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エイハブの涙 : 『白鯨』再読

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Academic year: 2021

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エイハブの涙 : 『白鯨』再読

著者

橋本 安央

雑誌名

英米文学

55

ページ

206-220

発行年

2011-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/10116

(2)

エ イ ハ ブ の 涙

──『白鯨』再読──

Synopsis : From the latter half of the 1950s through the September 11 attacks, literary criticism has turned against Captain Ahab in Melville’s Moby-Dick ; Or, the Whale. It is apparent, however, that

Moby-Dick’s appeal as a novel would diminish if it were not for Ahab.

He is not just a totalitarian or nationalistic leader who keeps people on a string. He is also a“symphony”conductor to command Starbuck to stay on board the Pequod(Ch.132)and a tyrant who says that“Ahab is enough to die”(Ch.135). His characterization is far more complicated and intricate than it is assumed to be by most critics. This paper aims to explore these intricacies, paying particular attention to the images of sickles, apples, and the Andes in Moby-Dick.

冷戦の緊張が昂じはじめた 1950 年代後半以降,9・11 テロル事件を経 て,『白鯨』(Moby-Dick ; Or, the Whale)批評史におけるエイハブ船長の 旗色は,きわめて悪い。だが,もしこの小説にエイハブがいなければ,読み 手にとって,小説としての魅力は半減しよう。エイハブは,たんなる全体主 義的先導者ではなく,ましてや銃後で人々をあやつる国家主義的指導者でも ない。道連れにすることを避けんがために,スターバックに船上にのこるよ コンダクター う命ずる指揮者でもあり(406),死ぬのはおのれだけで充分だ,そう叫ぶ たぐいの暴君でもある(423)。エイハブは,もっと複雑なのだ。そうした 複雑さを垣間みるために,鎌,林檎,アンデスといったものにかかわる描写 を手がかりにして,『白鯨』を読み直してみたい。

1:鎌

おか 捕鯨小説であるにもかかわらず,『白鯨』では,陸の牧草地で草を刈り, 206

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干し草をつくる農夫,あるいは農耕にかかわるイメージが頻出する。たとえ ばエイハブがモービィ・ディックに片脚を喰い千切られた様子は,語り手イ シュメイルによって,牧草地で草を刈り取る直喩をつうじてかたられる。 “And then it was, that suddenly sweeping his sickle-shaped lower jaw beneath him, Moby Dick had reaped away Ahab’s leg, as a mower a blade of grass in the field”(156). ここは去勢の文脈で読まれることが多 いところであり,そしてそれは,たしかにそのとおりなのだが,ここではひ とまず,農耕のイメージが援用されるところを気にしたい。ちなみに“Moby Dick”という固有名詞にも,“mow”という,刈り取る行為を意味する動詞 の音が包含されている。

草刈り場面はほかにもいくつか現れる。“As morning mowers, who side by side slowly and seethingly advance their scythes through the long wet grass of marshy meads ; even so these monsters swam, making a strange, grassy, cutting sound ; and leaving behind them endless swaths of blue upon the yellow sea”(223). 名もなきセミクジラたちが, 海上にて,オキアミの群れを餌に食するところである。ここにおいても朝の 牧草地における草刈りの光景が登場する。モービィ・ディックもセミクジラ も,イシュメイルの語り方に拠れば,草刈り農夫のような営みをしているの だ。そしてそれらには,鎌を手にした死神という,土俗の伝説的造形も,ど こかしら見え隠れしていよう。そうして牧歌的な牧草地に殺戮の連想がかさ ねられるなかで,読み手の聴覚と視覚を動員しつつ,鯨の怖ろしさ,捕鯨の 怖ろしさが,陰画のごとく浮かびあがってくるのである。 ピークォド号がナンタケットから出帆する前であっても,決して牧歌的と はいえないような,港町ニューベッドフォードにて,やはり農耕が姿をみせ る。

The opposite wall of this entry was hung all over with a heathenish array of monstrous clubs and spears. Some were thickly set with glittering teeth resembling ivory saws ; others were tufted with

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knots of human hair ; and one was sickle-shaped, with a vast han-dle, sweeping round like the segment made in the new-mown grass by a long-armed mower. You shuddered as you gazed, and won-dered what monstrous cannibal and savage could ever have gone a death-harvesting with such a hacking, horrifying implement.(27)

第 3 章“Spouter-Inn”において,イシュメイルが抽象画のごとき捕鯨の 油絵に当惑したのち,反対側の壁をみた際の反応である。ここにおいてイシ ュメイルが,宿屋におかれている怪しげな棍棒や槍に困惑する。この道具が いったいなんのためのものなのか,イシュメイルにもわかっておらず,した がって,実のところ読み手にとってもよくわからない。この引用の直後に錆 びた槍と銛が出てくるところから判断するに,どうやら実際に使用されてい るものではなく,宿屋の装飾のようなのだが,それらが捕鯨でもちいられる 道具なのか,あるいは異教徒たちの狩猟具なのか,いずれにせよなんらかの 武器か道具の一種のようなのだが,やはり漠然としていてよくわからない。 しかしながら,このエキゾチックな道具を描写する際に,鎌という農耕器具 と,草の刈り跡の比喩がもちいられていることはたしかであり,そうして旅 人イシュメイルの行く末に,不吉と不気味があたえられることとなる。 次の引用は,イシュメイルが「こころの友」クイークェグとともにナンタ ケットに向かう途中,自前の銛を持ち歩くクイークェグに,その理由を尋ね る場面である。

I asked him why he carried such a troublesome thing with him ashore, and whether all whaling ships did not find their own har-poons. To this, in substance, he replied, that though what I hinted was true enough, yet he had a particular affection for his own har-poon, because it was of assured stuff, well tried in many a mortal combat, and deeply intimate with the hearts of whales. In short, like many inland reapers and mowers, who go into the farmers’

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meadows armed with their own scythes−though in no wise obliged to furnish them−even so, Queequeg, for his own private reasons, preferred his own harpoon.(61)

クイークェグはその問いにたいして,イシュメイルがかたりなおすかたち になっているのだが,農夫が自分の鎌をつねに持ち歩くことと同じである, とかえす。牧草地において草を刈る際に農夫のもちいる鎌が,『白鯨』にお いては,イシュメイルのかたりをつうじて,鯨を狩る銛にも,連想的につな がっている。このような小説前半部におけるイシュメイルの描写によって, 鯨と捕鯨のおぞましさ,怖ろしさが,きらりと光る鎌の刃先に照らされて, 浮かびあがる仕組みになっている。

2:林

『白鯨』の最終盤,3 日間にわたるモービィ・ディックとの死闘がはじま る直前に,“Symphony”と題された章が挿入される。この第 132 章は, 『白鯨』のなかでももっとも美しい章のひとつであるが,ここにおいてエイ ハブは,穏やかな風と穏やかな空に感化されて,スターバックを前に,みず からの 40 年間という捕鯨生活をふりかえる。そのときエイハブは,髪が目 にかかって前がみえないのだ,そのようなことを口にする(406)。それは おそらく瞳に涙をたたえているためなのだが,そうしたエイハブのなかに, 人間性の最後の断片をみてとったスターバックが,今日のような美しい日和 はナンタケットにもありましょう,そのようにエイハブにかたりかけ,モー ビィ・ディックの追跡をあきらめ引き返すよう促さんとする。だが,スター バックの訴えにたいし,エイハブは言下に否定するわけではなく,罵倒する こともなく,ただ,視線を逸らす。

“Tis my Mary, my Mary herself! She promised that my boy, every morning, should be carried to the hill to catch the first

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glimpse of his father’s sail! Yes, yes! no more! it is done! we head for Nantucket! Come, my Captain, study out the course, and let us away! See, see! the boy’s face from the window! the boy’s hand on the hill!”

But Ahab’s glance was averted ; like a blighted fruit tree he

shook, and cast his last, cindered apple to the soil .(406 ; italics mine) スターバックから視線を逸らしたのち,「枯れてしまった果実の木」のよ うに,エイハブは震え,「灰と化した最後の林檎の実を地面に落とした」の だという。ナンタケットに引き返すことはならぬのだ,そうした絶望に駆ら れたエイハブの流す涙が,林檎の隠喩をつうじて描きだされる。「灰と化し た林檎」という句には,ロングマン版の註釈に拠れば,手で触れるとたちま ち煙が出て,灰になるという,「ソドムの林檎」が含意されているのだとい う(Bryant 567)。だとすれば,「枯れてしまった果実の木」には,傲慢と 堕落のために,神が天から硫黄の火を降らせて焼き尽くした,ソドムの町の 廃墟もかさねられていることになろう。ロングマン版は,このような創世記 の風景にくわえて,John Milton の Paradise Lost も典拠である可能性を 指摘する(567)。たしかにエイハブが,傲慢の罪のために神に焼き尽くさ れたソドムの町や,堕天使ルシファーにかさねられるところは,意味内容的 にいっても,そして燃えた枯れ木の様子と,皺だらけの顔面をしたエイハブ という,視覚的なところに鑑みても,読み手が充分首肯しうるものであろ う。だが,灰になった林檎のような涙,という風景には,たんにそのように 日本語に置換したところで,どうにもしっくりこないところがある。どのよ うな涙が,どのように流れるのかが,視覚的にも意味内容的にもよくわから ないのだ。 ソドムの林檎とは,外観は美しくとも,触れると煙を出して灰になるとい う特性から,人をあざむき失望させる象徴性を有したものである。だが,エ イハブの涙たる林檎は,みるものをその美しき外見でだまし,失望させるよ 210 橋 本 安 央

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うなものではない。たとえば同じ第 132 章の冒頭において,エイハブの目 は,焼け跡の灰のなかで,なおも燃えつづける石炭に喩えられる。“Tied up and twisted ; gnarled and knotted with wrinkles ; haggardly firm and unyielding ; his eyes glowing like coals, that still glow in the ashes of ruin ; untottering Ahab stood forth in the clearness of the morn ; lifting his splintered helmet of a brow to the fair girl’s forehead of heaven” (404−05). 執念深く燃えつづける石炭のごとき姿は,眼球の奥からじわじわ と赤黒く燃える充血のさまを暗示しようが,そのようなところを念頭におけ ば,「灰と化した林檎」には,その充血ですらようやく燃え尽きた,そうし た灰色の眼球のイメージもかさねられているのだろう。 だからこそ,灰になった林檎のような涙,とは,このように読むべきもの ではなかろうか。先に触れたように,スターバックとの対話中,おそらくエ イハブは涙をたたえつつ,瞳を真っ赤に腫らしている。したがって,その涙 がソドムの林檎のごとく,煙を出して,灰になった,ということは,本当は ここで堪えきれなくなって流れるはずだった,林檎のような大粒の涙が,お のれの涙によって眼球の赤黒き石炭を燃やし尽くすとともに,蒸発して,そ うして多少は散ったのかもしれぬが,実際にはほとんど流れることがなかっ たさまを示唆するものなのだ,と。そのような意味で,みるものをあざむく 涙であったのだ,涙の不在であったのだ,と。あるいは涙が執念深く燃えつ づける石炭を灰にして,おのれの代わりにそれをはらりと散らすのみであっ たのだ,と。傲慢のあまりに神によって焼かれたエイハブは,怒りのあまり にみずからを石炭のごとく燃やしつつ,最終的にはみずからの涙によって燃 え尽きてしまう。故郷に戻ることはならないという絶望が,そうして涙を涸 らせてしまう。そうした意味内容を伝えんとする隠喩なのではなかろうか。 流れるはずであった大粒の涙の痕跡をつうじて,泣くことすら諦めた,ある いはみずからの憎しみという充血によって諦めさせられたエイハブの姿が, このセンテンスから浮き彫りになってくるのだ。エイハブは,泣きたくても もう泣けないのだ。涙からも疎外されてしまうのだ。 エイハブの涙 211

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3:ア ン デ ス

そうして涙が涸れた直後から,スターバックとの対話は崩壊して,エイハ ブは譫妄状態にはいる。先に引用した「灰と化した最後の林檎」の描写の直 後を,つづけて引く。

“What is it, what nameless, inscrutable, unearthly thing is it ; what cozening, hidden lord and master, and cruel, remorseless em-peror commands me ; that against all natural lovings and longings, I so keep pushing, and crowding, and jamming myself on all the time ; recklessly making me ready to do what in my own proper, natural heart, I durst not so much as dare? Is Ahab, Ahab? Is it I, God, or who, that lifts this arm? . . . But it is a mild, mild wind, and a mild looking sky ; and the air smells now, as if it blew from a far-away meadow ; they have been making hay somewhere under the slopes of the Andes, Starbuck, and the mowers are sleeping among the new-mown hay. Sleeping? Aye, toil we how we may, we all sleep at last on the field. Sleep? Aye, and rust amid greenness ; as last year’s scythes flung down, and left in the half-cut swarths− Starbuck!”(406−07) 引用冒頭において,神だかなんだか,得体のしれないなにものかが,おの れをふりまわす,そのようにエイハブが叫ぶのだが,そのあとの箇所が,わ たしにはひっかかる。興奮したエイハブが,「それにしてもなんとも穏やか な風,なんとも穏やかな空だ」といい,一瞬冷静になる。だが,その後の科 白が,どうにも連想的にずれてゆくのだ。おそらくスターバックはこのあた りで,完全に自分の世界にはいりこんでしまったエイハブの様子に絶望し, 姿を消しているようなのだが,エイハブがそれに気づくこともない。それほ 212 橋 本 安 央

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どまでに,我が内面世界に没入しているのだといってもよい。 引用後半部において,穏やかな風に吹かれ,穏やかな空を感じているエイ ハブは,想像上の嗅覚と視覚を動員して,その風がアンデス山脈のどこかの 山麓から吹いてきているようだといい,その匂いを嗅ぎとる。だが,直前に おけるスターバックとの対話における話題は,二人の故郷ナンタケットをめ ぐるものである。にもかかわらず,どうしてエイハブは北アメリカの牧草地 ではなく,南アメリカのアンデス山脈を,連想的につなげるのか。そこがど うにも奇妙なのだ。この箇所については,Harold Beaver を除けば,『白 鯨』の註釈者も日本語翻訳者もとりわけ注目していないようである。Beaver はこの箇所について,牧歌的な夢と地獄の苦しみというものは,根本的には 同じものだとのコメントを付しているが(952),たしかに作品のほかの箇 所における牧草地の不気味な鎌の姿をふまえれば,ある程度は説得力をもつ 註釈であろう。だがそれは,なぜにアンデスが牧草地として連想されるの か,という問いにこたえてくれるものではない。そもそもアンデスとは,南 アメリカ大陸の西に沿ってつらなる,南北 7500 キロにもわたる山脈であ る。エイハブはいったいどのあたりのアンデス山脈を念頭においているの か,という疑問も,付随的にわいてくる。ピークォド号の航跡が,アンデス 山脈のみえる海域を辿っているわけでもない。 『白鯨』のなかで,エイハブにかかわる文脈でアンデス山脈が言及される のは,この場面にくわえてほかに二箇所ある。ひとつは第 99 章,ダブルー ン金貨の挿話においてである。

It so chanced that the doubloon of the Pequod was a most wealthy example of these things. On its round border it bore the letters, REPUBLICA DEL ECUADOR : QUITO. So this bright coin came from a country planted in the middle of the world, and be-neath the great equator, and named after it ; and it had been cast midway up the Andes, in the unwaning clime that knows no autumn. Zoned by those letters you saw the likeness of three Andes’

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summits ; from one a flame ; a tower on another ; on the third a crowing cock ; while arching over all was a segment of the parti-tioned zodiac, the signs all marked with their usual cabalistics, and the keystone sun entering the equinoctial point at Libra.

Before this equatorial coin, Ahab, not unobserved by others, was now pausing.

“There’s something ever egotistical in mountain-tops and tow-ers, and all other grand and lofty things ; look here,−three peaks as proud as Lucifer. The firm tower, that is Ahab ; the volcano, that is Ahab ; the courageous, the undaunted, and victorious fowl, that, too, is Ahab ; all are Ahab ; and this round gold is but the im-age of the rounder globe, which, like a magician’s glass, to each and every man in turn but mirrors back his own mysterious self. . . .” (332) この輝く金貨は,世界の中央,赤道直下に建設され,赤道にちなんで命名 された国家の,アンデス山脈中腹にある首都に由来するのだという。エクア ドルのキトのことである。エイハブが,その金貨を前に仁王立ちし,アンデ スの三つの峰は堕天使ルシファーのごとく傲慢だと難癖をつける。その後そ れぞれの峰におのれ自身を投射して,なにもかもがエイハブだ,そうひとり ごつ場面である。さらに第 119 章においても,雷に襲われるピークォド号 船上にて,対応に追われるスターバックを前に,エイハブがアンデス山脈に 言及する。世界全体が救われるならば,ヒマラヤにでもアンデスにでも避雷 針をたててもよいが,自分たちだけが助かるためならばそんなことはせんで よい,そのようにエイハブが怒鳴るのだが(381),ここにおけるアンデス は,世界をまもる避雷針をたてるべき,高山地帯の一例として言及されてい るのみであろう。だが,ダブルーン金貨のエピソードは,エイハブの自己投 射という点で,たやすく見逃すわけにはいかぬ。 先に触れたように,語り手イシュメイルは第 132 章にて,傲慢の罪を犯 214 橋 本 安 央

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して焼き払われたソドムのイメージを含意する,燃えかすのような林檎の涙 に,エイハブの心象風景をかさねている。そのエイハブが,第 99 章にて, アンデスの山を刻んだダブルーン金貨に,ルシファーのごとき傲慢をみいだ している。傲慢なるアンデスにある牧草地を,涙を涸らした傲慢なるエイハ ブが,連想,妄想しているのだ。だからこそ,第 132 章での妄想における アンデス山脈も,エクアドルのキト周辺が念頭におかれている可能性が高い のではなかろうか。ダブルーン金貨にたいしてと同じように,エイハブがこ の牧草地の風景にも,おのれを映しだしているのではないか。すくなくと も,読み手がそのように妄想することは,充分可能なのではなかろうか。

4:錆 び た 鉄

アンデスを夢想するエイハブの科白を,第 132 章からふたたび引く。

“. . . they have been making hay somewhere under the slopes of the Andes, Starbuck, and the mowers are sleeping among the new-mown hay. Sleeping? Aye, toil we how we may, we all sleep at last on the field. Sleep? Aye, and rust amid greenness ; as last year’s scythes flung down, and left in the half-cut swarths−Starbuck!” (407) 一人でしゃべり,一人でつっこむという,日本のどこかのお笑い文化にあ りがちな,独白的対話である。「人はどんなに必死に働いても,最後は野辺 で眠るのだな」とは,眠るは眠るでも,永遠に眠る,という意味であるが, エイハブはそこからさらなる連想をつづけ,一年前の鎌が農夫たちに忘れ去 られ,緑のなかで錆びゆく心象風景に流れてゆく。文法的にいうならば,自 動詞“rust”の主語は“we”であり,つまり人間はみな錆びゆくものだ, という意味内容の一文になろう。直前にある「最後は野辺で眠る」という一 文についても,誰しも自分の仕事を最後まで完遂することなく,やり残しが エイハブの涙 215

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ある状態で人生を終えるものである,という読み方が,一般論的には正しい のだろう。だが,やるべき仕事をやり残すのは,鋼の意志の持ち主であるエ イハブが,みずからに赦すはずのない営みである。すくなくとも,それを赦 せないからこそ,モービィ・ディックを追跡するのだ。そのようなエイハブ が,人間の死,から連想して,一年前の錆びた鎌に想いを馳せる。この不自 然な連想のなかに,ダブルーン金貨にたいするものと同じような,エイハブ の唯我論的自己投射をみてとるべきなのだ。エイハブは,人間一般の有限の 生から連想して,牧歌的風景において,そこから疎外されている自分自身の 死のイメージを,緑のなかで錆びゆく鎌にかさねるのだ。この牧草地の風景 は,鎌がでてくるほかの箇所とは異なって,鎌で草を刈り取るときの,ガサ ッ,バサッといった怖ろしい聴覚的効果も,視覚的効果も,まったく窺われ ることがない。農夫が干し草を積みあげて,そうして休憩しているという, きわめてのどかなものである。その風景の片隅に,死から連想されるものと して,エイハブが一年前の錆びた鎌をみいだしている。草葉の陰という言葉 はあるが,一般論的な死をかたるために,この風景のなかに一年前の鉄の鎌 がおかれる必然性は,さしてないはずなのである。この唐突さの由来とし て,そこにエイハブの自己投射をみる以外,わたしには考えうるものがな い。 エイハブはたしかに鉄の人なのだ。とりわけ太平洋に突入したのち,第 113 章以降になると,エイハブは鉄と化してゆく。鍛冶屋パースにモービィ・デ ィックへの復讐だけのための銛をつくらせて,そこに黒魔術的な洗礼を施し たのち,エイハブは鉄の人,復讐の鬼になってゆく。第 130 章から二箇所 引く。

. . . As the unsetting polar star, which through the livelong, arctic, six months’ night sustains its piercing, steady, central gaze ; so Ahab’s purpose now fixedly gleamed down upon the constant mid-night of the gloomy crew. It domineered above them so, that all their bodings, doubts, misgivings, fears, were fain to hide beneath

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their souls, and not sprout forth a single spear or leaf.

In this foreshadowing interval too, all humor, forced or natural, vanished. Stubb no more strove to raise a smile ; Starbuck no more strove to check one. Alike, joy and sorrow, hope and fear, seemed ground to finest dust, and powdered, for the time, in the clamped mortar of Ahab’s iron soul. Like machines, they dumbly moved about the deck, ever conscious that the old man’s despot eye was on them.(400−01 ; italics mine)

At the first faintest glimmering of the dawn, his[Ahab’s]iron voice was heard from aft−“Man the mast-heads!”−and all through the day, till after sunset and after twilight, the same voice every hour, at the striking of the helmsman’s bell, was heard−“What d’ye see? −sharp! sharp!”(402 ; italics mine)

物語はこの章から,クライマックスのはじまりのはじまりを迎えることに なるのだが,ここにおいてエイハブの魂と声に,「鉄」の属性が付与され る。ちなみに『白鯨』のなかで,“iron”が名詞として単独でもちいられる 際,それはほとんどの場合,鯨捕りの銛を指しているのだが,この銛からし て,冒頭にて指摘したように,比喩の次元で農夫たちの鎌にかさねられるも のであった。さらに鉄とエイハブという関係でいうならば,モービィ・ディ ックをめざすおのれの航跡を,エイハブ自身が目的地に向かって爆走する鉄 道のレールに喩えもする(143)。鉄を媒介として,鎌,銛,鉄道といった ものが,エイハブの属性を構成している。 だとすれば,一年前の鉄の鎌が錆びていて,そこに自分の死をかさねると いうのは,一体どういうことなのだろうか。鎌は鉄でできているために,一 年という時間の経過のなかで,牧草地におきざりにされると,錆びてゆく。 だが,これが錆びないものであれば,たとえば鎌で刈り取られた草葉である のならば,一年経てば,それらは土のなかに朽ちてゆく。そうして土は,一 エイハブの涙 217

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年のサイクルを経て,新たなる生命である新たなる緑をはぐくむ。エイハブ の妄想のなかで,アンデスの風景において営まれている牧畜とは,Beaver の指摘とは裏腹に,このような再生サイクルに基づいて営まれるものなの だ。干し草を刈り取ったあとで,一年後に新たな草が生えてこなければ,家 畜たちは冬を越すことができず,したがって,牧畜という農耕は成立しな い。錆びた鉄の鎌たるエイハブは,そうした農耕的な緑の再生サイクルから 逸脱しているのである。農夫たちにも気づかれず,孤独に錆びゆく鉄の鎌に は,きらりと光る刃先の鋭さも消失している。そこに燃えかすとともに消え 散った,「灰の涙」とむすびつく属性も窺われよう。そのようなエイハブの 死の在りようが,アンデスの鎌の風景に,自己投射されているのだ。第 99 章と第 132 章が,エイハブの意識,無意識のなかで連結しているとするな らば,エイハブは流れながれた連想の果てに,一年のサイクルのなかでは決 して土に還れない錆びた鉄に,自身の疎外された死の在りようを投射してい る。そういってもよいだろう。したがって,妄想のなかで“rust”する主体 は,人間一般ではなく,実質上,エイハブという一人称単数のことなのだ。 そ の よ う に 読 め ば , 錆 び た 鎌 が 放 置 さ れ る 場 で あ る “ the half-cut swarths”にも,決して完遂されることのない,エイハブによるモービィ・ ディックにたいする復讐の予兆が,そして半分だけ刈り取られたエイハブの 下半身とかさなるものが窺えよう。そしてまた,第 130 章から引いたひと つ め に あ る “ It domineered above them so, that all their bodings, doubts, misgivings, fears, were fain to hide beneath their souls, and not sprout forth a single spear or leaf”という一文において,エイハブの鉄の 魂に圧倒されたほかの乗り組みたちが,自分たちが抱く不吉な予感や不安, 恐怖を抑圧せざるをえなかったとかたられるが,その様子は芽も葉も生えな い,緑の再生サイクルの停止状態という隠喩をつうじて綴られる(400)。 灰と化した林檎の風景にせよ,焼かれて枯れた果実の木には,実がなること もない不毛性,比喩的にいえば不毛の男根的要素が示唆されているのであ り,だからこそ,エイハブがその瞳から灰となった林檎の果実を落とす先は “soil”なのであって(406),たとえばそれが“ground”であったりする 218 橋 本 安 央

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と,ずいぶん意味内容が異なってこよう。傲慢ゆえに神に焼き払われたエイ ハブは,一年の月日が流れても実をむすぶことがない枯れた果実の木とし て,ここにおいて描かれている。だからこそ,エイハブが流す涙は,乾いた 涙,涸れた涙なのだ。土の上に散ったところで,灰でしかなく,水として, 生命を育むこともない涙なのだ。 イシュメイルがしばしば喚起する,おどろおどろしい鎌のイメージは,鯨 と捕鯨の怖ろしさを照らしつつ,第 132 章にいたり,狂気の船長の不毛の 生,人類からも自然の再生サイクルからも疎外された死の在りようを浮き彫 りにする。土葬にせよ火葬にせよ,人類は有史以来,とりわけ農耕文化にお いて,ほとんどの場合,死者を土に埋葬してきた。それを農耕の営みにかさ ねれば,埋葬の儀礼にはどこかしら,死者の再生を願う営みが絡んでいたの ではないだろうか。我々が墓石に水をかけるという営みも,再生を祈る農耕 の感覚と,どこかでつながっているのではないか。鉄で墓をつくる文化があ るのかどうかは,寡聞にしてしらないが,想像しても,どうにも気持ちが落 ち着かない。 一年のサイクルのなかで錆びゆく鉄の鎌に,エイハブが自身を投射してい るとするならば,不吉な予兆にさまざまに抗いながらも,おのれが陸の緑と 人間から疎外されたかたちで死することを,エイハブ自身が予感しているこ とになる。だからこそ,海の上で滅びようとするのだ。それが涙の涸れる理 由なのだ。モービィ・ディックと直接対決をする前から,エイハブはすでに 死を覚悟していたということだ。あるいは破滅するために,すなわち不毛の サイクルをみずから断ち切るために,対決するということだ。 かくて鎌と林檎とアンデスが,焼かれて枯れて,涙も涸れて,緑と人類か ら疎外されたエイハブの,その絶望の存りようを伝えているといってよい。 ※本稿は,日本アメリカ文学会関西支部例会シンポジウム「『白鯨』−精読の冒険」(2009 年 9 月 12 日,於・相愛大学)において読んだ原稿に,加筆修正を施したものです。 エイハブの涙 219

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Works Cited

Beaver, Harold, ed. Moby-Dick ; Or, the Whale. By Herman Melville. Harmonds-worth : Penguin, 1986.

Bryant, John and Haskell Springer, eds. Moby-Dick ; Or, the Whale. By Herman Melville. Longman Critical Edition. New York : Pearson Longman, 2007. Melville, Herman. Moby-Dick ; Or, the Whale. 1851. Ed. Hershel Parker and

Harrison Hayford. Norton Critical Edition, 2nd ed. New York : Norton, 2002.

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