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−古代中国と儒学に関する一思考

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儒教中国の自画像(2)

−古代中国と儒学に関する一思考

銭   国 紅

前書き

 本文は「儒教中国の自画像(1)」の続編で、古代中国社会と儒学との関係を述べるもので ある。

 近頃、中国内外の学界では、儒教と中国社会との関わりに関する学問的な関心が急速に 高まっている。かつてウェーバーは新教倫理とヨーロッパの資本主義の精神との関わりを 述べた代りに、儒教はそのような新教倫理としての役割を果たしていないことを指摘した。

但しウェーバーの学説はその後出てきた儒教に関するさまざまな考え方との間は、表面的 に繋がっているように見えても、深いところでは異なった側面をも十分備えてきていると いうことを指摘しておきたいと思う。たとえばウェーバーの論説は資本主義が中国で成立 しなかった理由を儒教倫理が新教倫理のように機能しなかったことに起因することを求め ているのに対して、アメリカ在住の余英時氏を代表とする研究では、中国にも儒教倫理が ある歴史の一時期に部分的に商業活動のために機能したということを強調した。前編でも 述べたようにこれはウェーバーの立論を覆すものではなく、ウェーバーの見落とした儒教 倫理と中国社会との特殊関係の議論について一定の補充を与えたといえる。

 また海外中国人の中で盛んになってきた新儒家の議論や大陸中国の儒家ブームは、上述 のウェーバーや余氏の問題意識とは、さらに趣旨を異なりにしている。新儒家の方では、

儒教文化の21世紀の世界に対する特別な寄与の可能性への模索を狙うものとして議論が 展開されている。大陸中国の儒教ブームは、儒教倫理の社会主義イデオロギーへの補充の 可能性を模索するものである。いうならば新儒家の思考は余氏の学説に一定のつながりを 持っているが、大陸中国の儒教ブームは、上述の諸学説とは違って、一風変わった政治的 な動機を持つ特殊なものになっているのである。新儒家の流れは、西洋か東洋かという枠 を超えて、儒教思想の普遍意義に着目し、地球規模の文明価値の再構築に寄与する意気込 みを見せているのに対して、大陸の儒教ブームの主要な狙いは、儒教の中国社会における 現代的な機能を如何に引き出すかに置いているようにみえる。しかしその両者には西洋文 明に対する中国の伝統文化の有効性の再認識を主張し、西洋出自の文明観への再思考を促 すことで一致するところもある。

 そもそもウェーバーと余氏は、最初から儒教文化の中国社会での役割をもって新教倫理

の西欧での働きと同次元な問題として議論を展開したこと自体には、儒教と新教倫理の両

方の社会における異なった存在の仕方を正確に捉え切れない危険性を冒してしまう恐れが

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ある。簡単にいえば、宗教文化の社会的機能は、中国と西欧において本来まったく違う側 面を持っているかもしれない。儒教に限定して言えば、中国の歴史の流れのなかで、儒教 は政治的に道具化されたり、官製イデオロギーにされたりすることが多いのは周知の通り だが、そのような道具化され、官製イデオロギーされた儒教だけが、隅々まであらゆる階 層の人々のイデオロギーになるとは限らない。儒教は多くの場合官製儒教と民間儒教とい う二つのものに変身しているし、民間儒教は一部の在野の知識人、普通の民衆の生活への 影響に大きく関わるが、官製儒教は朝廷支配者、支配層知識人のあり方に、影響を与える。

こうした儒教の持ち方の断層こそが、結局儒教の中国社会における役割は新教のように単 純化できず、多重化、複雑化の様相を見せた原因になっているのではないかと思われる。

つまりときには権力の下僕として振舞い、ときには民衆や商人たちの合理的な意識の形成 に寄与する二重性を見せていること自体は、儒教と中国社会との間にある特別な関係性の 存在を側面から示すものではないかと思われる。

 学問的に、こうした中国社会における儒教の真のあり方への再確認は、また始めたばか りである。異なった二つの儒教の中国社会への異なった影響の実際への正確な把握は、中 国における宗教と社会との特殊な結び方、儒教の中国社会での機能への洞察、儒教と現代 中国との関係という謎解きを可能にするために必要不可欠な作業である。そのような問題 意識にしたがって、秦の始皇帝以降より清末に至るまでの中国社会と儒教との関わり方の 実際を追跡し、巨視的に再解釈を試みることにする。

1 政治と儒学

 儒者から祭天権を奪う秦の始皇帝

 紀元前221年、秦国が斉国を滅して長い間戦乱が続く中国を統一した。秦朝の成立は春 秋戦国以来諸侯混戦の局面を終わらせ、中国歴史上始めての統一した中央集権の封建王朝 を作った。混乱した政治を安定させ、文字、貨幣、度量の統一が可能になり、人々のエネル ギーを経済や文化の建設に向かわせることが可能になった。しかし支配形態を王から帝に 生まれ変わるために、秦のえい政が権力の正当化を天に求めなければならない。その具体 的行動は即ち秦の始皇帝の「泰山封禅」である。

 秦の始皇帝二十八年(前219)、始皇帝が泰山で封禅をし、刻石紀功をした。封禅とは古 代の支配者が天地を祭るための儀式である。いわゆる封とは土を築き、壇を立て、天を祭 ることである。古代では、五岳の中で、東岳泰山が最も高く、しかも東方は万物の始発と陰 陽の交替の地だと考えられている。したがって人間の帝王はその所に行って上帝を祭って 天の命を受けることを天下に示さなければならない。いわゆる禅は地を祭ることを指す。

封と禅は同時進行だが、普通封は禅より規模が大きい。伝説によると上古時代からもうす

でに封禅の言い方がある。夏、商、周の三つの王朝には、泰山に来て封禅大典を行った君主

は72人に至り、但し秦の始皇帝から初めて文字の記録が残る。

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 封禅は政治的目的を持った宗教的祭祀活動である。話によると秦の始皇帝が長い間途絶 えた封禅大典を回復するにあたり、最初は儀式の進行について、儒者に聞こうとしたが、

統一した言い方を聞くことができないために、儒者を退け、自分の考えに従って、儀式の 進行を司らせたそうだ。この話は、秦の始皇帝と儒者との間に亀裂が生まれていることの 現われであって、後ほど秦の始皇帝の儒学や儒学者に対する否定的態度にも繋がるもので ある。

 秦の始皇帝三十四年(前213)、秦の始皇帝が李斯の建議を聞き入れて、私学を禁止し、 『秦 記』以外の史書と諸子百家の著作及び『詩』 『書』を焚焼する。後に始皇帝は方士盧生、侯生 が皇帝を誹謗し、妖言で衆を惑わすことを理由に、儒生460人余りを生き埋めにした。この 二つのことは、中国文明史の中の重大な出来事であって秦の始皇帝の儒者に対する残虐な 弾圧史として記されている。

 ことの始まりは、秦の始皇帝が盛大な宴会に招待された儒学者博士が秦朝の取っている 郡県制を批判し、西周以来の分封制を回復しようと呼びかけたことである。古を師とする か、今を師とするか、政治の正当性を何処におくかという問題の前で、秦の始皇帝は現実 追認の路線を取ったのである。前例のない始めての皇帝は、儒学者の考える古の伝統を大 事にするやり方には馴染むことができなかった。始皇帝の権力は武力から出ているもので、

この武力を使って得た天下統一の正当性は、前代や古の政治伝統からは得ることができな い。このことは儒学者の政治理念と徹底的な衝突を生ずることになる。天との繋がりを聖 人によって体現しようとし、王に代わって天との会話をしようとする儒学者たちの訴える 三代の治と古のよき政治伝統は、まさに始皇帝の政治生命を絶つことにつながるもので、

秦の始皇帝にとっては、儒学者は共存し許容することのできない存在である。

 天の威力を取り戻す董仲舒と儒学の転向

 漢高祖十一年(前196)五月、陸賈が『新語』という本を著し、儒家の理想政治を仁義に 据えながら、黄老の「無為の治」を唱え添える。 『新語』は秦の滅亡と漢の興隆を歴史的に 眺めて、中から教訓を見出すために書いたものであるが、内容は仁義の説を唱えることが 中心で、 『論語』と『孝経』の義を明らかにし、王道を奨励し覇道を批判して、儒教と道教の 結合を理想とする政治思想の書物である。

 陸賈の政治理想は漢初社会政治の現実を表したもので、仁義道徳と無為の政治は、戦乱 が終息した漢朝の人々の求めに答えたものであった。これは後に漢武帝の「独尊儒術」を 国是とする政治への転換にきっかけを与えたことになる。  

 漢景帝後三年(141年)正月、景帝劉啓亡くなり、皇太子劉徹が皇位を継承し、翌年(前 140)、武帝が年号を「建元元年」と定める。中国歴史における年号使用の始まりである。古 代の帝王には年号がなかった。皇帝年号という紀年の名称は辛亥革命まで使われ続けた。

 漢武帝建元元年(前140)十月、武帝が各地に道徳的に優れ、正直に政治の諮問に答える

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有識者を推薦せよと天下に号令をかけて、人材の確保に動き出した。董仲舒はこの呼びか けに応じて、三回ほど上書を提出し、 「天人三策」を武帝に献じた。武帝は上書の観点や政 治策に興味を示したので、儒学者としての董仲舒が漢王朝の権力中枢に影響力を発揮する 立場を獲得することになる。

 董仲舒、西漢の思想家である。歴史書の彼に対する記述が極めて簡単である。司馬遷が『史 記』において彼に対する叙述の文章は400字を超えていない

 董仲舒の一生は文景の治、漢武の世を経過し、この時期は西漢王朝の繁栄期に当たる。

政治の安定、経済の繁栄によって国力が空前に強まり、人々の生活が安定している。思想 文化の方では、漢初社会も開いている。孝恵帝が「挟書の律」を解除し、写書の官を置いた。

武帝の時は広く献書の道を開く。多くの秦の始皇帝の「焚書坑儒」によって隠された儒家 経典は、次から次へと世間に現れてくる。秦以来過酷な状況に追い込まれ、民間に疎開し た多くの儒学者も隠居地から出てくるようになる。民は太平の世に生き、士は学業に楽し むなか、学問を講ずるものは、再び、弟子などを集め、儒学の復興を図る。儒学の世界は著 しく拡大される。太平の世を謳歌する経典を教える教師たちは経世致用のために、政治支 配者の好みに合わせて経典を解説するので、学問の御用的傾向が格段に強まっていく。董 仲舒はこうした社会環境の中で学問世界に入ってきたのである。

 董仲舒に与えた学問的要請は百年以上も抑圧されてきた儒家文化を現実世界の表舞台に 復帰させ、新しい歴史状況に応じて伝統文化の融合を図り、新しい思想体系を作り上げる ことである。

 董仲舒は『春秋繁露』という著作を通じて、自らの考え方を形成していく。董仲舒の思想 を代表するものとして、彼の「天人感応」説を上げることができる。かれは天を最高の人格 神と考え、天が人間を作っただけでなく、万物をも作ったとしている。したがって、彼は天 には意志があり、人間と同じように「喜怒の気、悲しんたり楽しんだりする心を持ってい ると考える。人と天は相通じるものであり、天人相関である

。このような「天人合一」

思 想は儒家の子(思)孟(子)学派や陰陽家䛩衍の学説を継承し、発展させたのものである。

 董仲舒は、天が万物を生み出すのに目的があるといって天の意志を強調する。天の意志 は大一統を目指すもので、漢朝廷の皇帝が天の命を受けて天下を支配するものである。そ して各々の封国の王侯は皇帝の命を受け、大臣は国君の命を受ける。家族関係でも同じで ある。子は父の命を受け、妻は夫の命を受ける。あらゆる支配と被支配関係は皆天の意志 によるものである

。董仲舒の構築した「天人感応」説の目的は、明かに漢朝支配の世の中 のすべてを秩序化し、合理化するためのものである。

 董仲舒はさらに陰陽五行説を持って天の意志を説明する。陰陽の回転と四時との配合を

持って東西南北中の方位と金木水火土五行の関係を推論する。かれは土が中央に居ること

を突出させ、五行の主の地位を与える。五行は天道の表れである

と考え、このような陽尊

陰卑の理論を社会に適応して、そこから「三綱五常」の倫理観

を引き出す。ここで言う三

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綱とは「君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱」のことであり、 「五常」とは仁、義、礼、智、

信という五つの道徳意識と道徳規範のことである。 「三綱五常」が董仲舒の提唱を通じて歴 代王朝の支配の正当性をさらに固定化したのである。

 董仲舒の強調する「道」は天から出ている。天は代わらなければ、道は変わらない

。即 ち支配側に有利になる観念である「三綱五常」や「大一統」などは、 「道」である以上、永遠 に変わらないものである。

 しかし「道」が変わらないが、朝廷の更迭や皇位の交代がありえる

。支配者は天意を逆 らい、誤解するとき、天の罰を受けて、政権交代をすることになる。支配者の為政行為に問 題があるとき、まず天から自然災害を降りてきて、それをもって政治に対する警告を行う。

それでも改まらなければ、もっとすごい災害や地震が起こり、それに従って最終的に天の 罰として朝廷の更迭を実現する。

 こうして董仲舒にとっては人々の認識活動が天の命を受けるところから始まり、認識の 目的は天意を了解することにある。内省の道を通じてことの是非を判断することが可能に なり、 「天を知る」目的に達し、陰陽五行の観察を通じて天意、天道への理解を可能にする。

「心を尽くす」 「性を知る」 「天を知る」の行動を通じて、初めて人々は「天人合一」の境地に 達することができる。

 こういう発想に基づいて董仲舒が「天人三策」を作った。ここでは、かれは第三策におい て『公羊春秋』に照らしながら『春秋』のいう大一統というのは天地の常経で、古今の通誼 であると熱弁し、刑名を捨て、儒術を尊び、教化を明確にし、大いに太学を行ない、広く人 材を求めることを武帝に要請した。ここのいわゆる大一統とは、諸侯を抑え、天子に一統 させ、天下が皆天子に臣を称えることを指す。かれは続いて儒家学説を国の統治思想とし て取るように勧め、孔子のいわゆる六芸(六経)以外の学を学ぶものの出世の道を断ち、儒 学者と並ぶことがないように進言した。これは即ち百家を罷黜し、独り儒術を尊ぶことで あった。武帝に認めてもらったことで、儒学者が再び出世の道を歩む可能性を手に入れ、

天と人間社会の秩序との連帯関係を確認することによって、董仲舒の儒学は教説として現 実政治の場に蘇らせられ、権力の安定を図ることを要務とする御用的な体質と共に、政教 一致の官学としての役割を一層強めていく。

 さらに東漢中後期になると、孔子を国家祭祀の対象として社稷神と同格な神聖な存在に 擬して、国家の公的な神の一人として祭り上げられるようになった。孔子への祭祀は、最 初は、孔子の子孫や弟子に限定し小範囲にわたって行われた。したがって孔子の没後500 年の歳月が立っても、孔子への祭祀は孔子郷里から一歩とも出ていなかった。漢の劉邦は かつて曲阜に出かけ、孔子を祭ったことがあるが、それは唯の個人の敬愛心からでたもの で、国家祭典ではなかった。

 しかし西漢末年、儒者の梅福という人が厳しい政治危機に面した朝廷に、災難が絶えな

いというのは、孔子を祭らないからであると力説したために、孔子が殷人相応の祭祀の対

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象として取り入れられ、最終的に国家祭祀にとり込まれていくようになった。

 但しこのときの孔子祭りでも主に国立の学校のなかで行うものであった。北魏時代に なってから、朝廷が全国の郡県で孔子廟を建設することを命じ、これで孔子への祭祀は始 めて全国規模のものに普及する。これ以後孔子への祭祀規格がどんどん高くなる一方で、

祭祀の儀式もますます完備する。孔子は名実ともに儒教の教主として君臨することになっ たのがこの時以降のことである。

 天人関係から見た孔子一門と董仲舒の異同

 天人関係から見ると、孔子一門と董仲舒との間に大きなズレが存在する。孔子一門から 見ると、天はすべての人と向かい合っていて開放した存在である。誰でも努力すれば天の 声を聞くことが可能で、天の声を聞くか否かの決め手は、個々人の修養に掛かっている。 『論 語』に出ている孔子の言葉には、聖人、君子、士、小人という風に人をレベル別に分けられ ているのは、天の声からの距離を意味するもので、修養により変化可能な序列である。孟 子の「民を貴びとし、社稷がこれに次ぎ、君を軽きとする」という民本思想も孔子の天人観 を受け継ぐもので、天との間に王と民は同じ存在であって、王権を維持するために、民の 動静を見つめることが王の存在そのものよりも、大事になると、孟子が支配者の王に忠告 している。民の動静を観察し、天の声を聞くものとしてむしろ聖人のほうが最適な存在と して位置付けしている。民から聖人への近づきは要するに天の言説に近づくことであって、

孔子一門の儒家たちはこの役割を自分の使命として自覚しかつ獲得しようと奮闘しつづけ た。

 董仲舒の天人論は、大筋孔子一門の伝統を受け継いでいるが、天から天子へと、天の命 が降りるというところが、すれ違っている。要するに民だけではなく、聖人も天との関係 はここでは立たされていたことになる。しかし皮肉なことに、王が直接天の指令を聞くこ とによって、儒学者たちの仕事場をなくしてしまう危険性を孕んでいるので、董仲舒が王 の天との繋がりの説明権を獲得した変わりに、自らの天との関係性を失ってしまうことに なる。秦以降抑圧されて変身したい余り、儒者は儒学の真理を伝える役割という自負を捨 てて適者生存のために大きな賭けに出てしまい、王朝支配の便利な宗教倫理に改造される ことに甘んじて受ける格好になった。

 孔子を教主として祭祀するように王朝に働きかけたのは、董仲舒の天人論で被られた被

害への善後策に過ぎない。それでも孔子は中国人の信ずる諸々の神の一つであって、絶対

的な上帝ではない。上帝の声を聞く天子は、孔子という神を必要なように利用することが

できても、束縛されることがない。天子は天の声と共に孔子の声をも聞くことができるの

に対して、孔子教の信者たちや儒学の学者たちは孔子だけが頼りで、それで出来上がった

言説は天子の好き嫌いを仰ぎ、場合によって天子の裁決さえ受ける必要がある。歴代王政

の実際を見ると、天子の好きなままにしないと、儒者たちの言説が意味を為さらないこと

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がよくある。儒教は教主孔子を祭ることで、公な存在になったが、政治現実の場では自由 の利かないものとして歴代の政治権力から政治道具として扱われていく羽目に陥ってしま う。宗教化した儒教は、それ以降政教一致という王朝政治の構造を形作りながら、中国社 会や中国人の心理の構築においても大きな影響を及んでいく。

2 新儒学の生成と転換  人文主義の伝統

 漢代の儒学のイデオロギー化と神学化は、しばらくの間、社会や王朝政治の安定に寄与 したが、貴族門閥制度の流行と人材登用における選挙制度の有名無実化、讖緯思想の氾濫、

漢末以降の政治経済の腐敗、仏教と道教の急速の台頭によって、儒者の社会的存在感が架 空され、儒者の独尊的地位が揺るぎ始めるとともに、儒者たちは儒学と政治の関係や儒教 の理論への反省が生まれ、漢末の社会批判思潮が出てくる。批判の論調は主に漢代儒学の 神学的性質への再検討であって、先秦儒学の人文主義伝統に戻ろうとするものである。中 には天人関係をめぐって理性と神学との間に一線を引く人さああった。しかし儒学の相対 化は、儒者の地位の不安定にも繋がり、次の時代三国魏晋南北朝になると、多くの学者は 天下国家との関わりの場を失って、 「清談」を尊ぶ「玄学」に溺れていく。竹林七賢の生活 ぶりはその一例である。かれらは新しい生活態度を提唱し、自然を称え、名教を退ける。自 然の中から生きがいを見出し、自然の音を聞き、色を楽しむことを天地自然とのつながり とみなす。陶淵明の隠居は権力から距離を置き、自然との対話だけを生きがいにする純粋 な文学者の生き方の誕生を物語るものである。このような思惟指向は、道家の天地自然や 道、無の観念から仏教の空の観念までを纏めたもので、知識層の関心を、天下国家の政治 という狭い世界から個々人の人生や修養に転換させることに寄与し、自然をバックにした 理や性への接近を可能にした。

 隋唐時代になると、仏教や道教の挟み攻撃によって、瀕死状態に臨んでいる儒教学者は、

儒教再生の道を模索し、儒学の中に理や性と命との関係を再説明し、道を称えることによっ て、天子独断の「天」とのつながりを、性を極めることによって、 「理」に到達可能なものと して、修練や学問をするものの側に引き戻そうとした。天は天理に変えたことによて、す べての人が、接近可能になり、天下政治だけでなく、個人の修養にも役立つものになって いく。

 唐の中後期に起こった、韓愈、柳宗元などを中心とするいわゆる古文運動は、まさにそ のような流れを受け継ぐ儒学復興運動であった。古文運動は漢以降の文章の形式化、華麗 化を批判し、 「文を持って道を載せる」 「文をもって道を明らかにする」

ことを提唱する。

このいわゆる「道」は儒家の仁義を中心としたもので、仏教や道教の「道」に対抗するもの

である。儒家の視線を社会政治の現実に取り戻すところが、漢代の初期の儒学者の主張に

も一致するものがあるが、韓愈らの考える「道」は、天からのものよりも三代から孔子孟子

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まで、歴代の聖人が受け続けてきたとする「道統」より出てくるものであった。要するに「先 王の道」である。韓愈は天の懲罰を否定することがないが、しかし人の天への態度によっ て、その懲罰を変えることができると信じ、こうして天の自然秩序的な意味合いを強調す ることによって、道の出自を先王の作為に求める方向を強める。柳宗元がさらに進んで、 「人 の道」を尽くすことを強調し、 「天人相分」論を提起し、天の道と人の道を相対化する思惟 を持つ

。似たような論調には、劉禹錫のように、 「天与人交相㜌耳」 (「天と人は交互して 相勝つものなり」)、 「天非࣑㜌乎人者也」 (「天は務めて人に勝つものにあらずなり」)や「人 䈊࣑㜌乎天者也」 (「人は誠に務めて天に勝つものなり」)

というものまで出っているので、

人が自然災害や社会の災難を抑えることができないのは、自然や社会の理を明かしてない ためとする。この理が自然法則や社会法則に近い概念になった。このような議論は理に自 然秩序や社会秩序の意味合いを強め、自然の法則と人の心や性との関係に思考を巡らしな がら、次の宋明時代に起こる理学の心性論の嚆矢をしていくことになる。

 天地、万世、人類のための理学体系の構築

 唐の古文運動に出てきた儒家の動きは、王朝政治の御用学として存在することの限界と 知的な覚醒を表すもので、仏教や道教の合力によって抑えられがちな儒学者の存在基盤に 関わるものである。天へのつながりを天子に委ねて、皇帝の恩典を被る特権的存在のあり 方は、余りにも不安定なもので、皇帝たちの好悪に大きく左右されるものであった。儒学 者たちは、今まで以上に、強権からの侮辱や嘲笑を味わうことに悩み、王権の下僕の身分 から如何に立ち上げ、あるいは逃げでるかを真剣に考える。このような人々の思いを継い で、新しい儒学の存在と形を打ち出したのが、宋明時代の理学者たちである。

 北宋中期に成立した理学は儒学者が新しい社会状況に適合して、儒学者と社会との関係 を規定して儒学の社会使命を調整して作り上げた新しい「儒学」であった。この新儒学の 最大のポイントは、天や宇宙の秩序と人間社会の秩序との繋がりを認めるものの、その天 や宇宙の秩序を体現するものは、天子だけではなく、すべての人に其の可能性を移してい くところにある。この新しい儒学は唐末の古文運動の中に出てきた人文主義的傾向や、漢 以降の神学的な方向よりも、天や宇宙より出てくる理や道に重きを置いて、社会観念や倫 理の合理性や必然性を獲得しようとしたものである。天から理への推移が、理を極めるこ と自身に天に通ずることができる論理を成立させ、修養や修身を通じて、天の代表である 天理への近づきが可能になる。これは天の解釈権をすべての人に還元させ、儒学を天子の 御用学問から天地、万世、人類のための教学に仕立てていく知的大転換を引き起こす壮大 な挙動を意味するものであったと言える。

 天理の発露は修養次第

 新儒学は壮大な学問体系を築き、同時代の理学的学説を吸収、発展させ、宇宙生成の本

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体論から出発して格物窮理、存養意誠、正心遷善、修身複礼、斉家正倫、治国平天下という カテゴリを提示して、儒学の道統を明らかにし、理学思想の基本を確立する。この新しい 教学は宇宙生成論で、価値の根源を明かし、そして格物致知を持って、窮理の方法を提供し、

天理に至るための途を示す。また新儒学が天理に至る目的が修身、斉家をして最終的に平 天下に到達することであると強調するので、結局王朝支配の正統性を判断する言説権を天 子から取り戻し、個々人の窮理という行為を天の理に至るための宗教的含みを持たせる。

儒学や窮理をする人々が、天下世界を左右する主体としてふただび認定されることになる。

この理学体系は南宋以降朝廷の認可をも得て、官学のイデオロギーとして、急速に広く受 け入れられ、その後の文教政策の思想的綱領になっていく所以はここにある。

 「新儒教」の教主は在来の学問を集大成した朱子である。朱子の目差す新儒教の特質は理 を生命存在の根源、本源とみなすところにある。朱子にとっては、理は万物が万物の存在 たる根拠であり、即ち万物の存在の価値基準である。理は「天地鬼神の変」や「人倫日用の 常」乃至「鳥獣草木の宜」などのもの存在の中を貫くものである。 「変」、 「常」、 「宜」が現わ したのは自然変化の中の生命の目的であり、これこそが「太極」の理であって生の理である。

それは自然にできたものだったので、 「自然の理」ともいえる。朱子はさらに天地に心ある かないかの問題に迫っていく。老子は天地に心なしというのに対して、朱子は老子が天地 の心のない側面しか言い当てていないという。朱子から見ると、春になって暖かい環境に 合わせて、枯れ木が生きる様子を見せるのは天地に心があるためである。このように天地 万物に遍く現わした「生の理」はつまり生命の目的であって、価値指向を持つものである。

この価値指向は道徳や人間性でもあり、 「人への不忍の心」が示した「仁」である。したがっ てこの「生の理」はつまり「太極の理」である。朱子は、太極は理の「一つ」、理の「全部」の 最高存在として、そのもの自身にすでに価値基準としての意義を持っていると考えている。

「極」は「至極」のことで、最高基準であるので、太極は「天地人物の万全究極の美徳」と言 われる所以である。また理が実際に機能するために、 「気」、つまり形而下の「生物の具」と 関わり、理と気、形而上と形而下の関係を作っていくことになる

 朱子の理気論は人性を説明するにも使われている。彼によると、理は本であり、体であ る。気は末であり、用である。理は形而上の本体として存在し、超越的で、純粋なものであ り、形而下の気に混雑されることがないものである。一方において実際の世界では、理は 気と共に働き、気を離れて存在することができない。こうして朱子には気に混ざらない超 越的で純粋な理と気に依存して存在する理が並存していることになる。後者は存在の本や 価値の本源の理ではなくなり、自然の気化に現わされた一定の規則、即ち「条理」、 「文理」、

要するに「物理」のことをさすことも可能である。気化してできた形而下の存在は体、感情、

欲望、知覚などの内容を有するが、一方、存在の本、価値の本源としての「性理」は同時に

人間の本質存在となり、人生の最高目的、最高価値となる。 「性即理」の論理はここから出

ている

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 人間の心の本体に内在した性は、超越的で、天地万物や生命存在の最高目的「善」を現わ すものである。しかしこの性は一旦気に落ちていくと、純潔さが破られ、体、感情、欲望、

知覚という用を通じて働き、惻隠、羞悪、是非、謙譲の感情を示すことになる。要するに、

道徳の実践の主体は個々の具体的で、個体的人間において発生され、個体としての実践主 体の存在は「形而下」のものであるため、道徳行為は最終的に主体の自我的感情と知性と の合一の自由意志の中にしか実現できない。しかも道徳の自由、自律はいつも自ずから出 てくるものではなく、いつも修養や工夫を伴うものである。そのような修養や工夫を通じ て「天理を存して、人欲を滅する」ことが初めて可能になる

 朱子の修養論は、感情の教育と涵養を通じて「敬」を強調すると共に、道徳理性の自覚や 自意識を求める「格物致知」を重視する。 「格物致知」は「窮理」、 「存心」の重要手段である。

理の中に「物理」と「性理」の両方を含んでいるので、 「窮理」には外に向かって「物理」を 極めることも含まれる。但し認知の理性は最後には道徳理性の要望に答えるもので、客体 への「物理」的認識は、結局心の中の「性理」を発露させるために存在する

 人間に内在する理性の完全な実現は、ここの学をするものの求めている最高な境地とさ れているのである。

 『四書』の構成と朱子学の本質

 朱子はかつて『論語』 『孟子』 『大学』 『中庸』を纏めて、儒家の最も大事な教えはこの四つ の著作にあると強調して、 『四書集注』を編集した。朱子の新儒教の特徴は『四書集注』の 編集構想においてよく見て取ることができる。ここではかれは『孟子』を経典として取り 上げ、 『礼記』の中の『大学』 『中庸』の二編を、 『論語』 『孟子』と組合して、 『四書』の枠組み を構成しているが、 『孟子』と『論語』を並べて取り上げ、しかも『礼記』の中の『大学』 『中庸』

の二編の文章を『孟子』、 『論語』と並べておくこと自体は、朱子の新儒教の学理的に或いは 信仰的に最も重要視している箇所を如実に示しているのである

 朱子が『大学』 『中庸』 『孟子』を『論語』と同様に扱う理由は、 『孟子』 『大学』 『中庸』の内容は、

朱子の提唱しようとする理学の基本を担うものが含まれているからである。朱子は「理」を 天地万物の最高実体であると主張して、天理と人欲をどう扱うかは朱子学の出発点であり、

核心である。朱子が『大学』を初心者の成徳の門として位置づけ、学や修身に邁進する人の

ための入門書として指定するのは、 『大学』の短い文章の中に、 「明徳を明らかにする」

いう学問の理想があるだけでなく、学をすることの目標と順序をも提起しているからであ

る。つまり大人の人間になるために、まず正心、誠意、修身、斉家という修養からスタート

しなければならない。正心、誠意はすべての人の関わることの可能なもので、教養人にな

るための第一歩である。修身は次のスデップに進むための究極的な方法であり、斉家そし

て治国、平天下は、更なる高次元な目標であり、最高理想である。そのよう方向に向かうた

めに、格物と致知という方法論の運用が設定されている。このような目標と順序の設定は、

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朱子の考えている「究極な学問」は、すべての人の関われるものである。個人の修養から斉 家、治国、平天下まで、目標の幅があるので、さまざまな人がこの学問に関わることが可能 になるものである。日々の修身や格物と言う実践活動は天理に裏付けられる明徳を明らか にすることができる

と確信している朱子にとっては、 『大学』は、まさに絶好なテキスト である。

 朱子は『中庸』を重んじる理由は、 『中庸』には「孔子の伝授する心法がある」

と思うか らである。 『中庸』には「天命の謂れは性、性を率いるは道と謂れ、道を修めるは教えと謂れ」

という冒頭の言葉がある。この天命と性と道とのつながりは、そもそも朱子学の天理と心 と性との関係を連想するものであって、孔子の子孫たち(子思)が工夫して見つけた天と 人との関係を語る説を朱子が再確認し、発展させて、朱子学の根幹たるものに据えつけた ものである。中庸という何事も度を過ぎないところに落ちづく方法論も、天理という絶対 的で純粋なものを上手く引き出して心に留めることこそが、最高な修養であると考える朱 子学には、特別に重要な意味を持つ

 いま孔孟の道という言葉はよく耳にするが、この伝統は朱子が『孟子』と『論語』を並べ てみることによるところが大きい。孟子が孔子と並ぶ理由は、孟子は孔子の学問の不足を 補ったり、孔子の明確でない箇所を明言するところにある。例えば、孔子は仁を説くのに 対して、孟子は仁義を並称する。孔子は君子のあり方を多く述べるのに対して、孟子は民 への視線を強調する。孟子も孔子と同じように天命を信じるが、天との関係を考える際に、

孔子は君子や聖人が天子と共に天の命を受けて、場合には天子に代わって天の命を受ける ことに重心を置くのに対して、孟子のところでは、個々人つまり民も君子も君も同じよう に天の命を持つものであると主張する。孟子が「万物皆我に備える」と考え、天人関係の中 の人間の道徳主体としての目的が顕彰され、人間の情や思が人道の「誠」であり、しかもこ れは天道の伝承であると考えて、天道の誠を特に強調する

。またかれは「心を尽くし、性 を知る」、 「心を存じ、性を養う」、 「天を知り、天に事える」

と言うのも、天と人との対流 や天人合一の境地を意識するものである。朱子は『孟子』の上に述べた箇所に大きな共鳴 を覚え、それらの経典から多くのものを受け取りながら、自らの理学体系を構築している のである

 朱子学と科挙制度

 北宋王朝は、唐以後五代十国の分裂と混乱を収拾して再建されたものである。戦争の頻 発と急速な王朝交代が繰り返されるなかに、人々の道徳や価値観念が悉く喪失され、支配 の論理や支配の正当性を語る主流イデオロギーを再建する作業が課題として残っている。

 一方宋代経済、政治及び社会関係の変化と技術の発達、彫版印刷や書院講学の盛行が、

学問の興隆や合理的思惟の進化を齎し、新しい学問への形成に寄与した。こうした状況の

なかで、新たな秩序や倫理を形作るために、儒、仏、道の三つの教えを共に重視する姿勢、

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つまり三教融合の趨勢が緩められるて、漢学から宋学への転換が始まる。

 いまでは「天下の憂いを先にして憂い、天下の楽みを後にして楽しむ」

という言葉でよ く知られている範仲淹という人が中心に行った「慶暦新政」 (1043年)は、まさにこのよう な社会的流れを受けて儒教の復興を促すきっかけを提供したものであった。彼の新政の理 論根拠は儒教に求め、新政の実施は教育を起こすこと、つまり太学や地方学校の設立を多 く作ることから始まる。学問を講ずることの盛行は、儒学への関心を高め、政治改革の理 論根拠たる儒教経典への再認識や詮索に多くの英知の共鳴を集め、漢以来の儒学の神学化 の流れを変え、経世致用の精神への自覚を再度喚起していく。この政治改革自体が最終的 に失敗したが、但しそのために儒教の再起が促され、後に程朱理学が思想界の主流になる ための環境が整えられたといえる。

 宋王朝は文武百官の任用と管理に厳密な制度を設けている。とくに推選から試験で選抜 する方法にいたるまで、官僚を選ぶシステムがよく整備されている。科挙制度はこのなか で出来たものである。統計によると、両宋300年間、科挙で採用した士は約11万人に上る。

こうして採用された宋代の士が非常に優遇され、皇帝への謁見を受けるのみならず、唐以 来のように再び吏部の試験を受けることもなく直ちに一定の官職を与えられ、これで大変 恵まれる官僚生活を送ることができるようになる。

 程子兄弟や朱子を代表とする所謂程朱理学は、孔孟の学を継承し、仏教や老子の思想を も吸収してできた新しい儒学である。理学は北宋末に形成し、南宋になってから、初めて 朝廷の公認する官学になり、その後の中国の学問や社会に大きな影響を与える存在になっ ている。

 朱子の在世中、朱子と意見の合わない官僚や権力者の抑圧や排除によって、朱子学が官 学としての地位が必ずしも一貫して安定したものではなかった。時の権力者に「偽学問」

と罵られて弾圧や禁止を浴びさせられることも多かった。そのために朱子がなくなったと き、世間の目を意識して朱子の葬式への出席すら憚られて出かけて行けない旧知や門人も 大勢いたという。

 しかし朱子の死後では、その学理や学説が理宗帝趙昀に見込まれて、大きな賞賛を得る ことによって、事情が一変した。このとき朱子には「文」という謚が贈られ、その学問や学 説も理学の正統として認められるようになる。寧宗帝のとき朱子の作った『論語集注』と『孟 子集註』は官学のテキストとして指定される。次の元時代では、科挙の試験の問題が必ず 朱子の『四書集注』から出るように定められ、受験者の答案も必ず程朱理学の観点から用 意しなければならないと決める。明清の二代を通じて、 『四書集注』は朝廷から地方にいた るまで、官学や私学を問わずすべての学校の標準教科書と科挙試験の模範答案として扱わ れている。四書及び朱子の集注は、標準的な教科書として、その後すべての知識人の必読 の書となったのである。

 朱子学がこうして支配者に重んじられ、広く一般まで知られ、受け入れられた背景には、

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さまざまな要素があるが、一般の人々にとっては、朱子学は科挙の門を導く教科書として 出世のための使用価値を見つけることができるし、またよき人間として、よき家族の一員 として、よき社会人の一員として、朱子学的な修養を重ねることによって、立身をして人 生の選択肢を広めるメリットもある。孔子以来、天や道へのアプローチは、君子という階 層の人々を主体とし、悟りや学ぶことに頼ったのに対して、朱子学では性を尽くし、つま り修養という方法でもってすべて天理に到達することが可能である。多くの人がここに魅 力を感じると言えよう。元々天と人との関係においては、孔子の場合は天が上にあり、人 はそれに近づくことができても、天と一体になり合一することが強調されていない。天は 悟って接近する対象であって、人間と同格な存在ではない。孔子においては人間は天との 間にある種の緊張関係をいつも求められる。

 一方孔子以後になると、天人合一の考えが強まり、天との繋がりの可能性を一般に広め ることにより、時には権力者だけに限定、ときには広く一般人までその適応範囲を拡大し て、天に変わって天の力を行使することが可能になり、天道を借りて己れの道を進めるこ とも可能になってくる。人と天の間に隔たりがなくなると、天理と人間との間の緊張関係 も消え去り、天に対しての人間の相対性への主張も要らなくなる。宋代の権力者たちは、

見事に朱子学のこうした天人観の意味するところを理解していたのである。彼らは、大量 に出てきた読書人をすべて官僚の候補として運用することの限界を見つめ、天の声との交 信の特権を再び己の側に引き戻す方法として、学問の出自を朱子学一点に集中し、科挙と いう仕組みを上手く運用して、天理の解釈権を朝廷に縛りつくことを政治論理の中核とし て選んだのである。これで多くの異色な学問をしている人々の目を、社会政治からずらす ことができるし、多様化した思想の氾濫に流されずに、政教一致の朝廷支配を維持するこ とができるのである。

 いうならば、科挙のシステムにおける最終試験としての殿試というのは、つまり最終的 に天子である皇帝の判断はすべての教科書や学説を越えることを示すためのものであっ た。したがってそれ以後の科挙制は朱子学や中国知識人の良心と知性を褒め殺す仕組みに なっている面もあるということができるかも知れない。明代になってから八股文を書くと いう形で科挙の試験をすることを決めたのも、明清400年間余りの硬直し形骸化した傾 向を持っている教育体系と学風の形成に大きな影響を及ぶものであった。

 心学の登場と新儒教の変遷

 朱子がなくなってから、朱子学は政権側の受け入れを得て官学になって急速に影響力を 増していた。これは、儒学者の御用化を強めていくことをも意味するものである。こうし た環境に恵まれた多くの朱子学者は、朱子の決めた学問的体系を注釈し維持することが、

主な仕事になり、朱子のように自らで学問の独創性を切り開いていく必要がなくなり、権

力に関わる人々の学問が、生命力のある生きたものではなくなる。儒学は固まった教条や

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教学として、社会に君臨するものになってしまうのである。

 こうした朱子学者の朱子の学問を祖述し、解釈する口だけで空論だけの学問状況に対し て、反省や批判を入れたのは明代の王陽明の心学的主張である。心学は心と理、心と道と の合一を特徴とし、朱子の「天理自然」思想を受け継ぎ、心は即ち性ということを強調する ものである。いうならば、朱子の理学思想の発展と変遷を受け止めて出てきた新しい儒学 体系である。

 王陽明の心学は「致良知」

をもってその思想的な完成を見せている。王陽明は朱子学の 勉学や実践を通じて儒教の理想人格を獲得するために儒学の世界に入った人である。彼に も朱子の本を読みつくし、朱子の「格物致知」を実践に付した勉学の時代があった。一時期 かれは、 「竹を格す」ことを試み、竹を観察することを通じて万物を貫く天理を体験しよう としたが、病気になるまでそれを観察しても、そこから天理を獲得することができなかっ たという。このために王陽明はしばらく儒学を捨てて、仏教や道教に没入し、出家をしよ うと思ったこともあるが、父母や祖父母への思いでできなかった。まさにこのときに彼は 考えた。親への思いは子供のときから自然に身に染んでできたもので、この思いを捨てる ことが簡単にできるものではないと。上述の竹を格すことと、親への情についての思考は、

要するに王陽明が朱子学における外物の理から道を悟ることや、朱子学が仏教の自然の性 を無視していることへの疑問と思想的な反省を示したものである。

 王陽明から見ると、 「性理」は外に求めるものではなく、人の心の奥に向かって「自ら得る」

ものである

 王陽明は明朝の1508年(正徳三年)に、官僚として貴州という辺鄙なところに左遷され た。かれは龍場という官話も通じない山の中で聖人とは何かを思考した結果、自らの学問 のあり方を悟り、聖人の道はわが性中に備わり、先に理を事物の上に求めたのは誤りだっ たという認識を持つようになった。彼は外在的な事物に求めて、そこから知識を得ていく 学問の仕方に反対して、己の心性に存ずる至善な生命体を求めることを学問とみなす。か れはその悟りを心に記憶していた儒教の経典の言葉に照らしながら、自らの考えを『五経 臆説』に纏めた。この出来事は後に世の中で「龍場の一悟」といい、彼の生涯の転換を物語 る瞬間として伝えられているのである。

 「龍場の一悟」は、王陽明の長期間にわたって蓄積されてきた心学的エネルギーの爆発を 見せたものである。彼の理学の上に築いた心学の成熟を示した事柄であった。 「天理」を認 めることにおいては、朱子も王陽明も左程違わないが、王陽明では、道徳実践の根拠であ る「天理」を「性理」とみなし、この「性理」を行動者の心にだけ見出されるものとする。彼 が「心外無理」や「心外無物」といって、 「忠」や「孝」などの感情を道徳実践のなかで獲得 なければできないと強調しているので、その学問は極めて実践的で、内省的な特徴を持っ ているのが明らかである。

 王陽明は人の心に内在する天理を有効に働かせるために「致良知」、 「知行合一」を提唱

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する。この「致良知」とは、人々の内部に備える天理を自覚し獲得することをいう。つまり すべての心にある「聖人」があるので、それを自覚することによって、天人、物我、内外,

性情、体用は人においてすべて貫通されるようになり、心の正常態を守り、意の発動によっ て生まれた善悪を弁別することができるようになる。

 陽明学派は良知を自然とみなし、自然の中に自ずからできるものとする。そこには善悪 の区別さえない。心の本質を無善無悪としたのは、在来の性善説や性悪説への修正を意味 するものであり、欲はすべて悪という朱子学的テーゼを転換させたものである。

 人間の七情(喜、怒、哀、恐、愛、悪、欲)というのは、自然に従えば、良知の用となるこ とができるが、自然に違反すると、それは私欲になり、良知の弊になってしまう。

 王陽明にとっては良知は即ち天理であり、良知を致すのは即ち天理を明らかにすること である

。ここでは道徳修養は認識活動とが一体になり、認識論の問題は、道徳論の問題に なっている。かれの「知行合一」論もこうした思惟の産物である。知とは良知の自覚であり、

行は良知の発動運用である。 「知行合一」とはつまり良知の体用合一である。道徳論的に見 ると、 「知行合一」は道徳意識の自覚性を強調しながら、道徳の実践性を重んじる。人が心 の内部で工夫するのみならず、事物にあたって鍛え、絶えず不善の念を克服し、表裏一致 の状態に達することを強調している。王陽明の所謂「行」は念の発動をも含めるものであり、

意念の発動の段階から善の規範に従って、不善の念を萌芽状態に封じることを特に求めて いるのである。

 心学の「知行合一」説は、程朱理学の「知先行後」という知を得てから実行する考え方を 否定するものである。知を重んじ、行を軽視する理学の偏りを是正するために出てきた「知 行合一」説は、知と行を工夫やものの両面とみなし、知は行の始まりであり、行は知の結果 であるとする

。心学では知と行は切り離すことができない。知のもたない行は本当の行 ではなく、行の付かない知は真の知ではない。結局こうした「知行合一」説は、 「致良知」と は密接に関わるものである。

 「知行合一」は良知の自覚と良知の働きの一体化を強調する。これは明らかに道徳論的命 題に留まっているのが明らかである。一方、理学の「知先行後」には道徳修養の意味を込め ているのみならず、認識的意味をも持っているのである。ここでの知とは、心にある良知 を自覚するだけでなく、事物の道理を解明することをも含んでいるのである。

 心学は人々が「無善無悪」の状態から「知善知悪」や「為善去悪」に進んで、万物一体の 仁に到達するための道徳的な自覚と実践を重視し、理学の中にある知と行の断裂の可能性 を防ぐことを狙ったが、朱子学の知行論の中の知識論や認識論の要素を切り捨てた。これ は道徳修養の強化に寄与するが、客観の知識や学問への視線を遮る可能性を内包するもの である。これは後に心学一門が性に任せて学を廃する傾向を生み出す背景になり、清代の 人々が明王朝の崩壊を心学の偏りに求めた所以である。

 その後陽明学が広く支持者を得ることによって明代の学問の形を一変した。その著しい

(16)

影響は、儒教を信じる人々の修養のあり方を変えるだけでなく、広く繁栄し始める書院の 教育にも大きな変化を与えている

。王陽明の「知行合一」、 「致良知」、 「心即理」の考え方が、

朱子学を祖述する書院教育の理知に偏った教育を改めて、実践の伴う心学を要請する学問 的流れを作り出すきっかけにもなっている。

 儒教と儒学の再分離

 明代中後期になると、所謂商業の振興に伴って中国社会における「資本主義的萌芽」が 出現し始める。市民意識の芽生えや早期啓蒙思想の創出、心学への批判的昇華は、新しい 思想の誕生を促す媒体になり、陽明学における「すべてのひとが聖人になれる」

や「良知」

の考え、そして主体の主張による個性の顕揚や自我の肯定に繋がる側面を作り出している。

こうしたさまざまの可能性を持つ多くの学者から、 「天下を公にする」

という民主や平等 の傾向のある実学的な政治理想を持ち始めるものも現れ出ている。これで明末清初の際の 学問、思想、文化、教育のあり方に大きな変化が生じ、古代中国の思想伝統と近代思想をつ なぐ発想を持ちながら、さまざまな角度から思想的成長を達成した時代を代表する思想家 や学者が輩出した。

 清朝になってから、思想統制の激しい学問環境に抑えられて、一部の学者は古典の解釈 を中心課題とする考証学とかに専念するものもあるが、大勢の儒学者と朝廷の支配者が依 然と宋朝の程朱理学を信仰している。しかし民間では高名な儒学者のなかに朱子の理学、

王陽明の心学を批判して礼の回復を提唱して儒学の再建を目差すものも多数あった。

 例えば明末や清の初期に活躍した王夫之は「道の大なる源は天に出で、天が変わらなけ れば、道も変わらない」

という言い方に反論して、 「器によって道が存じ、器を離れては 道が滅ぶ」 「道は器にあり」と主張し、道や理は物のなかにあることを強調して、程朱理学 の「天理」説を否定する

。王夫之は朱子学の「人欲を去り、天理を存ずる」の言い方に対 して、人の欲望が満足を得たときにはじめて真の天理が実現されると述べる。さらに「知 先行後」や「知行合一」という朱子や王陽明の知行論についても、王夫之が異なった角度か ら修正や批判を加えた

 また清の儒学者戴震は明白に朱子の「理」 「天理」を批判し、程朱理学に異論を唱えた。

彼は『孟子字義疎証』において「道の心は人の心の中にある」

と主張し、聖人は人々に適 当な欲、つまり飲食の欲や男女の欲があることを否定すべきではないといって人々に欲望 を克服して道を求めてもらうことの不条理を指摘した

 元々陽明学が朱子学の継承と批判を通じて出てきたものであるが、官学としての朱子学 の地位を補強するものであっても取って代わるものではなかった。ただし陽明学の学説は むしろ官学の範囲を超えて民間の人々の信仰や修養の一部になる側面を持ち始めている。

同じ儒教と言っても、官学のイデオロギーとしての朱子学、陽明学、官学と切り離された

教養として、学問としての儒学の両立が、ここに来てもっと確固たるものになったと言え

(17)

る。

 明代の李贄、明末や清の初期の黄宗羲、王夫之、顧炎武、清の戴震が価値やイデオロギー としての官学である正統儒教に対して書きあげた疑問や批判精神に満ち溢れた文章の数々 は、儒学の学としての独自性を探り、また儒学の新しい働きと可能性を模索したものであっ た。

①  司馬遷『史記』「巻一百二十一・儒林列伝第六十一」。

②  董仲舒『春秋繁露』「陰陽義第四十九」:「天亦有喜怒之気、哀楽之心、與人相合、以類合一、天人一也」。

③  董仲舒『春秋繁露』「深察名号第三十五」:「天人之際、合而為一」。

④  董仲舒『春秋繁露』「順命第七十」:「天子受命於天、諸臣受命於天子、子受命於父、臣妾受命於君、妻受命 於夫」。

⑤  董仲舒『春秋繁露』「五行之義第四十二」:「土居中央、為之天潤」。

⑥  董仲舒『春秋繁露』「陽尊陰卑第四十三」:「丈夫雖賎皆為陽、婦人雖貴皆為陰」。

⑦  董仲舒『春秋繁露』「天道無二第五十二」:「故常一而不滅、天之道」。

⑧  董仲舒『春秋繁露』「順命第七十」:「天子不能奉天之命、則廃而称公」。

⑨  南北朝劉勰にすでに「圣因文而明道」(『文心彫龍』)とあるが、韓愈は「修其䇽以明其道」(「争臣論」)とい い、柳宗元は「及䮯,乃知文者以明道」(「答韋中立論師道書」)という。

⑩  柳宗元『柳河東集』「天説」「天対」「天爵論」「非国語」を参照。

⑪  劉禹錫『天論・上篇』。

⑫  黎靖徳編『朱子語録』巻一、巻九十四、巻九十五を参照。

⑬  黎靖徳編『朱子語録』巻四、巻九十八を参照。

⑭  黎靖徳編『朱子語録』巻四、巻十二、巻十三を参照。

⑮  黎靖徳編『朱子語録』巻九を参照。

⑯  朱熹撰『四書章句集注』を参照。

⑰  朱熹撰『四書章句集注』「大学章句」。

⑱  朱熹撰『四書章句集注』「大学章句」:「蓋必其有以尽夫天理之極、而無一毫人欲之私也」。

⑲  朱熹撰『四書章句集注』「中庸章句」:「此篇乃孔門伝授心法、子思恐其久而差也、故筆之於書、以授孟子」。

⑳  『礼記』「中庸」。

㉑ 『孟子』「尽心・上」:「孟子曰:万物皆備於我矣。反身而誠、楽莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉」。

㉒ 『孟子』「尽心・上」:「孟子曰:尽其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也」。

㉓ 朱熹撰『四書章句集注』「孟子集注巻十三・尽心章句上」を参照。

㉔ 『岳陽楼記』:「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。

㉕ 最初は『孟子』「尽心・上」(孟子曰:人之所以不学而能者、其良能也、所不慮而知者、其良知也」)に出てい る概念であるが、王陽明はそれを自分の学説の中心に据える:「吾教人致良知、在格物上用功、却是有根 本的学問」(王陽明『伝習録』)。

㉖ 王陽明『伝習録』:「天下之物本無可格者、其格物之功只在身心上做」。

㉗ 王陽明『伝習録』:「吾心之良知即所謂天理也、致吾心良知之天理於事事物物、則事事物物皆得其理矣」。

㉘ 王陽明『伝習録』:「知是行之始、行是知之成」。

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㉙ 明徳三年(1508)龍場(現在は修文に属する)の龍崗山東洞において「龍崗書院」が創られた。この書院は 広く弟子を集め、王陽明の「知行合一」の学説や『五経臆説』を持って、教育に当たった。

㉚ 王陽明『伝習録』の語録による。

㉛ この言葉は元々『礼記・礼運』の「大道之行也、天下為公、選賢与能、講信修睦」に出ているが、清末では、

康有為によって、「天下為公」の核心的意味には、「人人如一」の「平等公同」があると言及。さらに中国革 命の先駆けである孫中山によって、天下はすべての人の天下という意味において、平等公平の理想社会 を目指す革命への理想を示すものとしても使われた。

㉜ 班固撰『漢書』巻五十六、「董仲舒伝」第二十六には、「道之大原出於天、天不変、道亦不変」と董仲舒の上 書を引用している。

㉝ 王夫之『周易外伝』「大有」:「拠器而道存、離器而道毀」。

㉞ 王夫之『仁学』二十六:「天理即在人欲之中、無人欲則天理亦無従発見、最与『大学』之功夫次第合、非如 紫陽人欲浄尽之誤於離、姚江満街聖人誤於混也」。紫陽は朱子の別号で、王陽明は浙江省余姚の出身であ る。

㉟ 戴震『孟子字義疎証』「巻上・理」。

㊱ 戴震『孟子字義疎証』「巻下・権」。

参照

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