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(1)

モ ー ツ ァ ル ト を め ぐ る フ リ ー メ ー ソ ン 的 状 況

福 原 淳

1

W・A・モーツァルト(一七五六ー一七九一)がフリーメーソン結社に正式に加盟したのは︑彼が二十八歳の終り頃︑一七

八四年十二月十四日のことであった︒

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ー・フォン・ゲミンゲン男爵であった︒そして翌一七八五年一月七日には第二級たる﹁職人﹂に進級し︑更に四月二十二日に

は第三級の﹁親方﹂に昇進している︒

この昇進ぶりは︑当時としては必ずしも例外的な速さではなかったにしろ︑加入後の彼の真摯なメーソンとしての姿がうか

がえよう︒

モーツァルトは更に︑ロッジの会合に自ら出席するだけでは満足せず︑父親レオポルト(一七一九‑一七八七)や先輩のハ

イドン(一七三ニー一八〇九)まで勧誘し︑入会させたのであった︒

ハイドンは当時︑ハンガリーの貴族エステルハージ侯の楽長として︑アイゼンシュタットを中心に活躍していたが︑彼の入

会式はモーツァルトのそれより約二か月後の一七八五年二月十一日に︑ウィーンの﹁真の和合﹂(N⊆円耄Oゲ憎Φ︼P]円固昌け﹃90一P叶)ロ

ッジで行なわれた︒

1

(2)

ハ イ ド ンはそ の翌 日︑ モー ツ ァルト 家 に招 かれ て︑ 彼 に献 呈 さ れ た 弦楽 四重 奏曲 ( い わ ゆ る ハ イ ド ン ・ セ ッ ト ) のう ち から

三 曲 ( 変 ロ 長 調 K 四 五 八 ︑ イ 長 調 K 四 六 四 ︑ ハ 長 調 K 四 六 五 ﹁ 不協 和 音 ﹂ ) を聴 い た が︑ 前 日ザ ル ツブ ルク から ウ ィー ン に出

てき て︑ こ の場 に居 合 わ せ た父 レオ ポ ルト は︑ こ の 時 の模 様 を ︑娘 の ナ ンナ ー ルに宛 て た 二月 十 六 日付 の手 紙 で ︑ 次 のよ う に

記 し て いる ︒

﹁ 土 曜 の夕 方 ︑ ヨー ゼ フ .ハ イ ド ン氏 と 二人 の テ ィ ン デ イ 男爵 が家 に見 え ︑新 し い四 重 奏 曲 が 演 奏 さ れ た ︒ 演 奏 し た のは新

作 の三 曲 だ け で ︑ そ のほ か に も う 三曲 あ る︒ そ れ ら は幾 分 軽 い調 子 のも のだ っ た が︑ な かな かよ く書 け て い た︒ ハ イ ド ン 氏 は

私 に こう 言 ってく れ た ︒ ﹃ 私 は 正直 な 人 間 と し て神 に誓 って申 しあ げ る が ︑私 の直 接 間 接 に知 る 限 り ︑ あ な た の 御 子息 は最 も

偉 大 な 作 曲 家 です ︒ 美 ξ い て の良 い趣 味 を お持 ち だ し ・ そ の上 優 れ た作 曲 技 術 を身 に つ け て おら れ る ・ ﹄ 盖 )

有名な手紙の一節であるが︑この日がハイドンのロッジ入団の翌日であり︑またティンディ兄弟が﹁真の和合﹂ロッジ所属

の射 得 鬆 麓 警 響 飜 齢 "諺 記 讌 籌 齢 欝 驚 雛 嫉轟 曝 い. 団攣 ヂ 醜 賠 肄 齧 籏 穂羇 羇 楚 獄 蘿 譯 鶴 御鍵 譯 輩 影 警

級の﹁親方﹂に昇進している︒

このスピードぶりは︑レオポルトがザルツブルクへの帰還を急がねばならず︑手続きなど特別の免除があったためとも言わ

れる︒四月二十二日の昇進式は︑﹁真の和合﹂ロッジにおいて︑同支部の大親方イグナツ・フォン・ボルンの主催で行なわれ

モーツァルト父子はそろって出席した︒そしてその三日後には︑二人が再び会えずに終ることになるとも知らず︑レオポルト

はウィーンを去って行く︒

以上述べたことでもわかるように︑モーツァルトはフリーメーソンというものに対して非常に熱心な態度を示し︑会合にも

度々出席したことが記録に残っているが︑それと共にまた︑結社のために︑珠玉のような作品をいくつか書き残しているので

ある︒これらの個々については後述するとして︑モーツァルトの心をこれ程まで深く捉えたフリーメーソンとは一体何であっ

たのだろうか︒

(3)

2

フ リ ー メー ソ ン ( H 勹肘 Φ Φ b P 勁 のO 口 ) と は本 来 ︑ 英 語 で 〃 自 由 な 石 工〃 を意 味 し︑ 中 世 の石 工組 合 に由 来 を持 つ ︒ 城 館 や 聖 堂 が 石 造

建 築 であ った当 時 の ヨー ロ ッ パ で は︑ そ の工 事 に際 し て石 工 達 に依 存 す る所 が大 き く ︑彼 等 は建 築 家 そ のも のを 意 味 し ︑ そ の

特 殊 技 術 は ﹁ 王 者 の技 術 ﹂ と 言 わ れ た︒ 石 工 は職 人 の 中 でも特 に重 要 な も のと さ れ ︑特 別 の庇 護 を受 け ︑様 々な 義 務 を 免 除 さ

れ る な ど ︑多 く の自 由 を得 て い た︒中 世 の職 人 達 が 普 通 ︑ 地 域 のギ ルド に所 属 し ︑ そ の強 い拘 束 を受 け た の に対 し︑ 彼 等 だ け

は現 場 から 現 場 へ と 自 由 に渡 り 歩 く 職 人 であ り ︑旅 に よ って 見 聞 を広 め る こと も 出 来 た︒ し か し 一 旦 大 き な 建 築 工 事 が 開 始 さ

㊨ れ ば ︑ そ こ に集 めら れ た石 工 達 は︑ 長 い年 月 に わ た ってそ の工事 現場 で 生 活 し な け れ ば な らな か った︒ 彼 等 はそ こ に仮 設 の 讐 鐸 馨 縟 嚢 饗 響 趣難 縫 離 馳 継 雛 献 互踊 脈嚢 鞭 誨 講 繰 け縫 繁 撮 鉢 縦 幕 蟹 萬 訪 酷 鯱疑 露 継 纏 蠶 魂 嬉 漏 調撫 鎚 鯨 霞雛 四耨 腱 鰐 納 藤

合 員 相 互 は ﹁ 兄弟 ﹂ と 呼 び 合 って友 愛 を深 め た︒ 石 工 達 は当 然 の 事 と し て︑彼 等 の 技 能 上 の 知 識 や ︑建 築 上 の秘 密 を他 に漏 洩

す る こ と を禁 じ られ ︑そ の た め仲 間 う ち に し か通 用 しな い 符 丁 や 合 言 葉 を 用 いた︒ ま た ギ ルド へ の加 入 の際 に は ︑特 別 の秘 儀

や試 練 を伴 な う入 会 式 ( 日 旨 讐 δ 口 ) が行 な わ れ ︑ そ れ に よ って初 め て 正式 の メ ン バ ー と し て承 認 さ れ る ので あ っ た ︒ こう し て彼

等 の 洋 ル軍 は密 教 的 な 色 影 を帯 び るも のと な っ た の であ る︒ な お現 存 す る彼 等 の最 古 の憲章 は = 二 九〇 年 のも の と い われ る︒

匡所 で時 代 が降 っ て ︑ ルネ ッナ ンス を経 た ヨー ロ ッパ が近 世 に は ︑いる頃 にな ると ︑ ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の興隆 や科 学 の発 達 が次 第 忽中 世 的 な封 建 領 主 や教 会 の権 威 を弱 め て いき ︑ こう し た社 会 的 変 動 に伴 って︑ 石 工 達 の 組 織 も ︑変 貌 を遂 げ ざ る を得 なく な

喝四 っま 吻 ︑石 造 大建 築 の請 負 い仕 事 が著 しく 減 っ てき た の であ り ︑当 然 そ れ はま た 組 合員 の減少 を来 し ︑ メ ー ソ ン 組 織 の存 亡 に 潤 わ る 問 櫃 と な っ た︒ こ こ に 至 っ て ︑本 来 進 取 的 であ ったメ ー ソ ン は︑ いわ ゆ る石 工 以外 の 人 達 に も門 戸 を開 き ︑ メ ン バ

烈 誌 緬 え る . ﹂ と に な っ 巻 であ る︒ .言 し て新 た に 迎 ・舌 れ た 舎 貝 は 蓉 認 さ れ た メ ー ソ ン ﹂ (§ 鵞 畠 舞 ゜・8 ) と 呼 ば

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れ た が ︑職 人 風 で異 教 的 な ムー ド が か え って 上 流 社 会 の 人 々の心 を引 き 付 け た の か︑ 彼 等 の間 に 一 種 の流 行 を産 み ︑現 場 の仮

設 小 屋 であ った ロ ッジ に貴 族 の連中 ま で が出 入 り し ︑石 工達 に混 って彼 等 の憲 章 を唱 え ︑ 彼 等 の精 神修 養 に 加 わ っ た の で あ

ゐ︒ し か し それ と 共 に フリ ー メ ー ソ ン 組 織 は本 来 の ギ ルドと し て の性 格 が 薄 れ て︑ 次 第 に精 神 的 な 意 味 を 強 め て いき ︑ そ し て

十 八世 紀 に は い る頃 に は︑ 驚 い た こと に ︑ こう し た メ ー ソ ンの ロ ッジ から 本 物 の石 工 達 が 姿 を 消 し てし ま っ て ︑専 ら進 歩 的 な

人士の修練の場と化してしまう︒本来のいわゆる行動的(§同鋤け同く①)フリーメーソンから近代的な思弁的(︒・速︒巳讐冨)フリー

メコソンへの変身である︒

3

翫 ㍑ 瀧 錙 難 雛 罰 榔 湯劉 い謎 ㍑ ㍍ 凝 組蹴 蘿 黥 麗 議 雛牲 鴇 欝 饕論 妻 処 笳圃

いフリーメーソン憲章が︑プロテスタントの牧師ジェイムズ・アンダーソンによって起草され︑公表される︒そこにおいて︑

フツーメーソン結社の﹁世界市民主義的︑自由主義的友愛組織﹂としての性格がいちはやく打ち出され︑国際的な一大運動と

して︑イギリスはもとより︑フランスやドイツ︑オーストリア等ヨーロッパ各地へと急速に広まり︑更には新大陸にまで波及

して行ったのである︒

フリーメーソンはヒューマニズムとコスモポリタニズムを信条とし︑その中心的理念は自由・平等・博愛であった︒こうし

た会の原理に忠実である限り︑原則的には民族や国家︑社会的地位︑宗教の別等によって会員の資格が制限されることはなか

った︒個人の人格を高め︑徳を磨き︑知を修め︑善行を他に施すことを旨とした︒宗教的には寛容であり︑宗派の別を超越し

て︑﹁万人の一致して認める宗教﹂の信奉者たらんとした︒

彼等は中世以来の石工のギルドを歴史的母体としたため︑基本的にはその諸制度をそのまま採り入れて︑彼等の結社を作っ

た︒彼等は自分達をフリーメーソンと呼び︑その支部や集会所をロッジと呼び︑会員の階級も︑徒弟︑職人︑親方と職人用語

で呼んだ︒もっとも︑新し︑いメーソン組織では多くの新しい位階が加えられて︑三十三位階などとも言われるが︑前の三つが

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基 本 的 位 階 であ る こと に変 り な く ︑他 は滅 多 に授 与 さ れ る こと のな い も のであ っ た︒ 会 員 ば普 通 の場 合 ︑男 子 のみ であ り ︑ 互

い に兄 弟 ( 盟 友 ) と 呼 び ︑ ロ ッジ は平 等 主 義 的 原 理 に基 い て運営 さ れ た︒ 修 学 ︑修 徳 の た め の戒 律 を作 り ︑会 員 はそ れ を 厳 守

す ると 共 に ︑彼 等 の内 部 で の言 動 に つ い て は︑ これ を外 部 に漏 らす こと を禁 じ ら れ た︒ そ し て中 世 のメ ー ソ ン同 様 ︑ 特 殊 な 符

丁 を使 い ︑神 秘 的 な 象 徴 や 暗 号 が 好 ま れ た︒

こ の よう に組 織 の形 態 にお い て︑中 世 のそ れ が か なり 受 け継 が れ た が ︑ し か し近 代 に お い て は︑ 思 弁 的 メ ー ソ ンと し て の精

神 化 が進 んだ 結 果 ︑そ の儀 式 的 要 素 は著 しく 複 雑 化 し た ので あ っ た︒ 彼 等 は中 世 の石 工組 合 の伝 承 を は る か遠 く ︑ エジ プ ト そ

の他 古 代 東 方 の神 話 や 密 儀 にま で遡 ら せ︑ ま た中 世 以降 の様 々 な神 秘 思 想 の流 れ を汲 み 入 れ て︑ 儀 式 にお け る 神 秘 的 象 徴 性 を

ヘへ

深 化 さ せ た︒ ま た建 築 と いう 事 自 体 が 観 念 化 さ れ て︑ 槌 や のみ ︑定 規 や コ ンパ スな ど が ︑結 社 の社 旗 や 徽 章 と し て象 徴 化 さ れ

た︒ 彼 等 にと って ﹁ 人 間 性 の殿 堂 の建 設﹂ が 理 想 と し て 掲 げ ら れ る︒ 彼 等 は ﹁宇 宙 の創 造 者 た る建 築 家 ﹂ と し て の神 を 崇 拝 す

麓 繋 難 黶 簗 羅 竣 万 物 の 根 源 ︑ 光 の 源 泉 た る 太 陽 が 彼 等 の 神 な の で あ る ︒ .︑れ は 明 ら か に 古 代 . ジ

タ 誌 鷲 繋 寵 馨 鰭 騰 蝉 灘 辱 麓 雛 黐 薯 麝 雛 り 謬 副 い 嚢 鎧 箭

アジーのイデオロギーたる啓蒙主義と密接に結びつき︑その担い手ともなったのであった︒

当時の人々はもはや既成宗教のドグマに束縛されることなく︑人間σ理性によって新秩序を建設し︑人類の進歩︑向上を図

ろうとする革新の気運に燃えていた︒フリーメーソンの堅持する啓蒙主義的理念は当然︑当時の中産階級や︑特に進歩的な知

識人達の共鳴を呼び︑多くの支持をかち得た︒各国の王候をはじめ︑政治︑学問︑芸術等︑各界の名士で︑この結社の活動に

関わりを持った者も少なくない︒若干の著名な例を挙げれば︑イギリスではジョージ四世︑ネルソン提督︑ポープ︑スウィフ

ト︑フランスではダントン︑ボーマルシェ︑それにヴォルテール︑ダランベールなど百科全書派の多数︑アメリカではジョージ.ワシントン︑ベンジャ︑︑︑ン・フランクリン︑そして独墺ではプロシア国王フリードリッヒニ世︑オーストリア皇帝ヨーゼ

フニ世︑ワイマル公力ール・アウグスト︑それにゲーテ︑レッシング︑ヴィーラント︑ヘルダi︑フィヒテ等である︒

・しかしまたそうした流行の反面︑フリーメーソンの持つ諸特徴から推して当然予想されるように︑この結社は何かうさんく

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さい団体と考えられて︑いたずらな誤解を産むことにもなった︒本来はいわゆる秘密結社ではなかったにも拘らず︑何かいか

がわしい宗教団体乃至は政治的陰謀結社として︑ローマ教会や政府当局から危険視され︑迫害や弾圧の対象となったのであ

る︒一七三八年の教皇クレメンス十二世によるフリーメーソン禁止令に始まる迫害は︑多くのカトリック諸国において強烈を

極め・またあらゆる社会的︑政治的陰謀がフリーメーソンに帰せられる傾向を産んだのであった︒

'所で・フリーメーソン結社は一つではなく︑いくつかの種類が並存しているとも言われるように︑その組織は順応性に富い

でいて︑主導権が各国に任されていたから︑その運動の在り方や発展の仕方は︑国情の相違に応じて異なった様相を示した︒

例えば︑或る分派は純粋に宗教的な立場を堅持したのに対し︑他は反教権的な立場を明確にしたし︑また独墺のフリーメ亅ソ

ン結社では道徳的性格が特に強く︑英仏ではそれに加えて社交的性格が著しかったなど︒

・次に独墺におけるフリーメーソン的状況を概観してみよう︒

4

ドイツにフリーメーソン運動が導入されたのは一七三〇年代で︑一七三七年には自由都市ハンブルクにグランドロッジが設

立されて︑大きな影響力を持った︒一方︑オーストリアでは一七四二年にグランド・ロッジが設立されるに至ったが︑初期の

熱,心なフリーメーソンの一人は︑マリアニアレジアの夫フランツ一世(在位一七四五‑六五)で︑一七三一年には早くもデン

ハーグでフリーメーソンに加盟して︑いる︒一七三八年にローマ教皇クレメンス十二世が力トリック教徒のフリーメーソンへの

加入を禁止する勅令を出した時も︑オーストリアではカトリック教徒の教会への服従とフリーメーソン結社への加入とが相容

れないものとはされず︑禁令は遵守されなかった︒そして高位の聖職者達でさえ︑ロッジに出入りする程であった︒しかしプ

リーメーソンに批判的であったマリア・テレジア(在位一七四〇1八〇)は︑夫の死と前後して︑フリーメーソン禁止令を出

し︑結社員の迫害に乗り出した︒彼女の息子のヨーゼフニ世(在位一七六五‑九〇)は進歩的な啓蒙専制君主として知られ︑

ユリーメーソン思想にも共鳴していたので︑その弾圧には反対し続け︑母親が一七八〇年に死ぬと︑禁止令を撤廃し︑その存

在を合法化するという寛容政策をとった︒モーツァルトがフリーメーソンに加盟したのは︑まさにこうしたオーストリアのメ

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ーソン結社の黄金期であり︑ウィーンには八つのロッジがあって︑各界の錚々たる名士達が名を連ねていた︒所が一七八五年

の末になると︑ヨーゼフニ世は勅令を発して︑結社の規制に乗り出し︑ロッジの合併縮小を図った︒その理由は︑当時多くの

疑わしい結社が跌扈していたので︑健全な結社を保護すると共に︑結社をしっかりと掌握して︑自己の支配下に置くためだっ

たと言われる︒このため多くのロッジが閉鎖され︑別のロッジに再統合された︒この改組が結果的には結社を破局へと導いた

ことは確かで︑わずかの間にウィーンのメーソンの公認数は大幅に減ったという︒このヨーゼフニ世が一七九〇年に没する

と︑後を継︑いだ弟のレオポルトニ世(在位一七九〇1二)は反動政策を強め︑フリーメーソンに対しても︑これを非公認の団

体としてしまう︒彼の妹マリー・アントワネットの運命をも巻き込んだ︑例のフランス革命(一七八九年)の原因が︑国際的

なフリーメーソン結社乃至は啓明団(後述)の陰謀にあったとする風評が広まったことにもよる︒次の後継者フランツニ世

(在位一七九二i一八三五)は︑はっきりとフリーメーソンに対する弾圧を強め︑その結果︑フリーメーソン運動はすっかり

下 幾 甍 攣 惣 .嬉 讐 口 " 辣 欝 嘉 縫 栖 簒 歎 陛 違 に よ っ て ︑ い く つ か の里 奎

欝 鶏 馨 鋳 晶 韈 鞍 霧 跡 襲 は暴 齢 し 譁 襲 を募 遘 鞴 穩 況 の と り わ け 重 要 な

一 七 五 六 年 頃 ド イ ツで 設立 さ れ た バ ラ十 字 団 は ︑初 め は フリ ー メ ー ソ ン 結 社 の 外 にあ り ︑専 ら錬 金 術 や神 智 学 な ど に関 心 を

向 け て い た のだ が ︑ や が て 何 ら か の 形 で 両者 が離 れ が た い 程混 淆 し て 一 体 化 し ︑中 で も そ れ が 一 七 七 五年 に結 成 さ れ た ウ ィ ー

ン で顕著 で あ っ た と 云 う︒ バ ラ十 字 団 は啓 明 団 と 激 しく 対 立 し ︑後 者 の反 教 権 主 義 や 政 治 関 与 の姿 勢 を非 難 し た︒

啓 明 団 も 当初 は フリ ー メ ー ン ン運動 と無 関 係 で ︑ 一 七 七 六 年 にバ イ エ ル ンのイ ン ゴ ル シ ュ タ ッ ト 大 学 の教 授 アダ ム ・ ヴ ァ

イ ス ハ ウ プ ト に よ って設 立 さ れ た︒ 彼 は イ エズ ス 会 の 出 だ が ︑ そ の哲 学 に激 しく 反 発 し ︑ ルソ ー やデ ィド ロの思 想 を基 に ︑

理 性 と人 間 性 の 敵 に対 抗 す る同 盟 と し て ︑啓 明 団 を組 織 し た︒ 彼 は組 織 の充 実 の た め に︑ フリ ー メー ソ ンの中 から も 支 持 者 を

募 り 始 め た︒ や が て ハノ ー ヴ ァー出 身 の作 家 で ︑ ルソ ー の弟 子 でも った アド ル フ ・ フ ォ ン ・ ク ニ ッ ゲ 男 爵 の協 力 を得 て︑ 啓 明

団 は南 ドイ ツ や オ ー ス ト リ ア等 多 く の地 域 で フ リー メー ソ ンの ロ ッ ジ に浸 透 し︑ そ れ を 支 配 す る よ う にな った︒ し か し 一 方 ︑

教 会 や 政 府 当 局 は︑ こ の運 動 の急 速 な 発 展 に危 惧 の念 を抱 く よう にな り ︑ま ず バ イ エ ル ン のイ エズ ス会 が 啓 明 団 を 非 難 す る 運

7

(8)

動を開始︑啓明団のライヴァルのバラ十字団もこれに同調した︒イエズス会から影響を受け︑またその聴罪司祭がバラ十字団

員であったバイエルン選帝侯カール・テオドールは︑一七八四年︑啓明団その他の秘密結社がバイエルンで活動することを禁

ずる勅令を出した︒特に啓明団への迫害がひどく︑ヴァイスハウプトはインゴルシュタットから追放され︑多くの人が逮捕さ

れ︑罰せられた︒

‑啓明団は︑その全盛時には多くの団員を擁し︑ワイマル公力ール・アウグスト︑ゴータ公エルンストや︑ヘルダー︑ペスタ

ロッチ︑ゲーテ等が含まれていた︒ウィーンでは︑メーソン支部﹁真の和合﹂の大親方イグナツ・フォン・ボルン︑同じく

﹁善行﹂支部の大親方オットー・フォン・ゲミンゲンなどもこの団体のメンバーであった︒この二つの支部は啓明団員がりー

ダーシップを握っていたため︑多くのメーソンが啓明団員でもあった︒またこの二つの支部は殿堂を共有しており︑兄弟支部

の儀式にもしばしば出席して︑いたモーツァルトが︑同様に啓明団の一員であった可能性も考えられる︒しかし迫害の際に多く

の記録が破棄されてしまい︑またモーツァルト父子も︑彼等が書き残したものの中にはそうした事実に触れたものが見られな

︑いので︑その証拠はない︒

5

所で︑フリーメーソン結社と音楽との関係であるが︑ロッジは音楽家仲間から特別な支援を受け︑とりわけ独墺では︑多数

の音楽家の姿がそこに見られたと言う︒そもそも︑フリーメーソンの会合や儀式では︑当初から音楽が重要な役割を演じてい

た︒キャサリン・トムソンは︑一七四六年に刊行されたメーソンの歌謡集の序言の中でのL・F・レンツの言葉を引用して︑

﹁儀式における音楽の役割は︑会員達が無垢と至福の思想において団結するように︑会員達の間に健全な思想と団結心を拡め

る所にある︒音楽は人間愛の感情︑知恵と辛抱︑美徳と廉潔︑友人への忠誠心などを︑また最終的には自由を理解する力を教(2)

え 込 む べ き であ る ︒ ﹂ と 述 べ て いる ︒確 か に こう し た土 ハ同 体 に お い て は ︑ 同 じ 心的 状 態 を得 る こと に よ って ︑ 盟友 相 互 の精 神

的 な交 わ り を準 備 し ︑ 荘 重 な雰 囲気 の 中 で ︑ 聖 な る も の へ と気 分 や感 情 を 高 揚 さ せ る た め に ︑ 音 楽 は 大変 効 果 的 であ っ た ろ

う︒ そ れ 故 ︑各 ロ ッ ジ は音 楽 家 を加 入 さ せ る べ く 努 め ︑音 楽 家 達 も 積 極 的 に入 団 を 求 めた ので あ っ た︒ こ う し て モ ー ツ ァ ルト

(9)

の周囲でも多くの音楽家がフリーメーソンのメンバーとなり︑結社のために作品を産み︑演奏に加わったのである︒例えば︑

パウル・ウラニツキー(授冠の希望)︑ヴァーレンティン・アーダムベルガi(同)︑ゲオルク・ペンダ(アルテンベルクの分

団)︑フランツ・ツェーラー(三羽の鷲)︑カルロス・ドルドネス(同)︑レオポルト・コジェルフ(棕梠の樹)︑カール.レオ

ポルト・レーリヒ(同)︑ヨハン・ゴッ添りー

プ・ナウマン(ドレスデンの分団)︑ヨハン・

れた手法として︑トムソンは︑民謡風の単純な

スタイルの採用︑音楽的象徴としての︑一定の

リズム型や旋律型の使用︑特定の音程や和声進

(10)

(4)行の利用︑などを挙げている︒確かにこうした機会に参加する人々は一般に音楽の素人が多く︑しかも共同体意識発揚のため

に全員が唱和すべきものとすれば︑当然その音楽は単純平明で︑演奏も容易であることが望まれよう︒またその歌のテキスト

が︑共同体の理念を歌う︑内部的な性格の強いものであってみれば︑ちょうどフリーメーソンの儀式において様々の象徴が用

︑いられるように︑種々の音楽的シンボルが用いられたことも肯ける︒トムソンは︑メーソン音楽のシンボリズムの若干の例と(5)

し て ︑次 の よう な も の を挙 げ て い る︒ 諸 例 1 のよ う な 付点 のリ ズ ムが ︑勇 気 や決 意 を促 す た め に しば しば 用 ︑い ら れ る ︒ ま た 入 会 志 願 者 が入 会 式 の際 に支 部 の戸 を 三回 叩 く 仕草 が ︑ 譜 例 2 の よう な様 式 的 な音 型 で表 現 さ れ る︒ 対 の掛 留 や スラ i 音 が ︑ 一 同

志 の結 束 を示 唆 す る た め に使 われ る ( 譜 例 3) ︒ 六 の 和 音 ( 三和 音 の 第 一 転 回) が共 同 の感 情 や 調 和 的 諸 関 係 を 示 す た め に使

われ る汐 属 和 音 ‑ 下中 和 音 ( V l W) の進 行 ︑ 即 ち偽 終 止 が ︑或 る種 の 祭 儀 的 意 義 を担 う ︒ 三と いう 数 字 が フリ ー メ ー ソ ンに

お い て特 殊 な 意 義 を 備 え て いる よ う に ︑ 歌 の 多 く が ︑ 三声 体 で書 か れ て い たり ︑ 三拍 子 であ ったり ︑ま た 三回 の繰 返 し が し ば

しば 見 受 け ち れ ︑ 長 三和 音 が重 要 視 さ れ る︒ 等 々︒ これ は ほ ん の数 例 に過 ぎ な いが ︑ こう した 音 楽 的 象 徴 に つい て は ︑今 後 な

お 一 層 の 詳 細 な検 討 が 必要 と され る であ ろう ︒ し か し いず れ に せよ ︑ ト ム ソ ンも 言 う よ う に ︑ こう し た 諸特 徴 の全 て が ︑ モ ー

ツ ァルト の フリ ー メ ー ソ ン 作 品 にも 同 様 に ︑ し かも それ が 一 層 拡 大 さ れ ︑ 深 化 さ れ た 形 で ︑ 見出 さ れ る の であ る︒

6

所 で︑ 既 に述 べたよ う に ︑ モー ツ ァルト はウ ィー ン時 代 の 一 七 八 四 年末 に フ リ ー メ ー ソ ンに 正式 に加 盟 し た の であ るが ︑ モ

ー ツ ァルト と 結 社 と の関 係 は ︑す で に ザ ルツブ ルク時 代 か ら様 々な 形 で始 ま っ て い た と 見 る べ き であ ろ う︒ 彼 の生 地 ザ ル ツブ

ルク は︑ ロ ー マ 教 皇 か ら 任 命 さ れ た 大 司 教 が 統 治 す る ︑ カ ト リ ッ ク的 雰 囲気 の濃 い 町 で は あ っ た が ︑大 司教 の中 にも 当 時 の啓

蒙 思 想 に 共 鳴す る者 が あ り ︑ 聖職 者 で こ う し た結 社 に加 わ る者 も少 なく な か った︒ ザ ルツブ ル ク か ら ほ ど近 い ミ ュンヒ ェ ン で

は結 社 の運 動 が極 め て盛 ん であ った し ︑ザ ル ツブ ル ク にも 一 七 八 三年 に は ﹁ 思 慮 ﹂ (N 信 同 国 口 同 の回O げ け)と いう 折 衷 的 結 社 が設 立 さ

れ て い る︒ モー ツ ァルト 父 子 が こ の ロ ッジ に関 わ り を持 った かど う か は別 と し て︑ そ れ 以 前 から ︑ 彼 等 と 親 し い人 達 の多 く が

こう し た運 動 に加 わ ってお り ︑彼 等 に何 ら か の刺 激 や 影 響 を与 え て い た であ ろう こと は十 分 考 え ら れ る︒ し か し た だ で さ え モ

一10

(11)

ーツァルトは︑幼い時からの旅行によって多くの国々で見聞を広め︑様々な考え方の人々に接していたであろうから︑むしろ

幼いうちからフリーメーソンや啓蒙思想の影響を受けながら育ったという方が自然であろう︒またその.事を示す証拠がいくつ

も見出せるのである︒

モーツァルトは十一歳の時・旅先のオルミュッツで天然痘を患ったが︑その時世話になったヴォルフという医師はフリーメ

ーソンであった︒翌一七六八年︑十二歳のモーツァルトは︑ジングシュピール﹁バスティアンとバスティエンヌ﹂(K五〇11

礎 四 六 b) を作 曲 し 奈 ・ こ の作 品 の依 頼 者 は 動 物 畿 術 L の提 唱 者 メ ス 了 博 士 で︑ 彼 も ま た フー イ ソ ンで あ っ た︒

毛 七 二年 ・ + 六 歳 の モ← ・ 牛 は ︑ メ ← ンの テ キ ス 乏 よ る歌 曲 ﹁ お お ︑聖 な る絆 ﹂ ( 後 述 ) を 作 曲 した ︒ 翌 七 七 三

年・モーツァルト父子は三か月程ウィーンに滞在したが︑その間しばしばメスマi博士を訪問し︑彼を通じて多くのメーソン

の仲間達に紹介された︒その中の一人︑進歩的な顧問官で有名な劇作家でもあったトビアス・フォン・ゲプラーが︑彼の英雄

劇﹁エジプト王タモス﹂のための付随音楽をモーツァルトに依頼し︑モーツァルトは合唱曲と幕間音楽を書いた︒この作品は

フリーメーソン的色彩が濃く︑﹁魔笛﹂とも王題が類似しており︑その先行作品の一つと考えられている︒なお彼は一七七九

年にも︑その音楽に改訂の手を加えている︒モーツァルトは一七七七年の秋に母親を伴なってマンハイム.パリ旅行に出発し

たが・マンハイムでは・作家のフォン・ゲミンゲン男爵︑国民劇場の監督グルベルク︑詩人のヴィーラント等︑多くの友人を作

った︒彼等は皆フリーメーソンで︑後に﹁啓明団﹂のメンバーにもなった人達である︒モーツァルトがマンハイムからパリに

向かった時・懐中にしていたのは︑主にパリのメーソン達︑特に﹁オリンピア.ロッジ﹂のメーソン達に宛てた︑フォン.ゲ

ミンゲンの紹介状であった︒﹁オリンピア・ロッジ﹂の音楽会は︑ル・グロの率いる﹁コンセール︒スピリチュエル﹂のそれ

と密接な関係にあり︑ルグ・はヨコ・チ聖ヨハネ⁝ジ﹂の一目貝であった︒所でモーツァ窄がパリで最も頼みとしたの

は・少年時代の旅行の際︑援助を惜しまなかったメルヒオール・フォン・グリム男爵であった︒彼はパリにおける最初のプリ

ーメーソン支部の創設者オルレアン公の秘書であった︒この男爵の紹介者の一人で︑モーツァルトの音楽の良き理解者となっ

たフォン゜ジッキンゲン伯爵もフリーメーソンであった︒パリで母を失い︑就職運動にも失敗したモーツァルトは一人帰途に

ついたが・途中寄ったシュトラスブルクはフリーメーソン運動の一中心地であった︒帰りがけに立寄ったマンハイムでは︑ヴ

オルテールのエジプト風の戯曲を下敷にした︑フォン・ゲミンゲン執筆のドゥオドラマ﹁セ︑︑︑ラ︑︑︑ス﹂のための音楽を作曲し

11

(12)

たが︑これは失われてしまった︒マンハイムで再会したモーツァルトの友人の大半はフリーメーソンであった︒一七七九年・

モーツァルトがパリから帰国後︑ザルツブルクで書いたジングシュピール﹁ツァイーデ﹂は未完のままに残されたが︑そこに

表現されている思想は︑フリーメーソンのそれに通じるものであった︒なおモーツァルトのウィーン時代に・早くから彼の有

力な助言者となったヴァン.スヴィーテンやフォン・ゾンネンフェルスなどの貴族も︑ウィーンのフリーメーソン結社で重要な地位にあった︒等々︒

以上の諸例からも明らかなように︑モーツァルトのフリーメーソン加入は︑決して突発的な出来事ではなかったのである︒

7

モーツァルトはフリーメーソン結社に正式加盟以来︑この結社のための作品を何曲か書き上げたが︑それらは加盟の翌年一

七八五年と︑死の年一七九一年に集中して書かれている︒なお︑ネットゥルによれば︑一七八六年の作曲と思われる︑結社のた

めの二つの歌曲︑﹁親方ロッジの開設に寄せて﹂(N霞国巳睦巨oq伽奠髯①幽゜・陣巴韓)と﹁親方仕事の完成に寄せて﹂(N爵ω︒匡qご︒

量 蚕 ・・篝 薯 が あ っ 奈 ︑ これ ら は愛 し て しま ったと い盆 そ れ ら を別 にす れ ば 二 七 九 一 年 迄 ・ 結 社 用 の機 会 作 品

は一曲も書かれなかったことになる︒この数年の期間︑モーツァルトは何らフリーメーソン的な作品を書かなかったのであろ

うか︒

例 .螽 ︑ モ﹂ 7 げルト の フリ ー イ ソ ン 作 口 嬰 集 め た レ 〒 ド と し て知 ら れ る︑ ・→ 彳 ・了 ク 指 揮 の ヲ ー メ ← ン

のための音楽全集﹂には︑普通にフリーメーソンのための曲と考えられているもののほかに︑いくつかの器楽曲や︑カトリッ

ク的な宗教声楽曲も収録されている︒これらは直接にフリーメーソン結社用の作品ではないが︑結社でしばしば演奏されたも

ののようである︒例えば︑一七八五年の末にウィーンで書かれたとされる︑﹁二つのバセットホルンとファゴットのためのア

ダージョ︑へ長調﹂(K四一〇ー即四八四d)や‑﹁二つのクラリネットと三つのバセットホルンのためのアダージョ︑変ロ長

調﹂(K四=開K四八四a)は︑フリーメーソンの儀式に用いられたと推定されている︒また一七八八年に作曲された︑弦

楽四重奏のための﹁アダージョとフーガ︑ハ短調﹂(K五四六)や︑一七九一年のフルート︑オーボエ︑ヴィオラ︑チェロと

12

(13)

チμレスタのための﹁アダージョとロンド︑ハ短調・ハ長調﹂(K六一七)も同様である︒更に︑一七九一年に書かれた有名な

モテット﹁アヴェ・ヴェルム・コルプス﹂(K六一八)は元来︑教会用の作品であるが︑フリーメーソンにも好まれたらしい︒

またアルフレート・アインシュタインは︑一七八八年の﹁交響曲第三十九番︑変ホ長調﹂(K五四三)のフリーメーソン的(8)性格を仄めかしている︒トムソンはジャック・シャイエを引用しつつ︑一七八五年初頭に作曲された﹁弦楽四重奏曲ハ長調(9)〃不協和音"﹂(K四六五)のメーソン的意義を解︑いている︒彼女は本著において︑モーツァルトの多くの器楽作品にフリーメ

ーソン的シンボリズムの痕跡を見出そうと努めている︒その全ての妥当性には疑問の余地がないではな︑いが︑フリーメーソン

加盟以後の作品の随所に︑直接間接にフリーメーソン的精神の投影が見られることも否定出来ないのである︒

更にまた︑死ぬ二か月前の病床にある父親に宛ててモーツァルトが書いた︑一七八七年四月四日付の有名な手紙があり︑こ

れも普通モーツァルトのフリーメーソン的信条を表わすものと解釈されている︒

﹁ 1 死 は ( 厳 密 に 考 え て ) わ れ わ れ の 一 生 の真 の最 終 目 標 な の です か ら ︑私 は数 年 こ の方 ︑人 間 の こ の真 の最 善 の友 と と

ても親しくなって︑その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり︑むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっ

て︑います/そして︑神さまが私に︑死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)(10)幸いにも恵んで下さったことを︑ありがたいと思っています︒﹂

重病の床に臥す人間に対して死を語るという一見不可解なこの手紙は︑フリーメーソンとしてのモーツァルトが︑もう一人

のフリーメーソンとしてのレオポルトに宛てた手紙と解され︑﹁死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会﹂とは︑フリーメ

ーソン結社への関わりを暗示するものとされている︒モーツァルトが語る安らかな死への想いはメーソンの説く所であり︑モ

ーツァルトがこの時点でなおフリーメーソン的信条を持ち続けていたことを示すものと言える︒

以上のように︑モーツァルトは︑なるほどこの期間に結社のための直接的な機会作品を書かなかったとは言え︑加盟以来一

貫してフリーメーソン的立場を保ち続けたと見るべきであろう︒

次に︑モーツァルトがフリーメーソン結社のために書いた個4の作品に目を通すことにしよう︒

O歌曲﹁おお︑聖なる絆﹂(6▼,O自陣oq㊦o駐︼W曽臣島)K一四八(K闘二五h)

13

(14)

こ の 作 品 は ︑他 の多 く の フ リ ー メー ソ ン 的 作 品 と 同 様 に ︑ モー ツ ァルト の正 式 加 盟 後 に書 か れ た も のと考 え ら れ た こと も あ

っ た が ︑今 日 で は諸 種 の理 由 か ら ︑彼 が十 六 歳 の 一 七 七 二年 頃 にザ ル ツ ブ ルク で 書 か れ た も のと推 定 さ れ て い る︒ 今 は散 逸 し

てしまった自筆楽譜の裏には﹁ヨハネ分団の儀式のための讃歌﹂(ピ螽Φ゜︒酷5αq躄{島①けδ岳︒ゲΦ旨序贄5巨o鴨)と書かれていた

という︒'

歌詞はザクセンーーアルテンブルク大公宮中顧問官で︑﹁三つの製図板のアルキメデス﹂ロッジに属していたルートヴィヒ・

レンツによるもので︑十九節から成り︑同じメロディで繰返して歌われる︒

(11)

そ の第 一 節 目 は

○げ亀薗︒°︒切彗幽鉱興津①§・房︒訂中gロ興掣口号お

暗ヨま︒冨け窪○冨昆琶山臣魯゜︒芝︒目Φσq宮︒尸

号 目 9 蒹 口 津 Φ § ρ

α8げ巳日8ΦH白Φ耳鬯鼠山霞伍①同芝︒ド

冨訂目け目α匹○鼻αQ9Φ冒巳゜・邑︒r

宣冨冩5g目自号︒げαq①ぽ巨ゆ陣゜︒邑︒げ゜ おお︑信実な兄弟たちの友愛の聖なる絆よ︑

それは至高なる幸福とエデンの喜びに比すべきものであり︑

信仰の友であり︑

しかもけっして世に背くものでもなく︑

知られてありながら︑しかも︑神秘にみちたもの︑

しかり︑知られてありながら︑しかも︑神秘にみちたものである︒

14

加盟以前の作品であるが︑明らかにフリーメーソン的な内容の歌曲であり︑盟友の友愛を讃え︑フリーメーソンの理想が歌

われて行く︒曲は通奏低音書法で書かれた︑二部形式のわずか二十小節から成る小曲で︑緩徐に︑二長調︑肱拍子との指示が

あり︑メヌエット風のリズムで歌われる︒﹁単純で民謡めいたこの歌曲は︑メーソンの儀式における音楽に関してシャイベが

(12) 述べた諸原則に合致して︑いる︒﹂

0フリーメーソン歌曲﹁結社員の旅﹂(O①の①一一㊥冒円O凶ωO)K四六八

この歌曲は一七八五年三月二十六日にウィーンで作曲されたもので︑モーツァルトの加盟後初のフリーメーソン作品という

(15)

ことになる︒既に述べたように︑この頃モーツァルトの父はウィーンに滞在中であり︑しかもフリーメーソンに加盟して・四

月十六日には第二級の﹁職人﹂に昇進したが︑この歌曲はその昇進式に際して歌われたものとされている︒テキストは︑オースドリア政府の高官の一人で︑﹁真の和合しロッジに属し︑モーツァルトの友入でもあったヨーゼフ・ラチュキーによるもので︑一七八四年秋にウィーンで書かれた︒ネットゥルによれば︑このラチュキーの歌詞は︑﹁真の和合﹂ロッジ所属の音楽家

アントン・ホルツァーによっても同じ頃作曲されているが︑﹁ホルツァーは︑彼がメーソンの生活における一つの明々白々と

して余り重要ではない局面として職人への進級をとらえているために︑リズムやテンポの点で︑より儀式に近づいて︑いるのに

対 し ︑ モー ツ ァルト の ﹃ 罐 .貝の 旅 ﹄ に お け ゑ ・ 調 は ︑ おそ らく は自 分 の年 老 い た父 親 の名 誉 藷 え る こと を 膿 し て ︑ 柔 ら

かで荘厳なものとなっている︒﹂ラチュキーの詩の内容は︑﹁職人﹂位階に進む者の心得を説くもので︑〃ゲゼッレンライゼ"

とは本来︑﹁職人の遍歴﹂の意である︒

歌詞の第二節を示せば

U同Φ坤ぽ①貯Φ日澪器pO冕山o

号H守冩目言厨づ毒2昏蠧ゴ叶"

幕≦穹山Φ暮{霪躄胤①霞Φ日国鋤αρ

註こ︒計①巴゜︒け伍奠壽諄゜搾蜀壁α゜2ξα奠蟇謹紆霧.器ζ詈

日品鎚①日O琶こ①゜・ご受゜・°︒陣警蠧げ︑昌゜

認 識 の新 たな 位 置 に

今 や近 づき つ つ あ る汝 ら ︑

お のれ の道 を確 固 と し て歩 む 汝 ら ︑

知 れ ︑ こ れ こ そ叡 知 の 道 な り と ︑

し し た だ孜 々 と し て たゆ ま ぬ者 だ け が ︑

光 明 の本 源 に近 づき え ん︒

15  

曲は変ロ長調︑%拍子の独唱による有節形式︒自筆譜ではオルガン伴奏で︑テンポはラルゲットとなっているのに対し︑自

作品目録ではクラヴィーア伴奏︑アンダンティーノと指定されている︒二部形式の︑十六小節から成る優美な旋律で︑前奏と

後奏が付く︒

(16)

Oカンカータ﹁汝に︑宇宙の魂よ﹂(︼)回がωOO一㊦侮①砂耄①一富=砂)K四二九(照四六八a)

この曲はモーツァルトが総譜草稿の形で未完のまま残した作記で︑もし完成されれば︑かなりの規模の作品となるはずであ

った︒作曲年代は︑ケッヒェルの初版以来︑フリーメーソン加入前の一七八三年頃とされてきたが︑その第六版では︑資料や

様式上の観点から︑加入後の一七八五年にウィーンで書かれたも砂として︑聾四六八aと訂正された︒そして同年三月の前作

﹁結社員の旅﹂(K四六八)作曲の直後に自発的に着手され︑四月の次作﹁フリーメーソンの喜び﹂(K四七一)の作曲依頼に

より中断︑そのまま放棄されてしまったと推定される︒

モーツァルトが残した形は︑テノールと男声三部合唱︑それに管弦楽の編成で︑記譜されているのは︑第一部の冒頭合唱曲

の合唱パートと︑低音及び第一ヴァイオリン︑それに第二部のテノール独唱のアリアと低音だけで︑他のパートは断片的に記

されているに過ぎない︒モーツァルトは更に第三部として︑へ長調のテノールの二重唱の構想を持ち︑現在不明の自筆譜は低

音と弦による前奏が十四小節続︑いたあと︑第一テノールの歌い出しわずか三小節の所で中断しているという︒なおこの曲につ

いては・モーツァルトの未完の作品の補筆をたびたび試みた友人の聖職者マクシ・・︑リアン・シュタードラーが二種の補筆稿を

残しており︑これが実用されている︒F

歌詞は﹁聖ヨセフ﹂ロッジの盟友ロレンツ・ハシュカによるもので︑その内容は宇宙の魂であり︑﹁光﹂の象徴である太陽

を讃美するもの︒

冒頭合唱部の歌詞は

uぎω&①山Φ゜・煢︒匡5︒ω88

器チ象.駐霧8山゜=霧蕁冨ロいδ鐘σq毟群亡

○ζ蝉゜げ厨ρ音・旨匚受窪≦凶H巳︒罫

く8融≧同犀゜日巨即暮ぼげ⇔同冨計亳似§①巷似ご受゜

○ωQ§"Oζ蝉Oげけ戯ρωΦΦ}Φ鉱6ωぐく2冖巴δ一

u罵ωΦ陣ぽg︑駐゜H°︒8觜宀毘ぼ曾目巴臼αq毟鬱亡 汝に︑宇宙の魂よ︑おお太陽よ︑今日この日

最初の祝祭歌を捧げん!

おお︑偉大なる者よ︑汝なくしてわれら生きしことなし︑

汝からのみ豊饒さ︑熱情︑また光はきたる︒

おお太陽よ︑おお偉大なる者よ︑おお宇宙の魂よー.一

汝に︑・今日この日︑最初の祝祭歌を捧げん︒

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U貯隆"°︒}5暮.αq①蓄臣計汝に︑汝に︑今日この日︑そを捧げん9.

<o 亀H口葭ざ日髯け国歪︒ぼげ効時①ド耄貯日ρご︒ぼ゜汝からのみ豊饒さ︑熱情︑また光はきたる︒

本来の編成は︑独唱テノール︑男声三部合唱(テノール2︑バス)︑フルートー︑オーボエ2︑ファゴットー︑ホルン2︑

ヴァイオリンニ部︑ヴィオラ︑チェロ︑コントラバス︑オルガン︒

第一部は(アレグロ・モデラi卜)︑変ホ長調︑稿拍子の︑テノールニ部とバスによる男声三部合唱で︑簡明で力強い︒歌

詞に含まれた﹁光﹂(ごoぼ)の語が二度目に出てくる所は︑変ホ長調属七の和音の突然のフォルテで強調されている︒第二部

は(アンダンテ・ディ・モルト)︑変ロ長調︑駿拍子のテノール用アリアで︑自然の恩恵を歌い︑太陽に感謝する︒

Oカンタータ﹁フリーメーソンの喜び﹂(国)μ㊦7n曽鐔円㊥ほ円O口傷O)K四七一

このカンタータは・一七八五年四月二十日に︑﹁真の和合﹂ロッジの分団長で︑ウィーンのフリーメーソンの中心人物だっ

た︑かのイグナツ・フォン・ボルン(彼は﹁魔笛﹂の台本の企画に手を貸し︑﹁魔笛﹂に登場するエジプトの高僧ザラストロ

の原型とも見られでいる)を讃えるためにウィーンで作曲された︒ボルンは鉱物学者で︑当時新しい合金方法を発見したこと

で︑皇帝ヨーゼフニ世からも賞讃の辞を賜った︒それを祝うための会合が四月二十四日に行なわれ︑ウィーン滞在中で︑入会

間もない父レオポルトも出席した︒そこでこの曲は他の歌曲と共に︑﹁授冠の希望﹂ロッジの盟友達によって演奏されたが︑

その際独唱を受け持ったのは︑﹁後宮からの誘拐﹂(K三八四)の初演(一七八二年)の際︑ベルモンテ役を歌った名テノール

で・やはり﹁授冠の希望﹂に属するヴァーレンティン・アーダムベルガーであった︒このカンタータはあとで︑その収益金を

貧者の福祉のために寄付すべく︑盟友アルタリアの所から出版された︒

テキストは﹁授冠の希望﹂ロッジに属する宮廷詩人で︑教区付き司祭でもあったフランツ.ペートランによるもので︑知と

徳をわがものとするメーソンの喜びを歌い上げると共に︑ヨーゼフニ世を讃え︑また分団の名前を巧みに歌い込んでいる︒

冒頭の独唱の部分の歌詞は

17

(18)

ω︒げβ鼠①締日器器昌国自゜︒︒ゲ興凝Φ

鰹①密件霞岸目﹀巳言蠧9目傷霽跨魯匪邑Φ貸

導三〇°︒δ画ぎ日詈8冨H芝Φδ冨即

ぎμ岳口憩目目島邑こ器国Φ旨日陣け冒σq魯鮎宀自゜鴬U昜凶ωけζ鋤貫︒霽¢αq2零︒崔①"

鬢嘗おぼ回ご︒ρζ爰お降2自ρ

見 よ ︑ いか に︑ 確固 と し た探 究 者 の 眼 に は ︑

自 然 が そ の相 貌 を次 第 にあ ら わ と す るも の か を ︑

いか に自 然 が 高 い叡 知 も て心 を満 た し ︑

ま た徳 も て心 情 を満 たす も の か を ︑

これ こそ はメ イ ス ン の眼 の楽 しみ に し て︑

真 に し て熱 き メ イ ス ン の喜 び な り ︒

このカンタータの自筆譜はモーツァルトの生前すでに失われてしまい︑一七八五年の初版が唯一の原典資料になっている︒

編成磁テノール独唱︑男声三部合唱(テノール2︑バス)︑オーボエ2︑クラリネットー︑ホルン2︑弦五部︒このカンタータ

の主要部分は︑長大で自由な形式で書かれたテノール独唱から成っており︑初めからアーダムベルガーを意図して書かれたた

めか︑存分にその力量を発揮させるように︑この種の作品として鳳極めて豊麗な様式で書かれている︒曲はフリーメーソンの

調といわれる変ホ長調を主調としており︑まず短いオーケストラの前奏のあとに︑テノール独唱が歌うコンナ⁝ト・アリア風

のアレグロ︑変ホ長調︑%拍子の第一部に始まる︒この部分の後半はレチタティーヴォからアンダンテとプレストのアリオー

ソとなり︑﹁愛する者よ︑この王冠を取れ︑我等の長子︑ヨーゼフの手から/これこそはメイスンの記念すべき祝典にして︑.〜れこそ︑これこそはメイスンの勝利なり︒﹂と歌われる︒﹁ヨーゼフの手﹂の個所でテンポがプレストに急変し︑祝祭的な気

分を盛の上げている︒続いて曲は第二部のテノール独唱と男声三部合唱のためのモルト・アレグロ︑変ホ長調︑%拍子の一部分

に進むが︑終結部迄はそのまま独唱で通され︑最後に力強い男声合唱が加わって︑興奮のうちにしめくくられる︒

O﹁フリーメ﹂ソンのための葬送音楽﹂(審9唱円O円剛ロ駐6︼ ①日}円9鍜①円冨口の随評)K四七七(照四七九a)

モーツァルトのフリーメーソン作品のうちでもとりわけ有名で︑重要なものである︒わずか六十九小節から成る小管弦楽曲

に過ぎないが︑そこにはモーツァルトの死生観とも言うべきものが︑極めて美しく︑且つ感動的な音楽となって表現されてい

る︒アインシュタインは︑﹁この曲は教会作品でこそないが︑宗教的な作品であり︑ハ短調荘厳ミナ曲(K四二七)とレクィ

18

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エム(K六二六)遊結ぶ絆﹂として・いる︒作曲は︑モーツァルトがフリーメーソンに加盟して一年近くを経た一七八五年十一

月十日にウィ﹂ン膝行なわれ︑当時相次いで此の世を去った二人の有力な結社員を追悼する際に演奏されたと一般に考えられ

てかる︒泊作口㎜月録には︑﹄七月っ盟友メックレンブルクと盟友エステルハージの逝去に際しての︑フリーメーソン葬送音

楽﹂と記されている︒メックレンブルクHシュトレーリッツ大公ゲオルク・アウグストは陸軍少将で︑﹁三羽の鷲﹂ロッジの

特別会員であり︑一方のエステルハージ・フォン・ガランタ伯フランツはハンガリiートランシルヴァニア宮内大臣で︑﹁授

冠の希望﹂ロッジの会員であった︒前者の死は十一月六日︑後者は翌十一月七日で︑二人の追悼式は﹁授冠の希望﹂ロッジで

十一月十士日に行なわれている︒その点で︑しばし憾指摘されるように︑先の自作品目録に記載された時期とはずれがある︒

自筆譜の方には死者の名は特定されずに︑ただ﹁葬送音楽﹂と記されているだけで︑決め手がないという︒この作品は一応︑

機会音楽的色彩が濃い事から︑多くの研究者がモーツァルトの誤記としているようだが︑詳細は不明である︒しかし要はこの

作品が単なる機会音楽以上のものを内包して︑いるという点ではなかろうか︒

藻器編成は︑オーボエー2︑クラリ︑不ットー︑バセットホルンー︑バセットホルン(追加)2︑グランファゴット(コントラ

ゑフツゴツ汁)(追加)1︑ヴァルトホルン2丶ヴツイゴリンニ部︑ヴィオラ︑チェロ︑コントラバス︒この編成はやや特異だ

が︑窪汗測溜ゲル邸が培く沈んだ音色を作り出そうと意図したためである︒なお︑コントラファゴットと二本のバセットホルン

⑭蜻郵億︑'託コツァ弛墜目身があ乏から加えたもので濁る︒更にこの楽曲を特徴付けているのは︑グレゴリオ聖歌風の定旋律

(︒ 眉 自 ・︒ 温 .お彜 ρ鯖 竃 る︒, 鑼 律 の由 来 は 明 ら か で漢 が︑ ‑ ム イ に よれ ば ︑ プ ロテ 夛 ン よ 詩 篇 警 基 き ︑ 元 は

古 戦 ロ汐 紺 の 旋 律 広由 陳 甘 渇 造 い う ︒ もそ う だ とす れ ば ︑ あ ら ゆ る宗 教 の 一 致 団 結 を目 ざ す メ ー ソ ンの理 念 にも 合 致 す るも のと 言 え よ う o

卩 曲 はア ダ ー ジ ョ ︑ ハ 短 調 ︑ 脇 拍 子 で ︑ 一 定 し た 形式 は な い ︒ ハ 短 調 は ︑ メ ー ソ ンの理 念 に よれ ば ︑死 と 闇 を象 徴 す る ︒ ま ず 前 湊 之 ル て 管 楽 器 が 悲 嘆 に べ れ た よ う ゐ ︑平 行 三度 の勵 機 を奏 し出 す ︒ そ れ に対 し て ︑第 一 ヴ ァ イ オ リ ンが苦 渋 にみ ち た よ う

違 遍 で 撃 ぞ く る ︒ ︑纛 籌 と ヴ ツィ オ リ ンの翌 は ︑入 間 が嘆 き つ つ 救 いも な く そ れ に立 ち 向 か う 非 簒 死 の ア ンテ ィ

サ国 ゼ 沈胡 濾 ℃ る も ので あ ゐ ︒ ﹂ や が 託オ ー 曜 エの平 行 六度 の動 き と ︑ 第 一 ヴ ァ ゾ ォ リ ンの 三 つ 戸 を 叩 く よ う な リ ズ ムが 交替 す

% 郵 分 砥 乏 移 渇 ︒㍉ 途冲 か あ溢 有 調 ⑭渡 添 萇 調 に転 調 ← ︑擱 の中 に 广 条 の光 が さす かと 見 え た所 で ︑ オ ー ボ エと ク ラ ツ ネ ッ ト に

19

(20)

よ る カ ント ゥ ス ・ フ ィ ル ム スが 無 慈 悲 な 運 命 を 肯 定 し てい る か のよ う に 聞 こえ て く る︒ そ う し た運 命 に対 し て ︑弦 が付 点 八 分

音 符 のリ ズ ム型 で必 死 に抗 う ︒ そ れ は激 し い 苦 痛 へ と高 ま る が ︑ そ れ も 徐 々に沈 静 し て ︑深 い諦 念 のう ち に ︑ピ カ ルデ ィ終 止

す る︒ ﹁ 終 止 の ハ 長 調 主 和 音 の効 果 は︑ いわ ば 暗 黒 か ら 光 明 へ の突 然 の移 行 であ り ︑ ⁝ ⁝運 命 の受 容 に ょ る死 の克 服 は メー ソ

(17)ンの考え方に合致する︒﹂また﹁それはモーツァルトが一七八七年四月四日付で父親に宛てて最後の手紙を書いた時に︑プリ

(18)ーメーソンとしての彼が抱いていた死の観念の正確な模像で・ある︒﹂

○フリーメーソン分団の開会に寄せる合唱付きリート﹁親しき友よ︑今日こそ﹂(国霞白①ζ09冨暮.℃⑦自①寓①夏㊦閑円ま霪)K四八三

この歌曲は次のK四八四と共に﹁二つのフリーメーソン歌曲﹂として知られている︒K四八三の自筆楽譜の表記には︑﹁[凵

の開会のために﹂(N自国巳穿巨αq匹霞[凵)とあり︑フリーメーソン結社の集会を開くために作曲されたことが分かる︒自

作品目録への記載がないため︑作曲時期については推測するしかないが︑歌詞の内容からして︑一七八五年末の︑例の皇帝ヨ

ーゼフニ世によるフリーメ;ソン結社の改組と関係があることは確実である︒既に述べたように︑ヨーゼフは一七八五年十二

月十一日に︑ウィーンに従来存在した八つの支部を三つに統合するよう法令を出したが︑これによってモーツァルトの所属し

冥いた﹁善行﹂ロッジは他の二つの分団﹁授冠の希望﹂(N霞αqOζα艮O口鵠O龍昌8αq)及び﹁三つの烙﹂(Nロ山①昌酔似閏2Φ彎)

乏合併して︑﹁新冠の希望﹂(N霞口①二騁すα導窪国o津琶FαQ)となり︑モーツァルトもこれに加入した︒そしてこの新分団の第一

回集会を記念して書かれた開会用の曲が即ちこのK四八三で︑恐らく一七八五年十二月にウィーンで作曲されたものと思われ

る︒歌詞は盟友シットラースベルクによるもので︑結社を保護したヨーゼフの行ないを讃えると共に︑﹁善行﹂とか﹁三重の

焔﹂とか﹁授(新)冠の希望﹂とかの支部の名前が歌︑い込まれて︑いて︑三分団の合併が象徴的に暗示されている︒

詩の冒頭の部分を挙げれば

20

N︒臣︒じ︒︒け冨暮."箆酵8しu蝕締が

貯鬚o目︑巷似旨景田ag

 伽o皀﹄8︒嘗の芝9憲臨鴨似什 親しき友よ︑今日こそ︑

狂喜し︑歓喜の歌を歌わん︑

ヨーゼフの善行は

Z

(21)

ゲ 暮 巷 ゜︒ ﹂ 昌 鎚 ︒ N 窪 早 蘯 ① 陣昌 時 Φ 臣 警 鳴2 魯 評 窪 算 ゜ 9 什 § °︒ H ① 出 ︒ 旨 § αq 昌 2 αQ 爵 同 α g 胸 の 中 に 三 重 の 焔 の燃 え る わ れ ら に

わ れ ら の希 望 の 冠 を新 た に飾 り ぬ︒

編成は︑独唱︑男声三部合唱︑それにオルガン伴奏である︒曲はアンダンテ︑変ロ長調︑稿拍子で︑二節から成る有節形

式︒テノール独唱で始鼠り︑三声部の男声合唱がリフレインの効果でこれを受ける︒伴奏はオルガンのみの簡素なもので︑ソ

ロとトゥッティの記入によって︑レジストレーションが指示されている︒

0フリーメーソン分団の閉会に寄せる合唱付きリート﹁汝等︑我等が新しき指導者よ﹂(一,尾昌塁¢円㊦冨㊦唱05︼ド㊦凶酔㊦円)K四八四

前曲K四八三と明らかに一対をなす作品であり︑音楽的構成や記譜法などもK四八三に照応している︒自筆譜に︑﹁[]の

閉会のために﹂(N自日ωOゲ一口ζD鮎①H[])とあるように︑同日の新分団の集会の閉会式で歌われたものと思われる︒同じくシッ

トラースベルクによるテキストは︑統合されたロッジの新しい指導者達を讃える内容のもの︒

その冒頭の部分は

21

H 貰 § 霞 Φ 口 2 穹 いΦ 肆 2 u

§ °鎚 山 磐 犀 窪 註 同 き ︒ ず Φ 霞 臼 日同 2 Φ い

霊翼の§°︒p︒ヨだ8倉h&二謬讙ぽお

 

紆 ζ︒ 芭 奠 ゜・ 窪 畠 2 国 ① け 8 断 同 2 ρ

岳 o 凶ぎ き び 婁 .δ ζ 穹 ゜︒ ° ぽ 口 ω ゜ 臣 Φ ε︒ 什

目 似︑ 臣 B 山 ① ゜・ 目o げ 穹 ω 国 色筈 話 誘 口 ゆ叶 ゜ 汝 ら わ れ ら が 新 しき 指 導 者 よ ︑

わ れ ら 今 ま た汝 ら の誠 に感 謝 せん ︒

た えず わ れ ら を徳 の道 にあ ってな お遠 く へ と 導 き ︑

各 人 が彼 ら をよ り よ き 人 間 に つ な ぎ と め︑

彼 ら に生 命 の盃 を快 く 干 さ せる

鎖 を楽 し ま せ たま え ︒

曲 は ア ン ダ ン テ ︑ ト 長 調 ︑ % 拍 子 で ︑ 同 じ く オ ルガ ン 伴 奏 の ︑ 二節 か ら成 る有 節 形 式 であ る︒ 各 節 とも 独 唱 のあ と 男 声 三部

合 唱 が 歌 い継 ぐ が ︑合 唱部 分 の 歌 詞 は 両節 と も全 く 同 じ で ︑﹁ 聖 な る 誓 いに よ って・ わ れ ら ま た か たく 誓 わ ん・ 汝 ら の ご と く ・

(22)

ひろく家を建てんことを︒﹂と歌う︒

Oドイツ語小力ンタータ﹁無限なる宇宙の創造者を崇敬する汝等が﹂(冒o回肓ユ$琴霞搴o鞄凶魯①屋毛巴芭尻)K六一九

モーツァルトの最後の年一七九一年の七月にウィーンで作曲された︒この頃のモーツァルトは四か月後の死を前にして︑

﹁魔笛﹂(K六二〇)︑﹁レクイエム﹂(K六二六)︑﹁ティトの仁慈﹂(K六二一)といった大作の作曲に没頭していた︒このカ

ンタータは・その相間をぬって作曲されたものであろう︒自作品目録に﹁ドイツ語小カンタータ﹂(困(一〇即PO暗β一のOげΦり︻靉口叶鋤けO)

と書かれたこの作品は︑ハンブルクの商人で︑レーゲンスブルクのフリーメーソン支部﹁三つの鍵﹂(N⊆餌①口αHO一ωOゲ一〇のω晋)

に属 す る熱 心 な メ ー ソ ン であ り ︑ ま た ﹁ 魔 笛﹂ の 台本 作 者 シカ ネ ー ダ ー と も親 し か っ た フ ラ ンツ . ツ ィーゲ ン ハ ー ゲ ン の依 頼

に よ るも ので ︑ 歌 詞 も ツ ィー ゲ ン ハ ー ゲ ン自 身 によ る も ので あ っ た ︒彼 は ル ソー や 百科 全 書 派 か ら 影響 を受 け て ︑教 育 と 宗 教

の改 革 を唱 え た急 進 的 な 啓 蒙 主 義 者 で︑ シ ュ ト ラ ス ブ ルク で自 然 主義 運動 を 推 進 し ︑自 ら ﹁ 自 然 の友 集 団 ﹂ と 名 乗 る集 会 竣主

催 し て い た︒ こ の集 会 で歌 わ れ る べく 意 図 さ れ た のが この カ ンタ ー タ で あ る︒ 従 ってこ の曲 は狭 義 の フ リ ー メ ー ソ ン 音 楽 で は

な い が・ 詩 の内 容 が 結 社 の理 想 を は っ き り と 歌 い上 げ て お り ︑ そ こに フリ ー メ ー ソ ン思 想 と の共 通性 を 認 め て ︑ モ ー ツ ァ ル ト

も 作 曲 を 引 き 受 け た の だ ろ う ︒

歌 詞 の前 半 を引 用 す れ ば

︹ 閑 O 国 凶 件 曽 鈴 繭く︺

一)博゜岸緒ω毒゜毒゜ご︒庁冨宦耄聾曁ωω筈9{奠9弉9

匂停§器薹二巨も似209計

器目叶男巳言巳興即嘗§wゲα目二

出α洋壽蠶躄゜︒自奠℃°ω露伍︒°・﹀ ずΦ黠︒冨透

ピ躄茸α罧鮎霞筈国巳Φpζo口号pωo目Φp

岸毟.翳目ω︒冨戸 ︹レチタティーヴォ︺

無限なる宇宙の創造者を崇敬する汝らが︑

彼をエホバ︑あるいは神と名づけようと︑

フー︑またはブラーマと名づけようと︑聴きたまえ︑

万物の支配者のラッパが語る言葉を聴きたまえ!

その永遠の響きは︑大地を︑月を︑太陽を︑

貫いてたからかに鳴りひびく︒

22

(23)

ま昌髯窪ω︒ぽp圃ぎ躄警同ぴ二

︹b巳導酔㊦︺

ごΦび什日同oげ汐日①ぽ2壽爵Φ巳

属Φぼ9匿售σq博禦2暴ご︒H巳康爵}きαq一

ご①び汁窪︒ダ2︒ゲの巴びの什自昆Φ霞①即ま奠博

国♀需時目聾ロ巳ω︒ま昌①同塞似①霞㊦岱Φa︑"

︿臼ω叶碧窪Φω冨頴自奠﹀傷色一

園Φ8ぼ2筈α奠霎︑囎昌゜

津2&ω警聾じd饕窪Φ跨詈傷9

臼 Φ 口 霞 ︒ 冒 壽 ゲ p 巳 Φ 煢 p︒ ぼ ゲ Φ 同計

2 筈 ゜・ 9 譬 σq ① 罸 ︒ αq 一 聴 き た ま え ︑入 びと よ ︑そ の言 葉 を汝 ら も ま た! ︹ア ンダ ンテ︺

わ がな せ る業 のう ち にわ れ を 愛 せ!

秩 序 を ︑調 和 を ︑そ し て諧 音 を 愛 せ! ・・

汝 ら を ︑ 汝自 身 と 汝 ら の 兄 弟 た ち を愛 せ !

体 力 と 美 は汝 ら の誇 り と な り ︑

知 性 の輝 き は汝 ら の 気 品 と な れ !

. 永 遠 の 友 情 に み ち た 兄弟 の .

手 を さ し の べよ ︒

そ の 手 を汝 ら か ら かく も久 しく 遠 ざ け て い たも の は

真 理 で はな く ︑ ただ 狂 気 であ った!

.曲はピアノ伴奏付きの(テノール)独唱のために書かれており︑明確な区分はないが︑ほぼ五つの部分に分けられる︒まず

アンダンテ︒マエストーソ︑ハ長調で︑ピアノによる前奏に始まり︑付点リズムの和音が力強く連打され︑る︒これは﹁無限な

る宇宙の創造者﹂の広大な力を暗示するものであろう︒続いてテノール独唱によるレチタティーヴォには︑いるが︑それは前掲の歌詞による造物主の讃美であり︑宗派を超越した全宗教への呼びかけである︒次いでアンダンテ︑ハ長調︑・肱拍子のアリア

の部分に移るが︑ここでは﹁秩序.均衡.調和﹂や﹁美・力・知﹂といったメーソンの三つの鍵言葉が述べられ︑友愛が歌わ

れる︒アレグロ︑イ短調︑觚拍子の部分がそれに続くが︑偏見を捨て︑迷妄を排するといった啓蒙主義的理念が強い口調で訴

えられる︒第四の部分はアンダンテ︑二短調︑%拍子ーへ長調︑鵯拍子で︑﹁啓蒙﹂の教えが押し進められ︑知や力や友愛が

促される︒最後のアレグロ︑ハ長調︑%拍子では︑﹁その時︑生の真の幸福が成就される﹂と︑地上の楽園達成の喜びが最高

潮に達して曲を終る︒

・以上のようにふやや大規模な︑変化に富んだ展開のうちに︑フリーメーソンと共通する啓蒙主義の理念が高らかに歌い上げ

23鱒

(24)

ら れ る の で あ る︒ な お ︑ ト ム ソ ンは ︑ こ の頃 同 時 に作 曲 が 行 な わ れ て い た ﹁ 魔 笛﹂ の響 き に 通 じ る も の を ︑ こ の曲 の随 所 で指

(19)摘している︒

0フリーメーソン小カンタータ﹁我等が喜びを高らかに告げよ﹂(ピ9暮く①鱒麟冨画o唱匿.器津o巳o)K六二三

この作品は一七九一年十一月十五日にウィーンで作曲された︒モーツァルトの自作品目録の最後に記入されたもので︑彼自

身によって完成された最後の作品でもある点︑興味深い︒この頃は﹁魔笛﹂(K六二〇)や﹁ティト﹂(K六二一)の上演も

済み︑クラリネット協奏曲(K六二二)も一か月前に書き上げ︑残る作品は︑まだ作曲途中の﹁レクイエム﹂(K六二六)だけ

であった︒死の二十日程前に書かれたわけだが︑自筆譜の筆蹟はしっかりしており︑修正の跡もほとんど見られないという︒

所でこのカンタータは︑一七九一年十一月に新たに完成された︑ウィーンの﹁新冠の希望﹂ロッジの会堂のこけら落としに

演奏されたもので︑十一月十八日にモーツァルト自身が指揮して初演を行なったが︑その二日後には病床に臥し︑二週間後に

は世を去ることになるのである︒

テキストは例の﹁魔笛﹂の台本作者シカネーダーの作とされる︒シカネーダーはフリーメーソンではあったが︑このロッジ

のメンバ必はなかった︒どのようにして繁.﹂のロ︒ジの歌皇日≦﹂とになったかξいて︑ネッ軌ルは︑恐らく彼がち

ょうどこの時期に﹁魔笛﹂によって結ばれていたモーツァルトから頼まれたのだろう︑と推測している︒なおトムソンは︑シ

カ ネ 夛 ふ 不 品 行 の た め に ¥ ゲ ンスブ ルク の メ ← ン 支 部 か ら追 放 さ れ て ︑そ の後 ウ ィー ン で 竺 度 も ど の支 部 薫 跏 入

が許されていなかったことから︑﹁魔笛﹂の真の台本作者と目されることもある︑例のギーゼッケをその作者と見ている︒ギ

ーゼッケは本名をヨハン・ゲオルク・メッツラーといい︑俳優︑劇作家で︑鉱物学者でもあり︑﹁新冠の希望﹂ロッジのメン

バーであった︒

さて︑編成は大きなもので︑独唱三部(テノール2︑バス)︑男声三部合唱(テノール2︑バス)︑フルートー︑オーボエ

2︑ホルン2︑ヴァイオリンニ部︑ヴィオラ︑チェロ︑コントラバスより成る︒重要なテノールのパートは恐らく同じ分団の

盟友アーダムベルガーが受け持ったものと思われる︒

歌詞は︑生きる喜び︑労働の団結︑人間的な愛︑そして人類の未来への希望といったものを表現している︒

24

参照

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