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モ ダニ ズ ム が夢 見 たユ ー トピア:
ドイ ツ 田 園都 市 建 設 の歴 史(6)
一 理 想 郷 ヘ レ ラ ウの終 焉 一
副 島 美由紀
1.序
ドイ ツ再 統 一 後,1908年 ドレ ス デ ン市 郊 外 に建 設 され た 田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ の 歴 史 を 回 顧 す る動 きが 始 ま り,再 開発 の 事 業 も始 動 し て い る。 多 くの研 究 書 が ドイ ツで 出版 され た こ と を受 け て,日 本 で も建 築 史 や文 化 史 の分 野 にお い て ヘ レ ラ ウ の名 を 目 にす る機 会 は増 した 。 しか し特 に 日本 にお い て は専 ら 田 園 都 市 の 理 念 と建 設 の 創 設 期 に の み焦 点 が 当 て られ,長 期 的 な都 市 の成 長 計 画 が 半 ば に し て頓 挫 し て し ま った 経 緯 を記 述 した も の は まだ な い。 しか し な ぜ ヘ レ ラ ウが そ の 理 念 を堅 持 す る こ とが で き な か った の か,そ の発 展 に ど の よ う な 問題 と困 難 が あ っ た の か を理 解 す る こ と は,ド イ ツ に お け る 田 園 都 市 運 動 に つ い て考 察 す る際 に本 質 的 な重 要 性 を持 つ 。 なぜ な ら田 園 都 市 の 発 展 を阻 害 した の は イ ン フ レや 戦 争 に よ る 損 害 とい っ た 付 帯 的 な状 況 よ り も, む し ろ イ デ オ ロ ギ ー 的 抗 争 や 覇 権 の変 遷 で あ り,そ の 意 味 で ヘ レ ラ ウ に 出 来
した 困 難 は 当 時 ドイ ツ 全 土 で起 こ っ て い た い わ ゆ る覇 権 抗 争 の 縮 図 で あ り, さ ら に そ の 困 難 は 「あ らゆ る生 活 改 善 思 想 が 最 も確 実 か つ 有 益 に 結 実 す る」1 場 所 と して の 田 園 都 市 の 理 念 に本 質 的 に起 因 す る 問題 だ か らで あ る。
これ まで拙 論(1)〜(5)2にお い て 述 べ て きた 通 り,田 園都 市 は単 に機 能 主 義 的 な 住 宅 改 革構 想 に よ っ て建 設 され た 宅 地 な どで は な く,よ り人 間 的 な社 会
1Schollmeier
,Axe1,GartenstadteinDeutschland,MUnster,1988,S.57。
2副 島 美 由 紀 「モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(1)
〜(5)」,小 樽 商 科 大 学 「人 文 研 究 」96輯 〜105輯,1998〜2003。
を求 め る進 歩 的 実 験 の総 合 体 で あ る。 よ っ て そ れ は近 代 都 市 計 画 上 の 理 念 的 モ デ ル で あ る と同 時 に 「夢 と記 憶 が 複 雑 に作 用 し あ っ た きわ め て文 化 的 ・精 神 的 な 存 在 」3であ り,実 際 の建 設 計 画 が 挫 折 した と して も,そ こ に は文 化 的 ・ 精 神 的 活 動 の軌 跡 が 存 在 して い る。
ドイ ツ に お け る 田 園都 市建 設 に 関 す る論 考 を締 め く くる に あ た り,本 論 で は そ の 軌 跡 を辿 りなが ら田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ の挫 折 か ら再 開 発 の試 み へ 至 る経 緯 を紹 介 し,さ ら に 田 園都 市 を 回顧 す る こ との 今 日的 意 味 につ い て も考 察 し
て み た い 。
2.生 活 改 革 先 進 都 市,ド レ ス デ ン
田 園 都 市 を一 つ の 文 化 的 な現 象 と して 捉 え る と き,ド イ ツで の建 設 が ま ず ドレ ス デ ン郊 外 で 始 ま っ た こ とを認 識 し て お く必 要 が あ る。 ドレ ス デ ン は 当 時 生 活 改 革 運 動 の い わ ぼ先 進 都 市 で あ り,新 た な共 同体 建 設 の土 壌 とし て は 理 想 的 な 土 地 で あ った 。例 え ば ドレ ス デ ン郊 外 の保 養 地 ヴ ァイ サ ー ・ヒル シ ュ で は,改 革 衣 服 や 健 康 食 に関 す る著 書 も著 した 医 師 のハ イ ン リ ヒ ・ラー マ ン (HeinrichLahmann,1860‑1905)が,す で に1888年 か ら総 合 的 な 自然 療 法 を施 す サ ナ トリ ウム 〈白鹿>4を 開業 して い た。 それ は器 具 や 医 薬 品 に頼 っ た 従 来 の 医 学 に対 す る 批 判 か ら発 した ドイ ツ で 最 初 の 自 然 療 法 サ ナ ト リ ウ ム で,特 に都 市 生 活 に病 ん だ 人 々 を対 象 に 日光 浴,大 気 浴,食 事 療 法 な どの総 合 的体 力 増 進 プ ロ グ ラ ム を提 供 す る こ とで ドイ ツ国 外 で も そ の名 を知 られ て い だ 。 また ドレス デ ン の 〈リ ヒ ャル ト ・ギ ー セ ケ 書 店 〉 は身 体 や 肉体 美 に 関
3丸 山 純 「田 園 都 市 一 中 産 階 級 の ユ ー ト ピ ア 」in三 宅 晶 子 他 『感 覚 変 容 の デ ィ ア レ ク テ ィ ク 』 平 凡 社,1992.S.89.
4正 式 名 称 は 「ド ク タ ー ・ラ ー マ ン の 自 然 療 法 サ ナ ト リ ウ ム(Dr
.Lahmann physiatrischeSanatorium)」,xxヴ ァ イ サ ー ・ ヒ ル シ ュ"は ド イ ツ 語 で 〈白 鹿 〉 を 意 味 す る 。
51906年 に は30力 国 か ら 約7
,000人 に も の 憶 者"が 訪 れ た と 言 わ れ て い る 。
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す る書 籍 を 多 く置 き,1903年 か ら は裸 体 主 義 の雑 誌 「美(DieSch6nheit)」
の発 行 も行 っ て いた 。 カ ー ル ・シ ュ ミ ッ トを中 心 と した 〈ドイ ツ 工 作 連 盟 〉 の事 務 所 は第 一 回 芸 術 教 育 会 議(1901)や 第3回 ドイ ツ工 芸 展 覧会(1906) 等 に お け る交 流 を契 機 として ド レス デ ン に設 置 さ れ,さ ら に同 市 で は1911年 に第 一 回 国 際 衛 生 博 覧会 が 開 催 され て500万 人 以 上 の観 客 を集 め た と言 わ れ て い る。 この博 覧 会 は ドレ/スデ ンで香 料 工 場 を経 営 して い た 企 業 家 カー ル ・ ア ウ グ ス ト ・リ ン グ ナ ー(KarlAugustLingner,1861‑1916)の 立 案 に よ る
もの だ が,こ の成 功 を受 け て 翌 年 の1912年,国 民 の啓 蒙 と教 育 を 目的 と した
「ドイ ツ衛 生 博 物 館DeutscheHygiene ‑Museum」 が 帝 国 政 府 に よっ て 設 立 され る 。 そ こで は展 示 物 中 一 番 人 気 を博 した 「ガ ラ ス人 間 」 と呼 ぼ れ る透 明 な人 体 模 型 等 を使 っ て,健 康 や 衛 生 と い っ た概 念 を可 視 的 に提 示 す る試 み が な さ れ た 。
以 上 の よ うに 当 時 の ドレス デ ン に は,文 明 批 判,自 然 療 法,芸 術 教 育,住 宅 改 革,裸 体 主 義 等,様 々 な 主 義 の 改 革 者 た ち を惹 き つ け る独 特 の星 状 布 置 が あ っ た 。 そ の郊 外 に 田 園 都 市 が 建 設 さ れ る と,理 想 的 な 教 育 施 設 を持 つ ヘ レ ラ ウ は青 年 運 動 の 面 々,特 に 東 南 ドイ ツ に住 む運 動 家 た ち に 注 目 さ れ,1923 年 に ヘ レ ラ ウ で 国 際 青 年 運 動 大 会 が 開 催 さ れ た とき,「ヘ レ ラ ウ と ドレ ス デ ン は,全 ザ ク セ ンの 青 年 運 動,否,そ も そ も国民 に とっ て の 精 神 的 中 心 とな る べ き だ 」と い っ た 声 明 が 出 され た ほ どで あ る6。 生 活 改 革 先 進 都 市 ドレ ス デ ン と田 園都 市 ヘ レ ラ ウ は,青 年 運 動 家 た ち に とっ て 都 市 と田 園 の模 範 的 な対 を 成 して い た 。 しか し この よ う な星 状 布 置 は様 々 な 運 動 の発 展 や 協 同 を促 す と 同 時 に人 々 の集 合 と離 散 を引 き起 こす 不 安 定 な磁 場 で もあ った 。
6Sarfert
,Hans‑Jurgen,Hellerau:DieGartenstadtundKunstlerkolonie,Dres‑
den,1992,S.90。
3.ヴ ィ グ マ ン と ダ ル ク ロ ー ズ の 離 脱
ヘ レ ラ ウ が 輩 出 し た 最 も有 名 な ダ ン サ ー は ド イ ツ 表 現 ダ ン ス の 創 始 者 と も 言 う べ き マ リー ・ヴ ィ グ マ ン(MaryWigman,1886‑1973)で あ る が,ヴ ィ ク マ ン が ヘ レ ラ ウ で 学 ん だ 時 期 は 実 は 短 か っ た 。1910年 に ヘ レ ラ ウ へ や っ て 来 た 時23才 だ っ た 彼 女 は す で に 独 自 の 表 現 へ の 意 志 を 持 っ て お り,自 己 を リ ズ ム に 調 和 さ せ る ダ ル ク ロ ー ズ の リ ト ミ ッ ク に は 満 足 で き ず に い た 。 自 ら ソ ロ ダ ン ス の 振 り付 け を 試 み て い た 彼 女 は,あ る 日 画 家 の エ ミー ル ・ノ ル デ (1867‑1956)に 出 会 う 。 ノ ル デ 夫 妻 は こ の 時 ラ ー マ ン 医 師 の サ ナ ト リ ウ ム 〈白 鹿 〉 に 滞 在 し て お り,ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 で 学 ん で い た 知 人 の エ ル ナ ・ホ フ マ ン(ErnaHoffmann)を 訪 ね て ヘ レ ラ ウ を 訪 れ て い た 。 そ こ で エ ル ナ の ル ー ム メ イ トで あ っ た ヴ ィ グ マ ン を 知 る こ と に な る 。 ダ ン ス に 関 心 を 持 ち,よ く 絵 の 題 材 に も し て い た ノ ル デ は こ の 時 自 宅 で 踊 る ヴ ィ グ マ ン に感 銘 を 受 け, 後 に 彼 女 を モ デ ル と し た 「ろ う そ く ダ ン ス 」,「 ダ ン サ ー た ち 」 等 の 作 品 を残
す 。 そ し て そ の 時 同 じ くサ ナ ト リ ウ ム 〈白 鹿 〉 に 滞 在 し て い た 舞 踊 理 論 家 ル ド ル フ ・フ ォ ン ・ラ バ ン(RudolfvonLaban,1879‑1958)と 彼 女 を 引 き合 わ せ る の で あ る 。ラ バ ン の 中 に 理 想 の 教 師 を 見 出 し た ヴ ィ グ マ ン は1913年 ヘ レ ラ ウ を 離 れ,も う 一 つ の 芸 術 家 コ ロ ニ ー,ラ バ ン の 拠 点 が あ る ス イ ス の モ
E.ノ ル デ 「ろ う そ く ダ ンE.ノ ル デ 「ダ ン サ ー た ち 」 ス 」(1917)(1920)
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ンテ ・ヴ ェ リタ へ赴 く。 そ の後 ラバ ン とヴ ィ グ マ ン は ヴ ァイ マ ー ル 時 代 にお け る新 しい ドイ ツ ・ダ ン ス の興 隆 を リー ドす る二 大 勢 力 とな る。
ヘ レ ラ ウ時 代,ま だ 無 名 で あ った ヴ ィグ マ ン の周 囲 に い た人 々 を,ナ チ 時 代 に彼 らが 置 か れ た 状 況 と合 わ せ て想 起 す る こ と は,芸 術 とナ チ ズ ム との 複 雑 な 関 係 を理 解 す る一 つ の助 け とな る か も知 れ な い 。 ヴ ィ グ マ ン は 当時 ダ ル ク ロー ズ学 校 の 同級 生3人 と共 同 生 活 を して いた が,彼 女 を ノル デ に紹 介 し た エ ル ナ ・ホ フ マ ン に は婚 約 者 が お り,彼 も よ くヘ レ ラ ウ を訪 れ て い た 。ヴ ィ グ マ ンが 強 い 親 近 感 を抱 い て い た と言 わ れ て い る そ の 男 は7,後 にハ イ デ ル ベ ル ク大 学 の精 神 科 長 とな り 『精 神 病 患 者 の 美 術(BildnereiderGeisteskran‑
ken)』(1922)を 著 して有 名 に な るハ ン ス ・プ リ ン ツ ホル ン(HansPrinzhorn, 1886‑1933)で あ る。 プ リン ツ ホ ル ン は精 神 病 患 者 の 美術 作 品 に 関 心 を持 っ た 最 初 の 医 師 で,「 この 画 家 は精 神 病 患 者 の よ う な描 きか た を す る。つ ま り,精 神 病 に罹 っ て い る」 とい っ た前 衛 芸 術 に 関 す る彼 の 考 え は人 種 主 義 者 た ち に 注 目 され,ナ チ ス に よ るxx退 廃 芸 術"迫 害 に理 論 的 根 拠 を与 え た8。 も う一 人 の ル ー ム メ イ ト,オ ラ ン ダ人 の ア ー ダ ・ブ ル ー ン(AdaBruhn)の 婚 約 者 も
よ くヘ レ ラ ウへ や っ て 来 て い た 。 当 時 ペ ー タ ー ・べ 一 レ ン ス の建 築 事 務 所 で 働 い て い た ミー ス ・フ ァ ン ・デ ル ・ロ ー エ(MiesvanderRohe,1886‑1969)
で あ る。ナ チ ス が 政 権 を 取 った 翌 年 の1934年,ブ リ ュ ッ セ ル万 博 の た め の 設 計 図 が ヒ トラー の不 興 を買 っ た た め に フ ァ ン ・デ ル ・ロ ー エ は ドイ ツ で の 活 動 を禁 止 さ れ,結 局 ア メ リカ亡 命 を決 意 す る。 同 じ年 ノル デ は ナ チ 党 に入 党 して い る。 に も拘 らず ノル デ の作 品 は1937年 に 「退 廃 美 術 展 」が 開 催 さ れ た 折 り'退 廃"の 烙 印 を押 され,彼 は そ の後 国 内 亡 命 を余 儀 な くされ る。 ヴ ィ グ マ ン らそ れ ま で公 的 支 援 と縁 の な か っ た ダ ンサ ー の 大 半 は,集 団 舞 踊 の 宣 伝 効 果 と ドイ ツ ・ダ ンス の利 用 価 値 を知 っ て い た ヒ トラ ー を後 援 者 と して 歓
7ibid .,S.60.
8M・A・ フ ォ ン ・ リ ュ テ ィ ヒ ャ ウ 「「狂 気 の 極 み 」」 河 合 哲 夫 訳
,in『 芸 術 の 危 機 一 ヒ ト ラ ー と 《頽 廃 美 術 》』 ア イ メ ッ ク ス ・ フ ァ イ ン ア ー ト,1995,38頁 。
迎 した 。ラバ ン は ベ ル リン 国立 オ ペ ラ の 舞 踊 監 督 に 就 任 し,ヴ ィグ マ ン も〈ド イ ツ ・ダ ン ス ・フ ェ ス テ ィヴ ァル 〉 等 で 次 第 に ナ チ ス の美 学 に沿 う よ う に な る。1936年 のベ ル リン ・オ リ ン ピ ック の 際,ラ バ ン とヴ ィグ マ ン は共 に開 会 式 用 の壮 大 な群 舞 を振 り付 け る よ う依 頼 され る が,ラ バ ン はナ チ ス に迎 合 し きれ ず 亡 命 し,そ の ダ ン ス が フ ァ シ ズ ム と の隠 れ た 絆 を持 っ て い る と言 わ れ た ヴ ィ グ マ ン は ドイ ツ に留 まっ た9。第 一 次 世 界 大 戦 前 夜 の ヘ レ ラ ウ で の 生 活 は,そ こ に身 を置 い た 者 に と って は生 存 を巡 る格 闘 を前 に彼 らが 享 受 し得 た 貴 重 な平 穏 時 代 だ っ た ろ う と思 わ れ る。
一 方,ダ ル ク ロ ー ズ に とっ て もヘ レ ラ ウ時 代 は短 か っ た。1914年2月 に ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の校 長 ヴ ォ ル フ ・ドー ル ンが 急 死 す る と弟 の ハ ラル ト ・ドー ル ンが 校 長 職 を引 き継 い で学 校 は無 事 夏 期 休 暇 を迎 えが,ダ ル ク ロ ー ズ が ス イ ス に一 時 帰 国 して い る間 に大 戦 が 勃 発 して し ま う。学 校 はサ ナ トリ ウム 〈白 鹿 〉と共 に赤 十 字 の衛 戌 病 院 と して 接 収 さ れ,次 学 期 の 開 講 が 不 可 能 に な る 。
ハ ラル ト ・ドー ル ン と ダル ク ロ ー ズ は学 校 運 営 に つ い て書 簡 に よ り協 議 して い た が,ド イ ツ軍 に よ る フ ラ ンス は ラ ンス の 大 聖 堂 へ の砲 撃 が 各 国 で報 じ ら れ る と,ス イ ス の芸 術 家 及 び作 家 た ち が文 化 財 を攻 撃 す る とい う ドイ ツ 軍 の 野 蛮 な行 為 を非 難 して 「ラ ・ス イ ス 」紙 に連 名 で 抗 議 文 を発 表 す る。 「ジ ュ ネ ー ブ ・プ ロ テ ス ト」 と して 知 られ る こ の抗 議 行 動 に ダ ル ク ロ ー ズ も参 加 して い た 。 し か し ドイ ツ は大 聖 堂 が砲 兵 隊 の監 視 所 と して 使 用 さ れ て い た こ と を指 摘 し,フ ラ ンス こそ文 化 財 の軍 事 的 利 用 を禁 止 した 交 戦 法 規 に違 反 した とし て フ ラ ン ス を非 難 す る。 が,フ ラ ン ス は この 事 実 を否 定 して さ ら に ドイ ツ側 を糾 弾 し,ス イ スが フ ラ ン ス の側 に立 っ た た め に ドイ ツ の メ デ ィ ア は一 斉 に
「ジ ュ ネ ー ブ ・プ ロ テ ス ト」 に対 して 反 発 した。 特 に誹 諦 の対 象 に な っ た の は ドイ ツ に お い て 作 品発 表 の場 を与 え られ て い た フ ェ ル デ ィ ナ ン ド ・ホ ドラ ー とダ ル ク ロ ー ズ で あ った 。 彼 らの ドイ ツ 批 判 は後 援 者 に対 す る裏 切 り行 為 と
9MUIler
,Hedwig,MaryWigman:LebenundWerkedergroBenTanzerin, QuadrigaVerlag,1992.
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見 な され,「 恩 知 らず の ホ ドラ ー とダ ル ク ロー ズ」,「過 大 評 価 さ れ た ドイ ツ文 化 中 の下 宿 人 」な ど とい う非 難 が ドイ ツの 各 紙 に載 る よ う に な る10。事 態 を重 く見 た ハ ラ ル ト ・ ドー ル ン は ダ ル ク ロ ー ズ に抗 議 声 明 の 撤 回 を 懇願 す る が, ダ ル ク ロ ー ズ は これ を拒 否 す る 。 彼 に とっ て は交 戦 法 規 が ど うで あ れ 文 化 財 に対 す る破 壊 行 為 は赦 し難 い蛮 行 で あ り,そ もそ も ドイ ツ の知 識 人 た ち が な ぜ 戦 争 そ れ 自体 を非 難 し な い の か 理 解 し難 か った 。結 局 両 者 の 溝 は埋 ま らず, ダ ル ク ロ ー ズ とヘ レ ラ ウの 契 約 は 解 消 さ れ て そ の協 力 関 係 に は終 止 符 が 打 た れ る。 戦 後 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 は校 名 を変 更 し,ダ ル ク ロー ズ とは 無 関 係 の組 織 と して 再 出発 を余 儀 な くさ れ た 。
4.そ の 後 の ヘ レ ラ ウ教 育 施 設
教 育 は 田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ に と っ て 不 可 欠 の 要 素 で あ っ た 。 も と よ りヘ レ ラ ウ 建 設 の 際 に 創 設 者 の 念 頭 に あ っ た の は ゲ ー テ が 『ヴ ィ ル ヘ ル ム ・マ イ ス タ ー の 遍 歴 時 代 』 に 描 い た よ う な"教 育 州"で あ り,特 に 芸 術 教 育 は 生 活 改 革 運 動 の 理 念 に お い て も 重 要 な 事 業 で あ っ た 。 ヘ レ ラ ウ の 教 育 施 設 は ダ ル ク ロ ー ズ を 失 っ た 後 も 〈リ ズ ム と音 楽 と 身 体 教 育 の た め の ヘ レ ラ ウ 新 学 校(Neue SchuleHelleraufUrRhythmus,MusikundK6rperbidlung)〉 と な っ て1919 年 に リ ト ミ ッ ク 教 育 を 再 開 す る 。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 卒 業 生 で 新 学 校 の 教 育 責 任 者 と な っ たE.Th.フ ェ ラ ン トーフ ロ イ ン ト(Ernst‑ThomasFerand‑
Freund,1887‑1972)は 教 師 と し て 優 秀 で,祝 祭 週 間 も挙 行 し 学 園 の 創 造 的 雰 囲 気 を よ く保 っ た と言 わ れ て い る が,戦 後 の 経 済 困 難 も あ っ て 経 営 は 容 易 で は な く,ハ ラ ル ト ・ ドー ル ン は 他 の 学 校 も施 設 に誘 致 し て 経 営 の 多 角 化 を 図 ら ね ぼ な ら な か っ た 。 ち ょ う ど新 校 舎 を 探 し て い た 近 隣 の 私 立 高 等 学 校 に 校 舎 の 一 部 が 貸 し 出 さ れ,同 時 に ア レ ク サ ン ダ ー ・サ ザ ー ラ ン ド ・ニ イ ル (AlexanderSutherlandNeill,1883‑1973)の イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル ・ス ク ー
10Lorenz
,Karl,WegenachHe11erau,Dresden,1994,S.136.
ル が 新 た に 開 設 さ れ る こ とに な っ た 。 後 に フ リー ス ク ー ル の創 設 者 と して世 界 に知 られ る よ うに な るニ イ ル だ が,当 時 彼 の 自 由 主 義 教 育 は まだ 実 験 段 階 で あ った 。 ドイ ツ の 自由 主 義 教 育 者 た ち は ヘ レ ラ ウ建 設 当 時 か ら この 田 園都 市 に関 心 を寄 せ て お り,こ の時 イ ギ リス人 の ニ イル を 招 い て共 同 で 自 由主 義 教 育 を実 践 す る こ とに な る。 有 名 な 〈サ マ ー ヒル 学 園(SummerhillSchool)〉
の 原 型 と も言 うべ きヘ レ ラ ウ の 〈国 際 自 由学 校 〉 に は ヨー ロ ッパ 各 国 か ら生 徒 が 集 ま り,ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 に代 わ っ て ヘ レ ラ ウ に活 気 を もた らす もの と な っ た 。 この 時 ヘ レ ラ ウ教 育 施 設 で は上 記 の3つ の学 校 が 合 併 した か た ち と な り,リ トミ ッ ク ・工 芸 教 育 ・一 般 教 育 を三 本 柱 とす る教 育 が 成 立 す る11。一 時 期 ヘ レ ラ ウ を離 れ て い た建 築 家 の ハ イ ン リ ヒ ・テ ッセ ノ ウ もハ ラル ト・ドー ル ンの 要 請 を受 けて1919年 に ヘ レ ラ ウ へ戻 り,ヘ レ ラ ウ の 工 芸 技 術 の 向 上 に 努 め て い た 。 ヘ レ ラ ウ に育 ち,後 年 著 名 な トー マ ス ・マ ン研 究 者 とな るペ ー タ ー ・ド ・メ ンデ ル ス ゾ ー ン(PeterdeMendelssohn,1908‑1982)の 回 想12 を読 む と,こ の 時 の ヘ レ ラ ウ に は ゲ ー テ の描 い た 黙教 育 州"的 な雰 囲 気 が あ る程 度 漂 っ て い た も の と推 測 され る 。
1914年 に初 め て 訪 れ て 以 来 この 田 園 都 市 に関 心 を持 ち 続 け た フ ラ ン ツ ・カ フ カ は,ダ ル ク ロ ー ズ に会 う機 会 は な か った もの の 肉体 的 な 蓋 恥 心 の 克 服 に 役 立 つ もの と して リ ト ミ ッ クの メ ソ ッ ドに関 心 を持 っ て い た 。 彼 は妹 ガ ブ リ エ ー レ の 二 人 の子 供 た ち を新 ヘ レ ラ ウ 学 校 に通 わ せ た い と考 え て い た が 実 現 せ ず,失 望 の気 持 ち をR.ク ロ ップ シ ュ トッ ク宛 の手 紙 に記 して い る13。
11Fasshauer
,Michae1,DasPhanomenHellerau,1997,Dresden.S.220.
12Mendelssohn
,Peterde,Hellerau:MeinUnverlierbaresEuropa,Dresden, 1993.
13カ フ カ の 手 紙(1922年9月 〔日 付 な し 〕)
。 ヘ レ ラ ウ の に 対 す る カ フ カ の 関 心 は リ ト ミ ッ ク 教 育 以 外 に も 及 ん だ 。 フ ェ リ ー ツ ェ ・バ ウ ア ー と の 婚 約 時 代 に は,カ ー ル ・シ ュ ミ ッ ト の 工 場 で 作 ら れ る 「簡 素 で 非 常 に し っ か り し た 」 家 具 を 買 う よ う 彼 女 に 指 示 し て い る 。 ま た1922年 に は,後 に カ フ カ の 最 後 を 看 取 る こ と に な る 友 人 の ロ ー ベ ル ト ・ク ロ ッ プ シ ュ ト ッ ク を 〈ヘ レ ラ ウ 出 版 〉 に 就 職 さ せ た い と願 い,へ 一 グ ナ ー に 友 人 の 雇 用 を 依 頼 し て い る 。こ の 計 画 は 結 局 実 現 し な か っ た が, そ の 後 も カ フ カ は 手 紙 に 「我 々 の ヘ レ ラ ウ に 対 す る 関 心 は 分 か ち が た い も の が あ
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この 学 校 合 併 体 は しか し短 命 で,1923年 に は ドイ ツ にお け る 自由 主 義 教 育 の 限 界 と経 済 的 困難 の 両 方 に直 面 し た ニ イ ル が ドイ ツ を去 る 。ま た1925年 に は ウ ィ ー ン市 が フ ェ ラ ン トーフ ロ イ ン トに好 条 件 を提 供 した た め,リ トミ ッ ク 学 校 は 〈新 ヘ レ ラ ウ ・ラ ク セ ン ブル ク校(NeuHellerauinLaxenburg)〉 と な って ウ ィー ン郊 外 の ラ ク セ ン ブル ク へ移 転 し,ヘ レ ラ ウ に お け る リ ト ミッ ク 教 育 の系 譜 は こ こで 途 絶 え て し ま う。
大 き な祝 祭 劇 場 を持 つ 施 設 の校 舎 は,そ の 後 しば ら くベ ル リ ンの 学 校 の セ ミナ ー ハ ウ ス や 催 し物 会 場,ま た は工 芸 家 や 芸 術 家 の ア トリエ と し て貸 し出 さ れ て い た が,ハ ラ ル ト・ドー ル ンの 奔走 に よっ て1929年 に 労働 省 との交 渉 が成 立 し,〈 国立 福 祉 学 校 〉が ベ ル リン か ら誘 致 さ れ る。 そ こで は ドレ ス デ ン の 〈ドイ ツ衛 生 博 物 館 〉 の職 員 が 保 健 学 を教 え る こ とに な っ た 。 こ の衛 生 先 進 都 市 ド レス デ ン な らで は の采 配 に よ っ て ヘ レ ラ ウ の 学 校 は"新 しい 人 間 性"
の た め の身 体 訓 育 とい う 目的 に か ろ う じて奉 仕 し続 けた と も言 え るが,し か しそ の 時 期 も長 くは続 か な か った 。
斉 藤佳 蔵 と石 井漠が 訪 れた ヘ レラ ウ新学校 の祝 祭 週間(1923)
5.ヘ レ ラ ウ の 社 会 主 義 者 た ち
ヴ ァイ マ ー ル 時 代 の 重 要 な 回 想 録 と して 知 られ るハ リー ・ケ ス ラ ー伯 爵 の 日記 に登 場 す る ヘ レ ラ ウ は,の どか な教 育 州 とい っ た趣 で は な い 。1931年1
る 」 と 記 し て い る 。(ク ロ ッ プ シ ュ ト ッ ク 宛,1921年6月 〔日 付 な し 〕)。
月31日 の 記 述 中 で は 「ヘ レ ラ ウ の 人 々 も,つ ま りパ ウ ル ・ア ー ド ラ ー の よ う な 詩 人 そ の 他 の 人 々 だ が,す っ か り ス パ ル タ ク ス 団 の 側 に つ い て し ま っ た,
フ ォ ー ゲ ラ ー を は じ め ブ レ ー メ ン の ヴ ォ ル プ ス ヴ ェ ー デ の 連 中 も 同 様 だ 」 と い う フ ォ ン ・ノ ス テ ィ ッ ツ の 談 話 が 紹 介 さ れ て い る14。 ド イ ツ 最 初 の 芸 術 家 コ ロ ニ ー で あ る ヴ ォ ル プ ス ヴ ェ ー デ の 中 心 で あ っ た ハ イ ン リ ヒ ・フ ォ ー ゲ ラ ー 宅 の 〈バ ル ケ ン ホ ー プ 〉 は,こ の 時 確 か に コ ミ ュ ニ ス トや ア ナ ー キ ス トの コ ミ ュ ー ン と化 し て い た 。ヘ レ ラ ウ の 住 民 の 第 一 次 大 戦 前 後 に お け る 左 翼 化 も, 看 過 す べ か ら ざ る 田 園 都 市 の 歴 史 の 一 面 で あ る 。
フ ォ ン ・ノ ス テ ィ ッ ツ が 言 及 し た パ ウ ル ・ア ー ド ラ ー(PaulAdler,1878‑
1946)は プ ラ ハ 生 ま れ の ユ ダ ヤ 人 で,14力 国 語 を 解 し,フ ロ ベ ー ル や クn一 デ ル,ヴ ァ レ リ ー 等 の フ ラ ン ス 文 学 や さ ら に は 日本 文 学 研 究 書15を も 翻 訳 出 版 し て い る碩 学 の 士 で あ っ た 。 ヘ レ ラ ウ で は 地 元 の 〈ヘ レ ラ ウ 出 版Heller‑
auerVerlag>か ら文 芸 雑 誌 を 出 し た り 自 宅 で 文 芸 サ ロ ン を 開 い た り し て お り,ア ー ド ラ ー の 居 場 所 は 黙神 聖 な 後 光 に 包 ま れ て い る か の よ う"だ と 言 わ れ る ほ ど16,彼 は 芸 術 家 コ ロ ニ ー の 精 神 的 支 柱 と し て 認 め ら れ て い た 。ア ー ド ラ ー 自 身 の 詩 的 散 文 集 や 小 説 は し か し 『魔 笛 』17,『異 神 』18と い っ た 題 名 が 暗 示 す る 通 り 秘 義 的 要 素 に 満 ち て お り,読 者 層 が 限 ら れ て い た た め,現 在 ア ー ド ラ ー の 名 は プ ラ ハ 出 身 の ドイ ツ 語 文 学 者 と い う文 脈 に お い て 知 ら れ る 程 度 で あ る 。 実 際 彼 は 同 郷 の カ フ カ や そ の 友 人 の 作 家 た ち,ヨ ハ ネ ス ・ウ ル ツ ィ デK・ 一 ル(JohannesUrzidi1,1896‑1970),フ ラ ン ツ ・ヴ ェ ル フ ェ ル(Franz
14GrafKessler ,Harry,Tagebttcher1918‑1937.Frankfurta.M.1996.S.116.
15Adler,Pau1,JapanischeLiteratur:GeschichteundAuswahlvondenAnfan‑
genbiszurneustenZeit,FrankfurtamMain,1926.[DerInhaltistzum gr6BtenTeileineUbers.von:AnthologiedelaLitt6raturejaponaisedes originesauXXesi6clevonMichelRevon,Paris,1910]
Adler,Paul,Sachw6rterbuchzurjapanischenLiteratur,FrankfurtamMain, 16Sarfert,ibid.,S.69.1926
17Adler,Pau1,DieZauberfldte,Dresden,1916.
18Adler ,Paul,Elohim,Dresden,1914.
モ ダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴 史(6) 93
Werfe1,1890‑1854)等 と親 交 を 結 ん で お り,ウ ル ツ ィ デ ィ ー ル の 『プ ラ ハ ・ ト リ プ テ ィ ク 』19に 収 め ら れ た 自 伝 的 作 品 の 中 に は 個 性 的 な ア ー ド ラ ー が 登 場 す る 。 ま た カ フ カ の 手 紙 か ら は,彼 が ア ー ド ラ ー の 存 在 か ら何 ら か の 圧 迫 感 を感 じ っ つ も そ の 善 意 を 高 く評 価 し て い た 様 子 を 窺 う こ とが で き る20。
第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 す る と ア ー ド ラ ー は 納 税 と兵 役 を 拒 否 し て 反 戦 行 動 に 出 る が,そ こ に は 彼 よ り 一 年 早 く1911年 か ら ヘ レ ラ ウ に 住 ん で い た オ ッ
トー ・リ ュ ー レ(OttoRtthle,1974‑1943)の 影 響 が あ っ た と言 わ れ て い る21。
ザ ク セ ン 州 の 教 育 者 で"ド イ ツ の ペ ス タ ロ ツ ィ"と 呼 ば れ た オ ッ トー ・リ ュ ー レ は1912年 か ら ド イ ツ 社 会 民 主 党 の 帝 国 議 会 議 員 を 務 め て い た 。 議 会 で は カ ー ル ・ リ ー プ ク ネ ヒ ト(KarlLiebknecht,1871‑1919)の 同 士 と も言 う べ き 存 在 で,第 一 次 世 界 大 戦 勃 発 の 際,二 人 は 共 に 社 民 党 中 の 反 戦 派 で あ っ た 。 リ ー プ ク ネ ヒ ト を 反 戦 の 象 徴 と し て 有 名 に し た 戦 時 公 債 法 案 採 択 の 際, リ ュ ー レ は 採 決 を 棄 権 し て は い る が,そ の 後 彼 は ス パ ル タ ク ス 団 に 加 わ り, 1918年 に は リ ー プ ク ネ ヒ ト と共 に ド イ ツ 共 産 党 を 創 設 し て い る 。 リ ュ ー レ は 精 力 的 な 街 頭 演 説 家 で,一 時 期 ヘ レ ラ ウ に ア ト リ エ を 持 っ て い た コ ン ラ ー
ト ・ フ ェ ー リ ク ス ミ ュ ラ ー(ConradFelixmUller)の 「ア ジ テ イ タ ー(Der Agitator)」 は リ ュ ー レ を描 い た も の で あ る 。1919年 の ド レ ス デ ン 市 街 戦 の 際
に 逮 捕 さ れ,リ ー プ ク ネ ヒ ト等 を 失 っ て 不 安 定 に な っ た 共 産 党 か ら 離 脱 し た 後,リ ュ ー レ は 著 述 家 と な っ て 労 働 者 の た め の 教 育 や 文 化 政 策 の 必 要 性 を 説 い た 多 く の 著 書 を 著 し た 。 ま た 亡 命 後 は メ キ シ コ の トロ ツ キ ー の 下 に 赴 き,
メ キ シ コ の 教 育 省 で 働 い た こ と で も 知 られ て い る 。 彼 の 大 著 『カ ー ル ・マ ル ク ス:生 涯 と作 品 』22は,ヤ ー コ プ ・へ 一 グ ナ ー の 〈ヘ レ ラ ウ 出 版 〉 か ら独 立 し た ヘ レ ラ ウ 第 二 の 出 版 社 と も言 う べ き 〈ア ヴ ァ ル ン 出 版 社(AvalunVer‑
1ag)〉 か ら刊 行 さ れ て い る23。
19Urzidi1
,Johannes,PragerTriptychon,1960.
20カ フ カ の 手 紙
,ク ロ ッ プ シ ュ ト ッ ク 宛,1921年9/10月 〔日 付 な し 〕。
21Sarfert
,ibid.,S.82.
22RUhle
,Otto,KarlMarx:LebenundWerk,Hellerau,1928.
パ ウ ル ・ア ー ド ラ ー コ ン ラ ー ト ・ フ ェ ー リ
ク ス ミ ュ ラ ー 「ア ジ テ イ タ ー 」(1920)
リ ュ ー レ は1917年 に ヘ レ ラ ウ を 離 れ て い る が,社 会 主 義 の 教 育 者 と し て 彼 が ヘ レ ラ ウ に 与 え た 影 響 は 大 き か っ た と 言 わ れ て い る 。 リ ュ ー レ と ア ー ド ラ ー と は 親 し い 友 人 で,後 者 は 前 者 の 強 い 勧 誘 に も拘 らず 社 民 党 員 と は な ら な か っ た も の の,ド イ ツ 革 命 後 は 共 に ド レ ス デ ン の 労 兵 レ ー テ に 参 加 し て い る 。 他 に も ヘ レ ラ ウ か ら の 労 兵 レ ー テ 参 加 者 と し て 知 られ て い る の は,美 術 収 集 家 お よ び 芸 術 家 の パ トロ ン と し て 知 ら れ る ビ ー ネ ル ト家 の 息 子,フ リ ー ド リ ヒ ・ビ ー ネ ル ト(FriedrichBienert)で あ る 。 ビ ー ネ ル ト は ヴ ィ グ マ ン の 弟 子 で 後 に 有 名 な ダ ン サ ー と な る グ レ ー ト ・パ ル ッ カ(GretPalucca)と 結 婚 し,ヘ レ ラ ウ に 住 ん で い た 。 ビ ー ネ ル ト家 と の 縁 に よ り,フ ラ ン ツ ・マ ル ク,オ ス カ ー ・コ コ シ ュ カ,ヴ ァ ル タ ー ・ハ ー ゼ ン ク レ'一ヴ ァ ー,コ ン ラ ー ト ・フ ェ ー リ ク ス ミ ュ ラ ー,オ ッ トー ・デ ィ ク ス ら の 芸 術 家 た ち が ヘ レ ラ ウ を 訪 れ,作 品 の 制 作 や 発 表 を 行 っ て い た 。1914年 以 前 に は フ ェ ル ッ チ ョ ・ブ ゾ ー こ も2年 間 ヘ レ ラ ウ に 住 ん で い る 。 フ リ ー ド リ ヒ ・ビ ー ネ ル ト も両 親 同 様 に 若 き 芸 術 家 を 支 援 し,特 に 〈ド イ ツ 革 命 的 造 型 芸 術 家 連 合(Assoziation RevolutionarerBildenderKufistlerDeutschlands)〉 に 積 極 的 に 関 与 し た24。
23HenryJacobyundIngridHerbst
,OttoRtthle,Hamburg,1985,S.23‑81.
モ ダ ニズ ム が夢 見 た ユ ー トピ ア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(6) 95
ヘ レ ラ ウ の人 間 が 黙す っ か りスパ ル タ ク ス 団 の 側 に つ い だ とい う主 張 に は多 少 の 誇 張 が あ ろ うが,確 か に社 会 主 義 思 想 はヘ レ ラ ウ の 共 同 体 全 体 に大 き な影 響 を与 え て い た よ うで あ る。 この 頃 田 園都 市 の3つ の 経 営 部 門 中,賃 貸 住 宅 を管 理 経 営 す る 「ヘ レ ラ ウ建 設 組 合 」 で は組 合 員 の 大 半 が 社 民 党 の支 持 者 で あ り25,ま た 祝 祭 劇 場 で は社 民 党 の後 援 に よ る 青 少 年 の た め の 催 しが 毎 年 開催 され て い た26。ドイ ツ革 命 の 際,ヘ レ ラ ウ新 学 校 の生 徒 で あ っ た 上 述 の ペ ー タ ー ・ド ・メ ン デル ス ゾー ン とヴ ォル フ ・ドー ル ンの 遺 児,ク ラ ウ ス ・
ドー ル ン は 「社 会 主 義 者 の学 徒 」 を名 乗 り,ヴ ィル ヘ ル ムニ 世 を批 判 した ビ ラ を学 内 で 配 布 して い る が,「皇 帝 は も はや 決 して ドイ ツ を再 建 す る こ と は な い 。社 会 主 義 者 の み が ドイ ツ を再 建 す る の だ 。諸 君,肝 に銘 じ るべ し!」27と 書 い た 彼 らが せ いぜ い11歳 そ こそ こで あ っ た こ とを思 う と,当 時 のヘ レ ラ ウ
の 高 揚 した 政 治 的 雰 囲 を推 し量 る こ とが で き よ う。 ヴ ァ イ マ ー ル 時 代 に はヘ レ ラ ウ に も共 産 党 の地 方 支 部 が で きた 。 ドイ ツ帝 国 時 代 の代 表 的 な芸 術 家 コ ロ ニ ー で あ る ヴ ォ ル プ ス ヴ ェ ー デ とヘ レ ラ ウが,共 に スパ ル タ クス 団 や 労 兵 レー テ と関 わ っ て い た こ とは記 憶 され て しか る べ きで あ ろ う。
しか し レ ー テ 運 動 の 敗 北 や ドイ ツ を襲 っ た 深 刻 な イ ン フ レ を 経 た 後 も,田 園都 市 の世 界 改 革 的雰 囲 気 が 持 続 した と は考 え難 い 。 特 に イ ン フ レ は 田 園都 市 の構 造 的成 長 に と って も致 命 的 な打 撃 と な っ た 。1923年,「 ヘ レ ラ ウ建 設 組 合 」 は約340戸 の 住 宅 を組 合 員 に 売 却 して い る。 彼 らの 個 人 資 産 に対 す る志 向 を尊 重 す る と同 時 に組 合 の 経 営 安 定 を 図 る こ とが 目的 だ っ た とは 言 え, カ ー ル ・シ ュ ミ ッ トに よ る とそ れ は 「持 て る者 と持 た ざ る者 」 の 差 異 を拡 大 す る結 果 とな っ た28。また 当 初 予 定 され た建 設 計 画 は 縮 小 を余 儀 な くさ れ,小
24Sarfert
,ibid.,S.81.
25Rosseger
,S.45.
26Fasshauer
,ibid.,S.211.
27Sarfert ,S.66.
28R6ssger
,Mirjam,DieBaugenossenschaftHellerauZwischenTraditionund Neubeginn‑DieDeutschenWerkstattenHellerauheute,in:Dresdner Hefte,Jrg、15,Heft51,Dresden,1997,S.45.
規 模 住 宅 に住 む労 働 者 家 庭 の 成 長 に合 致 す る よ う計 画 さ れ て い た 中規 模 住 宅 の 建 設 が 困 難 に な った 。 そ れ は単 に物 理 的 な縮 小 と い う よ りも田 園 都 市 構 想 の 部 分 的 断 念 を意 味 し て い た 。 当 初 グ ラ ン ドデ ザ イ ン を担 当 した リー マ ー シ ュ ミ ッ トはヘ レ ラ ウ の事 業 か ら手 を 引 き,そ の後 任 と も言 うべ き テ ッセ ノ ウ もイ ン フ レ の影 響 に よ り1926年 に 〈ヘ レ ラ ウ手 工 業 者 協 会 〉を解 散 して 田 園都 市 を 去 った 。 グ ス タ フ ・リ ュ ー デ ッケ(GustavLUdecke),パ ウ ル ・ノ イ マ ン(PaulNeumann)と い った 建 築 家 た ち が ヘ レ ラ ウ に 住 んで そ の後 の 建 設 事 業 を担 っ た もの の,芸 術 鑑 査 委 員 会 はす で に機 能 して お らず,共 同 体 の 統 一 的概 観 を保 つ こ とは 困難 だ っ た。そ して1925年 以 降 は リ ト ミ ッ ク学 校 も存 在 して い な か っ た 。
ヴ ォ ル プ ス ヴ ェ ー デ の 〈バ ル ケ ン ホ ー フ〉 は そ の後 少 年 の た め の 〈労 働 者 学 校 〉,そ し て 国 際 赤 色 救 援 会 の 〈子 供 の 家 〉 と変 貌 し て い くが,ヘ レラ ウ に
はヴ ォル プ ス ヴ ェ ー デ とは違 う運 命 が 待 っ て い た 。
6.ヘ レ ラ ウ の 「進 歩 的 反 動 」
生 活 改 革 運 動 の世 紀 転 換 期 当 時 の 理 想 に は,階 級 も民 族 もな く個 人 の幸 福 を 目指 す 平 等 主 義 的 な 雰 囲 気 が あ った 。 ヘ レ ラ ウ が育 成 を 目 指 した"新 しい 人 間"も,人 種 や 階 級 とは無 縁 の ユ ニ ヴ ァー サ ル な性 格 が あ っ た 。 が,1918 年 以 降 の ドイ ツで は様 々 な現 象 が イ デ オ ロ ギ ー 色 を強 め,次 第 に主 義 や 教 義
の対 立 が 表 面 化 して くる。 田 園都 市 もイ デ オ ロ ギ ー の対 立 か ら 自 由で あ る は ず が な く,む し ろ この外 界 か ら比 較 的 隔 離 され た 新 しい 共 同体 を 自 らの理 想 実 現 の 格 好 の場 と して見 る様 々 な 主 義 者 た ち を惹 きつ けた 。 中 で も徐 々 に勢 力 を増 し て きた の は民 族 主 義 や新 ロマ ン 主義 等 の反 動 勢 力 で あ るが,彼 らの プ ロ グ ラ ム に は大 都 市 批 判 や 過 剰 な 商 業 主義 へ の対 抗 な ど,生 活 改 革 理 念 に よれ ぼ進 歩 的 と も言 え る方 向性 を併 せ 持 っ て い た 。20年 代 の ヘ レ ラ ウ を特 徴 づ け る の は,こ れ らの 「進 歩 的 反 動 」29であ る。
ヘ レ ラ ウ に お け る 民 族 主 義 の 拠 点 は ハ イ ン リ ヒ ・プ ー ド ア(Heinrich
モ ダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴 史(6) 97
Pudor,1865‑1941)と ブ ル ー ノ ・タ ン ツ マ ン(BrunoTanzmann,1878‑1939)
が 興 し た 〈ハ ー ケ ン ク ロ イ ツ 出 版 社 〉 で あ っ た 。 プ ー ド ア は 裸 体 主 義 の 著 述 家 で30,1901年 か ら 体 力 増 進 の た め の 雑 誌 「力 と 美(KraftundSch6nheit)」
を 発 行 し て い た が,そ の 関 心 が 次 第 に 精 神 の 強 化 と い う 観 点 に 重 心 を 移 し て い く過 程 で タ ン ツ マ ン の 民 族 主 義 的 思 想 と共 鳴 し,二 人 は1912年 か らヘ レ ラ ウ に 住 ん で 独 自 の 教 育 事 業 を 開 始 す る31。 特 に 実 践 役 を 担 っ た の は タ ン ツ マ ン で,彼 は ヘ レ ラ ウ に や っ て 来 る と ま ず 「ド イ ツ 市 民 大 学 同 盟Deutscher Volkshochshulebund」 と 「ド イ ツ 市 民 大 学 職 業 紹 介 所EinArbeitsamtfttr deutscheVolkshochschulen」 と い う二 つ の 機 関 を 作 り,〈 ハ ー ケ ン ク ロ イ ツ 出 版 社 〉を 拠 点 に し た 宣 伝 活 動 を 始 め る 。 市 民 大 学 は20世 紀 初 頭 か ら ド イ ツ 各 地 で 徐 々 に 開 校 さ れ つ つ あ っ た が,タ ン ツ マ ン は 特 に 民 族 主 義 的 な 思 想 の 絆 に よ っ て 市 民 大 学 間 の 連 携 に 関 与 し た い と 考 え て い た よ う だ 。 ド レ ス デ ン の 裸 体 主 義 者 カ ー ル ・ヴ ァ ン ゼ ロ ウ(KarlVanselow)に よ っ て 発 行 さ れ て い た 雑 誌 「美(Schδnheit)」 の ヘ レ ラ ウ 特 集 号(1922年)に お い て,作 家 の ハ ン ス ・ホ ル ス ト ・ク ラ イ ゼ ル が 「市 民 大 学 の 努 力(DieVolkshochschulbe‑
strebungen)」 と い う 論 考 の 中 で 次 ぎ の よ う に 書 い て い る 。 「現 在 の 市 民 大 学 を 真 に 民 族 の 指 導 者(Ftthrer)32を 作 る た め の 学 校 に 仕 上 げ な け れ ば な ら な い 。 そ れ は ユ ニ ヴ ァ ー サ ル な 知 識 を伝 え る 大 学 よ り も あ る 意 味 で は 高 次 元 に あ る 教 育 機 関 で あ る 。 ハ ン ブ ル ク の フ ィ ヒ テ 協 会 と ヘ レ ラ ウ の 〈ドイ ツ 市 民 大 学 職 業 紹 介 所 〉 が そ の た め の 努 力 を し て い る33。」 さ ら に プ ー ドア と タ ン ツ
29Hermand
,Jost,DeralteTraumvomneuenReich,FrankfurtamMein,1988, S.65ff.
30Krabbe
,WolfgangR.,GesellschaftsanderungdurchLebensreform.Gδttingen, 1974,S.95f.
31Pudor
,Heinrich,ErziehungohneBUcher,in:DieSch6nheit,18.Band,Heft3, S.37‑39.
32ヒ ト ラ ー の 称 号 と し て 使 わ れ る 「総 統 」 も ド イ ツ 語 で は 「指 導 者 」 と い う 意 味 の
FUhrerで あ る 。
33Kreise1
,HansHorst,DieVolkshochschulbestrebungen,inDieSch6nheit,18.
Band,Heft3,S.149‑155.
マ ン は,ヘ レ ラ ウ を 噺 し い帝 国 の 礎 石"と 考 えて い た と言 う。 、帝 国 の た め の 指 導 者 の育 成"は,ヘ レ ラ ウ の 本 来 的 な 教 育 プ ロ グ ラム とは 無 縁 の もの で あ る。 しか し こ の 当 時 は ドイ ツ が 爪ヴ ェ ル サ イ ユ の屈 辱"に 耐 えて い た時 期 で あ り,噺 た な 指 導 者"と 噺 た な 帝 国"の 誕 生 を希 求 す る声 が ドイ ツ全 体 に 広 が りつ つ あ っ た 。 また タ ンツ マ ン は1917年 に 〈農 民 大 学(Bauernhoch‑
schule)〉 を開 校 し,「 す べ て の文 化 は農 業 か ら発 す る」とい うモ ッ トー の も と に 国 民 に とっ て の農 業 の 重 要 性 と郷 土 愛 を説 く教 育 を始 め て い る34。ハ イ ン リ ヒ ・ヒ ム ラ ー に賞 賛 され た この 農 民 教 育 運 動 は この 時 代 の ドイ ツ に お け る 農 本 主 義 の 台 頭 と合 致 した 動 きで あ り,こ の 農 本 主 義 はた い て い の 場 合 人 種 主 義 と結 び つ い て い た 。 例 え ぼ ヘ レ ラ ウ に は農 民 大 学 の 他 に敬 度 主 義 的 ユ ー トピ ス トの フ リー ド リ ヒ ・シ ェル(FriedrichSch611)と そ の支 持 者 た ち が 1920年 に建 て た 〈フ ォー ゲ ル ホ ー フ(Vogelhof)〉 とい う施 設 が あ った 。 精 神 性 に 重 き を置 くキ リス ト教 と自然 志 向 の新 ロマ ン主 義,そ して 民 族 主 義 が混 清 した そ の教 育 プ ロ グ ラ ム は,質 素 な暮 ら し とゲ ル マ ン的 農 業 へ の 回帰 を理 念 と しつ つ青 少 年 のxx北 方 人 種 の徳"を 高 め る こ と を 目的 と して い た35。
田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ の 周 辺 の緑 地 帯 が 〈血 と大 地 〉 の イ デ オ ロ ギ ー に よっ て 利 用 され る とい う事 態 が 徐 々 に 出 来 す る。 そ し て これ ら の民 族 主 義 的 ・人 種 主 義 的 プ ロ グ ラム を さ ら に押 し進 めた 〈ア ル タマ ー ネ ン開 拓 農 地 運 動 〉 が ヘ レ ラ ウ に 開拓 支 部 を持 つ よ うに な る。 この 運 動 の母 体 は人 種 主 義 者 の ヴ ィ リ ヴ ァル ト・ヘ ン チ ェル(WillibaldHentschel)に よ っ て1923年 に始 め られ た
〈ア ル タ ム 同 盟(BundArtam)〉 で,xxア ル タ ム(Artam)"と はイ ン ドの 太 陽神 で あ る ア ル タ ム に倣 った もの で あ る 。 当 時 の人 種 主 義 者 た ち は好 ん で, イ ン ドは ア ー リア人 の 故 郷,そ の 太 陽 神 は ゲ ル マ ンの 神 々 の 原 型 と考 え て い た36。 そ れ は ま た堕 落 した ラ テ ン系 諸 国 とそ の 文 明 か らの 完 全 な る 離 脱 を も
34Fasshauer
,ibid.,S.256.
35Sarfert
,ibid.,SS.92;ジ ョ ー ジ ・L・ モ ッ セ 『フ ェ ル キ ッ シ ュ 革 命 』 柏 書 房,
S.165f.
36同 上,S.127.
モ ダ ニ ズム が夢 見 た ユ ー トピ ア:ド イ ツ 田園 都市 建 設 の 歴史(6) 99
意 味 し,xxア ル タ マ ー ネ(Artaname)"と い う言 葉 に は さ らにxx郷土 を守 る者",
"東 部 勢 力 と闘 う ドイ ツの 戦 士"と い う意 味 が 付 加 され た37
。 ヘ ン チ ェル は ド イ ツ にお い て ダ ー ヴ ィニ ズ ム を広 め た エ ル ンス ト ・ヘ ッケ ル の弟 子 で,1896 年 に世 界 で 最 初 に田 園 都 市 理 論 を発 表 し た テ オ ドー ル ・ブ リ ッチ ュ(Theodor Fritsch)のi親 友 で も あ る38。過 激 な 反 ユ ダ ヤ 主 義 者 で あ っ た ブ リ ッチ ュ の 田 園 都 市 理 論 は発 表 当 時 そ の 民 族 主 義 的 傾 向 ゆ え に ドイ ツ 田 園 都 市 協 会 に敬 遠 され て 実 現 化 を 見 な か った が39,そ の 入 植 理 論 は そ の後 ヘ ンチ ェル に よ っ て 推 進 さ れ,1924年 結 局 ヘ レ ラ ウ の 土 壌 に受 け入 れ られ る こ とに な った 。
ハ イ ン リ ヒ ・プ ー ドア も ブ リ ッチ ュ と親 しか った こ と も あ り,結 局 思 想 を 同 じ くす るヘ レ ラ ウ の進 歩 的 反 動 主義 者 た ち は次 第 に共 闘 態 勢 を組 む よ うに な る。 農 民 大 学 の ブ ル ー ノ ・タ ン ツ マ ン は 〈ア ル タ マ ー ネ ン〉 を も指 導 す る
マ ル ク
よ うに な り,ヘ レ ラ ウ を 〈東 部 辺 境 地 方 〉 と捉 え る ス ロ ー ガ ン を発 動 す る よ う に な る。 そ れ は 東 方 か ら進 入 して くる低 価 値 の 異 民 族 に 対 し,ヘ レ ラ ウ な
マ ル ク
ど東 部 辺 境 地 方 が 防 波 堤 とな っ て ドイ ツ古 来 の 土 地 を 防衛 す べ し とい う国 土 保 全 思 想 で あ っ た 。1927年 に タ ン ツマ ン らが 発 表 した 「緑 の マ ニ フ ェス トと
マ ル ク
労 働 の作 戦 行 動 」とい う名 の 声 明 に は,凍 部 辺 境 地 方 を 農 村 の労 働 に よ っ て 補 強 し,国 家 間 の 主 張 が 衝 突 す る 際 の 武 器 とす るク とい う主 旨が 盛 り込 ま れ
コ ロ ニ
て い る。 ヘ レ ラ ウ は農 本 主 義 的 ・人 種 主 義 的 な植 民 地 構 想 に備 わ る二 種 の異 な っ た 目的,つ ま り ドイ ツ 国 民 の 中 か ら 〈北 方 的 〉 な遺 伝 子 を育 成 し よ う と す る人 種 育 成 目 的 と,生 存 圏 拡 大 の た め の東 部 進 出 目 的 の 両 方 を 同 時 に満 た
コ ロ ニ
す 理 想 的 な植 民 地 とな り,さ らに は 農 民 大 学 や 〈フ ォ ー ゲ ル ホ ー フ 〉 な どで
37Hermand
,Jost,DeralteTraumvomneuenReich,FrankfurtamMein,1988, S.141ff;Linse,Ulrich(Hrsg.),ZurUck,oMensch,zurMuttererde,Mttnchen,S.
327ff;Bergmann,Klaus,AgrarromantikundGroBstadtfeindschaft,Meisen‑
heim,1976,S.247ff.
38モ ッ セ
,同 上,S.154.
39副 島 美 由 紀 「モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(3)
‑E・ ハ ワ ー ド に 先 ん じ た ド イ ツ の 田 園 都 市 構 想 」
,小 樽 商 科 大 学 「人 文 研 究 」 第1003輯,2000,S.179‑209.
労働 と手 仕 事 に加 えて 軍 事 訓 練 が 施 さ れ る よ うに な っ て い っ た40。
他 方 で は民 族 主 義 に染 ま らぬ 農 業 改 革 の 成 功 例 も存 在 した 。 そ の推 進 者 は ヨハ ネ ス ・シ ョメ ー ル ス(JohannesSchomerus)で あ る。 シ ョメー ル ス は本 来 営 業 目的 で ヘ レ ラ ウへ や っ て きた 商 人 で あ っ た が,田 園都 市 思 想 に感 化 さ れ,特 に そ の 緑 地 帯 の 利 用 法 に注 目 す る よ う に な る。 彼 は ル ドル フ ・シ ュ タ イ ナ ー が 唱 道 し たバ イ オ ダ イ ナ ミッ ク(有 機 力 動)農 業 の 方 法 を取 り入 れ, 有 機 的 果 樹 栽 培 と造 園 の 技 術 改 革 に努 め た 。 シ ョメ ー ル ス は 有 機 農 業 の本 も 多 く著 し41,ザ ク セ ン州 の果 樹 園 経 営 団体 の 顧 問 等 も務 め た 。また 彼 の指 導 に よ りヘ レ ラ ウの 住 民 に よ る果 樹 の 市 場 出荷 もな さ れ て い る。 今 日で はバ イ オ ダ イ ナ ミ ッ ク農 業 は オ ー ル タ ナ テ ィ ヴ農 業 と し て 世 界 的 な支 持 を得 て い る が,シ ョメ ー ル ス は そ の パ イ オ ニ ア の一 人 で あ る と言 え よ う42。
ア ル タ マ ー ネ ン の存 在 はヘ レ ラ ウ に お け るナ チ ズ ム へ の 円 滑 な 移 行 を意 味 して い た。 この 民 族 主 義 的 ・国粋 主 義 的 な 開 拓 グ ル ー プ は ユ ー トピ ス ト集 団 の 中 で は最 大 の もの で あ り,し か も1927年 の 段 階 で ア ル タ マ ー ネ ン開 拓 民 の 70パ ー セ ン トが す で にナ チ党 員 で あ っ た と言 わ れ て い る。ア ル タ ム 同盟 に属 して い た ナ チ 指 導 者 の 中 に はハ イ ン リ ヒ ・ヒム ラ ー とや ル ドル フ ・ヘ ス 等 が お り43,ま た タ ン ツ マ ン は ヒ トラ ー か ら終 身 年 金 の 栄 誉 を授 か って い る 。ヘ レ ラ ウ に は ナ チ 党 の地 方 支 部 が で き,ド イ ツ 共 産 党 の 支 部 と しぼ し ぼ摩 擦 を起
こ した 。し か し形 勢 は 明 らか で,例 え ば1933年 に ア ー ドラ ー が ナ チ ス の突 撃 隊 メ ンバ ー に 襲 わ れ て 殴 打 さ れ る事 件 が あ り,彼 は ヘ レ ラ ウ を 去 っ て故 郷 の プ ラ ハ へ 引 き揚 げ て い く。 ナ チ党 の 政 権 掌 握 と前 後 して 多 くの ユ ダ ヤ 系,非 ユ ダ ヤ 系 の芸 術 家,医 者,作 家 た ち が ヘ レ ラ ウ,あ る い は ドイ ツ を去 っ て行 っ た。 や は りユ ダ ヤ 人 で あ った ヤ ー コ プ ・へ 一 グ ナ ー はス イ ス へ,メ ン デ ル ス
40Fasshauer ,ibid.,S.258.
41Schomerus
,Johannes,Diebiologisch‑dynamischeWirtschaftsweiseimObst‑
undGartenbau,DUsseldorf,1932.
42Fasshauer ,ibid.,S.255.
43Hermand ,ibid.,S.142.
モ ダニ ズ ムが 夢 見 た ユ ー トピア ドイ ツ田 園都 市 建設 の歴 史(6) ヱ0ヱ
ゾー ン家 はイ ギ リス へ 移 住 して い る。 〈ドイ ツ工 房 ヘ レ ラ ウ〉 の カ ー ル ・シ ュ ミッ トを 除 い て,田 園 都 市 の 動 力 とな っ て い っ た人 々 は皆 ヘ レ ラ ウ を去 って 行 った 。
か つ て ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 で あ っ た 教 育 施 設 も さ ら な る変 化 を被 る。1931 年,ヘ レ ラ ウ 教 育 施 設 は 国 立 福 祉 学 校 に 加 え,〈 ドー ラ ・メ ン ツ ラ ー 学 校
(Dora‑Menzler‑Schule)〉 の誘 致 に成 功 す る。1908年 ラ イ プ ツ ィ ヒに設 立 さ れ た ドイ ツ で 最 も古 い 体 育 学 校 の 一 っ で,校 長 の メ ン ツ ラ ー は 『貴 方 の 身 体 の 美 し さ』44や 『女 性 の た め の リ ラ ック ス 運 動 』45とい っ た 著 作 に よ っ て も知 られ て い た46。彼 女 は ドイ ツの 学 校 で行 わ れ て い た 形 式 主 義 的 体 育 教 育 の 批 判 者 で,音 楽 や リズ ム と身 体 の 関 係 を重 視 し て お り,ヘ レ ラ ウ にお け る身 体 教 育 の 伝 統 を引 き継 ぐの に適 した 存 在 で あ っ た。 校 舎 の半 分 を使 っ て再 び 身 体 教 育 が 開 始 され た が,ナ チ ス が 政 権 を掌 握 す る と メ ン ツ ラ ー が 爪半 ユ ダ ヤ 人"で あ っ た た め に 学 校 は解 散 を命 じ られ る。 国 立 福 祉 学 校 もナ チ ス政 府 に よ り閉 鎖 さ れ,他 方 で は 〈ドイ ツ衛 生 博 物 館 〉 の 展 示 物 が人 種 主 義 の イ デ オ ロ ギ ー に奉 仕 す る よ う に な る 。 ハ ラル ト ・ドー ル ン は学 校 施 設 を政 府 に売 却 す る しか な か った 。 ナ チ ス政 府 は まず 祝 祭 劇 場 を 民 族 主 義 的 ・人 種 主 義 的 演 劇 の た め の劇 場 と して 利 用 す る こ とを考 えた が その 計 画 を 断念 し,1937年 に 兵 舎 を増 築 して 警 察 の 施 設 とす る。 祝 祭 劇 場 は警 察 学 校 の体 育 館 とな るが, 第 二 次 大 戦 が 勃 発 す る とそ れ ら もナ チ ス の 親 衛 隊 の 宿 舎 とな る。 か つ て祝 祭 劇 場 の 正 面 に彫 り込 まれ て い た 陰 陽 印 の ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の校 章 は,ハ ー ケ
ン ク ロ イ ツ に とっ て変 わ られ る。
44Menzler ,Dora,DieSchdnheitdeinesK6rpers,Stuttgart,1924.
45Menzler ,Dora,EntspannungsUbungenderFrau,Stuttgart,1924.
46Sarfert
,ibid.,S.64.
7.ハ ラ ル ト ・ ド ー ル ン と 〈白 バ ラ 抵 抗 運 動 〉
田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ建 設 当 初 の高 い 理 想 が徐 々 に放 棄 され て い く過 程 を考 え る時,ハ ラ ル ト ・ドー ル ンの 生 涯 と そ の最 期 を想 起 しな い 訳 に は い か な い。
彼 の死 も ま た,田 園 都 市 の 歴 史 に 関 わ る悲 劇 の 一 つ と して 捉 え る こ とが で き る か らだ 。
兄 の ヴ ォ ル フ ・ドー ル ンが1914年 に不 慮 の事 故 で 死 亡 した 後,弟 の ハ ラル トは寡 婦 とな っ た 兄 嫁 と結 婚 し,田 園都 市 株 式 会 社 とヘ レ ラ ウ教 育 事 業 に関 わ る兄 の 責 務 を 引 き継 い だ 。 そ の後20年 間,ダ ル ク ロー ズ との 決 別 や リ ト
ミ ック 学 校 の転 出 な ど次 々 と困 難 に直 面 す る学 校 運 営 の舵 取 りを行 っ て き た が,ナ チ スが 政 権 を掌 握 す る と学 校 施 設 を ザ ク セ ン州 政 府 に売 却 して ヘ レ ラ ウ を離 れ る。 そ の 後 彼 はパ リ とベ ル リ ンで 当 時 まだ 新 しい 分 野 で あ っ た マ ッ サ ー ジ と リハ ビ リ治 療 を学 ん だ 後,1941年 バ イ エ ル ンの 小 村 バ ー ト ・ヴ ィー ス ゼ ー で食 事 療 法 の サ ナ トリ ウム を 開 く。 ダ ル ク ロー ズ の リ トミ ック を学 び サ ナ トリ ウム 〈白鹿 〉 の前 例 を親 し く知 っ て い た ドー ル ン に とっ て,新 た な キ ャ リア と し て は 自然 な選 択 だ った ろ う。 そ の後 二 人 の娘 た ちが 合 流 し,そ の う ち の 一 人,ヘ ル タが あ る医 学 生 と知 り合 い結 婚 す る。 そ の 医 学 生 が 後 に く白 バ ラ 抵 抗 運 動 〉 グ ル ー プ の 一 人 と な る ク リ ス ト フ ・プ ロ ー プ ス ト (ChristophProbst,1919‑1943)で あ る。 ナ チ ス を嫌 悪 して い た ドー ル ンが プ ロー プ ス トを通 じて 〈白バ ラ 〉 の リー ダ ー,ハ ンス ・シ ョル(HansScholl, 1918‑1943)と 知 り合 い 意 気 投 合 す る まで さ ほ ど時 問 はか か らな か っ た 。 処 刑 され た7人 の 一 人 で あ る ヴ ィ リー ・グ ラ ー フ(WilliGraf,1918‑1943)の 手 記 に よ る と,ド ー ル ン と シ ョル の二 人 を ま ず結 び つ け た の は フ ラ ン シス ・ジ ャ ム,ジ ョル ジ ュ ・ベ ル ナ ノ ス,ポ ー ル ・ク ロ デ ー ル とい っ た フ ラ ン ス の 作 家 た ち の名 前 で あ っ た 。 シ ョル が 読 ん で い た これ らの 作 家 は,パ ウル ・ア ー ド ラ ー の翻 訳 とヤ ー コプ ・ヘ ー グ ナ ー の 出版 業 に よ っ て 田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ が ド イ ツ に もた ら し た もの で あ っ た 。 後 に二 人 は文 学 に つ い て の み な らず,ナ チ ス に対 す る抵 抗 運 動 につ い て語 り合 う よ う に な る。1943年2月,ド ー ル ン は
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建 設 の歴 史(6) ヱ03
ドー ル ン家 。 後 列 右 が ハ ラ ル ト ・ ドー ル ン, そ の 隣 が ヴ ォ ル フ ・
ドー ル ン
シ ョル 兄 弟 や プ ロ ー プ ス トを初 め 〈白バ ラ〉の 闘 士 た ち と共 に逮 捕 され るが,
〈白バ ラ通 信 〉 配 布 の 行 動 に は直 接 参 加 し なか っ た の か,無 罪 判 決 を受 け る。
しか し釈 放 さ れ た の も束 の 間,当 局 に とっ て 要 注 意 人 物 で あ っ た た め か,敗 戦 が 確 実 視 さ れ た 時 ナ チ ス の 敗 北 に歓 喜 した こ と を隣 人 に密 告 さ れ て も う一 人 の義 理 の 息 子 と共 に再 逮 捕 され,ヒ トラ ー 自殺 の 前 日に 共 に ナ チ ス の 大 管 区 長 に よ っ て銃 殺 され て し ま う47。
ハ ラル ト ・ドー ル ン の死 は 〈白バ ラ 〉 グ ル ー プ の それ と して 語 られ る こ と はな い が,田 園 都 市 にお け る芸 術 教 育 継 続 の た め に費 や さ れ た20年 の努 力 と,田 園 都 市 の 活 動 に よ っ て反 フ ァ シ ズ ム 抵 抗 グ ル ー プ 〈白バ ラ〉 と結 び っ け られ た 絆 は,精 神 的 な 運 動 と して の ドイ ツ 田 園 都 市 建 設 運 動 が もた ら した 結 果 の 一 つ と して 記 憶 され るべ きで あ る よ う に思 わ れ る。
8.第 二 次 大 戦 後 の ヘ レ ラ ウ
カ ー ル ・シ ュ ミ ッ ト の 家 具 工 場 〈ド イ ツ 工 房 ヘ レ ラ ウ 〉 は,1930年 に 一 時
47Sarfert
,ibid.,S.123‑125.