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新渡戸稲造の世界 : その植民地観をめぐってAuthor(s)
鵜沼, 裕子Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.56, 2013.10 : 253-273URL
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新 渡 戸 稲 造 の 世 界
︱︱その植民地観をめぐって︱︱
鵜 沼 裕 子
はじめに
一般に何らかの宗教的信念を生の根拠とする者の生き方は︑その宗教が真理として公認する教義によって方向づけられるので︑個々の思想家の世界は︑これを根源とする内的構造連関のもとに理解すべきであろう︒しかし私は︑客体化され普遍化された教義よりも個々のキリスト者の軌跡の上に見いだされる宗教的原体験︑及びそこから形成された宗教的信念の方が︑彼の生き方を方向づける原点としてより 00重要な意味を持つであろうとの考えから︑キリスト者たちの諸活動を︑この体験を源泉として押し出され︑全体的に有機的なつながりの内にあるものと理解して︑彼らの世界を再構成することを試みてきた︒新渡戸稲造の場合に即して言えば︑教育︑国際政治︑植民地政策︑官人としての働き︑さらには東西諸思想の研究など︑極めて多方面に及ぶ彼の活動や業績は︑彼の特異な宗教的信念を核として押し出され︑全体として固有のつながりのうちにあると考える︒そのような方法的視点から見ると︑例えば新渡戸の植民地観は︑一見すると全く異なる分野に
属するかに見える彼の民俗学的関心と︑彼の精神の深部において構造的な関連の内にあることが見えてくるのである︒従って︑官人としての新渡戸の活動︑とりわけ植民地関連の彼の言動について言及する場合︑一方的かつイデオロギッシュな裁断に陥らないためにも︑こうした研究の視点を持つことが重要ではなかろうか︒そのような見方は︑新渡戸の植民地観に対する﹁誤解﹂を払拭し︑彼の意図したことの正当な理解と評価につながるであろうと考えるからである︒そこでまず︑新渡戸の生き方の基盤となっている信
のあり方の特質を素描することから始めたい︒ 1
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.神秘家的資質﹁新渡戸稲造﹂を同時代の他のプロテスタント・キリスト教思想家たちと比べるとき︑そこにはある種の異質性が感じられるのではなかろうか︒それはひとつには︑彼が伝道を本務とせず官途に就いた人であったことによるであろうが︑その異質性の所以をさらに彼の精神の内奥に探るなら︑第一に︑これ自体は周知のことであるが︑彼に一種の神秘家的な資質があったことをあげたいと思う︒新渡戸夫人マリ子が夫稲造を﹁相当の神秘家﹂と評していたことはよく知られているが︑彼は生涯にわたって︑いわゆる心霊現象のようなものも含めた超常的な世界に深い関心を寄せていたようである︒﹃東西相触れて﹄の中の﹁霊的の現象﹂︵﹃新渡戸稲造全集 第一巻﹄に収録︒以下﹃全集第〇巻﹄と略記︶と題する一文は︑﹁我輩は幼い時から迷信的に一種の霊力を信じてゐた為に︑学生時代には折々友人の物笑となった﹂と書き出され︑そこには︑ボストンで占い師︑骨相・手相見︑予言者などを訪ねてまわり︑﹁彼等の言ふことが何れも一致してゐたことに少なからぬ興味を覚えた﹂り︑ロンドンでは﹁降神術者の秘密会合﹂に出席して異常な体験をしたことなどが︑かなり微細にわたって紹介されている︒また後年︑国際連盟知的協力委員会を通じて知り合った︑イギリ
スの古典学者で超能力の所有者とも言われたギルバート・マレーや︑哲学者ベルグソンらともこの種の問題について語り合ったことがあるという︒またこれも周知のように︑﹁神の声﹂を聴いたというジャンヌ・ダルクへの新渡戸の心酔ぶりには並々ならぬものがあったようで︑その生地やゆかりの地を訪れている︒さらに︑これも広く知られるところであるが︑晩年には︑霊感による予知能力を持つといわれた曹洞宗の尼僧・佐藤法亮と深い親交があった
た文章の一部である︒ だすとでも言えようか︒以下は︑死の約二か月前の日付︵一九三三年八月四日︶のある﹁オキナのつぶやき﹂と題され は理性の覆いのもとにあって自分自身にさえ隠されている心の深奥が︑時折自ずと湧き出て︑オキナの口を借りて語り れる︒にもかかわらずオキナの言うことは︑新渡戸にとって常に謎であり︑いつも新渡戸を惑わせる︒すなわち︑普段 れたような非現実感が漂い︑新渡戸はオキナの語りというかたちで彼自身の心の深層にある思いを吐露したものと思わ 者のいういわゆる二重身・ドッペルゲンガーであることは間違いない︒オキナが登場するシーンには︑常に被膜に覆わ る︒彼は新渡戸より一五歳年上の友人という設定であるが︑佐藤全弘氏も言われるように︑新渡戸自身の分身︑心理学
O kin a
んでいるが︑この中に︑新渡戸の前にしばしば現れて語りかける︑オキナ︵︶と呼ばれる謎めいた老人が登場す 数編の原稿が新聞社に届いたというものである︒新渡戸の得意とする人生雑感風の随筆で︑内容は人生万般の事柄に及 ﹁英文毎日新聞﹂に掲載された短文集で︑新渡戸がカナダ・ヴィクトリア市のジュビリー病院で客死したのちも︑なお 第十六巻﹄︑邦訳は同﹃第二十巻﹄に収録︶と題する文集は︑一九三〇年から三三年の死の当日に至るまで執筆され︑E D IT O R IA L J O T T IN G S
もうひとつ︑新渡戸自身の書き物から一例をあげておきたい︒﹃編集余録﹄︵原英文・﹃全集 ︒ 2オキナのために永年家のきりもりをし︑オキナの癖や奇行を知りつくしているある老婦人が︑オキナはだれも側にいないと思うと︑不思議な行為にふけっていることを私に告げてくれた︒
オキナがつぶやいていることばは︑その婦人には独り言のように聞こえたが︑オキナにとっては対話にちがいなかった︒オキナのつぶやきは︑いつも全部聞こえるわけではないが︑数日前︑とぎれとぎれにこんなことを話しているのが聞こえたという︱︒﹁永く待たせてすまん⁝⁝︒すぐそちらへ行く⁝⁝︒もうこれ以上ここにいる気はしない⁝⁝︒今や真暗闇だ⁝⁝︒一点の光も見えぬ⁝⁝︒霊で武装した勇敢な兵士らを送ってくれ︑心に真実を秘めたまことの古きサムライたちを⁝⁝︒にせものは駄目だ⁝⁝︒︵﹃全集第十六巻﹄︑五〇二︱五〇三頁︶
佐藤全弘氏は︑オキナの対話の相手は三年前に死去した新渡戸の畏友・内村鑑三ではないかと述べておられる︒またこの時代背景には︑ナチス・ドイツの政権獲得︑日本の国際連盟脱退という世界の動きがある︒新渡戸は近づく自らの死の予感の中で︑第二次世界大戦前夜の世界の黙示録的な光景を幻視しつつ︑すでに他界の人となっている内村を相手に︑自己の心の深奥を独白していたのである︒一種の不気味ささえ感じさせる︑鬼気迫る文章ではなかろうか︒一般に近代日本の代表的なプロテスタントたちは︑啓蒙的理性が容認する普遍的な真理を至上かつ唯一の判断基準として尊重し︑そこに収まりきれない〝あやしげな〟ものは︑前近代的な迷妄の残滓として切り捨て︑蒙昧な世界から脱出して﹁理性の光﹂の下に身を置くことをもって新しい神への帰順の証とした︒従って新渡戸に︑﹁常ならぬもの﹂への浅からぬ関心があり︑しかも彼自身︑それに対して決して抑制的でなかったことは︑彼の信仰の特質として留意しておくべき重要なポイントであると考える︒では新渡戸自身には︑信仰生活の上で何らかの神秘的な宗教的原体験があったのであろうか︒新渡戸に対する一般的なイメージは﹁円満な国際派の良識人﹂であり︑大方の伝記的な史料もそうしたことについては多くを語っていない︒ただ一伝記記者は︑新渡戸一八歳の年の日記に記されている﹁父の光を見た﹂という一節に注目し︑これを新渡戸
の﹁初めての霊的体験﹂と特筆している
創始者・
Pe rs on ali ty
者には我ならぬ力︑人間を超えた﹁人格﹂︵︶が内在しているということである︒これはクエーカー主義の は﹁種子﹂︑﹁声﹂︑﹁キリスト﹂などさまざまの名が与えられているが︑名称が何であれその意味するところは︑全ての る︒クエーカーの教えの出発点は︑すべての者に照射される﹁内なる光﹂の存在を信じることにある︒﹁内なる光﹂に ここで︑新渡戸のクエーカー主義の理解についての私見を述べておきたい︒同主義について彼は次のように述べてい 義者新渡戸の中に生涯にわたって生き続けたと考えたい︒ 光﹂を説くクエーカー主義と出会ったときにこれと呼応することとなる︒そして神秘の世界への関心は︑クエーカー主 生来の神秘家的資質とこうした特異な体験は︑彼の信と行動を考える上で無視できない特質であり︑数年後に﹁内なる うな︑人生にとって決定的な転機となった体験と受け止めるのは無理ではないかと思われる︒しかしながら︑新渡戸の ︒ただしこの﹁光体験﹂を︑パウロの﹁ダマスコ途上の回心﹂に比せられるよ 3される存在なのであった︒従って新渡戸にとっての信仰は︑正統的キリスト教におけるように︑現実世界を超絶した絶 考えたい︒新渡戸において人間は︑超現実的な世界と交感し得る存在であり︑神はそのような仕方で人間によって体験 体験し︑生涯にわたってそれに対する飽くなき関心を抱き続けた神秘の世界・超常的世界と通底するものでもあったと ているのである︒新渡戸の念頭にある﹁現世を超えた世界﹂とは︑新渡戸が折に触れてさまざまなかたちでその実在を ることである︒すなわちここでは︑人は現実世界のみに生きるものではなく︑時にそれを超え出る存在でもあるとされ の存在﹂︵を信じること︶ではなく︑﹁現世を超えた自らの存在﹂︵傍点・引用者︶︵について信じること︶と言われてい 000 関して信じることが︑その人の信仰をかたちづくるように思われる︒﹂ここで注目したいのは︑﹁現世を超えた何ものか 一方︑信仰について彼は次のように言う︒﹁人が︑未来のことであれ過去のことであれ︑現世を超えた自らの存在に 主であれば︑誰にでも生じ得る考えである︑と︒