公 正 償 格 概 念 の 登 展
手 塚
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葡
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國家が商晶の債格を勝手に指令すると云ふヒとは今日までに既に廣汎に行はれて來た︒即ち公螢企業の生産
物の債格を指令することがそれであつた︒然し人は此指令を問題にしなかつた︒此指令は猫占者の慣格指令に
過ぎなかつたからである︒指令さる玉債格を不適當と思へば︑買手たる民衆は買はないで濟まし得たからであ
る︒從つて國家によつて指令さる玉債格が公正であるかの如き問題は︑近頃までは表面には現はれてゐなかつ
た︒尤も公螢企業の生産物の債格と雌も︑それが決定さる玉規範には種鳳なるものがあり得たのであり︑其或
ものが國家から見て正義に合すると云ふ規範であつたことに疑が無いのであるから︑便格の公正と云ふものが
全然問題にせられてゐなかつたと云ふわけではない︒ところが今日では︑個人と個人との契約に於て定めらる
べき債格が自由に國家の指令によつて定められることが普通に行はれるやうになつて來た︒このことは︑國家
公正債絡概念の嚢展(手塚)ニニ七
'ニニ八
が自らの経螢企業の生産物の債格指令をなすのとは根本的に其性質を異にする︑今月の場合の償格指令は︑正義
の観黙に立つてなされる︒砥︑︑∴'⁝桑:'
國家によつてなさる曳今日の債格指令は正義の観黙から出つるものと解繹せらる玉他健ない︒債格指令が生
産物の債格に關してゐるにせよ︑叉は生産的用役%る勢働の債格即ち賃銀の指令にせよか何れもさうである︒︑
・適正債格なる名僻を與へられようと︑公定便格なる名僻を與へられようと︑叉は同様の名欝を與へられよう
と︑筍しくも國家忙よつて叉な公構力によつて指令さるY債柊は正義の観黙かち出つるものと解繹せちる玉他
はない︒從來︑・債格は原則として個々︑人の聞の自由なる契約によつて定められて來た︒特に詐欺であるとか︑
著しい誤認のあるやうな場合とか︑天災地攣ある場合とかを除けば︑國家が個々人間に於ける債格の形成に干
渉することは︑從來殆んど見られなかつた現象である︒申世から近世の初期にかけては︑多少このやうなこと
も行はれたかも知れない︒然し申世に於ける公正債格なるものが軍なる敏會法學者の希望した理想債格に止つ
てゐたのではないのかと疑ふべき理由が充分にある︒
云ふまでもなく申世の敏會法學者なり儒侶達は規範としての公正債格を論き︑公正債格の一種類である公正
なる利子率を説いたのではあつたが︑此事實と並んで︑中世では此らの公正債格や公正なり利子率を無硯した
やうな取引が愈襲達した︒,此矛盾は如何に読明せらるべきであるか︒公正債格は畢意道徳的規範に過ぎなかつ
たのではなからうか◎商法の中世の起源を研究した猫逸の學者らは敏會法學者らの公正債格論を實在とは別な
規範に過ぎないと解繹してゐる︒換言すれば此ら猫逸の學者らは申世の公正債格論を︑知識階級の思想であり
教會や大學の申に獲農した規範論に過ぎないと見てゐる︒それは..8ま傷.母鉱碧曾自8暑⑦器.︑とさへ云はれ
りた︒殊に国a§碧昌の如きは︑﹁敏會法學者の學読と教會法との實際上の敷果を過大硯すべきではない﹂と溝意
めさへしてゐる︒︑私は︑申世に債格が公樺力によつて定められたことのあるのを否定するわけではないが︑・此事
實が必すしも重大ではなかつ友と考へてゐる︒申世に於ける債格公定の事實を可成り重大に見てゐるタアルド.
さへも次のやうに云つてゐる︒﹁吾々に封して人は云ふであらう︑﹃敏會法學者の掟︑教會法學者が特別な概読
書なり神學大全で読いてゐる読は畢寛紳學者の読に過ぎないのであつて︑從つて櫓侶に向つて読かれてゐるも
のに過ぎない︒此設は一般肚會生活のぞとにある︒例へば聖トーマスの瀞學大全は︑8誌・ωωご昌の困難な場合に
於て僧侶の意識に光明を投すべく此ら僧侶によつて用ぴらるべきを目的とした概読書である﹄と︒これは或程
度まで當つてゐる︒教會法學者が読いた敏へは市民法に直接に作用しようとしたものではなく︑立法のモデル
として︑姿見として︑例として現はれたに遍ぎない︒聖トーマス自らさへも︑市民法は重大な背信盧偏を阻止
しようとするだけに止レ得た︑例へば費買の取浩には契約金額の二分の一以上の損害を必要とするとなすだけ
に止り得たと云つてゐる︒從つ︑て藪會法は或程度まで意識に關する立法(鎧き一Φσq互葺$α︒寅8昌︒︒︒ぎ8)であ
のる︒﹂かやうに見らる玉限りに於て︑便格公定の事實は申世に於て必すしも重大であつたとは去へ得ない︒
'資本用役の債格たる利子率の最高の公定だけが申世以來近頃まで債格公定の最も重大なものであつた︒重商
公正債格櫨念の震展(手塚)二二九
〜::ー〜・回ご三〇
主義め時代にな主込して産業保護の立場から此公定が行拡れ.近代に至つては弱者の保護の立場から此公定が
行絃れたことは周知の如ぐであるゆ7ラγスについて見ると︑.一七九三年四月十一日に金鈍貸借の絶封的自由.
が認めちれたが︑一八〇七年九月三日には再びそれに制限が付せられ蒲一九ッ八年四月二十日に至つて五年間
の金銭貸借の自由が認められ︑それが永久的なものとなつて︑今日に及んでゐる︒・從つて︑フランスでは徴利の膚由
は極φて薪しい事實である︒英画にて鳳︑一五四五年利子は最高一〇パーセントを超ゆることを得歩と定あち
●れ︑其後数同の攣遜を経て一七﹁四年に︑最高五パdセンドを超ゆることを得すと定められたり一八五四年に
は利子の制限に關する一切の法令は慶止された︒然しO︒日ヨ9ピ魯受の法理に於ては︑契約の取消の原因とし
てd昌含ρぎ津窪8を認められてゐるが故に︑利子制限法の屡止後は裁判所はd巳ぎ密自二窪8の存在を.理由
として轟高利の弊害を救つた︒一九〇〇年には目o昌2ピo巳窪>9が制定されたが︑共第一條に於て︑裁判官
は不當なる高利契約を相當な利率にまで引下げ得る橿能を與へられてゐるっ
かくの如く生産的用役の債格たる利子の率を公定すると云ふ亡とは一般に行はれては來た︒然しこのことは
寧ろ詐欺的な或ひは非道な原因によつて成立した債格への公椹力の干渉であつて︑之を債格に野する公構力の
門般的干渉と見るごとは出來ない︒從つて此一般的干渉は比較的に最近の事實であると見てよい︒即ちそれは
第一次世界大職頃かちの事實であると見られてゐる︒︑けれどもか玉る干渉をなす公櫨力の定むる債格の根底潅
るべき公正債格のイディは︑経濟思想の起つて以來︑即ちアリスネテレ墨ズ以來存在してゐる℃また公棲力の
干渉の無い債格こそが公正債格であると云ふイディさへもあつたのである︒
アリストテレース以來存在してゐる公定債格のイディは如何なるものであるか︒それは常に同じものであつ
たか否か︒其吟昧こそ此稿が目指す歪ころのものである︒▼︑
一公定債格︑匂昌曾℃ユ8鴇箕冒冒ψ8蔵︒Hσq巽8揮・掲器塗と云へば,敢へて註繹を加へるまでもなく︑正義臼蕊丙陶8
に合致した債格である︒けれども此場合の正義とは何を意味するのであらうか︒實は経濟上での正義の理念は
場合によつて著しく異るものであることはヂイドが云ふが如くである︒﹁パスカルは量つた︑ピレネエの此方
で眞理たるものも︑其の彼方では誤謬であると︒眞理であつても檬々なアスペクトがあるわけである︒尤も眞
理の場合には︑此らアスペクトの相異は人々の知識の完全でないことの結果であり︑あるがま玉に事物を見る
こ乏が出來ない乏云ふ人の凱ω一〇昌混齪を示すものでしかないと吾々は考べねばならない︒ところが正義の理念
の場合には︑吾々は正義の種々なる標準を考へ得るのであり︑而もそれら各標準の正義の聞に矛盾が無いこと
を考へ得るのである︒.だから之そ経濟學者は︑交換に於ける正義(甘の膏︒88ヨ暮頸昏︒)と分配の正義O鑑︒︒ユ︒.'
島曾凱9けぎ︒)ー後者は富の分配を支配する‑ーiとを匠別してゐるのである︒それどころか︑後者にあつてさ
へも︑}︒審2旨・・亀O昌︒︒魯自ミ即一r節6ぎ︒唇ω包︒謬︒・8僧恥一§︑呼︒ぎ2ヨ︒・︒ご昌い︒ωげ89昌ω●の何れを探つて原
理どするかに從つて︑種汝なるアズペクツがあO得る︒然らば公正債格の場合にはどうか︒⁝⁝人々があらゆ
る時代を通じて交換の正義を9署幕官窪するためた用ひた標準拡︑国σq岱年伽であつた︒これこそは︑即ち︑.富
公正債格概念の爽展(手塚)二三旧
﹂"︑,﹄㎝一㌃二三二
甘︒・匡8箒箋ω窪9二ぶσq婁幕ぷこそは簿山人間の精棘に現な︑れ得る最︑も簡軍にして明瞭な原理である︒このことは
全く眞であつて︑︑最も不公正なやうに見える致富の方法さぺも︑∴平等と云ふアス・ペクトの,下に現はれてゐる場
合に倣︑︑人間の眼には公正なものとなつて顯はれるのである︒例へば富籔によつて富を得ることほど不公正な
遣とほないやうである︒併し抽籔によつての富の獲得ほど.人め羨望を惹起しないものはない︒民衆の聲は︑︑
・一生涯にわたる勢働によつて獲得せられた富に封してよりも︑或ぴは學者の襲明によつて獲得せられた富に樹
して嫁り惹︑或ひは幾世代かにわたる租先からの貯蓄によつて集積された富に樹してよりも︑寧ろ富籔の偶然
によつて得られた富に樹して寛容である︒これは何故であるか︒勢働や才能や相績ぱ必すしも総ての人の事實
ではあり得ざるにも拘はらす︑富籔はチヤンスの絶封的平等を提供してゐ為からである︒誰人も羨望しない︑・
なぜなら各人は﹃自分も幸運をつかみ得たかも知れない︑同じチヤンスを有つてゐたから﹂と云ふからでみ
の\る︒L概括的に云へば︑ヂイドの此言葉の如︽︑正義は︑︑経濟上に於て︑平等を意味してゐたやうに思はれる画
アツストテレ}スに於てさうであつた9中世の聯學者︑教會法學者に於てさうであつた︒費手の提供するもの
と買手の提供するものとの間に貫昌幕iー何のエガづテであるかは後.に吟味する所であるがーがある場合に
正義があり︑かやう正義を實現せしむる債格が公正債格と考へられてゐた︒從つて中世の學者の公正債格の概
念のうちには︑當時存在した肚會階級の維持と云ふ動機が多少あつたにせよ︑申世の學者の公正便格の概念も
フコストテレースの公正優格の概念も極あて個人主義的概念であつたに過ぎない︒然るにフィジオクラットや