註
、 3 4刈孟、おわりに
三、結縁潅頂と中世神仏世界
1、院政期における結縁潅頂の広がり
2、結縁潅頂における神分投花
両界曼茶羅と中世神仏世界
目
はじめに
二、中世神仏世界の形成とその構造
1、後白河院による東大寺再建と毘盧遮那仏
2、毘盧遮那仏l大日如来l天照大神
一、建築空間にみる両界曼茶羅世界の展開と変容
1、建築空間における両界曼茶羅空間の表現
2、顕密融合の仏教的世界観
4 3 、 、3、両界曼茶羅世界の広がり
4、両部不二の曼茶羅・大日如来
神分投花の構成
結縁潅頂にみる中世神仏世界
中世神仏世界の構造
神祇信仰の世界
次
冨島義幸
131(146)空海により体系的な密教が導入されて以降、両界曼茶羅とその理念は日 本の社会・宗教において、きわめて重要な役割をはたすことになる。たと えば、年始恒例の国家的仏事である後七日御修法では両界曼茶羅が本尊と なり、仏像や仏教建築の供養会、あるいは逆修や死者の追善などで修され た曼茶羅供では両界曼茶羅図がならべかけられ、結縁潅頂では人々は両界 曼茶羅図に投花して仏と結縁する。また、仏堂や塔には両界曼茶羅諸尊を 安置し、そこには立体化した両界曼茶羅がつくりだされ、さらに高野山な ど山全体の空間を両界曼茶羅世界としてとらえるようになった。両界曼茶 羅のあらわす理念や仏教的世界観は、人々の精神世界に深く浸透していっ たと考えられる。 ︵1︶ これまで拙稿において論じてきたように、建築空間のなかで両界曼茶羅 世界は不変であったわけでなく、四方浄土変など顕教の世界観と融合して いった。今日、中世においては顕密仏教が主流を占めていたことが広く認 められているが、こうした顕密融合の両界曼茶羅世界の出現も、顕密仏教 の一現象ということができ、さらには中世の宗教構造の一端を示すものと しても注目される。 顕密体制論では、﹁顕密体制﹂は密教を主軸に一切の宗教が統合された ︵2︶ ︵3︶ ものとされる。密教を過大に評価することへの批判もあるが、近年の宗 教史研究では、顕密体制には神仏をふくめた共通の基盤が存在したことが ︵4︶ 認められつつある。たとえば、神道史研究において井上寛司氏は顕密体 制を﹁寺院と神社が一体となって機能する独自の構造﹂ととらえ、それが ︵5︶ 仏教思想を共通の基盤としていたと考え、高橋美由紀氏は中世神道成立 の思想的基盤は平安末期に準備され、その共通の土壌の中から仏家神道も 伊勢神道も萌芽したとみなす。 ﹁王法﹂と﹁仏法﹂の相依相即がうたわれた中世の社会をとらえていく ためには、佐藤弘夫氏が指摘するように、中世的世界観を構造的に把握し、 ︵6︶ その基盤となる理念を明かにしていくことが重要な課題である。本稿は、 両界曼茶羅という密教の世界観を示す理念に注目し、平安時代中期から鎌
はじめに
倉時代初期を中心に、中世の神仏世界すなわち神仏をふくめた宗教的世界 観の具体像の一端を探ることを目的としている。また、顕密体制論におけ る密教の過大評価には問題があるとしても、そこにおいて密教のはたした 役割そのものがじゅうぶんに検討されたとはいえず、本稿はこうした点を 探求する、ささやかなこころみでもある。 1、建築空間における両界曼茶羅空間の表現 密教を特徴づけ、その教学の根本をあらわすのが、胎蔵界・金剛界から なる両界曼茶羅である。両界曼茶羅図は、大日如来を中心に個性をもつ多 様な仏を組織的に配する密教の世界観を、平面的に図化したものである。 両界いずれも中心の大日如来と、その四方の如来の五仏によって中核が構 成される。空海は、この両界曼茶羅図を建築空間として表現することを構 想した。東寺講堂では、須弥壇中央に金剛界五仏、その西に五盆怒、東に 五菩薩を配し、空海独自の密教理念を立体曼茶羅として表現し、高野山で 構想した﹁毘盧遮那法界体性塔﹂は、胎蔵界五仏を安置する大塔、金剛界 五仏を安置する西塔として建立され、山上に両界曼茶羅世界を構成するこ とになった。 こうした建築空間に立体曼茶羅として表現された両界曼茶羅は、彫刻だ けでなく柱や梁など建築内部に描かれた諸尊によっても構成される。たと えば、大治元年︵二二六︶供養の円勝寺三重塔では、等身金色の大日如 来を仏像彫刻として安置し、四天柱に金剛界三十六尊を描き、彫刻の大日 ︵7︶ 如来と絵画の三十六尊を一体にして金剛界曼茶羅を構成した。 貞観寺には貞観一六年︵八七四︶、胎蔵界堂・金剛界堂が建立され、こ のうち金剛界堂には、金剛界三十七尊像と天像等を合わせて七○体余りを 安置していた。この他にも一○世紀初頭建立の仁和寺円堂では、金剛界三 十七尊および外院諸天の金銅の三摩耶形を安置して立体曼茶羅を構成する など、多様な構成が認められる。また、とくに院政期には真言密教と院と のかかわりのなかで、建築空間の構成理念として両界曼茶羅が顕著にあら一、建築空間にみる両界曼茶羅世界の展開と変容
(145)132両 界 曼 茶 羅 と 中 世 神 仏 世 界 2、顕密融合の仏教的世界観 天承二年︵二三三再建の法成寺東西五重塔では、薬師・釈迦・阿弥 陀・弥勒からなる顕教の四方浄土変の四仏を、それぞれ胎蔵界・金剛界の 大日如来とともに安置し、二基の塔によって顕密融合の両界曼茶羅を構成 していた。このように大日如来と四方浄土変の四仏をあわせて安置する顕 密融合現象は、一○世紀末の円融寺五重塔にすでにあらわれていた。 法成寺の塔で注目すべき点は、阿悶・宝瞳を薬師、宝生・開敷華王を弥 勒、不空成就・天鼓雷音を釈迦と同体とし、顕密融合のあたって顕教の仏 と密教の仏を同体とみなす論理がもちいられていることである。つまり、 顕密の仏の同体説により、両界曼茶羅という密教の世界観に、四方浄土変 という顕教の世界観を融合したのである︻図①︼。この仏教的世界観が両 界曼茶羅の理念にもとづくものであることは、同体とされる密教の仏の方 位にしたがい、四方浄土変の釈迦と弥勒の方位が入れ替わっていることか らも知られる。そして、この顕密融合の両界曼茶羅空間は、塔の空間から 解き放たれ、伽藍へと展開していく。 一○世紀から一二世紀の天皇・貴族建立の寺院では、金堂や本堂など伽 藍の中心となる建築に大日如来あるいは毘盧遮那仏が据えられるようにな った。たとえば、一○世紀の創建、藤原忠平の法性寺では毘盧遮那仏を本 尊とする本堂が建てられ、藤原道長は治安二年︵一○二三、無量寿院を 拡張して法成寺としたとき、金堂の中尊を大日如来とした。阿弥陀堂︵鳳 凰堂︶が中心かのようにみえる藤原頼通の平等院ですら、その供養前年で ある永承七年︵一○五三の創建時に、やはり本堂の中尊として大日如来 れた阿弥陀五仏までもが阿弥陀と法・利・因・語という、金剛界曼茶羅中 鳥羽院の勝光明院阿弥陀堂では内部に両界諸尊を描き、彫刻として安置さ われるようになる。﹁浄士教﹂の建築とされる阿弥陀堂も例外ではなく、 ︵8︶ の阿弥陀輪五仏であった。 このように建築空間では様々な形式で両界曼茶羅世界が構成されたが、 それは両界曼茶羅図のように不変のまま保持されたのではなく、平安時代 中期ころから、とくに塔の空間において変容をはじめる。 が安置された。 法成寺では、金堂の西に阿弥陀堂、東に薬師堂を配置する。これはいう までもなく四方浄士変の世界観にもとづく構成である。中心に大日如来を 安置する金堂をおくことは、円融寺五重塔や天承再建法成寺東西五重塔の 三 … , p q f 愛 曇 幸 二 … L … ま 品.■J餌申啓切串ヂJが畠F]命命ロヂ品ロ辛円ローロロロ■ ロロ▼■'4…■■-詞■字■,■△■.Vロ品 ,嘩…二■品 .、轟轟虻普?f評影需-- --華 王 無 量 寿 天鼓雷音 【図①】顕密融合の両界曼茶羅世界 133(144)
顕密融合の仏教的世界観と同じである。その伽藍は白河天皇の法勝寺へと 受け継がれていくが︻図②︼、法成寺金堂と法勝寺金堂は、いずれも中尊 として蓮華座に百体の釈迦をあらわす、特異な形式の大日如来を安置して いたことが注目される。これら蓮華座にあらわされた釈迦は、東大寺毘盧 遮那仏とおなじく、﹃梵網経﹄に説かれる蓮華蔵世界の千釈迦であったと 考えられるからである。つまり、この特異な形式の大日如来は、密教の教 ︵9︶ 主大日如来と、華厳教の教主毘盧遮那仏を合わせた仏とみなされる。 法成寺・法勝寺という摂関期・院政期を代表する大伽藍では、阿弥陀如 来のための阿弥陀堂や常行堂、七仏薬師のための薬師堂をはじめ、五大明 王の五大堂、愛染明王の愛染堂など、顕密の多様な諸尊を安置する仏堂が 建立された。これら個々の仏堂の性格をみていくと、常行堂は不断念仏の ための建築、愛染堂は愛染護摩のための建築と、ある程度顕密の区別が可 能なものもある。しかし、たとえば法成寺・法勝寺・尊勝寺の阿弥陀堂 ︵九体阿弥陀堂︶では、法華八講や不断念仏など顕教法会のみならず、九