都神 東関 東京 外 地 其の他 黒 木 村 宇 賀 111 15 3 一 13 54 3 7 16 倉 の谷 75 一 3 1 18 21 12 18 2 物 井 117 8 7 9 6 52 10 12 13 別 府 106 i1 11 7 7 36 1 22 11 美田尻 51 4 1 2 4 23 4 3 10 大 山 66 1 7 4 7 35 一 5 7 波 止 80 一 5 4 20 22 8 9 12 市 部 48 4 4 2 5 22 1 1 9 大 津 75 2 一 9 10 462 6 小 向 42 2 5 6 一 20 1 1 7 船 越 87 3 11 1s 11 27 3 4 15 計 858 50 57 57 101 358 43 84 10s 浦 郷 村 浦 郷 292 6 23 4 28 172 11 27 21 赤 ノ江 105 5 3 4 9 51 一 11 22 三 度 177 7 7 5 8 121 5 5 19 珍 崎 114 5 5 3 8 62 3 7 21 計 688 23 38 16 53 406 19 50 83 総 計 1,546 73 95 73 154 764 62 134 191

(11)

「脚 注 」 (1)永 見 一 正 『隠 岐 の 歴 史 』、 今 井 書 店 、1965、6-7頁 。 (2)西 ノ 島 町 『町 誌 一 隠 岐 西 ノ 島 の 今 昔 』、 報 光 社 、1996、14-15頁 。 (3)山 岡 栄 一 「隠 岐 島 の 村 落 構 造 」、 『史 泉 』、 第 七 、 八 合 併 号 、1957、84頁 。 (4)同 書 、94頁 。 (5)同 書 、93頁 。 (6)西 ノ 島 町 、 前 掲 書 、38頁 。 (7)同 書 、52頁 。 (8)同 書 、52頁 。 (9)同 書 、52頁 。 (10)同 書 、57頁 。 (11)同 書 、67頁 。 (12)同 書 、67頁 。 (13)同 書 、73頁 。 (14)同 書 、73頁 。 (15)同 書 、73-74頁 、 及 び313頁 。 (16)同 書 、113頁 。 (17)中 野 三 郎 「隠 岐 島 一 村 落 の 実 態 調 査 報 告 一 島 根 県 知 夫 郡 西 ノ 島 町 三 度 部 落 の 狭 少 性 と 調 和 性 」、 『密 教 文 化 』、145、146合 併 号 、1959、60-99頁 。 こ の 調 査 に は 臼 井 教 授 、 神 谷 国 弘 、 山 口 素 光 、 八 木 佐 一 、 中 野 三 郎 、 山 澄 元 、 豊 島 覚 城 、 坂 口 清 が 参 加 し て い る 。 (18)同 書 、81頁 。 (19)神 島 二 郎 『近 代 目本 の 精 神 構 造 』、 岩 波 書 店 、1961、172-176頁 。 松 本 通 晴 「都 市 に お け る 犠 制 村 の 問 題 」、 『評 論 ・社 会 科 学 』、 創 刊 号 、1971、34-58頁 。 \ (20)む らお こ し 事 業 、 ふ る さ と ネ ッ トワ ー ク 編 集 部 『ネ ッ トワ ー ク ・ジ ャ ー ナ ル 隠 岐 国 』、1991、 ・ 創 刊 号 、10頁 。 (21)神 島 二 郎 、 前 掲 書 、25頁 。 (22)小 此 木 啓 吾 「さ す らい と望 郷 の 心 性 」、 『マ イ ン ド ・ ト ゥ デ イ 』 金 子 書 房 、1992、8月 号 。 (23)松 本 通 晴 「都 市 の 同 郷 団 体 」、 『社 会 学 評 論 』、 第36巻 、 第1号 、1985、36頁 。 (24)松 本 通 晴 ・丸 木 恵 祐 編 著 『都 市 移 住 の 社 会 学 』、 世 界 思 想 社 、1994. (本稿 は 平 成7、8年 度 の私 学 振 興 財 団の 研 究 振 興 資金 の助 成 を受 けて な さ れ た研 究 成 果 の 一 部 で あ る。)

参照

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