ある「善行」調査員の視線 : 関東大震災・東京府
善行美績調査員の手記から
著者
重信 幸彦
雑誌名
先端社会研究
号
2
ページ
207-235
発行年
2005-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/11452
1
焦土の
17
人
1923(大正 12)年 9 月 1 日に発生した大地震と火災によって壊滅的な被 ────────────────── * 北九州市立大学ある「善行」調査員の視線
──関東大震災・東京府善行美績調査員の手記から
重信
幸彦
* ■要 旨 東京府は、1924 年 9 月、関東大震災後一周年を期して『大正震災美績』を 発行した。同書は、震災後、東京府から任命された小学校教員17 名が行った 調査をもとに編纂された。本稿は、この調査にたずさわった一人の調査員が綴 った「手記」から、現場の調査員がどのように情報を収集し、「善行」に関す る判断をしたか、さらに一人の調査員が調査そのものにどのような価値を見出 していたかを読み解いた。調査という過程が客観的で透明であるという建前か ら、公刊された『大正震災美績』には、調査の具体的過程はもとより、調査員 の氏名すら記されていない。しかし手記のなかの調査員は、震災救護活動のな かで公的機関に蓄積された情報を探索し、巷の「噂」の検証を行い、「事実」 を求め試行錯誤を繰り返す。さらに、朝鮮人虐殺という出来事から受けた衝撃 に向き合うべく積極的に善行調査に関わり、自ら「善行とは何か」を問い、一 方で調査に要求された「厳密」さに戸惑う調査員の姿があった。「善行」の意 味を一元化し公的に認知する役割をになう美績集の調査の現場に、与えられた 調査という仕事を自らの文脈で捉えかえし実践しようとする主体が存在してい た。そしてまた、この「美績集」が、震災後に「動員」の体制が具体化されて いく時代に接合しうるという点において、手記のなかの善行調査員は、来る 「動員」の時代への文脈を共有していたと言える。 キーワード:調査者という現場、関東大震災、美談、事実、動員害をこうむった東京の焼け跡を、おそらく10 月末から 12 月にかけて、東京 府から任命された17 名の「調査員」たちが、震災時の「善行美績」を捜し もとめる使命を帯びて、歩きまわっていた。それは惨禍のなかで、人の善き 部分の発露をもとめるフィールドワークであった。 彼らの調査にもとづき、1924(大正 13)年 9 月 1 日、ちょうど震災一周 年に、東京府編『大正震災美績』(以下『美績』)が発行される。奥付には、 発行者として大日本学術協会代表者尼子止の名前が記され、発売元はモナス となっている。クロス装箱入りで定価は6 円であった。東京府知事宇佐美勝 夫の「序」を付し、総ページ数774 ページ。内容は、「救命篇」(58 篇)、 「防火篇」(32 篇)、「責任篇」(53 篇)、「愛情篇」(34 篇)、「救護篇」(38 篇)の5 篇に分類し、総計 215 篇の「美績」を収録していた。 さらに、調査員から資料が提出されながら「紙幅の制限から」その約三分 の一を割愛したとし、その154 件の件名と該当者の住所、固有名詞のみを 「編集後記」の後ろに掲げていた。本編と割愛資料一覧を合わせると、総計 369 件の「美績」が記録された。 震災直後より、新聞をはじめとするさまざまな活字メディアで震災美談と もいうべきエピソードが語られており、成田龍一は、関東大震災という出来 事が、どのように語られ歴史化されたかを論ずるなかで、こうした美談のレ トリックを分析している[成田,[1996]2003]。まず新聞の報道や雑誌の特 集号などにより、「震災」という出来事の「全体」像がかたちづくられ、罹 災者の個々の体験が、震災という「全体」を構成する要素として織り込まれ ていった。成田は、その「全体」のなかで、当事者の体験を「われわれ」の 集合的経験として位置づけていくレトリックの具体例として、「哀話」と 「美談」に注目する。ことに震災を語る「美談」の特質について成田は、ま ず登場人物の固有名が記され、その行為に個別の行動としての意味を与えて いること、単に行為だけでなく人の性質・性状が語られること、さらに表彰 という制度と関連があることなどを指摘している。そして、単なる逸話にと どまらずに表彰され公に認知されるという側面を如実に示す例として、東京 府『美績』に言及している1)。成田は「公の機関が「美績」をとりあげるこ
とは、その行為と性状を認知=公認すること」であり、「人びとの行為の持 つ重層的な意味が一元化され、形式化するとともに、「美績」の確認を通じ て単一の価値の認知すら人びとは要求される」とする[成 田 ,[1996 ] 2003 : 223−224]。 また成田は、『美績』の特色は、青年団や町内会、病院、学校などの団体 や組織の事績を取り上げていることであり、東京府という公的機関による調 査であったことに規定されて「団体が浮上したといいうる」と指摘している [成田,[1996]2003 : 226]。 『美績』の「凡例」には、もとになった調査の標準や方法の概略が記され ている。掲げられた八項目の標準は後で触れるとして、調査の方法の概略は 次のように紹介されている。 一、各郡区役所、警視庁及各警察署、戒厳司令部、陸軍省人事課、憲兵 隊、各町村役場及各町会、中等諸学校及小学校等に材料を求む。 二、新聞雑誌の記事に基づき其の事実を精査す。 三、各新聞に広告して一般より其の資料を求む。 [東京府編,1924:「凡例」] そして、「右の方法に基づき、市及隣接郡部につきて、市内小学校校長、 訓導計17 名に委嘱し、庁員と相協力して調査」したという。団体や組織に 関わる「美績」が多く集められたことは、ある程度「材料を求む」先に規定 されていたからだと思われる。各新聞に出したという広告は、それらしき記 事を確認することはできない。また「担当の方面を別ち鋭意之が適格なる材 料の蒐集に努めた」という17 名の調査員の氏名は、『美績』には一切記され ていない。さらにこの善行美績調査を実施した具体的な組織、調査の過程、 資料編纂の過程などを示す公文書も、残念ながらまだ発見できていない。 しかし、震災対策の1 つとして「郡市区町村の救護事務監督指導並びに連 絡」を目的に開催された郡長会議のうち、10 月 22 日に、荏原、豊多摩、北 豊島、南足立、南鐚飾の五郡長と東京府知事が出席して開かれた第 14 回協
議会の議題10 件のなかに、「善行美績調査に関する件」という一項目がある [東京府編,1925:第三篇,6]。東京府知事を中心とした会議であることな どから見て、これは『美績』のための調査を指しているものと思われる。 また、1923(大正 12)年 12 月 26 日の『東京朝日新聞』には、同調査が 終了したことを示す記事が掲載されている。 東京府社会教育主事を中心に十七名の小学教員が各方面にわたって調べ た震災による善行美蹟(ママ)調査は昨日打ち切ったが其の件数は四百 八十件に達し文部省、本願寺などで調査したものに比し十数倍の件数に 達し余程浩瀚な大冊子となるべく目下松原主事等数名が集まって文書を 整理統一中で書名なども適当な名を付けることになっている(以下略) (『東京朝日新聞』1923(大正 12)年 12 月 26 日「十七名の教員が/善 行捜査隊結成/震災美談の調査は/昨日打ち切ったので」) 東京府社会教育主事が中心になっていたこと、『美績』の凡例に示されて いたように17 名の小学校教員が調査にあたっていたこと、調査は 12 月 25 日に終了したことがわかる。 先の郡長会議の記録と合わせて、10 月末から 12 月 25 日までの約 2 ヶ月 弱が実質的な調査期間であったことが推測できる。さらにこの時点で、「浩 瀚な大冊子」とすることが計画されていたことがうかがえる。なお、ここで 文部省の調査とされているものは、1923(大正 12)年 9 月に文部省少年団 日本連盟が「少年教育資料」のために実施した震災美談調査を指すものと思 われる(『報知新聞』1923(大正 12)年 9 月 24 日「震災美談を各方面から 集める」)。 そしてまた、実際に『美績』に収録された件数は、割愛資料の一覧とあわ せて369 件であることを考慮すると、ここで収集された美績の件数が 480 件 とされていることは、100 件近くが対象外とされた可能性を示唆している。 ところで、この『美績』が、震災一周年を期して発行されるおよそ1 ヶ月 前に、遠藤早泉『善行捜査者の手記』(文化書房、1924(大正 13)年 7 月 25
日発行、全121 ページ、以下『手記』)という書物が出版されている。遠藤 は、東京府による震災善行美績調査に従事した17 名の調査員の一人であ り、『手記』は、その経験を綴ったものだった。遠藤は、1886 年千葉県佐倉 市生まれ、当時は30 代後半、本名は七兵衛。千葉師範学校を卒業後、千葉 県、東京市で小学校教師を続け、教育雑誌『帝国教育』の編集にも従事して いた[上,1988]。震災当時に東京で教師をしており善行調査員に任命され たと思われる。『手記』は、当初は『帝国教育』に1924(大正 13)年 2 月か ら6 月にかけて同名の記事として連載されたものであった。 遠藤は、この『手記』を記した動機について「序」で次のように述べてい る。 ……図らずも自分が東京府の美挙である震災時善行美績の調査に従うこ との出来たのは、最も記念すべき経験の一であった。私は此の使命の為 にベストを尽くし、折から吹捲る寒風に曝されながら、焦土の巷を東西 に馳駆し南北に奔走した。(中略)そうして捜し出した美談のかずかず は、悉く府へ報告してあるから、近く公にされるであろう。それ故に私 が個人としてそれを公にすることは、必要でもなければ又出来ないこと である。ただ私が残念に思うことは、そうした報告を握るまでの間に、 私が行動した経過だとか、乃至はそれに付随して生じた所感等を、此の まま湮滅させてしまうことである。私にはそれが堪らないほど惜しいこ とであった。[遠藤,1924:「序」] もちろんこの『手記』は、調査の後に、その経験を相対化しつつ、調査員 という現場を再構成した言説として読み解かねばならない。ここでは特に、 東京府という公の機関の調査にたずさわった者としての立場と、その調査に 自らの身体をもって関わった「私」のありようの違いが意識化されている。 調査の結果について「個人として」公にすることは「必要でもなければ又出 来ないことである」という一文は、公刊されるはずの『美績』とこの『手 記』が微妙な関係になるだろうことを予期しているようでもある。
「善行」も「美績」も、人間の「正しさ」「良さ」「善」「美」などの積極的 価値を語ることを期待された語彙だった。もちろん、何が「正しさ」「良 さ」「善」「美」として括られるかは、時代や社会のありように規定されてい る。この国の近代史においては、孝行美談、成功美談さらには軍国美談な ど、「美談」と名づけられる説話群が、しばしば「美談集」として編纂され てきた。それは、時代のなかで「正しさ」「良さ」「善」「美」などの語彙に よりかたどられる人間と社会の像を具体的に構築する営みであった。しかし そうした美談と名づけうる説話が、どのように調査収集され選択され美談集 として編まれたのか、その過程が明らかなものは、公刊されたものの量に比 してそれほど多くはない。その意味でも、この『手記』は、一つの「美談 集」のためにどのような調査がなされたのかを検討する貴重な素材となるだ ろう。 本稿では、「善行美績」へいたる情報の収集のしかたや、その取捨選択の 過程などを、この『手記』から、一人の調査員の視線を浮かびあがらせなが ら読み解きたい。そして最後に、人の善き行為を調査により可視化するとい う実践が、この震災後になぜ行なわれなければならなかったか、そしてそれ がどのような時代の文脈に接合していくのか、について触れる。それによっ て、既に指摘される「公の機関が「美績」をとりあげることは、その行為と 性状を認知=公認すること」であり、「人びとの行為の持つ重層的な意味が 一元化され、形式化」されることであるという問題を、調査自体から内在的 に検討することにもなるだろう。また、以上の議論が、広義の「社会調査」 における実践例のなかに、歴史を読み込んでいく試みの一つになることをも 意図している。 遠藤の『手記』は、体系的に善行美績調査を俯瞰するものではない。全体 は表題無しの十章に分けられている。全体の展開を大まかにみておこう。一 章は、「美績」を「日本の国民性の本然」を示すものとして位置づけ、二章 では、「善行美績」の定義について調査員の会議での議論を紹介しながら述 べている。三章は、主に朝鮮人に関連する美績の調査について言及してい る。朝鮮人をめぐる話題は、最後に触れるように、同善行調査を規定する重
要な文脈のひとつでもあった。四章は、巡査や消防士、教師などの「責任」 「職務」に関連する美績について述べ、五章では、自らが震災直後に本所被 服廠跡などを歩いたときの記憶をもとに、「灰燼に埋もれた美績」に思いを 馳せる。六章は、子どもに関連する逸話を取り上げ、学校を一つの拠点とし た調査の具体的過程に触れ、七章は、軍隊の活躍について語り、震災で軍隊 の評価があがったことを記している。八章は、「善行」とは対極にある、震 災に乗じて暴利をむさぼる者や、禁止された死体絵葉書を屋台で売る者など を批判する。九章では、遠藤自身が美績調査を通して確信したという、進化 論にもとづく競争原理ではなくクロポトキンの相互扶助の考え方が重要であ るという意見が開陳される。そして最後の十章では、遠藤自身の総括とし て、「震災下で善行美績を残した人」は、「親分気質」に多かったという感想 を記し、それを「日本魂」の誇るべき一面と位置づけている。 遠藤自身がどのように情報を収集したかなど、調査そのものの過程を語る 叙述に注目し、さらに「美績」の列に加えられなった事例に関する叙述か ら、調査の現場が「美績」の輪郭をどのように描き出していったのかを読み 解いていくことにする。
2
善行調査員という現場
2. 1 調査員が「判断する」ということ 『美績』の「凡例」には、何を「美績」として選定するか、次のような標 準八項目が記されている。 一、職務及責任観念により私事を犠牲にして努力したる事実 二、危機に際して現されたる美しき情操の実例 三、危機に臨み冷静沈着に大事を処理したる実例 四、社会公共の為特に尽瘁したる事実 五、隣保共助の結果禍害を防止し得たる実例 六、報恩感謝の念を以て変災の間に挺身努力したる実例 七、訓練せられたる団体の力によりて発揮せられたる善行美談八、遺されたる先人の行為、或は平素の周到なる用意によりて危機を免 かれ得たる実例 [東京府編,1924:「凡例」] まずここでは、七をのぞいて全てに「事実」か「実例」という言葉が使わ れていることに注意しておきたい。それはすでに新聞や雑誌の特集号で、 「美談」や「佳話」が語られていたなかで、この調査が、「談」や「話」では なく、「事実」を志向しようとしていたことを示している。この「事実」へ の志向こそが、調査員の現場を規定していたはずだ。 そして、この八項目の内容は、震災美績調査委員会でも提示され、議論さ れたという[遠藤,1924 : 4−6]。遠藤に従えば、「いかなる行為が善行美績 であるか」ということが問われた。『手記』によると、会議の席上、この項 目についてある委員が「この項目に適っているものでも、どの程度まで取捨 し選択したらよいのか具体的標準の提供がほしい」と問い、これには、「府 でも其の答弁に苦しんだ」。遠藤は、そこで実際に彼が発言したものと思わ れるが、それに対して「望むほうが無理だと思った。そんな一々の場合を網 羅した具体的標準は到底できるものではない」とし「まずこの程度の大綱を 掲げて以下は、各人の良心に訴えて個々の行動を判別するより外ない」とい う考えを記している。 すると同じ質問者が「そうした個々別々の判断では不公平」になるので、 「……あまり主観を加えないようにして調査もし記述もしたい」と抗議し た。遠藤は、この主観を排したいという発言に対しては、「是は愚なこと だ」と断じ、「既に善行と認めて其の行動を見る以上、そこには既に善行に 対する道徳的判断が加わっているのである」、「叙述を誇張するとか仮作する とかいうのは勿論いけないことに定まっているが、判断すること即ち批判を 斥けるのは不法ではないか」と述べている[遠藤,1924 : 4−6]。 そもそも何が「善行」であるかという判断について、調査が予め八項目を 掲げたことは、人びとの行為を、まさしくある一定の基準のもとに「善行」 として意味づけようとしたことを示していた。しかし、実際に調査にたずさ わる者からは、標準そのものに疑義が呈されていた。そして遠藤自身は、
『手記』のなかで、それは調査員自身の「良心」にゆだねる以外にないとい う立場を記し、調査が根底のところで個々の調査員の判断に規定されざるを 得ないことを自覚していた。 こうした標準八項目に関する委員会の議論に言及する遠藤の『手記』は、 「美績」の標準を定めることで「美績」の意味を一元化しようとしていた調 査の建前に対して、個々の調査員による判断の重要性を前景化し、そして、 調査員の氏名はもちろんその分担なども明記せず、一切の調査が均一な論理 で実施されたという『美績』の体裁と真っ向から対峙していたのである。 2. 2 「事実」へ:警察、学校そして「耳」 では、その調査員は、「美績」を求めてどのように情報を収集していった のだろうか。遠藤が、どのような分担を担っていたのか『美績』にはもちろ ん、『手記』にも明記されていない。 しかし、『手記』において言及された多くの事例は、深川区に関連するも のばかりである。『美績』のなかで、深川区の事例は、本編19 例、編集後記 に付された割愛事例2 例を合わせて、21 例。このうち、『手記』中に言及の あるものは、11 例となっている。遠藤の調査範囲が、「深川区」を中心とし た領域であったことを推測できる。 遠藤が最初に手をつけた調査は、『報知新聞』に報道されていたという、 逗留していた木賃宿の主人の子どもと家財を守ったという二人の朝鮮人の事 例であり、新聞記事をもとに、「10 月末の或る日」深川区数矢町のバラック に居た木賃宿の主人を訪ね聞き取りを行なった[遠藤,1924 : 17−19]。 新聞報道は、たしかに震災の一つの全体像を作り上げたメディアであった といえるが、『手記』からうかがい知ることができる遠藤の調査のなかで は、新聞の記事を参考にした事例は、この1 件以外には無い。 震災時には、役所、軍隊、警察など救護活動にあたった機関が、それぞれ 逐次的に情報を収集し蓄積していた。遠藤は、新聞よりむしろ、そうした公 的機関の情報の束を活用している。たとえば、救護活動等の過程で各警察署 に蓄積された資料を閲覧し、「美績」の端緒をつかんでいる例が少なくな
い。深川区猿江裏町に設けられた隣保事業を行なう協調会善隣館長、RS (記号化重信)の事績は、遠藤が深川の戻橋警察へ出向き、ある巡査部長が 署長あてに作成した報告書のなかから発見している。同報告書はRS につい て「沈着熟慮、克ク其ノ状勢ヲ察知シ、適切ナル方法ヲ講シ、以テ付近多数 民衆ノ生命ヲ安全ナラシメタリ」と記していたという。これをもとに遠藤は R に聞き取りを実施し、当時の救護・避難の過程を具体的に聞き出すととも に[遠藤,1924 : 7−12]、善隣館の『館報』などから同館の沿革や理念を調 べている[遠藤,1924 : 27−31]。これは、『美績』「救命篇」に「非常に善 処した善隣館長」として掲載された。 この他にも、警察署の資料に依拠した例として、大寅ことHT(記号化重 信)の事績がある。『美績』「救命篇」に「大寅君の大活躍」として掲載され ているが、『手記』は、「これも戻橋署の調書によると」として、大寅が「少 年の頃から大工となって二十年本所や深川に住んでいた」こと、「当時は富 川町にあって人夫請負業を渡世とし、沢山の子分を持っていた」こと、「も とは博徒の群に投じて面白くない行為もあったというが、その後はそういう 心をキレイに改めて」いること、そして震災時には、「折から居合わせた二 十名の子分を以て決死隊を組織」し、倒壊した家屋の下敷きになった者を助 け出したことなどを紹介している。調書そのものの文章は引用されていない が、大寅と面会したという叙述はなく、もっぱら警察の調書にもとづいた調 査であったと思われる。 さらに、小学校の教師であった遠藤が、情報源として、より積極的に利用 しているのは、学校であった。学校は、普段から児童を通じて地域の情報の 蓄積していたと同時に、震災直後より、焼失した学校の敷地にバラックを建 て避難所にしていたこと[東京府編,1925,第 4 編:9−10]などから、震 災時に情報の結節点の一つとして機能していたと考えられる2)。そうした学 校と教師を通して、遠藤が美績を発見する代表的な例を一つ見ておこう。 『美績』「救命篇」に掲載された「猛火の中に託せられた児を護りとげる 迄」という事績は、一人の14 歳の少年が、隣家の者が家財道具を運び出す あいだその家の子どもを預かったが、そのうち火勢が激しくなり、少年はそ
の子どもをおぶったまま避難し続け、一日後に無事に子どもの親に帰したと いうものだった。 十一月二十二日の日だ。深川の六間掘尋常小学校を訪ねて善行美績の話 をしていると、側にたっていた女の先生が、「これは本当か嘘かわから ないが、I(姓の記号化重信)という子が被服廠跡でお隣の二つになる 子を助けた」とかいう噂を耳にしたというのだ。I 誰れというのかと反 問すると知らないという。住所は勿論しらぬのだ。しかしその人物と事 柄とが深く私の興味をひくので、いろいろの詮索をした結果、その子は 今年の三月この学校を卒業した子で、IY(記号化重信)(十四)という ものだということが分かった。[遠藤,1924 : 56] しかしI 少年の住所がわからず、結局「苦肉の一計を案じて、丁度授業中 の六年生の子に尋ねてみてもらう」ことにした。「暫時すると、一人の先生 が一人の男の子を連れて戻ってきた。「この子が知っているそうです。」」[遠 藤,1924 : 57]。遠藤は、その生徒の案内でI 少年が住むバラックを尋ねて 当人から聞き取りを行なう。学校に通ってきている児童が、地域の情報の伝 達役となり、それを教師が蓄積する。そうした学校という場に纏綿する情報 の束が、遠藤の調査の重要なフィールドになっていたことをよく示してい る。そしてそこから遠藤が、糸を手繰るようにして、一人の少年を探り当て ていく過程がわかる。 こうして遠藤は、警察や学校という公的機関がその活動のなかで公式に収 集した情報やそこに集まってくる非公式な「噂」的な情報を活用していた。 報告書や調書などに接すると同時に、この例が示すように「耳」にした情 報、すなわち「噂」に接することが重要な契機になっていたことにも注目し たい。 『手記』にはこの他にも、「私は越中島付近に住むOT(記号化重信)さん の行動を調べに行った。この人は越中島の相生橋際に貸し船業を営む侠客肌 の男であるが、あの大火のさいに大変な働きをしたということを耳にしたか
らである」[遠藤,1924 : 20]という例や、「私が共済会(浄土宗の労働共 済会)の事業に目をつけて、N さん(記号化重信)の人格に接した最初の 動機は、震災当時共済会が鮮人保護をよくしたというのを耳にしたことから 緒口が展けた」[遠藤,1924 : 22]といった例がある。前者では「耳」にし て当事者に聞き取りに行き、後者では、「耳」にした後に警察署に行き記録 を調べて19 人の朝鮮人を保護したことなどを確認して、聞き取りに行って いる。前者は、『美績』「救命篇」に「筏と船と義侠と」として、後者は「責 任篇」に「身を以て鮮人を保護した共済会理事」としてそれぞれ掲載され た。 2. 3 「事実」と「落選の止む無き一件」 情報を得て調査をしても、それが報告可能なデータとなるわけではなかっ た。ことに、「耳」にした情報は、しばしば調査/捜査の末に、報告の対象 にならない場合があった。 たとえば、遠藤は、「越中島のバラックの三号室」で、ある女性から、避 難するさいに足を怪我して逃げ遅れそうになったとき、一人の青年が背負っ て安全な場所を求めて翌日2 日の朝まで逃げてくれた、という話を聞く。青 年は「麹町の松平の邸に居るもの」とだけ言って去った。女性は遠藤に、 「もし貴下さんがそうした事を探って歩く商売でしたら、あの折の青年を探 し出して、私どもにも教えて下さりませぬか」と告げた。そこで遠藤は、麹 町の松平家という松平家を探すが、「あの日に深川方面に出て行った、そう した青年は一人もいなかった」。結局、青年を探し出すことができず、「これ も厳格な官庁の調査としては落選の止むなき一件」ということになった。そ の一方で遠藤は、「であるけれども、行為そのものの奇特であり善良である という点においては何らの障害ではないはずだ」[遠藤,1924 : 45−51]と も論評する。あえて「落選」という言葉を使っていること、そしてたとえ個 人を特定できなくとも「奇特であり善良である」という行為の価値に「何ら の障害ではないはずだ」という物言いに、「厳格な官庁の調査」に対する、 善行調査員・遠藤の違和感と批判を読み取ることができよう。
遠藤は調査の「厳密」さという問題について、「国勢調査の戸籍調べみた ように、ところ番地から生年月日や職業の種類までも一々調べ上げて残す所 のないのは、何か奥ゆかしさの殿堂を取り払ったような気がする」としなが ら、「そうした厳密なものでなければ官庁の調査としては許されない」と 「官庁の調査」の枠組みを確認しようとする。しかしそのあとで『今昔物 語』に言及し「私どもには首尾明らかな正史よりは、妙にこうした随筆や私 記の方が心を惹くのである」と綴る[遠藤,1924 : 107]。1920(大正 9)年 の第1 回国勢調査を引き合いにだし、自らが納得したわけではない官庁の調 査の「厳密」さを、そこに重ねて理解しようとしていた。国勢調査は、戸籍 だけでは「国民」の流動性を追いきれなくなった「日本」が、初めて全国的 な「実地」戸口悉皆調査を実施し「ひとり残らず」という厳密さを、近代国 家の威信をかけて具体化したものだった3)。善行調査にたずさわった遠藤 は、そうした近代の公的調査の規範として自身が内在化した「厳密」と、善 行調査に関わる「私」の志向とのはざまで、鐚藤していたのである。それ は、言いかえれば、問うべき「事実」とは何か、をめぐる鐚藤であったとも 言えよう。 さらに遠藤は「伝説」という言葉を使って、「事実」から漏れてしまった 別の例について語っている。それも教師の関係性のなかでもたらされた 「噂」の一種だった。遠藤に、「ある学校の校長が電車のなかでの又聞きだと いって」、車内で一人の男がしていた、襦袢一枚で下駄の鼻緒に紐を通して 首にかけて泳いでいた一人の少年を船に助け上げたという話を報せてきた [遠藤,1924 : 51−53]。この「又聞き」を教えた校長は、子どもの名前など は失念していたが、電車で話をしていた「一見木場あたりの材木店の若主人 か番頭といった風な姿の男」の着ていた「中元」と記した法被を覚えてい た。そこで遠藤は「いろいろの方法を案出して「中元」の法被を探ってみ た」。木場の町々を歩くときばかりでなく、下町の辻々に立っては、労働者 達の着て行く法被の文字に目をつけ、材木商の看板をみたり、材木業者にも きいてみたが、「中元」という商号は発見できなかった。結局、「「下駄を首 にした少年」の話はとうとう一つの伝説になってしまった」、遠藤はそう記
した。 遠藤が、法被を手がかりに追求する過程が興味深いが、それが「とうとう 一つの伝説になった」という言い方で括られるとき、調査そのものが伝説す なわちフォークロアとしての「話」と、「事実」を厳密に峻別していく役割 を帯びていたことが鮮明になる。 大震災は、まさにこれから現代的大都会へとテイクオフしていこうとする 東京を襲った。その大都市の匿名性のなかから、「噂」される特定の個人を 捜し当てるという、「噂」と都市の匿名性と格闘することが、遠藤たちの調 査員の仕事でもあった。その実践は、調査票やアンケートなどを使い「社 会」のありようを探る「社会調査」よりむしろ、都市の匿名性のなかで断片 的な情報から特定の人間の所在を追及し、その人間が関わったとされる出来 事を「事実」として確認する「探偵」の調査に近い。大正期から昭和初期に かけて、捜査の実務家の現場と小説など大衆文化の共犯関係のなかで、「探 偵」や「捜査」の技術が大衆化していったという事情[永井,2000]を、こ うした遠藤の身振りに重ねることもできるだろう。遠藤自身が自らの実践を 記した『手記』に、「捜査」という言葉を使っていることは、そうした「捜 査」と「事実」をめぐる時代性を反映していたともいえる。 この、「噂」との格闘には、さらに震災直後から新聞や雑誌などのメディ アに掲載された「美談」「佳話」類との鐚藤も含まれていた。 教師仲間の一人と思われる者が遠藤に、「子供が、こういうものを書いた が?」と1 枚の紙片を渡した。そこには、「僕は隣の小父さんにきいたので す」と、火に囲まれた3 人の子どもを、我が身を犠牲にして守った青年の話 が綴られていた。遠藤は、「一つ探訪してみようという気になって」、翌日そ の学校を訪れた。担任にその文章を書いた生徒を連れてきてもらうと、その 生徒は隣家の肉屋の主人に聞いたという。遠藤はさらにその肉屋の主人をた ずねて聞き取りをするが、主人はそんな話をした覚えはないという[遠藤, 1924 : 63−65]。 遠藤は子どもの家に行きその子の両親に再度尋ねると、「「そうですかねぇ ……」と云って二人は暫く顔を見合わせていたが、やがて母のほうが思い当
たったらしく、「そうだそうだ、あの本で見たのですよ」」と、震災直後に出 版された「あくどい表紙」の『大震災の哀話と美譚』(金の鳥社)という本 を出してきた。遠藤は母親とその本をめくるが、それらしい話は見つけられ なかった[遠藤,1924 : 63−65]。 確かに、同書にそうした話は確認できない。筆者の手元にある同書の奥付 は、「大正十二年九月二十八日印刷、大正十二年九月三十日発行、大正十二 年十月二日再版発行」となっている[飯塚,1923]。震災後の混乱のなか で、かなり早い段階での編集と出版であった。収録された話は、当時の新聞 記事をもとにしたものが多い。遠藤は「調査の当時こうした種類のものを出 来るだけ多く蒐めてみたのだが、そうしたブックメーカーの速成品にはほと んど参考になるようなものは無かった。ただ虚に吠える百犬の噂ばかりが伝 わったのを記したに過ぎなかった」と批判する[遠藤,1924 : 63−65]。 この善行美績調査が実施された時点では、すでに新聞や雑誌、書籍などの メディアで震災にまつわる「美談」のたぐいが流布していた。子どもの思い 違いや虚言という問題でもあるが、ここでは人々が「そうだそうだ、あの本 で見たのですよ」というような「美談」をめぐるメディア状況が存在してい たことに着目しておきたい。そこでは、新聞の記事から雑誌の記事、書籍へ と、少なくない数の「話」が引用を繰り返しながら語られ続けていた。それ は、メディアのなかで増幅するフォークロアとしての美談であった。「ただ 虚に吠える百犬の噂ばかりが伝わったのを記したに過ぎなかった」という遠 藤の言葉は、善行美績調査員の現場が、震災後のメディア空間のなかで根拠 も明確にされないまま繰り返される「談」であり「話」と向きあわねばなら なかったことを示していた。 遠藤は、自らが調査した事柄については、「厳格な官庁の調査」に縛られ ることに違和感をいだきつつ、その一方で「百犬の噂」ばかりを収録したよ うな既存メディアのなかの「話」については、一線を画しながら「事実」と いう枠組みを守ろうとする。そこには、「事実」は「官庁」が決定するので はなく、調査員としての自分こそがその境界線を引きうるという「事実」の 管理者としての姿勢を読み取ることができるだろう。
2. 4 「善行美績調査」の臨界 ことに善行美績調査の現場は、「善行とは何か」に関わる問題、そして 「調査」という不可視を可視化していく実践自体に宿る問題にも対処しなけ ればならなかった。それはいずれも善行美績調査そのものの臨界に関わる問 題であった。 たとえば、自家はもちろん裏手の長屋まで開放して、5,000 人あまりの人 を避難させ、また療養させたというある人物の行為に対して、「役場側」は その功績を認めなかった。というのはその行為が「売名的動機から出ている のだから、善行者としての申告は控えてある」からだった[遠藤,1924 : 13]。東京府により、善行に関して「売名的動機」を排除するという配慮が なされていたことがわかる。何をもって「売名的動機」としたかは示されて いないが、それはまず「善行とは何か」に関わる問題であった。遠藤は「こ うなってくると、善行と善行者とが区別されなければならない」と自問自答 する。そして「瓜の蔓に茄子はならぬ」という喩えを「善人と善行」におき かえ、「善人の蔓に悪果は現われぬというかも知れないが、しかしながら、 悪人の蔓に善果の生ずることがないということは、決して速断(ママ)さる べきものではない」とする[遠藤,1924 : 13]。遠藤は、役所が「美績」選 定にさいして行なった「売名的行為」という判断に批判的であった。 同様の問題は、震災のさいに御真影を「奉戴」して逃げ、完全にこれを 「奉安」したとされるある校長について語られていることと重なる。遠藤に よると、その校長に「会見した第一印象は決して宜しい方ではなかった。そ の態度は極めて倣岸の質があった。談ずる所によれば、当時自分が困苦の状 は到底筆舌の克く尽くすべき所に非ずと聞いた。それは必定その通りであろ う。が、「詳しい事が聞きたければ、速記者でもよこしたらどうだ。君らの ほうには大変金もあるということだ」とのご託宣」に「恐縮」し、「私のよ うな温順な人間にも三分の反抗が沸いてくる」[遠藤,1924 : 42]。 遠藤は、校長が御真影を「奉戴」するのは「彼自身の責任」であり、それ を果たしえなかったら「彼自身が普通以下に落ちるわけなのだ」と評し、そ して「よし本当にある行為が天下に誇称するに足るべきものであったとして
も、彼自身が世の中に吹聴してまわるようになってはモウ末だ」といったん は断じながら、しかし最後には「併し私どもには是も勿論善行だ」と結ぶ [遠藤,1924 : 42]。そこには「善行と善行者を区別する」ことに対する遠 藤の批判的姿勢があった。 こうした遠藤の思考過程は、既に触れた、彼が「何が善行で善行者か」の 判断は調査員がその「良心」にしたがってすべきである、と述べていたこと と重なりあう。善行調査には、売名や名誉欲というものと紙一重の危うさが からみついてくる。それと折り合いをどうつけるのか、「売名行為」を排除 しようとした東京府が現場の調査員につきつけた難問であったはずだ。そし て、この「売名」「吹聴」も、視点を変えれば、ある行為を「事実」として 対象化するさいの文脈の問題でもあったといえる。文脈が異なれば、同じ行 為でも「善行」という「事実」ではなくなる可能性があった。 さらに、現場で遠藤が、「善行」か否かを判断し取捨していく例を見てお きたい。遠藤は「ある学校から、子どものなかに、二つの美績があるという 報告」を受けて出かけていった。報告書はY という女子については「右之 者大災当時僅かばかりの食料を持てるに飢えに苦しむ者にその小なる食を分 かち与えたりと」と記し、K という女子については「右者大災当時避難ニ サヘ困難ナルニ病人ヲ労リ僅カノ寝具ヲ出シテ貸与シタリト云フ」と記して いた。遠藤が実際に本人に聞き取りをすると、Y は、握り飯は父が炊き 「妾はもうたべて要らなかったからあげたのです」と答え、遠藤は「聊か失 望」する。後者のK も、一家で避難しているところに見知った学校の先生 が老母を背負ってきたので、敷布や枕を貸したという。遠藤は「これもあの 報告書に対比しては少々貧弱すぎると思った」と記す[遠藤,1924, 65− 66]。 学校からの報告は虚偽ではないものの、その叙述と、実際に当事者に面談 して触れた言葉との間に懸隔がある事例だった。報告書は、美績であり顕彰 の対象となる行為を、「僅か」なものを分け与えたと叙述し、それは出来事 を「美績」へと創りなしていく効力を発揮した。現場の調査員は、その懸隔 を計測し「美績」の境界線を引かねばならなかった。遠藤は、「善は小也と
いえども貴い」と論評するが、明らかに、『美績』の対象になるか否かの境 界が意識されている。『美績』にこの事績は掲載されていない。 また、遠藤はこれを「貧弱すぎる」という大小・量の問題として語ってい る。しかし今日のフィールドワークにおける「事実」をめぐる議論からいえ ば、それはまさしく出来事の語られ方の相違の問題でもあった。その意味で は、これは当時の遠藤が意識化していたか否かは別として、「事実とは何 か」という臨界に関わる問題でもあったといえる。 善行美績調査は、さらに調査という実践そのものがはらむ問題にも拘束さ れていた。 遠藤は、あるバラックで、一人の女性が火事のおりに赤ん坊を拾ってきて 育てていることを「耳」にした。どこに住んでいたか、家族は何人であった か、子どもはいくつであったか、と尋ねる遠藤に対して、女性は「この子は 私の子にしてありますが、私の腹を痛めた子ではないんです」と答えた。遠 藤は「お神さん、私を戸籍調べの旦那と見違えている様子だ。まあ、それで もよいとして、当時の模様を話させることにした」。 ところが、遠藤が聞き取りを終えバラックの事務所に帰るとくだんの女性 がやってきて「今のを新聞などに出して下さるな、この子には本当に親はな くて私の実子として育てるのだから、もし新聞などに謂われていたら、大き くなってどんな立派な旦那を持たないものでもない。その時、古新聞のなか からでも拾い子だなどと暴露してきたら出世の妨げになる」といった[遠 藤,1924 : 53−54]。この事例も『美績』には掲載されていない。 個人の行為を固有名詞とともに可視化していく善行美績調査は、私的経験 を公的価値を持った経験へと語り変えていくものでもある。自らが語ったこ とが記録され残存することに対する不安は、ことさら厳密に「事実」を志向 する調査自体がはらむ暴力性を顕在化させる。ことにこの女性が、遠藤を 「戸籍調べ」と勘違いしたことが興味深い。戸籍調べとされているのは、1920 (大正9)年の第 1 回国勢調査の記憶、さらにはその国勢調査の方法にのっ とり、内務省を中心とした臨時震災救護事務局により大震災火災の対後策の ために、11 月 15 日に一斉に実施された全国戸口人口調査(東京市、横浜市
は全戸を対象、それ以外では罹災者のみを対象とした)の記憶が重なってい ると考えることも可能だろう4)。震災後の個々の罹災民を捕捉するこうした 戸口調査と、遠藤らの善行美績調査は、調査される者たちから見れば、同種 のものとして意識化されていたことがうかがえる。 また、次のような例は、調査によって自らの行為を「善行」という「事 実」として同定されること自体を拒絶するものであった。遠藤は、ある学校 の教師が老母を背負って大森まで逃げたということを「耳」にし聞き取りを 行なうが、その教師は「本当に、私のしたことなどは善行でも何でもありま せん」、「どうか書かないで下さい」と嘆願した。それに対し遠藤は、「非当 たり前」のさいに「当たり前」な「道徳」を実践し得たことは「超当たり 前」の行動なのだと考え、「取り消しがあるほど、それ程書かねばならない 心の臍が固まって行った」と記す[遠藤,1924 : 103−105]。 さらにその教師から「私の事は取り消して下さい」、その代わりに「より 立派な事件を紹介いたします」という書状が送られてくる。結局、『美績』 には、そこで紹介された事績が「愛情篇」に「トタン板の下の三十人」とし て掲載された。ところが同記事のなかに、「明川高等小学校のHT(記号化 重信)訓導が、老母を負ぶって此のなかにいたのだが、鮮人騒ぎに脅かされ て、一路大森の知己まで老いたる母を背にして立ち退いたことは別に記し た」という一文が挿入される[東京府編,1924 : 637]。この「別に」は管 見する限り、『美績』中にその記述は存在せず、『手記』の記述以外にない。 この『美績』の数行の記述は、調査員の存在が消去された『美績』のなか で、当事者に拒絶されようとこの行為を善行という「事実」として名づけて 掲載しようとした調査員・遠藤の痕跡であった。 何が善行で善行者かという判断をめぐり、調査員が直面した臨界が存在 し、さらに個人の行為を善行と名づけて可視化し公表する調査という実践自 体がはらむ暴力性が生み出す臨界が存在した。調査員は、その線上で自らの 姿勢と視線のありようを常に問われていたのである。
3
善行調査そして非常時と動員
『東京府震災美績』に結実する善行美績調査は、事実がゆるぎないもので あることを自明としつつ、一つの標準を定めて、それにより美「談」でも佳 「話」でもない、確かな事実と実例としての美績を編纂することを目的とし ていた。そして17 名の調査員たちは、『美績』には名前も記されず、建前の 上では与えられた「標準」にしたがって鵜飼の鵜のように確固たる「事実」 を収集することを期待されていた。 しかしその調査員たちの現場では、既存の記録や記事の調査、実地の踏査 や聞き取りなど、「事実」にたどりつく筋道が多様にあり、その過程で現出 する出来事の語りかたの違いにより善行という「事実」の意味や価値が変わ ることが常に問題とされていたのである。そして事績として収集された「事 実」は、明らかに、調査員たちが公的機関のなかの資料を探索し他者と言葉 を交わすことを通して具体的な形を与え、さらには「善行とは何か」を自省 しながら取捨選択したものであった。 調査員の一人、遠藤早泉は、『善行捜査者の手記』を事後的に綴ることを 通して、そのことを明確に意識化し言語化しようとしたといえる。その時、 約80 年前の一人の善行調査員は、調査と「事実」の関係が決して自明では ないこと、調査者という主体は決して透明な存在ではないこと、そして調査 自体がはらむ暴力性をめぐる問題など、フィールドワークをめぐる今日的問 題につらなる問いに向きあっていたのである。 そうした、与えられた調査の枠組みを、一度自らの身体をくぐらせて実践 しようとした調査員の存在が、一見すると一枚岩に見える善行美績調査全体 に対する批判的要素であったのか、それとも善行美績調査の枠組みを内在化 させていく主体のあらわれなのか、一概に決めることはできない。しかし遠 藤は、「美績」を収集すること、その「美績」を公表すること自体に、疑問 をいだいてはいなかったことも確かだった。むしろ積極的にそれに関わり、 そのことを自分にとって「最も記念すべき経験」としていた。 では、遠藤を、積極的に善行美績調査に突き動かした要因は何であったのだろうか。 今、『手記』の叙述にはっきりと読み取ることができるのは、今日でいう 「朝鮮人虐殺」が落とす影である。『手記』は冒頭、善行調査委員の初会合の 席で松原社会教育主事が、宇佐美東京府知事が「在鮮中に、耳にした話」と して、「或る朝鮮人」がしたという次のような話を紹介したエピソードから 始まる。「洪水が凄まじい勢いを以って奔放してくるや、朝鮮人は悲鳴をあ げて途惑う。ところが支那人は其の濁流に溺れながら流木を拾う。ただ独り 日本人のみは身命を賭して人命を救助する。日本民族の発展も故なきに非ず だ」。それは、エスニック・ジョークの典型としか言いようのない差別のフ ォークロアでありながら、「或る朝鮮人」による言葉とした屈折した話だっ た。しかし遠藤は、それを次のように引き受ける。「我が宇佐美知事は、今 回の大震災に際しても我が国民性が端的に赤裸々に現れた幾多の姿を見られ た。そのなかには、可なり彼の鮮人の感慨を裏切るような行動も見聞された けれども、その間にすら真に日本の国民性の本然の相が動いていないことは ない」[遠藤,1924 : 1−2]。この「彼の鮮人の感慨を裏切るような行動」と は、間違いなく朝鮮人虐殺を指している。 そして、「けれども」という逆接の接続詞で「日本の国民性の本然」を持 ち出し、さらに「善行美績という言葉は古いが、ツマリはそれだ」と続く。 明らかに善行美績は朝鮮人虐殺という出来事と対照的な位置に置かれ、遠藤 にとって、虐殺という出来事により危機に瀕した「日本の国民性の本然」を 修復する意図が働いていることは確かであった。 同時にそれは、東京府の善行美績調査の全体を少なからず規定していた文 脈でもあったのではなかったか。少なくとも宇佐美知事の意図を推し量ろう とする遠藤自身の物言いは、善行美績調査の一つの意義を、そう捉えてい た。『美績』は「責任篇」に、遠藤が調査した「身を以て鮮人を保護した共 済会理事」の他「巣鴨警察署管内の朝鮮人保護」など4 件(1 件は朝鮮人と 誤認された「支那人」を救った事績)、「愛情篇」に、「鮮人の救護に尽くし た町長」他6 件の「朝鮮人保護」の「美績」を紹介していた。 そして、遠藤が最初の調査として選んだのは、新聞でみかけた主人の家財
と子どもを守りとおした「朝鮮人」にまつわる美績であった。「善いの悪い のということは、それが日本人だ朝鮮人だというような区別に伴うものでは あるまい。全く、日本人にも悪いのと善いのとあるように、朝鮮人にも善い のと悪いのとがある」とし、「無告の鮮人を迫害した悪自警団が内地人にあ ったことは事実だとして、さて其の反面には必ず善良な鮮人を保護した内地 人も必ずあったに相違ない」と語る[遠藤,1924 : 19]。遠藤は朝鮮人によ る善行を調べ、朝鮮人を悪しざまに語った流言に向き合い、朝鮮人を保護し た内地人/日本人の善行を調べ、虐殺という出来事に向き合おうとしてい た。 それは確かに、成田龍一が震災美談のレトリックとして指摘するように、 虐殺に手を下した人間を「われわれ」から排除し、「虐殺という行為」を 「善行を引き出すための前提」として背景に退かせてしまう効果の一端を担 っていくことになる[成田,[1996]2003 : 231]。 しかし、「とにかく、今度の震災に伴って起った人事現象の第一不祥事は 朝鮮人迫害に過ぎたるものはない」[遠藤,1924 : 16]とし、また「大正の 大震災史上に一大汚点を付けたのは、日本のどの階級によってなされたの か」、「私どもには堪えられないほどの傷心を覚える」という叙述[遠藤, 1924 : 21]からうかがえるありようは、自らを棚上げしていることは問わ ぬとして、朝鮮人虐殺という消しようのない現実の前で、たじろぎ狼狽して いる知識人の姿でもあった。 1923(大正 12)年 10 月 20 日の『東京日日新聞』は、「各地の騒擾事件」 という題名を囲って強調し、「記事の掲載/解禁となる」と、ほぼ1 ページ を各地の朝鮮人虐殺に関する記事で埋めている。単なる流言にまつわる騒擾 ではなく集団暴行による殺戮であったことがあからさまになった時期と、遠 藤らの善行美績調査が開始された時期は、ほぼ重なっていた。 遠藤が「最初の調査」を朝鮮人に関わる美績調査から開始したことは、少 なからず彼自身の善行調査が、明るみに出たこうした厳然たる事実に規定さ れていたことを示している。 そしてその美績調査は、震災という非常時にあって「流言」に惑わされる
ことなく、自ら「正しい」「善い」行いをなしうる「日本人の国民性の本 然」を身に帯びた「国民」像を構築していく作業であった。 東京府知事・宇佐美勝夫は『美績』「序」のなかで、「善行」について「…… 職務及ヒ責任観念ノ上ヨリ、其ノ私ヲ忘レテ公ニ竭シタリシモノ、冷静沈着 ニシテ処理ヲ誤ラサリシモノ、隣保共助能ク禍殃ヲ防止シ若クハ拡大ニ至ラ シメサリシモノ、遺サレタル先人ノ体験行為ニ学ヒ、或イハ周到ナル生平ノ 用意ニヨリ、自他ノ危難ヲ脱シ得タリシモノ、訓練セラレタル団体力ヲ揮 ヒ、諸多ノ美談ヲ伝エタリシモノ……」などを列挙している[東京府編, 1924]。「責任」「冷静沈着」「隣保共助」「周到ナル用意」「訓練セラレタル団 体力」など、それらのキーワードは、概ね、既に紹介した同善行美績調査の 標準八項目と重なっている。 これら「序」から標準八項目までをつらぬくキーワードは、たとえば同じ 美談調査でも、1923(大正 12)年 9 月に文部省少年団日本連盟が実施した 調査の次のような項目と比較すると、その相違がうかびあがる。 一、忠君の精神を発揮した特殊事例 二、親子の至情を発露した美談 三、職務及び責任観念による美挙美談 四、社会公衆のため私事を犠牲にしたる事例 五、兄弟姉妹友愛の情を完うせる美談 六、夫婦間の美談 七、主従間の美談 八、博愛に関する事項 九、災害救助に関する事項其の他後世の亀鑑となるべき美事善行 (『報知新聞』1923(大正 12)年 9 月 24 日) 「職務及び責任」「私事を犠牲にする」は『美績』と共通しているものの、 他はあからさまな「忠君の精神」を筆頭に、「至情」「友愛」「夫婦間の美 談」「主従間の美談」「博愛」など忠誠と「愛」を基本とした項目が並んでい
る。対して『美績』の「責任」「冷静沈着」「隣保共助」「周到ナル用意」「訓 練セラレタル団体力」は、非常時に噂に翻弄されるような烏合の衆にならず に、自らすすんで冷静に合理的な判断をして行動できる者たちの像をかたど る項目群であったといえる。 この『美績』は、震災後一周年という「復興」のただなかに発行され、 「復興」以後の世の中に向けて「之ヲ将来ニ伝ヘテ緩急時ニ当タリ、鑑戒警 省ノ資ニ供スルト共ニ、犠牲ノ大精神ヲ養フニ於テ裨補スル」ことを目的と して掲げていた[東京府編,1924:「序」]。 今、我々は、このおよそ15 年から 20 年後にかけて、東京に再び「緩急 時」すなわち非常時が訪れ、我々が「犠牲ノ大精神」を自ら発揮することを 求められ、また前傾姿勢でそれを具現化するようになることを知っている。 震災後の新聞には、「飛行機一台で容易に/破壊されるわが帝都/空の防 衛に気をもんで/陸軍が頻りに献策」(『東京日日新聞』1923(大正 12)年 11 月1 日)や、「空中攻撃を受けると/大震災の比ではない/山の手まで全滅 する/飛行大尉 渡辺廣太郎」(『東京日日新聞』1923(大正 12)年 12 月 26 日)といった記事が見える。総力戦であった第一次世界大戦における航空機 の威力を知っていた軍部は、帝都復興に「防空」概念を重ねようとしてい た。そして、1923(大正 12)年 9 月 12 日に「復興」を国家の問題とする 「帝都復興ニ関スル詔書」、11 月 10 日に国民のあるべき「精神」を説く「国 民精神作興ニ関スル詔書」という二つの詔書が、震災後短期間のうちに出さ れていることは偶然ではないだろう。後者は、10 年後の 1933(昭和 8)年 に「渙発」10 周年を記念して再びクローズアップされることになるのであ る。 さらに原田勝正によれば、震災後、関東大震災のような自然災害に対する 対応と、第一次世界大戦における空襲災害に対する対応とが競合するかたち で、「動員体制」が強化され、地域共同体の再編成がすすめられていったと いう[原田,1997]5)。 編み上げられた『大正震災美績』は、緩急時=非常時におけるあるべき理 想的主体の「総動員」を仮構してみせるものであったともいえる。その「善
行」の「標準」として掲げられ、『美績』の輪郭を描いた「責任」「冷静沈 着」「隣保共助」「報恩感謝と挺身努力」「訓練せられたる団体の力」「平素の 周到なる用意」などの項目は、いずれも動員の時代の内実を構成する要素と なるはずである。後の国民精神総動員という政治のなかでは、「皇軍兵士」 に対する「報恩感謝」の念が唱えられ、自らの持ち場で責任をはたす「勤労 報国」が語られ、「流言」に惑わされない冷静沈着な「対敵心構え」が要請 され、隣組という制度に裏づけられながら「隣保共助」が強調され、また節 約や貯蓄など「平素」の努力と用意が励行されたのである[内閣情報部, [1937]1988]。それらは、『美績』の「標準」の項目群と響きあう。 後の世の「緩急時」に向けて準備された東京府の善行美績調査と『美績』 は、後の「銃後」という言葉が使われた「動員」の時代への流れに位置づけ ることができるだろう。 ここで検討してきた善行美績調査は、こうした震災後の時代の「動員」と いう文脈のなかで、後の「銃後美談」という説話集の編纂などへと重なって いくにちがいない。そのさらなる議論は、別の機会にゆずりたい。 遠藤早泉は、「官庁の調査」のなかで、朝鮮人虐殺に対する衝撃をかか え、「善行とは何か」を自問しながら17 人の調査員の一人として焦土を歩い ていた。それは「官庁」が前提としていたような鵜飼の鵜のごとき機械的な 調査員では、決してありえなかった。しかしそれゆえまた、非常時の動員を めぐる歴史の展開へ接合するという点において、調査員・遠藤は、東京府善 行美績調査・『大正震災美績』と文脈を確かに共有してもいたといわねばな らないだろう。 付記 資料の引用に際しては、漢字の字体、ならびに仮名遣いを出来る限り現在の用法 に改めた。 注 1)『美績』に収録された件数に比べ、『東京震災録 別輯』[東京市編,1926 b] 「第4 章 勲労者」の一覧の総量ははるかに多い。双方とも、震災救護活動のな かで行政、軍隊、警察そして学校などが収集した情報の蓄積を前提としていたこ
とは確かだろう。その意味では双方は、情報を蓄積する仕組みを共有していた。 美績の対象と表彰の対象との重なりには、まずそうした事情が背景にあるのでは ないかと考えられる。この善行美績調査そのものが、そのまま表彰制度と連動し ていたか否かは、さらに検討する必要があろう。 2)深川区では10 月 3 日の段階で、区内 8 箇所の小学校跡地にたてられたバラッ クに総計5,440 人が収容されることになっていた[江東区,1997 : 588−589]。ま た小石川区礫川尋常小学校の場合のように、学校の教員が区から救護事務の委託 をうけて、卒業生の青年団員の協力をえて救護所の運営を行なった例もある[鈴 木,2004 : 178−180]。 3)第1 回国勢調査については川合[1991]。またこの国勢調査において、調査員 たちが、国家の威信を背負い様々な困難を乗り越え「直接的」把握のある種の厳 密さを達成しようとしたことは、同調査後に編纂された「国勢調査美談」の重要 なモチーフであった[佐藤,2001]。 4)罹災者の人口調査とその後の復興対策の関わりについては大矢根[1991]。 5)なお、震災後の救護活動の全体像を再構成して検討した鈴木[2004]は、青年 団や在郷軍人会などの活動においても、個々人の自主的判断による参加が多く、 一方でそれが統制を欠いたという反省をもたらし、「諸団体の指導の強化」と、 「行政の下請け」的な町内会の組織化につながったと指摘している。 文献 遠藤早泉,1924,『善行捜査者の手記』東京:文化書房. 原田勝正,1997,「総力戦体制と防空演習──『国民動員』と民衆の再編成」,原田 勝正・塩崎文雄編『東京・関東大震災前後』東京:日本経済評論社,353−390. 飯塚哲英編,1923,『大震災の哀話と美譚』東京:金の鳥社. 川合隆男,1991,「国勢調査の開始──民勢調査から国勢調査へ」川合隆男編『近 代日本社会調査史(蠡)』東京:慶応通信,105−141. 江東区,1997,『江東区史 中巻』東京:江東区. 永井良和,2000,『尾行者たちの街角 探偵の社会史漓』横浜:世織書房. 内外教育資料調査会,1924,『教育資料 大震災の美談と惨話』東京:南光社. 内閣情報部,[1937]1988,『国民精神総動員実施概要(第 1 輯)』(復刻:長浜功編 『国民精神総動員運動 民衆教化動員史料集成 第1 巻』明石書店). 成田龍一,[1996]2003,「関東大震災のメタヒストリーのために──報道・哀話・ 美談」『近代都市空間の文化経験』東京:岩波書店,192−236. 大矢根淳,1991,「震災『復興』と『去ルヘキ人』『来ルヘキ人』──『震災調査報 告』をめぐって」川合隆男編『近代日本社会調査史(蠡)』東京:慶応通信,213 −241. 佐藤健二,2001,「史料としての美談──国勢調査の物語」,現代風俗研究会編『現
代風俗研究会年報 23 物語の風俗』東京:河出書房新社,92−113. 鈴木淳,2004,『関東大震災──消防・医療・ボランティアから検証する』東京: 筑摩書房. 東京府編,1924,『大正震災美績』東京:東京府. ────,1925,『東京府大正震災誌』東京:東京府. 東京市編,1926 a,『東京震災録 中輯』東京:東京市. ────,1926 b,『東京震災録 別輯』東京:東京市. 上笙一郎,1988,「遠藤早泉」日本児童文学学会『児童文学事典』東京:東京書 籍,103.
■Abstract
The Tokyo government in September, 1924 issued the “Good Deeds of the Taisho Earthquake” on the first anniversary of the Great Kanto Earthquake. That document was compiled based upon research conducted by 17 elementary school teachers selected from the Tokyo government after the earthquake. This paper used the memoirs compiled by one of the research members involved in that re-search to learn how the investigators of the earthquake scene collected information and made judgments relating to good deeds. It also outlined how the investigation by one investigator was evaluated. The publication of “Good Deeds of the Taisho Earthquake” did not list the names of the investigators, as is the nature of the spe-cific processes used in the investigation. Also, there is the principle that the proc-esses in the investigation are objective and transparent. However, the investigators in the memoirs searched information accumulated in public organizations among their earthquake relief activities. They verified the “rumors” on the street and found the “actual truth” through repeated trial and error. Then, relating to active investigation for good deeds in the face of the shock of the slaughter of Korean people, the author of the memoirs questioned himself with “what constitutes a good deed?” On the other hand, his memoirs revealed the bewilderment of the in-vestigator in a “close examination” which is required in investigations.
The memoirs also show that while conducting the research in which investi-gators were required to define “good deeds” and have them publicly well known, he actively engaged himself in reassessing the research, or his given duty to con-duct it from his own perspective.
────────────────── *The University of Kitakyushu
Looking for People of Good Deeds
In the sense that the time when “stories of good deeds” were compiled lead to the age where a system of mobilization became embodied, the investigator de-picted in the memoirs would possibly be with in the stream toward the age of general mobilization.
Key words: the scene of an investigator, the Great Kanto Earthquake of 1923, stories of good deeds, fact, mobilization