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アフリカ系アメリカ人から見た日系アメリカ人リドレス運動―「1988年市民的自由法」成立までを中心に―

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(1)

レス運動―「1988年市民的自由法」成立までを

中心に―

著者

阿部 純

雑誌名

国際文化研究

25

ページ

1-16

発行年

2019-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00125416

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はじめに

 1941年12月7日(アメリカ現地時間)の日本海軍による真珠湾攻撃後、アメリカ本土では約12万 人の日本人および日系アメリカ人(以下、日系人と略記)が強制収容所へと送られた。アメリカ 政府が実施したこの強制収容政策に対して賠償を求めた日系人の運動は、過去の「不正を正す redress」という性格から「リドレス運動」と称される。リドレス運動は1970年に開始され、1980年 には強制収容に関する調査委員会が連邦議会に設置された。そして同委員会による公聴会の開催と、 強制収容政策を正当化する政府の主張を覆す1983年の報告書を導火線として、その後、日系および 日系支持の議員が連邦議会にリドレスを求める法案を提出し続けた。遂に1988年8月10日、被収容 者への謝罪文と賠償金の支給を定めた下院442法案にロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領 が署名したことで「1988年市民的自由法(Civil Liberties Act of 1988: CLA)」が成立し、その「成功」 の歴史は語られてきた。  このように史上類を見ない「成功」として語られてきたリドレス運動であるが、従来の研究動向 として、同運動の展開過程における日系人と他のマイノリティ集団の連帯が強調されてきた1。確 かに、日系指導者らは他のマイノリティ集団の支持獲得を行っていた。リドレス運動への支持拡大 を図ることで、リドレスが日系人に限定された問題ではなく、全てのアメリカ人の問題であること をマジョリティ側に提示しようとしたのである2。そして研究者側もまた、運動家のこの主張を連

アフリカ系アメリカ人から見た

日系アメリカ人リドレス運動

―「1988年市民的自由法」成立までを中心に―

阿 部   純

要  旨  本稿は、アメリカ政府が第二次世界大戦時に実施した日本人・日系人強制収容政策に対して 日系人が賠償を求めたリドレス運動を、アフリカ系アメリカ人の視点から再検討したものであ る。従来のリドレス運動研究は、同運動の展開過程における日系人と他のマイノリティ集団の 連帯に注目するあまり、マイノリティ集団を一枚岩として扱う傾向があった。しかし、本稿は アフリカ系自身の賠償請求運動史をふまえつつ、アフリカ系のリドレス運動観を考察したこと で、リドレス運動がアフリカ系自身の賠償請求運動の活発化と成功に向けた戦略の一部として 利用されながら展開していたことを明らかにした。 【キーワード:リドレス運動 / 「1988年市民的自由法」 / アフリカ系アメリカ人 / リドレス 運動支持派 / 黒人賠償優先派】

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帯強調史観として無批判に受容してきたと言える。  しかし、こうした研究により取りこぼされてきたものとして指摘できるのは、マイノリティ側の 複雑な関係性に対する理解の欠如である。すなわち、マイノリティ対マジョリティという二項対立 的な見方をするあまり、マイノリティ集団が一枚岩として扱われてしまい、明確に支持の立場をと らなかった内部集団は無視されるか、言及されたとしても二次的な対象として片づけられてきた3  こうした問題をふまえ、本稿ではアフリカ系アメリカ人(以下、アフリカ系と略記)の視点を取 り入れることで研究史の上書きを目指したい。リドレス運動の開始以前から、アフリカ系の中には 奴隷制といった過去の黒人差別に対する賠償を政府に要求していた人々がおり、またそのようなア フリカ系自身の賠償請求運動が CLA の成立後に活発化したという事実があるため、リドレス運動 に対するアフリカ系の見方は他のマイノリティ集団とは大きく異なっていたと考えられる。さらに、 アフリカ系が CLA の成立に対して理解を示しつつも、賠償されるのが日系であることに関して複 雑な感情を抱いていたことから4、リドレス運動に対するアフリカ系の見方もまた多様なものであり、 先に述べた二項対立的構図から脱却する上で有効な対象だと考える。  アフリカ系の視点からリドレス運動の再検討を行った最新の研究には、日系アメリカ史を専門 とする歴史学者グレッグ・ロビンソン(Greg Robinson)によるものがある。ロビンソンによれば、 主にカリフォルニア州のアフリカ系の議員や政治指導者はリドレス運動を支持したが、「リドレス 運動に対する1980年代のアフリカ系アメリカ人の支持は概して熱心なものではなかった」という5 彼はアフリカ系新聞の記事と公聴会におけるアフリカ系の証言に着目し、1970年代にはアフリカ系 新聞がリドレス運動に対して「無言」を貫いた一方、1980年代にはアフリカ系の新聞、ジャーナリ スト、コラムニスト、賠償運動家たちが奴隷制賠償の優先権を主張していたと指摘する。さらに、 1980年代後半の中曽根康弘首相および渡辺美智雄自民党政調会長による黒人差別発言を発端に、ア フリカ系コミュニティ内では日本に対する反感が高まり、その矛先が日系人に向けられたと主張す る6  ロビンソンの研究は、議会外のアフリカ系に目を向け、リドレス運動に対する彼らの否定的立場 とその要因を提示した点で評価できる。しかし、ロビンソンはリドレス運動を支持したか否かとい う視角からアフリカ系の立場を考察するに留まっている。リドレス運動と同時期に自分たちの運動 を進めていたアフリカ系の賠償運動家の立場をこうした視点から考察することは妥当であろうか。 つまり、アフリカ系がリドレス運動を支持していたのかどうかではなく、彼らがこの運動をどのよ うな観点から見ていたのかに着目する必要がある。これにより、リドレス運動がアフリカ系にとっ ていかなる意味を持つ運動であったのかを明らかにし、二項対立的構図からの脱却を果たすことが できよう。  以上から本稿は、アフリカ系自身の賠償請求運動史をふまえつつ、アフリカ系のリドレス運動観 を明らかにすることを目的とする。そして、この考察を通して、リドレス運動をアフリカ系による 賠償請求運動史の枠組みで捉えなおしたい。なお本稿では、アフリカ系のリドレス運動観を考察す る際に、強制収容政策に対する彼らの見解にも注目する。なぜなら先行研究では、アフリカ系内部

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で生じたリドレス運動支持の立場や奴隷制賠償優先の主張の根拠が十分に検討されていないからで ある。こうした立場や主張を支える論理を解明するためには、日系人がリドレスを要求することに なった強制収容政策に対するアフリカ系の見解をふまえておく必要があると思われる。  具体的に本稿では、アフリカ系の日本観や対日系人意識を考察する際によく用いられる代表的な アフリカ系新聞7紙を対象として7、記事やコラムなどの内容分析により、リドレス運動に対する アフリカ系のジャーナリストやコミュニティの意見を読み解くことを試みる。ただし、本稿が扱う 年代は、有能なアフリカ系ジャーナリストや指導者の主流メディアへの進出に伴い、アフリカ系新 聞の発行部数が減少した期間である。そのため、アフリカ系新聞の記事が全てのアフリカ系コミュ ニティまたはジャーナリストの意見を代弁するものではないことを念頭に入れておく必要がある8 さらに本稿では、アフリカ系新聞に加え、公聴会におけるアフリカ系の証言と賠償組織の発行物を 対象として、リドレス運動に対するアフリカ系の議員および賠償運動家たちの見解を分析する。  以下、第一節では賠償請求運動史を概略的に確認する。そして、第二節では1970年代を対象とし、 強制収容政策に対して関心を示していたアフリカ系新聞の根底にいかなる意識があったのかを探る。 第三節では1980年代を対象とし、リドレス運動に対するアフリカ系の立場とその主張を整理・考察 した上で、アフリカ系の賠償請求運動を追跡する。以上の作業をつうじ、リドレス運動がアフリカ 系の賠償請求運動においてどのような位置づけにあったのかを明らかにしたい。

第一節 賠償請求運動の歴史

 まず本節では、公民権法制定後から2000年代までを中心に賠償請求運動史を概観する。本稿第三 節で検討するアフリカ系の賠償運動家たちの発言や活動を理解するためにも、基本的な事実確認を しておきたい。  1964年の公民権法と翌年の投票権法の成立により、「法の下での平等」は形式的には達成されたが、 多くの黒人は経済的に不遇な状態におかれていた9。そこから生じた不満が現象化した各都市での

暴動を受け、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr)は、貧困層の経 済的・社会的状態を改善するための連邦法制定を求める「貧者の行進(Poor People’s Campaign)」

を計画する10。しかしキングは1968年に暗殺され、「行進」も議会や政策に大きな影響を与えるこ

とはなかった11

 1960年代には、黒人への賠償を求めて活動した人々がいたものの、大きな支持を得ることはな かった。例えば、政治活動家のロバート・L・ブロック(Robert L. Brock)は連邦政府に奴隷の子 孫への賠償を求める組織、民族自決委員会(Self Determination Committee: SDC)を設立した。彼 はロサンゼルスのワッツ地区で起きた暴動を契機として政治活動を行うようになった人物であり、

南北戦争直後に解放奴隷への補償として共和党急進派が唱えた「40エーカーとラバ一頭」12の約束

を連邦政府が反古にしたことへの憎しみが黒人コミュニティの中で根強く残っていると感じてい た13

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of Islam)に所属していた時期の彼の考えを継承し、黒人の経済的独立とアメリカ国内における黒

人国家の建設を目指す新アフリカ共和国(Republic of New Afrika)が設立された14。さらに、学生

非暴力調整委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee)の指導者ジェームス・フォアマン (James Forman)は「黒人宣言(Black Manifest)」を発表し、キリスト教会とユダヤ教のシナゴー

グ会堂に5億ドルの賠償金を請求した15。しかし、新アフリカ共和国のような分離主義の考えに多 くの公民権運動家は反対の姿勢を示しており、「黒人宣言」に対する一般的な反応は冷淡なもので あった16。こうして1970年代初頭には黒人に対する賠償という考え方は概ね姿を消すことになる。  賠償を求める気運が再度強まったのは CLA の成立後である17。CLA が成立した翌年の1989年、 下院議員ジョン・カンヤーズ(John Conyers)が、奴隷制が今日のアフリカ系に与えている影響を 調査する委員会の設置を求める下院40法案を提出した18。さらに、2002年にはアフリカ系の弁護士 ディアドリア・ファーマー・ぺルマン(Deadria Farmer-Paellmann)がフリートボストン、エトナ保険、 CSX など奴隷制から利益を上げた企業に対して損害賠償を求める訴訟を起こし、ハーヴァード法 科大学院の教授であり賠償請求調整委員会(Reparations Coordinating Committee)の共同議長を務 めるチャールズ・J・オーグルトゥリー(Charles J. Ogletree)は、同訴訟に関する記事を『ニューヨー ク・タイムズ』に掲載した19。この記事の中でオーグルトゥリーは、リドレスを賠償の先例の一つ として挙げた上で、奴隷制への賠償請求のルーツは「40エーカーとラバ一頭」にあるとし、賠償請 求運動は人種統合またはアファーマティヴ・アクション(以下、AA と略記)の恩恵を実質的に受 けてこなかった人々への包括的な問題解決の機会を与えるものであるべきだと主張した20  このように、黒人に対する賠償の議論と賠償請求運動が活発化したのは CLA の成立後であった ことから、賠償請求運動に同法が一定の影響を与えたことは明白である。ただし、そのような動向 を理解するには、リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)政権期に導入された AA に対する反対 論の高まりと、公民権法制定後におけるアフリカ系「アンダークラス」問題の深刻化という、アフ リカ系を取り巻く社会的状況にも目を配る必要がある。  そもそも AA は、奴隷制やジム・クロウ制度による人種分離、制度的な人種差別の被害へのある 程度の賠償を達成するために立案された21。しかし、AA の推進根拠は「過去における差別の是正」 から「多様性の確保」の議論に取って代わられ、さらには「逆差別」の風潮が強まることになる22 このように AA の推進根拠が変化し、AA の支持が失われる中、奴隷制および人種分離が引き起こ したとされる不平等を埋め合わせるための賠償を求める声が強まった23。カリフォルニア州で AA が廃止された2年後に、ロバート・ウェストリー(Robert Westley)が「過去の不正の永続化を防 ぐ方法としてのアメリカ黒人に対する」AA は「瀕死の状態」にあり、今必要なことは「賠償の議 論を復活させることだ」と主張したことからも24、賠償要求の声が新たに強まった背景に AA の後 退があったことが分かる。  また、先のオーグルトゥリーが賠償請求運動の主たる目標として「貧困者の中で最も貧しい人々」 の救済を掲げているが25、その背景として公民権法制定後におけるアフリカ系「アンダークラス」 問題の深刻化を理解する必要がある。『アメリカ黒人の現状』の1990年版は「アンダークラス」を「長

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い間誰も労働に従事しておらず、最も貧しい階層にいる家族」と定義し、「アンダークラス」の増 加を示すデータを提示している。そのデータによると、1969年以降にアフリカ系の富裕層が増加し た一方、1969年にアフリカ系世帯全体の14%であった「アンダークラス」は1986年には30%を占め るようになった26。このように1969年以降にアフリカ系社会内部の分極化が起こり「アンダークラ ス」が増加した。また、依然として白人とアフリカ系の貧困率および極貧困率の格差も歴然として いる27  以上のように、本稿第三節が扱う1980年代は、黒人に対する賠償の考えが水面下に沈み賠償請求 運動も下火の時代であった。また後述のように、当時の黒人に対する賠償の議論や賠償請求運動は、 本節で確認した AA 反対論の高まりやアフリカ系の経済的問題とも密接に結びついていた。その具 体的な記述は第三節に行うが、次節ではその前史として、1970年代におけるアフリカ系新聞の強制 収容に関する記事内容を分析する。

第二節 人種差別政策としての強制収容政策

 前述のように、先行研究は1970年代にアフリカ系新聞がリドレス運動に「無言」であったと指摘 したが、強制収容に関する記事自体は掲載されていたことが確認できる。では、そこに見られる関 心の根底にはいかなる意識があったのだろうか。本節では、1970年代におけるアフリカ系新聞の強 制収容に関する報道内容を検討する。  『クーリエ』紙のコラムニストは「何千人ものドイツ人とイタリア人は自由に行動することができ、 [中略]拘留されることはなかった。彼らは白人であり、日本人は白人ではなかった。彼ら[日系 人]は強制収容所に行ったのだ」と強制収容政策に潜む人種差別主義を批判していた28。また、『ト リビューン』紙の社説も「ドイツ系とイタリア系に対しては、真夜中に家から強制収容所へと連行 され全ての権利と財産が奪われるということは決して起こらなかった。しかし、日系市民は非米的 な集団として非民主的な待遇を受けた」と強制収容政策の人種差別的側面を強調し、「国家元首に 基本的な憲法上の権利を一時停止させてしまう非常権限を与えることは悲劇的で危険なこと」であ るとして、国家の責任をも追及していた29。このように、アフリカ系新聞は主に人種の観点から強 制収容政策を取り上げていたのである30  こうした人種差別政策としての強制収容政策は「1950年国内治安維持法」第2項31への懸念を示 す際にも取り上げられた。例えば、『アフロ』紙は同項が黒人の拘禁を目的に発動されることを不 安視していた下院議員パーレン・ミッチェル(Parren Mitchell)の発言を取り上げた。彼は「今日 の我々の多くは、日系アメリカ人が拘禁された第二次世界大戦中のアメリカの強制収容所を想起す る世代」であり「黒人として、私はその犯罪的行為にある人種差別主義の性質を見逃すことはでき ない」と強制収容政策を非難しながら、強制収容所を合法的なものと見なさないことが重要だと主 張した32。『ジャーナル&ガイド』紙のコラムニストは、かつて「祖先が日本人である」ことを理 由に日系人が収容されたように、アフリカ系が「黒人であること」を理由に収容される可能性があ るとの懸念を示した33

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 以上、1970年代におけるアフリカ系新聞の強制収容政策に対する関心の根底にあったのは、同政 策の人種差別的側面であり、同様の出来事がアフリカ系の身にも起きることへの懸念であった。次 節では、リドレス運動が大きく展開する1980年代にアフリカ系が強制収容政策をどのように捉え、 いかなる観点からリドレス運動を見ていたのかを考察する。

第三節 アフリカ系のリドレス運動観

 1980年の強制収容調査委員会の設置後、リドレス運動に対するアフリカ系の関心は高まりを見 せ34、強制収容や日系人に対する証言や手紙がアフリカ系から調査委員のもとへ寄せられた。また、 公聴会開催後もアフリカ系の新聞、運動家、議員の多くがリドレス運動に言及していた。そうした アフリカ系の立場は、リドレス運動支持派と黒人賠償優先派に大別することができる。本節では、 まず両者の主張を確認し、その主張の違いの要因を考察した上で、賠償請求運動をリードした黒人 賠償優先派の人々の活動を検討することにする。以下にその立場を整理してみる。 ⑴ リドレス運動支持派  リドレス運動支持派は強制収容政策を批判し、日系人に対して行われた「不正」を二度と繰り 返さないための解決策と、被害者である日系人への救済策を講じる必要があると主張した。例え ば、ワシントン D.C.の公聴会で証言したカリフォルニア州選出の下院議員マーヴィン・ダイマリー (Mervyn Dymally)は、大戦時に日系人が経験した苦悩について話した後に、1979年のイラン革命 とアメリカ国内の反応について意見を述べた。イランが反米路線をとることになるイラン革命の最 中、テヘランで革命派の学生がアメリカ大使館を占拠し、大使館員が人質となった。その際にアメ リカ国内では「合衆国内にいるイラン人を収容すべきだ」という意見があったことを指摘し、調査 委員に対して「あなた方には真実を正確に報告する義務がある。そして何より、この[不合理な理 由でマイノリティが虐げられるアメリカ国内の]状況を正すために」適切な行動を取るべきだと主 張した35。ダイマリーは、日系人が被ったような不正行為が他のマイノリティ集団に対して再び起 こることを懸念していたのである。  ダイマリーと同様の意見は、ロサンゼルス市長のトム・ブラッドリー(Tom Bradley)による証 言にも見られた。ブラッドリーは「肌の色が違うという理由で彼や彼女の隣人に疑いの目を向ける ようなことは二度と行ってはいけない」と主張し、日系人の身に起きたようなことが二度と繰り返 されないためにも調査委員の全員が「公聴会とそれにより明らかにされたことをつうじて、何かし らの解決策と示唆を得る」ことが必要だと訴えた36

 全国都市同盟(National Urban League)代表のジョン・E・ジェイコブ(John E. Jacob)は自身 のコラムの中で、強制収容政策は人種差別に基づいて実行されたとして「醜い人種差別は[中略] 黒人だけでなく他の多くの集団にも向けられている」と述べた。彼は強制収容政策やアジア系差別 を黒人差別と同一視しながら批判したのである。そして日系人への「国家的謝罪」と「金銭的補償」 は成し遂げられる必要があると訴えた上で「過去の過ちと現在の不正を認め[中略]それらを是正

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する」ことが何よりも重要なのだと結論づけた37。1987年9月の第100議会では、オークランド出 身の下院議員ロン・デラムズ(Ron Dellums)が、収容されることに恐怖を感じていた日系人の親 友のことを一度も忘れたことがないと述べ、「アメリカ黒人」としてリドレス法案の通過に賛成の 立場を示した38  このように、リドレス運動支持派は強制収容政策を人種差別的行為として捉え、同じことが二度 と繰り返されないための解決策と日系人への救済策が必要だと訴えていた。 ⑵ 黒人賠償優先派  一方、黒人賠償優先派は主に強制収容と奴隷制、日系人と黒人の比較により、黒人に対する賠償 の優先性を主張した。例えば、シアトルの公聴会で証言した賠償組織、SDC のロバート・L・ブロッ クは奴隷制における財産相続の問題に焦点を当てながら、黒人の抱える問題が日系人に比べて深刻 だと訴えた。最初に「私が今日ここにいるのは、日系人ではなく黒人こそが賠償を受けるべきなの はなぜか、ということについて一定の課題と内容を明確にするためである」と公聴会に出席した理 由を述べた。そしてブロックは、日系移民が自分の意志でアメリカに来た人々であり、自分たちが 築いた財産を子孫へ受け継ぐことが可能であったこと対して、黒人はアメリカに連行され奴隷とさ れたために財産を相続することができなかったのだと主張した。ブロックは日系人が財産を失った ことにも言及していたが、それは奴隷制における財産相続問題を提起するためであった。つまり、 奴隷制の中に組み込まれていたために財産の相続ができなかった黒人こそが最初に賠償されるべき だ、というのがブロックの考えであった。ただし、ブロックは日系人への賠償に反対していたわけ ではない。彼は強制収容政策を批判しており、証言の結論部分では「日系人は賠償金を受け取るの にふさわしい」と発言していた39  ブロックの後に証言したのは、SDC のゲイロード・キニー(Gaylord Kinney)であった。キニーは「ア メリカの日系市民が被ったのは市民権の侵害」である一方で「黒人が奴隷化されたことで被ったの は人権の侵害」だったとして、人権侵害の被害者である黒人への賠償が優先されるべきだと主張し た。ただし「私の証言は監禁された日系人が受けた侮辱や被害、結果として生じた賠償要求を軽視 するものではない。彼らは賠償を受ける権利を有しており、それに値する存在である」と述べていた。 この発言から、彼が反リドレス運動の立場を取っていたわけではなかったことが分かる。キニーが 最も問題視していたのはアメリカ政府の対応であった。すなわちキニーは、「アメリカ黒人に対す る罪深き捕獲と奴隷化の問題に取り組むことを拒否する一方で」日系人の賠償問題に関しては公聴 会の開催など積極的に取り組んでいるアメリカ政府に憤りを感じていたのである40

 「新しい生活と自由のための組織(Organization for a New Life and Freedom)」代表のクラレンス・ レイノルズ(Clarence Reynolds)は、ニューヨークの公聴会で「我々は、大戦時にあなた方が不当 な扱いを受けたことを知っている。だが、我々もまた、350年間も不当な扱いを受けている」と述 べた。そして「賠償を受ける権利を有する者がいるとすれば、それは2600万人以上のアメリカ黒人、 つまりアフリカの家と家族から引き離され、鎖でつながれてこの土地に連れて来られた黒人の子孫

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だ。彼らが奴隷として課せられた苦役と流した汗がこの国を築き上げたのだ」と主張した。レイノ ルズの証言は、日系人よりも黒人の方がはるかに長い期間にわたって不当な扱いを受けているにも 拘らず、未だに賠償がなされていないことを強調するものであった41  『センチネル』紙のコラムニスト、スタンリー・G・ロバートソン(Stanley G. Robertson)は自 身のコラムにて、日系人が差別に苦しんだことや強制収容所に収監されたことに同情しながらも、 「もし精神的・金銭的損失に対する賠償金が日系アメリカ人に支払われるのであれば、[負の遺産 によって]彼ら[日系人]よりも長い期間にわたって、より一層強く苦しみ、衰弱している数百万 人のアメリカ黒人はどうなるのか?」との疑問を投げかけた。そして「賠償を求める日系アメリカ 人には正当な確固たる根拠がある。我々が被ってきた苦難は賠償を求めるのにより強い論拠となる のだから、日系アメリカ人が賠償を勝ち取るのであれば黒人はすぐさま法廷に行き、何らかの形で 損害賠償を要求するべきである」と、黒人に対する賠償の必然性を主張していた42  ただし、ロバートソンは自分の議論が日系人批判を意味するものではないとも述べていた。彼の 議論の根本にあったのは黒人に対するアメリカ政府の賠償義務である。ロバートソンは、「アメリ カ政府には違法であり不当な収監を生き延びた日系アメリカ人への責任がある。これは疑う余地 もない。しかし、この国に不法に連れて来られ、奴隷制度の中で200年以上保有され、強制的な奴 隷労働の残存する影響によって今も苦しんでいる黒人に、同じ政府が負っているものは何だろう か?」と、黒人の窮状に対するアメリカ政府の責任を論じていた43。「アメリカ黒人に対して連邦 政府が補償するように我々が提唱した最近の連載記事は[中略]反響を呼んだ」と述べたことからも、 黒人に対するアメリカ政府の賠償義務を読者に訴えるために自身のコラムを載せたことが分かる44  アフリカ系の記者、ロゼル・リーヴェル(Rozell Leavell)も「[強制収容に]法律上の問題があっ たことに関しても、偏見と拘禁によって[日系人が]不当に苦しめられたことについても異論はな い」との見解を示していた。しかし、1619年から現在に至るまで未だに黒人が差別に苦しんでいる と主張し、日系人が賠償されるのであれば、黒人も同様に賠償されるべきだと訴えていた45。『ア ムステルダム』紙は、リドレス運動を引き合いに出しながら、奴隷貿易に対する賠償や依然として 果たされていない「40エーカーとラバ一頭」の約束をアフリカ系コミュニティの中で共有するべき だと訴える記事を載せていた46  以上のように、黒人賠償優先派は、国家的不正に対してリドレスを要求する日系人に理解を示し つつも、強制収容と日系人を奴隷制と黒人の比較対象として引き合いに出すことで、奴隷制の残虐 性と黒人に対する賠償問題の重要性を提示し、これまでの黒人差別こそがアメリカ政府が最優先に 取り組むべき賠償問題だと主張した。すなわち、⑴「自発的」にアメリカに来た日本人とは異なり、 アフリカから強制的に連行され奴隷化された黒人は財産を築けなかったこと、⑵強制収容が「市民 権侵害」である一方で奴隷制が「人権侵害」であったこと、⑶奴隷時代から現在に至るまで差別さ れ苦しみ続けている黒人は日系人以上に酷く長い人種差別の被害者であることを根拠として、黒人 に対する賠償の優先性を主張していたのである。

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⑶ リドレス運動支持派と黒人賠償優先派の主張の相違  こうしたリドレス運動支持派と黒人賠償優先派の主張の相違は、強制収容政策を人種差別的行為 として捉えた際の、黒人差別に対する位置づけの違いから生じていたと考えられる。すなわち、リ ドレス運動支持派は、マイノリティ集団に対する人種差別という大きな枠組みの中で強制収容を捉 え、同じ過ちが再びマイノリティ集団に起きないようにするための手段として賠償を認識していた。 しかしながら黒人賠償優先派は、強制収容を黒人差別と同じ枠組みで捉えてはおらず、黒人差別が 日系差別よりも深刻なものだという強い意識を有していたのである。そのため、今も経済的・社会 的窮状に直面しているアフリカ系にこそ賠償が優先されるべきだと考えていた。  さらに黒人賠償優先派の人々は、賠償の優先性の主張に留まらず、賠償の実現に向け自分たちの 運動を具体的に進めていた。多くの賠償運動家たちは常にリドレス運動に言及しながら賠償請求運 動を進めており、アフリカ系新聞は彼らの活動や発言を報道したのである。以下、項をあらため、 賠償運動家たちの動きとアフリカ系新聞の報道内容を具体的にみていく。 ⑷ 賠償請求運動の一側面としてのリドレス運動  SDC のブロックとキニーがシアトルの公聴会で証言した約2ヵ月後、賠償問題とブロックに関 する記事が『センチネル』紙に掲載された。この記事では、ブロックが「長い間、黒人にふさわし い賠償と自決を提唱して」おり、「過去と現在における苦しみへの賠償を得る権利があるというこ とを黒人たちに理解させるため、この課題に関する大規模な調査と執筆活動を行っている」と、ブ ロックの活動内容が紹介された。また、この記事では賠償に対する SDC 広報担当者の見解も示さ れていた。それによれば「全米規模で行われた日系人の賠償に関する公聴会に続いて、黒人への賠 償問題が国民の心に再び浮かび上がってきたように思える」とし、「もし賠償を要求している日系 市民に十分な根拠があるのだとすれば、黒人市民には[賠償を求めるのに]より強い根拠がある」 のであった47  ブロックを含め SDC は、リドレス運動が注目を集めることになった公聴会を契機として、黒人 に対する賠償という考え方を拡大させ賠償請求運動が高揚する状況を作り出そうとしていた。その ために賠償に関する集会を度々開き、日系人が賠償を求めて運動を展開していることに言及しなが ら集会の宣伝を行っていた48。ここから明らかなのは、過去から現在に至るまでの黒人の窮状に対 する「賠償を得る権利があるということを黒人たちに理解させる」必要があると、ブロックたちが 考えていたことである49。「日系人が要求しているように、長い間未払いだった賠償を獲得するた めに進行している運動について学びたい黒人は[中略]民族自決委員会の定例会議に参加すること で学ぶことができるであろう」というブロックの発言からも、リドレス運動に倣い黒人に対する賠 償問題への注目を集めようとしていたことが分かる50  さらに、日系人へのリドレスを求める下院442法案が下院を通過した後の1988年6月26日には、 ブロックと SDC がアメリカ合衆国を被告として集ク ラ ス ・ ア ク シ ョ ン団代表訴訟を行い、アフリカ人への不正が国家 によって行われたことや奴隷化により今も奴隷の子孫が苦しんでいることを国家が認め、金銭的補

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償として50万ドルを、非金銭的補償として土地、教育、職業訓練などを全てのアフリカ系に与える ことを要求した51。その後『アムステルダム』紙は、3年間の収容に対して日系人が賠償金を受け取っ たことで、300年以上補償がなされていない動産奴隷に対する賠償金を受け取ることへの意識がア メリカ黒人の間で高まっているという SDC の主張と、SDC による訴訟内容に関する記事を掲載し た52。SDC の主張は認められなかったものの、訴訟の時期からは下院442法案の下院通過が SDC の 行動を促進したことが読み取れる。  下院442法案の下院通過後の1987年9月26日には、アメリカ黒人賠償請求連合(The National Coalition of Blacks for Reparations in America: N’COBRA)が設立された。N’COBRA は、アメリカ におけるアフリカ人の子孫への賠償を獲得することを目的として、黒人弁護士全国協議会(National Conference of Black Lawyers)、新アフリカ人民機構(New Afrikan People’s Organization)、新アフリ

カ共和国といった既存の黒人組織のメンバーにより創設された組織である53。N’COBRA の創設は、

黒人弁護士全国協議会が1987年9月11日にハーヴァード法科大学院で開催した賠償に関する会議で、 新アフリカ共和国の創設者であり黒人に対する賠償の考えと賠償請求運動への支持拡大の必要性を

訴えていたイマリ・アブバカリ・オバデレ(Imari Abubakari Obadele)によって提唱された54

 さらに、この会議では賠償に関する三本の論説が配布された。それらの論説は一部修正が加えら れた後に N’COBRA のメンバーが起草した賠償法案とともに小冊子に収録され、1988年の5月に発 刊された。論説執筆者の一人であり新アフリカ共和国のメンバーであるヌケチ・タイファ(Nkechi Taifa)は、賠償の先例として下院442法案を取りあげた上で、アメリカ政府もアメリカ企業も未だ に黒人に賠償していないことを批判した。さらに、賠償と AA を結び付け、「[AA が]賠償金の清 算として十分だという議論すら機能しなくなるだろう。これらのプログラムが逆差別の訴訟によっ て継続的に激しい攻撃を受けているからだ」と論じた55。AA が「逆差別」だという批判が高まっ ていた状況に対して、タイファは危機感を感じていたのであろう。AA 反対論が勢いを増す中、タ イファは下院442法案の下院通過を先例として挙げ、黒人への賠償も実現されるべきだと訴えてい たのである。『センチネル』紙は1988年3月の記事の中で「日系アメリカ人強制収容への賠償法案 に対する下院の好意的な措置の結果として、黒人への賠償、すなわち奴隷制への賠償金を獲得する ための運動が再び注目を集めている」とし、N’COBRA による小冊子の出版によって賠償請求運動 の勢いが増していると報じた56  しかし、N’COBRA の考えは多くのアフリカ系に支持されたわけではなかった。この小冊子に収 録された N’COBRA が起草した賠償法案は次のようなものであった。これまでに奴隷および奴隷の 子孫への政治的な救済策が一度も講じられなかったことから、連邦政府はアフリカ系を対象とした 一般投票を行う。その際に、アフリカ系は⑴アフリカへ帰還するか⑵アフリカではない国へ移住す るか⑶アメリカ市民として生活するか⑷アメリカ国内における黒人独立国家を建設するのかを選ぶ ことになる。また、⑷の黒人国家の建設に関しては、連邦政府が金銭的に支援する。以上が、彼ら が考えた賠償法案の内容であった57。しかしながらエリック・K・ヤマモト(Eric K. Yamamoto) によれば、このような提案はすぐさま障害に直面することになったという。その理由として第一に、

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黒人賠償に関してはアメリカ市民の間で強い意見の相違があった。第二に、アフリカ系を対象とし た全米規模の投票は財政的にも困難であった。そして何より、アフリカ系の多くは黒人国家の建設 を求めていなかった58  ただし、リドレス運動の「勝利」確定後も N’COBRA は運動を進め、多くのアフリカ系知識人も それを支持した59。そして21世紀の幕開けとともに、賠償の最終目標を「資源の再分配」と位置づ けるオーグルトゥリーらによる賠償請求訴訟運動へとつながっていく60  以上のように本節では、リドレス運動に対するアフリカ系の立場と主張を考察し、リドレス運動 期におけるアフリカ系自身の賠償請求運動を検討した。本節でみたように、リドレス運動に対する アフリカ系の立場は、リドレス運動支持派と黒人賠償優先派に分かれていた。そして、その両者の 意見の相違は、強制収容政策を人種差別的行為として捉えた際の、黒人差別に対する位置づけの違 いから生じていた。リドレス運動支持派は、マイノリティ集団に対する人種差別という大きな枠組 みの中で強制収容を捉え、同じ過ちが再びマイノリティ集団に起きることを防ぐための手段として 賠償をみていた。一方、黒人賠償優先派は、奴隷制および現代にまで至る黒人差別が日系差別より も深刻なものだと捉え、賠償は今も経済的・社会的窮状に直面しているアフリカ系に優先されるべ きものだと考えていた。そこで黒人賠償優先派の人々は、リドレス運動を利用しながらアフリカ系 に対する賠償の考えの拡大と実現のために活動していた。  以上の検討から、リドレス運動は、強制収容政策と同等の過ちが再びマイノリティ集団に行われ ることを防ぐ必要があると感じていたアフリカ系にとっては支持すべき運動であった一方、依然と してアフリカ系の経済的・社会的問題が解決していないために自分たちに賠償が優先されるべきだ と主張していたアフリカ系にとっては、賠償請求運動の活発化と成功のために利用すべき運動で あったと総括できよう。

おわりに

 本稿では、アフリカ系の賠償請求運動史をふまえつつ、アフリカ系新聞、公聴会記録、賠償組織 による発行物を史料として用いながら、アフリカ系のリドレス運動観を考察した。従来の研究動向 として、リドレス運動の展開過程における日系人と他のマイノリティ集団の連帯が強調されてきた が、他のマイノリティ集団の視点から同運動を検討する研究は皆無に近い。そこで本稿では、この 研究史上のギャップを埋めるべくアフリカ系の視点を取り入れた。先行研究により、リドレス運動 に対するアフリカ系の立場や主張は既に指摘されていたが、本稿ではそれらを支える論理を考察し、 リドレス運動期におけるアフリカ系の賠償請求運動を検討した。これらの作業を通して、以下のこ とが明らかとなった。  1970年代から1980年代にかけて、アフリカ系の中で強制収容政策が人種差別だという意識は共有 されていたが、黒人差別に対する位置づけはアフリカ系内部で異なっており、それはリドレス運動 に対する立場の違いにも通底していた。リドレス運動支持派は、マイノリティ集団に対する人種差 別という大きな枠組みの中で強制収容政策を捉えていたため、同じ過ちが再び起こることを防ぐた

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めにリドレス運動への明確な支持を表明していた。一方、黒人賠償優先派は、奴隷制および現代に 至るまでの黒人差別が日系差別以上に深刻なものだと捉えていたため、今も経済的・社会的に苦し んでいるアフリカ系にこそ賠償が優先されるべきだと主張し、リドレス運動を利用しながらアフリ カ系に対する賠償の考えの拡大と実現のために活動していた。  黒人賠償優先派を形成したのは、主にアフリカ系新聞のジャーナリストおよび賠償運動家であ る。ただし、彼らは反日系人または反リドレス運動の姿勢を示していたわけではない。強制収容政 策を正当化するような意見や、日系人へのリドレスを完全に否定するような発言は見当たらなかっ た。彼らはリドレス運動に対して、明確に支持の立場を取ったわけでも反対の立場を取ったわけで もない。そのような立場からリドレス運動を見ていたわけではなく、いかに同運動を活用し、どの ように賠償請求運動を展開すべきかを考えながら行動していたのである。本稿でみたように、賠償 運動家たちはリドレス運動の展開過程においてアフリカ系に対する賠償の考えを拡大させようと試 み、下院で承認された下院442法案を先例と捉え、訴訟や新組織の設立、小冊子の発行をつうじて 未だに行われていないアフリカ系への賠償を実現させようと活動していた。そして、アフリカ系新 聞はそうした賠償運動家たちの発言や行動をリドレス運動と関連付けながら報道していた。  1980年代は、賠償の考えがアフリカ系の間に浸透してはおらず、賠償請求運動も下火であったと 同時に、AA に対する反対論の高まりと、アフリカ系社会内部の分極化が起きていた時代でもあっ た。そのような時代に、賠償をアフリカ系が抱える経済的・社会的問題を解決する手段としてアフ リカ系の間に浸透させ、賠償請求運動の活発化と成功のために利用されていたのが、リドレス運動 であった。この意味でリドレス運動は日系人の運動に留まるものではなく、アフリカ系の賠償請求 運動を推進するための戦略の一部をなしたと言えよう。  本稿では CLA 成立までを対象期間としたが、CLA の成立後にアフリカ系の賠償請求運動が活発 化したことから、今後は立法措置による「勝利」確定後にも着目した、より長期的な視点からアフ リカ系のリドレス運動観を考察したい。CLA の成立後、リドレス運動に対するアフリカ系の関心 や評価はどのように変化したのか。また、アフリカ系による賠償請求運動の社会的・政治的戦略や 賠償の理念・最終目標は1990年代以降いかなる変遷をたどり、そうした変化にリドレス運動はどの ような影響を与えたのか。これらの点については、稿をあらためて論究していくことにしたい。

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1 例えば、レスリー・T・ハタミヤ(Leslie T. Hatamiya)は CLA の成立過程における他のアジア系からのリ ドレス運動支持の重要性を指摘している。また、竹沢泰子はリドレス運動の展開過程における日系人と他の アジア系の連帯を強調している。ミッチェル・T・マキ(Mitchell T. Maki)らはアフリカ系およびヒスパニッ ク系議員がリドレス法案を支持したことに言及しており、デール・ミナミ(Dale Minami)や石井修はその ような他のマイノリティ議員との連帯をリドレス運動の「成功」要因の一つとして重要視する。土田久美子 は日系組織の一つに焦点を当て、同組織が他のマイノリティ集団との連帯構築を模索していたと指摘してい る。Leslie T. Hatamiya, Righting a Wrong: Japanese Americans and the Passage of the Civil Liberties Act of 1988 (California: Stanford University Press, 1993), 59, 147-48, 155; 竹沢泰子『日系アメリカ人のエスニシティ―― 強制収容と補償運動による変遷』東京大学出版会、1995年、201-04頁 ; Mitchell T. Maki, Harry H. L. Kitano, and S. Megan Berthold, Achieving the Impossible Dream: How Japanese Americans Obtained Redress(Chicago: University of Illinois Press, 1999), 75, 142; Dale Minami, “Japanese-American Redress,” Berkeley Journal of

African-American Law & Policy 6, no. 1(January 2004): 33-34; 石井修「『リドレス』と『リメンブランス』―

―日系米人社会の『歴史の記憶』」『明治学院大学法学研究』明治学院大学法学会、85(2008)、40-41頁 ; 土 田久美子『日系アメリカ人リドレス運動の展開過程――集合的アイデンティティと制度形成』博士論文、東 北大学、2008年。

2 Hatamiya, 156.

3 例えば、マキらの研究では、リドレス運動を支持したアフリカ系およびヒスパニック系議員は本論で 取りあげられているものの、支持しなかったアフリカ系議員は脚注扱いにされている。Maki, Kitano, and Berthold, 142, 264.

4 アフリカ系の法学者は1993年の論考の中で、賠償されるのが「なぜ彼ら[日系]であり、[アフリカ系で ある]私ではないのか?」との心境を吐露している。また、アフリカ系コミュニティの草の根レベルでも同 様の反応があったことを指摘している。Vincene Verdun, “If the Shoes Fit, Wear It: An Analysis of Reparations to African Americans,” Tulsa Law Review 67, no. 3(February 1993): 647-48.

5 Greg Robinson, “The Paradox of Reparations: Japanese Americans and African Americans at the Crossroads of Alliance and Conflict,” in Minority Relations: Intergroup Conflict and Cooperation, ed. Greg Robinson and Robert S. Chang(Jackson: University Press of Mississippi, 2017): 160, 170-72.

6 Ibid., 173-82.

7 本稿が扱う7紙は次の通り。『アフロ(Baltimore Afro-American)』紙、『ディフェンダー(Chicago Defender)』紙、 『センチネル(Los Angeles Sentinel)』紙 、『クーリエ(New Pittsburgh Courier)』紙、『アムステルダム(New

York Amsterdam News)』紙、『ジャーナル&ガイド(Norfolk Journal and Guide)』紙、『トリビューン(Philadelphia

Tribune)』 紙。また、アフリカ系新聞を史料として用いた文献としては、例えば次のようなものがある。

Reginald Kearney, African American Views on the Japanese: Solidariy or Sedition?(New York: State University of New York Press).

8 なお政治姿勢に関しては、1970年代に多くのアフリカ系新聞が民主党支持の姿勢を示し、1980年代にレー ガン大統領に強く反発していたことから、リベラル寄りの姿勢を共通して有していたと考えられる。Roland E. Wolseley, The Black Press, U.S.A., 2nd ed.(Ames: Iowa State University Press, 1990), 20; “The story of the African American Press,” The Crisis, July/August, 1999.

9 川島正樹『アメリカ市民権運動の歴史――連鎖する地域闘争と合衆国社会』名古屋出版会、2008年、9、357頁 ; John Torpey, Making Whole What Has Been Smashed: On Reparations Politics(Massachusetts: Harvard University Press, 2006), 113.

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campaign/?Welcome(accessed December 19, 2017).

11 Robert C. Smith, We Have No Leaders: African Americans in the Post-Civil Rights Era(New York: State University of New York Press, 1996), 190.

12 ただし「ラバ一頭」は元々与えられるものではなく、耕作用のラバが軍から貸し出される予定であった という。川島正樹『アファーマティヴ・アクションの行方――過去と未来に向き合うアメリカ』名古屋大 学出版会、2014年、61-62頁 ; Eric Foner, Reconstruction: America’s Unfinished Revolution, 1863-1877(New York: Harper & Row, 1988), 70-71.

13 Stephen E. Atkins, Holocaust Denial as an International Movement(Connecticut: Praeger, 2009), 185; Kevin D. Roberts, African American Issue(Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2006), 2.

14 マルコム X は黒人と白人の分離とアメリカ国内における黒人国家の建設を唱えていたが、ネイション・ オブ・イスラムから離脱しアフリカ歴訪を終えた後には分離主義を唱えることはなくなり、黒人国家の建設 をも否定していた。Diane C. Fujino. Heartbeat of Struggle: The Revolutionary Life of Yuri Kochiyama(Minneapolis: University of Minnesota Press, 2005), 177; George Breitman, The Last Year of Malcom X(New York: Pathfinder, 1967), 57-64.

15 National Black Economic Development Conference, 1969, “The Black Manifesto,” in Redress for Historical

Injustices in the United States on Reparations for Slavery, Jim Crow, and Their Legacies, 593-99.

16 Torpey, 113; C. Vann Woodward, The Strange Career of Jim Crow, A Commemorative ed.(New York: Oxford University Press, 2002), 198.

17 Torpey, 113.

18 下院40法案は否決されたが、法学者ロイ・J・ブルックス(Roy J. Brooks)は同法案により賠償請求運動 が活性化したとしてカンヤーズの行動を評価した。Roy L. Brooks, Atonement and Forgiveness: A New Model

for Black Reparations(Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 2004), 12.

19 Torpey, 107, 123.

20 Charles J. Ogletree, Jr., “Litigating the Legacy of Slavery,” New York Times, March 31, 2002.

21 Manning Marable, “Staying on the Path to Racial Equality,” in The Affirmative Action Debate, ed. George E.  Curry(Massachusetts: Perseus Publishing, 1996), 4.

22 AA 正当化論と「逆差別」については次を参照。岡本葵、藤田英典「アメリカにおけるアファーマティブ・ アクションの展開――制度・争点・課題」『教育研究』国際基督教大学、51(2009)、94-97頁。

23 Torpey, 109.

24 Robert Westley, “Many Billions Gone: Is It Time to Reconsider the Case for Black Reparations?” Boston College

Third World Law Journal 19, no. 12(December 1998): 429, 432.

25 Ogletree, “Litigating the Legacy of Slavery.”

26 Andrew Billingsley “Understanding African-American Family Diversity,” in The State of Black America 1990, ed. Janet Dewart(New York: National Urban League, 1990), 96-97.

27 貧困率に関しては次を参照。Stephan Thernstrom and Abigail Thernstrom, America in Black and White: One

Nation, Indivisible(New York: Simon & Schuster, 1997), 233-34; ティム・ワイズ『アメリカ人種問題のジレン

マ――オバマのカラー・ブラインド戦略のゆくえ』脇浜義明訳、明石書店、2011年、65-68頁。 28 Pamala Haynes, “Right on,” New Pittsburgh Courier, July 22, 1972.

29 Editorial, “Blemish on the Collective Conscience of the United States,” Philadelphia Tribune, August 13, 1977. 30 人種の観点から強制収容政策を取り上げた他のアフリカ系新聞の記事については次を参照。G. James

Fleming, “Now and Then Concentration Camps,” Baltimore Afro-American, February 27, 1971; Benjamin Hooks, “Plain Talk,” New York Amsterdam News, December 3, 1975.

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31 これは、スパイ活動または破壊活動に関与する可能性があると司法省が判断した人物の逮捕・拘禁を可 能とするものである。もともとは国内の共産主義者への恐れから1950年に成立した法律であったが、勢い を増すアフリカ系の運動やヴェトナム反戦運動に対して政府が警察の力を行使するという状況下で、アフ リカ系の指導者は激しい抑圧と強制収容所の設置を不安視するようになっていた。Raymond Okamura et al., “Campaign to Repeal the Emergency Detention Act,” Amerasia Journal 2, no. 2(1974): 73-74.

32 “Mitchell scores McCarran Act,” Baltimore Afro-American, March 27, 1971.

33 Augustus F. Hawkins “Congressman Hawkins’ Column,” Norfolk Journal and Guide, September 11, 1971.

34 公聴会開催に関するアフリカ系新聞の記事は次を参照。“Victims of Racism,” Baltimore Afro-American, November 8, 1980; Editorial, “Japanese Americans,” Chicago Defender, August 25, 1981.

35 The Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians, Public hearings of the Commission on

Wartime Relocation and Internment of Civilians, 1981, Volume 1, Washington, D.C., July 14, 1981, 34-39.

36 CWRIC, Public hearings, Volume 2, Los Angeles, CA, August 4, 1981, 43-49. 37 John E. Jacob, “Remedying a Wrong,” Norfolk Journal and Guide, September 12, 1984.

38 Ronald Dellums, “The Total Community,” in Only What We Could Carry: The Japanese American Internment

Experience, ed. Lawson Fusao Inada(California: California Historical Society, 2000), 33-34.

39 CWRIC, Public hearings, Volume 4, Seattle, WA, September 11, 1981, 51-56. 40 Ibid., 58-59.

41 CWRIC, Public hearings, Volume 6, New York, NY, November 23, 1981, 183-85, 189.

42 Stanley G. Robertson, “Blacks, Too, Should Be Reimbursed,” L.A. Confidential, Los Angeles Sentinel, August 13, 1981.

43 Stanley G. Robertson, “Reparations for Blacks? Part III,” LA Confidential, Los Angeles Sentinel, July 21, 1983. 44 Stanley G. Robertson, “Reparations Series Draws Letters,” LA Confidential, Los Angeles Sentinel, August 4, 1983. 45 Rozell Leavell, “Due: 40 Acres, Mule,” Los Angeles Sentinel, October 1, 1987.

46 Yusuf A. Salaam, “Books: The Savage Surf Lashing History’s Shores,” New York Amsterdam News, October 16, 1982.

47 “Black Reparations Meetings Set Sunday,” Los Angeles Sentinel, November 19, 1981.

48 “Community Calendar,” Los Angeles Sentinel, December 31, 1981; “Community Calendar,” Los Angeles Sentinel, February 18, 1982; “Community Calendar,” Los Angeles Sentinel, January 6, 1983; “Community Calendar,” Los

Angeles Sentinel, February 26, 1987.

49 “Black Reparations Meetings Set Sunday.”

50 Max Robinson Sued, “Soulvine…,” Los Angeles Sentinel, February 4, 1982.

51 “The Constitution and Black Reparations,” New York Amsterdam New, December 10, 1988. 52 Ibid.

53 “What’s N’COBRA?” The National Coalition of Blacks for Reparations in America, http://ncobra.org/aboutus/ index.html(accessed December 11, 2017).

54 Maulana Karenga, “For Imari Obadele: Free the Land, Liberate the People,” Los Angeles Sentinel, February 11, 2010.

55 Nketchi Taifa, “Reparations and Self-Determination,” in Reparations, Yes! The Legal and Political Reasons Why

New Afrikans, Black People in North America, Should be Paid Now for the Enslavement of our Ancestors and for War against Us after Slavery, ed. Chokwe Lumumba, 3rd ed.(Washington D.C.: House of Songhay Commission for

Positive Education, 1993), 4-5.

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57 Imari Abubakari Obadele and Chokwe Lumumba, “An Act to Stimulate Economic Growth in the United States and Compensate, in Part, for the Grievous Wrongs of Slavery and the Unjust Enrichment Which Accrued to the United States Therefrom” in Reparations, Yes!, 67-76.

58 Eric K. Yamamoto, “Radical Reparations: Japanese American Redress and African American Claim,” Boston

College Third World Law Journal 19, no. 13(December 1998): 503.

59 Robinson, 181.

60 オーグルトゥリーらによる賠償請求訴訟運動に関しては次を参照。川島正樹「社会運動の契機を模索する アフリカ系アメリカ人の苦闘――ポスト冷戦期における賠償請求と歴史認識問題を中心に」『アメリカ史研 究』日本アメリカ史学会、37(2014)、4-21頁。

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