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これからの教師支援について

著者 松村 茂治

雑誌名 明治学院大学心理学部付属研究所年報 = Annual

Report of the Meiji Gakuin Institute for Psychological Research

巻 9

ページ 31‑41

発行年 2016‑05

その他のタイトル Study on support for classroom teachers and its future prospects

URL http://hdl.handle.net/10723/00003754

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特別寄稿これからの教師支援について

これからの教師支援について

前明治学院大学教授 松村 茂治

1. はじめに

 筆者は長年,教育心理学,学校心理学等の領 域で仕事をしてきた。本学における授業も,こ れらの科目が中心だった。そこで,「教師支援」

をテーマとする本稿においても,こうした領域 からの教師支援を考えてみる。もう少し具体的 にいえば,学校における子どもたちの「問題行 動」に対する教師の関わりをどう支援するかと いうことについて考えることになる。

 筆者が,この領域に関わるようになったのは,

1970 年頃からのことである。そこで,この時 代以降の,我が国の学校における「問題行動」

の変遷について概観することからはじめよう。

2.我が国の学校での問題小史

 20 世紀最後の四半世紀に,我が国の学校教 育の現場には,学校のあり方自体を問いかける ような,様々な深刻な問題が出現した。その主 立ったものを時系列的に整理してみると,以下 のようになる。

 1970 年(昭和 45 年)頃,学校の勉強につい て行けない子どもたちの問題が,いわゆる「落 ちこぼれ・落ちこぼし」の問題として話題に なっていた。この問題については,学ぶ側及び 教える側,双方の側面について考えるべきと思 うが,ここでは以下の点だけを指摘しておきた い。それは,この問題は,学習指導要領のあ り方と無関係ではないということである。1958 年(昭和 33 年)の学習指導要領の改訂では,

当時急速な展開を見せていた科学技術への対応 を図るべく,系統的な学習と基礎学力の充実に 重点が置かれるようになった。次の改訂(1968

年 昭和 43 年)では,そうした方向に一層の 拍車がかかり,教育内容の一層の向上を旗印に,

教育内容の現代化,時代の進展に対応した教育 内容の導入が示唆された(その象徴的な例が,

算数における集合の導入である)。簡明にいえ ば,教える内容が難しくなり,その分量も増え てきたということである。その後,昭和 52 年

(1977 年)の改訂では,教える内容の高度化・

膨大化というそれまでの方針を見直す方向に舵 が切られるようになった。すなわち,ゆとりの ある充実した学校生活の実現が謳われ,学習負 担の軽減が求められるようになったのである。

 「落ちこぼれ・落ちこぼし」の頃から少し時 代は下るが,天野(1995)は,我が国の小学生 を対象に,算数と国語について通年式の学力検 査を行い,学年が進むに連れて,学習の遅滞を 示す子どもの割合は増え,6 年生の段階で,算 数で約 17%,国語で約 25% の子どもが 1 学年 以上の遅れを示していたと報告している。この 研究は,学習の遅れを,アンダー ・ アチーバー としてではなく,学年段階での遅れとして見て いるところに特徴がある。これは,通年式の学 力テストを用いることではじめて可能になった もので,ある学年の子どもの点数が,それより 1 学年下の平均点を下回っていたら,1 学年の 遅滞,2 学年下の平均点を下回っていたら 2 学 年の遅滞…という具合に定義されていた。1 学 年以上の遅れを示す子ども 17% というのは,

偏差値に換算すると約 40 点以下の子どもたち ということになり,学校現場の教師が抱いてい た勉強についていけない子どもの実態に,比較 的近いものと考えられる。

 学業の遅れの問題は,小学校時代に限られる ものではなく,中学校に持ち越され,種々の問

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特別寄稿これからの教師支援について

題行動と複雑に絡み合い影響し合っていると思 われるが,誌面の関係もあり,ここでは扱わな い。また,日本の子どもたちの学力のあり方に ついては,近年,国際学力比較との関連におい て論議されることになり,新たに取り上げられ るようになったこと,さらに,特別支援教育の 本格実施以降,「落ちこぼれ・落ちこぼし」を 作ってから対応を考えるのではなく,教室にい る全ての子どもたちが分かる授業を目指すべき という考え方が主流となってきたことを指摘し て,次のテーマに進むことにする。

 1975 年(昭和 50 年)頃から目につくように なったのは,不登校(当時は,学校恐怖症ある いは登校拒否と呼ばれていた)の問題である。

病気や怪我,保護者の無理解といった,学校に 行けない相当の理由が無いにも拘わらず,学校 に行けない子どもたちの姿が目立ち始めたので ある。当時の学校基本調査を見ると,年間 50 日以上(1991 年以降は,この基準は 30 日以上 に引き下げられた)の長期欠席者数(率)が,

はじめ中学生で上昇し,次いで,小学生で上昇 傾向を示し始めたことがわかる(1975 年頃の 不登校児童生徒の出現率は,中学生で約 0.2%,

小学生で約 0.03% であった)。

 この問題については,詰め込み式の勉強が原 因なのではないかといった意見も聞かれたが,

勉強にあまり困難を感じていないような子ども も不登校になり得ることが分かってきて,勉強 よりは,本人の性格の問題あるいは家庭のしつ けや親子関係の問題という理解をされるように なっていった。この時点では,いわば特定の子 どもや家庭に限定的な問題と捉えられていた が,子どもや家庭についての明確な特徴づけが 出来るわけではなく,1990 年,文部省(当時)

は,不登校は学校を含めた社会全体のあり方に 関わる問題,「どの子にも起こりうる問題」と いう見方をするようになった。

 「どの子にも起こりうる」という表現は,そ

れまでの見方を 180 度転換する点において画期 的であり,筆者は,これを機に学校制度や社会 のあり方にまで踏み込んだ論議がなされるのか と期待をしたが,「どの子にも」というのは,

性別,学年,学力,家庭環境,地域環境等に関 わりなく起きているという意味,要するに,全 く予測ができない問題といった程度の意味に解 されてしまい,問題の本質を明らかにするとい うことからは却って目を背かせてしまう結果に なったように思われる。

 最新の学校基本調査速報(2015 年に公表)

によれば,前年度の不登校児童生徒の割合は,

小学生 0.39%(255 人に 1 人),中学生 2.76%(36 人に 1 人)であり,ここ数年,多少の変動はあ るものの,おおよその傾向は変わっていない。

 次いで注目されるようになったのは,1980 年(昭和 55 年)頃の「荒れる中学校」の問題 である。この頃,社会的には,少年非行が戦後 の「第 3 の波」を迎えたと言われる時期で,そ の波が,器物損壊,生徒間暴力,対教師暴力と いう形で,学校現場にも到達したと考えること ができる。

 こうした校内暴力の問題は,一般的には校内 の生徒指導のなかで対応され,外部の人間がそ の存在を知るのは,傷害事件や校舎の損壊等に まで拡大し,マスコミ等で取り上げられるよう になったときである。この時代には,いわゆる

「ツッパリ」と形容される子どもたちの集団行 為が注目されていた。特に,そうした子どもた ちによる卒業式等の行事の混乱が報道され,校 内暴力の広がりと深刻さを,学校外の人間の知 るところともなった。

 そうした中,1983 年(昭和 58 年)には,東 京都のある中学校で,日頃から生徒のからかい や暴力の対象となっていた教師が,生徒からの 暴力に対抗する形で,持っていた刃物で生徒を 刺すという事件が起きた。この頃から,それま で「教育的な配慮」を持って対応されてきたこ

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特別寄稿これからの教師支援について の種の問題に対して,学校は警察の介入も含め,

毅然とした態度で臨むようになり,校内暴力は 表面的には沈静化に向かっていった。

 激しかった校内暴力の問題が沈静化してくる と,それに入れ替わるようにして目立ってきた のが「いじめ」問題である。この問題が世間の 注目を浴びるきっかけとなった,東京都の中学 校での「いじめ事件(葬式ごっこ)」は 1986 年

(昭和 61 年)に起きている。

 一つ事件が報道されると,それに触発されて 新たに起きるようになったのか,それまでも起 きてはいたが表面化していなかっただけなの か,いくつもの事件が報道されるようになった。

なかでも,山形県(1993 年),愛知県(1994 年),

新潟県(1995 年)の事件はマスコミで大きく 報道された。最近では,2011 年の滋賀県大津市,

2015 年の岩手県矢巾町の事件が記憶に新しい。

ここに取り上げた数件は,いずれも社会的な関 心を呼んだ事件であり,被害者が自死に至った 事件だけでも,この何倍も起きている。

 この後,1990 年代の後半に入って,いわゆ る学級崩壊の問題が続出するようになったが,

この問題については,項を改めて取り上げるこ とにする。

3. 問題への対応はどう図られてきたか

 以上,ここ 30〜40 年の間に,我が国の学校 現場に出現した問題について概観をしてきた が,次に,これらの問題に対する,学校での対 応ということについて考えてみよう。

 伝統的に,学校では(教育心理学ではと言っ た方が適切かもしれない),学業の遅れは「学 業不振」として扱われてきた。これは,単に勉 強が出来ないことを意味するのではなく,基礎 的な知的能力から期待されるだけの学業を達成 していないという意味での,アンダー・アチー

バーとして,学業の不振を考えてきたというこ とである。つまり,平均かそれ以上の知的能力 を持っていながら,それに見合うだけの学業を 上げていない訳だから,一般的には,「やれば 出来るのにやらない」「怠けているからできな い」といった理解をされてきたのである。「落 ちこぼれ」は,勉強の出来ないことを,このよ うに理解した上での命名と言うことが出来る。

 そういう理解に基づいて学業不振に対応する となれば,その方針はおのずから明白である。

やらないから出来ない,怠けているから出来な いのであるなら,怠けずにやるように仕向ける 必要がある。他の子どもよりも余分に時間を与 えて取り組ませる,残り勉強に教師がつき合っ て個別に教える,宿題にして持ち帰らせて(保 護者に見てもらって)仕上げてくる等の対応で 凌ぐことになる。こうした,いわゆる「補習型」

の対応の行き着く先が,補習型の学習塾への通 塾ということになる。当時も今も,筆者は何人 もの小・中学生から,「塾に行かないと学校の 勉強についていけなくなる」という言葉を聞か されている。塾に行かなければ追いつけない学 校の勉強というのは,一体,どういうことなの か,改めて,学業の遅れの問題は,「落ちこぼれ」

の問題としてだけでなく,「落ちこぼし」の問 題として取り上げられなければならないと思う のである。

 そうした方向を持った,最近の 2 つの流れを 指摘しておこう。

 1 つは,子どものつまずきを想定した教科書 の編纂がなされるようになったことである。従 来,学業上のつまずきに関しては,子ども自身 の努力か現場を預かる教師の個人的な努力に委 ねられてきたが,教科書の中にそうしたことが 組み込まれるということは,個人的なことがら ではなくなるという意味で,あるいは,つまず きが起こってから対応するというのではなく,

あらかじめそれに備えるという意味で,画期的

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特別寄稿これからの教師支援について

な事と言える。

 もう 1 つは,「授業のユニバーサルデザイン 化」の流れである。これは,必ずしも「落ちこ ぼれ」への対応ということだけではないが,こ こでは,学級の誰もが理解できることを目指し た授業という程度の理解をしておこう。長いこ と,教室で展開されている標準的な教え方は,

唯一の正しい教え方という暗黙の了解があっ た。こどもたちは,それに合わせることが求め られてきたのである。しかし,子どもたちの学 び方は一様ではないことが理解されるようにな り,子どもたちの個性に対応した教え方の工夫 が求められるようになってきたのである。子ど もたちの多様性に教え方を合わせるという意味 で,これも画期的な試みといえる。

 次に,不登校への対応について考えてみよう。

 この問題が出現し始めた頃,一般的に考えら れていた対応は,分かりやすいものだった。病 気でも,怪我でもないのに学校に行かないわけ だから,担任が頻繁に家庭訪問をしたり,朝,

電話をかけたり家まで迎えに行ったり,友だち を差し向けたり,親が強引に連れ出したり等の,

登校を促すための直接的な働きかけが中心だっ た。少し経って,この問題が,怠けや非行とは 違っていること,登校を強制することが却って 問題をこじらせかねないという認識が生まれる と,それまでとは一転して,登校を促すことを 控えるのみではなく,学校のことを話題にする ことさえ控えるという意味での,「登校刺激は 与えない」という方針が提言されるようになっ た。

 登校刺激を与えないようにするわけだから,

担任や友人が介入することは避けられるように なり,学校外の施設,すなわち,自治体の教育 センター(相談室や適応指導教室)や民間の相 談機関(フリースクール等)で対応することが 増えてきた。問題が長期化・深刻化すれば精神 科の医師が対応することもあった。

 不登校期間が長期にわたれば,進級や進学に 差し障りが出てくる場合がある。この問題の発 現当初は,出席日数を確保するという意味から も,在籍校への復帰が目指されたが,問題の増 加や解決までに長い期間を要すといった状況に 鑑み,公立の適応指導教室でも民間のフリース クールでも,相談機関に通っていれば学校への 出席と見なすという,いわゆるバイパスが認め られるようになった。在籍校に強制的に戻さな くてもいいという考えは,当該の子どもや保護 者を,「学校に行かねばならない」という強迫 観念から解放することになったが,子どもへの 働きかけの主体が誰なのかが曖昧にされること もなくはなかった。

 次に目立つようになってきた校内暴力に関し ては,暴力行為を行った本人(及びその保護者)

への諭旨や加害者・被害者への指導等,学校の 中で教師を中心にして行われる「生徒指導」と しての対応と児童相談所や警察,家庭裁判所等 の関係諸機関を巻き込んだ対応が想定される。

 この問題に関しては,ことがらの性質上,事 が起きてからの対応ということになる。また,

学校の中での教育的な問題というより,本人の 性格的な問題や生活環境上の問題に目が向きが ちになるが,「過去の体罰への報復的行動とし ての凶暴な対教師暴力が一般生徒の心理的・物 理的支援の中で一般生徒を代表するという意識 で行われた事例」との指摘(宗内敦,宗内美映 子 1985)もあり,この問題は,発生してから どのような法的処置が講ぜられるかいった観点 だけではなく,予防的な方策を視野に入れると,

教育問題として考える必要性があると思われる のである。

 「いじめ」問題も,被害者が自死に至るよう な場合には,警察や司法が介入してくるのは当 然としても,学校にとって肝心なことは,そう した事態に至る以前に,この問題を教育の問題 の中で捉え,予防的に対応していくことであろ

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特別寄稿これからの教師支援について う。その際,森田ら(1994)の以下の指摘は,

介入に際しての重要な示唆を与えると思われる。

 同書では,いじめを「同一集団内の相互作用 過程において優位に立つ一方が意識的にあるい は集合的に,他方に対して精神的・身体的苦痛 をあたえることである。」と定義している。つ まり,いじめは,子ども同士の偶発的な接触に よって生じるものではなく,学級や部活といっ た学校生活とは切っても切れない集団生活を前 提にしており,そこで優位に立つ一方が,(劣 位の者へ)行う行為であるというのである。

 この定義に関連させて,同書では,いじめの 特徴として,次の 2 点を上げている。 

 第 1 点は,いじめは,被害者と加害者の二者 間の問題ではなく,彼らを取り巻く人たち(加 害者の近くにいて,自分たちで直接手は下さな いが,はやし立てるようにしていじめ行為を助 長しようとする人たち:「はやし立てる観衆」

と,少し離れた所にいて,はやし立てることは しないが,積極的に止めさせようともしない人 たち:「見て見ぬ振りをする傍観者」)を含んだ,

集団の現象としてみるという指摘である。これ は,上記の「同一集団内の相互作用過程」に対 応する指摘である。

 第 2 点は,いじめは,見えにくく,気づきに くいという指摘である。いじめの,この見えに くさは,以下の 2 つに分けて考えることが出来 る。

 1 つは,いじめの「物理的な見えにくさ」で ある。いじめはしばしば,教師や保護者などの 目の届かないところで行われる。いじめは,学 校のもの陰,空き教室,トイレ,通学路,遊興 施設など,当事者以外に人がいないところで,

あるいは,いじめを止めさせるような人のいな いところで行われる。また,いじめは,周囲で 見ていてもそれと分かるような身体的な暴力行 為としてではなく,無視や仲間外しといった形 で行われることも,見えにくさの一端となって

いる。当事者以外に分かる人がいないのだから,

その中の誰かが申し出なかったら,気づかれな い訳だが,被害者自身,「自分はいじめられて いる」と言い出せないのが,この問題の重要な 特徴でもある。

 もう 1 つは,「心理的な見えにくさ」である。

これは,物理的な見えにくさとは対照的に,「そ の行為」は見えているが,それを「いじめ」と は認識しない(できない)ということである。

なぜそのようなことが起こるかというと,「い じめ」がさまざまな仕方でカモフラージュされ るからである。遊びに紛らせて暴力を振るう,

わざとやっておいて,偶然そうなってしまった と言い訳をする,皆と同じようにやらないので

(出来ないので)注意をしている(教えている)

のだと正当化をする等,そのやり方は巧妙であ る。しかも,加害者たちは多数派でもあり,口 達者な彼らに教師が丸め込まれてしまうことも ある。

 森田等は,「優位性」について,身体的優位 性(腕力の強い者),数的な優位性(多数派),

社会的優位性(反対の劣位者は,皆と同じよう にできないもの)の 3 つの優位性を指摘してい る。このうち,社会的優位性は,社会的に望ま しいと思われている特性のことで,学校の中で 言えば,勉強が出来ること,教師の指示に従っ てテキパキと動けること,皆と同じように作 業・行動できること等,指示やルールに従って 行動できる者たちがその範疇に入ることにな る。換言すれば,教師の求めることに応じられ ている子どもたちということになる。このこと が,ときに,教師に「いじめ」を見えにくくし たり,教師をいじめの加害者の側につかせたり する一要因となっている。

 いじめは集団生活を背景にして起きている。

取り分け,学級集団は,この問題が起きやすい 性質を備えていると言うことができる。なぜな ら,学級は,同年齢の子どもで構成されるいわ

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特別寄稿これからの教師支援について

ば等質の集団であり,そこでは,通常,皆と同 じように出来ることが目指されると同時に,誰 が良く出来て,誰が出来ないか,一目瞭然とな るからである。皆と同じようにできることが求 められるということは,皆と違っていることは 攻めの対象になりやすいということであり,出 来る・出来ないが分かりやすいということは,

劣位の者が特定されやすいということである。

 子どもたちが,同年齢集団だけではなく,異 年齢集団で過ごすことが多かった時代には,そ の中で,違いを認めることを体験することがで きた。しかし,今,子どもたちは自然発生的に 異年齢集団で過ごすことが難しくなってきてい る。それを補うためか,学年を通した縦割り集 団を形成し,人為的に異年齢集団での活動に取 り組ませる試みがある。そうした活動を通して,

「みんなちがって,みんないい」ということを,

知識としてだけでなく,体験を通して学ぶこと を期待しているのであろう。いじめへの直接的 な対応というわけではないが,この問題の予防 は,そうした日常的な働きかけの中で考えてい くことが重要と思われる。

4.スクール・カウンセラーの   導入について

 増加の一途を示す不登校の問題や深刻化する いじめ問題への対応を主たる目的として,学校 にスクール・カウンセラーが派遣されるように なったのは,平成 7 年(1995 年)のことである。

当初,活用調査事業として,全国で約 150 の公 立学校に配置されたが,その約 10 年後には,

小中高合わせておよそ 1 万校(そのうち,中学 校は 4 校に 3 校の割合)に配置されるに至った。

ただし,配置割合には地域差のあること,また,

スクール・カウンセラーは非常勤職員であり,

1 校当たりへの勤務時間は週 1 回数時間と制限 されているのが実情である。

 この制度の中で,当初学校に派遣されていた のは,臨床心理士を中心に,病院や教育相談所,

福祉施設,大学の相談施設等に勤務している人 たちであった。そうした,いわゆるクリニック タイプの相談機関で行ってきた実践の方法が学 校現場に当てはまるのかどうか,危惧する声 もあったが,学校の中に,教師とは違った立場 の者が入るということは,概ね好意的に受け止 められてきたように思われる。例えば,文部科 学省(2016 年)は,不登校児童生徒への働き かけとして効果のあった学校の措置の一つとし て,スクール・カウンセラーの働きがあること,

また,スクール・カウンセラー派遣校において,

暴力行為発生件数,不登校児童生徒数,いじめ 発生件数等が,全国のそれと比較して少ないこ と等を報告している。極めて素朴な比較資料な ので,これだけのデータから,この制度の効果 を主張することは難しいが,この制度の拡充を 考える際には,そうした量的な検討とは別に,

カウンセラーは学校の中でさまざまな働きをし ているだろうから,そうした,いわば質的なデー タについても併せて検討をすることが必要だろ う。

 スクール・カウンセラーの実践の中で,いじ めの被害者や加害者,学校に来られない子ども 本人やその家族等への個別的・直接的な支援 は,その中心的なところを占めていると思われ る。もちろん,担任教師や保護者へのコンサル テーションを通して,当該の子どもたちに間接 的に支援の手を差し伸べるということもあろう。

 先に,スクール・カウンセラーの導入は,好 意的に受け止められていると指摘したが,この 点について,文科省は「学校のいわば『外部性』

を持った専門家として,教員とは別の枠組み人 間関係で(児童生徒と)相談できるため,スクー ル・カウンセラーならば心を許して相談できる といった雰囲気を作り出している」と述べてい る。確かに,成績評価とは別の次元で子どもを

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特別寄稿これからの教師支援について 見ることが出来るということはカウンセラーの

重要な立ち位置だが,いじめが,学級の集団生 活の中で起きているというところに目を向けた とき,教師の立ち位置や機能に目を向け,教師 とどう協働していくかということも重要な課題 となる。つまり,スクール・カウンセラーには,

個別的な視点と同時に,集団的な視点も求めら れるわけであるが,この点については項を改め て述べる。

5.昨今の学校状況と

  今後の教師支援のあり方

 20 世紀がそろそろ幕を閉じようとする頃,

さらに新しい問題が注目されるようになった。

「学級崩壊」の問題である。昔から,学校現場 では,「20 年に一度・30 年に一度のクラス」と 形容をされる学級の存在が話題になることは あった。多くは,特別な事情を抱えた子どもの 存在故に,学級経営が非常に厳しくなる現象で,

20〜30 年に一度というのは,極めて例外的な ことであり,長い教師生活の中でも遭遇するの はごく希なこと,大半の教師には無縁のことい う意味合いであった。それが昨今,どこの学級 で起きてもおかしくない状況になっているので ある。

 この状況を比較的早い段階で取り上げたマス コミは東京新聞だった。同紙は,1996 年に「溶 け出す学校」のタイトルで,子どもと教師の関 係作りや学級経営が難しくなってきた状況を 3 回に分けて特集したが,この時点では「学級崩 壊」という用語は使われていなかった。「学級 崩壊」の用語は,1997 年春,日本テレビ系列 の報道番組で使われて以降,広く流布するよう になった。

 学級の荒れの実態調査と対応の手掛かりを探 るため,文部省(当時)は,学級経営が困難な 状況にある小学校を調査対象として行った委嘱

研究の結果を公表している(文部省 2000)。

そこでは,「学級崩壊」という用語が「秩序が 壊れたかのような印象を与える」との理由から,

その使用を避け,「学級がうまく機能しない状 況」と表記している。

 同報告書では,対象学年,学級規模,学級担 任の年齢・性別等に関して,数量的なデータを 提示しているが,結論を言えば,どこの学級で 起きてもおかしくない問題という状況であっ た。また,報告書では,「学級がうまく機能し ない状況」の要因として 10 の類型を指摘して いる。そこから該当学級数の多かった順に主 だったものを抜き出してみると,「教師の学級 経営が柔軟さを欠いている事例」(104 学級),

「授業の内容と方法に不満を持つ子どもがいる 事例」(96 学級),「校長のリーダーシップや校 内の連携・協力が確立していない事例」(51 学 級),「いじめなどの問題行動への対応が遅れた 事例」(51 学級),「家庭と学校などとの対話が 不十分で信頼関係が築けず対応が遅れた事例」

(47 学級),「特別な教育的配慮や支援を必要と する子どもがいる事例」(37 学級)となっている。

 この調査研究の中間報告を報ずる朝日新聞

(1999 年 9 月 5 日 朝刊)の見出しには,「学 級崩壊の 3 割 担任の能力超越」とある。ベテ ランと呼ばれ,指導力があると言われる教師で も,この問題から逃れられないことがあるとい うことである。学級の荒れとは逆の,つまり,

学級がうまく機能している状況というのは,取 りも直さず,学級が学習をするための集団とし て機能しているということである。学級をその ように機能させることは,学級作りあるいは学 級経営と呼ばれ,教師の最も基本的な仕事の一 つであり,それはまた教師としての大きな喜び をもたらすものでもあったはずだが,今や,経 験のある教師でもそれが難しくなってきたので ある。

 ところで,ベテラン教師でも難しくなったか

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特別寄稿これからの教師支援について

らといって,この問題の解決を,学校外の誰か に肩代わりをしてもらうことは可能なことだろ うか?もちろん,不登校やいじめ問題への対応 も,学級担任の大事な仕事には違いないし,特 に,これらの問題の予防という点に関しては,

担任の果たす役割は大きいと言わねばならない が,学級集団にどうしてもなじめない子どもに 適応指導教室を提供することは,彼らへの学習 保障のための重要な選択肢の一つと考えられる し,いじめで傷ついた子ども,あるいはいじめ の加害者となってしまった子どもの心に向き合 うことも,スクール・カウンセラーのような,

教師とは異なった立場の専門家だからこそその 任務が全うできるということもある。

 しかしながら,「学級がうまく機能しない状 況」は,担任と学級の子どもたちとの間で起き ている問題なのである。先に紹介した「要因」

は,この問題の解決に当たっては,担任の果た す役割が大きいことを示している。それは換言 すれば,誰かが当該の学級を落ち着かせればそ れで問題解決というのではなく,担任と子ども たちとの間で関係の修復が目指されなければな らないことを示しているのである。

 つまり,学級経営を担任以外に委ねることが あったとしても,それは例外的なこと,一時的 なことであり,ましてや当該の学校外の誰かに 委ねることは考えにくいのである。それは,学 校で行われている様々な活動の連続性,教師と 学級の子どもたちとの関係の連続性を想定する からである。この問題が,担任と子どもたちの 間で解決できないとき,子どもはもちろんのこ と,担任も心に大きな傷を抱くことになる。こ の問題への支援は,当該の教室以外のどこか(例 えばカウンセリングルーム)で,学校外の専門 家の手によって行われるのではなく,学級の中 で,担任と子どもたちとの間で展開されている 学習活動を直接的に支援することによってはじ めて意味を持つと考えるのである。

 そう考えたとき,浦野(2001)の実践は,学 校におけるこの種の問題への支援における重要 な方向性を示しているように思われるので,以 下に,その概略を紹介する。

 対象となったのは,小学校 6 年生の 1 クラス である。5 年生の途中から学級が荒れ気味にな り,その問題が解決できないまま進級となった。

旧担任は持ち上がらず,新たに男性教員が新担 任になった。その結果,新担任の下では荒れは 目立たなくなったが,専科の図工の授業で荒れ

(教師への暴言,暴力,授業中の大声での私語,

授業からのエスケープ)が顕著になった。図工 専科は新任の女性教諭(T1)である。

 論文執筆者(T2)は,担任とティームティー チングによる指導体制を組み,学級改善を図る という目的で,このクラスに入るようになった。

授業観察やいくつかの質問紙調査による実態把 握を踏まえ,授業支援が開始された。その基本 方針を要約・整理すると,以下のようになる。

 ① 子どもたちに対して監視的な立場になら ないよう,教室では記録はとらない。

 ② 教師への反発が目立つ子たちを中心に,

授業に集中できるよう助言・補助する。

 ③ 専科教員(T1)と子どもたちとの関係 を改善する目的から,子どもの作品の良 いところを見つけ,T1 にほめてもらう ように仕向ける。

 ④ T1 が子どもと直接関われるよう,授業 の準備や片付けなどの補助をする。

 ⑤ 子どもの行動や T1 の関わり方で良い変 化が見られたら,それらを T1 に伝え,

関係改善の意欲を高める。

 ⑥ 日々の授業実践・観察や質問紙調査の結 果を元に,授業の進め方や子どもへの関 わり方について,コンサルテーションを 継続する。

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特別寄稿これからの教師支援について  この実践の基調となっているのは,学級を,

専科教諭(T1)から「取り上げること」ではなく,

専科教諭と子どもたちのものとして生き返らせ ることと集約できる。そのために支援者(T2)

がとった行動は,「子どもを支え」→「専科教 諭とつなぎ」→「徐々に離れる」というもので あった。具体的には,「(はじめ)T2 は荒れを 引き起こしている中心メンバーにとって『居て くれると助かる存在』となって学習を支え,意 欲的に授業に参加できるようにする。(次いで)

T2 と子どもたちの間に確立された『良い関係』

を生かしながら教師(T1)と子どもたちを結 びつけるよう働きかける。(そして)教師と子 どもの関係に改善が見られた時点でフェードア ウトを開始。T2 無しでも授業が成立するよう にする。」というものであった。

 こうした事例では,支援者は,しばしば自ら の「模範演技」に終始し,結果的に学級担任か ら学級を取り上げることになりがちだが,目標 とするのは,学級を元の担任に戻すことであり,

そのためには,そこから離れることを想定して,

「黒子」のようにして関わることが肝心なので はないだろうか。

 傷ついた教師の心を快復させるためだけな ら,放課後の学校でも,学校外の相談施設でも 支援は可能である。それで立ち直り,学級に向 き合える場合もあるかもしれない。しかし,担 任と子どもたちとの関係の修復は,学級の中で,

現在進行形で進めるのが実効ある方法ではない かと考えるのである。そのとき,力を発揮でき るのは,学校外の専門家ではなく,同じ学校に いる同僚なのではないか。なぜなら,同僚は,

学校というシステムについて,そして当該の学 校・学級の生態学的な特徴について,よく知る 立場にあると考えられるからである。

 教師に対する支援は,教師によってこそなさ れるべきと言えば,何を今さらと言われるのか もしれない。あるいは,ただでさえ多忙な教師

に,これ以上の仕事を押しつけるのかと嫌な顔 をされるのかもしれない。しかし今,同僚性の 欠如とまでは言わないまでも,その希薄化が,

学校環境を難しくしているように思えてならな いのである。

 本稿を閉じるに当たり,筆者らが,「異動プ ロブレム」(松村 2014)として指摘した問題 について紹介し,教師支援の一つの方向性を示 したいと思う。

 「異動プロブレム」とは,中堅・ベテランと 言われる教員が,異動によって赴任した先の学 校で,「学級がうまく機能しない状況」に陥り,

体調を崩したり,休職や退職に追い込まれたり する現象に関する造語である。

 教職に就き,20 年・30 年とやってきた教師 が,異動先で困難状況に陥るということは,特 に新しいことではなく,先に紹介した,「学級 がうまく機能しない状況」についての中間報告 を取り上げた新聞記事の中に,「(報告書をまと めた)研究会は,(中略)特定の学年しか担任 できない教師や転勤など環境の変化に弱い教師 の存在を指摘しながら…」といった一文を認め ることができるからである。

 ベテラン教師が新しい環境に移ってうまくい かなくなったことを話すと,それはベテランだ からこそ起きている問題ではないか,つまり,

それまでの自分のやり方に拘泥するあまり,新 しい状況に適応出来なくなっているのではない かといった,いささか醒めた反応が返ってくる ことが常である。もちろん,どこの社会にも,

新旧交代はあるわけで,学校現場も例外ではな い。しかし,事例を丹念に見てみると,ことは それほど単純ではないように思う。いくつかの 事例から,共通する部分を抜き出してみると,

以下のようになる。

 異動先の学校で担任を任された学級は,前年 度から学級経営上の問題を抱えている。事情を 知っている当該校の教員には持ち手はなく,転

(11)

特別寄稿これからの教師支援について

任者にお鉢が回ってくるが,そのことについて の十分な説明や学年,学校をあげての支援は望 めない(他の学級でも,同様の問題を抱えてい ることが多い)。前担任が残っていたとしても,

学級についての引き継ぎはほとんどなされな い。ベテラン故に,学級経営に関して弱音は吐 けないと思うし,かつ,それ相当の校務分掌も こなさなくてはならないので,自分の学級のこ とに時間が割けない(異動者がいきなり,分掌 の主任を命じられることは珍しくない)。前任 校と違う事務管理システムや教務システムに慣 れるのに時間がかかり,学級経営や授業準備に 時間が取れない。荒れ気味の学校では,子ども に厳しくするような対応をするのが常で,穏や かに関わろうとする異動者のやり方ではうまく いかない(子どもは,怒鳴られなければ言うこ とを聞かないような,いわば悪循環に陥ってい る)。

 学級作り・子どもとの関係作りは,教師の個 人的な資質によるところが大きいと思われる が,このように異動を切り口にしてみると,そ の背景には,学校管理上の問題,職員の人間関 係に関わる問題等,個人的資質以外の条件が大 きく関与していることが分かる。先に紹介した

「学級がうまく機能しない状況」の要因の中に も,「校長のリーダーシップや校内の連携・協 力が確立していない事例」(51 学級)とあった が,「異動プロブレム」においては,この部分 がクローズアップされているようにも見える。

学校の中で教師への支援を考えるとしたら,担 任の個人的な資質以外の側面を視野に入れた,

学校の生態学的な側面について考慮した支援が 必要なのであり,それが可能なのは,矛盾を承 知で言うことになるが,当該校の教師を置いて 他にはいないと思うのである。

6.おわりに

 「今後の教師支援のあり方」として,「学校の 中での支援」という方向性を示唆することに なったが,この考え方は取り立てて新しいもの というわけではない。なぜなら,これは,学校 心理学やコミュニティー心理学で言うところの

「内・社会体系」における支援であり,学級担 任を介して,学級を乱しがちな児童生徒の支援 を図るという意味では間接的な援助(コンサル テーション)と概念化できるからである。ただ し,前者については,支援の場が問題の生起し ている現実の学校場面であるという点で「内・

社会体系」という表現はそのまま適用できるが,

後者,つまり「間接的な援助」については,若 干の説明を要する。

 学校心理学で間接的援助あるいは直接的援助 というとき,援助を受ける対象として子どもを 想定しているが,「学級の荒れ」のような問題 においては,援助の対象は「子どもと教師との 関係」であり,先の事例で見たように,子ども に対して,授業に参加できるよう直接的な支援 を行うことはもちろんのこと,子どもへの関わ り方,指示の出し方等に関し,教師自身も直接 的支援の対象となるのである。

 それが出来るのは,長年学校という社会に身 を置いてきた教員であると言いたいのだが,今,

それが極めて困難になっている。そうした仕事 に当たれる中堅以上の教員の数が足りないとい う事情もある。対処しなければならない課題・

問題が次々に生じていることも事実である。教 員同士が互いに刺激し合うことが好まれない時 代になったということがあるかもしれない。し かしながら,繰り返しになるが,同僚性という 視点を無くしたら,学校での支援は成り立たな くなる,そう思えてならないのである。

(12)

特別寄稿 引用文献

天野 清(1995)小学校期の児童の学習遅滞と 学習障害児に対する教育の諸問題 LD(学 習障害)―研究と実践― 第 4 巻第 2 号 松村茂治(2014)異動プロブレム ―なぜ,中

堅・ベテラン教師が異動先で困難な状況に 陥るのか― 日本教育心理学会第 56 回総 会発表論文集 118‑119

文部省(2000)学級経営の充実に関する調査研 究(最終報告)

文部科学省(2016)児童生徒の教育相談の充実 について ―生き生きとした子どもを育て る相談体制作り(報告)―

森田洋司・清永賢二(1994)新訂版 いじめ 

―教室の病― 金子書房

宗内 敦・宗内美映子(1985)校内暴力 児童 心理学の進歩 金子書房

浦野裕司(2001)学級の荒れへの支援のあり方 に関する事例研究―TT による指導体制と コンサルテーションによる教師と子どもの こじれた関係の改善― 教育心理学研究 

(49),112‑122

これからの教師支援について

参照

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