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著者 宮岸 雄介

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唐初における古文作家と駢儷文作家の古典観 : 陳 子昂と劉知幾の後世評からの一考察

著者 宮岸 雄介

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 4

号 1

ページ 121‑136

発行年 2010‑03

その他のタイトル On a Classic Viewpoint of  Pian‑Wen  Writers and  Gu‑Wen  Writers in the Early Tang

Dynasty

URL http://hdl.handle.net/10723/92

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唐初における古文作家と駢儷文作家の古典観

陳子昂と劉知幾の後世評からの一考察

宮 岸 雄 介

は じ め に

古来中国の歴史認識は, 尚古主義を旨とする儒 家の経学的な史観がバックボーンにあり, 下降史 観で歴史が綴られることが多い。 すなわち儒家の 経典に描かれた古代の聖王たちの時代が最も理想 的な時代であり, その後時間を経るに従って文化 や道徳などは疲弊して現代に至るという見方であ る。 尚古主義の歴史を確認した後は, 衰退した文 化の復興を目指すという発想が生まれる。 これが 復古主義となる。 中国の文人たちが歴史を語ると 尚古主義, そして現実の思想を紡ぎ出すときは復 古主義となる歴史意識が, いわゆる儒家的で正統 な発想であるが, その一方で, 理想とされた経典 の世界の真相を疑う疑古の立場も各時代に確認さ れる。 これらは儒学における正統な歴史観を否定 するので, つねづね異端思想とされるが, 中国思 想史の営みでは, まさに陰ながら連綿と引き継が れてきた。

唐代では, 初期に史学の中から疑古の精神が芽 生え, 経解釈に一石を投じることになった。 中国 初の史論書で, 劉知幾が書いた 史通 である。

劉知幾はその疑古篇などで, 大胆にも徹底した史 料批判に基づく実証的態度から, 経典本文の記載 まで史実ではないと糾弾した。 しかし, 経学の権 威を守ることが正統とされた当時の中国学術界か

らは, 彼の主張は抹殺され, 表だってそれを継承 するという系譜は途絶えてしまっている。

唐代の儒学内におけるもう一つの特筆すべき変 化は, 古文復興の思想が唐初の頃から醸造され, 中唐期に開花していったことである。 現在歴史が 伝えるところでは, 韓愈・柳宗元がこの主張を提 唱し, 古文での名作を次々に生み出して, 後世の 文章の規範となったとされている。 ところが, 諸 説有るとおり, 韓愈や柳宗元も先輩たちから古文 復帰の思想を受け継いで, これを完成のレベルま で引き上げたというのが真相である。

唐初の史学と中唐の古文復興とは, 一方が実証 主義にうらうちされた疑古の精神で, もう一方は 尚古主義の歴史を復古主義で新たに作り出そうと いうもので, 接点が何もないように見える。 しか し, 唐初に編纂された正史に古文の文体で綴られ たものが存在すること, 劉知幾も史書叙述論を展 開する際, 駢儷文ではなく古文の書き方を薦めて いるなど, 中唐に開花する古文復興の思想に何ら かの影響を与えているような形跡が見受けられる。

また, 韓愈自身も司馬遷の 史記 の文章に傾倒 しており, 自ら 順宗実録 という史書編纂に関 わったり, 柳宗元も韓愈に史書を巡っての手紙を 送ったりと, 史学との関係は深い。 韓愈, 柳宗元 に至るまでの古文家たちも, 史学に関する意見を 吐露しており, 史学と古文復興には思想的影響関 係が認められそうである。

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本論では, 最初に唐初の史学と古文との関係を 指摘した清の史家趙翼の意見から見ていくことに しよう。

1. 趙翼の 「古文は姚察 梁書 より始ま る」 説をめぐって

清の史家趙翼は, 古文運動は唐初の史書から始 まった, と以下のように指摘している。

梁書 雖全據國史, 而行文則自出鑪錘, 直 欲遠追班・馬。 蓋六朝争尚駢儷, 即序事之文, 亦多四字為句, 罕有用散文単行者, 梁書 則 多以古文行之。 ( 廿二史記 巻9 古文自姚 察始)

すなわち, 六朝以来の史書が競って四六駢儷体を 使って叙述していた中, 姚察・思簾父子による 梁書 陳書 , 李延寿 南北史 (1)の叙述はみ な古文で書かれていたというのである。 趙翼は実 際の史書の文体から, 古文復興の始まりを唐初史 家の文章に見いだしているが, 唐初にも, 六朝以 来の史書文体に対する反省はあった。 同時代の史 論家劉知幾は,

自茲已降, 史道陵夷, 作者蕪音累句, 雲蒸泉 湧。 其為文也, 大抵編字不隻, 捶句皆雙, 修短 取均, 奇偶相配。 故應以一言蔽之者, 輒足為二 言, 應以三句成文者, 必分為四句。 ( 史通 叙 事篇)

と明確に当時の史書の文体について説明している。

ここでは, 漢代の 史記 漢書 の後は 「史道 が陵夷し」 てしまい(2), 史書を書く者がいたずら に偶数句で文章を綴ることを非難している。 劉知

幾は, この 史通 叙事篇で, 史書の優れたもの の条件として, 「夫れ國史の美なる者は, 叙事を 以って工と為し, 叙事の工なる者は, 簡要を以っ て主と為す」 と史書文体の簡潔さを主張する。 そ して, 一番模範となる史書の文体は, 春秋 尚 書 のそれである(3)とし, 「然則文約而事豊, 此 述作之尤美者也」 と, 簡潔な表現の中に深い意味 を込めた文体を理想としたのである。 経典の文を 模範とし, 駢儷文を廃して簡潔な表現を求める, この発想そのものに, 古文復興の思想を読み取る ことも可能であるようにも思われる。 すなわち, 劉知幾は, 疑古篇で経典批判を展開してはいるが, 彼の学問の基底にはあくまでも経学, ことに家学 であった古文学派 (漢代の学派) の経学観があり, 基本的には経典を重んじる尚古主義であったこと が確認できる。

さらに 史通 叙事篇では, 簡要なる文体を書 くテクニックである 「省句」 「省字」 という方法 を提案し用意周到である。 また, 文章表現が簡潔 でありながら言わんとすることが言外にあふれて いる 「晦」 なる表現が, 修辞をこらして道理は文 の中だけにつきている 「顕」 なる表現より優れて いると力説している(4)。 こうした文章表現論は, 史書叙述にも浸透していた六朝美文に対する深い 反省と反発からなされたもので, 貴族文化を代表 する駢儷文を廃して新しい文体を模索した古文復 興の発想と軌を一にするものである。

しかし, 唐初の史学と中唐に盛んとなった古文 復興の思想とは, 単純に連続していく性質のもの でもないようである。 これほど史書の文体に,

「古文」 風で簡潔なものを求めた劉知幾は, 史通 全篇を四六駢儷体を基本とした文章で書いている のである。 劉知幾は, なぜ 史通 を駢文で書い たのであろうか。 この原因を, 本論では, 史学と 古文復興の思想の関係, 唐初の史学思想が続く唐

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末宋初に及ぼした影響の検証を通じて考えてみた い。

唐代それに続く宋代の古文家たちは, 唐初史書 の成果に必ずしもその源流を求めているとは言え ない。 新唐書 の劉知幾評価は

何 (劉) 知幾以来, 工訶古人而拙於用己歟。

自韓愈為 順宗實録 , 議者閧然不息, 卒竄定 無完篇, 乃知為史者亦難言之。 ( 新唐書 巻 132 劉知幾伝論賛)

という経典を誹謗したことに関する痛烈な非難を 載せるだけで, 古文の具体的な書法などを詳述し ていることなど一切触れておらず, 古文復興の先 蹤であるなどとも一切言及していない。 新唐書 はここでも韓愈が 順宗実録 を編纂したことに 触れているが, これも古文復興の大成者としての 敬意を示したものと思われる。

一方, 韓愈礼讃の 新唐書 の主張へと連なる 唐代の古文学者たちも, 同王朝の先輩を顕彰する ことを行っていた。 しかし, 史書の文体に古文の 先蹤を認めるという, 趙翼のような指摘は一切し ていない。 これは, 古文復興という一連の発想は, 単なる文体の変更だけではなく, その背景にある 思想的なもの, 具体的にいうと儒学の正統な思想 を継承していくという思想活動であったというこ とを物語っている。 すなわち, 古文家たちが同一 王朝で顕彰すべき人物は, 自分たちと思想的脈絡 がつながっている人物でなければならなかったの である。

趙翼が指摘した, 唐初の史書の文体が古文で書 かれたという事実は, 過剰な修辞を施した南朝文 化と質朴で直截的な北朝の文化が, 国策として融 合されようとする過程の中で, 実践されたもので, 後に中唐期に花開く古文運動とは, 基本的に性質

の違うものであったと言うことができる。 中唐期 に成熟した古文復興の思想は, 王朝側からの要請 でできあがった公のものではなく, 唐代の士大夫 たちが自ら考案していった私的産物であった。 正 史が王朝勅撰のものとなり, 唐代以降個人の著作 ではなく, 史局で数人の史官によって編纂される ものに変質したことは, おそらく古文の思想と大 きな隔たりを作っている一つの原因であると思わ れる。 実は, 劉知幾も, 「古之國史, 皆出一家, 未聞藉功于衆」 ( 新唐書 本伝)(5)と, 古代の國 史とはそもそも一人によって書かれるもので, 唐 の史局のように, たくさんの史官が集まって編纂 するものではないという考えを持っており, 自分 の思い描く史書が書けない史局を辞めてしまった という経緯があった。

今日残る劉知幾批判は, 唐末の学者柳による ものなどいくつか見える(6)が, その論旨はほと んどが, 劉知幾の経書批判に対する論評である。

唐末は, 古文復興の勢いもやや衰え, それを死守 する韓愈のエピゴーネンたちは, 声高に復古を唱 え, 経典重視の意見を主張した時代であった(7)。 すなわち, 経典そのものを批判した劉知幾の経学 観こそは, こうした時代風潮にあって糾弾されな ければならないものであったのであろう。 古文復 興の思想が結実していった北宋の 新唐書 の劉 知幾評価は, こうした唐末以来の批評の総決算で あったと言えよう。

冒頭に挙げた清の趙翼も, 実作としての古文は 韓愈から始まったのではなく唐初史書にその源流 があると主張していたが, いわゆる古文復興の思 想は, 韓愈の直前に活躍した文学者梁粛・独孤及 の文章に見いだそうとしている。

新 (唐) 書 文傳序, 唐興百餘年, 諸儒争 自名家。 (中略) 於是韓愈倡之, 柳宗元・李・

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皇甫等和之。 唐之文完然為一代法, 此其極也。

是宋景文謂唐之古文由韓愈倡始, 其實不然。 案 旧 (唐) 書 韓愈傳, 大暦・貞元間, 文士多 尚古學, 效楊雄・董仲舒之述作, 獨孤及・梁粛 最稱淵奥。 (韓) 愈従其徒游, 鋭意鑽仰, 欲自 振於一代, 挙進士, 投文公卿間, 故相鄭餘慶為 之延誉, 由是知名。 是 (韓) 愈之先早有以古文 名家者。 ( 廿二史記 巻20 唐古文不始于 韓柳)

と, 史家趙翼の論証は, 一般に韓愈・柳宗元が古 文復興を提唱し始めたかのように認識されている が, 歴史的真相はそうではないことを明らかにし ようとしている。 とりわけ韓愈を古文復興の祖と して仰ごうという意図が濃厚である 新唐書 の 記事をそのまま信じると, 史実は曲解されてしま いかねない。 そこで, 趙翼は 旧唐書 の記事に 着目して, 韓愈・柳宗元の前に古文の風気があっ たことを論証している。

旧唐書 は, 五代の唐晋時代にできあがった 史書で, 実録などの唐代史料をそのまま採用して いるところに特徴がある。 奏・詔・令・表などの 朝廷の公式文書も原文のまま掲載していたため, 唐代に支配的であった四六駢儷体で書かれた部分 が非常に多くなっている。 逆に, こうした多くの 引用を極力廃し, 引用文も要約して古文の文体に 書き直したのが 新唐書 であった。

すなわち, 趙翼は, 古文運動というものを歴史 的に捉えるために, その主張をより主観的に宣伝 しようとしている史料だけによらず, より公平に 同時代史料を見渡しながら, より実証的に考察を 加えているのである。 さきに趙翼が, 唐初史書の 具体的文体から古文の実作の皓歯を発見したこと を見たが, ここでは, 思想としての古文復興は韓 愈の直前に活躍した梁粛・独孤及の文章に起源を

求めようとしている。 趙翼は唐初史書に, 古文の 思想の源流を認める論証はしていないのである。

唐初の劉知幾の史書叙述論には, 姚思簾らの実作 の理論的説明が見つけられたが, これがそのまま 古文家たちに影響を与えたという事実も認められ ない。

以上, 新唐書 の編者のみならず, 盛唐中唐 期の古文復興の思想家たちは, 必ずしも唐初の史 学との連続性を意識していないということを明ら かにしてきた。 それでは, 盛唐中唐の古文家たち は唐初という時代をどのように見ていたのであろ うか。 次に章を改めて, 彼らの唐初へのまなざし を分析しながら, 古文復興という思想の発想の原 点について考察してみたいと思う。

2. 陳子昂尊重論の系譜

盛中唐の古文家たちが, 唐初の史学に対して古 文復興思想の源流を考えていないとすると, 彼ら は唐初という時間帯に対してどのような認識を抱 いていたのであろうか。 彼らは古文復興の思想を 論じる際, 独自の文学史を展開しながら自分たち の文学を位置づけようと論述することが多い。 基 本的には尚古の立場である古文家たちの文学史観 は, 古典の時代を最高潮とし, 以後六朝貴族の時 代を経て急速に衰退をたどる下降史観が描かれる 特徴がある。 古文家たちの文学史観は, 漢代文学 を評価するかしないかで, 盛唐古文家と中唐古文 家の思想の特質が峻別できる(8)が, 時に彼らの 文学批評の記述が唐王朝の文学まで及ぶ場合もあ る。 そのとき決まって最初に顕彰されているのが 初唐の陳子昂 (661〜702) である。

韓愈が 「唐之有天下, 陳子昂・蘇源明・元結・

李白・杜甫・李観, 皆以其所能鳴」 (「送孟東野 序」)(9)と評するのを始め, 柳宗元も 「唐興以来,

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称是選而者, 梓潼陳拾遺 (子昂)」 (「楊評事文 集後序」) というように, すでに古文家の二大家 が, 唐代文学の嚆矢として陳子昂を最初に挙げて いる。 すなわち古文家たちにとって, 陳子昂は特 別な存在であったと考えられる。 それでは, なぜ 陳子昂が古文家たちにとって同時代文学者の筆頭 として顕彰されるのであろうか。 本章では, 古文 家たちの陳子昂尊重の実状についてみていくこと にする。

唐代の文人による文学史として有名なものは, 盛唐から中唐にかけての古文家梁粛 (753〜793) の 「補闕李君前集序」 ( 全唐文 巻518) である。

唐有天下幾二百載, 而文章三変。 初則廣漢陳 子昂以風雅革浮侈, 次則燕國張公説以宏茂廣波 瀾。 天寶已還, 則李員外・蕭功曹・賈常侍・獨 孤常州比肩而出, 故其道益熾。

ここでは, 唐代文学が三回変化して発展していく という歴史が概観されている。 この文学史の三変 説は, 梁の沈約の 宋書 謝霊運伝論にみえる中 国文学史の 「自漢至魏, 四百年, 辞人才子, 文體 三変」 という表現を援用していると思われる。 そ して, この三変説は, 新唐書 文芸伝にも, 「唐 有天下三百年, 文章無慮三変」 という表現に受け 継がれていく。 三変説の特質は, 三段階の段階を 経て最後に一番発展するというような発展史観で あることである(10)。 すなわち, 歴史を客観的に 叙述しようというものではなく, 現代を最高と考 え, それに向けて歴史は発展してきたものと恣意 的に捉えるのである。 梁粛は自分たちが活躍をし た天寶年間を, 新唐書 では韓愈・柳宗元の古 文を最高潮に達した時代として意図的に描いてい る。 儒家的な歴史観が, 尚古主義を基本とする下 降史観であったのに対して, 古文家たちの歴史観

が発展史観で描かれていることは非常に興味深い 事実である。 なぜ, 発展史観を古文家たちは抱く のであろうか。

宋代に登場する新儒学では, 正統な道の継承で ある 「道統」 という概念がその思想を支える基礎 的な発想となっている。 この発想の片鱗は, すで に韓愈の思想に認められる(11)のであるが, この 発展史観こそが, 道統を考案する際に必要となる 考え方となると思われる。 尚古主義にせよ, 発展 史観にせよ, 歴史を描く者の恣意的な意図が最初 にあり, これは歴史的事実を実証的に叙述する史 学の精神とは根本的に違う。 この意味からも, 古 文復興の思想と劉知幾の目指した史学とは方向性 が全然違っていることが確認できる。

話を元に戻すと, 梁粛は, 「初めは則ち廣漢の 陳子昂風雅を以て浮侈を革む」 として, 最初の変 化期の筆頭として陳子昂を挙げる。 六朝以来の

「浮侈」 なる文学を 詩経 の風雅の伝統へと変 革した功績がたたえられている。 すなわち, 唐の 古文復興の端緒を切り開いたのを陳子昂であると 位置づけたのであった。 こうした認識は, 彼一人 のものではなく, 盛中唐の古文家たちが口をそろ えて言うのは常識でもあったようである。 以下, 行論の都合上, 盛唐から中唐の古文家たちの陳子 昂評を拾っていこう。

獨孤及 (725〜777) は, 李華 (715〜766) の文 集の序に,

帝唐以文徳祐於下, 民被王風, 俗稍丕変。

至則天太后時, 陳子昂以雅易鄭, 學者浸而嚮方。

(「検校尚書吏部員外郎趙郡李公中集序」 全唐 文 巻388)

と, 六朝以来, 詩壇で流行していた装飾だらけの 美文, すなわちまるで 詩経 のみだらな雰囲気

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を醸し出す鄭風のような文学を, 陳子昂が 詩経 の正統な風雅の格調へと変えたという。 同時代人 による中国文学史の批評で用いられる用語は抽象 的であるが, ここでは, 「風雅」 という語で陳子 昂が評されているように, 詩に関しての功績がお もに論じられていることが分かる。

李華が書いた蕭穎士 (717〜768) の文集の序に は,

干寶著論近王化根源, 此後夐絶無聞焉。 近日 陳拾遺子昂文體最正。 (「揚州功曹蕭穎士文集序」

全唐文 巻315)

と評されている。 引用部分の前に, 「君以為六経 之後, 有屈原・宋玉, 文甚雄壮…」 とあるように, 韻文も射程範囲に入っている事が読み取れるが, 直前の干寶は文章で知られる学者(12)であること,

「文体」 という語が使われていることから, ここ ではおもに陳子昂の文章について論じられること がわかる。 西晋の干寶以来, すなわち六朝時代に は正統な文学が途絶えていたところ, 唐初の陳子 昂が正しい文体を復活させたとしている(13)。 ま た, 李舟の書いた 「獨孤常州集序」 ( 全唐文 巻 443) にも,

文之弊有至是者, 可無痛乎。 天后朝, 廣漢陳 子昂, 獨泝波, 以趣清源。 自茲作者稍稍而出。

と 「文」 の疲弊を論じた文脈で, 陳子昂がその立 て直しに挑んだ事が評されている。 以上見てきた とおり, 盛中唐の古文家たちの共通認識として, 陳子昂を同一王朝における古文復興の祖として尊 重していることが分かる。 それでは, なぜ陳子昂 が崇め奉られるのであろうか。 陳子昂の生い立ち と思想傾向から, その原因について考えていく。

3. 陳子昂の歴史意識

陳子昂の文学が後世に残ったのは, 彼の友人廬 蔵用 (661?〜713?) の友情によるところが大き い(14)。 陳子昂の伝記は 新唐書 旧唐書 にも 列伝は収められているが, 廬蔵用による 「陳子昂 別伝」 がその出自については最も詳しく紹介して いる。

陳子昂は, 梓州射洪県 (四川省射洪県) の出身 で, 代々続くその地の豪族の家柄であった。 学問 をする家柄ではなく, 父元敬も 「豪侠」 として知 られていた。 陳子昂本人も, 17, 8までは任侠に 仲間入りをしていて書物を読んだことすらなかっ たという。 郷学への入学を境に慨然として志を立 て, 門を閉ざしてあらゆる書物を読みあさり, 数 年後には経史百家の書で読んでいないものはない ほどであった。 21歳で大学入学, のちに進士対 策に高第した, というのが, 陳子昂の官界デビュー 前の来歴である。

唐代の政治史は, 科挙合格者である官僚グルー プ (官) と六朝以来の名家の出身である貴族グルー プ (吏) との勢力抗争であった。 唐初の学術界で は, 太宗による一連の学術総合化政策にみられる とおり, 南朝文化と北朝文化の融合が各分野にお いてさかんに行われていた。 しかし, より洗練さ れていたものは南朝の文化の方で, 五経正義 も南朝側の注釈が多く採用され, 勅撰された五代 史 (前王朝までの史書を唐が再編算した) の史官 も南朝や北朝の名門出身者が任命され史書編纂に 当たっていた。 文学は, 信・徐陵らの修辞過剰 な文学が否定されながらも, 南朝宮廷文学の遺風 を伝える上官儀 (607?〜664) らの宮廷文学が主 流となっていた。

こうした時代に陳子昂は生まれ, 南朝の貴族文

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化の遺風が強く残る官界で独自の文学を創造して いったのであった。 同時代までの文学を, 陳子昂 は次のように認識していた。 これも友人廬蔵用が 書いた 「右拾遺陳子昂文集序」 ( 全唐文 巻238) の冒頭部分である。

昔孔宣父以天縦之才, 自衛返魯, 迺刪 詩 ・ 書 , 述 易 道而修 春秋 , 数千百年, 文 章粲然可観也。 孔子二百歳而騒人作, 於是婉 麗浮侈之法行焉。 漢興二百年, 賈誼・馬選為之 傑, 憲章禮楽, 有老成之風。 長卿・子雲之儔, 瑰詭萬変, 亦奇特之士也。 惜其王公大人之言, 溺於流辞而不顧。 其後班・張・崔・蔡・曹・劉・

潘・陸, 随波而作, 雖大雅不足, 其遺風餘烈, 尚有典型。 宋・斉之末, 葢矣。 逶陵, 流靡忘返, 至於徐・, 天之将喪斯文也。 後進 之士若上官儀者継踵而生, 於是風雅之道, 掃地 盡矣。

この最初の部分は, もはや人口に膾炙している 孔子から始まる儒学的な文学史である。 廬蔵用に よると, 南朝宋・斉の末には文学は衰退し, 徐陵・

信が斯文を滅ぼしたとまで断言している。 これ は唐初の正史も共通の認識であった(15)。 この部 分で, これまでの他にも見られた儒家的な文学史 では語られなかった, 陳子昂の史観として特筆す べき部分は, 最後の部分であると思う。 すなわち, 五言詩の名手で, 陳子昂のほぼ同時代に活躍した 文学者上官儀を直接名指しで非難しているところ である。 おそらく, 後に続く古文家たちは, この 部分に強く共感を覚え, 陳子昂を古文の祖と仰ぐ 原因も彼のこの意気込みに同調したからではない かと思われる。

官界は, 当時南朝以来の貴族文士たちが幅をき かせて, 自分たちの表現手段として上官体などの

宮廷詩, 修辞と典拠の贅を尽くした四六駢儷体を 得意満面に披露していたのであろう。 陳子昂は, その来歴からも分かるとおり, 名家の出ではなく, 地方豪族出身で, 学問も20歳を過ぎてから本格 的に学ぶという晩学であった。 陳子昂が大雅の遺 風が衰え, 風雅の道が消えてしまったと言うとき, これは単なる机上の文学論ではなく, 実見してい る唐王朝の宮廷文学の頽廃ぶりから痛感している 経験論であった。 そして, 貴族グループと科挙合 格グループの熾烈な争いは, 唐代を通じて引き続 き繰り広げられたため, 後進の古文家たちも陳子 昂の同時代文学批判は看過できない問題であった であろう。

廬蔵用は上の引用に続けて,

易 曰, 物不可以終否, 故受之以泰。 道喪 五百歳而得陳君。 君諱子昂, 字伯玉, 蜀人也。

崛起江漢, 虎視函夏, 卓立千古, 横制波, 天 下翕然, 質文一変。

上官儀らによって滅ぼされた斯文であるが, 易 経 にもいうとおり, 「否」 (ふさがった状態) は そのままではあり得ず, 「泰」 (通じる状態) へと 万物は必ず変化をする。 道が滅んで500年になり なんとするが, 今, 陳子昂が登場し, その道を継 ぐというのである。

この 「道が喪んで五百歳」 という表現は, 陳子 昂自身の深い自覚から出ているものである。 廬蔵 用もそれを十分理解した上で, ここに書いたと思 われる。 陳子昂は, 東方の 「詠孤桐篇」 に感銘 して書いた 「與東方左史修竹篇 書」 ( 全唐詩

巻83) に, 独自の文学論を展開しているが, そ

の冒頭に,

文章道弊, 五百年矣。 漢魏風骨, 晋宋莫傳。

(9)

然而文献有可徴者。 僕嘗暇時観斉・梁間詩, 彩 麗競繁, 而興寄都絶, 毎以永歎。 思古人, 常恐 逶頽靡, 風雅不作, 以耿耿也。

陳子昂は, 漢魏の 「風骨」 が滅び, 今日までのお よそ500年間, 文章の道は途絶えてしまったとし ている。 ここでは上官儀らの宮廷文学の直接の起 源である南朝文学の価値は一切を否定されている。

漢魏の時代から唐初までおよそ500年であるが, 500年周期で真の王者が現れるという循環史観は,

孟子 に起源がある(16)。 孟子 全篇の締めく くり部分に,

孟子曰, 由堯・舜至於湯。 五百有餘歳。 若禹・

皐陶則見而知之。 若湯則聞而知之。 由湯至於文 王。 五百有餘歳若伊尹・莱朱則見而知之。 若文 王則聞而知之。 由文王至於孔子。 五百有餘歳。

若太公望・散宜生則見而知之。 若孔子則聞而知 之。 由孔子而来至於今。 百有餘歳。 去聖人之世。

若此其未遠也。 近聖人之居。 若此其甚也。 然而 無有乎爾。 則亦無有乎爾。 ( 孟子 盡心篇)

と, 500年に一度聖人が登場していると指摘して いる。 この部分で, 「見而知之」, 「聞而知之」 と いうように, 教えを知りうる状況を, 聖人と直接 会えた場合, 聖人の死後に伝え聞く場合とに分け て説明をしている。 これは, 春秋 公羊伝の隠 公元年に見える 「見る所は辞を異にし, 聞く所は 辞を異にし, 伝聞する所は辞を異にす」 というフ レーズをなぞらえているようにも思われる。 そも そも 孟子 は易姓革命を是認する思想を持ち, 春秋三伝の中では, 革命思想を持つ公羊伝との関 係が深いとされるが, 孟子の500年王者周期説は 公羊伝学派を通じて, 前漢の司馬遷にも受け継が れている。

太史公曰, 先人有言, 自周公卒五百歳而有孔 子。 孔子卒後至於今五百歳, 有能紹明世, 正 易傳 , 継 春秋 , 本 詩 ・ 書 ・ 禮 ・ 楽 之際。 意在斯乎。 小子何敢譲焉。 ( 史記 巻130 太史公自序)

と, 周公, 孔子, そして現在と500年周期の歴史 的時間を描いている。 これは唐初の史家司馬貞の 史記索隠 でも指摘されているように, 孟子の 先の引用文から援用しているのは明らかである。

司馬遷の 史記 は, 一王朝で完結する断代史で はなく, 太古から現代までを通観する通史という 方法で書かれた。 司馬遷の活躍した前漢王朝の経 学は, 公羊学を重んじる今文学派が主流であった。

当時は, 古文学派はまだ台頭してきていないので, 司馬遷が学んだ儒学は今文学派の学術であった。

司馬遷に続いて編まれた班固の 漢書 は, 司 馬遷の 史記 が儒家の理念から乖離した歴史叙 述をした(17)ので, それを訂正する意味も込めて 書かれたという。 漢書 が作られた後漢王朝は, 経学史の上では, 古文学派が主流となった時代で ある。 班固時代が学んだ経学も古文系統のものだっ たため, 漢書 には, 経学の古文学派的発想が 色濃いとされる。

唐 の 劉 知 幾 の 家 学 も 古 文 学 派 の 系 統 で あ っ た(18)が, 彼は 史通 の中で, 最終的に漢書家, すなわち断代紀伝体が史書の書法として一番いい としている(19)。 また, 唐初という時代は, 五経 正義 が完備された時代であったが, これも古文 学派者流の注釈が多く採用されていたため, 経学 界は古文学派的志向が強かったと思われる。 その 影響で, 当時, 通史の形式で編纂された正史は, 李延寿の 南史 ・ 北史 は例外として, 他のす べての正史は断代紀伝体で書かれた。 また, 唐初 には, 漢書 を研究しその注釈を作る, いわゆ

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る漢書学がさかんになったと言われる(20)が, こ れも古文学派的な経学が大勢を占めていたという, 当時の趨勢に由来する傾向であったと考えられよ う。

陳子昂が, 王朝内の学術傾向がこのような状況 であった唐初という時代に, 孟子, 司馬遷の500 年周期の思想を取り上げたことは, 実は意義深い ことであった。 そして, 何より興味深いことに, 陳子昂は, 史記 の続編を書くことを構想して いたという事実である。 先に引用した友人廬蔵用 の 「陳氏別伝」 ( 全唐書 巻238) に,

嘗恨國史蕪雑, 乃自漢孝武帝之後, 以迄於唐, 為 後史記 , 綱紀粗立, 筆削未終。 鍾文林府 君憂, 其書中廃。 (陳) 子昂性至孝, 哀号柴毀, 気息不逮。

と, かつて国史の記載が乱れていることが気にか かっており, 後史記 という題名で, 漢の武帝 から唐朝までの歴史を書こうとしていたのである。

しかし, 後史記 は父元敬 (文林府君) の死に 遭い, その書は中止を余儀なくされてしまう。

唐初という時代は, 経学は古文学派 (漢代以来 の経学上の学派) が主流であったため, 陳子昂が 今文学派的傾向の500年王者周期説を信奉したり, 史記 の続編を書こうとしたことは, 王朝の学 術からすれば異端な発想であった。 先ほど 史記 本文解釈の際に引いた司馬貞も, 実は陳子昂と同 時代の学者であり, 史記 の注釈である 索隠 を書いている。 また, 張守節の 史記正義 もこ の時代の産物である。 漢書解釈学がさかんであっ た唐初という時代に, 史記 の現存する三大注 釈のうちの二つが編纂されていることは意義深い。

決して主流ではなかったものの, 今文学派的発想 で通史である史書の 史記 の学を復興させよう

という, 唐初の思想上の一運動に, 陳子昂も多少 荷担していたのであった。 王朝の草創期で, 安定 を志すイデオロギーがしっかりと根付いていく時 代を余所に, 変革を肯定する今文学派的発想と, 歴史を通観する通史的志向が芽生えたというのは, 奇怪なことのように思われるかも知れない。

実は陳子昂は, 高宗崩御の後に興る, 中国唯一 の女帝則天武后に才能が見いだされ, そこで大い に活躍をするのである(21)。 すなわち, 唐初とい う時代は, 武周革命が起きた変革の時代でもあっ た。 こういう時代背景の中, 歴史も一王朝で完結 する断代史的発想では事足りず, 王朝と王朝の変 遷, 興亡を物語る通史的な視点が必要であった。

さらに, 変革を後押しするイデオロギーである公 羊学的な発想も求められたのであった。

則天武后は, 旧態依然とした官界の貴族階級層 を廃し, 新興の科挙合格者である官僚を重用した。

陳子昂も, こうした時勢に乗って, 宮廷で活躍が 許されたのであった。 陳子昂はこの間, おびただ しい数の上書を帝に提出し, 政治家としての面目 躍如たるものがあった。 これらの政治的上書は,

新唐書 や 旧唐書 にそのまま収録されてい るが, 今日残る彼の文章家としての作品はこうし た文章が多い。

後進の古文家たちは, やはり陳子昂と似た境遇 の出自で, 新興の豪族階級から官界へと, 科挙の 試練をくぐり抜けて出仕する人が多かった。 そし て, 陳子昂は時代を変えるという変革の思想と, 孔子以来の正統な道を受け継ぐという500年王者 周期説を抱いていた。 これは, 後に韓愈が 「原道」

で説く道統という思想に結実していくものの原型 となったと思われる。 すなわち, 陳子昂は, 唐代 の新興豪族出身者たちから見ると, 政治的に成功 した人物で, かつ思想的に道統という正統な道筋 を唐代では最初に考案した, いわば理想的な先覚

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者となったのであろう。 盛中唐の古文家たちが, 唐代の古文発展史を物語るとき, その皓歯に陳子 昂を必ず持ってくるのは, 以上のような理由から であったと考えられる。

しかし, 儒学思想から見れば, 女帝を奉った(22) という態度は見逃されるものではなかった。 古文 復興の宣伝の色彩が濃い 新唐書 の陳子昂評は 厳しい。

賛曰, (陳) 子昂説武后興明堂太學, 其言甚高, 殊可怪笑。 后竊威柄, 誅大臣・宗室, 脅逼長君 而奪之権。 (陳) 子昂乃以王者之術勉之, 卒為 婦人侮不用。 可謂薦圭璧於房闥, 以脂澤漫 之也。 瞽者不見泰山, 聾者不聞震霆, (陳) 子 昂之于言, 其聾瞽歟。 ( 新唐書 巻107 陳子 昂伝論賛)

というように, 武則天に迎合した政治家として 新唐書 では, 陳子昂を厳しく非難している。

これに対して, 次章で取り扱う劉知幾は, 武后 実録 の編纂メンバーであったとき, その記述を 改正しようとしたところ, 則天武后一族である武 三思に阻止された。 これが 史通 執筆のきっか けとなったというのであるが, 劉知幾は, 則天武 后が権力を握っていた状況を酷評したり(23)と, 決して権力に迎合しないという姿勢を貫いた。

ちなみに, 新唐書 では, 陳子昂は文芸伝で はなく, 個人の列伝が立伝されている。 文芸伝で, その他大勢のような扱いにせず, 個人伝に掲載し たということは, 新唐書 の作者たちは, 陳子 昂を単なる文人ではなく, その時代において活躍 をした政治家としての面も評価していたことが伺 える。 本伝本文では, 「唐興り, 文章は徐 (陵)・

(信) の余風を承けて, 天下祖尚し, (陳) 子 昂始めて雅正に変ず」 と盛中唐古文家たちが顕彰

してきた内容とほぼ同じ, 評価をしており, 唐代 古文家の開祖である点も説明している。

五経正義 が完備し, 六朝時代の正史が五代 史として陸続と編纂された唐初という時代は, 思 想史の上から見ると, 経学の訓詁学がさかんな時 代で, 新しい思想が生まれる余地などない時代の ように見なされがちであった。 しかし, 盛中唐古 文家が注目した陳子昂のように, 武周の革命期に, 科挙合格者である新興豪族出身官僚として政界で めざましい活躍を遂げ, 時代を変革する思想を持っ た文人が現れる土壌も存在した。 そして, 彼は歴 史を通観する視点と, 孔子以来の道統, すなわち 儒家として正統なものを受け継ぐという自覚をも いだいていた。 後進の古文家たちが, 唐初といえ ば, 陳子昂を掲げたように, 彼の古文復興の思想 というものは, 後の古文家たちもそれを継承しよ うと考えていたことはこれまで見てきたとおりで ある。

それでは, 実作の上では古文による叙述を展開 し, またその古文の理論と作法まで考案している 唐初史学は, 唐代の学術に対して, どのような影 響を及ぼしたのであろうか。 次章で, 劉知幾の史 書叙述を巡る問題を中心に考察を進めていこう。

4. 駢儷文作家の古典観

唐初の史論家劉知幾は, 陳子昂と同年の生まれ (661年) で, まさに同時代を生きた人物である ということができよう。 しかし, 新興の豪族の家 に生まれ, 成人に至るまで任侠と交わって, 20 歳から憤然と勉強を始めた陳子昂と比べると, 劉 知幾の出自は歴然と違っている。 新唐書 本伝 によると, 劉知幾は, 12歳の頃から父蔵器より 古文尚書 を習い, 兄たちが 春秋左氏伝 を 学ぶのを聞いて以来, 群史を通覧するようになっ

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たと, その来歴が語られている。 このような経典 が家庭で教授されていたことから, 劉家の家学は 古文経学系の学問であったことが分かる。

劉知幾も武周革命の時代を生き, 陳子昂同様, 則天武后に上書して, 自分の意見を披瀝すること で官界入りを果たした進士科合格の官僚であった。

新唐書 本伝には, 恩赦の回数が多い点, 恩賞 の与え方, 賞罰を明らかにする点など, 公平に政 治を執り行うべきであると主張したことが紹介さ れている。 ただ, この歯に衣着せぬ直言は, 則天 武后に評価されながらも採用にはならなかったと ある。 道理としてはかなった正論を直言しながら も, 時の政府には受け入れられないという劉知幾 の姿勢は, のちに経学の問題点を実証的な視点か ら解釈のメスを入れ, その誤りを厳しく批判した 姿勢に通じるものであろう。 劉知幾がめざしたも のは, 政府や上司におもねる意見を考え出すこと ではなく, 道理として正しい真相の追求であった と思う。 これは, 彼の歴史に対する基本的な考え 方で, こうしたかたくなな姿勢こそが, 常識を覆 す新しく合理的な経学観を生み出す結果になった のであろう。

為政者が作り出す歴史と, 思想家が自分の考え を正当化するために語る歴史は, 恣意的な虚構物 語となる。 劉知幾がめざしたものは, あくまでも 事実に基づいて歴史を検証しようとする実証主義 で, そもそも王朝勅撰の正史, 尚古主義的傾向が 強い古文家たちが紡ぎ出した道統による歴史とは 相容れないものであった。

劉知幾の史書叙述論を考えるとき, 何より問題 となることは, 劉知幾が自著 史通 の全篇を, 四句と六句を基本とし, 対句と典拠をちりばめた 駢儷体の文で書いていることである。 叙事篇で, 具体的な史書の叙述方法まで詳述していた劉知幾 が, なぜよりによって, 史書の文体として彼がか

ねがね批判の対象とした駢儷体で 史通 を書か なければならなかったのであろうか。

唐初という時代は, 王朝では, 華美な南朝文化 への傾斜が甚だしく, 文章も駢儷体が主流であっ た。 そのため, 当時の一般的な書き方で劉知幾は 書いたというのは, 一つの理由であろう。 先ほど 陳子昂と比較をしながら, 劉知幾の出自について 触れたが, 彼の家柄は代々続く学者の家系であっ た。 劉知幾は, 史官として, 國史の編纂などに関 わりを持ったが, 譜学への関心も強く, 劉氏家 史 と 劉氏譜考 という自分に家系を実証する 史書も書いている(24)。 家系を明らかにする譜学 は, 貴族制社会であった六朝の史学が生み出した 産物である。 貴族は自分の家系をさかのぼり, そ の権威付けをすることを好んだ。 唐初の李延寿が 編纂した通史 北史 と 南史 は, 王朝の区別 を超えて, 貴族の一家ごとに列伝をまとめている が, それは譜学的な発想から編纂方法であった。

何より, ここでは貴族の譜学というものに劉知 幾がこだわった点が重要であると思われる。 すな わち, 劉知幾は陳子昂とは基本的に出自が違って おり, 決して新興の豪族ではなく, 由緒正しき家 柄の出身であったのである。 さきに本論では, 陳 子昂が, 盛中唐の古文作家から, 古文の開祖とし て崇拝され続けてきている軌跡を追ってきた。 そ れは, 後進の古文作家たちも新興豪族階級出身者 で, その先蹤となり, 唐王朝の初期に文学者, か つ政治家としても成功をおさめた陳子昂だからこ そ, 初めて古文の開祖となり得たのであった。 こ のように考えてくると, 史学と古文の関係も, さ まざまな局面から関連性が示唆されながらも, 逆 に, 直接つながっていくものではなく, 史学は古 文復興の思想とは別の学術へと継承されていった と考えられる。

すなわち, 南方の貴族階級であった劉知幾が当

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時主流であった駢儷文で, 自著である史論書 史 通 を書いたというのが, その真相であったので あろう。 しかし, 史通 の中に展開されている, 彼独自の古典観と言語観を読むと, その真相はもっ と深い所にあることが理解できる。 史通 言語 篇に,

斯皆芻詞鄙句, 猶能温潤若此。 況乎束帯立朝 之士, 加以多聞博古之識者哉。 則知時人出言, 史官入記, 雖有討論潤色, 終不失其梗概者也。

と, 経典で使われている戦国以前のことばにも卑 俗な表現があったとしている。 劉知幾は, 古典の 言葉すべて高雅なものではないという。 それら古 代の言葉を史官が記録する際, 余計な潤色をせず, 大筋をそのまま伝えて来たのが今の経典の言葉に なっていると考えているのである。

劉知幾の言語論で一番核心的な発想は, 時代と ともに言語も変化していくという視点である。

夫三傳之説, 既不習於 尚書 , 両漢之詞, 又多違於 戦策 。 足以験氓俗之遞改, 知歳時 之不同。 而後来作者, 通無遠識, 記其當世口語, 罕能従實而事, 方復追效昔人, 示其稽古。 ( 史 通 言語篇)

春秋三伝と 尚書 , 漢代の言葉と 戦国策 で 使われている言葉はすでにちがってしまっている。

時代によって言語が違うのは自明なのに, 後世の 史家たちはその時代の話し言葉を記録するのにわ ざわざ雅な古典の言葉を選んで用い, 自分たちの 知識の該博さを誇示している。 盲目のうちに古典 の言葉を崇拝してそれを得意になって使用してい ることを, 劉知幾は非難している。

また, 言語篇では, 王劭と宋孝王が北朝の歴史

を記すのに, 方言や当時の言語をそのまま使用し たことを紹介している。 当時の批評家はこの二書 が下品な言葉を使っていると批判したが, 劉知幾 は, 当時の批評家の説を非とした。 逆に王劭, 宋 孝王以外の後世の史家たちが, 地域や民族によっ ても言語は違うにもかかわらず, 春秋時代の言葉 をわざと使って文章力を誇示しようともしていた ことを問題にした。 結局劉知幾は, その現地のそ の時代の言葉を使って史書は書かれるべきだとこ こで結論づけている。

以上のような劉知幾の古典観と言語観から考え ると, 駢儷体は, まさに唐初という時代, 都長安 で書く文章の文体としては, これが一番ふさわし いものであったことになるのである。

劉知幾は, 新唐書 では, 経書を誹謗中傷し た角で非難の対象となっていたが, 新唐書 の 書法では, 史通 で提唱されていたアイデアが 継承されている(25)。 しかし, これまで見て来た とおり, 新唐書 は韓愈を頂点とする古文復興 の思想を受け継ぐもので, 唐初の史学の思想を受 け継ぐものではなかった。

唐代は, 太宗の制定した 五経正義 に代表さ れるとおり, 経学の権威が保たれる時代であった。

そのため, 劉知幾が実証主義を突き詰めて経典批 判を展開してしまったことについて, 経学者たち は決して寛容ではなかった。 儒学の正統な継承, すなわち 「道統」 を確立すべく, 思想の系譜を大 きな声で主張してきた古文家たちは, その尚古主 義と復古思想により, 経学の権威をむしろ擁護す る側であった。 そのため, 陳子昂が古文の開祖で あると, 声高に宣伝してきたのである。 一方, 史 実を実証的に分析していく史学の系譜は, 経学の タブーにまで足を踏み込んでしまったため, 無言 の継承を強いられてきた。 新唐書 は, 史書の 形式面で, 史通 の影響を受けた形跡が認めら

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れるものの, その継承関係については積極的には 発言をしていない。 そして, 韓愈を敬い, 古文復 興を思想的よりどころとする 新唐書 は, 新し く創造した古文という文体で, 本文すべてを書き 直した。 これは, さきの 史通 言語篇の劉知幾 が提唱した言語論から考えると, 劉知幾が批判の やり玉に挙げた, 古典模倣の史家の書法と同じ発 想になるのではないだろうか。

以上のように考えると, 新唐書 は 史通 の表面の継承はしていても, その精神の継承はな されていないと言える。 史通 には, 模擬篇と いう古典模倣に関して考察をした篇がある。 ここ で, 劉知幾は, 真の古典模倣の方法として, 「貌 異心同」 (表現方法は異なっても, 精神は根本的 に同じである) という方法を提唱している。 この 反対の方法として, 劉知幾は 「貌同心異」 という 表現をしているが, 新唐書 の史学精神の継承 はまさに 「貌同心異」 であったと思う。

実は, 新唐書 がその煩瑣さを修正した 旧 唐書 に, 劉知幾の史学思想の片鱗が伺える。

臣観前代秉筆論文者多矣。 莫不憲章 謨 ・ 誥 祖述 詩 ・ 騒 , 遠宗毛・鄭之訓論, 近 鄙班・楊之述作。 謂 「采采」, 独高比興之 源。 「湛湛江楓」, 長擅詠歌之體。 殊不知世代有 文質, 風俗有淳, 學識有浅深, 才性有工拙。

( 旧唐書 巻190 文苑伝序)

この文章も, 一見して分かるとおり, 駢儷文で書 かれている。 これまでの文筆家たちは, 古代の文 学は偉大だと賛美するものの, 時代的に近い作家, たとえば班固や楊雄などは軽んじる傾向がある。

これは時代間に文と質の違いがあり, 風俗にも変 化があり, 学識にもレベルの違いがあり, 才能に も巧拙があることを知らないのである, とここで

は歴史の相対化をしている。 この発想は, さきに 見てきた, 劉知幾の 史通 言語篇と同じ歴史意 識である。 旧唐書 文苑伝序は続けて,

昔仲尼演三代之 易 , 刪諸國之 詩 , 非求 勝於昔賢, 要取名於今代。 實以淳朴之時傷質, 民俗之語不経, 故飾以文言, 考之絃誦。 然後致 遠不泥, 永代作程, 即知是古非今, 未為通論。

夫執鑒写形, 持衡品物, 非伯樂不能分駑驥之状, 非延陵不能別 雅 ・ 鄭 之音。 若空混吹竿之 人, 即異聞 韶 之歎。 近代唯沈隠侯斟酌 二 南 , 剖陳三変, 雲・淵之抑鬱, 振潘・陸之 風徽。 俾律呂和諧, 宮商輯洽, 不獨子建総建安 之覇, 客児擅江左之雄。 ( 旧唐書 巻190 文 苑伝序)

と, 「是古非今」 という考え方が通用するもので はないと断言している。 すなわち, 旧唐書 は,

「是今非古」 という思想を由としていることが伺 える。 これも, 劉知幾が 史通 言語篇で展開し ていた古典論と重なる思想である。 劉知幾は無意 味に古い文を崇拝することに警鐘を鳴らし, 現在 その土地で使われている言語をそのまま記録する ことを主張していた。 旧唐書 自体も四六駢儷 体で全篇文章が綴られていることを考えると, 劉 知幾の思想は, 古文思想を鮮明に打ち出している 新唐書 に継承されているのではなく, 駢儷文 で書かれた 旧唐書 の方にその精神は受け継が れていることがわかる。

お わ り に

古文復興の思想は, 韓愈が 順宗実録 を書い たり, 欧陽修らが 新唐書 を編纂した事実より, 唐初以来発達してきた史学と深い影響関係がある

(15)

のではないかと予想されてきた。 本論では, 劉知 幾が自著 史通 をなぜ駢儷体で書いたのかとい う問題の真相を問い直し, 劉知幾の史学思想がど のような形で唐末五代へ受け継がれているのかを 考えてみた。

その結果, 後進の古文家たちが唐代古文の開祖 として崇め奉る陳子昂と, 史学理論の大成者であ る劉知幾とは, 文人として基本的に相違している 点が明らかになった。 すなわち, 劉知幾は, 代々 学者を輩出する名門の家系であり, 駢儷文を書く ことを得意としていた。 一方, 新興豪族階級出身 者であった陳子昂は, 既存の貴族社会とは違った 新しい表現方法によって自分たちの文学を創造し ていく立場にあった。

ともに661年の生まれで, 武周革命という変革 の時代を生きてきたが, 双方, 以後唐王朝内で熾 烈な争いを繰り広げることになる, いわゆる官と 吏の両極にそれぞれが位置していた。 陳子昂は, 尚古主義を抱き, 儒学の正統な道を受け継ぐとい う発想に行き着いた。 これは経学の今文学的思想 に近いもので, 史記 の続編を書こうという意 識へと高めた。 新興豪族階級出身者という, 唐代 ではこれから多く官僚を輩出する層の出身だった ため, 後進の古文家たちからは唐王朝初期の古文 復興の先鞭をつけた開祖として位置づけられるに 至った。

劉知幾の方は, 思想的には家学であった古文学 派の系統を継承した。 史学の精神, すなわち実証 主義を根底に置く劉知幾は, 当時の史局で史書編 纂の仕事に携わったものの, 自分の志を遂げるこ とができず, 私撰の 史通 を完成させた。 以後, 唐の史学は, 王朝の思惑で書かれるものに変貌し てしまい, 公の史学というものは私的な古文復興 の思想とは接点がなくなっていくことになる。 そ れでは, 劉知幾が紡ぎ出した実証主義の精神はど

のように受け継がれていったのであろうか。 これ は, 古文復興の文章家へ受け継がれるのではなく, 劉知幾の息子たちを通じて, 唐代の学術界の中で 決して大きな声で宣伝されることはなかったもの の, 脈々と受け継がれていったと思われる。 最後 に見たように, 劉知幾の歴史認識は, 駢儷体で綴 られた 旧唐書 文苑伝序に見られた。 唐末五代 の 旧唐書 へたどり着くまで, 劉知幾の史学思 想はどのような経路で継承されていったのであろ うか。

劉知幾の息子たちも, 劉家の家学を守り, 後進 の学者たちに少なからず影響を与えているが, 今 後はそれが具体的にどのような経路で受け継がれ ていったのかを明らかにしなければならないであ ろう。 中唐に俄に登場する新春秋学派の学者たち の発想も劉知幾の影響がみられる。 また, 新春秋 学派は柳宗元の合理思想へとつながっていく。 興 味深いことに, 劉知幾, 新春秋学派の学者たち, そして柳宗元は, 新唐書 の編者であった欧陽 修からの評価が低い。 これまで見てきたとおり, 欧陽修の 新唐書 は, 孔子以来の道統を受け継 いだ韓愈を古文復興思想の大成者とする。 柳宗元 が非難されたのは仏教を崇拝したからであろう。

また, 新春秋学派は, 経の注釈をないがしろにし ている点が道統の思想と方向性を違えるため, 積 極的に評価できなかったと考えられる。 そして, 劉知幾の評価が低いのは, 経典を批判した点が, 古文復興の思想から見て問題となったからである と思われる。

古文復興側から批判されてきた, 唐代の合理的 な思想が具体的にどのように継承されていったの かについては, 稿を改めて考察していきたい。

(1) 趙翼は, この文の中で, 「 南史 雖稱簡浄, 然 不能増損一字也。 至諸傳論, 亦皆以散文行之」 と

(16)

南史 は伝論において散文, すなわち古文を使っ て書いていることを指摘している。 また, 新唐 書 の李延寿伝には 「其書頗有條理, 刪落醸辞, 過本書遠甚。 時人見年少位下, 不甚稱其書」 とそ の叙述方法を絶賛している。 新唐書 は後で考 察するように, 古文復興思想の集大成を宣伝して いく意図がはっきりした書物であり, それが唐初 の 南北史 の叙述を高く評価している点は, 趙 翼の指摘を裏付ける一つの有力な発言となってい る。

(2) 「史道陵夷」 という意識は, 唐初史学界では共 通の認識であったようである。 唐初の史家たちは, たとえば, 隋書 経籍志史部には 「其後陵夷衰 乱, 史官放絶, 秦滅先王之典, 遺制莫存」 (正史 部), 「自史官放絶, 作者相承, 皆班馬為準」 (古 史部), 「自史官曠絶, 其道廃壊」 (雑伝部) と史 官が漢代以前に実質滅んでしまったことがたびた び指摘されている。

(3) 史通 叙事篇に, 春秋 尚書 を 「諒以師 範億載, 規模萬古, 為述者之冠冕, 實後来之亀鏡」

と史書文体の模範であることを述べている。

(4) 史通 叙事篇に 「然章句之言, 有顕有晦。 顕 也者, 繁詞縟説, 理盡於篇中。 晦也者, 省字約文, 事溢於句外。 然則晦之将顕, 優劣不同, 較可知矣」

とある。

(5) 史通 忤時篇・ 新唐書 本伝にみえる。 これ は, 劉知幾が監修國史の蕭至忠に史職を辞す際に 送った手紙の中の一節で, 史職を続けられない五 つの理由 (「五不可論」) の冒頭に挙げられている。

(6) 柳 史通析微 に 「妄誣聖哲」 という批評が 見える。

(7) 旧唐書 文苑伝序参照。

(8) たとえば, 蕭穎之 (717〜758?) は, 史書は 尚書 春秋 のみが正統なもので, 司馬遷・班 固の紀伝体を認めない思想を持っていた。 すなわ ち, 漢代の文学を認めないという極端な尚古主義 であった (「韋司業書」 全唐書 巻323) 参照。

一方, 韓愈は漢代文学を高く評価していた。 しか し, 晩唐になると, 陸亀蒙 (?〜881) のような 極端な尚古主義が復活した (「復友生論文書」 唐 文粋 巻85) 参照。

(9) 韓愈は陳子昂の詩については, 「國朝盛文章, (陳) 子昂始高踏」 (「薦士詩」) と評価している。

(10) 川合康三 「唐代文学史の変容」 ( 中唐文学の視 覚 創文社, 1998所収) 参照。

(11) 韓愈 「原道」 に, 「堯・舜・禹・湯・文王・武 王・周公・孔子・孟軻」 という道の継承が明確に 書かれている。

(12) 李華の文は, 儒学的な史観に貫かれた文学史な ので, 干寶の文章とは具体的に 「晋紀総論」 ( 文 選 所収) などの史論を具体的には指していると 思われる。 干寶は, この中で, 魏晋の時代に流行 していた玄学を批判し, 儒学の復権を主張してい た。 干寶の文章の後は, 正統な儒学の文章が途絶 えてしまったと李華はここで述べている。

(13) 筧文生著 「陳子昂の散文評価をめぐって」 ( 唐 宋文学論考 創文社, 2002) によると, 陳子昂の 散文は, 元初の馬端臨の批判に見えるように, 次 第に評価されなくなっていった。 筧氏は, その原 因を欧陽修が柳宗元を否定したことに端を発する という興味深い指摘をされている。

(14) 廬蔵用は陳子昂と深い友情関係で結ばれていた。

新唐書 陸余慶傳には, 方外の十友として, 陸 余慶・趙貞固・廬蔵用・陳子昂・杜審言・宋之問・

畢構・郭襲微・司馬承禎・釈懐の名前が列挙され ている。 また廬蔵用は陳子昂の文集である 陳伯 玉文集 の編纂, 陳子昂の伝記である 「陳氏別伝」

も書き残している。

(15) 唐初に編纂された正史 周書 王褒信傳論で は, 信のことを 「詞賦の罪人」 と厳しく糾弾し ている。

(16) 孟子 公孫丑篇にも 「五百年必有王者興。 其 間必有名世者」 とあり, 孟子の歴史意識には, 500年に一度王者が現れるという循環史観が根底 にあった。

(17) 司馬遷は, 父談の遺志を継いで 史記 を完成 させたが, あとがきにあたる太史公自序に, 父談 による思想史概論 「六家要指」 という文を載せて いる。 ここで, 儒家ではなく, 道家が中国思想の 中で最も偉大な思想であるとしている。 この点な どを班彪は批判している。

(18) 新唐書 劉知幾傳参照。

(19) 史通 二體篇参照。

(20) 趙翼 廿二史記 巻20 唐初三禮漢書文選 之学, 参照。

(21) 廬蔵用 「陳氏別伝」 参照。

(22) 劉知幾の 史通 識篇と雑説中篇で, 漢書 が前漢の呂后のために本紀を作ったことを肯定し ている。 実質天子の位置にあり, 政治を牛耳って いたので, その時間帯は呂后を中心に叙述するの は理にかなっているとする。 劉知幾も女帝の時代 を生きたため, 多少の遠慮からこのような意見を 吐露したと思われる。

(23) 史通 忤時篇冒頭参照。

(24) 新唐書 本伝参照。 また, 同じく 新唐書 藝文志史部の 「譜牒類」 に 劉氏家史 15巻と

(17)

劉氏譜考 三巻という書名がみえる。

(25) 内藤湖南 支那史学史 (平凡社・東洋文庫,

1992) の 「七, 史記漢書以後の史書の発展 7.

史評の発達」 参照。

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