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『アルメニア紀行』への批判

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第五章   地中海からアラギョーズへ                ――マンデリシタームの詩学とアルメニア中村唯史一.はじめに―『アルメニア紀行』の周辺「世界文化への郷愁」

  詩人のオシプ・マンデリシターム(一八九一―一九三八)が、自分が属していた詩派「アクメイズム」とは何かという問いに対して、それは「世界文化に対する郷愁」であるという有名な回答を述べたのは一九三〇年代のことだ。この事実を証言したナデージダ夫人(一八九九―一九八〇)は、残念ながら発言の正確な日時と場所を覚えていないというが、マンデリシタームが二〇年代後半の沈滞を脱した後の『ダンテについての会話』(一九三三年頃)を頂点とする三〇年代の詩的思考の高揚のさなかに、自分の詩学をこのように定義したことは重要である。一九二八年刊行の論集『ポエジーについて』にまとめられた一〇―二〇年代前半の諸論文の主張を凝縮したかのようなこの発言は、後述のように、詩人の思考が一時的な沈黙を経ながらも、基本的には首尾一貫していたことを示しているからだ。

  ナデージダ夫人は、同じ回想のなかで、マンデリシタームが停滞を脱したきっかけが一九三〇年のアルメニア滞在だったと明言している。

  オシプに詩が甦ったのは、私たちがアルメニアへ旅したときの帰途、チフリスに逗留したときのことである。

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  詩人は停滞に陥っていた二〇年代後半にアルメニア滞在を切望し、一度は挫折したのち、ようやく三〇年にこれを実現したが、その直後から彼にふたたび詩的な高揚が訪れたというのである。この一事からも、アルメニアがマンデリシタームの詩学にとって核心的なトポスだったことがうかがわれるのだが、ではそれは具体的に、どのような意味においてだったのか。アルメニア滞在が詩人の創造力を甦らせた理由は何か。

 『アルメニア紀行』への批判

  マンデリシタームのアルメニア体験が最もまとまったかたちを取ったのは、『ズヴェズダー』誌一九三三年五月号に掲載された散文『アルメニア紀行Puteshestvie v Armeniiu』である。だが滞在から三年後に発表されたこの文章は、発表直後から激しい批判にさらされた。

[…]すべてが強制的で難解な諸々の連想との嬌態の上に組み立てられている。O・マンデリシタームにとって興味があるのは、国とそこに住む人々を知ることではなく、気まぐれな言葉の組み合わせの方なのだ。それによって、自分自身に没頭し、自分の内なる文学的な手荷物と、遭遇や旅の途中で生じてくる偶然的な連想とを同じ尺度で語ることが可能になるからである。――「文学新聞」一九三三年七月一七日

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マンデリシタームの形象からは、古くて腐りきったショーヴィニズムの臭いがする。彼はアルメニアに賛辞を振りまいているが、その賛辞はこの国のエキゾチシズムや奴隷的な過去に向けられている。現在について、マンデリシタームはただの一行も書かなかった。――「プラウダ」紙一九三三年八月三〇日   これらの評は、旧時代の詩人と位置づけられ、ソヴィエト体制下でそもそも芳しくなかったマンデリシタームの立場を、さらに悪化させた。だが一詩人の紀行文が、ソ連作家同盟や共産党の機関紙によって、ここまで批判されたのはなぜだろうか。

紀行というジャンル

  近代ヨーロッパにおいて「紀行(ロシア語ではputeshestvie)」を題名に冠したテクストは、単なる旅の記録ではなかった。それは丹念に練りあげられ、旅の見聞と経験を語る体裁を通して、著者が自分の哲学・芸術観・世界観を語る一つの文学ジャンルだったのである。「紀行」はヨーロッパで交通手段の長足の進歩と植民地経営の拡大が見られた一七六〇―一八三〇年代にさかんに書かれ、その後一時衰えたが、第一次世界大戦の終了以降、復活の兆しを見せていた。

  「紀行」は、多くの場合、旅人の一人称の立場から書かれ、その語りは厳密に旅の時系列に沿っていた。文明からの出発に始まり、訪れた場所の記述を経て、その地からの出発か文明への帰還によって終わるというのが、おおまかな枠組だった。そしてその枠組のなかに、訪れた地の人種、地理、地質、歴

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史、言語等に関する情報とともに、それらに対する言及を通して話者の感想や見解が語られるのが一般的だった。

  一九二〇年代後半から三〇年代にかけてのソ連で、「紀行」のジャンルは隆盛を見せていた。たとえば月刊誌『赤い処女地』には、平均して月一作の割合で「puteshestvie」を題名に冠する作品が掲載されていたという。この隆盛は一九二八年から第一次五ヵ年計画が開始されるなど、当時、社会主義建設が推進されていたことと関係していた。建設の成果は、ロシア帝国時代に後進的だった地域においてこそ顕著だったからである。主にモスクワやサンクト・ペテルブルグに住む作家たちは、極東・中央アジア・コーカサスといった地域に派遣され、「紀行」の約束事に則ったかたちで、革命の前と後とを比較しつつ、かつての「辺境」での社会主義建設の進捗を讃えるルポルタージュを書いた。アルメニア人ロシア語作家マリエッタ・シャギニャン(一八八八―一九八二)が二〇年代を通して、自分の父祖の地と周辺地域をたびたび訪れ、その印象を書いたルポルタージュを『ソヴィエト・ザカフカース  一九二二―一九三〇年の手記』と題して一冊にまとめ、三一年に刊行したのはその一例である

  コミンテルン議長、ソ連共産党機関紙「プラウダ」編集長などを歴任した政治家ニコライ・ブハーリン(一八八八―一九三八)の配慮を受けて、一九三〇年にアルメニアを訪れたマンデリシタームもまた、まさにこのような意味での紀行文を期待されていたはずである。だがその成果である『アルメニア紀行』は、puteshestvie という題名にもかかわらず、この地における社会主義建設の記述を欠いていた。先に引用した「文学新聞」や「プラウダ」の評は、この点を強く非難したのである。

  ただし、『アルメニア紀行』には、社会主義を批判するような記述もまた、ほとんど見当たらないと

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言って良い。マンデリシタームがアルメニア滞在中に「形式は民族的、内容は社会主義的」というスターリンのスローガンをこき下ろして、「一瞬のうちにアルメニアの作家たちの反感を買ったでき事」があったことをナデージダ夫人の回想は伝えているが、彼女によれば、詩人がこのスローガンを嫌悪したのは政治的な理由からではまったくなく、それが「形式と内容との絶対不可分性」という自分の信条に合わなかったからだった。夫人は「オシプには[社会主義]建設に反対すべき理由は全くなかったのである。何で彼が経済の計画的組織化に腹を立てることがあろう。問題はそんな所にあるのではない」とも述べている。マンデリシタームのアルメニアに対する関心は、社会主義体制に対する評価とは別の次元にあったのである。

 シクロフスキーの批判

  『アルメニア紀行』については、公式筋だけではなく、かつてロシア・フォルマリズムの旗手だったヴィクトル・シクロフスキー(一八九三―一九八四)も痛烈に批判している。

マンデリシタームは今や引用で世界を組み立てている。[…]これ[『アルメニア紀行』]は文法的な形式や、図書館や言葉や引用の間を行く旅の記録である…。マンデリシタームは偉大な詩人だが、事物を伝えるために、その回りに文学的な連想を積み上げる。[…]O・マンデリシタームの旅は、まるでこだまを蒐集しているみたいに奇妙なものだ…。

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  じつを言えば、「文学新聞」や「プラウダ」の批判は、当時の期待の地平からの評価は別としても、『アルメニア紀行』の特徴を言い当てていないでもない。この作品では、詩人の現地での見聞や体験は、ほとんどの場合、文学的・思想的な文脈に属する話題へと転位している。もちろんそれは「文学新聞」が言うような「気まぐれな言葉の組み合わせ」や「偶然的な連想」ではなく、後に見るようにマンデリシタームの詩的世界観に基づいているのだが、その結果としてアルメニアがつねに他の文脈と関係づけられ、その直接的な表象の機会を奪われていることは事実である。語りにおいて連想が極度に前景化しているために、読者は詩人の旅の時間的な推移を認識することさえ容易ではない(と言うより、不可能である)。

  先行文学の約束事を踏まえた『センチメンタル・ジャーニーSentimental’noe puteshestvie』(二三年)他の回想的散文の著者でもあったシクロフスキーは、概して強いジャンル意識の持ち主であり、「紀行 puteshestvie」というジャンルについても、二〇年代の状況のみを視野に置いていた「文学新聞」や「プラウダ」の批評家より広い視野で考えていただろう。だが、おそらく一八世紀後半―一九世紀前半の諸作品をも念頭に置いていただろう彼にしてさえ、『アルメニア紀行』の時系列の錯綜は、「紀行」というジャンルの枠組からあまりに逸脱していると感じられたのである。

  もっとも、文中の「引用で世界を組み立てている」、「言葉や引用の間を行く」、「文学的な連想を積み上げる」等の批判は、シクロフスキーが一九二〇年代末から、作者による対象の意味づけや定位を批判する論陣を張っていたこととも関係している。たとえば彼はすでに二六年の論考で、ジガ・ヴェルトフ監督(一八九六―一九五四)の徹底したモンタージュによるニュース映画を、「ヴェルトフのやり方で

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は、ニュース映画の素材は、その魂である記録としての性質を奪われてしまう」、「ジガ・ヴェルトフはニュースフィルムを切り刻んでいる」と批判している。『新レフ』誌に拠って、一時期「事実の文学」「事実の芸術」を提唱していたシクロフスキーの目には、『アルメニア紀行』はヴェルトフのモンタージュと同じように、素材=対象に対する作者の不当なまでの介入と映っていたのである。

『アルメニア紀行』というテクスト

  個人的にはマンデリシターム夫妻を一貫して援助し続けたシクロフスキーをして、「まるでこだまを蒐集しているみたい」と言わしめた『アルメニア紀行』とは、いったいどのような文章だったのか。

  この作品は「セヴァン」「アショト・オヴァネシヤン」「モスクワ河岸地区」「スフミ」「フランス人たち」「博物学者をめぐって」「アシュタラク」「アラギョーズ」の八章から成っている。このうち固有名詞を冠している六つの章題には、「モスクワ河岸地区」「フランス人たち」を除いて、いずれもアルメニアないしコーカサス地域の人名か地名が採られており、ほぼアルメニアを中心的な話題とする旅行記の体裁をなしているかに見える。

  だが実際にはそうではない。「フランス人たち」は、シニャック(一八六三―一九三五)、ルノワール(一八四一―一九一九)、セザンヌ(一八三九―一九〇六)、マチス(一八六九―一九五四)らの絵に関するスケッチだが、アルメニアに関する旅行記にフランス印象派絵画に関する章が設けられている理由は措くとしても、この章で扱われている「視界の拡張」や「色の必然性」といった話題は、「モスクワ河岸地区」や「アラギョーズ」の章でも扱われている。また「博物学者をめぐって」は、リンネ

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(一七〇七―七八)、ビュフォン(一七〇七―八八)、パラス(一七四一―一八一一)など一八世紀の博物学者やラマルク(一七四四―一八二九)の進化論について論じた章だが、なぜこの作品で彼らが論じられているのかという問題はやはりひとまず措くとしても、環境と生物の関係についてのラマルクの考えに関する記述は、他の章におけるアルメニア語に関する文章や、話者と光景との関係についての記述などと、明らかに相同的で並行的な関係にある。また「セヴァン」「アショト・オヴォネシヤン」「アシュタラク」等の章では、スターリン時代のソ連言語学を支配することになるヤフェト学派と、その創始者ニコライ・マル(一八六五―一九三四)への言及がくり返されている。

  要するに、『アルメニア紀行』というテクストでは、本来なら主要な対象であるはずのアルメニアでの見聞やアルメニア語に関する記述が、幼年時代やモスクワでの話者自身の記憶のみならず、ラマルクの進化論、フランス印象派絵画、ヤフェト派言語学等々の話題へとたえず転位し、これらの主題系と重層的で複雑な網の目を形成しているのである。したがってシクロフスキーの「引用で世界を組み立てている」という評は正鵠を射ているのだが、だとすれば、なぜマンデリシタームはアルメニアに実際に行くことにこだわったのか。引用するだけなら、書物の森を逍遥していればすむことではなかったか。

アルメニアへの固執

  だがマンデリシタームは、周囲を慨嘆させるほどに、アルメニア行きに固執しつづけた。ナデージダ夫人は、どこに旅したいかと問われた詩人の「アルメニアへ」という答を聞いて、ブハーリンの秘書カロトコワが「また、アルメニアですか。ほんとうに、思いつめているのね」と溜息をついたことを回想

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している。二九年のアルメニア行きを直前になって断念せざるを得なかったことに触れた『第四の散文』七章で「誰も私を理解してくれない」「我々はアルマ・アタに行こう!」「我々はアゼルバイジャンに行こう!」等の表現が自嘲気味にくり返されていることから見て、マンデリシタームは、どうやら一九二七年に中央アジア・カザフ自治共和国の首都となり、急速な建設が進められていたアルマ・アタや、あるいは同じコーカサスでも油田開発著しいバクーを首都とするアゼルバイジャンへの旅を勧められていたようだ。そこにはマンデリシタームが社会主義建設の成果を書くことへの期待も込められていたはずである。だがそれにもかかわらず、詩人はこの提案をかたくなに拒絶し、アルメニア行きの許可をくり返し求めたのである。

  マンデリシタームは、なぜこれほどまでにアルメニアに憧れていたのだろうか。ただしその一方で、『アルメニア紀行』は、すでに述べたように、アルメニアに関する記述がたえず他の思想的・学問的な主題系へとずれ込んでいくようなテクストである。マンデリシタームのアルメニア憧憬は、いったいどのような性質のものだったのだろうか。

二.マンデリシタームの詩的世界観―「言葉の本性について」を中心に地中海圏とアルメニア

  ナデージダ夫人は、その回想のなかで、「地中海は、オシプにとって聖なる地であり、そこで歴史は始まり、伝承によってヨーロッパにキリスト教を与えたのであった」と書き、さらにこのような文明論

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的認識とマンデリシタームのアルメニアへの憧憬との関係について、次のように述べている。    「最初の人間たちが学んだ大地」こそ、オシプのほんとうの巡礼の聖地だった。彼は、大の旅行好きのくせに、中央アジアと極東への旅は一顧だにしなかった。そこで彼が引かれたのはクリミアとコーカサスだけである。クリミアとコーカサス、特にアルメニアとギリシャ、ローマとの古代的結びつきは、彼には、世界、というよりはヨーロッパ文化との一体性の証拠と考えられたのである。我が国では辺境への旅は広い人気を博してきたが、旅をする作家たちの大部分は普通、回教世界を選んできた。

   コーカサスでなぜ詩情が彼に戻ったのか、その訳はよくわかる。オシプは、胸の中に「コルキス(コーカサスの古いギリシャ名)の地鳴り」を、つまり世界と歴史と文化とのつながりを感じるときにのみ、仕事をすることができると、告白したことがある。[…]彼は、アルメニアへは、執拗に、長い間、あこがれていた。彼地をグルジアよりよしと見たのは、それがキリスト教の東方における前哨地だったからだろう。    近親者の回想には作家の美化や神話化が伴いがちだが、ナデージダ夫人の文章は、夫の詩や思想への深い理解を示しつつも、彼の欠点や限界を隠そうとはしておらず、概して公平で的確であると感じられる。実際、マンデリシタームの文業と照らし合わせるとき、彼のアルメニア憧憬が地中海圏を世界文化

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(詩人にとって、それはヨーロッパ文化と同義だった)の発祥の地と見なす文明史観に根ざしていたというこの指摘は、十分な説得力を持っている。

 「ヘレニズム」の定義

  夫人の指摘は、とりわけ一九二三年に執筆され、二八年刊行の『ポエジーについて』に収録された論考「言葉の本性について」を理解する鍵となるものだ。この論考では、夫人のいう「地中海圏」「世界文化」に相当する語は「ヘレニズム」である。かつてヘレニズム文化がギリシャをはじめとする地中海沿岸地域のみならず、コーカサスにまで及んでいたことは、当時の定説であった。

  「言葉の本性について」は、文明論、言語観、認識論などが、はっきりと区別されることなく、渾然となって語られている点に特徴があるが、マンデリシタームは「ヘレニズム」を、何よりも一つの世界観として、文中でさまざまに定義している。彼によれば、それは「道具によって意識的に人間を囲むこと」、「周囲の世界を人間化すること」、「非常にかすかな、目的論的な(teleologicheskii)温もりによって世界を暖めること」である。人間がみずからの価値観に基づいて世界を意味づけ、これに秩序を与えて親和化することと言い換えることができようか。研究者のJ・G・ハリスは、マンデリシタームの世界認識は、基本的に「人間中心主義的」だったと評している。   ただしマンデリシタームは、世界に対する人間の認識の圧倒的な優位と暴力性を主張しているわけではない。人間が世界に発する「目的論的な温もり」(認識行為)は、あくまでも「非常にかすか」であり、認識される側の世界もまた人間と同じように、「温もり」を持つものとして表象されている(「その回

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りに人が座り、その温もりを、自分の内なる温もりと同縁のものとして貴く思うような、あらゆるペチカ」)。マンデリシタームの「ヘレニズム」とは、人間が自分の立場から世界を意味づけていくが、その営為が人間と世界の親縁性に基づいているために、権力的・暴力的とはならないような世界観なのである。

建築術/Arkhitektonika  マンデリシタームによれば、現在の世界において支配的な西欧近代の思考は、このような意味でのヘレニズムの系譜には属していない(「長い間、ヨーロッパの論理学者たちの知を奴隷化していた因果性の問題」)。彼はまた「十九世紀の学問的思考の曖昧さ、非建築性は、新世紀初頭までに、学問的思考を完全に頽廃させてしまった」とも書いている。

  「言葉の本性について」の日本語訳者斉藤毅が注釈で指摘しているように、ここに出てくる「非建築性nearkhitekturnost’」という語は、カント『純粋理性批判』第二部第三章「純粋理性の建築術」(Die Architektonik der reinen Vernunft)を踏まえている。

  私のいう建築術とは、体系を構成する技術のことである。この体系的統一は、尋常一般の知識を始めて学に仕立てるところのものである、―換言すれば、知識の単なる偶然的集積から一個の体系を作り出すものである。

  マンデリシタームの「非建築性」という語は、西欧近代が実証主義という名の「因果性」の思想に屈

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服した結果、右の引用でカントが提唱しているような「建築術」―知の体系性を構築する志向を喪失しているとの認識を示しているのである。

  「言葉の本性について」の別の箇所では、現代の「フィロロジーなきヨーロッパ」が「文明化されてはいるが、神に呪われたサハラ砂漠、完全なる荒廃」と形容されている。機械的な世界観に立つヨーロッパでは、過去の遺跡である「ヨーロッパ式の城塞やアクロポリス、ゴシックの都市、森のような大聖堂、そして丸屋根式の球状の寺院は立ちつづけることだろうが」、それらがどのような世界観に基づいて建てられたかの記憶はすでに忘れられているというのである。そのような西欧近代を、マンデリシタームは「建築術」の欠如として批判している。

 [現代ヨーロッパの]人々は、それら[前述の建築群]を見ても理解することはないだろうし、それらを囲む力強い建築術(arkhitektonika)の血管にはどのような血が流れているのか、当惑しつつ尋ねることだろう。

これらの批判を裏返して言えば、マンデリシタームの「ヘレニズム」は、カント言うところの「建築術」に立脚した世界認識ということになる。

受肉としての言葉

  マンデリシタームにとって、「周囲の世界を人間化」し、体系化するために、言いかえれば「建築

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術」のために、人間が依拠することのできるのは「言葉」である。

 ある民族の文学の統一性、条件的な統一性の基準と認めうるのは、ただ民族の言語のみである。なぜなら残りの特徴はすべて、それ自体が暫定的、一時的、恣意的なものだからである。言語の方も変化し、ある時点からある時点まで一瞬たりとも平静のうちに止まることがないとはいえ、[…]言語はそのあらゆる変化の範囲内においてさえ定数、「コンスタント」であり続ける。つまり内的な統一性を保ち続ける。

   「言葉の本性について」執筆の前年、一九二一年に書かれ、同じく論集『ポエジーについて』に収録された論考「言葉と文化」では、事物が先行し、言葉は事物を指示するためにあると見なす言語=記号の考え方が、修辞疑問によって事実上、否定されている(「いったい事物は言葉の主人なのだろうか?」)。そうではなく、言葉の方が事物を選び、意味づけ、世界認識の体系の内に定位すると詩人はいう(「言葉はプシケーなのだ。生きた言葉は、対象を意味するのではなく、住まいを選ぶかのように、あれこれの具体的な[対象的な]意義、物性、愛しい身体を自由に選ぶのである」)。ほぼ同じ時期に書かれた二つの論考を考え合わせるなら、マンデリシタームにとって「ヘレニズム」とは、「言葉」によって世界に内的な統一と体系性をもたらす営為を指すということになる。

  「言葉の本性について」に話を戻して、では現代において「ヘレニズム」を受け継いでいるのは何かというと、それはロシア語であると、マンデリシタームは言う。

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  ロシア語とはヘレニズム的言語なのである。一連の歴史的条件のために、ギリシア文化の生の力(zhivye sily)は、西欧をラテンの影響に譲り、長い間、子のないビザンチンに居座った後、ロシア語の懐の中に飛び込み、ヘレニズム的世界観の独自の秘密、つまり自由な受肉の秘密をロシア語に伝えたのだ。そして、そのためにロシア語は、まさに響き、語る肉体となったのだ。「…」

  ロシアの歴史的現実における言語の生(zhizn’)[…]。ロシア語のヘレニズム的本性は、その実体性と同一視することができる。ヘレニズム的な理解によれば、言葉とは出来事へと結実する活動的な肉体なのである。だからロシア語は、それ自体すでに歴史的なのだ。ロシア語は、その全総体において、出来事の波打つ海であり、理性を持ち、呼吸する肉体の、絶え間ない受肉および活動なのだから。

   やや難解なこの一節において詩人は、神学とのアナロジーを用いている。神から発した精霊=エネルゲイアが人の子の肉体に宿ることによって救い主が誕生したことと、人間が世界の事物に注意を向け、これを意味づけて言語化する営為とが重ね合わされている。このアナロジーでは、肉に神のエネルゲイアを受けた存在に相当するのは、世界に対する人間の理解を具現した「言葉」にほかならない。人間が神のエネルゲイアを受けて在るのと相同的に、冷たく無機的な世界は、人間の関心と名づけを受けて「暖められ」、構造的な体系の中での意味を得る。ちなみに、ロシア語がヘレニズム的世界観の後継者であるという見解は、言語学的に厳密な根拠を持つものではもちろんないが、神からのエネルゲイアを受けていることで人間が潜在的には神性を宿しているとする「神人説」の伝統が、東方正教の宗教者の

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あいだで強かった歴史的な経緯を踏まえている。

フロレンスキー「逆遠近法」との同時代性

  このように、認識論や言語観、さらにはやや地政学的なニュアンスを帯びた文明論等々が、峻別されたり階層化されたりすることなく、ほとんど同一の営為の多様な現われとして語られていることは、マンデリシタームの批評の特徴である。だがそれはまた、一九一〇―二〇年代のロシア(ソ連)の思考の全般的な傾向でもあった。

  一例を挙げるなら、主客の分離と空間の均質性を前提とする西欧近代の遠近法と、主体の客体に対する動態性、および主体に即した空間の意味的な濃淡を前提とする東方正教会系のイコンとを対比し、後者の方こそ人間の生の感覚に根ざしているとして、高く評価したパーヴェル・フロレンスキー(一八八二―一九三七)「逆遠近法」が書かれたのは一九一九年、マンデリシタームが「言葉の本性について」を書く四年前のことである。それぞれ言語と視覚芸術を主題としているという違いはあるが、両者は西欧近代の知を機械的な世界観として批判し、人間の「生」に立脚した価値観(「ヘレニズム」「逆遠近法」)によって、これを超克しようと志向した点で共通していた

  もっとも、ロシア的価値観による西欧的近代の超克を強く示唆している「逆遠近法」に対して、マンデリシタームの場合はあくまで「言語による世界の体系化」という点に主眼がある。他の哲学や思想に対するマンデリシタームの参照のしかたには一種融通無碍なところがあって、たとえば神学的なアナロジーの使用が、彼の東方正教への帰依を意味しているわけでは必ずしもない。ヘレニズムを文化の源泉

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と見なす文明史観が一種地政学的な趣を帯びる可能性に対しても、詩人はそれほど意識的ではなかったように思われる。

生=実体としての言葉

  それにしても、先ほど引用した箇所における、ロシア語ないし言語についての形容は、きわめて印象的だ。マンデリシタームによれば、それは「響き、語る肉体」、「出来事へと結実する活動的な肉体」、あるいは「その全総体において、出来事の波打つ海」「理性を持ち、呼吸する肉体の、絶え間ない受肉および活動」なのである。ほとんど官能的でさえあるようなこれらの形容は、マンデリシタームが言語を単なるコミュニケーション・ツールとしてではなく、理解のみならず感性も内包し、肉感をも帯びたほとんど生命体としてイメージしようとしていたことを示している。事実、先の引用中には「言語の生」という表現もあり、また論考の末尾近くには、「表象は、意識の客観的な所与性としてだけではなく、肝臓や心臓とまったく同じ、人間の器官と見なす事もできるのだ」とまで書かれている。

  アメリカの研究者T.セイフリドは、一九世紀末から二〇世紀初頭のロシア文芸・思想の主潮流を「言語実体論」と呼んでいる。事物の世界が実体として存在し、言葉はそれを指示するための記号・表象であると考えるのではなく、事物の命名と意味付けの帰結である言葉をこそ、人間の生が事物に浸透した実体と見なすのである。いわば物それ自体ではなく、それらに対する人間の注意や認識が浸透している表象こそが実体だという見解である。「言葉の本性について」の中で「ロシア語のヘレニズム的本性は、その実体性と同一視することができる」と書いているマンデリシタームの言語観・世界観もま

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た、大きくはこの潮流に属していた。

世界と認識と言葉の一元性

  マンデリシタームの思考のもう一つの大きな特徴は、何らかの事象に対する認識が生じる段階と、言語表象が生じる段階との間に、時間的・意味的な差違を認めていないことだ。「言葉の本性について」の中で、過去の記憶や想起の問題が、言語による事象の意味づけのしくみと同型的に語られているのも、その表れだろう。その際にマンデリシタームは、明示的にベルクソン(一八五九―一九四一)の哲学を召喚している。

  変化の旋風と止めどもない現象の奔流の中で統一性の原理を救うため、プラクティカルな一神教の執拗な欲求にとりつかれた、深くユダヤ教的な知を持つベルクソンを代表とする現代哲学は、我々に現象のシステムについての学説を提示している。ベルクソンは、諸現象を、それらが時間的な順次性の法則に従属する仕方に従ってみるのではなく、いわばそれらの空間的な拡がり[延長]の仕方に従ってみているのである。彼の関心を呼ぶのはもっぱら内的な結びつき[連関]である。彼はこの結びつきを時間から解放し、独立させてみているのだ。このようにして、互いに結びつけられた諸現象は扇のようなものを形づくる。それは時間の中で繰り広げることもできるが、同時に、知によってのみ捉えうる形で[可想的に]閉じてしまうこともできる。

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  マンデリシタームにとって「ユダヤ」は、彼が主張する世界観を表現するもう一つの用語である。ここではベルクソンの「生の哲学」は、「深くユダヤ教的な知」と呼ばれることによって、「ヘレニズム」と並ぶ、因果性に従って諸現象を見る西欧近代の知に対するアンチテーゼとして位置づけられている。

  「時間的な順次性の法則」とも述べられているので、マンデリシタームが念頭に置いているのは、同時的な事象ではなく、過去の事象の現在における想起である。だがこの場合にも人間は、同時的な事象に対するときと同様に、諸事象の内的連関を見いだし、過去の表象というシステムへと組み立てる。そしてそれこそが人間にとって生の過去、いわば「暖められた」過去なのである。

ヘレニズム―それはベルクソン的な意味でのシステム、時間への従属から自由になり、人間特有の我を通して内的な結びつきに従属した諸現象の扇のように、人間が自分の回りに繰り広げることのできるシステムなのである。

  私はいま便宜的に同時性と過去とを分けて述べたが、実際にはマンデリシタームの思考は深く一元的だ。彼の念頭にあるのは「周囲の世界を人間化」する「ユダヤ的」で「ヘレニズム的な」営為―生に根ざした営みだけであり、その対象となる事象が現在であろうと過去であろうと、本質的な違いは認められないのである。

  その際に留意すべきは、すでに述べたように、マンデリシタームが言語/表象をこそ実体と考えていたことだ。過去の事象は、人間によって想起=表象されることで、はじめて現在における実体性を得る

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のである。ただし、過去の想起=表象は、単なる現在の立場からの恣意的な再構成ではない。すでに見たように、事象と人間が同じ「温もり」を共有しているというマンデリシタームの前提に立つとき、現在の立場から過去の諸事象に内的連関を見ることは、いわば過去の側の要請が現在において結実することである。マンデリシタームによれば、人間と世界のあいだの親和性と同じことが、現在と過去の諸事象との関係にも当てはまるのである。

  この考え方に立つ場合、現存する様々な言語表象こそ、人間の過去の総体ということになる。だからこそマンデリシタームは「ロシア語は、それ自体すでに歴史的」だと主張するのである。とりわけロシア語が「ヘレニズム的言語」であることの、マンデリシタームなりの根拠についてはすでに指摘した。

ベルクソン哲学との異同

  ベルクソンが一九〇七年に発表した主著『創造的進化』は、早くも二年後にはロシア語訳が刊行された。それ以降、一〇年代を通して、この「生の哲学者」のロシアにおける影響は絶大だった

  それはロシアでも「生zhizn’」をこそ基底的な実体と見なす思想が隆盛していたからである。ちょうどこの時期に文学的自己を形成したマンデリシタームが、ベルクソンの影響を受けていたことは、これまで多くの研究者が指摘してきたところであり、それは「言葉の本性について」の記述からも明らかである。

  たしかに芸術家の美的直観に特権的な意義を認めている『創造的進化』中の次のような一節は、マンデリシタームの「ヘレニズム」を彷彿とさせるものだ。

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生の意図、すなわちそれら[諸事象]の線を突っ切り、それらを結び合わせそれらに意味を与えている単一な運動は、私たちの目から洩れる。この意図を摑みなおすのが芸術家の狙いである。芸術家は一種の共感によって対象の内部に自分を戻し、自分と対象とのあいだに空間がつくった障壁を直観のはたらきで崩して低めながら目的をはたす。

  主客の親縁性を想定し、受肉という神学的イメージに擬えつつ、主体による客体の本質的な把握の結実を語る「言葉の本性について」の詩学と、ベルクソンの発想とは、あきらかに相似している。だがマンデリシタームの詩学と『創造的進化』とのあいだには、きわめて大きな相違もある。それは、まとめると、次の三点である。

  (一)ベルクソンは『創造的進化』第四章において、映画やゼノンの法則を例に挙げ、直観や運動の連続性を空間的な表象に還元することの不可能性を語っている。一方、マンデリシタームは、ほかならぬベルクソンの直観を「時間的な順次性の法則に従属する仕方に従ってみるのではなく、いわばそれらの空間的な拡がり[延長]の仕方に従ってみている」というふうに、空間的なイメージで語っている。すでに一度言及した論考「言葉と文化」にも、「詩―それは、時間の地層の深部、その黒土が地表に現れるよう、時間を掘り起こす鍬である」との一節がある。いずれも詩的比喩と言えばそれまでかもしれないが、直観や運動を空間的に語ることに、マンデリシタームがあまり抵抗を感じていなかったことは確かである。

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  (二)ベルクソンは知性と直観を峻別し、知性は理解したものを言語化・概念化できるが、それは静態的であって生そのものではない。一方、直観とは生の持続そのものの直接的な体験だが、これを静態的である言語や概念で表象することは不可能だと考えていた。このような考えが顕著に表れているのが、『創造的進化』第四章「プラトンとアリストテレス」の項での、古代ギリシャ哲学における「イデア」の否定である。一方、マンデリシタームが世界の内的連関の把握=直観を言語化しうる、というよりもほとんど言語それ自体が生であり、持続であるように語っていることは、これまでに見てきたとおりである。

  (三)したがって直観と表象の差違は、マンデリシタームには認められない。ベルクソンにとっては、生の持続は直観によって体験されはするものの、直裁に表象することは困難な次元である。これに対してマンデリシタームは、すでに指摘したように、直観と表象の差違を想定せず、対象を言語化すること自体を持続の直観であり、さらに言えば、生それ自体と考えていたのである。

  これらの相違がマンデリシタームの単なる読み違えの結果なのか、意識的な読み換えなのかを、ここで検討する必要はないだろう。マンデリシタームが、ベルクソンの哲学を通過しつつも、自身の世界観を確立していることを確認できれば十分である。ただし、今見たようなマンデリシタームによるベルクソンのいわば誤読が、当時のロシアの思想に広く見られた傾向と合致していたことは指摘しておきたいと思う。

静態的・空間的な生の哲学

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  私たちはその典型例を、一九一〇年代初頭のロシアにおいてベルクソンの精力的な紹介者であると同時に批判者でもあった哲学者ニコライ・ロスキー(一八七〇―一九六五)の一三年の論考「ベルクソンの解釈学の欠陥と彼の形而上学に対するその影響」に見ることができる。この論考でロスキーは概してベルクソンの哲学を高く評価しながらも、主に「彼が世界に見ているのが、ただ変化の流れだけである」ことと、知性と直観を二項対立的に理解し、概念を取り扱う知性は世界の実体に至ることができないと考えていることとの二点を批判している。

  ロスキーによれば、世界は、ただ盲目的に時間の内を流れ過ぎる過程ではない。諸々のできごとが起きるこの世界は、プラトン的な意味でのイデアに立脚している。永遠であるという意味で静態的であり、時間を超越している諸々のイデアは、体系性と秩序性をア・プリオリに備えているのであり、それが時間軸に沿って展開しているのがこの世界であるという。

  したがって、ベルクソンが知性と直観を峻別したことは、誤謬であるとロスキーは言う。イデアが概念であり、ロゴスである以上、その把握は知性によって行われるものだからだ。知性は直観と断絶しているのではなく、その様相の一つであり、プラント的な意味でのイデア―時間的世界の根底に横たわる超時間的な原理を把握する能力なのである

  この論考でロスキーは、ベルクソンの批判を通して自分の世界認識を開陳しているのだが、本稿はきわめて思弁的・形而上学的な彼の哲学を論じる場ではない。ただし、マンデリシタームと比較するなら、ベルクソンにおける時間と持続の絶対的優位に対して、ともに実体を空間的・静態的に語っている点(ロスキーのイデア、マンデリシタームの時間=地層のイメージ等)に、両者の類似を見ることがで

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きるだろう。またベルクソンのように知性と直観を峻別せず、実体を言語や概念で表象できるとする点でも、両者は一致している。

  違いと言えば、ロスキーがプラトン的な静態的イデアを実体として想定し、その表象をいわば、すでに在る本源への回帰の道程として語っているのに対して、マンデリシタームが「ヘレニズム」、すなわち人間による事象の「温め」=認識と表象の帰結として、言葉という実体が生成する過程を動的に捉えようとしていた点だろうか。だがそれは事象間の内的な連関の言語化というひとつの事を、詩人が人間に寄り添った立場から、哲学者が俯瞰的な立場からそれぞれ語っているという、言ってみれば拠って立つ視座の違いという以上ではない。

  マンデリシタームがロスキーの直接的な影響を受けていたかどうかは、私には確定できていない。だが、たとえ直接の影響関係が認められないとしても、ここまで見てきたようなマンデリシタームの詩学は、あきらかにベルクソン的な生の哲学を受容しつつ、その動性を空間的に読み直していった一九一〇年代ロシアの大きな思想潮流に棹さしていたのである。

三.『アルメニア紀行』読解「ヘレニズム」の実践としての『アルメニア紀行』

  ここまで一九二二年の論考「言葉の本性について」に関してやや詳しく書いてきたが、それは二〇年代後半のマンデシタームのアルメニア憧憬が、この論考に表れていたような、文学観、認識論、言語

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観、文明史観等々が渾然一体となった彼の世界観に基づいていたからである。   「言葉の本性について」とアルメニア憧憬の結実である『アルメニア紀行』との強いつながりの証拠は、そのテクストの内外に見いだされる。前節冒頭で引用したナデージダ夫人の回想はもちろんだが、その他にも、たとえばマンデリシタームが『アルメニア紀行』の草稿を作家のシャギニャンに送った際に添付した一九三三年四月五日付けの手紙を挙げることができる。とりわけ次の一節は、長年のアルメニア憧憬をついに言語化しえたという詩人の高揚を伝えるとともに、その自負の言が「言葉の本性について」でのロシア語のイメージと著しく合致している点でも興味深いものである。

この作品―この草稿は、生きている人間のように動き、息づいています。生ある者が生ある者に対するように答えかけ、格闘しています。[…]

  物質的世界―現実―は所与の何かではなく、私たちと共に生成してくるのです。所与が現実となるためには、言葉の文字通りの意味で、これを甦らせなければなりません。それこそが学問であり、それこそが芸術なのです。

  この一節を「言葉の本性について」の言葉遣いを用いて言い換えるなら、マンデリシタームは自分が所与の事象を言葉によって「暖め」、「人間化」して、草稿という「響き、語る肉体」を創りだしたと書いているのである。テクストが「物質的世界―現実」であるというのは、西欧近代の知の延長線上にあるだろう私たちにはなじみにくい考え方だが、マンデリシタームが言葉こそ実体であるという立場だっ

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たことは、前節で見たとおりである。   『アルメニア紀行』のテクスト自体にも、「言葉の本性について」との呼応は、明らかに認められる。たとえば第三章「モスクワ河岸地区」の次の一節がそうである。

  植物とは、テルミンボックスの棒によって抽き出され、波動の過程に満ちた領域で鳴っている音である。植物―それは宇宙で永遠に荒れ狂っている嵐の使者であり、石にも稲光にも同じほど似ているのだ。この世界で植物とは事件、出来事、矢であって、断じてあごひげの生えている退屈な発達などではないのである。

  この表現に『創造的進化』との照応を見いだすことは、それほど困難ではない。ベルクソンは、世界の全事象の根源を「生」の運動に求め、その運動の一部が時々に固定化したものが多様な物質であると考えていた。したがって、それらは皆、根源的な「生」のさまざまな表れであり、等しく「生」の動性を潜在させている。

むしろ、さる瞬間に、空間内のしかじかの点で、はっきりとそれとわかるひとつの流れが源を発した。そしてこの生命の流れが、物体をつぎつぎに有機組織化しつつそれを通りぬけ、世代から世代へとうつり、力を少しでも失うどころかすすむにつれてかえって強まりながら、種に分れ個体にちらばってきた、とでもいおうか。[…]進化は幾百万もの個体を仲立ちにして末広がりの諸線上におこなわれ、

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しかもそれらの線がおのおのまた分岐点にぶつかってはそこから新しい道が放射される、というようにして果しなくすすんできた。もし私の仮説に根拠があり、このようなさまざまな道に沿ってはたらく本質的な諸原因が心理的性質のものであるならば、それらの原因は結果が多岐に分れても、ちょうど昔わかれた仲間がおなじ幼児の思い出を懐いているようなもので、何か共通なものを保っているはずである。それにもかかわらず各部分を運動しつづけさせているものは、依然として全体にわたる元のはずみなのである。こう見てくると、部分には全体のなかの何かが存続しているはずである。

  マンデリシタームの一節は、このようなベルクソンの「生」のイメージの変奏である。個々の表現について言えば、「植物は事件、出来事、矢である」は「エラン・ヴィタル」(生のはずみ)を、「波動の過程に満ちた領域」や「宇宙で永遠に荒れ狂っている嵐」は、「生」の運動を示唆している。そして世界の各事象が「生」という単一の運動の「使者」=表れである以上、「植物」も「音」も「石」も「稲光」も本質的には同源であり、親縁的だということになる。

  マンデリシタームの思考において、文学観や言語観や認識論、文明観等が渾然一体となっていることはすでに指摘したが、私たちが日常的に別々の領域に区分しているさまざまな事象―たとえば無機物と有機物、石と言葉等々―がほとんど同一視されたり、結び付けられたりする場合が多いのも、この詩人の特徴である。これは単に表現上のレトリックというに留まらず、すべての基底に一元的に「生の運動」を見いだそうとするマンデリシタームの思考に根ざしているのであり、その例は『アルメニア紀行』や、詩人が『紀行』に期した意図がより率直に記されている草稿にも、しばしば認められる。たと

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えば草稿には次のような一文がある。   もしも音に覆われている状態(zvukoodetost’)、石の血統性(kamennokrovnost’)、そして堅固な石性(tverdokamennost’)を正当で日常的に本質的なものとして受け入れることができるようになるなら、私がアルメニアに滞在したのも無駄ではなかったというものだ。

  「音」「石」「血」といった、日常的にはそれぞれ別の範疇に入れて考えられることの多い事象を結合して把握することを「正当」かつ「本質的」と見なし、そのような志向とアルメニア滞在とを直結して考えているこの引用ひとつ取ってみても、「言葉の本性について」および背後にあるベルクソン哲学と、『アルメニア紀行』との強い結びつきは明らかだろう。

  第一節で述べたように、『アルメニア紀行』では、アルメニアについての記述と並んで、生物学(ラマルクの進化論、一八世紀の博物学者たち)や言葉の問題(マルとヤフェト学派)、視覚の変容(フランス印象主義絵画)等についても、言及がくり返されている。もちろんこれらの問題系は大きくはアルメニアという主題と結びついているのだが、諸系列間の連関は、すでに引用したマンデリシターム自身の言い方を用いるなら、「時間的な順次性の法則に従属する」のではなく、「内的な結びつき」に基づいている。したがって、以下に『アルメニア紀行』を論ずるに当たっては、語りの順序に沿うのではなく、主題系列ごとに考察を行うことにする。また同じ諸主題について同時期に書かれた他のテクスト

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も、必要に応じて参照する。

ラマルクの進化の「遡行」

  『アルメニア紀行』第六章に当たる「博物学者をめぐって」では、すでに述べたように、リンネ、ビュフォン、パラス、ラマルク、そしてダーウィンといった十八―十九世紀の博物学者や進化論の提唱者について語られている。この章はいったいどのような意図で挿入されているのだろうか。

  詩的な示唆に満ちたこの章の意図は、『アルメニア紀行』発表の前年、一九三二年四月一九日に『共産主義教育』紙に掲載された同名のエッセイの方に、より明瞭にあらわれている。

  作家―博物学者は自分の文体を選択するのでも、文体をでき上がったものとして受け取るのでもない。あらゆる学問的方法は、学問的素材の特定の組織化を前提としている。文体は世界観と学者の諸課題に奉仕するのである。自然科学において、このような学問的、文学的な問題は明瞭に見て取れる。すべての危機的な世紀に、自然科学は世界観をめぐる闘争だった。

  「言葉の本性について」などの論考と対照するなら、マンデリシタームはエッセイ冒頭のこの一節で、自分の世界観に合致した文体を素材の組織化を通じて獲得するという博物学者の営為に、近代西欧文化にもなお残されていた「ヘレニズム」―詩人の定義によれば「非常にかすかな、目的論的な(teleologicheskii)温もりによって世界を暖めること」―を見ようとしていたと言うことができる。

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  マンデリシタームによれば、自然科学において、このような「ヘレニズム」=目的論的な志向を完全に放棄した最初の著作こそ、ダーウィンの『種の起源』だった。

ダーウィンの著作に顕著な散文性は、深く歴史によって準備されていたのである。ダーウィンは自然科学から、さまざまな雄弁術と修辞学、そしてあらゆる種類の目的論的なパトス(teleologicheskii pafos)を追放した。彼は散文的であるための勇気を持っていた。じつに多くの語るべきことを持ちながらも、自分の感謝の念についても歓喜の情についても、誰にも何ら負うところはないと感じていたからである。

  エッセイでは、このようなダーウィンが新時代の旗手として肯定されている。だが「言葉の本性について」でマンデリシタームが目的論的な志向をこそ高く評価していたことを考慮するなら、これは『共産主義教育』紙という発表媒体に配慮した結果と見て良いだろう。実際、『アルメニア紀行』中の同名の章では、リンネやラマルク、とりわけ後者に深い共感が寄せられ、ダーウィンは名指しこそされないものの、事実上糾弾されている。

  ラマルクは生きた自然(zhivaia priroda)の名誉のために、剣を手にして戦った。彼が一九世紀の科学的野蛮人ほどにたやすく進化と和解していたとお考えだろうか?  思うに、自然のための羞恥の感情が、ラマルクの浅黒い頬に火をつけたのだ。彼は種の変異などと呼ばれる、くだらない営為を

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自然に許そうとはしなかった。

  このように詩人はダーウィンの非目的論的進化論(突然変異説と自然淘汰説)とラマルクの進化論を対称的に語ったうえで、後者を讃え、自分自身もラマルクのようでありたいと述べている。

  ラマルクと共に生物の階段を逆に下降していく動きには、ダンテの偉大さがある。有機的存在の最も低次の形態は、人間にとっての地獄である。[…]そして私は突然、この化け物の描かれた目で自然を眺めたいという荒々しい願望に、自分がとらわれていることに気づいた。

  この記述でマンデリシタームは、ラマルクの著作『動物哲学』(一八〇九)第六章「動物鎖列に於て、一端から他端に、最も複雑なものから最も単純なものの方に進むにつれて見られる体制上の遞降及び単純化」を踏まえている。題名のとおり、この章は脊椎動物(哺乳類→鳥類→爬虫類)の記述から始まり、「脊柱の消失」という題の節を経て、無脊椎動物の記述へと至っている。その記述もまた軟体類から始まって、しだいに単純なしくみの類へと考察を進め、「最も完全な動物に本質的な若干器官の消滅」、「神経系統の消失」、「生殖器官の消失」、「視官の消失」への言及を経て、最後には当時もっとも原始的な動物と見なされていた滴虫類に及んでいる。ラマルクはこの章で、いわば進化の道筋を逆にたどり、進化の源点へと遡行しているのである。

  マンデリシタームは『アルメニア紀行』「博物学者をめぐって」の章で、自分もラマルクのひそみに

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倣いたいとの希望をにじませているが、同時にそれがけっして容易ではないことも強調している。だからこそ、先の引用で、ラマルクの下降には「ダンテの偉大さ」があると述べているのである。その他にも、「ラマルクは種の間の深淵を感じている。彼は進化の系列の休止符と切分法を耳にしている。拡大鏡をのぞきこんでいるとき、ラマルクは目を泣き腫らしていた。自然科学において彼は唯一、シェークスピア的な人物である」との一節もある。ラマルクによる進化の過程の遡行は、『アルメニア紀行』では悲劇的な営為として描き出されている。

  このような悲劇性は、一九三二年五月七―九日、すなわち『共産主義教育』紙に論考「博物学者をめぐって」が掲載されてから数週間後、おそらく詩人が翌年の『アルメニア紀行』発表のために原稿の準備を進めていた時期に書かれた詩『ラマルク』で、さらに強調されている。この詩では進化の過程を遡行するのは「ぼく」である(「ラマルクの動く階梯の上/ぼくは最終段にいるのだ」)。「最終段」すなわち人間の立場から、「ぼく」は進化の源へと下降していく。その途中に「視覚はない  おまえは最後に見ているのだ」「音のしらべはもうたくさんだ[…]蜘蛛の沈黙がおとずれ/ここにはぼくらの力よりおそろしい破滅」などと「彼は言った」との詩句がくり返し挿入されているが、これは既に言及した『動物哲学』第六章の記載を下敷きにしている(「彼」とはラマルクのことを指している)。

  この詩は、「まるでぼくらを必要としていないかのよう」に「自然がぼくらから遠ざかってしまった」世界、「緑の墓  赤い呼吸/しなやかな笑いを持つもののため」の世界、すなわち「有機的存在の最も低次」の領域に「ぼく」が取り残されたことを示して終わっている。進化過程を遡行する営為の悲劇性が強調されていると言うゆえんである

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  このような遡行が行われなければならない理由について、後述する他の主題系と同様、『アルメニア紀行』のテクスト中には説明がない。だが、「創造的進化」を逆にたどるこの営為が、ベルクソンのいう生の運動それ自体へと没入する過程、すなわち直観に相当することを思えば、本源への遡行はマンデリシタームにとって、証明を必要としない公理のようなものであったとも考えられよう。

  ところですでに指摘したように、マンデリシタームの場合、ベルクソンとは異なり、生を直観することと表象することとのあいだに厳密な区別は設けられていない。彼の確信によれば、生の本源への遡行がいかに偉大で悲劇的な行為であろうとも、その経験(直観)は必ずや言語化される。

  確かに『ラマルク』の詩テクストには、このような言語化の過程は描かれていない。だがマンデリシタームにしてみれば、ラマルクの言説や自分のつむぐ言葉それ自体が生の言表=実体なのである。実際、ラマルクについていうなら、『動物哲学』第八章「動物の自然序次に就て、並びにその全般配類を自然の序次そのものに一致させるために動物に与うべき配位に就て」では、第六章とは正反対に、無脊椎動物から脊椎動物へ、「滴虫類」から「人類」に至る進化過程に沿って記述がなされている。第六章が「生物の階段を下降していく動き」であったとすれば、第八章は同じ階段を上昇してくる動きなのだ。『アルメニア紀行』でマンデリシタームはラマルクを高く評価し、彼に共感を寄せているが、それは一世紀以上前に『動物哲学』を著したこのフランスの博物学者に、生の運動を直観=表象するという自分の理想の先達を見いだしていたためと思われる。

  ラマルクの進化論へのこのような言及には、詩人がアルメニア滞在の前後に新ラマルク学派の生物学者ボリス・クージン(一九〇三―七三)と親しく交友していたことが反映している。またベルクソン

(34)

『創造的進化』において、ラマルクと新ラマルク学派が、ダーウィンなど他の進化論の学説に比して、相対的に高く評価されていたことも影響を及ぼしている。

アルメニア語とマルの影

  アルメニアを憧憬していたマンデリシタームは、当然アルメニア語を学習しているのだが、『アルメニア紀行』やその他のテクストには、その過程で詩人が抱いた印象や感想に関する記述が散見される。

お前の不気味な言語が/お前の若き柩が私にはなんと愛しいことか。/そこでは文字は鍛冶屋のやっとこ、/言葉のひとつひとつが鎹…

アララトの谷の棘のある言葉―/野生の猫―アルメニアの発話―/藁混じりの粘土の街々の肉食の言語―/飢えたる煉瓦たちの言…

  コーカサス滞在中に書かれたこれらの詩の表現は、アルメニア語を一種原始的なイメージで描き出している。もっとも原始性がマンデリシタームにとって、少なくとも主観的には軽侮あるいは蔑視すべきものでなかったことは、『アルメニア紀行』中の次のような一節からも明らかだろう。

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ロシア人の唇には禁じられている響きを発声することの喜びを私は経験した。それは神秘的だが無頼であり、おそらくある深みにおいては破廉恥でさえあるような響きである。

  たしかにアルメニア語を表現するに当たって、マンデリシタームは「不気味」「野生」「神秘的」「無頼」「破廉恥」等の両義的な形容を重ねているが、むしろそれゆえにこそ、この言語は詩人にとって「愛しい」ものであり、「喜び」を感じさせるものなのである。

  そうしたなかで注目すべきは、アルメニア語をめぐる記述の中に、しばしば言語学者のニコライ・マルやヤフェト学派への言及が見られることだ。

  頭(golova)はアルメニア語で《kh》の後に短い気音を伴い、《l》を軟らかく発音してglukh’eという。ロシア語と同根だ……ヤフェット学派的新発見?どうぞ、どうぞ。

  世界諸言語の単一起源説を主張して、一時期はソ連言語学の主流とされたヤフェト学派は、今日ではその学術性を全面的に否定されているが、この学派の始祖とされるマルは本来、コーカサス諸言語の優れた研究者だった。『アルメニア紀行』中には「私はときおり夜中に目が覚め、マルの文法書で変化をくりかえし口に出してみた」という記述があり、どうやらマンデリシタームはマルが作成した教科書でアルメニア語を勉強していたらしい。『紀行』中のヤフェト学派に関する言及は、「マルのヤフェトという虚構に耳を傾けることなく敵意」を抱いている印欧学派の教授が登場したり、チフリス出身の大

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学院生からヤフェト学派の説明を受けているうちに詩人が退屈を感じたりするなど、必ずしも肯定的とばかりは言えないけれども、言及の頻度の高さはやはり注目に値する。

  実際、マルの言語観・文明史観と、先に考察したようなマンデリシタームの詩的文明観との間には、著しい一致が認められる。ここではマルが一九二〇年六月九日に行った報告に基づく論考「ヤフェト的コーカサスと地中海文化の創造における第三人種的要素」と、前節で考察したマンデリシタームの詩学とを比較してみよう。

  両者の第一の類似点は、その文明史観である。マルは一九一〇年代に、実証的な言語学者だった従来から一転して、世界の諸言語の単一起源説とそれに基づく壮大な文明史観を主張し始めたのだが、「ヤフェト的コーカサスと地中海文化の創造における第三人種的要素」には学風を一変した後の彼の主張が明瞭に表れている。この中でマルは、世界諸言語の起源であるヤフェト諸語は地中海文明圏の言葉だったが、この文明圏は印欧語族の侵入によって崩壊し、分断されたとの説を提唱している(分断された東端がコーカサスである)。それぞれマルが無文字時代を、マンデリシタームが「ヘレニズム」を念頭に置いているという違いはあるが、地中海圏を世界の言語や文明の基点と考えている点で両者は一致している。

  第二の類似点は言語観である。マルの論考には、たとえば「西洋の文化に対するヤフェト語族の貢献について言うならば、物質それ自体ではなく、物質に関する知識、その最初の定義である術語と技術的な使用、すなわち行為こそが問題なのである」との一節がある。ものや事象それ自体ではなく、それらに対する人間の認識の結実である言葉にこそ実体性を認めている点で、マルの言語観はマンデリシタームの詩学に近いものである。

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  第三点は、ひとたび成立した言語が滅びることはなく、したがって現在の諸語は必ずや過去の言語の痕跡や余韻を内包しているという確信である。マルは論考中で次のように書いている。

[…]ヤフェト言語は、野蛮人だった印欧語族の襲来以前に存在していた文化を創造した諸民族の言語である。それらの言語は一見したところ根絶されたように見えるが、実際には非在の世界に去ったのではない。死滅したのではない。そうではなく、新しい民族形成、言語創生の過程で用いられて、その生活様式や自然な発話、すなわち新たに生じた民族の心理・精神の中へと退いたのである。ギリシャ以前、ローマ以前の地中海文明の創設者たちは、全ヨーロッパ世界文化の創設への参加を止めたわけではないのだ。ヤフェト言語学の調査によれば、ひとたび創設された何かが世界で滅びるということはない。交叉と異種交配は形を変えて今日まで維持されている。

  このような確信から、マルはいわゆる「四要素分析法」―すべての言語はヤフェト言語に起源を持つ四つの単音節構造の交叉によって生じたのであり、これらを祖型としているという、学術的には荒唐無稽な説へと踏み出していくのだが、私たちがここで重視すべきは言語学としての現実妥当性ではなく、マルの思想がどのような特徴を持っていたかということの方である。マルの言語理論が生物学のモデルに近いことは多くの研究者によって指摘されてきたが、「ひとたび創設された何かが世界で滅びるということはない」という確信、言語や種は形を変えつつも必ずや保たれ続けるという確信は、突然変異と自然選択による種の交代を想定していたダーウィンの進化論よりも、生の運動がその時々に形をなして

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いくというベルクソンの「創造的進化」の方に近い。   マルによれば、現在の諸言語はヤフェト諸語を基点として交叉によって変遷を重ねてきたものだが、しかし「前歴史段階の土壌から切り離されることはなく」、「生きた会話が人間化したばかりの正にその時点での言語の状態とのつながりを保っている」。したがって、現在の言語からひと続きの過程を逆向きに進み、言語と文化の基点たるヤフェト諸語まで遡行することは可能であるということになる―ちょうどラマルクによる進化の階梯の下降と同じように。

  実際、マルの論考には、言語がヤフェト語を最下段とする地層の集積であるかのような表現がしばしば現れており、ヤフェト語の習得もまた、あたかも幾重にも積み重なった時代の層を掘り下げていくイメージで語られている。

  その結果、ヤフェト語族とともに地中海文化層まで沈潜できる。[…]物質的に言って私たちはヤフェト諸語とともに青銅器時代と銅の時代にまで下降できる、地中海圏地域では、さらに新石器時代まで下降できる。

  マンデリシタームの「言葉の本性について」とマルの論考とを比較してみると、世界文化の基底として地中海圏を想定し、コーカサスをその一端と見ていること、言語を地層のような集積と捉え、その中に歴史の一切が内包されていると考えていることなど、両者はよく類似している。違いといえば、マルがヤフェト諸語の側からの記述に徹し、それらの交叉による人間言語の無限の生成を語ったのに対し、

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