著者
坂 英世
雑誌名
論集
巻
43
発行年
2016-12-31
(259)
パ
ー
リ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica-1
0. はじめに坂
英 但
パーリ語の男性名詞papaiica-, そのサンスクリット形prapaiica—は仏典に おける術語の一つであり, 漢訳語「戯論」を通じても知られている。 パーリ文 献においては古層韻文経典以来用例が確認され2' ジャイナ教文献においても同 じく古層の韻文に用例が見られる3。 この語の本来的語義が何かについては,語 源が定かでないこともあり, 学者間で見解が分かれている。 既に桜部1991: 17 -18において,papaiica—に関する以下の問題点が挙げられている。 1)大乗仏典・論書のprapaiica—の語義とニカーヤのpapaiica—の語義が結び つくか。 2)古典サンスクリットにおけるprapaiica—の語義とどのように関連するか。 3)註釈文献ではpapaiica—は三煩悩であるとされるが, ニカーヤのすべての 用例にそれが当てはまるか。 4)註釈の説明はpapaiica—の原義からどのように導き出されたのか。 桜部自身は2)以下については問題提起のみで, さらに具体的な言及はしてい ない。 本稿はこれら未検討の問題について多少の検討を試みるものである。 パーリ文献におけるこれまでの研究では, 主に教理的な術語としての papaiica—が検討されてきたが,術語以外の日常的用法は対象とされてこなかっ た。 本来的語義が定かでない以上, 教理的文脈における理解を補うためにも, 日常的用法の観点から点検する意味はあるだろう。 本稿はこのような観点に立 1 本稿でのパーリ文献の略号, 引用の書式はCPD, Epilegomenaに従い, ヴェーダ文 献および一部の二次文献の略号は印度学仏教学会「ヴェーダ文献学関係略語および書誌一覧」に従う。 パーリ文献のテキストはEe (Pali Text Society版)を底本とし て適宜Be, Seを参照し, 底本の読みを訂正した場合のみ註記した。
2 例えばSn 8 7 4; 916 papafica-sarrikha-. いずれも古註Niddesaが存する点で古層と看倣 し得るAtthakavaggaに属する。
3 Ayaratiga (Ed. ScHUBRING) 16, 22 logaloga-pavafica-; SUyagac;langa (Ed. VAIDYA) I 7, 30
pavafica-; Isibhasiyaiqi (Ed. ScHUBRING) 31, 22�iruddha-pavanca-.
-64-ち, まずパーリ註釈文献りこ見られる日常的用法を整理し, その上で教理的理解, 他の文献における用法, 本来的語義について検討を加えたい。 1. 日常的用法としてのpapaiica-1. 日常的用法としてのpapaiica-1. 日常的用法の定義 12世紀のアッガヴァンサ(Aggava:qisa)による文法書Saddaniti (Sadd)には, papaiica—に対する次のような説明が見られる。
(a) Sadd 528, 26- pacf vitthare.
…
ettha papaiicii ti ta,:ihii-miina-ditfhiyo. eta hi attanissitanaffi sattanaffi saf!1siiraf!1 papaiicenti vitthi,:i,:taffl karontf ti papaiica ti vuccanti. atha vii papaiicenti, yattha sayaf[l uppannii taf[l santiinaffi vittharenti ciraffi fhapentf ti papaiicii.lokiya pana'切mhakaffl tumhehi saddhiffl kathentanaffl papaiico hotf" ti adfni vadanta kalassa cirabhavaffi "papaiico "ti vadanti.
paficは「延長ドを意味する。 …ここで, 諸々のパパンチャというのは, 渇 望・慢心・謬見〔のこと〕である。 というのも, これら(渇望 ・ 慢心・謬 見)は自らが依拠している諸存在の輪廻をパパンチャする, 〔つまり〕引 き延ばされたものとなすというので, パパンチャと呼ばれる。 またあるい は「パパンチャする」とは, 〔渇望・ 慢心・謬見が〕そこに自ずと起こっ ているところの, 〔諸存在の〕相続を引き延ばす, 長く存続させるという ので, パパンチャである。 【一方, 世間の人々は「君たちと話していると,私たちには時間の無駄だ」 などと言っており, 時間が長いことを「パパンチャ」と言うのである】 4 本稿では便宜上Visuddhimaggaを含むAtthakatha文献(cf. 森祖道『パーリ仏教註 釈文献の研究ーアッタカターの上座部的様相一』山喜房仏書林, 1984: 4-6), 及び ダンマパーラによる四部復註をパーリ註釈文献と称する。 5 動詞語根に付くAnubandha Iは, 語根の母音の後にnが挿入されることを示す(cf. Pal_l.ini VII 1, 58) 6 文法学では既にDhatu-pathaにおいてこの語根を建て,vistara—の語を用いて語義が
説明されている。Cf.Dhatu-patha (Ed. LIEBICH) X 109 pac/ vistaravacane「詳細に述べ
る, 敷術する」。 しかしここでは以後のpapafica—の説明にあるように, 特に「時間
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapafica- (261) このように教理的説明の後,世間の人々の用法を記している。「時間が長いこと」 と述べられるが,ニュアンスとしては 「時間の無駄」が適する。この種の用法 は実際に註釈文献以降確認できる。そこで本稿では,註釈文献において教理的 な術語として,また註釈対象として現れる場合を除き,地の文における著者た ち自身のことばや,セリフにおいて登場人物が語ることばとして現れる papaiica—を「日常的用法」と看倣すこととする。また関連語として,複合語
ati-(p)papaiica-, 派生動詞papaiice-lpapaiicayaーが及びそ の言い換えpapaiicaf!l karo-tiも検討に含める。 1. 2. 使用傾向 以下の表1に日常的用法に該当するpapanca—及び関連語の出現回数を示し た。便宜上四部註,ジャータカ散文を除く小部註,四部復註はそれぞれ一括り 表1 papaiica1J1
karont-塁,
�-a�ThI'.a, A�-a, �v-a, �pa7 この動詞形はニカーヤ以来用いられる。 (a) に見たように,文法学の伝統では動詞
語根paneに基づくものとされているが,一般的にはp(r)apanca—のdenom. と考え
とし, 名詞・定動詞形・派生語形毎に記したものである。 なお並行箇所は個 別に数え, 用例が見つからない文献は省略している。 上記は総計155例となる。 対象文献はブッダゴーサ (Buddhaghosa) をはじめ 複数の著者によるものであるが, 特に偏りなく分布しており, 5世紀初頭ブッ ダゴーサの時代には用法が定着していたと見られる。 papaiicaJ?1 karo-ti類は註 釈文献以降現れる新しい表現であるが, 意味上papaiice-tiと差はなく, 任意に 用いられている。 ジャータカ散文ではpapaiicaJ?1 karo-tiに基づく表現が生産的 であるが, これはpapaiicaJ?1 karo-tiがより口語的な表現であることを示すと思 われる。 1. 3. 日常的用法の用例 以下に日常的用法のpapaiica—及び関連語の用例を挙げ, どのような文脈で 用いられるかを確認する。 ここではpapaiicaーに対し可能と思われる訳語を記 した90 1. 3. 1. 名詞形の用法 修行を優先する比丘たちが, 既に修行を終えた上座の介入を拒む場面:
(b) Th-a II 113, 9- atha nesa1J1 mahiithero upanissayasampanno tadah'eva cha{abhiiiiio hutvii Uttarakuruto pi1J,{japiita1J1 upanesi. itare "tumhe10 bhante
katakiccii, tumhehi saddhif!l salliipamattam pi papaiico, sama1J,adhammam eva maya1J1 karissiima, tumhe attanii dit{hadhammasukhavihiiram anuyuiijathii"ti
8 韻文に用例は確認されず, すべて散文部分に属する。
9 日常的用法を射程に入れた訳語として, PED には papaiica—の項に「邪魔な物
obstacle, 障害impediment, 遅延をもたらす負荷 a burden which causes delay, 支障 hindrance, 遅延 delay; 散漫 diffuseness, 賂しさ copiousness」, papaiice-ti に 沸多しく
なる to be profuse, 口数が多い to talk much, 手間取る to delay」, papaiicaf(l karo-ti に「手間取る to delay, ぐずぐずする to tarry」が挙げられる。 また PGl には「多量(過
多) abundance, 散漫 diffuseness, 錯誤error, 空虚vanity」とされた上で, しばし ば許容される訳語として「損失 detriment, 堕落 decay, 遅延 delay, 時間の無駄
waste of time」 が挙げられる。
10 いわゆる majestic plural の二人称における用法として, 威厳ある人物に対し単数形
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (263)
vatvti piftefaptita,ri pafikkhipi,risu.
このとき この者たちの中の大上座は素質を備えていたので, 同じその日 に六神通を持つ者となり, ウッタラクルから托鉢食を持ってきた。 彼以外 の者たちは「あなた様あなたは為すべきことを果たされました〔が,我々 はまだです〕。 あなたとの会話だけでも, 〔我々には〕余計なのです。 我々 は沙門の本分のみをなしたいのです。 あなたはあなたで, 現世において安 らかに過ごすことに専念してください」と言って, 托鉢食を拒んだ。 孤独を重んじる仏弟子コンダンニャ(Kol).�afifia)が, 人との交わりを避ける ために人里を離れる場面:
(c) Th-a III 3, 3- so dvzhi aggasiivakehi attani kay iramiinam paramanipacciikiiral!l giimantaseniisane aki,:z,:zaviharafi ca pariharitukiimo, v ivekiibhiratiyii v iharagarutaya ca attano santikal!l upagatiinal!l gahaf{hapabbajitanal!l pafisanthiirakara,:zam pi papafical!l mafifiamiino satthu iirocetvii Chaddantehi upaf{hiyamiino Chaddantadahatfre dviidasa vassiini vasi. 彼(コンダンニャ) は第一座の弟子2人により為されている自身に対する 最上の〔五体〕投地の有様と, 村の端の臥坐所で〔 人に〕 まみれて過ごす ことを避けたく思い, 孤独に喜びを見出すことと, 過ごし方が重要である ことから, 自身のもとに寄って来ていた在家と出家の者たちの, 歓迎の行 いすら支障だと考えて, 師に伝えてから, 〔ヒマラヤに入って〕チャッダ ンタ(六牙象)たちに侍られつつ,チャッダンタ湖の岸辺に十二年間住んだ。 サッカ(Sakka, インドラ)が盲目の上座に近づき, 同行を提案するが遠慮さ れる場面:
(d) Dhp-a I 14,10- upagantva ca pana therassavidure padasaddam akasi. atha naytl thero pucchi "ko eso "ti.'hhaf!l bhante addhiko "ti. "kuhiytl yasi upasaka "ti. "Savatthiyaf!l, bhante"ti. "yahi avuso"ti.'hyyo pana bhante kuhif!l gamissatf"ti.'hham pi tattli eva gamissamf"ti. "tena hi ekato va gacchama, 11 = Ap-a 299, 17-。
bhante"ti.'hharµavuso dubbalo maya saddhirµgacchantassa tava papanco bhavissatf"ti. さらに〔サッカが〕 近寄ると, 上座の近くで足音がした。 そこで, 上座は 当人に 「こちらにいるのは誰か」 と尋ねた。「あなた様, 私は旅の者です」。 「どこへ行くのか,優婆塞よ」。「サーヴァッティーにです,あなた様」。「〔先 に〕 行きなさい, 友よ」。「ですがあなた様あなたはどちらに行かれるの ですか」。「私も同じその場所に行くつもりだ」。「そういうことでしたら, ぜひ一緒に行きましょう, あなた様」。「友よ, 私は病んでいる。 私と共に 行くなら, 君には邪麿になろう」。 獲得までの労カ・時間と, 得られるものとの関係の比喩:
(e) Ps IV 86, 20- yatha hi puriso "ve,:,,uyatfhiY[l ga,:,,hissii,mf"ti mahajafaYfl ve,:,,uY[l disva "jafaY[l chindantassa papaiico bhavissatf"ti antarena hatthaY[l pavesetva sampattam eva yatfhiY[l mule ca agge ca chinditva adaya pakkameyya, so kin capi paf hamataraY[l gacchati, yatfhiY[l pana saraYJ'l va ujuY[l va na labhati. aparo ca tatharapam eva ve,:,,uY[l disva''sace sampattaY[l yatfhiY[l ga,:,,hissami, saraY[l va ujuY[l va na labhissii,mf"ti kacchaY[l bandhitva mahantena satthena ve,:,,ujafaYfl chinditva sara ceva uja ca yatfhiyo uccinitva adaya pakkameyya. ayaY[l kin capi paccha gacchati, yatfhiyo pana sara c'eva uja ca labhati. 例えば, 人が「竹竿を手に入れよう」 と〔思って竹藪に行き〕, 竹に大き なからまりがあるのを見て,「からまりを切っていては手間取ることにな るだろう」 と〔思い〕, 隙間に手を入れて, ちょうど手が届いた竿を根元 と先端で切って, 持って帰るとする。 彼は何にでも真っ先に行き当たるが, 硬い竿とか真っ直ぐな竿とかを獲得しない。 しかし別の者が同じそのよう な竹を見て, 「もし手が届いた竿をつかみ取るなら, 硬いものとか真っ直 ぐなものとかを獲得しないだろう」 と〔思い〕, 藪を縛ってから大きな鈍 で竹のからまりを切り, 硬くて真っ直ぐな諸々の竿を選んだ上で, 持って 帰るとする。 こちらの者は何にでも後から(遅れて)行き当たるが, 諸々 の硬くて真っ直ぐな竿を獲得するのである。
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapafica- (265)
ことばの意味内容について:
(f) Ps I 63, 18- ayam ettha siiro12. ke ci pan'iicariyii bahu papaiice bha,:,,anti.
te imasmif!l atthe na yujjanti.
ここではこれが肝要である。 しかしある学匠たちは多くの見当違いのこと を論じる。 それらはこの意味内容には関係ない。
1. 3. 2. 動詞形の用法 語源解釈の俗説について:
(g) Pj II 135, 26- ad Sn 12, 24 Magadhesu viharat'f ti Magadha nama janapadino rajakumara, tesaf!l nivaso eko pi janapado r叫hisaddena "Magadha"ti vuccati. tasmilJ1, Magadhesu janapade. ke ci pana''yasma Cetiyo raj a musavadaf!l bha!Jitva bhumif!l pavisanto'ma gadhaf!l pavisa ii vutto, yasma va taf!l rajtinalJ1 magganta bhumif!l kha1Janta purisa'ma gadhaf!l karotha ii vutta, tasma Magadha"ti evam adfhi nayehi bahudha papaiicenti. yaf!l ruccati ta1J1, gahetabbaf!l. 「マガダの人々の間で過ごしていた」とは, マガダの人々とは〔その〕 国 にいる王子たちであり, 彼らの住処であるひとつの国も慣用語として「マ ガダ」と言われる。 そのマガダ国において〔ということである〕。 しかし ある者たちは「チェーテイヤ王が妄言を語って地面に入っている(地獄に 落ちている)とき『穴に入るな』と言われたので, あるいはその王を追っ て地面を掘っている人々が『穴を作るな』と言われたので, それゆえマガ ダである」と, このようなものをはじめとする諸々の理屈によって多様に 述べ立てる。 気に入るところを受け入れればよい。 ブッダがサーリプッタ (Sariputta) の解説を訂正した意図の説明:
(h) Spk II 63, 18- ad SN II 53, 21 dukkhasmin13 ti idarµbhagava imina
12 Be, Se so. Ee saro.
13 WIJESEKERAは, このようなloc.が部分的 (partitive) と述語的 (predicative) にまた
-58-adhippiiyena aha, "Siiriputta ya,rt tayii'iminii kiira,:iena vedaniisu ta,:ihii na upat{hiisfii byiikata,rt ta,rt subyiikata,rt.'tis so vedanii ii vibhajantena pana te atippapaftco kato, ta,rt'dukkhasmin'ti byiikarontena pi hi te byiikatam eva bhaveyya.'ya,rt kin ci vedayita,rt ta,rt dukkhan ii ftiitamatte pi hi vedaniisu ta,:ihii na titthatf"ti. 「〔何であれ感受されたところのものは〕 苦しみの内にある」とは, これ を世尊は次の意図を伴って言っている。「サーリプッタよ, 君が『この理 由によって諸々の感覚に対する渇望は存立しなかった』と解説したところ のことは,よく解説されている。 しかし『3つの感覚』と分類しているので, 君は甚だ余計なことをしている。 というのも, それを〔単に〕『苦しみの 内にある』と解説していても, 君はまさしく解説したことになり得るから である。『何であれ感受されたところのものは苦しみである』と解されて いるだけでも, 諸々の感覚に対する渇望は存立しないのだから」と。 ブッダに会いに来たバラモンが, 遅れて会う機会を逃した場面:
(i) Mp I 435, 28- atha briihmalJO briihma1J,iyii saddhif!l dhftaraf!l gahetvii taf!l thiinaf!l iigacchanto anto giimaf!l pavi{thakiile iigatattii ito c'ito ca olokento Dasabalaf!l adisvii briihma1J,if!l paribhiisati "tava kiiralJ,Gf!l bhaddakaf!l niima natthi, tayi papaficaf!l karontiyii va so pabbajito nikkhamitvii gato "ti.
このとき, バラモンが妻と共に娘を連れてその場所にやって来きて, 村の 中に入ったとき やって来たのであちこち見遣っているが, 十力ある者 (ブッダ)を見ず, 妻を叱責した。「お前のせいで, なんて運がないことだ。 お前がもたもたしているばかりに, かの出家者は〔村の〕外に出て行って しまったんだ」と。 蛇に追われる者が逃げる際の様子:
がる用法であるとする(cf. WuESEKERA 218§168b)。 実際に註釈中では"yarri kifi ci vedayitarri tarri dukkharri"と主格に置き換えられており, 述語的に看倣されていたこ とを示唆するが, ここでは違いを明示するために訳し分けることとした。
パーリ註釈文献の日常的用法から見た papaiica- (267)
(j) Spk III 10, 8- ad SN IV 173, 17-chat(ho antaracaro14 vadhako ti
pafhamaf!1, aszvisehi anubaddho ito c'ito ca te papaiicento (v.l. vaiicento) palayi. idani paiicahi paccatthikehi anubaddho sutf hutaraf!1 palayati. na sakka so evaf!l gahetuf!1,, upalalanaya pana sakka. tasma''daharakalato patfhaya ekato khaditva ca pivitva ca santhavaf!l antaracaraf!1 vadhakam assa pesethか"ti
16
amaccehi vuttena raiiiia pariyesitva pesito antaracaro vadhako.
「第6の身近にいる刺客」とは, 〔男が〕最初に蛇たちに付きまとわれた とき, あっちへこっちへとそいつらを欺きながら逃げ切った。 今度は5人 の敵対者に付きまとわれたが, より上手く逃げ切っている。 彼はこのよう に捕まえられ得ないが, 愛情によっては可能である。 それゆえ 「幼少の時 分以来一緒に食べ飲みし, 慣れ親しんで身近にいる者を刺客としてこやつ に送り出してください」と家臣たちに言われたので, 王によって探し出さ れ, 送り出されたのが身近にいる刺客である。 1. 4. 特徴的なSyntax 日常的用法に見られる特徴的な構文や表現は以下の通りである。 ① nom. + papanco (あるいは逆順)「~(行為事物など)はパパンチャ である」
② gen. + papanco [atthi
I
hoti] *「"-'(人物)にとってパパンチャである」 ③ gen. absol. + papanco [atthi I hoti] *「~をしていると,〔その人物にとって〕パパンチャである」
④ papancarri akatva + khipparri I sfgharri / lahurri I ajj'eva「もたもたせず, す ぐに」
⑤ ma papancarri karohi etc. 「もたもたするな」 *[]内は省略される場合もある。
①, ②, ③のように単数主格で用いられる場合, 形容動詞的に機能するが, 主 14 Se so. Ee, Be atthacaro.
15 王が主語であるため, 二人称の majestic plural が用いられている。 Cf. 本稿註10。 16 Be, Se so. Ee pariyesito atthacaro.
語の性に関わらずpapafico という男性形で現れることから, あくまで名詞と して用いられている。 ①における「~」には行為事物人物のいずれも該当 し得る。 ④, ⑤のようにkaro-tiと用いられる場合は副詞的に機能する。 この 場合④に明らかなように, 時間の遅延・停滞を意味するものとして用いられ る"。 1. 5. 小結 用例調査の結果, 日常的用法の範囲におけるpapaftcaーは, 総じて「余計な
物事・ さま」を指す語であると言える。 動詞形papaftce-tiI papaftcaf!l karo-ti についても, 「余計なことをする」を基本に考えられる。 文脈により許容でき ると思われる訳語を示すと, 例えば以下の通りである。 papaftca-余計, 蛇足, 無駄, 不要, 邪魔, 面倒, しがらみ, 煩瑣, 雑事(e.g. Mp V 28, 17), 小用(Sv III 728, 28) ; 手間, 徒労, 時間の無駄;見当違い, 錯誤, 詭弁;adv. -ato余計に(Vism 351, 9)。
papaftce-ti or papaftcaf!l karo-ti
intrans. 余計なことをする, 口出しをする(Ja IV 406, 29**), 多弁を弄す る(e.g.Pj II 136, 1), うろうろする(Mp I 370, 13), 手間取る, もたもた する, ためらう, 時間を潰す(e.g. Spk II 56, 12), しばらく間を置く(e.g. Ud-a 115, 21), 長く留まる;+instr. ,...,_, に気を取られる(Dhp-a I 198, 21),
~により時間を浪費する(e.g.Pj II 53, 26) ; +loc. ,...,_, に長居をする(e.g. Cp-a 137, 11) ; trans. (only papaftce-ti) +acc.,...,_, を述べ立てる, ~を欺く。 語義の中心は「何か必要以上の物事」にあり, それ自体だけでなく, それがも たらす弊害を指すことから様々な用法が派生したものと推測される。 時間を意 味するようになったのは, 「余計な物事・状況がある>それに邪魔される, あ
るいは夢中になる>徒に時間が過ぎる」のように, やはりpapaiica—の弊害と
17 次の用例では 'cirena' の言い換えとして'papancaf[l katva' が用いられる。 Ud-a 115, 20- ad Ud 13, 8-9 idaf[l vuttaf[l hoti "idha mama santike agamanaya yo'yaf[l ajja kato varo taf[l imaf[l cirena papancaf[l katva akasf''ti. 「次のことが言われている。『この 場に, 〔つまり〕私のもとに来るために, 今なされたところのこの帰還を, 久しぶ りに, 〔つまり〕時間を置いて〔君は〕なした』と」。
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (269) して, 時間の停滞や浪費がもたらされることが意識されたのだろう。 このこと は, Saddの記述(a)に見たような教理的説明において, papaiica—が「時間を 延長させるもの」として説明されていたこととも符合する。 この点については 次節において検討したい。 papaiica—が 意 味 す る と ころ は,(b) で はsama1J,adhamma-,(c) で は vivektibhirati—とvihtiragarutti-,(f)ではstiraーというように, プラス価値を表 す語との対比から判断され,(d), (e)では道行きや作業の流れというように, 円滑な状態との対比から判断される。 つまり重要に対する瑣末, 中心に対する 周辺, 直進に対する迂回・停滞のように 対比的にマイナス価値を表すのが papaiica—であると言えよう。 2. papanca—の教理的理解 以下に術語としてのpapaiica—が一般にどのように理解されているか, また 伝統的にどのように理解されたかを確認し, 日常的用法と対照してみたい。 2. 1. 一般的理解 現代の一般的理解について先行研究を参照すると, パーリ文献, 特にニカー ヤにおけるpapaftca—の研究としてはN応ANANDA1976, 桜部 1991が挙げられる。
N応ANANDAはpapaftca—が前綴りpraと語根paneから成るという伝統的立場に
立ち,「拡張拡散, 多数」を意味するが, 本来的な意味は「概念領域におけ る増殖proliferationin the realm of concepts」であると述べる門桜部は語源に
ついては触れないが,papaftca—が第一には「〔虚妄に〕区別立てする心の動き」 を意味すると述べる19。 一般的な訳語としては,桜部も概ね認めるように「妄想」 に類する語がしばしば用いられる20。 このように術語としては, 人間の内面の 問題として理解されている。 papaftca—を内面の問題と捉える点は, 以下に見る伝統的解釈でも共通して いる。 桜部自身の問題提起にあった「註釈文献での三煩悩という定義がニカー ヤのすべての用例に当てはまるか」という問題は, この現代の理解にも問われ 18 Cf. NANANANDA 1976: 4. 19 Cf. 桜部1991: 21
ることになるが, 今は一般的理解の確認に留める。 2. 2. パーリ文献における伝統的解釈
以下に パーリ文献におけるpapaiica—の教理的理解 を 確認する。 はじめに
Niddesa (Nidd)においてpapaiica— が「渇望ta1J,hii-, 謬見ditthi-, 慢心miina-
」
の三煩悩を指すものと定義され門以後この定義が保存されることになる。 こ れは故なきものではなく, 例えばANIV 68f. においてpapaiicita— がdiffhigata-,
ta1J,hiigataーと併記され, SNIV 203においてはmiinagataーと併記される22。 した
がって三煩悩とする定義は経典に基づくものである。
ここでは論書以降の展開をまとめたNAt:-rANDA 1976: ll 7ff. にも基づきつつ, papaiica—の機能の 説 明に注目して見 てみる。 Nidd後の 論書Nettipakaral_l.a
(Nett), ブッダゴーサの四部註の記述門ダンマパーラ(Dhammapala)の記述
の順に見ていくが, papaiica—の訳語は保留する形で示すこととする。
まずNettの説明を見てみる。
(1) Nett 37, 6- ad Ud 77, 17-20 papaiica niima ta!Jhii-ditthi-miinii, tad abhisarrikhatii ca sarrikhiirii.
諸々のパパンチャとは, 渇望・謬見・慢心であり, またそれらにより駆動 されている諸形成力である。
(2) Nett 38, 7-ad Ud 77, 17-20 papafico nama vuccati anubandho. yaii caha bhagava''papaiiceti atftanagatapaccuppanna,rt cakkhuviiiiiey ya,rt rupa,rt arabbha"ti, yaii caha bhagava'�tfte Radha rape anapekkho hohi, anagatarri rupa,rt ma abhinandi, paccuppannassa rupassa nibbidaya viragaya nirodhaya cagaya patinissaggaya pa{ipajja"ti ida,rt bhagavato pubbaparena yujjati. yo capi papaiico, ye ca sa,rtkhara, ya ca atftanagatapaccuppannassa abhinandana, 21 Nidd I 280, 20- ad Sn 87 4 papaiica yeva papaiicasa,µkhii, ta�hapapaiicasaf!l,kha
ditthipapaiicasaf!l,kha manapapaiicasaf!l,kha. 22 榎本2015の指摘に依る。
23 ブッダゴーサの真作と認められている著作は, 現在のところVisuddhimaggaと四部
註のみである(cf. 馬場紀寿『上座部仏教の思想形成ーブッダからブッダゴーサヘ』
idaf!l ekattaf!l パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaftca- (271) パパンチャとは, 継続であると言われる。 世尊が「視覚において識別され ることになる過去・未来・現在の色形に関して, 〔彼は〕パパンチャする」 と言っていることと, 「ラーダよ, 過去の色形について省みない者であれ。 未来の色形を歓迎してはならない。 現在の色形の忌避, 離欲, 制止, 放棄, 追放のために実践しなさい」と言っていること庄これは世尊の脈絡と合っ ている。 パパンチャでもあり, 諸形成力であり, また過去・未来・現在の ものに対する歓迎であるもの, これは同一のものである。 (1)では諸形成力saf!Zkhiira—であるとの説明が加わる。 これは恐らく縁起説 の説明に見られる「惑・ 業・苦」の枠組みにおける「惑・業」の部分が意識さ れており, papaiicaーという煩悩(惑)がsaf!Zkhiiraーという業を働かせている という理解であろう。 (2)ではpapaiicaーは継続anubandha—であると言われ, saf!Zkhiira—に加え, 過去・ 未来・現在のものに対する歓迎abhinandanかであ るとも説明される。 この同置は機能面での共通性から導かれていると思われる。 つまり輪廻において来世への継続をもたらすという点で, これらは共通する精 神要素であると看倣されているのだろう。 このような解釈はNettに独特であり, ブッダゴーサの記述には影響が見られないが, 後に見るダンマパーラの記述を 見る上では注目に値する。 続いてブッダゴーサの記述を見てみる。
(3) Sv III 721, 12- tayo papafica taJJhapapafico manapapafico di{{hipapafico ti. tattha a{{hasata-ta!Jhavicaritaf!l taJJhapapafico nama. navavidho mano manapapafico nama. dvasa{{hi di{{hiyo di{{hipapafico nama. tesu idha ta1J,hapapaficoadhippeto. ken'a{{henapapafico. mattapamattakarapapana{{hena.
パパンチャは, 「渇望というパパンチャ・ 慢心というパパンチャ・ 謬見と いうパパンチャ」という3つである。 その内, 渇望というパパンチャとは, 渇望により連想された108のものである。 慢心というパパンチャとは, 9 種である。 謬見というパパンチャとは, 62の謬見である。 それらの内, こ こでは渇望というパパンチャが意図されている。 何の意味でパパンチャな 24 これら2つの引用の典拠は不明。
のか。 自惚れている・ 漫然としているという有様に帰結する意味で〔パパ ンチャ〕である。
(4) Psl183, 3-yasmiica pan'ettha'切tarµmama"ti taJJ,hiigiiho, taii ca gaJJ,hanto at{hasata-taJJ,hiivicaritappabhedarµ taJJ,hiipapaiicarµ gaJJ,hiiti. 'セso aham asmf"ti miinagiiho, taii ca gaJJ,hanto navappabhedarµ miinapapaiicarµ gaJJ,hiiti. 、セso me attii"ti dit{higiiho, taii ca gaJJ,hanto dviisat{hi-dit{higatappabhedarµ dit{hipapaiicarµ gaJJ,hiiti. したがってまた, この場合「これが私のものだ」という〔考え〕は渇望と いう捕われである。 もし〔人が〕それを抱くと, 渇望により連想された 108のものの区別がある渇望というパパンチャを抱く。「これが私だ」とい う〔考え〕ば慢心という捕われである。 もし〔人が〕それを抱くと, 9種 の区別がある慢心というパパンチャを抱く。「これが私の主体だ」という〔考 え〕は謬見という捕われである。 もし〔人が〕それを抱くと, 62の謬見に 位置するものの区別がある謬見というパパンチャを抱く。 (3)では三煩悩についてより詳細な説明が加えられている。 さらにブッダゴー サの革新として,「自惚れている・漫然としている有様」という要素を持ち出す。 ここではpapaiica—がそのような有様をもたらすものであることが読み取れる。 特にpamatta—の名詞形であるpamtidaーは「相応しい行動をとらず疎かにす る」25という点で,「怠慢」の故に時間が浪費されると看倣し得る余地があると も言える門(4) では渇望・ 慢心・謬見がそれぞれ所有意識・自我意識・ 主体 25 Cf. 榎本文雄ほか『ブッダゴーサの著作に至るパーリ文献の五位七十五法対応語一 仏教用語の現代基準訳語集および定義的用例集ーバウッダコーシャIII』山喜房仏 書林2014: 145。 26 papaiica—が「怠慢」と結びつくことについては, 次の例をも参照。 サッカが夜中 に王妃の寝室に入り, アッバンタラという魔法の果実の存在を伝えれば, 王が取っ てきてくれるだろうと告げた場面: Ja II 395, 15**- eva,r,. Sakko deviya ima dve gatha vatva "tva,r,. appamatta hohi, ma papaiica,r,. akasi, sve raiiiio aroceyyasf"ti ta,r,. anusasitva attano vasanatthanam eva gato. 「このようにサッカは王妃にこの2つの詩節を詠むと,
『君はうかうかしているな。 もたもたしてはいけない。 朝には王に伝えなさい』と 彼女に忠告してから, 自分の元の居住場所へと去った」。
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (273) 意識に結び付けられている巴自我意識との関わりは, 既にSn 916において papa-fica-saf(lkhaーというものの根源が「私は存在する」という意識であるとさ れていることからも伺え, papa-ficitaーとmanagata—が併記されていたSN IV 203で問題となっているのも自我意識である。 続いてダンマパーラの記述を見てみる。
(5) Ud-a 372, 24- ad Ud 77, 13 papaficenti, yattha sayartz uppannii tartz santiinartz vitthiirenti cirartz fhapentf ti papaficii, kilesii. visesato riiga-dosa moha-ta�hii-ditthi-miinii.
パパンチャする, 〔つまり〕そこに〔これらが〕自ずと起こっているとこ ろの〔諸存在の〕相続を引き延ばす, 長く存続させるというので, パパン チャであり, 諸々の煩悩〔ということで〕である。 特に, 貪欲.憎悪.迷 妄.渇望・謬見・慢心である。
(6) Sv-pt III 368, 2- manadayo sattasantana,ri sa,risare papaficenti vittharentf ti papaiicii ti aha.
慢心などは, 諸存在の相続を輪廻においてパパンチャする, 〔つまり〕引 き延ばすというので, パパンチャと言っている。
(7) Sv-pt II 326, 5- yattha saya,rt uppa11antl, ta,rt santana,rt sa,rtsare papaficenti cirayantf ti papaiicli. yassa va uppanna, ta,rt ratto ti va satto ti va micchabhinivittho ti va papaficenti byafijentf ti papaiicli.
そこに〔これらが〕自ずと起こっているところの〔諸存在の〕相続を, 輪 廻においてパパンチャする, 〔つまり〕長く留まらせるというので, パパ ンチャである。 あるいは, その人に〔これらが〕起こっているところの人 を「愛着している」とか, 「執着している」とか, 「誤って固着している」 とかとパパンチャする,〔つまり〕表現するというので, パパンチャである。 (5)では, はじめに「諸煩悩」と広く定義した上で, これまでの三煩悩に三 27 術語としてはそれぞれmamatta-, asmimana-, sakkayaditthi—に該当する(cf. NぶANANDA
毒を加える。ダンマパーラに見られる革新は, 動詞形papaiice-tiを用い, papaiica—を 「〔相続を〕引き延ばすもの,長引かせるもの」と定義する点である。 Nettにおいて用意されていたとも言える時間的解釈が, ここで相続sartztii,na や輪廻sartzsii,ra—の語を介して明確に導入されたことになる。この場合(6)に 示されるように,papaiica—そのものである慢心等を動作主体として, 煩悩と してのpapaiicaーを「〔相続を〕引き延ばす働きをなすもの」と定義している。(7) ではまた別の解釈として, 「表現するもの」 と定義される。これはパーリ註釈 文献の伝統においては例外的であるが,Dhatu-p祖haに見えるI類動詞として の語義や28, チャンドラキールティ(Candrakirti)のprapaiica- = vac—という説 明には通ずるものである29 2. 3. 小結 以上の確認を通じて, パーリ文献の伝統的理解においては, はじめに三煩悩 と定義されたpapaiica—が, その同置を保存しつつ説明が加えられていった様 子が見て取れる。総じてpapaiica—に対する註釈は, 煩悩としてどのように機 能するかという観点が貫かれており, パーリの伝統では人の内面におけるもの 以外として考察される余地はなかったと言える。ブッダゴーサがpapaiica—を 濃慢」や 「怠慢」をもたらすものとする一方, ダンマパーラは時間的に 「引 き延ばすもの」という定義をなす。Saddの記述(a)にも引き継がれているよ うに,煩悩としてのpapaiica—の機能は,輪廻する諸存在の相続や輪廻自体を「延 長する」という点に集約されていったことが見て取れる。 現代の理解と照らし合わせたとき,papaiica—が人の内面の要素であるとい う点では一致するが, 言わんとする機能は異なることになる。一方で日常的用 法と比べると,papaiicaーは必ずしも精神的要素ではないが, 当然文脈により 精神的要素であり得る。したがって最も単純には,papaiica—とは「余計な考え」
28 Cf. Dhatu-patha (Ed. LIEBICH) I 187 pacl vyaktfkara�e「明らかにする,表明する」。 29 Cf. Prasanna-pada (Ed. LA VALLEE Poussrn) 373, 9-ata eva tat prapaficair aprapaficitam.
prapafico hi viik prapaficayaty arthiin ity krtvii. prapaficair aprapaficitarrz viigbhir avyahrtam ity arthaJ:i. 「まさしくこの故に,それ(tattva-)は諸々のプラパンチャによっ てプラパンチャされていない。というのも,諸々の意味内容をプラパンチャすると いうので,プラパンチャとはことばである。諸々のプラパンチャによってプラパン チャされていないとは,諸々のことばによって表現されていないという意味である」。
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (275) を指すと仮定できる。 つまりブッダゴーサの言うようにpapaiica—が慢心や注 意散漫をもたらすとするなら, これを「雑念邪念」と見ることは可能であろ う。 またダンマパーラの時間的解釈も, 直接の関係は不明だがNettのような 前例があり, 日常的用法に共通することを踏まえると奇異ではない。 このよう に日常的用法と伝統的理解とは比較的矛盾なく接点を見出し得る。 3. 他の文献における用法 以下に他の文献におけるprapaiica—及び関連語の用法を確認し, パーリ文献 における用法と比較してみたい。 3. ,. ジャイナ教文献 ジャイナ教文献におけるAmg. pavafica—の用法について, 註釈の記述を参照 して見てみる。 シーラーンカ (STI面ka) による註釈には, pavaficaーに対する2
種 の 説 明が 確 認 できる。 一つ はAyarariga (Ed. ScHUBRING) 16, 22 logiiloga pavaficiio pamuccaiに対して, prapaiica- = dvandva-vikalpa- 「一対の選択肢, 相対的区別」であるとするもの叫もう一つはSuyagadariga (Ed. VAIDYA) I 7, 30 na pavaiic'uveiに対して, prapaiica- = sa,rtsiira—であるとするものである叫前
者は大乗経典・論書の記述を想起させ, 例えばチャンドラキールティは
vikalpa—を生ずるprapaiicaーについて同種の説明をし, 様々な対概念を特徴と
するものと述べている32。 後者はパーリ文献におけるダンマパーラの記述に通
30 Ayar皿ga-tika (Ed. DIPARATNASAGARA) bhag 1, 176, 35- kas tasya prapanca?,, paryliptakliparyliptakasubhagadi-dvandvavikalpa!J, tadyathli nlirako nlirakatvenlivalokyate, ekendriyadir ekendriyaditvena, evarri paryliptakliparyliptakady api vlicyarri. 「それ
(lokaloka—世界と非世界) のプラパンチャとは何か。 十分な幸福・十分でない幸福
などの相対的区別である。 例えば, 地獄の住人は地獄の住人として看倣され, ひと つの能力をもつもの等はひとつの能力をもつもの等として看倣されるように, この
ように十分なもの・十分でないもの等も言われるべきである」。
31 Suyaga�aiiga-tika (Ed. D'fPARATNASAGARA) bhag 2, 176, 39- na punalJ prapaflcarµ jatijarlimara�arogasokadikarri prapaiicayate. bahudha natavad yasmin sa prapaiicaJ:i samsliras tarri nopaiti na yati. 「ニ度と誕生・老い・死・病・悲痛等をもつプラパンチャ
をプラパンチャしない。 そこにおいて〔人の苦しみが(?)〕役者の如くに多様で あるところのプラパンチャとは, 輪廻〔する世界〕であり, それに陥らない, 〔つ
まり〕進み行かない」。
じるが, この場合のsarµstiraーは輪廻する状況から転じて「現世, 俗世」と解 されている3\ 3. 2. ウパニシャッド 古典サンスクリット文献におけるprapaiica—の初期の用例はSvet邸vatara upani�ad VI 6 に確認される。 prapaiicaーは神話的創造の文脈において創造神か ら転出する (pari-vrt) ものとされ, 「世界の数多のもの, 現象世界」と解され ている34。 これは先に見たジャイナ教文献における「現世」としてのsaf!Zsara に通ずるようにも 見えるが, 別の箇所でシャンカラ (Sankara) が用いる namarupa-prapaiica-「〔個別の〕名と見かけ(=個物・個体)としてのプラパ ンチャ」という表現が今の用例にも当て はまると思われる35。 この場合の jnanajneya-vacyavacaka-kartrkarma-kara,:zakriya-ghatapata-mukutaratha-rupavedana strfpuru(fa-labhalabha-sukhadubkha-yaso'yaso-nindaprasaf!Zsadi-lak(fa,:zad vicitrat prapancad upajayate. 「そしてそれら分別は, 始まりなき輪廻において習慣化されている, 認識
と認識対象 ・言語対象と言語・行為者と行為・道具と作用・陶器と織物・王冠と戦車・ 見かけと感覚・女と男・獲得と喪失·名誉と恥辱・非難と賞賛などを特徴とする, 様々 なプラパンチャから生じてくる」。
33 Cf. AED s.v. pavaf!Zca''.S'af!Zsar, duniya, the world", PSM s.v. pavaf!Zca''.S'af!Zsar". NORMAN
はprapanca-= saf!Zsara—との理解を敷術し, パーリ文献におけるpapanca—も知覚や
煩悩により「展開された世界」であると述べる (K.R. NORMAN. The Elders'Verses I. PTS, 1969. 2nd ed. 2007: 230)。 prapa-fica-= Saf!Zsara—とする 理解は仏教文献にも見
ら れ る が (Lambert ScHMITHAUSEN. Alayavijnana On the Origin and the Early Development of a Central Concept of Yogcara Philosophy Part II. Tokyo, 1987: n. 1405 D b)) , SCHMITHAUSEN は NORMAN に言及し, prapanca—がsubjective と objective どちら
の意味でも用いられると述べた上で, 積極的にsubjective に解する (op. cit. n. 1425)。
この点について筆者は,Sn 530ab anuvicca papanca-namarupam ajjhattaf!Z bahiddha ca rogamulaf!Z 「パパンチャとしての名と見かけ(個物・個体)を,自身についても〔自
身の〕外側についても病の根源であると考究して」という一節を, 文字通りに見る
ことが重要であると考える。 仏典においてnamarupaーは主体/客体どちらの意味も
あり, 主体的には自分自身の個体であり, 客体的には知覚される 個物である (cf.
Luidmila OLALDE. Zum Begrijf'namarupa:'Das Individuum im Pali-Kanon. Lumbini, 2014: 126)。 註釈は papanca—をajjhattaf!Z, namarupa—をbahiddha に配当するが,
Sn 516; 526等の文脈から, ここでは papafica-namarupa—がajjhattaf!Z と bahiddha両
方に当てはまると判断される。
34 Cf. PW s.v. prapanca "die Mannichfaltigkeit der Welt, die sichtbare Welt" .
35 Cf. Brahmasfitra-bha�ya (Ed. ANANTKf��A) 713, 2. 丹治昭義『沈黙と説教中観思想研
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapafica - (277) prapaficaーは, 世界の中にある個々の事物・存在を指すものと看倣し得る。 またMa1_1qiikya-upani�ad 7; 12にはprapaficopasama-「プラパンチャの鎮静」 という複合語が現れる。 これは同じ語が用いられる『中論』との関連において 注意されているが36, 今はadvaita—の語と併記されている点が注目される。 つま りprapafica—がdvaita-「二元性」側であることが示されている。 シャンカラは この場合, dvaita-prapaiica—という表現を用い, これが静まりadvaita—の認知 を得ることを, 縄に対する蛇などの〔誤った〕選択肢(vikalpa-)が終息し, 縄そのものの認知を得ることに例える37。prapaiicaーはvilkalpaーに置き換えられ, 錯覚の対象と看倣されている。 3. 3. 叙事詩 プラーナ Maµabharataにprapaiica—は現れないが, prapaiicana—の語が確認される380 この語は動詞形prapaiicay「詳細に述べる」から派生した名詞であり, いずれ の例もある物事の具体的な内容を詳述/列挙すること, あるいは詳述/列挙さ れる項目を指すと見える。 同じprapaiicanaーはプラーナにも確認される39。神話 的創造の文脈において用いられ, ntimarupaーと併記される点は興味深いが, こ に複合語papaiica-niimarupa—が確認される。 36 Cf. 中村元『ウパニシャッドの思想』中村元選集〔決定版〕第9巻, 春秋社, 1990: 602f.。
37 Mal).�ukya-upani�ad-bha�ya (Ed. Gov1NDAsAsTR1) 177, 9-…dvaitaprapaiicopasame 'dvaitapratipattf, rajjviirri iva sarpiidi-vikalpasyopasame rajjutattvapratipattift .... 38 XII 59, 52ab ari-madhyastha-mitrii旭rri samyak coktarri prapaiicanam I 「敵・中立者・
同盟者たちの詳細がすべて述べられた」 XII 121 27b k 、ー。 rtyiiniirri ca prapancanam I 「諸々のなすべきことの詳述」。
39 E.g. Markandeya-pural).a (Ed. BENERJEA) 48, 42 niimarupaii ca bhutiinarri krtyiiniiii ca prapaiicanarri I vedasabdebhya eviidau deviidfniiii cakiira saft II「かの者(主宰神)は原
初において, 他ならぬヴェーダの諸々の言葉から, 神々等の生類の〔個別の〕名と
見かけと, 諸々のなすべきことの詳細とを造った」。 これは次のManu-smp:i (Mn) の記述と類似する。 Mn (Ed. OLIVELLE) I 21 sarve俎rri tu sa niimiini karmii�i ca prthak prthak I vedasabdebhya eviidau prthak sarristhiis ca nirmame II「一方, かの者(ブラフ
マー)は原初において, 他ならぬヴェーダの諸々の言葉から, 一切のものたちの名
称と行為をそれぞれ個別に, また形状を個別に創り出し た」。 Mnのniiman-, sarristhかがniimarupa—に相当し,karman—がkrtya—に相当すると思われる。 niiman-,
rupa-, karman—をセットで説く記述は, さらにBrhad-aral).yaka-upani�a:dI 6, 1に遡り
得る。
-46-の場合両者はイコールではないように見える。
プラーナにはprapaiica—の用例も多く現れるが, 対比的用法として次の例を
挙げたい。
Agni-pur面a(Ed. 応JENDRALAL)341, 29-30
ayuktayor iva mitho vlicyavlicakayor dvayoJ:t I yojanliyai kalpyamlinli yuktir uktli manf$ibhiJ:t II
padaii caiva padlirthas ca vlikyarri vlik yartham eva ca I Vi$ayo'syaJ:t prakara7Jarri prapaiicas ceti $ac/,vidhaJ:t II
互いに結合していない言明対象と言明するものとの両者の結合のために設 定されているかのようであるものは, 賢者たちによって連結(yukti-)と 呼ばれている。 これ(連結)の対象は, 語と語の意味 文と文の意味 主題(theme)と 説述(rheme)という6種である。 ここではprakara,:iaーとの対比で用いられている。 主題と説述という枠組み は現代の発話分析において用いられる考え方であり, これに全く一致するかは 分からないが, 今は試みに訳語とした40 3. 4. 文法学
Mahabha�yaにおいては, 次のようにlak�a,:,,a— と対になる形でprapaiica— が
用いられる。
Mahabha�ya (Ed. KIELHORN-ABHYANKAR) I 400, 9- te khalv api vidhayaf:z suparig,:hftii bhavanti ye!fu lak!ja1Jarti prapaficas ca. kevalarti lak!fa1Jarti kevalaf:z prapafico vii na tathii kiirakarti bhavati.
当然ながらも, それらについて規則と〔適用例の〕敷術とがあるところの 諸規定は, よく理解されたものとなる。 規則のみ, あるいは〔適用例の〕 敷術のみでは, そのように有効なものとならない。
40 話題topicと評言commentと言われる場合もある。 こちらでもprakara�a—と
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (279) ここではある文法規則の具体的な適用例を挙げること, あるいは挙げられる適 用例がprapaiica—と言われている。 またKasika-vrttiにおいては,purvasyaiva ayaf!l prapaiicaft「こ〔のsutra〕は直前〔のsutra〕の詳述である」のようにし ばしば用いられる叫 3. 5. 小結 以上部分的ではあるが, 他の文献におけるprapaiicaーと関連語の用法を概観 した。 仏教文献における術語としての用法と比べると, 言語認識の文脈で vikalpa—の語を用いて説明することはジャイナの伝統やバラモンの伝統におい ても確認される。 パーリ文献にはvikalpa—の語により説明される記述こそ見当 たらないが, 現代の一般的理解はこれに分類されよう。 ジャイナのsalflsara-, バラモンのnamarupaーとする説明の場合も仏教側に対応が確認できる。 恐ら <汎インド的に内面と外界との両方で用いられる場合があり,vikalpaーは内面 salflsaraーは外界,namarupaーはいずれものように, 文脈に応じて対応する語が 用いられたと思われる。 パーリ文献の日常的用法においてpapaiica—が対比的に理解される点は, 他 の文献にも当てはまる。Svetasvatara-upani�adの例は創造神との対比, Agni pural).aの例は主題との対比, Mahabha�yaの例は規則との対比という如くであ る。 これらの場合単に対比というより,一つのソースから派生するものが prapaiicaーと呼ばれているとも言えよう。 4. p(r)apanca—の本来的語義 結びに代えて,p(r)apaiica—の本来的語義について検討したい。 まずパーリ 文献において,papaiicaーは必ず否定的価値が付加されている42。 日常的用法も これを基準として派生しており, プラス価値との対比からも明らかである。 し かしサンスクリット文献においては必ずしも否定的ではないことから, 価値判 断の部分は二次的と思われる。 また特に仏典においては概念・言語認識におけ る用法を本来的と見る傾向にある(2. 1.)。 これは仏典における用例を全て内 41 Cf. ABHYANKAR s.v. prapafica. 42 Cf. 桜部1991: 22.
-44-面の要素と見るかどうかにも関わるが, ジャイナ教文献においてsarrisa ra —と 説明される場合に適する例は実際に見られる43。 動詞形prapaiicayもサンスク リット文献では主に口述を表すが, パーリ文献の日常的用法には口述以外の用 法も多い。 したがって一律に概念・言語に関わる語と見ることは難しい。 p(r)apaiica—の語源は諸説あるが門 これについては最古に属する用例が複合 語papaiica-sarrikha-(Sn 87 4; 916)である点が注目される。 パーリ文献におけ るsarrikh かは「名称 呼称」 を意味するとされるが, サンスクリ ッ ト形 sarrikhyかは最も一般的に 「数」を表す語であり,動詞としては「数え上げる」 を意味する。 WACKERNAGELは古ギリシャ語誼µ冗ateLV「数える(5にする)」を 引き合いに出し, prapaiicaya-tiが「五指で数える」を意味していた可能性を 指摘する45。 こ の場合prapaiicaーは「数え出されるもの」ということになろう46 papaiica-sarrikha—全体としては,荒牧典俊訳「一つ二つと数えられる個別存在」
43 DN II 8, 5 ; MN III 118, 6等のTathagata を形容する定型句に現れるchinna-papafica はparinibbuta—と併記され, 涅槃と同義である。 恐らくlsibhasiyaiqi(Ed. Schubring)
31, 22 JJ,iruddha-pavanca—が これに対応し,vocchiJJ,JJ,a-sarr,,siira-, pahfJJ,a-sarr,,siira—と
併記されることから, sarr,,sara— と説明する場合の典拠とも言える。
44 榎本2015 に依り語源説を挙げると, pafica を文字通り 「5」と見る説語根pane に 基づくとする伝統説,その他の説に大別される。「5」とする説はPW 「さらなる展開 多数」;AiG III 354 (§181) , EWAia II 66「五指で数える」;正信公章「五指を広げる」。
その他の説はPED *pra-padya- 「障害」 ;中谷英明*pra-pacya- 「可熟物」(「潜在自 我意識(papafica) と認識(safifia)の転換」『印仏研』59-2:(207) - (216))。 語根 paneの存在はパーリ文献に現れる形容詞vipaficita-fifiil-(AN II 13 5, 11)「敷術され
た〔教え〕を理解する」におけるvipaficita— が傍証となるが, こちらにあるような
異読(v.l. vipacita0, vipaccita0) がpapafica—にはなく,vipaficita—の方が二次的に作
られた可能性を示唆する。
45 Cf. AiG III 354 (§181) . またヴェーダ文献にpdficaのみで 「五指」を表す例が確認
される(e.g. RV VIII 72,7 ; MS I 1, 5: 3,4m (I V 1, 5: 7,1.2り; KS I 4m (XXXI 3り; VS
19 (SBil,2,16) ;ASS I 17,12)。
46 あるいはprapafica—をprd とpdfica から成る前置詞限定複合語と見る場合 , prd に
はいくつかの機能があるが(cf. AiG II-1 256f. (§102), 284 (§11 Ob); 中村隆海「Veoa 文献におけるpra-f}茄の語義と用法」『梵文学研究論集:松濤誠達先生古稀記念』 大祥書籍, 2007: 111-137. 特に118. ), その内後分の概念を拡張する機能がある(e.g. prd-JJ,apiit- m. 「更なる孫=ひ孫」,prdvfra- m. 「更なる英雄」,prayufj- n. 「更なる寿命」). 仮説に過ぎないが,「更なる五指 (片手)=片手に収まらない数」 といった意味であっ
た可能性もあるかもしれない. いずれにせよprapafica—が男性名詞 であることはう
を支持したい見 パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (281) 以上の点を鑑み, p(r)apaftca—の本来的語義としては「一つ一つのもの,細目」 ほどが適すると思われる。 仏典における用法は, 数えることを個別の存在とし て認めることになぞらえ, 自我意識を指したことからはじまる。 そしてこのよ うな自我意識は虚構であり, 不要であるという価値判断が前提とされたことか ら, その価値判断の部分がパーリ文献における日常的用法までつながっていっ たと推測される。 vikalpa—と説明される場合は1か2かが問題になっており, こ の場合2の時点でそれが余計であり, 1であることを妨げていることを指すと 言える。 SGY[lSaraーと説明される場合は, 世界における個別の在り方が総体的 に捉えられていると言えるだろう。 個別の事物・存在を指す場合は namarupa が適する。 対比的な用法においては, ある一つのものが多数に派生する場合, あるいはある重要なものに余計なものが付随する場合に, 派生したものや余計 なものがp(r)apaftcaーと呼ばれることになる。 動詞形 prapaftcay は一つ一つ数 え出し, 列挙して詳細になすことを言う。 パーリ文献ではこれも不要な列挙と 見倣された。 最後に本稿の冒頭に挙げた問題点について, 2)古典サンスクリットにおけ るprapaftcaーとの関連は, ジャイナ教文献を含め, 共通する部分を示した。 3) については, papaftca—が必ずしも煩悩を指すものではなく, SGY[lSaraーと説明 される場合に類する用例もあるため, 一律に内面の要素と見ることは適切では ない。 4) については, 註釈に見られる説明は papaftca—の原義というより, 日 常的用法における語義から導く方が理解し易いと言える。 略号
ABHYANKAR =紐HYANKAR, Kashinath Vasudev. A Dictionary of Sanskrit Grammar. Baroda, 1961. AED = RATNACANDRA, Muni. Illustrated Ardhamtigadhf-English Dictionary. 5 vols. Ajmer, 1923-1933; reprint 名著普及会, 1977. Amg. = ArdhamagadhI. Be = Burmese edition: Desktop Software Chattha Sangayana Tipitaka 4.0. Vipassana Research Institute. BHSD = EDGERTON, Franklin. Buddhist Hybrid Sanskrit and Dictionary Volume II: Dictionary. New Haven, 1953;
47 Cf. 荒牧典俊ほか『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』講談社学術文庫,
2015:235.
-42-reprint Delhi, 2004. CPD = began by TRENCKNER, V. A Critical Pali Dictionary. Copenhagen, 1924-. Ee = European edition: Pali Text Society版. PED= RHYS DAvrns, T.W.-STEDE, William. The Pali Text Societys Pali-English Dictionary. PTS,
1921-1925; corrected reprint PTS, 2015. PGl = ANDERSEN, Denis. A Pali Reader
and Pali Glossary Vol II: Glossary. Copenhagen, 1901-1907; reprint Delhi, 2004. PSM = SHETH, Hargovind Das T. Paia-Sadda-Maha⑩ avo. A Comrehensive Prakrit Hindi Dictionary. 2nd ed. Varanasi, 1963. Se= Siamese edition: CD-ROM, Mahidol University Computing Center. WuESEKERA = WIJESEKERA, 0. H. de A. Syntax of the Cases in the Pali Nikayas. Colombo, 1993.
二次文献
NANANANDA, Bhikkhu 1976 = Concept and Reality in Early Buddhist Thought: An Essay on Papaiica and Papaiica-Saiiiia-Sankha. 2nd ed. Kandy.
榎本文雄2015 =「初期仏教文献におけるprapafica (/papafica) 」日本印度学仏教
学会第66回学術大会パネル発表「煩悩の根源をめぐって一vikalpa (分別)
とprapafica (戯論)」資料.
パーリ註釈文献の日常的用法から見たpapaiica- (283)
Colloquial Usage of papafica- in Pali Commentaries
Eisei SAKA
This paper investigates Pali papaiica- focusing on colloquial usage. From the Atthakatha onward, papaiica- is used not only in dogmatic usage, but also in colloquial usage. The Saddaniti tells us that papaiica- means "a long time" (Sadd 529, 1) in colloquial usage. The nuance of this term, however, is "a waste of time". Parallel cases are found in many passages. As a result of this investigation, I conclude that colloquial papaiica- basically means "a superfluity, a futility". Papaiiceti and its paraphrase papaiicarri karoti also basically means "do what is unnecessary". papaiica- is often used as a contrast to positive concepts (e.g. essential⇔ dispensable, smooth⇔ burdensome)
In Pali commentaries, dogmatic papaiica- is explained that it means three affliction (viz. ta�ha-, mana-, ditthi-) , and functionally, Buddhaghosa explains that papaiica- causes conceit and negligence. On the other hand, Dhammapala explains that papaiica- is expander of transmigration. Dhammapala's view seems to connect with colloquial meaning "delay".
In other texts, prapaiica- has several usages, but they are often used as a contrast to single source. In Upani�ad, prapaiica- "phenomena''is derived from God. In Vyakaral).a, prapaiica "apllication cases" is derived from a general rule. This feature is similar to colloquial usage. P(r)apaiica- has several etymology. On this point, Pali papaiica-sarrikha- is important. Sarrikhya- generally means "number", and WACKERNAGEL argued that prapaiicaya-ti means "counts with five fingers" (AiG III 354§181) . So p(r)apaiica- seems to originally mean "a countable one" or "an item, a detail".