• 検索結果がありません。

戦前期 日本 にお ける紙 ・パルプ製造企業 の成長 と協調 (上)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "戦前期 日本 にお ける紙 ・パルプ製造企業 の成長 と協調 (上)"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

四 宮 俊 之

主 要 目次

は じめに

〔1 〕 紙 ・パルプ製造企業の成 長 と競争 ( 1 ) 王子製紙 の成長 と技術 ・市場 の態様

(2)

富 士製紙 の台頭 と競争

(3)

樺太工業の参入 と追随

〔2〕 紙 ・パル プ製造企業に よる協調行動 ( 以下は次 号に掲載予定)

(1)

日本製紙連合会に よるカルテル活動

(2)

共同洋紙 に よるカルテル活動 結論

〔 は じめに〕

日本 では、 7 世紀 に朝鮮 か ら紙 の製法 が伝わ り、その後 日本独 自の製法 が加 味 されて近世 には全 国各地 に著名 な和紙 (日本紙 ) の産 地 が見 られ る まで に な った。和紙 の生産 は、近代 にな ってか ら も主に農 山村家 内手工業 として 1 9 20 年代 まで一応 の増勢を示 した。但 し、 それは工業的技術 の劣性や原材料 の希少 性 な どに よる量的な確保 の限界、 また製 品 の活版印刷用紙 と しての不適性 な ど のために、近代 日本 の産業や生活様式 の欧風化 に ともな った新たな洋紙需要 の 拡大 に対応 し難 か った。

そ こで、明治維新後 の早い時期 か ら西洋式 の工場 ・機械制工業 と して洋紙製

(2)

道 の企業化が 主 と して民間の企業者 を中心 に取 り組 まれた 。1 8 7 4 ( 明治 7) 午 か らの 5 年 間だけで も民営 の 5 社 ( 5 工場) と官営 の 2 工場 が創業 した。 その 結果 、1 8 7 9 年 以降に 、1 8 8 8 年 と 1 8 9 8 年 を除 き、 国内の洋紙製造 高が常 に輸入高 を 上回 ってい くよ うにな った 。1 8 8 0 年 に 日本 の近代鉱工業分野 で最初 の同業者 団体 、 また カル テル団体 と して設立 され た製 紙 所 連 合会 ( 後 の 日本 製 紙 連 合 会) 1 ) に加盟 した洋紙製造企業 の洋紙製造 高総計か ら輸 出分を除 いた衡 量 で見た 洋紙 の国内市場 自給率 は 、1 8 8 0 年代 に平均 6 2 % 、 同 じく 1 8 9 0 年代 に 6 8 %、1 9 0 0

年代 に 6 8 %、1 9 1 0 年代 に 8 7 %、1 9 2 0 年代 に 8 9 %、1 9 3 3 ( 昭和 8) 年 までの 1 9 3 0

年代初 めの 3 年 間で も 9 1 % に及 んだ。 また、輸 出高 も 1 9 0 0 年 頃か ら増勢 を示 し、

1 9 1 5 年 以降の 7 年 間 と 1 9 2 8 年 以降の 3 年 間においては欧米先進 洋紙工業 国か ら の輸入 高を 上回 ったのであるZ ) 。

ところで、 西洋か らの移植工業 と しての洋紙製造業 ( 紙 ・パル プ工業) は、

抄紙棟 の輸入 な ど工場設備 に多額 の資本投 下が必要 な資本集約 的産業 で あ り、

また製造工程 において大量、迅速、 正確かつ計画的な工学 的 ・化学 的処理 を必

要 とす る近代 工業 のひ とつ で もあ った。 したが って、国 内におけ る洋紙製造業

の企業化 と発達 には、洋紙市場 の形成や拡 大 のほか、一応 の資本 力や資金力に

加 えて、大規模かつ効率的な事業展 開を行 い得 る技術 力や経営 力の確保 ・保持

が技術者や経営者的人材 の確保 ・育成 を含 めて不可欠 であ った。 こ うした事業

的 ・企業的 な諸要件 を何 らか のや り方 で ク リア し続 けた企業や企 業家が、やが

て輸入洋紙 との競合 を含 む業界 の企業 間競争 において独 自な地位や優位 を待 て

い った 。1 8 7 5 年 に創業 され た抄紙会社 の後 身 とな る王 子製紙 ( 第二次世 界大戦

後 の王子製紙、即 ち今 日の新 王子製紙 との対 比か らは旧 ・王 子製紙 ともしば し

ば称 され る)や 、1 8 9 0 年 に創業 した富 士製紙 な どの第二次世界大戦 前におけ る

有力大企 業 と しての生成や台頭 は、そ うした企業経営活動 の成果 を物 語 ってい

る。 なか で も、 王子製紙 は 、1 9 0 9 年 に当時 ヨー ロッパや アメ リカな どにあ った

紙 ・パル プ工業 の先進工場 と比較 して も特段 に遜 色 のなか った大規模工程 での

(3)

紙 ・パル プの大量 ・高速 ・一貫製造処理 を実現 した北海道苫小牧工場 の新設 に よ り一応の国際競争力を持つ までにな り、その後 の輸入紙 を含む他 の紙 ・パル プ製造企業 との競争 で優位 に立った。 また、後 の 1 9 3 3 年 には多年競争 して きた 富 士製紙 と樺太工業 ( 1 91 5 年 に創業)を 自社 に合 同 し、国内洋紙製造高総計 の 80% 以上をお さえる巨大独 占企業の ( 大) 王子製紙 と して業界の覇権 を握 って い くのである。

そ こで、近代 日本 におけ る洋紙製造を中心 と した紙 ・パル プ工業 の歴史的発 展 と変遷 の要件や 主体的営為 の意義 な どを明 らかに してい くためには、何 よ り

も先ず第二次世界大戦 前の国内で有力かつ 主導的な紙 ・パルプ製造企業であ っ た王子製紙 と富 士製紙、それに樺太工業 の大企業 と しての生成 と競争関係、そ れ と 3 社 の大合 同をめ ぐる経営史分析が第一義的課題 とな る。 したが って、第

‑章の諸節 では、 これ ら 3 社 の企業成長 の重要な要件 とな った企業行動 の特徴 や個性 な どを技術や市場 の態様、企業間の競争関係や競争過程 な どを絡めて大 略的に論述 してい く。

ところで、 これ ら有力 3 社 の成長 と業界におけ る競争関係は、欧米の先進紙

・パル プ工業 国か らの輸入圧力‑の対抗策 を含めて、 しば しば 自由競争 におけ る市場的 リス クの緩和や回避 な どを 目的 と した企業間の協調行動を ともな った。

と りわけ国内の紙 ・パルプ市場 におけ る市場 メカニズ ムの人為的な統制 をめざ

した カルテル活動‑の取 り組みは、個 々の企業活動や企業間競争 の態様 な どに

業界 の共通利害 をかな り反映 させ る意味を もった。前述 した王子製紙 に よる富

士製紙や樺太工業 の大合 同 も、 この ような カルテル活動へ の取 り組みの延長線

上において理解 されねばな らない と考 える。そ こで、第二章 の諸節では、第二

次世界大戦前におけ る国内の紙 ・パルプ工業界で代表 的な カルテル組織 として

機能 した 日本製紙連合会 と共同洋紙会社に よる協調行動 につ いて、その経緯や

意義、効果 な どを分析 ・解 明 し、それ を一種 の映写面 に しなが ら企業間の競争

関係や競争過程 な どを改めて多面的に論述す る。 この よ うな複数有力企業の生

(4)

成や競争関係な どについての経営史研究 と業界の カルテル活動に見 られ る協調 行動 につ いての経営史研究 を重ね合わせ ることで、近代 日本の紙 ・パル プ工業

・企業経営史についての体系的 ・総合的な考察 と理解が可能 とな り、 また近代 日本経営史 の実像解 明に大 き く資す ると考 える。

注 1 ) 拙論 「 製紙所連合会 の設立 と価格協定 一 日本におけ るカルテル的活動 の噂矢 ‑」

( 『 文経論叢』第 1 5 巻第 2・3 合併号、弘前大学人文学部 、1 980 年 3 月 、41‑71 貞)を参照 されたい。

2 ) 成 田潔英編 『日本紙業総覧』王子製紙 、1 9 3 7 年版、付録統計 6 ‑1 7 頁。

〔1 〕 祇 ・パルプ企業の成長 と♯争 ( 1 ) 王子製社の成長 と技術 ・市場の態様

1 . 王子製社の創業

王子製紙 は、最初の社名を抄紙会社 として 1 872 ( 明治 5) 1 1月に東京 で設立 された. 当時の国内におけ る洋紙需要は、未だ政府 の官需を中心 に散 々た る量 に止 まったが、将来的には文明開化 の進展 に よる急増 が見込 まれていた。 また、

実際にイギ リスな どか らの輸入が徐 々に増 加を見せてお り、明治維新 の直後 か ら数人の企業家が国内で洋紙工業 の企業化 にはぼ時期 を前後 させて取 り組む よ うにな った。最初の企業化に向けた企 ては、 1 87 1 年 の大阪におけ る洋法椿製会 社 の設立 であったが、中途 で挫折 し創業 まで に至 らなか った。 そ のため、 翌 1 872 年 2 月に設立 された東京 の有恒社 に よる1874 年 の創業 が最初 の実 現例 と な った。王 子製紙 の前身 となる抄紙会社 は、 1 875 年 6 月に創業 した。 有恒社や 抄紙会社を先駆け として1 874 年か ら1 879 年 まで東京 と京阪神地方を中心 に前述 の ごと く民営 の 5 社 ( 5 工場) と官営 の 2 工場が創業 されたのであ る。

これ らの諸企業 ・諸工場は、 旧藩士族 の授産や地域 の振興、あるいは国内外

におけ る将来的な市場機会 を見込 んだ り、それぞれが独 自な企業化 の理念や 目

的、性格 を もっていた。官営 の 2 工場 は、地域振興を 目的 とした京都府営 のパ

(5)

ピール ・フ ァブ リック ( 後 に民営 の梅津製紙 となる)、お よび紙 幣用紙 な どの 政府 自製 ・自給 をめざ した大蔵省紙幣寮 の抄紙局であ った 。1 87 4 年 に設立 され た抄紙局 は、 手漉 きを専業に創業 されたが 、1 87 9 年か ら機械漉 きも開始 した。

抄紙会社 は、 この抄紙局の設立が具体化す る以前に大蔵省高官 の渋沢栄一が当 時政府 の官金を取扱わせていた豪商の三井組や小野組、島田組に出資 を強 く働 き掛けて、紙幣用紙 を含む政府需要の供給 を当座 の 目的に 日本最初 の 「 合本粗 織」 ( 初期 の株式会社類似形態)に よる有限責任制 の 「 会社 」 と して設 立 され た。その資本金 1 5 万 円の内、当初 の払込 みを 1 0 万 円 とし、三井観 が 4 5% 、小野 組が 2 5% 、島田組が 1 0% 、それに渋沢が 1 0% を出資 した。 しか し、大蔵省がや がて抄紙局 の設立に踏み切 ったため、抄紙会社が当初め ざ した政府需要紙 の受 注は、後述す る地券状用紙を除 くと見込み違 いに終わ ったD ちなみに、渋沢 も 1 87 3 年 に大蔵省を辞職 し、第‑国立銀行 の総監役 ( 頭取) に転 出 していた。

ところで、三井組や小野組 な どの官金取扱業者は、大蔵 省 よ り 1 87 4 年に官金 取扱 いに要す る提 出担保 の増額を急 に命 じられ、それに小野観 と島田組 が対応 で きず に倒産 した。抄紙会社 は、その直前に創業資金 の不足か ら資本金 の 2 2 万 円‑の増額を決定 してお り、小野組 な どの倒産に よ り増資分を含む株式の分割 払込 みが滞 って、創業資金 の不足 を早急に手当て しなければな らなか った1 ) 0

但 し、抄紙会社 に とって幸いであ ったのは、当初か ら三井組 を含む株主 よ り

実質的に経営 を委託 されていた渋沢が第一 国立銀行 の総監役 を本務 としていた

ため、小野組な どの倒産前か ら運転資金や設備資金 を同行か らの借入金 で先ず

調達 し、後 で株式 の未払 い込 み分を徴収 して返済す るや り方を頻繁 に行 ってお

り、それ を倒産後 も当座 の資金調達 に一応継続 で きた ことである。抄紙会社で

は、 工場 の竣工時におけ る払込資本金 1 8 万余 円に対 し、第一 国立銀行か らの借

入金が 8 万余 円に及んだ2 ) 。 また、小野観 の倒産 に際 し同粗 所 有 の抄紙 会社 株

式を没収 した大蔵省 も、その買い取 りを抄紙会社に一旦 内達 したが、同社が最

終的に拒絶 したため、公売を試みて不首尾 に終わ った後、 同省の国債寮に買い

(6)

上げ させて処理 した。 この国債寮 に よる株式 の買 い上げ は、政府 に よる当時 の 殖産 興業政策 とは無 関係 な小野組処 分 の一環 と してな された もので、後 の 1 87 6 年 に同案 が抄紙会社か らの株式末払込 分 1. 5 万 円の払込請求 に応 じた の も、政 府 が 当時取 り組 んでいた地租改正 に必要 な地券状用紙 の確保 策 と飽 くまで も見 るべ きであろ う。 ちなみに、 同案 は所 有 した抄紙会社株 式 を 1 8 81 年 に全 て売却 した。

抄紙社会 は、 この よ うに小野姐 な どの倒産後 も第一 国立銀行か らの金融 的支 援や、有力株 主 と して残 った三井姐 さらに国債寮 な どか らの追 加的 出資 な どに 支 え られ なが ら洋紙工業 の企業化 に取 り観 んだ。但 し、 同社 には洋紙工業 につ いて 工学 的知識や技能 を もった 日本人 の関係者 が皆無 で、在 日アメ リカ系貿易 商‑創業 に必要 な機械 の機種選定 な どを含 めた発注か ら輸入 までだけでな く、

機械 の設置か ら稼働 までを指揮 ・指導 して もら う外 国人技術者 の人選や斡旋 も 一 切委託 しなけれ ばな らなか った。 こ うして ア メ リカ人機械技 師 とイギ リス人 抄紙技 師の各 1名 を雇用 し、 工場 の建設か ら創業 までの技術 的な指揮 ・指導 を 受けたのである。 なお、外 国人化学技師 1名 の雇用 も予定 されたが、先 に雇用

した 2 名‑ の給与支払 いが 予定 よ りも高額 とな ったために見送 られ た3 ) 。 しか し、 この よ うに して抄紙会社 が輸入 ・稼働 させた抄紙機械 ( 長網式) は、

抄紙会社側 が 十分 な技術 的知識 を持 っていなか っただけでな く、輸入を仲介 し た外 国系貿易 商や製造元 のイギ リス機械 メーカー も 日本 の技術 的後進性 な どを 考慮 して高性能機 を不要 と判断 した よ うで、 当時 の欧米製先進機械 に比べ る と 構造 が簡便 で、網幅 も国 内最大 の 7 8 イ ンチなが ら小型 の汎用 向け であ った。毎 分 の抄速 も創業期 には 20 メー トル弱、外 国人技師の助手 と して働 いた大川 平三 郎が後 に構造的欠陥を指摘 し改造 してか らも 50 メー トル位 と遅か った4 ) 。 また、

雇用 された外 国人技術者 2 名 の熟練度や専 門性 をめ ぐって も、後 には疑 問視す る意見が 出て くるのであ る5 ) 。

この よ うな問題点 の指摘か らも伺 える よ うに、 当初 の操業 は抄紙工程 を中心

(7)

に技術的 トラブルが多発 して難航 し、製品‑ の注文 を後 で返上 した例 もあ った。

また、製品 も不良であ った。それ で も操業 を続 け得 たのは、政府が 1 876 年か ら た また ま抄造 の容易な厚紙 を地券状用紙 と して国 内の洋紙製造各社‑大量 に分 散発注 したためであ った。抄紙会社 も、その抄造 を 2 年 間ほ ど受注 して、会社 設立以来 の累積赤字 を償 却 で きたのであ る。但 し、その間の 1 876 年 に政府か ら 新設 の抄紙局 と紛 らわ しい との理 由で社 名 の変 更 を迫 られ、製紙会社 と改称 し なけれ ばな らなか った6 ) 0

ところで、 こ うして改称 した製紙会社 の創業期 におけ る事業 の立 ち上が りを 支えた政府需要 も、既 に政府 が抄紙局を設置 していたため、地租 改正が一段落 す る と先細 りを見せた。そのため、やがて新 たな民需 の開拓 が急務 とな った。

そ こで、製紙会社 は、 当時発行 部数が次第 に増 えていた新 聞や雑誌 な どの民需 向け下等 印刷用紙 に生産 の重点 を次第 に移行 させ てい くよ うにな った。但 し、

当時の民需市場 では、上質紙 だけでな く、下等 印刷用紙 も輸入洋紙 が価格 と品 質 の両面 において優勢 であ った。 国内の市場価格 は、輸入紙 の価格動 向に大 き く左右 され、製紙会社 の下級 印刷用紙製造 コス トを下回 った りも した。製紙会 社 は、そ こで下級 印刷用紙 の量産化 に よる コス トの引 き下げ を急 いだ。 また、

輸入紙価格 に準 じた採算割れ価格 での販売 も強行 して、量産化 に見合 う新規受 注 の獲得 や開拓 をめ ざ したのである7 ) 。そ の結果、製紙会社 の決算は、製本 ・印 刷部 門を除 く製紙部 門に限 って見 る と 、1 879 年 か ら純益が激減 し 、1 880 年上期 になる と再 び創業期 の よ うな赤字 に転落 したのであ る。

1 ) 抄紙会社の創業期における資金調達の詳細については、拙論 「 抄紙会社創業期 の資金調達」( 『明治大学大学院紀要』第 1 0

( 6 ) 、経営学篤、明治大学大学院、

1 9 7 2 年 1 2 月 、1 0 3‑1 1 4 頁)を参照されたい。

2 ) 『 抄紙会社実際報告 』1 8 7 5 年 7 月、抄紙会社。『 抄紙会社創立記事

』抄紙会 社 (ともに紙の博物館所蔵。以下の紙 ・パルプ製造企業の経営史料についても、

多 くが同館所蔵) C

3 ) 成田潔英 『 王子製紙社史』第 1 巻、王子製紙 、1 9 5 7 年 、3 4‑3 7 頁。前掲 『日本紙

業総覧 』5 31 、5 3 3‑5 3 5 頁。『 抄紙会社、明治六 ・七年 外国人往復状之部』第 9

(8)

号、抄紙会社。

4 ) 同上 『 王子製紙社史』第 1巻 、617 真。玉川寛治 「 創業 当初 の英国文献か ら見 た抄紙会社の技術 について 」( 『 百万塔』 第 84 号 、紙 の博物館 、1 9 83 年 、54‑56 頁)0

5 ) 以下の諸節におけ る紙 ・パル プ工業の技術動 向については、拙論 「 紙 ・パル プ 工業にみ る技術革新」 (由井常彦、他篇 『日本企業の経営革新史』有斐閣、近刊予 定)を参照 されたい。

6) 以下の各節におけ る王子製紙 の経営動 向については、拙論 『 修士論文 ・日本 に おけ る洋紙業 の確立過程一王子製紙会社を中心に‑』明治大学大学院 、1 972 年度 のほか、拙論 「 王子製紙会社経営史の研究」( 『明治大学大学院紀要』第 1 2

( 6 ) 経営 学篇、明治大学大学院 、1 9 7 4 年 1 2 月 、7 0‑7 1 頁)を参照 されたい。

7) 『 製紙会社回議録 』1 87 7年11 月。「 渋沢君経済学者を招待す」( 渋沢青淵記念財団 竜門社編 『 渋沢栄一伝記資料』第 1 1 巻、渋沢栄一伝記資料刊行会 、1 9 5 6 年 、7 4 頁)

2. 木材パルプ製造の工業化

製紙会社 は、1 877( 明治1 0) 年末か ら製品 ・市場戦略 を民需 向けに転換 してい くのであるが、それ に先立 ち同年 に 2 名 の外国人技師を契約満期 で帰国 させ、

彼 らの助手を勤めていた大川平三郎 を中心 とした 日本人だけに よる操業 を始 め た。 また、抄紙工程 な どの操業時間 も、それ までの1 8 時間制 ( 創業期 には1 2 時 間) を昼夜連続 の 2 4 時間制 とした。 しか し、その後 の民需 向け‑の戦略転換 に 際 して、先ず必要であ った製紙 コス トの削減化が当初思 うよ うに進 まなか った。

そのため、1 879 年 に大川 を本人の申 し出に よ りアメ リカ‑製紙工業 の研修 に派 遣 した。大川は、製紙会社 と同 じ三井系 の三井物産 ニ ューヨーク支店 に よる紹 介な どで幾つかの工場 を回 り、そ こで働 きなが ら操業技術一般 を修業 した。 ま た、当時 アメ リカで企業化 され て間のなか った麦藁 の製紙パル プ化技術 につい て も学 んだ。そ して、 1 年余後 に帰国 し副支配人 とな り、抄紙機 の解体修理や 改造に取 り阻 み、抄速 の向上化 な どに よって製紙量を著増 させた。

次いで、1 882 年 には新たに稲藁を原料 とす るパル プ製造 を事業化 し、それ ま

での木綿 ポ ロだけでな く、新たに稲藁 も原料パル プ として混用 した下等 印刷用

紙 の製造を開始 した。 こ うした稲藁パル プの混用化は、製品の品質 に難があ り

(9)

市場では不評だ ったが、原料 コス トの引 き下げが可能 とな り、抄速 の向上 と相 まって製紙 コス トの削減を もた ら したOそのため、折か らの松方 デ フ レにおけ る紙価 の下落に も係わ らず、製紙会社 の収支はむ しろ安定的に保たれてい くよ うにな ったのである1 ' 。

ところで 、1 883 年頃か らヨー ロッパで新たに紙 ・パルプ工業 の一大原料革命 となる木材 の製紙 パル プ化技術 が工業化 され始めた。そ こで、大川が翌 1 884 年 に再び ヨー ロッパ とア メ リカに工場視察のため派遣 された.彼 は、 こ うして一 応の技術を修得 し帰国す ると、直ちに 日本最初 となる木材パルプ製造 の企業化 に取 り組 んだ。 しか し、その際に彼が選択 ・導入 した木材の化学的処理 に よる 革新的なパル プ化技術 ( 亜硫酸法) は 、1 867 年に アメ リカ人が発 明 し 、1 870 年 代に ヨー ロッパで よ うや く実用化 されたばか りで、木材 の蒸煮工程 な どに末だ 技術的な難点を多 く抱 えてお り、 アメ リカな どでは末だ企業化 されていなか っ た。そのため、製紙会社におけ る企業化 も、 当初には東京の王 子工場におけ る 試道の域を出ず、その後資本金を 50 万 円に増額 して原料 の針葉樹材が豊富 と見 られた静岡県 内陸部の気 田で 1 889 年 にパル プ専門工場 を新設 し本格化 した。但 し、大川は、 亜硫酸法 に比 して品質が劣 る ものの原料 の歩留 ま りな どが高 く、

コス トも低い力学的摩砕処理 の技術 ( 砕木法) を選択 ・導入 しなか った。 また、

亜硫酸法 に よるパル プの製造 も、品質 の改良が期待 した よ うに進 まなか った。

そ こで、製紙会社 が当時既 に新たな主力製 品 としていた新聞用紙 の原料 に まで 木材パル プを使用 してい くには、木材 パルプと新聞用紙 の新たな一貫統合生産 工場を気 田に近 い静 岡県 内の中部 ( なかべ) に 1 899 年竣工 させ るまで待たわは な らなか ったのである2 ) 0

ちなみに、気 田工場 では、木材パル プを当初全て王子工場‑製紙原料 として

供給 したが 、1 891 年 に抄紙工程 を併設 し、包装用紙な どの最 下等粗悪紙 を 自製

す るよ うにな ったO また 、1 895 年には新 たに砕木 パル プの製造 も開始 した。 工

場別 の営業収益を知 り得 る 1 89 3 年 以降につ いて見ると、気 田工場は同社 の主力

(10)

工場 であ った王 子工場 に比 して工場規模が小 さ く、 また製品 も価格的に安か っ たため、全社的な収益貢献度 ではるかに及ばなか ったが、原料 コス トが半分程 度 のために製品の衡量当た り利益率にな るとむ しろ凌 いでいた3 ) 。製紙会社 は、

それで も日本最初の木材パルプの企業化を同社 の戦略的な主力製品であ った新 聞用紙 な どの原料転換に まで結 びつけ ることに手間取 った結果、木材パルプの 企業化に後か ら追随 して くる富 士製紙 の国内業界におけ る急速 な台頭 を後述 の

よ うに許 したのである。

ところで、大川は、後 に彼 自身が 「 外智輸入論」と称 して述べた

4)

よ うに、木 材パルプの企業化に取 り細/ む過程 で欧米諸国の先進工場を何 回か視察 し、最新 の基幹技術情報 の収集や関連機械 の買い付けを行 うな ど、製紙会社 に よる木材 パル プの企業化に技術者 として強力な リーダーシ ップを発揮 した。そ こで、製 紙会社が 日本最初の商法施行 と合わせて王子製紙‑政敵 ・改称 された 1 8 9 3 年に 34 才で専務取締役‑昇任 した。だが、 この頃か ら同社 は従来の第‑国立銀行に 代 えて三井銀行 との財務的な結 び付 きを強 めていた。 当時の第‑ 国立銀行は、

1 8 9 6 年末に予定 された普通銀行‑の政敵 に先立 って、 王子製紙‑の融資 を次第 に抑制 しつつ あった ようである。なお、既述 の ように有力株主 としては、抄紙 会社 の時代か ら三井系関係者が多 く、王 子製紙に改組 された後 も全株式のほぼ 半分を所有 していた。 三井は、抄紙会社 の設立 当初か ら実質的な最高経営職能 の遂行 を渋沢栄一に‑任 し続けて きたが、三井銀行総長 の三井高保が筆頭株主 とな った 1 8 9 5 年頃には、周知 の ように中上川彦次郎が 「 工業化 」 政策に取 り観.

んでいた。中上川 は 、1 8 9 6 年に同行 出身で芝浦製作所支配人の藤 山雷太を新た に王 子製紙の専務取締役‑送 り込 んで、渋沢や大川が実質的に掌握 して きた経 営権 の奪還をめざす よ うにな った 。1 8 9 8 年に三井商店理事会は大川を専務か ら 取締役兼技師長に降格 し、次いで工場 で起 きた従業員に よるス トライキの責任

を負わせて辞職 に追 い込 んだ。取締役会長の渋沢 も辞任 した。か くて、大川は、

当時指揮 していた中部工場の建設中途に王 子製紙を去 らねばな らなか ったので

(11)

ある。

1 ) 各期 『 製紙会社考課状抄本』製紙会社。 前掲 F 渋沢栄一伝記資料』第 1 1 巻 、7 4 頁。拙論 「 明治 中期〜大正期 におけ る王子製紙 と富士製紙 一寡 占的 な発 展 を も た ら した経営戦略 を中心 に ‑ 」 ( 『 経営史学』第 1 0 巻第 3 号、経営史学会 、1 9 7 6 年、

4 4‑4 6 頁) 。

2)

以下の諸節 におけ る王子製紙 の経営動 向の詳細 につ いては、同上 「明治 中期 〜 大正期におけ る王子製紙 と富 士製紙 」4 2‑6 2 頁 も参照 されたい。

3) 各期 『 製紙会社考課状抄本』製紙会社。

4 )

「大川 氏座 談会」 (『経 済雑 誌 ダイ ヤモ ン ド

』1 9 2 9

5

1

日号、 ダ イ ヤ モ ン ド

社 、4 4‑51 貢)0

3. 国内市場 の伸長 と北海道苫小牧工場の建設

王子製紙 におけ る製品の流通 ・販売 は、抄紙会社 としての創業 当初には官需 向けを中心 とした直接販売 であ ったが、製紙会社 に改称 してか らの民需 向け‑

の販路転換 に際 して洋紙商に販売を委託 し、次 いで 1 882 年 (明治 1 5) 年か ら洋 紙商の買 い取 りに よる特約販売制 に移行 した。その頃には新 聞用紙が新 たな 主 力商品 とな り、東京だけでな く、京阪神地方 な どに も市場を拡げてい くように な ったO

国内の新聞業 は 、1 877 年 の西南戦 争におけ る戦況報道やその後 の 自由民権運 動に際 しての政論報道 な どを契機 に発達 を見せ、 1 日当た りの発行部数が 1 万 部を超 え る新 聞社 もやがて幾つか登場 した。大阪朝 日は 、1 883 年に 2 万部を上 回るよ うにな った。 こ うした新聞業 の成長 とともに、それ まで主にイギ リスな どか らの輸入新聞用紙 に国内市場 を押 さえ られ ていた国内製新聞用紙 も次第に 販路を拡げてい ったのである 1 ) 0

1 89 0 年末に帝国議会が開設 され ると、新 聞業 の発達に一段 と弾みがつ いた。

東京朝 日を最初 として新 聞製作 の迅速化、大量化 をめざ し輪転印刷が開始 され、

新たに新聞用巻取紙 の需要 も生 まれた。 王子製紙に改称す る前の製紙会社 も、

巻取紙 の製造を開始 した。だが、既述 の よ うに木材パル プを品質の不良な どが

(12)

1 2

原因で末だ新聞用紙 の原料に活用 出来ず、王子工場でのポ ロと稲藁だけを原料 とした新聞用紙の製造能力に も限 りがあ って、その後 の需要増加に十分対応出 来なか った。 また、ポ ロや稲藁だけに原料を依存 したままの生産拡大が次第に 原料集荷の量的制約か らコス ト高を招 き、収益力の低下につなが った 01 8 87 年 に設立 された富士製紙 では、新聞用巻取紙 の増産 にやは りやや立ち遅れが見 ら れた ものの、王子製紙が当初 に取 り範 んだ亜硫酸木材パルプの製造 よ りもコス トの安 さや歩留 りの高 さで新聞用紙原料に適 した砕木パルプの製造を 日本最初 に 1 89 0 年末か ら企業化 してお り、それをポ ロや稲藁パルプと混用 し翌年 よ り新 聞用紙製造を開始 していた。 また 、1 89 2 年には亜硫酸木材パルプの製造 も開始 したOか くして、王子製紙は、後発の富 士製紙 に も木材パル プを混用 した新聞 用紙の製造 ・販売競争で遅れを とるようにな ったのである

2)

0

王子製紙は、そ こで 1 89 5 年末に木材パルプを原料 とした新聞用巻取紙 の量産

をめざ し中部工場の新設を決定 した。 しか し、前述 のごとく大川が辞職 した後

の 1 89 9 年に竣工 した同工場は、 アメ リカ製の網幅 9 8 イ ンチ長網抄紙機 な ど新鋭

の新聞用紙製造設備 を備 えていた ものの、工場に隣接 した河川 の氾濫 な どで当

初か ら操業の混乱が頻発 し、 また製品の巻取紙 も不良で市場 の評価が芳 しくな

か った。 また、大川に従 って少なか らぬ技術者や熟練職工が辞職 し、それ も工

場 の操業に支障を与えていた。開業後の 2 年間におけ る中部工場 の製紙高実績

は、予定能力 ( 1 日当た り 2 万 6 0 0 0 ポ ン ド)の 2 5 % に止 ま り、王子工場 との比

較で も 3 2 % 相当に過 ぎなか った。そ こで、 アメ リカ人抄紙技師を急速招聴 ・雇

用 して技術的な指導を受けた りもしたが、操業の不調を解消す るまでには至 ら

なか った。その結果、王子製紙 の営業収支は急速に悪化 し、 さらに工場の被災

に よる資産減価や不良品在庫の過大評価 な どを毎期の決算で処理せずに隠蔽 し

続けたため、やがて財務的な行 き詰 ま りに よる資金難を表面化 させた。三井銀

行は 1 9 0 2 年に追加融資を停 止 し、 また同行出身の藤山専務 も解任 し、新たに同

行神戸支店長の鈴木梅四郎を後任 として任命 したのである3 ) 0

(13)

鈴木は、当時の王 子製紙 におけ る最高職位 であ った専務に就任す ると直ちに 払込資本金 200 万 円を 50 万円‑切 り捨て減資 し、それ と同時 に三 井銀 行 な どか らの累積借入金 1 50 万円を新株式‑振 り替 えて再増資す るな どの整理 案 を作 成 し、三井銀行 の 了解 を得 て実行 した。 しか し、その後 も中部工場だけでな く、

気 田工場で も河川の氾濫 な どに よる操業 の混乱が頻発 し、両工場 の将来につ い ての危供が高 まった。 こ うして新工場を別 に建設 し一挙 に事業を再建すべ Lと の意見が次第に強 ま り、北海道 を適地 とす る調査 ・検討 が本格化 したのであ る。

ちなみに、 当時既 に王子製紙 を凌 いで国内最有力の紙 ・パル プ製造企業 とな っ ていた富士製紙 も 、1 90 2 年か ら北海道 で個人企業家 との合弁 に よるパル プ工業 に取 り組んでお り、やは り本格的な工場 の新設計画を構想 しつつあ った。だが、

王子製紙 に よる北海道工場 の計画には、三井銀行が最有力株主 として難色を示 した。鈴木 な どは、そ こで三井同族会 に新工場 の建設予算分 と して 400 万 円の 増資引受けを要請 し、その同意を得 て 1 906 年 に北海道工場 の建設を決定 したの である4 ) 0

こ うして、 ア メ リカ製網幅 1 42 イ ンチ と 1 00 イ ンチ長網抄紙機各 2 基 に砕木パ ル プや 亜硫酸木材パル プの製造設備 な どを備 え、新聞用紙 を中心 に 1 ヶ月当た り 350‑400 万 ポ ン ドの製紙能力を持つ苫小牧工場が 1 91 0 年 に竣工 した。その建 設費は、鈴木が三井同族会か らの同意を得 るた め意 図的 に過 少 見積 も りした 40 0 万 円を大 き く上回 る 7 84 万余 円に達 した。そのため、三井同族会 の持 ち株 を 継承 して三井系事業 の新たな統括機関にな っていた三井合名会社 の意 向で、鈴 木は工場建設中途 の 1 909 年 に専務取締役 を解任 された。 但 し、 三井合名は、鈴 木の過少見積 りで生 じた建設資金 の不足 につ いては追加融資 し、工事を進め さ せた。 王子製紙 の 1 91 0 年下期決算におけ る三井合名 よ りの借入金 は 430 万 円に 及んだのである。

苫小牧工場 の新設は、 この よ うに多少 の粁余 曲折 を見せ なが らも王 子製紙 の

事業再建 に とって起死回生の効果 を もった。 その製紙高は、既存 の王 子、気 田、

(14)

中部の 3 工場 におけ る製紙高合計を当初 よ り大 き く上回 った。そのため、王 子 製紙 の全工場製紙高合計は 、1 91 1 年に全国洋紙製造高総計の 2 3% を 占め るよ う にな り 、1 89 8 年以来 下回 って きた富 士製紙 と再び括抗 し、翌年か らは上 回 って い くよ うにな った。 また、それ まで木材パル プの原料材 として きた本州 の樵や 栂材 よ りも一層適 した針葉樹 である北海 道 の ‑ ド松 や ト ド松 材 な どの使 用 に よって、製品の良質化 と低 コス ト化 も進 んだ。苫小牧工場 におけ る新 聞用紙 の 製造開始に よ り、 アメ リカ製を中心 とした外 国製新聞用紙が国 内市場 におけ る 恒常的な競争力を一 旦失い、 日本 の紙 ・パル プ工業に よる新聞用紙 の国内完全

自給体制が一応整 え られてい ったのである。

注 1 ) 拙論 「 近代 日本 の製紙業 と新聞業の洋紙輸入税 をめ ぐる対立関係一 新 聞用紙 輸 入税 問題 を中心 に ‑ 」 ( 『 弘 前大学経済研究

』 第

1 1 号、弘 前大学経済学会 、1 9 8 8 年、

1 5、1 7 頁)0 2 ) 同上論文 、1 8 貢。

3 ) 前掲 「 明治中期〜大正期におけ る王子製紙 と富 士製紙 」4 8‑51 貢。

4 ) 「 専務取締役鈴木梅 四郎君之演説、 明治 4 2

」 (前掲 『 渋沢栄一伝記資料E ]第 1 1

、1 1 6‑1 2 0 頁)0

4. 第一次世界大戦期以降の市場 と戦時の動 向

王子製紙 は、新設 した苫小牧工場 の成功で富 士製紙 に対す る事業的な劣勢を

挽 回 し、再び国内最 有力の紙 ・パル プ製造企業 としての優位 を相互に競 うよう

にな ったが、鈴木専務 の解任後、 しば ら く新 旧経営者の乱蝶 で経営者機能 の遂

行に若干 の混乱があ った。三井合名は、そ こで 1 91 1 (明治 4 4 ) 年末に三井物産

木材部長兼小樽支店 長の藤原銀次郎を王子製紙 の専務 に任命 し、経営者層 の刷

新 を囲 った。最高経営者 としての藤原 は、資金 の不足か ら建設 の中途 に計画を

縮小 し完成 されていた苫小牧工場 の生産能力を最初 の計画通 りに 1 ヶ月 600 万

ポ ン ド‑引 き上げたほか、三井物産 で旧知 の人材を登用 して工場や本社 の経営

合理化 に取 り阻 んだ。 また 、1 91 3 年 ( 大正 2) 年 には三井合名が政府樺太庁 に

(15)

よる誘致 で樺太 ( 現 ・ロシア領サ‑ リン) の大泊 に着工 した亜硫酸木材パル プ 工場 の建設 と操業 に全 面的な技術支援 を行 い、後 に同工場を譲 り受けて樺太で のパル プ事業 に進 出す る足掛か りも得たのである1 ) 0

こ うして苫小牧工場 を新たな主力拠点に して事業 と経営 の合理化 を進めてい た 1 91 4年に第一次世界大戦が勃発 した。国内の紙 ・パル プ製造各社 は、世界的 な洋紙不足 に よる市価高騰 の もとで増産 を急 いだ。 しか し、それには原料パル プの不足がネ ックとな った。 と くに ヨー ロ ッパな どか らの輸入パル プを原料 に 使 っていた中小各社 では、戦時の輸入途絶 で深刻 なパル プ不足 に見舞われたo Lか し、王 子製紙や富士製紙 は、北海道 に紙 ・パル プの総合一貫工場 を建設 し た際に、道 内の主要なパル プ材資源 を 自社 の原木伐採圏 と して確保 していた。

そのために、他 の内地 におけ る中小各社 の追随的な道 内‑の工場進 出が既 にか な り困難 とな っていた。 また、王子製紙 は 1 91 5 年に三井合名 の大泊パル プ工場 を譲 り受けたほか、 さらに樺太 で 自社二番 目のパル プ工場建設 と原木伐採地 の 拡大化 に も着手 し、原木段階か らの一層 の垂直的統合に よる紙 ・パル プの生産 拡大を成 長 ・競争戦略 と して展開 した。 ちなみに、富 士製紙 もほぼ同様 の戦略 を採用 していたが、紙 ・パル プの増産 を専 ら北海道 と内地 で行 い、樺太 に工場 を確保 したのは戦後 の 1 9 2 2 年 であ った。

王子製紙 は、 また製品の販売 において も、第一次世界大戦期 に特約商‑の指

導 ・統制 を強めて、特約商 を介 した流通ル ー トを次第に専属化 ・系列化 してい

くようにな った。 さらに、市価 の高騰 で得 た高利益を積極的に積立金や減価償

却な どに よ り内部留保 し、財務体質 の改善 ・強化 に も務めた2 ) Oそのため、国内

最有力の紙 ・パル プ製造企業 と して富 士製紙 を含む他社 に対 し競争 上の優位 を

次第に強めてい った。大戦後 には、長 ・定期 の先物販売取引を重視 して在庫 の

増加を抑制 しなが ら、一層 の生産性 向上や増産 に よる製紙 コス トの引 き下げに

努めたため、新たに直面 した市価 の下落に もかな りの程度 まで対応 で きた よう

であるO また、主力製品 と した新聞用紙 の需要 が戦後 も増勢を示 し、一般洋紙

(16)

に比べて市況 の悪化 が多少穏やかだ ったので、その点で も打撃が他社 よ りも軽 微であ った と思われ る3 ) 。そ こで、 1922 年 か ら富士製紙に製紙 高 ・販 売 高 で再 び抜かれてい くものの、収益性 な どでは王子製紙が依然上 回 った。富士製紙 で は、長 ・定期の先物だけでな く直物取引 も重視 していたため、市況の低迷化 に

よる販売不振 と在庫 ( 滞貨) の急増 に苦慮 してい くよ うにな った4 ) 。

但 し、それで も国内の洋紙需要が第一次世界大戦後 も一応1928 年頃 まで増 え 続 けていたために、王子製紙や富 士製紙 は工場 の新増設や他社 の買収 ・合併 な どに よる生産拡大競争を続けた。 また、 191 3 年 に設立 された樺太工業 も、パル プ専業か らやがて紙 ・パル プの統合経営 をめ ざ し独 自に上質紙や新聞用紙 な ど の生産拡大に取 り組 み始めた。その結果、各社 に よる生産 の拡大が需要 の伸び を上回 って、慢性的な供給過剰状態が引 き起 こされた. 1926 年頃には ヨ‑ ロッ パな どか らの新聞用紙 の輸入圧力 も再び強 まった5 ) 。そ こで、王 子製紙は、富士 製紙 な どと従来か ら取 り組 んで きた 日本製紙連合会や共同洋紙 な どに よるカル テル活動を一段 と強化 して、企業間協調に よる市況 の人為的な統制 に活路を本 格的に求めてい くよ うにな ったのであるが、それについては王子製紙に よる富 士製紙や樺太工業 の 3 社大合同‑の経緯 を含め次号で改めて論 じてい く。

注 1 ) 前掲 「 王子製紙 会社経 営 史 の研究 」7 5‑7 6 頁 。 2) 各 期 『 王子製紙 営業 報 告書』 王子製紙 。

3 ) 藤 原銀 次郎 「 本 邦紙 界 の前途 につ いて」( 『 紙 業雑 誌 』第 1 7 巻 第 1 2 号、 日本 製紙連 合会 、1 9 2 3 年 1 2 月 、2 0‑2 3 頁) a 「 藤原 社長 の製紙 業 観 」 (同 上雑 誌 、 第 19 巻 第 1 2 号 、1 9 2 5 年 2 月 、 2 頁)

0

『 藤 原社 長報 告要 領』 ( 株 主総会)、 王子製紙 、1926 年 12 月 〜1 9 2 8 年 1 2 月)0『藤原 社 長 歳末 訓示』王 子製 紙 、1 9 2 6 年 1 2 月 〜1 9 2 8 年 1 2 月。拙論

「 第一次 大 戦 以降 の 日本製紙 連合会 と製 紙 業経 営 の展 開 一三 大製紙 企 業 の合 同 に よる 「 大」 王 子製 紙 の成 立 まで ‑ 」 (『文経 論 叢』 第 1 8 巻第 1号 、弘 前大 学 人 文 学 部 、1 9 82 年 1 2 月 、2 0 頁)。

4 ) 同上 「 第一 次大戦 以降 の 日本製紙連 合会 と製紙 業経営 の展 開 」1 8‑1 9 頁 。 5) 拙 論 「 昭和 初期 日本 の新 聞用紙 カル テル と外紙 輸 入 一外紙 ダ ン ピ ン グ論 の再 検

討 を含 め て ‑ 」 (『 経 営史学』第 2 3 巻 第 3 号 、1 9 8 8 年 1 0月 、 8‑1 3 頁)0

(17)

( 2) 奮士製鼓の台頭 と♯争

1. 奮士製柾 の設立 と木材パ ルプ製造 への追随

富 士製紙 は 、1 887 (明治 20 ) 年 に元 ・政府勧業局長 の河瀬秀治や元 ・三 田製 紙所 副社 長の村 田一郎 な どを発起 人 と して資本金 2 5 万 円で静 岡県に設立 された。

初代社長には河瀬 が就任 したが、最高経営職能 を 主に管掌 したのは、有力株主 の中でただ一人 の製紙事業経験者 と して副社 長に就任 した村 田であ った。彼 は、

1 891 年 に河瀬 の後任 と して社 長に昇格 した。

ところで、 同社 は、木綿 ポ ロと稲藁 を原料 とす る製紙業 をめ ざ して設立 され たが、創業 に必要 な諸機械 の購 入や雇用す る外 国人技術 者 の人選 な どのために ヨー ロッパ とアメ リカ‑派遣 した 工場監督 の真 島真一郎 に よ る現 地 か ら の 進 言1 ) を受け入れ て、木材 の製紙原料化 を計画に急速追加 した。真島は、ヨー ロッ パで製紙業 の歴史的な一大原料 革命 とな る木材 の製紙パル プ化事業 を直接見聞 して将来的な有望性 を確信す る とともに、既述 の よ うな大川に よる製紙会社 で の先行的な取 り組 み‑ の対抗策 と して も導入の必要 が ある と判断 した。 その際 に、彼 は大川 の取 り組 む亜硫酸木材 パル プの製法だけでな く、 日本 で最初にな る砕木 パル プの製法 も併せて選択 ・導 入 した2 J 。砕木 パル プは 亜硫 酸 木 材 パ ル プ よ りも品質が劣 る ものの、原料 の歩留 りの高 さな どか らコス トがは るかに低 く、新聞用紙 な どの下級紙原料 と して適 していたのであ る。

か くして、富士製紙 は、創業計画 の変 更に よ り資本金を 5 0 万 円に増や して、

84 イ ンチ長網抄紙機や砕 木機 な どを備 えた最初 の工場 を富 士郡入山瀬 で 1 890 年

に完成 させた。 同社 が国 内で製紙会社 に次 いで取 り組. んだ本州 の針葉樹材 を原

料 と した木材パル プ製造 の企業化 は、 当初 には技術的な不慣 れか ら多少難航 し

た ものの、 アメ リカ人機 械技 師 とオース トラ リア人化学技師各 1名 に よる指導

の もとで 1 891 年 3 月に先ず砕 木パル プ、次 いで同年 末 に亜硫酸木材パル プの順

で成功 した3 ) 。そ こで、ポ ロや稲藁 のパル プだけでな く、よ り割安 な木材 パル プ

を新 聞用紙 な ど多様 な製 品の原料 に混用 して 、1 89 2 年 頃か ら創業 以来 の赤字経

(18)

1 8

営 を解消 し、 早 くも 1 89 3 年 の下期 には製紙会社 の後 身 で あ る王子製紙 を収益的 に凌 ぐよ うにな った4 ) 。ちなみ に、王子製紙 では、主力製 品 と した新 聞用紙 な ど の下等 印刷用紙原料 に木材 パル プを末だ混用 で きなか ったため、富士製紙 との 市場競争 で次第に劣勢 を余儀 な くされ てい った よ うで あ る。 そ こで 、1 89 5 年末 に新 た な対抗策 と して中部工場 の新設 を決定 したのであ るO

3 0 2 頁)

2 ) 以下の諸節における富士製紙の経営動向の詳細については、拙論 「 明治、大正 前期における富士製紙会社の企業成長一王子製紙 との比較において‑ 」( F明治大 学大学院紀要』第 1 1集

(6)

経営学篇 、1 9 7 3 年 1 2 月 、1 0 3‑1 2 1 貢) 、および前掲 「 明治 中期〜大正期における王子製紙 と富士製紙 」4 2 ‑6 2 頁、また技術動向については、

前掲 「 紙 ・パルプ工業にみる技術革新

( 近刊予定)を参照 された

3 ) 王子製紙 と富士製紙に次 ぐ日本における木材パルプ製造の企業化は 、1 8 8 9 年設 立の四 日市製紙による 1 8 9 8 年のことであった。それまでは、 この先発 2 社のみが 取 り阻んでいた。( 前掲 「 明治中期〜大正期における王子製紙 と富士製紙 」4 4 頁) 0 4 ) 1 8 9 3 年下期 『 富士製紙定時株主総会報告書 』 C

2. 富士製牡 の台頭 と北海 道への工場進 出

木材 パル プの国 内におけ る企業化 で王子製紙 よ りも後 発 なが ら実 益性 な どで む しろ上回 った富 士製紙 は 、1 89 4 ( 明治 2 7 ) 年 か らの 日清戦争期 に新 聞用紙 を 中心 と して洋紙 の需要 が大 き く伸 びたため、戦後 の 1 89 6 年 に資 本 金 を 1 50 万 円 に増額 し、それ を元手 と して翌 1 8 9 7 年 に 1 0 0 イ ンチ と 8 4 イ ンチ の 長 網 抄 紙 機 な どを備 えた第二工場 とパル プ製造 専門の分工 場 を富 士郡 に新 設 した。 その結 果、

1 89 8 年 か らは洋紙 の製造 高 ・販売 高で王子製紙 を抜 いて国 内最大 ・最有 力 の紙

・パル プ製造企業 にな った。 その頃にな る と洋紙 の市況が再 び悪化 し市価 が下

落 を見せ たが、 これ を一 時的 な現象 と見倣 して生産 拡大 に よる製紙 コス トの引

き下げ で主 に対処 し 、1 9 01 年 には第二工 場に長網抄紙機 2 基 を増 設 した。 こ う

した 日清 戦争後 の市況悪化 の もとでの生産拡 大 の続行 は、次第 に同社 の財務体

質 を悪化 させ る要 因に な ったが、それ で も前述 した王 子製紙 の当時 に おけ る若

(19)

境 と比較す る と、依然かな り堅実な企業活動 と営業実績を保 って い た と言 え る

1)

a1 90 2 年 には釧路 で前年 開業 した前 田製紙を 前身 と した北海紙料に出資 し、

北海道 で最初 の木材パル プ工業 に関与 してい くよ うに もな った。富士製紙 の製 紙高は、 この年 おいて王子製紙 の 2 倍近 くに及び、国内製紙高総計 の 3 0 パ ーセ

ン トを占め るまでにな った。

ところで、富士製紙は、北海道でのパ ル プの合弁 事業 が収 益 的 に振 るわ な か った ものの、道 内に豊富 な針葉樹材資源を原料 とす る本格的な製紙工場の建 設をやがて新 たな成 長戦略 として構想 し始 め、工場適地 の調査 な どにかか った0 1 90 4 年か らの 日露戦争期に新聞用紙 市況が再 び活気を見せ ると、北海道工場建 設の気運が一段 と高 まった。 また、王子製紙 も、前述 の よ うに社運 の再建をめ ざ して北海道‑の工場進 出計画を 1 905 年 に具体化 させつつ あ った。そ こで、富 士製紙は 1 906 年に資本金 の 460 万 円‑ の倍額増資 と社債 200 万 円の発行を実施 し、

北海道 の江別 で新工場 の建設にかか ったのである。

こうして 、1 90 8 (明治 4 1 )年末に新 聞用紙用 1 00 イ ンチ長 網 抄 紙機 2 基 、 同

9 8 イ ンチ機 1基 な どにて 1 ヶ月 当た り 1 80 万 ポ ン ドの製紙能 力 を もった江別 工

場が竣工 した。 同工場 では、王子製紙 の苫小牧工場 が紙 ・パル プの完全集 中一

貫製造 をめざ したの と異な り、亜硫酸木材パル プだけを工場 内で 自製 し、砕木

パルプを別 に新設 した道 内のパル プ工場や 1 9 06 年 に買収 した元 ・北海紙料 の工

場か ら供給す る方式 を採 った。 この よ うな木材パル プ工場 の道 内での分散化に

よって、苫小牧工場 よ りも原木 の集荷圏を地理的に拡げてい こ うとしたのであ

る。だが、実際にはパル プ工場の操業不調に よ り江別工場‑のパル プ供給が計

画を下回 って、江別工場 の操業本格化 に足伽 とな った。 また、富士製紙に よる

江別工場を新 聞用紙 の新 たな拠点工場 と した事業 の拡大化戦略 自体 も、 王子製

紙に よる 1 91 0 年竣工 の 1 ヶ月 当た り 400 万 ポ ン ド近 い製紙能 力 を もつ 苫 小牧 工

場 を主力工場 とした拡大化戦略 に比 して遜 色を免れ なか った。そのため、富士

製紙 の国内新 聞用紙市場 におけ るシェアは 、1 91 1 年 以降王子製紙に大 き く奪わ

(20)

れてい くようにな ったのである。

ところで、富士製紙 は、前述 した倍額増資 の後 、 1 907 年 に大 阪 の 日本 製 紙 (1 ヶ月当た り約 1 20 万 ポ ン ド製紙能 力)を合併 した際、資本金 の1 0 ̲ 00 万 円への 増額 を決定 した。 しか し、 この ような一層 の事業拡大化 に向けた新たな増資 の 強行 は、創業時か ら株式所有が分散 し有力な支配的株主を欠 く株主層 に とって、

日露戦争後 の不況に よる影響 も重な り過大な負担 にな った。 そのため、江別工 場 の完成 を 目前 に した1 90 8 年 に株式 の払込みが延期 されて資金繰 りの悪化が表 面化 し、外資か らの借入な どで急場 を凌 ぐようにな った。 また、そ の前年頃 よ り支払 い手形 な どの短期債務 も激増 し、そのための金利負担 の増大な どか らも 業績が急速 に悪化 しつつあ った2 ) 。その責任 を問われて1 90 8 年 末 に村 田が社 長 を辞任 し、持株上位株主の一人で専務の小野金六が後任 とな った.

小野新社長は、 日本興業銀行や 日本銀行か ら新たな救済融資や融資保証を得 て当座 の資金難 を乗 り切 ったが、その見返 りに両行か ら各 1 名を常務取締役 と

して受け入れねはな らなか った。 しか し、 こ うして新たに発足 した経営者層 で も、銀行 よ り出向 した常務 同士の不和 もあ って経営 の主導権をめ ぐる確執 と混 乱が生 じ、それ に株 主層 との対立が加わ って次第 に社 内抗争化 してい くように な ったのである。

注 1 ) 各期 『 富士製紙定時株主総会報告書』。

2 ) 同上報告書。前掲 「 明治、大正 前期 に おけ る富 士 製 紙 会 社 の企 業成 長」 1 08‑

1 1 5 頁Q

3. 経営者層の変遷 と王子製社 との競争

富士製紙 では、経営者層 と株主層 の内紛か ら1 91 2 ( 明治 4 5)年 になる と小野

社長 を含む全役員が総辞職 し、有力株主 の一人で内紛 の調停 に当た った元 ・横

浜正金銀行頭取 の原六郎が新社 長に就任 し内紛 の収拾 をめざ した。 しか し、そ

の後 も株主層 との対立 な どで最 高経営職 能 の遂 行 が 円滑 に いかず 、そ のため

(21)

1 91 4 年 に原 が 自らの社 長再選 と絡 めて三井物 産 出身 で 王 子製 紙 の藤 原 専務 に とって先輩 の窪 田四郎 を専務取締役 に招聴 したのであ る1 ) 。 窪 田 は、第 一 次世 界大戦 に よる洋紙市場 の活況化 な どに恵 まれ なが ら、原 の信任 を待 て生産 の効 率化や合理化 な どに リーダーシ ップを行使 した。富士製紙 では、 前述 の よ うに 王子製紙 と相前後 した北海道‑ の工場進 出な どで既 に紙 ・パル プの一 貫統 合 に よる量産体制 を一応整 えてお り、輸 入パル プに原料 を少 なか らず依存す る よ う にな っていた他 の内地 におけ る中小製紙企業 の よ うに、パル プ輸入 の途絶 で洋 紙 の増産 を大 き く制約 されず に済 んだ。但 し、 この時期 に王子製紙や樺太工業 が取 り組 み始 めていた工場 の樺 太進 出には未だ追随せず傍観 していた。 同社 に よる樺太進 出は 、1 91 5 年 に設立 され て樺 太 の落合 にパル プ工場 を建設 した 日本 化学紙料 を大戦後 の 1 9 2 2 年 に合併 したのが最初 であ る。

ところで、窪 田専務は 1 91 8 年 に原 の推挙 で後任 の社 長に昇格 した。だが、窪 田は、原 の引退 で経営者層 におけ る後 ろ楯 を失 い、新 たに富士製紙株式 の所有 を増や し有力株主 とな って くる穴水要七や大川平三郎 の台頭 に よ り、や がて社 長 としての リーダーシ ップの行使 を制約 され て い くよ うに な った 。 穴 水 は、

1 9 0 8 年 に社員 と して入社 し 、1 91 1 年 に販売部長 とな った後 、 自社株 を取得 して 有力株主 とな り 、1 91 5 年 か ら取締役 、常務、専務‑ と累進 した2 ) 。 また大川 も、

後述 の よ うに樺太工業 を所有 ・経営 しなが ら 1 91 2 年か ら富 士製紙株式 を積極 的 に買 い増 し、有力株主 の一 人にな った3 ) 。か くて、窪 田は 1 91 9 年 に辞任 を余儀 な くされ、大川が後任 の社長 に就任 した。大川 は、樺太工業 の社 長を本務 とした が、兼任有力大株主経営者 と して富 士製紙 の最 高経営職能 も工務関係を中心 に 管掌 したのであ る。営業販売関係につ いては、穴水専務が専 ら管掌 してい くよ

うにな った。

富士製紙 は、 こ うして大 川 と穴水 を中心 と した新 たな経営者層 の もとで、第

一次大戦後 に洋紙市況が低迷 して くる と、次号 で別述す る よ うに 1 9 2 0 年 か ら王

子製紙 な どと一般 印刷用紙や新 聞用紙 な どを対象 と して市況 の人為的な統制 を

(22)

め ざす カルテル活動 に一層積極的な取 り組 みを見せた。 また、そ うした業界 レ ベルの協調行動‑ の参加 と別 に、 王 子製紙 ともども独 自な競争戦略 と して他社 の合併や 買収 、あ るいは 自社工場 の新増 設や合理化な どに よる生産 の拡大 を執 勘 に進 めた。 と りわけ、王 子製紙に比べて立ち遅れが 目立 っていた新 聞用紙 の 生産拡充に力を注 いだ4 ' Oそのため 、1 9 2 2 年 か らは製紙 高 ・販 売 高 で 王 子製 紙 を抜 いて再び国 内最大 の紙 ・パル プ製造企業 にな ったのであ る。

但 し、 大川 は、富 士製紙 とほぼ同様 の事業拡 大化戦略 を樺太工業 で も強行 し た。富 士製紙 は、そ こで王子製紙 だけでな く新たに樺太工業 とも製 品や市場 に おけ る競合関係が次第 に強 ま り、財務的 な疲弊 も重な って 1 9 2 7 年 に拡 大化戦略 を一応打 ち切 らざるを得 な くな った。 こ うした樺太工業 に よる富 士製紘 ‑ の戦 略的 な追 随 と双方 の競合化 が、富 士製紙 の筆頭株主 に までな った穴水や彼 の一 族 が大川 に対す る不信感 を次第 に募 らせ てい く要 因 とな った ように思われ る。

1 9 2 9 年 に穴 水が病死す る と、彼 の所有 した富 士製紙 の株式が遺族 か ら密 かに全 て王子製紙‑売 り渡 された。その結果 、王 子製 紙 は 、新 た に富 士 製 紙 株 式 の 1 3% を持つ最大株主 とな り、大川 を富士紙製 の社 長に留任 させ て 工務関係を依 然管掌 させ た ものの、 自社 との競合が 目立つ営業販売関係 を中心 に全権 を掌握 したのである。その結果 、富 士製紙 は、大川 の社長兼務に よる樺 太工業 との人 的 ・技術 的 な関係がほ とん ど戦略 的な意味 を失 い、王 子製紙 との資本 ・経営関 係 を新 たな機軸 と して事業 の展開をはか る よ うにな って 、1 9 3 3 年 には財務 的 に 行 き詰 まった樺太工業 ともども王子製紙 に大合 同 され てい くのであ る0

注 1 ) 窪 田四郎 と原一郎 の富 士製紙におけ る経営 者活動 の詳細 につ いて は、 拙 論 「 富 士製紙におけ る窪 田四郎一 専門経営者 と しての行動をめ ぐって ‑ 」(『文経 論 叢』

第 2 4 巻第 2 号、弘前大学人文学部 、1 9 89 年 、6 3‑9 5 頁) を参照 された い。

2 ) 『 富 士製紙株主姓名簿 』1 91 5 年 、1 91 8 年、他。

3) 大川 平三郎の富士製紙におけ る経営者活動 の詳細 につ いては、拙 論 「 大 川 平三 郎 と富 士製紙一 兼任有力大株 主経営者 としての行動 と足跡 ‑ 」 ( 『 創 価 経 営 論 集 』 第 1 5 巻第 2 号、創価大学経営学会 、1 9 91 年 、3 9‑7 4 頁)を参照 されたい。

4 ) 前掲 「 第一次世界大戦 以降の 日本製紙連合会 と製紙業経営 の展開 」1 6‑3 3 頁。

(23)

拙論 「 戦前期 日本におけ る新 聞用紙共販 カルテルの展開一 共 同洋紙 会 社 の活 動 に

つ いて

‑ 」( 『 経営論集」第 31 巻第 4 号、 明治大学経営学部 、1 9 8 4 年 、7 3‑7 7頁)0

( 3) 樺太工業の参入 と追随 1. 樺太工業の設立 と参入

樺太工業は 、1 91 3 ( 大正 2 )年 に資本金 200 万 円で設立 された。創立者 は、元

・王子製紙専務取締役 の大川平三郎 であ った1 ) 。既述 の ごと く 1 898 年 に 王子製 紙を辞職 した大川は、それか ら四 日市製紙 の専務取締役や中国上海 にあ った華 草道紙公 司の総監役 ( 技師長) な どを歴任 し、次 いで 1 90 3 年熊本で資本金 82 万 円の九州製紙設立を主導 し、大株主経営者 ・個人企業家 としての地歩を固めて い っ

た 。

九州製紙 は、稲藁を主原料 と した洋紙造業に取 り組 みなが ら火災 で工場 を焼 失 し破産状態 に陥 った旧 ・東肥製紙 の事業 を継承 して設立 され、大川に よる企 業家的な ] )‑ダーシ ップの行使 と経営職能 の遂行に よ りやがて国内中堅の紙 ・ パルプ製造企業へ成長 した。大川は、その後 1 90 6 年 に資本金 50 万 円の中央製紙 を設立 し、岐阜県中津に新工場 を 1 90 8 年竣工 させた。 また、同 じく 1 90 8 年 に資 本金 60 万 円の木 曽興業 も設立 し、長野県須原で 1 91 2 年 に工場 を竣工 させた。 こ れ ら大川の直系 3 社 は、いずれ も九 州 や本州 の針葉樹材を原料に木材 パル プか ら洋紙 までの統合一貫生産 をめざ し、その合計製紙高は 、1 91 2 年 に全 国洋紙製 造高の 1 2. 5% を占めて、 王子製紙 の 31. 1 % 、富 士製紙 の 29. 1 % に次 いだ。彼 は、

そのほかに当時既に四 日市製紙や中之島製紙 の取締役 な ども兼務 してお り、そ れ ら関係会社 を含めた製造高にな ると 、1 9. 3% を占めた2 ) 。

だが、王子製紙や富 士製紙が前述 の よ うに当時既に北海道‑ 工場を進 出 させ

て道 内の豊富 な針葉樹材 を原料に大規模 な紙 ・パル プの統合生産 を実現 してい

たのに比べ る と、大川系諸企業 は末だ内地 の針葉樹材に依存 した中規模 な統合

生産 に止 ま り、競争 上の劣勢を否定 し得 なか った。大川は、そ こで新たに北方

(24)

材資源の確保 をめざ して1 91 1 年 に樺太 の国有林伐採権 を確保 し、先ず三井物産 との共同事業 として樺太 での亜硫酸木材パルプ製造の創業 を構想 した。 しか し、

既 に見た ごと く三井合名は、1 91 3 年 に王子製紙 の技術協力を待 て単独で事業化 に取 り魁む ことを決定 した。そのため、彼 は対抗上か らも大川系直系 3 社 に先 述 した関係 2社を加えた 5社 の共同出資に よるパルプ専業企業 として樺太工業 を急速設立 したのである。

こうして設立 された樺太工業 は、第一次世界大戦 に よってパルプ市価 が世界 的に急騰 していた 1 91 5年樺太 の泊居 に年産 1万 トン能力のパルプ工場 を竣工 さ せて、製品の亜硫酸木材パル プを内地の大川系企業‑供給 した。但 し、大川系 の内地各社では、樺太工業 に比べて内地材の不足や小規模生産 に よる限界を抱 えなが らも木材パル プを もともと自製 してお り、樺太か らの運賃負担な どを考 慮す ると採算的に も依然見合 った ようである3 ) 。そ こで、 自社 製 パ ル プで不足 した分を樺太工業か らの供給 で補 うに止 まった。その結果、樺太工業は、製造 したパルプの過半が余剰分 とな ったが、それ を折か らパルプ市価 の高騰 してい た国内市場に販売 し、む しろ高利益を得 たのである。 工場 の建設に要 した経費 の250 万 円 も操業開始後 1年余で回収 で きた と言われている。

樺太工業は、そ こで1 91 6 年 に資本金を500 万円に増額 し 、1 91 7 年 まで に泊 居 工場 のパルプ年産能力を 2 万 トンに倍増 させたほか、1 91 9 年 に樺太 の真岡で紙

・パルプの統合一貫 生産 をめざ した新 工場 を竣工 させた。 この真岡工場 の建設 は、王子製紙が1 91 5 年 に樺太大泊の三井合名 パル プ工場を譲 り受けた後、 さら に1 91 7 年樺太 の豊原 に竣工 させたパル プの第二工場‑対抗す る意図 もあ ったが、

それだけでな く上質紙 な どの製造 も開始 し、樺太工業が従来のパル プ専業か ら

紙 ・パル プの新たな統合経営 で一層 の企業成 長をめざす戦略的意 図があ ったの

である。

(25)

注 1 ) 以下 の樺太工業 の事業展開 と大川平三郎 の企業家活動 の詳細 につ いては 、拙 論

「 大川平三郎 と樺太工業 の発展」 ( 『 経営論集』第 2 3 巻第 3 号、明治大学経営学 部、

1 9 7 6 年 、1 3 5‑1 5 5 頁)、お よび同 「 大川平三郎一 製紙王 の栄光 と挫 折一 」 (由井常 彦、他著 『日本の企業家

(2)

大正篇』 有斐閣 、1 9 7 8 年 、1 0 7‑1 51 頁) を参 照 され た い。

2 ) 前掲 『日本紙業総覧』付表 8‑1 7 頁。

3 ) 「 農商務省 山林局調査 ・我国に於 け る木材パル プ製造状況 ・続 き」(『 紙業雑誌」

第 1 4 巻第 4 号 、1 91 9 年 6 月 、1 8‑20 頁)0

2. パルプ軟化計画 と大川系話企業 の合 同

既述 の よ うに、大川 平三郎は第一次世界大戦後 の1 91 9 年 に富 士製紙 の社 長に 就任 し、彼 の関係す る大川系企業 と富 士製 紙 の全 国洋 紙 製 造 高 に対 す る合 計 シ ェアは1 920 年 に40% を超 えて、王 子製紙 を大 き く上回 った。 また、樺太工業 の樺太 におけ る事業規模 も、王 子製紙 を凌 ぐよ うにな ったC だが、大川が樺 太 におけ る紙 ・パル プの生産拠点 と して重視 していた樺太工業 におけ る泊居 のパ ル プ工場 と真 岡の製紙工場 が1 921 年 に相次 いで火災 に よ り焼失 した。樺 太工業 は、 直ちに両工場 を再建 ・復 旧 した ものの、既 に1 920 年 か ら国 内の紙 ・パル プ 市況が悪化 し始めていたために、 もはや大戦期 の よ うな高収益 を期待 で きな く な っていた。 と くにパル プ市況 の落 ち込 みは著 しか った。樺 太工業 は、そ こで 王 子製紙や富 士製紙 な どと1 922 年 に共 同パル プ会社 を設立 して、 亜硫酸木材 パ ルプの共同販売や生産制 限に よる市況 の立て直 しに取 り阻 む よ うに な った 1 ) 。 だが、大川 は、それ で も新 聞用紙 の需要が戦後 も末だ一応 の伸 びを示 していた ために、パル プの将来的 な不足化 を確信 していた。 また、1 922 年 に王子製紙 が 野 田寒 に建設 した樺太におけ る同社第 三の亜硫酸木材 パル プ工場 に再び対抗す る意 図 もあ り、樺太 の意須取 で も1 925 年 に亜硫酸

ル プ工場 ( 年産2. 4 万 トン) を竣工 させたのであ る。

しか し、 こ うした大川 の専断的な リーダーシ ップに よる樺太工業 の事業拡 大

化 、 と りわけパル プ生産 の拡 大は、その増産 効果 と しての一層 の製造 コス ト引

(26)

き下げに よる市況悪化‑ の対応 とい った当初 の 目論見 とは違 って、パル プの増 産 分だけ新たに滞貨 を急増 させ る結果 とな った。樺 太工業 は、そ こで 1 92 6 年に

「 パル プ紙化計画」 と称 して意須取 のパル プ工場 を製紙工場 に急速 改造す る こ とに した。 当時は、洋紙 市況 も低迷 していたが、それ で も末だパル プ市況 の よ うな極度 の不振 を見せてお らず 、 この計画で市販

ル プの生産過剰 を緩和 で き るだけでな く、洋紙 の製造 に よる付加価値 と収益 の増加 を期待 していたためで ある。 こ うして意須取 工場 で も 、1 927 年か ら 1 929 年 にかけて印刷用紙 や模造紙 、 新聞用紙 な どの製造が順次開始 され た。

また 、1 92 6 年 には大川系 内地企業 の九州製紙 、中央製紙 ( 1 920 年 に木 曽興業 を合併)、中之 島製紙 の 3 社 が樺太工業‑吸収合併 され て、 大川 系 企 業 に おけ る経営諸資源 の配分や運用、資金 調達 、製品販売 な どの一元的 な効率化が 図 ら れ ただけでな く、九州製紙や中央製紙 の新 聞用紙事業 を集約 して主力製品のひ とつ と した。 この よ うなパル プ紙化計画 と大川系 内地企業 との合 同に よって、

樺太工業は、名実 ともに大川系 の主力企業 とな り 、1 9 30 年には全国洋紙製造 高 の 21 % を単独 で 占め るまでにな ったのであ る。

ところで、王 子製紙や富 士製紙 も、既 に言及 した よ うに第 一次大戦後 に国 内 の紙 ・パル プ製造他社 の合同や吸収 を積極的に進 めた。 王子製紙 は、 大戦期 に おけ る帝 国製紙 の買収 に続 き 、1 925 年 までに有恒社 、北海工業 、小倉製紙 な ど を買収 も し くは合併 した。 また、富士製紙 も、大戦期 の野 田製紙所 買収 に続 き、

北海道工業、四 日市製紙 、東京板紙、 日本化学紙料 な どを買収 も し くは合併 し た。 日本化学紙料 の合併 は、富 士製紙 に とって最 初 の樺 太 工場 の取 得 に つ な が った。 また、大川系 の北海道工業や大川 が穴水 と株式 を分け持 っていた東京 板紙 の合併 は、大川が 前述 の よ うに 1 91 9 年 か ら富 士製紙 の社 長を兼務 していた ために実現 した と思われ る。

但 し、大川 は樺 太工業 と富 士製紙 の関係 を 自らの社 長兼務 を介 した企業 同盟

と見倣 していた よ うであ るが、彼 以外 の両社 関係者 にな る と、大川 の養子で樺

参照

関連したドキュメント

 医薬品医療機器等法(以下「法」という。)第 14 条第1項に規定する医薬品

原稿は A4 判 (ヨコ約 210mm,タテ約 297mm) の 用紙を用い,プリンターまたはタイプライターによって印 字したものを原則とする.

テューリングは、数学者が紙と鉛筆を用いて計算を行う過程を極限まで抽象化することに よりテューリング機械の定義に到達した。

輸入貨物の包装(当該貨物に含まれるものとされる包装材料(例えばダンボール紙、緩衝

本番前日、師匠と今回で卒業するリーダーにみん なで手紙を書き、 自分の思いを伝えた。

えて リア 会を設 したのです そして、 リア で 会を開 して、そこに 者を 込 ような仕 けをしました そして 会を必 開 して、オブザーバーにも必 の けをし ます

ガーゼ、脱脂綿類、試験紙、紙おむつ、薬の外箱等、点滴バック、CAP Dバック及び付属のチューブ類、薬の梱包材料、注射器(プラスチック製 のもの)

Q7 建設工事の場合は、都内の各工事現場の実績をまとめて 1