グローバリゼーションの時代における
郊外都市の再領域化の動向について
―大阪都市圏の郊外都市・池田市を事例にして―
湯浅 俊郎
はじめに
1980 年代以降、輸送・情報技術の発展により、資本・労働力・商品・情 報・文化の国境をこえた移動が促進されていく。上述のことから生じるグ ローバリゼーションの進展は、国際都市間競争を引き起こし、国際会議や オリンピック、博覧会の誘致など、都市政策に大きな影響を与えている。 このグローバリゼーションにおける動向について、町村敬志(2002)は、 次のような見解を示している。まず、決して、都市や地域それ自体が互い に競争しあうことはないということである。実際に競争しているのは、グ ローバルな市場とつながり続けることによって、自己の利害の達成をめざ している政治経済的な主体たちに限られる。そのことから、グローバリゼ ーションは、一部のエリート層だけでなく、競争とは無関係なはずの一般 市民をも巻き込みながら展開しているという見解である。 この町村の見解に対して、久保隆行は「一般市民は国際競争とは無関係 であり、都市や地域は互いに競争しないとする町村の主張には同意できな い」(2019:12)とし、次のような見解を提示している。まず、グローバリゼーションの進展と都市のグローバル化は避けられないということである。 都市や地域はグローバルに競争していることから、今後の発展のために、 一般の市民もグローバル社会に適応していかなればならないという見解で ある。 このように、グローバリゼーションにおける都市間競争に対して、「都市 や地域それ自体が互いに競争することはなく、どの主体の動きが重視され た競争なのかをみていく必要がある」ことを示す見解と、「そもそも、都市 や地域のグローバルな競争は避けることができないことから、発展のため には、都市や地域におけるグローバルな競争戦略は必要である」ことを提 起する見解がある。そのような見解があるなかで、世界都市化を視点に、 都市や地域の動向に関する調査研究が進められている。 しかし、それらの調査研究において、対象となっているのは、後述する ように都市圏の中枢に位置づけられる都市や地域である。そのことから、 本稿では、戦後の地域開発により都市圏の形成が展開していくなかで、住 宅需要を担う地域として、中核都市の部分化が進んだ郊外都市を対象にと りあげ、グローバリゼーションの時代における動向を明らかにしていく。
1 理論的前提
1.1 地域社会におけるグローバリゼーションの影響について 1980 年代、企業・資本の活動が国境を越えて展開していく規模が拡大し、 世界中の地域は相互依存の関係を強めていく。この過程が進展し、経済の グローバリゼーションの影響は大きくなっていくのである。そのような状 況の中で、J. Friedmann(1986)は、多国籍企業の中枢管理機能の立地に よる高次機能の集積度合とネットワークという視点から「世界都市仮説」 を提起し、グローバルなレベルで都市の階層性についての分析をおこなっ た。 この世界都市という視点は、S. Sassen(1991)の「グローバルシティ (global city)」論によって次のように定式化されている。 先進国の多国籍企業が生産部門を途上国に展開させた結果、途上国における自給的な産業経済が解体する。そこから追い立てられた労働者は、先 進国の大都市への移住を促され、多国籍企業にサービスを提供する清掃や 警備など大都市において増殖する低賃金のサービス業に従事するようにな る。その一方で、先進国の大都市においては、多国籍企業の中枢管理機能 が拡大し、それを支える会計、情報処理、法律などの高度事業所サービス が集積する。その結果、先進国の大都市では、高度の専門性を有した高賃 金の職種と低賃金のサービス業が増加し、中間層的な位置を占めていた階 層は減少していく。これらのことから、全体としてみると、グローバリゼ ーションの時代において、階層の分極化が進むということである。 町村は、Sassen により、「世界都市」仮説は上述のように、「資本と労働 力の移動を結びつけるダイナミックな都市変動論として定式化され」 (2006:52)たととらえている。町村は、その「世界都市」仮説を「グロー バリゼーション時代における新しい都市変動論として」(2006:53)大きな 影響力を持った仮説として位置づけているのである1。 1990 年代に入り、グローバリゼーションの本格化が進展していくと、町 村は「グローバルな市場統合や IT 革命の急進展とともに、グローバリゼー ションは急激にリアルなものとして受け止められるようになっていく」 (2006:54-55)ととらえている。 この本格的なグローバリゼーションの到来が、どのような変化をもたら したのかについて、町村があげているなかで、地域に関するものをとりあ げると、次のとおりである。「国境を越えた資本・情報・労働力の再編の動 きは、都市・地域間競争や『構造調整』・『構造改革』という名の下に、各 地域の政治へと明確に水路づけられるようになっていく。その結果、グロ ーバリゼーションへの対応が地域政策のなかに組み込まれるようになる」 (2006:55)。 上述のグローバリゼーションへの対応が地域政策のなかに組み込まれる ようになることに関して、グローバルな競争戦略の必要性を提起する、久 保は「近年、大企業のみならず、地方に本社を置く中堅・中小企業におい ても、海外進出や海外企業との取引が増大している。産業別にみても、製 造業だけでなく、対消費者サービス業においても、多国籍企業化が進展し
ている。インバウンドの急増により、地方のサービス業もグローバル化へ の対応を迫られている。労働力においても、グローバル人材の国際的流動 化にともなう人材獲得競争という段階に移行した。地方にある専門学校や 大学においても留学生は増加している。外国人居住者、外国人労働者の増 加とともに、地方都市や地方企業においても、ダイバーシティマネジメン トの必要性は高まっている」(2019:6)という状況を提示している。 そのことから、久保は、「上位の世界都市と競争している東京都とは次元 は異なるものの、日本の地方都市もまた、すでに国際都市間競争に組み込 まれている」2(2019:6)とし、グローバルな都市政策を積極的に進めてい かなければならないことを提起している。 それに対して、グローバリゼーションにおける動向をつくり出している 主体に着目する、町村は、「『地域・都市間競争』というレトリックの下で、 『場所の商品化 place marketing』をめざす都市・地域は、空港、道路、通 信インフラ、超高層ビル、コンサートホールなどのメガ・プロジェクト実 現へと邁進し、オリンピックや博覧会などのメガ・イベントの開催に名乗 りをあげている」(2006:61)という状況に鑑みて、次のような危惧を持っ ている。 人口減少の段階に入っている日本社会において、従来の開発路線は限界 を迎えている。そのような状況において、グローバリゼーションへの対応 として、成長路線の追求のために、上述のような膨大な資金が必要な再開 発が進められている。その再開発の動向に対して、町村は「民間資本を巻 き込んだ形で進められているグローバル化時代の開発 / 政治は、果たして どのような帰結を地域にもたらすのか」(2006:61)ということを危惧し、 課題にあげている。 このグローバル化時代の開発 / 成長政治は、1999 年の広島市『基本構想』 (平和首都機能を備えた『世界都市 HIROSHIMA』の形成)、2000 年の浜松 市「世界都市化ビジョン」検討開始、金沢市「金沢世界都市戦略会議」設 置というように、日本の地方都市にまで広がっているのである(町村 2006)。 本稿は、都市・地域のグローバルな競争戦略の重要性をふまえた上で、
「どの主体の動きが重視されたものなのか」という着目から「開発のありか た」を視点に、都市・地域をとらえる町村の枠組みを援用し、事例を通し て、グローバリゼーションの時代における動向を明確にしていくこととす る。 1.2 理論的前提:グローバリゼーションと地域社会との双方向的な関係に ついて 町村は、グローバリゼーションの影響による変化のストーリーを構成す るものとして、「旧来から強い影響力をもつ領域の制約から自らの行為や意 識を解き放ち、それらを越境的な形で構築していく傾向を指す」(2006: 56)という「脱領域化」と「フローの空間が影響力を増し、越境的なスタ イルが広がっていくなかで、逆に、自らの局所的な居場所を新たな条件の 下で再構築しようという試み」(2006:57)である「再領域化」をあげてい る。 グローバリゼーション時代の新しい地域性として、町村は、「脱領域化」 と「再領域化」という両者の動きがときに衝突し、ときに補完しあうなか で、「グローバリゼーション時代における地域を特徴づける独特の『地域性 (ローカリティ)』が生み出されつつある」(2006:59)ととらえている。 本稿の目的は、上述の町村の枠組を援用して、「地域性(ローカリティ)」 を生み出す動きの 1 つである「再領域化」に焦点をあてて、次のことを明 確にすることにある。 戦後の郊外化により、中核の市街地が市域をこえて拡大し、周辺都市の 市街地と、相互に融合、一体化していき、都市圏が拡大していく。その動 きは、市・町・村という境界をこえた脱領域化の動きであるととらえられ る。先述の町村の枠組を援用すれば、近年では、その郊外化を通した脱領 域化の動きから、グローバリゼーションにより、新たな脱領域化の動きが 進展していると想定することができる。 このように脱領域化の動きが想定されるなかで、本稿の目的は、郊外化 の時代からグローバリゼーションの時代を通して、「郊外都市の再領域化の 動き」を歴史的に明確にしていくことである。また、対象として、郊外都
市を選んだ理由は次のことにある。 グローバリゼーションが進展しているなか、2007 年以降、クレジット会 社であるマスターカードなど高度事業所サービス企業が主体となって世界 都市ランキング3が作成されている(久保 2019)。 しかし、久保がとりあげた世界都市ランキング4において、「グローバル 都市としてランクづけされている日本の都市は、東京、大阪、名古屋、福 岡の 4 都市しかない」(2019:90)というように対象となる都市は限定され ている。森記念財団都市戦略研究所により、2012 年に番外編として出され た世界都市ランキングにおいても、対象となっている都市は、先の 4 都市 の他に横浜、広島、札幌など地方の中枢都市である。 つまり、世界都市システムのなかで、郊外都市のように地域開発により 中枢都市の圏内として部分化した都市は位置づけられていないのである。 そのことから、本稿では、世界都市システムにおける位置づけを念頭にお いて、まず、グローバリゼーションの時代における郊外都市の再領域化の 動向を明らかにすることを目的とする5。
2 郊外開発について
2.1 戦前と戦後の郊外開発について 町村(2011)は、戦後における日本の社会変動史は、開発とその影響の 歴史として描かれてきたと位置付けている。これまでの地域開発について、 町村は「多くの地域で、ディヴェロプメントは、自立的な『発展』ではな く、他者によって定義された『開発』へと取って代わられていく。それに つれて、変化の内容も画一化の度合いを増していく。地域のもつ潜在性は 無視され、代わって他者の持ち込む一様な尺度や価値観が幅を利かせ始め る」(2011:10)ととらえている。 郊外開発に焦点をあててみていくと、広原盛明は、「郊外居住」について 「大別して『前期(戦前)郊外居住』と『後期(戦後)郊外居住』という 2 つの系譜を辿ることができる」(2010:25)として、戦前と戦後における 「郊外居住のありかた」を次のように位置づけている。まず、戦前の郊外居住について、広原は「近代家族における性別役割分 業および家事使用人の存在を前提として、職場生活と家庭余暇生活を峻別 して私生活を享受しようとする『ファミリー志向』(一族・大家族志向)の 居住様式であり、また『煙の都』から逃避してゆたかな田園郊外の自然や 住環境を享受しようとする『健康アメニティ』の強い生活様式でもあった」 (2010:25)とし、「ブルジョワ・ユートピア」として展開したと位置づけ ている。 戦後の郊外居住ついて、まず、広原は「戦前のモダン生活の理想像とし て形成された『郊外居住』のイメージは、戦後の高度成長期の郊外開発ブ ームに乗って『大衆化モデル』として増幅」(広原 2010:27)された結果、 「高度成長期それも 80 年代以降の『郊外居住』は、戦前の『郊外居住』と は似て非なるものであった」(広原 2010:27)ととらえている。 戦後の郊外居住に対して、広原は「高度成長期の大都市圏への激しい人 口集中にともなう巨大な住宅需要の発生は、郊外住宅地を『内郊外』から 『外郊外』へ、さらには『外郊外』から『超郊外』へと果てしなく拡散さ せ、居住者には『職住遠足住宅』といわれるほどの遠距離通勤を強いるも のと化していった。『郊外居住』によって実現されたはずの職住余暇分離型 のワークライフスタイルは、職住間の空間的距離が超遠隔化することによ って、生活向上の契機になるどころか、かえって『余暇抜き』の食って寝 るだけの生活に変貌したのである」(2010:27-28)と位置づけているのであ る。 上述の広原の指摘から、戦後の郊外開発は、「大衆化モデル」として増幅 された結果、「食って寝るだけの生活」の場というように、変化の内容は画 一化の度合いを増した開発が進められたととらえられる。 このような郊外住宅地開発の状況について、三浦展は、「日本でも、アメ リカやフランスでも、本当は非常に重要な役割を果たしてきた『まち』と いうものがどんどん壊されているということです。そして、巨大なショッ ピングモールという偽物のまちをつくっている」(2011:193)と指摘し、 郊外の課題として「歴史のあるまち、人が歩いて生活できるまちを残して いかなければならない」(2011:194)と提起している。
つまり、戦前の郊外居住は、限られた郊外住宅地を舞台にした少数のミ ドルクラスの人間性を回復するためのモダンな居住様式であった。それに 対して、戦後の郊外居住は単なる大衆消費社会の場と化し、都市部でも農 村部でも、地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニテ ィが崩壊したことにより、その地域は居住理念を喪失した住宅地に変貌し たのである(広原 2010)。 このように、戦後、郊外化した地域は開発による画一化の影響を受けて いる。そのようななかで、郊外化した地域における再領域化の動きに関す る歴史的展開について、以降、検証していくこととする。 2.2 戦前における阪神間の郊外開発について 近代日本の郊外開発について、片木篤は「近代日本の都市『郊外』は、 『私鉄』によって形作られたと言っても過言ではない」(2017:3)と述べて いる。 阪神間における郊外地に関して、中嶋節子は「阪神間の郊外地としての 発展は、鉄道によってもたらされたといってよい。なかでも阪急沿線には、 早くから質の高い住宅地が数多くつくられ、郊外ユートピアとしての阪神 間イメージを牽引する役割を果たしてきた」(2017:139)と指摘している。 阪神間の郊外住宅地の形成を担った鉄道会社の 1 つである阪急電鉄の社 史によれば、「開業した当時の沿線は農村地帯で、輸送需要の増加を見るま でには道遠しの感があった。しかし、かつて小林一三が構想したように、 沿線各地には住宅地に適した土地があり、これを中心に沿線開発を進めて 行けば、当社線自らの輸送需要を増大させ、安定した旅客収入の確保が図 れるというのが、創立当初からの計画であった。この計画を実現するため、 開業に先立って沿線予定地を広く買収し、開業時にはすでにおよそ 82 万 m2(25 万坪)を所有するにいたっていた」(阪急電鉄株式会社 1982:10) ことを起点にして、郊外住宅地の開発が進められたのである。 本稿が対象とする池田市は「まず手はじめに明治 43 年 6 月、池田室町住 宅地約 9 万 1,000m2の分譲を開始した」(阪急電鉄株式会社 1982:10)とい うように、戦前、上述の箕面有馬電気鉄道(現、阪急電鉄)の小林一三に
よる構想に基づいた沿線開発戦略において、「模範的郊外生活」の場として 最初に住宅地が分譲された地域である6。この池田室町住宅地の成功により、 阪急電鉄は、その周辺地域において沿線の展開とともに住宅地の開発を進 めていくのである。 小林は、住宅地開発のほかに、娯楽施設と生活施設の充実に力を注ぎ、 沿線の始点・終点となる場所に次のような施設を配置している。箕面と宝 塚には子どもと女性のための娯楽施設を、もう一方の梅田にはサラリーマ ンと家族のための百貨店を置いている7。「沿線を最大に利用した経営戦略 によって阪急は、乗客数を増やすとともに、良好な郊外住宅地としての沿 線イメージを作り上げていったのである」(中島 2017:142)。 また、阪神間においては、学校施設も充実し、「池田室町では、1922(大 正 11)年に橋詰せみ郎( 良 一)によって、自然の中での自由教育を実践し た『家なき幼稚園』が設立され」(中島 2017;142)、宝塚、雲雀丘、箕面、 千里山など周辺の地域にも開設されるようになった。沿線には、宣教師に よるミッション・スクールや阪神間在住の実業家により設立された中高等 教育機関が相次いでつくられた。これらの教育施設に関して、中島は「阪 神間の文化的雰囲気の形成において重要な役割を果たした」(2017:143) と指摘している。 つまり、戦前の阪神間における郊外開発は「郊外ユートピア」として独 特の文化を形成したととらえられるのである。
2.3 戦後における阪神間の郊外開発について ―大阪府池田市を事例にし て―
図 1 池田市の位置
注 :Esri ジャパン全国市町村界データを用いて ArcGis により作成⒞ Esri Japan
まず、本稿が対象事例としてとりあげる池田市(図 1)は、大阪府の北西 部、大阪の中心地から約 16km のところに位置している。周辺地域の状況 をみると、戦前から、阪急電鉄により、池田市室町住宅地(1910 年)をは じめ、豊中住宅地(豊中市:1914 年)、千里山経営地(吹田市:1922 年)、
甲東園住宅地(西宮市:1923 年)、稲野住宅地(伊丹市:1925 年)、塚口住 宅地(尼崎市:1934 年)などが開発され、他に雲雀丘(宝塚市:1916 年) や花屋敷(川西市:1917 年)など、私鉄沿線の展開とともに個人や土地会 社により住宅地の開発が進められている。 これらの地域は、戦後においてもマンション開発やニュータウン開発な どが続けられ、郊外都市として位置づけられる。 池田市に焦点をあてて、戦後の郊外開発をみていくと、池田市教育委員 会『北摂池田 ―町並調査報告―』(1979)は「近・現代における池田の市 街地形成は、その過程からみて昭和 30(1955)年頃を境に大きく転換して いる」(51)と指摘している。 上述の教育委員会の調査報告書によると、戦後における池田市の市街地 形成は次のように展開している。まず、1955 年、市街地の整備と集合住宅 の建設を意図して、池田市街地に隣接した丘陵部(池田市の北部に位置す る)の区画整理事業(五月丘土地区画整理事業)が、池田市長を施工者と して計画決定している(1956 年に事業決定)。 上述の調査報告書では「この段階では池田は大阪北部の衛星都市として 空間的にも独立して存在しており、池田市街地はその核をなし、かつ区画 整理は市街地周辺部の整備であったと解釈出来よう」(池田市教育委員会 1979:52)というように、1955 年頃まで、池田市は、市街地を核として、 空間としての独自性を有していたととらえている。 しかし、この区画整理区域に建設された公団住宅は、大阪市における住 宅需要を満たすために建てられたものであった。「もともと戦中の大阪市の 人口分散に起因するもので、戦後の住宅難の時期に、大阪市に必要な住宅 需要を、通勤が可能であるということから、周辺都市に公営住宅を建設し たことが定常化していた」(池田市教育委員会 1979:52)のである。 池田市では、府営住宅など公営住宅の建設は少なかった。けれども、「公 団団地は建設戸数も多く、その居住者の殆んどが大阪市へ通勤するという 云わば大阪市で必要とする住宅需要を、池田で担当するという形」(池田市 教育委員会 1979:52)になったのである。 つまり、「五月丘土地区画整理事業は一方では地域中心としての郊外の都
市整備を意図しながら他方では内容的には大阪中核都市の部分化を促すと いう結果をもたらした」(池田市教育委員会 1979:52)のである。 以降、民間の住宅団地建設も活発化し、「昭和 30 年代後半から 40 年代を 通じての短期間に、池田市の五月山以南の区域がスプロール的に市街地化 している。それまで空間的に独立していた池田市街地は、この段階におい て石橋地区をはじめ市内全域が連担し、さらに大阪・豊中から広がって来 た市街地とも連担して了った4 4 4(原文ママ)」(池田市教育委員会 1979:53) という状況となった。 後にふれる「池田市総合計画」(1970 年策定)は、池田市を「本市におけ る就業者は、市内で働く人より、市外で職に就く人の方が多く、その大半 は大阪市内で所得を得ている。大阪市の衛星都市といわれるゆえんである。 と同時に、大阪都市圏の産業興隆いかんが本市におよぼす影響が大きい典 型的な住宅都市といえる」(池田市 1970:9)と位置づけている。 このように、上述の池田市教育委員会の報告は、戦後の郊外開発により、 池田市が、住宅需要を担う地域として、大阪中核都市の部分と化していっ た過程を報告している。その教育委員会の報告から、郊外化の過程におい て、周辺の都市とともに池田市における地域の独自性の度合いは減少した ことが読み取れる。
3 グローバリゼーションの時代における郊外都市の動向
3.1 池田市の現況について まず、池田市の現況をとらえるために、人口の推移から見ていくと(図 2)、先述のように、郊外開発が始まった 1955 年(人口:45,177 人)以降、 1975 年(人口:94,333 人)にかけて人口が 2 倍以上になっている。1975 年 以降、人口増加の度合は停滞し、2010 年の 104,229 人をピークに、10 万人 を少し超えた範囲で推移している(2015 年は 103,069 人)。図 2 池田市の人口の推移 (人) 注: 各年度の国勢調査より 作成 2015 年度国勢調査により、池田市の産業別就業者の状況をみていくと、 「卸売業・小売業」の就業者(7,023 人)が最も多く、全就業者の 15.7%を 占めている。次に、「製造業」就業者(6,210 人:13.9%)、「医療・福祉」就 業者(5,402 人:12.1%)の順となっている。性別でみると、男性は「製造 業」就業者(4,723 人)が最も多く、男性全就業者の 18.7% を占めており、 女性は「医療・福祉」就業者(4,030 人)が最も多く、女性全就業者の 20.8% を占めている。 世界都市化で就業者の増加が想定される産業に焦点をあてて、その推移 をみると、「情報通信業」(2010 年 1,380 人→ 2015 年 1,315 人)、「金融・保 険業」(2010 年 1,411 人→ 2015 年 1,377 人)、「学術研究 , 専門・技術サービ ス業」(2010 年 1,849 人→ 2015 年 1,812 人)8など、就業者数の増加はみられ ないという状況である。 最後に、外国人人口の推移をみていくと(表 1)、市の全人口に占める外 国人の割合は、2015 年において 1.1% である。10 年前(2005 年)と比較し ても、外国人人口の総数(2005 年 1,179 人に対し、2015 年 1,133 人)と市 の全人口に占める割合(2005 年 1.2%)は、ともに減少している9。 このように、本節では、人口、産業、外国人人口の点から、池田市の現 況を大まかにとらえてみた。そこで示されたことは、池田市の人口推移は 停滞しており、産業別就業者、外国人人口の面からみて、グローバル化が
進んだ都市にみられるような構成は進んでいないという状況である。 表 1 池田市における外国人人口の推移 総数 (国籍) 韓国、 朝鮮 中国 フィリ ピン タイ インド ネシアベトナム インド イギリス アメリカ ブラジル ペルー 2005 年 総数 1,179 588 169 21 12 11 10 − 13 29 22 19 全人口の中で 占める割合(%) 1.2 0.6 0.2 0.02 0.01 0.01 0.01 − 0.01 0.03 0.02 0.02 男 591 254 83 2 1 9 4 − 9 22 19 11 全人口の中で 占める割合(%) 1.2 0.5 0.2 0.004 0.002 0.02 0.01 − 0.02 0.04 0.04 0.02 女 588 334 86 19 11 2 6 − 4 7 3 8 全人口の中で 占める割合(%) 1.1 0.6 0.2 0.04 0.02 0.00 0.01 − 0.01 0.01 0.01 0.02 2015 年 総数 1,133 417 317 46 8 28 17 5 12 34 17 7 全人口の中で 占める割合(%) 1.1 0.4 0.3 0.04 0.01 0.03 0.02 0.005 0.01 0.03 0.02 0.01 男 506 174 112 16 3 19 11 4 9 22 11 5 全人口の中で 占める割合(%) 1.0 0.4 0.2 0.03 0.01 0.04 0.02 0.01 0.02 0.04 0.02 0.01 女 627 243 205 30 5 9 6 1 3 12 6 2 全人口の中で 占める割合(%) 1.0 0.4 0.3 0.05 0.01 0.01 0.01 0.002 0.005 0.02 0.009 0.003 注:各年度の国勢調査より作成 3.2 池田市総合計画における再領域化の動き ―将来の都市像の変遷を中 心にして 3.2.1 郊外化の段階における動向 本節では、「池田市は自市をどのように位置づけているのか」について検 証するために、池田市の「総合計画」10をとりあげる。その「総合計画」に おいて掲げている将来の都市像を中心に歴史的な動向をみていくこととす る。 郊外開発が進展した 1970 年、池田市は、目標年次(1985 年)の人口を 15 万人と想定した「池田市総合計画」(以降、1970 年計画とする)を策定 している。 1970 年計画では、後の計画で掲げられているような将来の都市像は示さ れてなく、「その立地ならびに地理的条件からみて、大阪市および周辺都市 と不可分の関係にあり、比較的自然条件に恵まれた住宅都市であり、この 性格は今後一層高まるものと予想される」(池田市 1970:1)という将来像
を示している。 『新修池田市史 第 4 巻』(2011)は、池田市の武田市長第二期(1951 年 ∼ 1955 年)の後半以後、人口の増加により税収を増やすという目的などか ら、住宅誘致が重要な政策課題になっていたと指摘している11。そのことか ら、先述の総合計画で示された将来像と考え合わせると、市が自市の住宅 都市としての性格を促進させたととらえられる。 1970 年計画は、市の課題として、次のことをあげている。まず、「住宅都 市としての住みよい環境をつくるために、適正な土地利用計画に基づいて、 自然と緑を保存し、秩序ある市街地を形成するとともに都市環境の改善を はかる」(池田市 1970:1)ということである。さらに、課題として、阪急 の池田駅・石橋駅周辺の再開発事業や、モータリゼーションの進展に対応 して「都市計画道路はもとよりその他の道路網の拡充をはかるとともに市 内通過交通の緩和および交通の円滑化を促進する」(池田市 1970:1)こと をあげている。 つまり、戦後、郊外住宅地開発の進展により、池田市は、大阪市を中核 とする都市圏の住宅需要を担う地域として部分化した。そのような状況の なかで、1970 年計画は、住宅都市として、無秩序な開発に対して、住環境 を保持するという志向が強い計画であったととらえられる。 3.2.2 グローバリゼーションの初期の段階における動向 その後、池田市の総合計画は 1976 年と 1981 年に改定されている。「世界 都市」が提起され始めた 1980 年代に、改定された池田市総合計画(以降、 1981 年計画とする)をみると次のとおりである。 まず、1981 年計画は、交通問題、水資源問題など周辺地域を含む開発に よる影響や、「本市は古くから北摂12の物質集散地として商業が発展してい たが、交通手段の発達によって北摂各地と大阪との結びつきが強まる一方 で、隣接各地や奥地の開発地に近隣型の商業が立地し、日常生活面での池 田市への依存度は低下している」(池田市 1982:2)というように、周辺地 域の開発にともなって、池田市の求心性が低下している問題をあげている。 また、1981 年計画が策定された時期は池田市の人口増加が沈静化した時
期である。その時期において、1981 年計画は「本市内部においては、池田、 石橋両駅前地区を中心とする旧市街地の老朽家屋に空家が増加するととも に、地価の上昇につれて優良宅地の分割による狭小化現象があらわれてき た。その一方で、これらの地区においては人口が減少し続け、市全体とし ては旧市街地の人口減少と周辺部における人口増加がほぼ拮抗する状態と なり、人口推計の修正とともに土地の高度利用の方策を早急に確立する必 要がある」(池田市 1982:2)という課題をあげている。 上述のような状況から、1981 年計画で想定された将来人口は、1970 年計 画における 15 万人(1985 年到達)から 12 万 5 千人(2000 年到達)へと下 方修正されている。 1981 年計画では、基本的方向として、「本市が継承する歴史と文化遺産の 傾向や特質は、単に趣味教養の対象としてだけではなく、明日の本市の歴 史づくり、まちづくりのありかたを指針するかけがけのない歴史であり文 化財である」(池田市 1982:5)というように、地域の歴史的個性を「まち づくりのありかたを指針する」ものとして位置づけている。 その上で、1981 年計画では、将来の都市像として「輝かしい歴史と伝統 をふまえ、真の平和と人間性の回復をねがい、新たな文化創造の未来へ飛 躍する緑と水と光輝く伝統と創造・文化都市」(池田市 1982:10)を掲げて おり、自然環境も含めて地域の歴史的個性13による再領域化の動きがうか がえる。 しかし、その動きは、グローバリゼーションへの対応という視点よりも、 交通や水資源の問題、市街地における求心性の低下など周辺地域の大規模 開発により生じたひずみを是正し、「人間的な生活環境をとりもどし、物質 的な豊かさよりも文化的な豊かさを求めていく」(池田市 1982:2)という 視点によるものであるととらえられる。 また、池田市は、1989 年に、目標年次(2000 年)の計画人口を 11 万 5 千人(1981 年計画の想定である 12 万 5 千人から縮小されている)とした 『池田市新総合計画 うるおいのある文化創造都市』を策定している(以降、 1989 年計画とする)。その計画における将来の都市像は、「緑の五月山と猪 名川の流れにはぐくまれた うるおいのある文化創造都市」(池田市総務部
企画室企画調整課編集 1989:25)である。 そのために、1989 年計画は「郷土の自然と歴史に誇りをもち、人と人と のふれあいを大切にし、うるおいのある文化創造をめざしたまちづくりを 推進する。また、市民が郷土愛をはぐくみ連体感を深めるため、五月山を 中心に池田城跡や歴史的建築物、文化施設等を結ぶ『緑と歴史のネットワ ーク』を構想し、池田らしさを演出する」(池田市総務部企画室企画調整課 編集 1989:25)と掲げている。1989 年計画では、「池田らしさを演出する」 手段として「緑と歴史のネットワーク」という構想が示されているように、 地域の歴史的個性による再領域化の動きが、より具体的に示されるように なる。 3.2.3 グローバリゼーションが本格化した段階における動向 最後に、グローバリゼーションが本格化してきた時期に策定された総合 計画をみると次のとおりである。1998 年、池田市は、2010 年を目標年次と して『池田市総合計画―第 5 次― 20 1 0 池田―フロンティア都市の再生と 創造に向けて―』(以降、1998 年計画とする)を策定している。 1998 年計画は、2010 年における将来人口を 11 万 5 千人とし、「固有の文 化と五月山、猪名川などの天与の自然環境を生かし、市民をはじめ多くの 人々が交流し、心がふれあい、住んでよかった、また、住みたいと思える 『小さくとも世界に誇れる池田』をめざしたまちづくりを進める」(池田市 政策推進部企画調整課編 1999:27)という目標を掲げている。1998 年計画 の将来の都市像は「緑にあふれ、歴史文化が輝く 世界に誇れる ひと・ こころ交流都市」(池田市政策推進部企画調整課編 1999:27)である。 グローバリゼーションが本格化した 1990 年代に策定された 1998 年計画 おいて、「小さくとも世界に誇れる池田」というように、池田市の都市政策 において、グローバルなレベルで地域性を生み出すという視点が、明確に みられるようになる。 さらに近年に策定された総合計画をみると、2010 年、池田市は、目標年 次を 2022 年とする『第 6 次池田市総合計画 「私」が創る「地域」と育てる 誇りに思えるまち』(以降、2010 年計画とする)を策定している。2010 年
2022 年度における定住人口を 105,000 人と設定している。 2010 年計画における将来の都市像は、「豊かな自然を守り、遊ぶ 歴史に 学び、集う にぎわいが人と人とをつなぎ、豊かで美しい心が育まれるま ち」(池田市総合政策部政策企画課 2011:3)である。 また、2010 年計画では、まちづくりの取組に関して、新たな「人口の定 義」をしている。まず、地域コミュニティ推進協議会をはじめ、自治会、 ボランティア団体、NPO などの「団体に所属したり、活動に参加したりす る市民の数」(池田市総合政策部政策企画課 2011:26)を「まちづくり人口」 と定義している。 さらに、市民以外の人口も定義しており、「仕事や学習、観光などさまざ まな目的で本市を訪れ、市民と交流する人の数を『交流人口』」(池田市総 合政策部政策企画課 2011:26)と定義している。 その上で、2010 年計画は「まちづくり人口と交流人口を合わせたものを 『活動人口』と定義し、本市の定住人口とほぼ同じ程度の人口が、日々『活 動』しているまちを目標にします」(池田市総合政策部政策企画課 2011: 27)と提起している。 つまり、「まちづくり人口」の増加により人口の転出を抑制し、「交流人 口」を増やすことにより人口の転入を促進させる。その結果、定住人口の 目標に到達するという戦略が、2010 年計画では示されているのである。 2010 年計画においても、これまでの計画と同様に、地域の歴史的個性に よる再領域化の動きがみられる。池田市は、2017 年に「池田市歴史文化基 本構想」を策定している。池田市の歴史文化の特徴を構成するテーマとし て5つの項目(表 2)をあげ、それらの特徴を「まち・産業・人が織り成す 〈事始めのまち〉の歴史文化」というようにまとめている。 5 つのテーマのなかであげられている、池田茶臼山古墳と池田城跡は、開 発(前者は 1957 年に着工された住宅建設の造成工事、後者は 1968 年に計 画された大阪教育大学学生寮の改築)による破壊から、市民活動によって 守られた遺跡である(現在、公園として保存されている)。これらの市民の 動きは、地域における歴史的な個性の力が表出したものであるととらえら れる。
上述の市民活動に対して、「池田市歴史文化基本構想」は「市民だけで遺 跡保存運動を行ったことは前例がなく、これらの活動は、池田市民の文化 力の高さを物語るものである」(池田市教育委員会 2018:88)と位置づけ、 「コミュニティの力で継承する歴史文化」として、まちづくりに活かす構想 を示している。 表 2 池田市の歴史文化の特徴と構成する歴史文化のテーマ 歴史文化のテーマ 内容 コミュニティの力で継承する 歴史文化 市民の手で保存が進められた池田茶臼山古墳をはじ め、市内の古墳や池田城跡、がんがら火や神田祭の継 承など、コミュニティの力で培われた歴史文化 ものづくりの機運に育まれた 歴史文化 機織の技術を伝えたとされるクレハトリ・アヤハト リ伝承から、近世の植木産業や酒づくり、近代の自動 車製造や銀行の創設、さらに現代に花開いたインスタ ントラーメンの発明などのものづくりの機運に育まれ た歴史文化 住宅・教育都市としての歴史文化 近代に建設され現代まで継承されている電鉄会社に よる日本で最初の計画的分譲住宅地、さらに現代に整 備されたニュータウンにいたるまで良好な居住環境を 有するとともに、師範学校の誘致・設置や出版・画壇・ 建築などでの新たな活動など、戦前から学校教育・文 化にも力を注ぐ都市として発展してきた歴史文化 交流が培った歴史文化 中世池田市を中心とした多様なつながり、能勢街道 の街道筋の在郷町として十二斎市や池田炭などに代表 される物質の集散地、さらに池田の猪買いなどの落語 の題材となったまちとして、多くの文人や画人の来遊 による文化の伝播がうまれ、また近代における旧家や 小林一三による絵画の収集等、多様な交流によって培 われてきた歴史文化 森と水に育まれた歴史文化 市民に親しまれてきた五月山や八坂神社などの鎮守 の森、猪名川などの河川や農業用水路及び溜池などの 水辺など、都市近郊の多様な森と水に育まれた歴史文 化 注:『池田市歴史文化基本構想』(池田市教育委員会 2018)より作成 その動きとともに、市民だけでなく、市民以外で池田市に訪れる人も含 めて「活動人口」と定義する動きは、2010 年計画における、新たな再領域 化の動きであるととらえられる14。
3.3 池田市室町住宅地の動向 3.3.1 室町会の結成 最後に、地域の歴史的個性による再領域化の動きが展開した具体的な事 例として、室町住宅地の動向を歴史的にみていくこととする。 阪急電鉄による分譲開始から十数年経た室町住宅地の状況について、次 のように報告されている。「大正十年は室町の新市街が出来てちょうど十二 年目に当たる。町内には空地は殆んどなく、住宅がギッシリ建てつまって、 町の人口も増え、すくすく育ってきた」(『室町のあゆみ』1958:23)。 地域では、室町委員会が結成(1911 年)されており、委員会の事業とし て、「衛生関係が主で、日給六十銭の衛生夫を常雇いにして、各戸の下水や 煙突の掃除をさせていた」(『室町のあゆみ』1958:18)。その他に、委員会 では、懇親の目的で、名刺交換会や浄瑠璃会、能狂言の鑑賞会などを開き、 子供会なども開催していたということである。 室町委員会から室町会へと展開した経緯は次のとおりである。まず、「そ もそも町の組織が会の形体ではなく、会長や理事長のようなセンターの判 然とした者がおらない委員制度」(『室町のあゆみ』1958:23)であった。 委員の選出方法が確立されておらず、「新年会のような会合の席でだれがい うともなしに委員の氏名が挙げられ、賛成賛成で決まってしまったのだ」 (『室町のあゆみ』1958:23)という状況であった。 委員の任期に関しても「任期もあるのかないのか漠然たるもので、辞め たいときには家事の都合でということで辞表を出すような始末である」 (『室町のあゆみ』1958:23)。後任者がいないと、いつまでも委員の職にあ り、「規約の正条によって推挙の形を整えない限り委員になる人が得られな くなった」(『室町のあゆみ』1958:23)。 これらのことから、「町会の組織をとり、規約に基いて4 4 4(原文ママ)役員 を選任することが最も合理的と考えられた」(『室町のあゆみ』1958:23) というように、室町委員会において、まず、規約をつくり、委員会の構成 メンバーを確立する必要性があった。 さらに、開発事業主である阪急電鉄との関係の問題も浮上してきた。「阪 急電鉄も最初の内は育ての親」(『室町のあゆみ』1958:23)であった。住
宅地の開発だけでなく、同社の地所課長など社員も委員会の仕事に関わっ ていた。しかし、「その後に室町人のみによって運営するに至り、次第に阪 急電鉄とのつながりが薄らいできた」(『室町のあゆみ』1958:23)のである。 上述のように、阪急電鉄とのつながりが薄らいでいくことにより、阪急 電鉄が住民に提供していた倶楽部の建物をめぐって次のような問題が生じ た。「倶楽部の建物は無償提供だから、修繕一切は室町でやれとのことだ し、将来この建物を買収するか、あるいは適当な地を選んで新築しなけれ ばならないかといった」(『室町のあゆみ』1958:23)問題である。 その問題に対応するためにも、「阪急と交渉する上からもぜひ町会として の団体の力を形成する必要に迫られた」(『室町のあゆみ』1958:23)ので ある。 これらの問題が出てきたことから、「室町会創設の機運が全町にみなぎ り、大正十二年二月に室町会創立総会を開き、ここに室町会は産声をあげ ることになった」(『室町のあゆみ』1958:23)というように、室町住宅地 において、地域独自の住民組織である室町会が結成されたのである。 以降、室町会は、室町会館を運営し、1934 年、幼稚園(1922 年、大阪毎 日新聞の後援のもと、室町在住の橋詰良一を園主として開園された幼稚園) の経営を引き継ぎ、1950 年には、社団法人の認可を取得した「室町会」を 設立している。 3.3.2 グローバリゼーションが本格化した段階における動向 上述のように展開してきた室町会は、グローバリゼーションの本格化が 進んでいくなかで、次のような動向を示している。 2004 年、室町会は「戦後の経済界の大変動による地価の高騰、少子高齢 化、核家族化および、世代交代を含めての住民の入れ替わり、家屋の老朽 化による建て替え等、敷地の細分化の兆しが見え始め、従来の整然とした 町並みの維持が憂慮されています」(『池田室町住民憲章』)ということか ら、住民憲章を制定している。 その住民憲章の内容をみると次のとおりである。まず、「私たちは、今日 まで築かれてきたわが町の優れた伝統と文化を受け継ぎ、これからの情勢
の変化にも賢明に対処しながら、常に緑と太陽に包まれ、平和と安らぎに 満ちた、人と環境にやさしく 文化の香りが漂う『住んでいて良かった町』 そして『いつまでも住み続けたいと思う町』を目指したいと念願し、ここ に住民の合意に基づく憲章を定めます」(『池田市室町住民憲章』)とし、8 つの項目を提示している。 そのうちの最初の 3 項目をとりあげると、「1. この由緒ある池田室町を、 わが町として愛し、大切にしましょう。2. 開発者小林一三氏の掲げたまち づくりの精神と理想に則り、自治協同の伝統を受け継ぎましょう。3. 私た ちの町並みは、新築や改築及び不動産の売買に際しても、敷地の細分化を 避けて、常に緑化・美化を心がけ、環境の維持に努めましょう。」(『池田室 町住民憲章』)というように、地域の歴史的個性の保持とともに、次のよう な課題も示されている。室町住宅地では、阪急池田駅に近接していること から、かつての戸建住宅が商業ビルや集合住宅へと変わっているという状 況や、戸建住宅でも分筆が進んでいるという状況がみられる。そのような 状況に対して、室町住宅地においては、住環境を整備し、町並みを保存し ていくという課題がある。 この室町会における住民憲章の制定の動きは、「模範的郊外生活」の場と して、最初に住宅地が分譲された地域という歴史的個性による再領域化の 動きであるととらえられる。住民憲章の項目に、開発者である阪急電鉄の 「小林一三」を掲げるなど、室町住宅地では、戦前、「郊外ユートピア」と して独特の文化を形成した住宅地の町並みが再領域化の枠組みとして浮か び上っている。
結びにかえて
本稿の主題である池田市の再領域化の動きを整理すると次のとおりであ る。高度経済成長期に、都市圏の拡大とともに住宅都市として展開した池 田市は、人口増加が落ち着いた段階において、歴史的個性による再領域化 の動きを明確に示すようになる。 周辺地域の大規模開発が進展し、池田市の求心性が低下する。開発により地域の画一性が広まるなかで、その再領域化の動きは、人が集まるため の魅力として、市の個性をだす必要性があったことによるものであるとと らえられる。 グローバリゼーションが本格化した段階においても、政策においてグロ ーバルな視点を明確に出しているなかで、上述の郊外化の時代と同様に、 池田市における歴史的個性による再領域化の動きは一貫している。そのな かで、歴史的個性による再領域化の動きが出ている室町住宅地では、世代 交代による宅地の細分化などの問題があり、歴史的個性を維持することが 困難な例があることは留意しておかなければならないことである。 この地域の再領域化の動向に関して、本稿は戦後の動向をとりあげてい る。今後、課題として、近世の「地域的なまとまり」から現在の池田市の 「地域的なまとまり」までの動向を考察していかなければならない。地域統 合において、時代をこえて連続している基底的な部分(連続性)と、時代 により変化している部分(断絶性)を明確にし、グローバリゼーション時 代特有の「地域性(ローカリティ)」をとらえていく必要がある。 本稿において、上述の課題があることをふまえた上で、近年における池 田市の動向をみていくと、市民だけでなく、市民と交流する人も含めて、 まちづくりを進めていくという動きは、都市圏が拡大から縮小の段階に入 っているなかで、人口減少社会に対応した新たな再領域化の動きであると とらえられる。 その動きのためにも、池田市は、地域の資源である歴史的個性を活用し て、多様な人が集まる「にぎわい」を創出する「しかけ」をつくる必要が ある。その「しかけ」づくりとして、池田市は、2019 年、市域を一つのテ ーマパークに見立てて、まちづくりを展開させていくという『池田のまち みんなまとめてテーマパーク構想』を策定している15。 上述の「にぎわい」の「しかけ」づくりを進めていくなかで、ナショナ ルなレベルからグローバルなレベルへと視点が展開していくグローバリゼ ーションの時代であるがゆえに、池田市は、次のことを一層重要なことと して位置づけなければならないと指摘できる。それは、池田市が「どのよ うに他の都市または郊外地域と差別化するのか」という都市のビジョンで
ある。 特に、画一的な開発を受けてきた郊外都市では、人口減少の時代に入っ ているなか、従前のように人口増加は見込むことは難しい状況である。そ のため、戦略として、これまでの成長路線に基づいた従来の開発とは異な り、個性を資源として活用することを通して、グローバルな視点で、競争 により差別化を獲得しなければならない。その一方で、池田市を例にとれ ば、市民以外の交流人口も加えて地域の「活動人口」を増加させるという 戦略から、公益の領域を位置づけて、地域間における「分かち合い」(神野 直彦 2010)という協力原理の面も必要であることが指摘できる。 しかし、上述の戦略には、競争と協力という互いに反するものを両立さ せるために、どのように両者の均衡を図って進めていくのかという問題が ある。公益の範囲と領域を考察していくとともに、都市政策のありかたの 一つとして、今後、本稿の考えていかなければならない課題である。 注
1 S. Sassen の主著 The Global City(1991)に関して、町村は「世界都市形成の大きな 趨勢を強調するあまり、個別都市の異なる背景を軽視する傾向が強い」(2002:108)と 指摘している。 2 久保隆行(2019)は、地方都市の自治体には、国際都市間競争に組み込まれていると いう認識はまだ乏しいと指摘している。そのことから「地方都市においても、グローバ ルという観点から都市政策を再構築し、グローバルな都市政策を具体的に実施すべき段 階に入っている」(2019:6)と提起している。 3 世界都市ランキングの持つ意味について、町村は、『日本経済新聞』(2014. 8. 13 朝刊) において次のことを述べている。「『ビジネス関係者、住民、旅行者ら誰の視点を重視し、 誰がつくったかで順位は変わります』」と注意を喚起し、「『ニューヨークやロンドンは国 際ビジネスの視点を重視した多くの調査で順位は高いが、『住民の間で所得格差が広が り、上位層と下位層の対立が目立っています。様々な価値観を持った人々が仲良く暮ら せる都市を高く評価できるランキングがあってもよいと思います」。 4 この世界都市ランキングは、ビジネスや都市のマーケティングのツールとして作成さ れている面があるが、久保(2019)は、世界都市ランキングの意義について、P. J. Taylor、P. Hall、S. Sassen など世界都市研究者も参画しており、世界都市研究の成果を 基盤として作成されている面をあげている。
5 本稿の今後の課題として、ローカル、ナショナル、リージョナル、グローバルなど、 いくつかのスケールとの関係で都市をとらえていく「リスケーリング論」の視点で、グ ローバリゼーションの時代における郊外都市の動向を考察していく必要がある。
6 その分譲地は池田駅の南西に位置し、神社の境内を取り囲む 207 区画が開発された。 販売された当時は「池田新市街」と名付けられている。阪急電鉄の社史によると、池田 市室町住宅地は「約 330m2を 1 区画とし、2 階建て 5 ∼ 6 室、延床面積 66m2∼ 99m2の 建て売り住宅 200 戸、当時としては珍しい『電灯付き住宅』であった。販売方法は、頭 金を 50 円とし、残金を毎月 24 円ずつ 10 ヵ年にわたって支払っていく方式である。こう した割賦方式による土地分譲、地所家屋の販売は、今日のローン販売の先駆けともいえ るもので、当時の常識では全く考えられない画期的な販売方法であった」(阪急電鉄株式 会社 1982:10)という。その社史は、「もちろん、この池田室町住宅地の開発は、わが 国民鉄における沿線土地開発の嚆矢とされるものである」(阪急電鉄株式会社 1982:10-11)と位置付けている。 7 阪急電鉄は、娯楽施設として、箕面動物園(1910 年)、宝塚新温泉(1911 年)、宝塚新 温泉パラダイス(1912 年)がつくられ、アトラクションとして宝塚唱歌隊(1913 年、 現・宝塚歌劇団)が結成されている(中島 2017)。また、生活充実施設として、梅田に 阪急ビル(1920 年)が完成し、1925 年には直営マーケットを開店、1929 年には売場面 積 1 万平方メートルの百貨店へと事業を拡大させていく(中島 2017)。 8 2010 年度の国勢調査において、産業分類の項目が変わっていることから、本稿では 2010 年から 2015 年の推移となった。 9 池田市において、外国人の総数と割合ともに減っているなかで、中国人(2005 年 169 人〈0.17%〉→ 2015 年 317 人〈0.31%〉)とフィリピン人(2005 年 21 人〈0.02%〉→ 2015 年 46 人〈0.04%〉)の増加が目立つ。この要因については今後の検討課題である。 10 池田市は、1970 年に最初の総合計画を策定し、以降、1976 年、1981 年、1989 年、 1998 年、2010 年に計画を改定している。 11 市史は、当時の住宅誘致のねらいについて「人口の増加を図り、税収増を実現し、併 せて購買力を拡大して地元商業の振興に資することをねらったものであった」(池田市史 編纂委員会 2011:277-278)と指摘している。 12 北摂は、旧摂津国の北部に位置する地域を示している。『角川日本地名大辞典 27 大阪 府』(角川日本地名大辞典編集委員会 ,1983,角川書店)では、池田市、豊中市、吹田市、 高槻市、茨木市、箕面市、摂津市、島本町、豊能町、能勢町を、北摂の範囲としている。 13 本稿では、地域の歴史と伝統に加えて、地域に保持され続けているという点から自然 環境も歴史的個性であると位置づけることとする。 14 国土交通省が、日常の生活圏や通勤圏以外に、趣味やイベント参加、街おこしなどで 特定の地域を継続的に訪れる「人口」を「関係人口」と定義している。同省は、人口減 少社会での地域の担い手として、「関係人口」を重視し、2020 年度に全国規模の調査も 実施して実態把握をさらに進めている(『日本経済新聞』2020. 2. 26 朝刊)。そのことか らも、人口減少社会において、従来のように、定住人口に基づいて、まちづくりをおこ なうという発想は、限界があることがうかがえる。 15 また、池田市は、地域再生計画(2016 年 12 月 13 日に内閣総理大臣により認定< 2018 年 3 月 30 日に変更が認定されている>)として、市内外の人たちへの情報提供の強化と ともに、来場者数が増加しているインスタントラーメン発明記念館と五月山動物公園を
核とした、来訪者の回遊性の高い、まちづくりをおこなう計画をたてている。
文献
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