61‑76頁 三重大学教育学部研究紀要 第34巻 人文科学(1983)
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折㈱
1泊船木『野ざらし紀行』
の啓蒙性について
一
承前
『野ざらし紀行画巻』(芭蕉自筆、和田御雲氏蔵)の中のたった六箇
所のミセケチがすべての問題の発端であった。私は、そのミセケチに
気付いた時、奇妙な当惑に直面してしまった。
通説に従えば、松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』の諸本は、第一
稿「天理本」、第二稿「泊船本」、第三稿「孤屋本」、第四稿「野ざらし
紀行画巻」、第五稿「濁子清書画巻」の順に成立したものとされている。
だが、私が目にした『野ざらし紀行画巻』の六箇所のミセケチは、い
ずれも第三稿(孤屋本)から第四稿(野ざらし紀行画巻)に至る文章
の推敲過程で発生したミセケチだとは考えがたいものばかりであった。
従来の『野ざらし紀行』研究は、そもそも本文研究の段階で、何か重
大な事実誤認を犯したのであるまいか。
私は、この疑問を手懸りにして、さらに『野ざらし紀行』の本文研
究の成果そのものを疑い始めた。そしてまず、これまで定稿本(第四
稿)と見なされていた『野ざらし紀行画巻』が、実は「天理本」に次
ぐ第二稿である事を発見した。
だが、すでに衆知のように、この『野ざらし紀行画巻』は、美濃大
垣藩の藩士中川濁子が松尾芭蕉の依頼を受けて完成した『濁子清書画
濱
森太郎
巻』の元本である。とすれば、『野ざらし紀行画巻』は、当然、定稿本
だという事になるだろう。第二稿であると共に定稿本でもある『野ざ
らし紀行画巻』。私は、ふたたび不可解なディレンマに直面してしまっ
た。
そこで私は、次に、孤屋本『野ざらし紀行』を分析してみる事にし
た。『野ざらし紀行』の諸本は、大まかにいえば、画巻の体裁を持つ諸
本(野ざらし紀行画巻、濁子清書画巻等)と、書物の体裁を持つ諸本
(天理本、孤屋本、泊船本等)とに分かれている。ところが、この「孤
屋本」の本文だけは、画巻系の文章の特徴と書物系の文章の特徴とを
同時に備えており、そのために、これまでの研究者たちは、先の二系
統の諸本を一列に並べて前後関係を云々する事が可能であった。した
がって、もし、この「孤屋本」にいかがわしい点があれば、従来の本
文研究は根底から覆る事になる。そうして、もしそうなれば、定稿に
して第二稿という『野ざらし紀行画巻』の不可解なディレンマを解決
する可能性も生まれてくる(詳しくは、後に述べる)。その可能性を見
極めるためにも、私は、孤屋本『野ざらし紀行』の分析を急がなけれ
ばならなかった。無論、私が自分の予想にそれ程の確信を持っていた
わけではない。
ところが、孤屋本『野ざらし紀行』の分析結果は意外なものであっ
かた
注5
船本『野ざらし紀行』の取り扱いである。
まず、現状を整理すると、上段の図のようになる。
この四本(「孤屋本」は除外する)の内、「天理本」が第一稿である
事は動かない。次に、第二稿は先にも述べた通り『野ざらし紀行画巻』。
そ⊥て第三稿は、その『野ざらし紀行画巻』を下敷にして執筆された
『濁子清書画巻』。このように考えれば、『野ざらし紀行画巻』が第二
稿でありながら、なおかつ、画巻系の本文としては定稿の位置にある事
が分るだろう。その位置を、今、簡略に図示すれば、次のようになる。
二
新しい展望
問題の鑓が折れ、『野ざらし紀行』の本文研究がいったん振り出しに
① 天 理 本
(蒜漂文覧蓋)
(書 物 系)
その一つは、泊
(幣泊船勘所歳)
残る問題は、泊船本『野ざらし紀行』の位置付けである。いったい
何故、定稿が完成しているにもかかわらず泊船本『野ざらし紀行』が
執筆されたのかを明らかにしなければならない。
さて、問題を具体的に論じるには、今ふたたび、前稿に掲げた数表
に帰るのが便利である。
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(四)
表‑皿泊
船
本
野lぎ 凹 ら 田
し 紀 行 画 巻
/例
/
8
例 34
例 独 自 な
準
子
表 記
35
例 15
例 独 自 な 仮 名 表 記
43 49 体独 の自 中を に表 93 106
占現 46 45 め・
% % る表 割記 合全
この表‑印は、『野ざらし紀行』諸本の独自な表現・表記の中から、
独自な漢字表記と独自な仮名表記とを拾い集めて、その分量を示したも
のである。
『野ざらし紀行画巻』の場合は、独自な表現・表記全体(仝106例。
巻末付表‑㈱)の中で、『野ざらし紀行画巻』だけが漢字で表記してい
る言葉が34例。『野ざらし紀行画巻』だけが仮名で表記している言葉が
15例。そして、その二つを合わせると49例となる。これは、『野ざらし
紀行画巻』独自の表現・表記全体(欄例)の45%を占めている。
一方、泊船本『野ざらし紀行』の場合は、独自な漢字表記8例、独
自な仮名表記35例、これを合わせれば合計43例で、これは、泊船本『野
ざらし紀行』独自の表現・表記全体(仝93例。巻末付表‑の)
の46%
を占めている。全体の数値だけを比較すると大差はないが、ここでは、
独自な仮名表記の数が、独自な漢字表記の数を圧倒している点が重要
である。
前稿にも述べたように、『野ざらし紀行』は、和語をどの程度訓漢字
で表記すればもっとも読みやすい文章になるか、その臨界を廻って大
きく揺れ動いている文章である。諸本の独自な表現・表記の約45%が
それに関わる事は、先の表‑川の示す通りである。
その中にあって、『野ざらし紀行画巻』の場合は、まず訓漢字を多用
した漢文書き下し調の文章で書き始められたが、やがて、漢文の素養 のない一般読者にも正確に読める文章を書こうとする努力がその上に加わる。その結果、表記面では、巻を追っ・て独自の送り仮名や、独自の仮名表記の言葉が増えてゆく。これが、啓蒙的な表記意識の産物である事は言うまでもない。
勿論、『野ざらし紀行画巻』の場合は、この啓蒙的な表記意識にも大
きな限界があった。第一に、この紀行中の主人公が、そもそもかなり
盛大な漢詩文の教養の持ち主であり、その心理や物の見方を書き表わ
す際には、どうしても漢文書き下し調の文章を用いなければならない
という創作上の制約があった。また第二に、この『野ざらし紀行画巻』
の持ち主となるべき人物が、不特定多数の一般読者ではなく、相当の
教養を備えた何某であったという読者の側の事情もあった。したがっ
て、『野ざらし紀行画巻』執筆時点での芭蕉には、そもそも徹底して一
般読者に正確に読める文章を書く必要が無かったのである。
だが、『野ざらし紀行』を書物として執筆し始めた時、松尾芭蕉は、
いや応なく、この『野ざらし紀行』の読者となるべき不特定多数の一
般読者と対面しなければな㌃ない事になる。問題は、この時、すでに
『野ざらし紀行画巻』の後半部に現われていた啓蒙的な表記意識がど
のような成熟を遂げるかである。
『野ざらし紀行画巻』においては、まだ初発的な段階にあったこの
啓蒙的な表記意識が、もし順調に成熟したとすれば、『野ざらし紀行』
の文章表記がどのように変化するかを見究めなければならない。それ
が、『野ざらし紀行画巻』と泊船本『野ざらし紀行』との前後関係を見
定める重要な指標となるからである。
そこで、今、単純に仮定して、もしこの啓蒙的な表記意識が順調に
成倒したとすれば、どのような事態が予想されるだろうか。たとえば、
一般読者を混乱させるような漢字表記の大部分には、当然、送り仮名
が添えられたり、単語全体が仮名表記に書き替えられたりするだろ
う。逆にまた、仮名表記では意味の把えにくい言葉は、一般通用の漢
字に書き改められるだろう。勿論、すでに漢文書き下し調の文章で書
かれている『野ざらし紀行画巻』を中心にして言えば、読みの混乱を
引き起こしそうな漢字表記に送り仮名を添えたり、単語全体を仮名書
きに改める修正作業の方が大部分を占めるだろう。その結果、『野ざら
し紀行画巻』以後に成立する諸本では、当然、独自の送り仮名や独自
の仮名表記の言葉が増える事が予想される。とすれば、先に掲げた表‑川のように、泊船本『野ざらし紀行』において、独自な仮名表記の
例が独自な漢字表記の例を大きく上廻っている事実は、充分注目してよ
いのではあるまいか。
三
『野ざらし紀行画巻』と泊船木『野ざらし紀行』との表記の比較
さて、ようやく本題である。まず最初に、私は『野ざらし紀行画巻』
独自の表現・表記(巻末付表‑伺)の中から、『野ざらし紀行画巻』
だけが漢字で表記している言葉及び、『野ざらし紀行画巻』だけが仮
名で表記している言葉を拾い集めて、次に掲げる表‑佃・㈱を作成し
てみた。そして次に、作品の構成を配慮しながらこの表‑佃・㈱を読
み取るために、試みに二本の線を入れてみた。それは、『野ざらし紀
行』
の冒頭から帰郷までを第一部、大和竹の内から美濃大垣までを第
二部、伊勢桑名から江戸帰着までを第三部として、その境界を示す分
割線である。それを承知の上で、まず、表‑闇の『野ざらし紀行画巻』
独自の漢字表記に注目していただきたい。
総数は34例。その内、第一部13例、第二部7例、第三部14例。『野ざ
らし紀行画巻』の分量は、第一部脱文字、第二部防文字、第三部Ⅷ文 表‑仏O「野ざらし紀行画巻」独自の表現・表記(漢字表記)旧 四 1礪 田 91 69 66 56 55 41 38 37 27 26 16 15 7 4 No.
:必 .±土【ヨ 計 忘 か
凹す 共
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芋 計 忽 根 際
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哀
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…かむ ば わ か む か あ い ば た 根 か に 哀 ば み か 泊 :な か か す な ら も か ち ぎ u け か を な
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田 四 四 田 四 200 田 l糾 田 田 (哺 100 (1瑠田 田 1測 田 (121) 行 哉 拾 睦 喰 哉 鹿 盗 暮 哉 朝 時 木 中 明 至 忍 国チト
ふ 月 は
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〈
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ゆ か た む R か お ぬ 6 か 旦 し 凧 を あ い し 萱
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ヽ
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〈
に け ほ の
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り
※頭の番号は、異同元表(付表‑H)によったもの。付表‑何・
何とも共通する。※他本に漢字表記の例があっても字体が違っている場合は参考になるので、頭の番号に〓印をつけて掲載した。㈹・㈹・㈹。以
下同じ。
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折 囲
表‑㈲O「野ざらし紀行画巻」独自の表現・表記(仮名表記)
旧 田 田 田 100 82 42 32 No.
;し や 巴 ほ 巴 日 お し̲̲ 野
…に ま と
れ と の し.̲.̲
ろ ひ す
れ ぎ
ら し 紀 行 画 巻
;死 大 是 程 此 日 不 是 泊
:に 和 比
l
田一ヒU・ 船
本
欄 朝(あした・旦)※()内は筆者の補筆
などの名詞の例では、送り仮名の添え方や訓漢字の宛て方がやや粗雑
である。それに比べて、泊船本『野ざらし紀行』の表記は、いずれも、
おおよそ読み誤りのない程度に整理されていると言ってよい。
その中でも特徴的な事は、
16
哀気1哀け(泊船本)
216100(1盟)37
根際1根ぎは(泊船本)
木枯1凧(泊船本)
時雨、↓しぐる、(泊船本)
睦月1む月(泊船本)
字であるから、この分量の違いを考慮すれば、『野ざらし紀行画巻』の
第二部にやや独自な漢字表記が少ない事になるだろう。
全体の特徴は、和語をかなり強引に訓漢字で表記している事で、た
とえば、「哉」(かな)、「計」(ばかり)、「欺」(か)、「共」(とも)など
の助詞や、「忽」(たちまち)、「必」(かならず)、「中′′\」(なかなか)
などの副詞の例がそれである。これらはまだ良いとしても、 などのように、訓漢字二字で表記されている和語が、「泊船本」においてはいずれも意味を取りやすくしかも誤読れ余地のないように書き改められている事である。これは、主に、二字の訓漢字が漢語風にうかつに音読される事を恐れての対策であろう。
一方、『野ざらし紀行画巻』独自の仮名表記(表‑㈱)は、総数で15
例。第一部(脱文字)、第二部(625文字)、第三部(Ⅷ文字)の分量か
ら言えば、第二部、第三部に集中していると言ってよい。.
この仮名表記の特徴の一つは、
213極)佃)脚(拗101
忘(れ)
昇り(登り)
忍
(ぶ)
時雨、(しぐるこ
盗(ま)
れ
129 82 42
おひす(泊船本「不滞」)
日ころ
(
や ま と
(
//
「日比」)
「大和」)
喰
/■■・ヽ
ら
)
はん
※
(
)内は筆者の補筆。
などの動詞や、
158
木枯(らし) のような二字続きの訓漢字の表記を避けるための仮名表記の採用である。また二つ目は、
皿
この(泊船本「此」)
117 これ
(
〃
「是」)
のような読みの混乱しがちな訓漢字の仮名書きである。これもまた、
初心の読者に対する配慮であろう。数は少ないが、このような啓蒙的
な表記が、特に『野ざらし紀行画巻』の第二部、第三部に集中する事
は前稿にも述べた。こうした啓蒙的な表記意識が、「泊船本」において
もっと徹底したかたちで現われる事は、後に詳しく述べる通りである。
ただし、この『野ざらし紀行画巻』独自の仮名表記の部分に限って言
えば、『野ざらし紀行画巻』の方がやや読みやすいと言えようか。もっ
とも、これはあくまで初心者の場合であって、■読書人の立場から言え
ば、「日比」や「大和」を「日ころ」や「やまと」と書く方が読みやす
いかどうか。要するに、読者の知的な水準を見定め、それにふさわしい
均整のとれた表記を工夫する必要があるのであって、表記のごく一部
が極端に読みやすいからと言って、それを啓蒙的な本文と言う事はでき
まい。その点で『野ざらし紀行画巻』の表記には、明らかに未熟さが見
て取れるのである。
四
泊地本『野ざらし紀行』と『野ざらし紀行画巻』との比較
さて、次に、泊船本『野ざらし紀行』独自の漢字表記と独自の仮名
表記とを拾い集めて表に掲げる(表‑伽・㈲)。
表‑㈱○泊船本『野ざらし紀行』独自の表現・表記(漢字表記) 表‑㈲○泊船本『野ざらし紀行』独自の表現・表記(仮名表記)
…45…2823 6 No.
…け;う ほ 却 野
㌻り き と て ぎ
世 り ら
し 紀 行 画 巻
!臭 浮
世 辺 却
而 泊 船 本
旧 田 四 四 100 87 75 71 56 51 35 34 32 26 19 17 3 No.
;又 有 跡 庵 我 彼 た き 物
日 有 茶 風 秋 聞 有 有 尽
し 寒 気
野
ぎb し 紀 行 画 巻
;ま あ あ い わ れ た い あ ち か あ き あ あ つ さ 泊 船 本 :た り と を
り
れ い き
も の
ひ り や ぜ き u り る 凹
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田 田 田 2刃 田 2罰 四 田 四 四 田 田 田 100 田 田 1叫
帰 り
庵 立 よ り
下 ら ん
東 形 見
田7
年
予 聞 桜 逢 姿 雪 見
草 枕
暮 秋 旅ミ 寝;
H
か い た 円 あ か 巳 わ き さ あ す ゆ 草 6 あ 旅:
巳り ほり よち た つ た と れ H ふ か き れ き ね…
り ら ん
ま み し ら た 見 R
ら
※通し番号は巻末付表‑何の通し番号による。 ※通し番号は、巻末付表‑何の通し番号による。
表‑㈲は、泊船本『野ざらし紀行』独自の漢字表記を集めたもので、
総数で8例。これは、「泊船本」独自の表現・表記全体(93例。巻末付
表‑の)の9%にあたる。先に分析した『野ざらし紀行画巻』では、
同じ例が44例(31%)もあったのに比べれば、格段に少ないと言って
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(吻
よい。また分布の状態も、独自の漢字表記が特に『野ざらし紀行』の
第一部に集中している点で、『野ざらし紀行画巻』の場合とは対照的で
ある。
泊船本『野ざらし紀行』の第一部に独自の漢字表記が集中する原因
は何か。勿論、芭蕉がうかつだったからではない。たとえば、
6 耶郁
(野ざらし紀行画巻「却て」)
128 56 2619 し か あ あ あ あ も
り り り る 、
具体的な表記の特徴は、いっそう興味ぶかい。たとえば、
(野ざらし紀行画巻「有」)
という仮名による活用語の書き分けは、単に「有」と書いた場合に起り
28 浮世
(
45 臭.
(
「うき世」)
「けり」)
など、『野ざらし紀行画巻』よりもかえってむずかしい表記が、啓蒙的
な表記を心懸ける「泊船本」の中に、わざわざ用いられている事に注
目しなければならない。
それでは、なぜ、わざわざ『野ざらし紀行』の第一部にそういう表
記を用いる必要があったのか。衆知のように、やや突き離した言い方
をすれば、『野ざらし紀行』は、古典(ことに漢詩文)かぶれした老俳
譜師が、旅濠を重ねる事で、日本の麗しい自然や風物に目覚めてゆく
過程を描いた紀行文である。その中にあって主人公の物の見方に現わ
れた漢文臭は、紀行の第一部にことに濃厚であるが、それはやがて消
えてゆくものとして設定されている。こうした作品構想上の作意に注
目するなら、紀行の第一部における先のようなやや難解な文字使いも
なるほどと納得する事ができるだろう。
一方、表‑㈲は、「泊船本」独自の仮名表記を集めたもので、総数で
45例。これは、「泊船本」独自の表現・表記全体(93例)の38%にあた
るが、先に分析した『野ざらし紀行画巻』では、同じ例が15例(14%)
だったのに比べれば、格段に多いと言ってよい。また、分布の状態も、
『野ざらし紀行画巻』では同様の例が第二部、第三部に集中していた
のに比べれば、片寄りがないと言ってよい。 がちな読みの混乱を警戒しての事だろう。同様に、
32 きく
(野ざらし紀行画巻「聞」)
217
き、
(
「聞」・
の場合も、やはり単に「聞」と書いた場合の読みの混乱を予防するた
めの処置であろう。
一般に、訓漢字で表記された和語の場合、読者の立場からは復数の
読みが成り立つ。たとえば、「上」と書けば「かみ」とも「うえ」とも
読めるのである。また、その言葉がもし動詞なら、それは、文脈によ
っては自動詞とも他動詞とも読めるし、さらに、それぞれについて終
止形でも連用形でも読む事ができる。したがって、仮りに「下」とあ
れば、「した」、「しも」、「おりる」、「くだる」、「さがる」、「さげる」と
様々に読む事ができるのである。それを避けるためには、送り仮名を
追加して、品詞や活用形を明らかにする必要があるが、その場合も送
り仮名の原則が確立していなければ、それが名詞の一部なのか活用語
尾なのか、助詞、助動詞の類なのか、判然としな.い事になる。そこに、
当時の表記法の困難さがあった。したがって、和語を大幅に訓漢字で
表記する事は、文脈をしっかり把握できない初心の読者たちにとって
はかなり厄介な表記法なのである。そのような表記は、できれば少な
いに越した事はない。そう考えれば、次のような活用語の仮名表記も
なるほどと領けるだろう。
244 239186 7117
つくしいひ
あふ
くたらんたちより (野ざらし紀行画巻「尽し」)
「云」)「逢」)
「下らん」)
「立より」)
さらにまた、次に掲げる例もほぼ同様に説明する事ができる。
2測 238 236 224165100139 3
さむ気旅ね
革まくらゆき見
ことしかたみ
あつま (野ざらし紀行画巻「寒気」)「旅雇」)「草枕」)「雪見」)「今年」)「形見」)
「東」※他本「吾妻」)
「夏衣」) ざらし紀行画巻』よりも読者に対する配慮の行き届いた善本であると言って差支えないと思う。だが、まさか表記の分析だけで、泊船本『野ざらし紀行』が『野ざらし紀行画巻』よりも後に成立した本文だと主張する事はできまい。承知のように、泊船本『野ざらし紀行』は版本として出版されたものであり、出版の過程でたとえば編者伊藤風国の手が加えられた可能性もまったくないわけではないからである。
そこで最後に、泊船本『野ざらし紀行』のもっとも重要な異同箇所
二つについて分析を加えたい。
その一つは、例の伊勢参宮の条である。
これらは、いずれも和語を訓漢字二字で表記すると、場合によって
は漢語風に音読されてしまう事を警戒して、訓漢字の一方または両方
を仮名書きに改めた例である。中には、やや行き過ぎを思わせる例も
あるが、これもまた、初心者に正確に読める文章を書こうとする芭蕉
の工夫の一つであろう。
このように見れば、『野ざらし紀行画巻』を執筆する過程で芽生えた
芭蕉の啓蒙的な表記意識が、この泊船本『野ざらし紀行』において確
実に成熟していると認める事ができるのではあるまいか。 桧葉屋風涛が伊勢に有けるを尋
音信て十日計足をとゞむ。
腰間に寸鉄をおびず、襟に一重をかけて手に十八の珠を携ふ。僧に
似て塵有、俗にって髪なし、我僧
にあらずといへども浮屠の属にた
ぐへて神前に人事をゆるさず。
暮て外宮に詣侍りけるに、7華
表の陰ほのぐらく御燈処々に見え
て、また上もなき峯の松風身にし
む計ふかき心を起して
みそか月をし千とせの杉を抱あらし
(野ざらし紀行画巻) 桧葉や風涛が伊勢に有けるを尋
音信て十日ばかり足をとゞむ。
暮て外宮に詣侍りけるに、一の
鳥井の陰ほのぐらく、御燈処々に
見えて、また上もをき峯の松風身
にしむばかりふかき心を起して
みそ月なし千とせの杉を抱あらし
腰間に寸鉄を不帯、襟に一重を懸
て手に十八の珠を携ふ。僧に似て
塵あり俗に似て髪をし、我僧にあー皇すといへども髪をきものは浮屠の
属にたぐへて、神前に人をゆるさず。
(泊船本「野ざらし紀行」)
※句読点・濁点は筆者。
五
伊勢参宮の集の改訂
さて、以上の分析結果から言えば、泊船本『野ざらし紀行』は、『野 画巻系の諸本は、いずれも『野ざらし紀行画巻』のように「腰間に
寸鉄をおびず」以下の一文(点線部)が発句の前にあり、書物系の諸
本ではいずれも泊船本『野ざらし紀行』のように発句の後にある。問
題は、なぜこのような改訂が必要だったかである。
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(瑚
事実関係から言えば、貞享元年八月三十日(ただし、この年、八月
は二十九日まで)、主人公は、宿舎にしていた伊勢市大世古一丁目の松
葉屋風湊の家を出て、まず伊勢の内宮を訪れ、そこで神前での参拝を
禁止された。理由は、問題の文章にもある通り、彼の身なりが乞食坊主
のそれと見誤られたためである。当時の伊勢神宮では、僧侶は五十鈴
川の対岸にある憎尼礼拝所から神前に参拝しなければならなかった。
参拝を禁止された彼は、仕方なく外宮へ引き返して、外宮の一の鳥
井附近に立った。折から秋の日も暮れ、一の鳥井附近の参道にはすで
に御燈が点燈されていた。
この事実関係に照らしてみれば、画巻系の諸本は、いずれも参拝禁
止の一件を事実経過の順に書き並べたものである事が明らかである。
それに対して、書物系の諸本はいずれも時間の焦点を主人公の外宮
参拝時点に据えて事実を描いている。ただし、その事実とは、客観的
な事実経過ではなく、心理的な事実経過である。本来なら、すでに過
去に属するはずの内宮での参拝禁止の一件が、現在形で書かれており、
しかもその書き方は、参拝禁止の一件を事実経過に従って整然と再現
する事をねらっだものではない。参拝禁止の際の無念な心中を、卒然
と湧き上がる心象の形でいきなり再現しようとした文章なのである。
このような文章に絵を添える事の困難さは言うまでもない。絵に事
実を書く事はできても、心理経過を描く事は不可能だからである。
だが、ともかく、この伊勢参宮の一文に絵を添える段階で、芭蕉に
は二つの可能性があった。一つは、伊勢の外宮を絵の中心に据える事、
他の一つは、内宮を絵の中心に据える事である。しかし、もし外宮
を絵の中心に据えたなら、参拝禁止の一件は、まずまちがいなく外宮
で起きたものと誤解されるだろう。一方、内宮を絵の中心に据えた場合
は、読者の大部がなぜ絵の中に伊勢の内宮が登場するのか、そのわけ を理解しかねる事だろう。
したがって、この文章を読者に正確に理解させるためには、伊勢の
内宮を絵の中心に据え、参拝禁止の一件が内宮で起きた事を暗示する
だけでは充分ではない。文章そのものを、事実経過に従って並べ替える
事が必要なのである。そこで芭蕉は、やむなく内宮を中心に据えた絵を
描いた後に、内宮での参拝禁止の一件を描いた「腰間に寸鉄をおびず」
以下の文章を、「暮て外宮に詣侍りけるに云々」の前に移したものと思
われる。
この改訂によって、『野ざらし紀行画巻』の伊勢参宮の一条は一応落
着したが、しかし、これは、あくまでも絵を添える際の便宜的な処置
であって、絵を必要としない書物系の『野ざらし紀行』にとっては、
あまり意味のない改訂である。もともと心理的な秩序で構成されてい
る文章を、事実経過に従って並べ替えるという先の改訂の方に大きな
無理があった。その証拠に、絵を除外して先の『野ざらし紀行画巻』
「伊勢参宮」の一条を読めば、事実経過ばかりか、肝心な主人公の心
理経過さえ漠然として捕えがたいのである。絵を持たない『野ざらし
紀行』の執筆にあたっては、この一条は、当然、元の心理経過を描い
た文章に戻さなければならない。これが泊船本『野ざらし紀行』
にお
いて、「腰間に寸鉄を不帯」以下の文章を発句の後に戻した理由である。
大
石部の条の追加について
最後に、もう一つの重要な異同箇所について、分析を加えたい。
大津に出る道、山路を越て
㊨
やま路釆てなにやらゆかしすみれ草
湖水眺望
⑲
幸崎の松は花よりおぼろにて
畳の休らひとて旅店に腰を懸て
⑲
つゝじいけて其陰に干鱈さく女
吟行
⑲
菜畠に花見只なる雀哉
水口にて廿年を経て故人にあふ。
㊧
命ニッ中に括たるさくらかな
衆知のように、『野ざらし紀行画巻』にはない⑲⑲の句が泊船本『野
ざらし紀行』では追加されている。追加の理由は、素材の配列及び作品
の構成を考えれば、おのずから明らかになる。
まず、「花」、「動物」、「女」がどのように配列されているかに注目し
てみよう。(泊船本『野ざらし紀行』に収められた発句四十七句の中か
ら、必要な句だけを抜き出して表に掲げる。)
47 46 45 44 43 41⑬ ⑳ 38 37 36 35 34 な ゆ 牡 白 梅 命 菜 っ 辛 や 我 樫 梅
つ く 丹 げ 恋 二 畠 ゝ 崎 ま 衣 の 白
衣 駒 重 し て ツ に じ の 路 に 木 し
い の ふ に 卯 中 花 い 套 釆 ふ の 昨
ま 麦 か は の に 見 け は て し 花 日 だにくね花
風慰分も拝
碧雲妄空き悪法忘
を む ケ ぐ む る る 陰 り や 挑 ま を と や 出 蝶 を さ 雀 に お ら の わ ぬ り ど る の み く か 干 ぼ ゆ 雫 ぬ す
つ り 蜂 か だ ら な 磨 ろ か せ す ま
く か の た か か さ に し よ が れ
さ な 名 み な な く て す た し
ず 残 か 女 み か
か な れ を
な 草
牡 白 卯 さ 薫 っ 花 す 桃 ( 梅
丹 げ の く ( み 花
し 花 ら 畠 じ れ
垂 草
軋 駒 蜂 蝶 雀芋 鶴
鱈
干 鱈 さ
8女 31 29 28 26 23 22 161110 8 7 No.
誰 海 馬 草 あ 冬 堪 蘭 い 馬 道 泊
が く を ま け 牡 打 の も に の 船
項 れ さ く ぼ 丹 て 香 あ 寝 べ 本
そ て へ b の わ や ら て の ̀■つ 歯 鴨 な 犬 や 鳥 れ 蝶 ふ 残 木 野 柔 の が も し よ に の 女 夢 桂 ざ
に 声 む し ら 雪 聞 遡 西 月 は ら
餅 ほ る ぐ 魚 の か に 行 違 馬 し
お の 雪 る 白 ほ せ た を し に 紀
ふ か の ゝ き と よ き ら 茶 く 行
牛 に 旦 か 事 ゝ や も ば の は 臼
の 白 か 夜 一 ぎ 坊 の 苛 煙 れ 所
年 し を の 寸 す が す よ 鼻 収
同=量ゴ 妻 ま
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の 発 句
冬 蘭 木
花
牡 模
丹 の
至
牛 鴨馬犬羞妻
国
F蝶馬馬l
」
〉 ト
動
物 坊蝶芋
が(洗 要人う
皇女
女
『野ざらし紀行』を、たとえば絵巻物風に、一巻の色模様として眺
めて見る事が大切である。そうすれば、秋の句二十一句の内に、「花」
の句は、わずかに一句(⑪「蘭の香」の句を含めると二句)である事が
明らかだろう。花の少ない冬の部では九句の内一句が花の句、春の部で
は、十一句の内七句が花の句、夏の部では、六句の内の三句が花の句で
ある。これに比べて、秋の部の花の句が格段に少ない事は言うまでもな
ヽ
無論、松尾芭蕉が江戸を旅立った貞享元年の秋に天変地異が相次い 0
で、秋の花々が開花しなかったわけではない。秋の花々は開花したに
もかかわらず、主人公の目の方が花々に届かなかったのである。とこ
ろが、その年の冬を越えて、新しい花々の季節を迎えた貞享二年の春
になると、事情は一変する。主人公はさながら春の花園を行く旅人の
ように嬉々として、花々を歌うのである。その春の花園に、もし、「つ、
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(吋
じ」(讐の赤と「莱畠」(空の黄の彩りが欠けていたなら、春の
色模様は、かならず色槌たものとなるだろう。かつて見えなかった自
然の花々がひときわ美しい物として眺められるところに、自然を見る
主人公の内面の成熟が現われている事は別稿にも述べたので、今は省
注10
筆する。
同じ事は、動物についても言える。当時の旅において、最も有力な
旅の手段が馬と舟であった事は言うまでもない。したがって、馬はい
や応なく目に付くものである。そこで、その馬を一応除外すれば、主
人公が江戸を出発した貞享元年秋、旅の途中で目にした動物はわずか
に「蝶」だけである。その蝶も、実際の蝶に目を惹かれたわけではな
く、「蝶」という名の女性を踏まえた懸詞として用いられたものである。
しかし、貞享元年の秋を過ぎて冬に入ると、急にさまざまな小動物
が主人公の目を惹き始める。たとえば「千鳥」(22)、「しら魚」(23)、
「犬」(26)、「鴨」(29)などが、作中に次々と登場して消えて行くの
である。つまり、ここに至って始めて、主人公の目にも「自然」が見
えてくるのである。
ところが、「女」に関してだけは、いささか事情が異っている。
西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに
いもあらふ女西行ならば歌よまん
このように彼は、自分から進んで、次々と「女」を見るのである。
また、この秋の部には、「いもあらふ女」、「蝶」という名の茶屋女、「坊
が妻」らが相次いで登場して、作品を賑わわせる点でも、やはり花や小
動物の場合とは異っている。
しかし勿論、この主人公に「女」が見えているわけではない。先の
例で言えば、西行谷の麓で芋を洗っている女は、恐らく付近の農家に
住む農婦であろう。芋は、大きな樋に棒を差し込んで、ちようど舟を 漕ぐように漕いで洗う。これは、仕事に慣れた農婦でさえ息が切れる程の重労働である。むろん、農婦は、ぼろの野良着を着てすさまじい姿で働いている。
これが、私の勝手な想像でない事は、芭蕉が描いた『野ざらし紀行
画巻』の中の絵によって確められる。主人公は、そのような重労働の
最中に、「芋あらふ女」に向かって、あたかも和歌の贈答でも求めるよ
うに呼びかけるのである。彼には、相手の立場も職業も教養も、要す
るに、自分と他人との人間的な距艶のいっさいが、まるで見えていな
いのである。それにもかかわらず、彼が「芋あらふ女」を「見」たつ
もりになっているところに彼の人間的な未熟があり、「俳譜」(滑稽)
がある。
同じ事は、次の二句についても言える。
⑪
蘭の否やてふの辺にたき物す
⑲
碓打て我にきかせよや坊が妻
『三冊子』の伝えるところによれば、「蝶」という自分の名にちなん
だ句を松尾芭蕉に所望したのは、西行谷に近い茶屋の元遊女で、今はそ
の茶屋の女房におさまっている女だという。したがって、年齢を推測す
るなら、いわゆる「年増」という部類に属するだろう。そういう女を可憐
な「蝶」にたと、え、その身につけている薫を綾郁たる「蘭の香」にたとえ
る事は、かならずしも女の実体を言い当てる事にはなるまい。実際の香
料としての「蘭の香」は、蘭爵、蘭著待などいずれも高価な貴重品であ
るが、まさかそれをこの女が身につけていたとも考えがたい。
同様に、布を灰汁で煮て柔かくする「練り」の技術が発達していた
近世に、宿坊に住む「坊が妻」が「砥」を打つというのも時代離れし
た想像である。確かに、「みよし野の山の秋風さよふけて古郷さむく衣
うつなり」(雅経、新古今)以来、吉野と堪とは切り馳せない文学素材
だが、それは、文学の中での話である。
したがって、前者は、「蝶」という名の茶屋女を美化しすぎており、
後者は、「坊が妻」を文学的に見過ぎていると言ってよい。
ところが、その彼も
昼の休らひとて旅店に腰を懸て
⑲
つゝじいけて其陰に干鱈さく女
に至ってようやく、女性を事実ありのままに眺めるようになる。ここ
にもまた、主人公の内面の成熟が現われている。もし、この句が無け
れば、女性を見る主人公の目は、ついに現実を見ないままで終る事に
なるだろう。
七
結語
さて、以上のように考察すれば、先に掲げた「泊船本」独自の二句
が、作品構成上どれほど必要な表現であるかは明らかであろう。また、
先の伊勢参宮の条の改訂のように、画巻の文章と書物の文章との間に
はかなり大きな相違があり、それが、画巻としての定稿(野ざらし紀
行画巻)の完成後、改めて泊船本『野ざらし紀行』を執筆しなければ
ならない理由であった事も明らかである。さらに、そうして執筆され
た泊船本『野ざらし紀行』が、明らかに不特定多数の一般読者を意識
した啓蒙的な表記法で善かれている事も確認された。画巻のための文
章と書物のための文章との書き分け、特定の個人向けの文章と一般読
者向けの文章との書き分け。『野ざらし紀行』諸本の執筆過程の中に、
このような明噺な文章家としての芭蕉の姿が現われている事は、注目
に値するが、その考察は次回に譲りたい。
泊船本『野ざらし紀行』、内題「芭蕉翁道の紀」、仝十六丁。一面八 行、発句二字下げ。『泊船集』(伊藤風国編、元禄十一年一六九八刊)
巻一所収。成立年次及び入手経路不明。書物系の『野ざらし紀行』
と
しては、定稿の位置にあるもの士思われる。
注1
『改訂野ざらし紀行・鹿島詣』(弥富菅一氏他、明玄書房刊)35頁
参照。
注2
拙稿『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折0‑『野ざらし紀行画
巻』本の位置付けについて‑」(三重大学教育学部研究紀要第32巻(人
文科学)、1981年2月刊)。
注3
諸本の中には、画巻本の中から文章だけを抜き取って書物の型で
流布している「波静本」のような本文も多いが、それらはいずれも
画巻系の諸本として分類する。
注4
彦根専修寺所蔵の「孤屋本」の筆者は、森川許六または林掌だと
いう。注1に同じ。
注5
拙稿「『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折臼‑孤屋本『野ざらし
紀行』への疑惑‑」(三重大学教育学部紀要第33巻(人文科学)服年
2月刊)。
注6
注2に同じ。
注7
この何某は、「潜居本」(大阪女子大学附属図書館蔵)の奥書によって、河合曽良であった事が確められる。ただし、『濁子清書画巻』
の持ち主に誰が予定されていたかは、不明である。
注8
注2に同じ。
注9
この事実関係については拙稿「『野ざらし紀行』、その方法のディ
レンマ(上)」(『日本文学』朋年10月号)参照。
注10
北海「『野ざらし紀行』その方法のディレンマ(下)」(『日本文学』
1981年6月号)参照。
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(吋
付表‑困『野ざらし紀行画巻』独自の表現・表記
68666156 5547㈹■㈹424138373634333230272619161512 7 4 No.
放か女あい一もも不はたねは眼つ是にかにはかは我みか
郷な之もの詔喜帯ぢ喜孟宗前書去£ぢ喜ぢになな
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豪哉宣誓芋フ葦計忽欝苫芸言孟悪欺票計票計翌哲哉き 紀野行ぎ
画ら 巻し 放か女あい一も髪不はた根二眼つ是悪かには衷は朋みか
郷なまもの詔書帯ぢ宣長苫前喜む£ぢけぢ吾をな
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放かおあい一も睾不はた根二眼つ是悪かには哀は朋みか
郷な告まもの詔書帯ぢ至言古前書ム£ぢけ音更なな
泊 船
本 を
※〓内は、比較の際方の本文に欠落があるため結果として他方の独自性が目立つ例である。消極的な独自性なので〓を付した。以下、表‑回・何についても同じ。
『野ざらし紀行』における芭蕉の挫折(吻
付表‑㈹泊船本『野ざらし紀行』独自の表現・表記
70 60 56 55 52 5145 40 35 34 32 28 26 23 22 211917141310 7 6 31 No.
て入有かま茶けに風秋聴う有ほち預有尽ちちたさ却寒無
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泊 船
本