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北村透谷と松村介石 : 雑誌「三籟」をめぐる考察

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北村透谷と松村介石 : 雑誌「三籟」をめぐる考察

著者 尾西 康充

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 10

ページ 123‑138

発行年 1999‑06‑27

URL http://hdl.handle.net/10076/6541

(2)

北村透谷と松村介石‑雑誌「三溝」をめぐる考察‑

アメリカ滞在中の内村琴こがペンシルヴァニア精神遅滞児

擁護院で看護人として精勤したのは、明治十八年一月から七

月までのわずかな期間であった。近代の合理的な社会システ

ムが「狂気」を封じ込めることで成立する、その現場をみ.ず

から目撃した体験が、鑑三の「正統と異端」を問いなおす思

考を深めることになったのは、すでによく知られた事実であ

る。

そもそも彼に当地に赴くことを勧めたのがアメリカ公使館 通訳のW・N・ホイットニー医臥(Dr.≡〓sNOrtOn碧tn eユで、在京の一時期、琴二は彼から生理学を個人教授して

もらっている。ペンシルヴァニア大学医学部を卒業したホイ

尾西

康充

ットニーの本業は眼科医であったが、キリスト教クエーカー

派の篤実な信徒であった彼は、社会奉仕を目的とする医療活

動に力を尽くした。私財を投じて(後に赤坂病院となる)施

療院を赤坂氷川町に設立したり、死者約七千三吉名、負傷者

一万七千名、家屋全壊一四万戸にも上る大被音をもたらした

明治二四年十月の濃尾地震に際しては、被災民を救護するた

めの臨時施療所を現地に開いたりしている。他にも多岐にわ

たる事業を手がけているが、そのかたわらホイットニーは

「聖書之友運動」、すなわち全世界の信徒が聖書の同じ部分

を読むことを共通の日課とするというグローバルな布教活動

を、日本においても展開すべく努めた。まず「聖書之友日課

表」というトラクトから始め、やがて会員が増加するのに従

って「聖書之友月報」に、さらには日課表の解説と月報を合

わせたものを「聖書之友雑誌」に誌名をあらためて発行し続

‑123‑

(3)

けた。本来、その運動は主に少年少女向けのものであったの

だが、日本では「プロテスタントの大人の超宗派的戦線統一

運動」≡ (勝本清一郎)となるまでに質が高められていた。

「聖書之友雑誌」の編輯に北村透谷が携わったのは、第六

四〜七〇号(明治二六年四月十五日〜十月十八日)とされ、

残念ながらそれが長く続かなかったのは、異端とも見られる

透谷の信仰に従って編輯された誌面への昔情が急に増えたた

めではなかったかと推定されている…〉。透谷が最初に執筆・

掲載したものに『今日の基督教文学』・『実行的道徳』とい

う興味深い二篇の評論がある。『今日の基督教文学』では、

安易な断定は避けられながらも、宗教と哲学が「文学の原索」

を構成するという前提から、「文学の舞台にまで達したる宗

教は、少なくとも社界の一動力となりたるもの」とされる。

人々の信仰が文学作品に反映されるほどの宗教は、もはや社

会の動きを左右できるまでの「一動力」と見なせるというの

である。そのような見方が示されたうえで、考察が加えられ

るべき当面の課題として「文学界に基督教の勢力は如何なる

度にまで進みたるや」という問いが立てられる。同時代を代

表するキリスト教作家として、具体的には徳富蘇峰・植村正

久・内村鑑三・宮崎潮処子・山路愛山・戸川残花・桧村介石

らの名前が挙げられ、彼らの著作が個別に批評される。その なかでも鑑三については、第一高等中学校での不敬事件に関 わる苦い体験をふまえた『基督信徒の慰』 (明治二大年二月、

警醒祉書店)が引かれ、上梓されてまだ間もない此書のなか

に「限りある知識を以て限りなき人生の一端を斯の如く質朴

に白状」するかのような深い内容のあることが早速、見極め

られている。

透谷が列挙しているそれらの作家のなかで、最後に登場す

るのが松村介石である。

松村介石 この人の名は目下都下に騒がし。テビニチ

ー一巻は彼をして哲学家の中に数へられしめんとせり。

彼の基督教は吾人多く之を知らず。彼が主義とする三大

性の如きものも吾人未だ全く学び得ず。聞くところによ

れば彼は熱意の人、確信の人、主義の人にして其の倫理

に関する議論は実行を重んずるものなりと。

今日ではもはや介石の名前を耳にすることも稀なのだが、

透谷の記述から当時は彼が高名な作家であったことが分かる。

事実、明治二五年から毎週日曜の午後、神田猿楽町の東京基

督教青年会館で開かれていた彼の講演会は、来聴者が月に六

千人を上回るほどの大盛況で、それをきっかけに信鵬仙を始め

‑124‑

(4)

たものも決して少なくなかったという。後に山路愛山が介石

の漬説を評して「羽織、袴を脱ぎ棄て、裸体になりたるが如

き破格の快味」≡〉の存したことを語っている。彼の弁舌がい

かに世人の注目を集めたか、その一端がうかがい知れよう。

ここで透谷が言及している『デビニチー』 (明治二五年十

一月、警醒社書店)とは、「万有を理する所の大力者」たる

神(‑di三nityJの摂理をあらためて「天道」と名付けた、

著者の「自得悟道」の心境が説かれた書物のことである。透

谷によれば、此書をもって介石が哲学者の一人として数えら

れるようになったという。「六合雑誌」第一四四号(明治二

五年十二月十五日)の「新著批評」欄でも、「近来翻訳的、

流行的、論理的の著作に至りては汗牛充棟も曹ならずと錐も

自得悟道の書に至って英数極めて少しとす」とされ、彼の

「自得悟道」に高い評価が与えられていた。そのように独特

な「天道」のうえに、「人情」 (ヒューマニチー)と「実力」

(アビリチー)が加えられたものが介石独特の「三大性」な

のであるが、透谷はその内容をまだ十分には理解できていな

いとする。しかしながら、その「倫理」に関わる議論が「実

行」を重んじている点には注意を払っており、少なからず彼

に関心を寄せていたことが分かる。

この点についていえば、さきほど触れた「聖書乏友雑誌」 の同じ号に、『実行的道徳』というタイトルの評論が掲載さ れていることは、非常に示唆的であった。透谷の所説に従え ば、キリスト教における悔故によってたとえわずかな成果し か得られなくとも、悪人が一転して善を行い、罪人が一変し て義を行う可能性のもたらされることから、「実行は必らず しも偉大なる事業を期すべきにあらず」というのである。こ のような透谷の主観的な色彩の濃い主張には、山路愛山との 人生相渉論争のみならず、江湖を騒がせていた井上哲次郎の 「教育と宗教の衝突」論争が背景に存在した。教育勅語に従 って規範化されようとした道徳倫理を、いかに現実生活の場 からとらえ返すことができるのかという社会的関心事が少な からず共有されていたのである{讐。

当時、実行可能な「三大性」を教え広めるべく、介石によ

って辛がけられたのが「三頼」という雑誌であった。まだ介

石の「三大性」を理解し切れていないともらしていた透谷も

(あとで詳しく見るように) 「三鎮」の発刊に際して「明治

文学の一希望を禿せり」という言葉を述べている。それは多

分に祝意が込められた言葉であるには違いないのだが、彼自

身も同じ「三珠」誌上に、『満足』 (第二号)・『ほたる』

(第四号)・『蝶のゆくへ』 (第七号)などの評論や詩作晶

を執筆しているという事実も十分に考慮すべきであろう。本

ー125‑

(5)

稿では、この「三籠」をめぐる両者の活動に着目することで、

彼らの(倫理)・(文学)に関わる言説が近代日本社会にお

いて、どのような位相に置かれていたのかを明らかにしたい

と考える。

ただ介石について論及する場合、前もって注意を払ってお

く必要があるのは、後年、彼が「日本プロテスタンティズム

の鬼子」葺と呼ばれるようになった特異な経歴である。元々、

日本キリスト教界の「三村」七いわれて、植村正久や内村鑑

三と併称されたはどの強い指導力があった介石が、明治四十

年十月に「日本教会」 (後の「道会」)という宗教団休を結

成して、キリスト教会の主流勢力と訣別してしまう。それか

らは全く孤立した路線を歩むことになるのだが、そのような

彼の行動は、いわゆる(日本)・(日本人)の精神風土に相

応しい折衷的なキリスト教を創造したのか、あるいは全くい

かがわしい新興宗教に手を染めたにすぎないのか、今日まだ

正当に判断されているとはいえない。介石の業績を総じて評

価するためには、あらためて日本近代宗教史を通観しなおさ

ねばならない状況におかれているのである。 雑誌「三疏」創刊号は、明治二六年三月三十日、定価一冊 六銭で発売された。その表紙真には、発行元の三顎社による 「社告」として「目下社会に在て最も薄命悲惨を極むる無告 の民の実想を画き出し、以て世に同情者を求めんと欲す」 (第一粂)というアピールが掲載されていた。「三頼」とい う言葉は本来、「天顔」・「地類」・「人頼」を合わせたも のを指すのだが、介石が主張するところの「三大性」、すな わち先に見た「天道」

(デビニチー)・「人情」

(ヒューマ

ニチー)・「実力」 (アビリチー)という「三大真理」の教

化が含意されたものでもあった。また名義上、篠島勇吉が発

行兼編輯人となっていたが、実際には主に介石が社会面の編

輯を担当し、文芸欄の方は戸川残花に任せられていた。「三

頼」の代表的な執筆者には、志賀重昂・山田美妙・尾崎紅葉

・宮崎湖処子・内田魯庵・大西祝・三宅雪嶺などの名前が挙

げられる。介石・残花・透谷を含めた彼らの蘇ぶれは、同じ

年の六月より牛込区筑土八幡境内松風亭で開かれる兢土文学

会のメンバーとほぼ重なるものであり、彼らの間には親密な

交友のあったことがうかがわれる。

‑126‑

(6)

「三簸」の発刊に際して、透谷は『三溝出でたり』

(「評

論」第二号、明治二大年四月二二日)という雑誌批評を書い

ている。まず初めに文学は「純乎た局国民の声」の反映でな

ければならならず、「国民的固有の思想の暢達」が責務であ

ると主張する。透谷のナショナリズムは、アメリカの詩人R

・W・エマーソンなどの超越主義(transcend①nta〓s已の発

想に影響されながら、思想および感性の上での共同体が(日

本)に同定できるものとして近代以前からすでに存在してい

たと想定するところに特徴がある(六〉。その(日本〉という精

神的な紐帯の保護を求めて、透谷は熱い口吻で「太平洋の浪

は荒く怒ることあるとも、吾人は東洋的固有の思想を狂涛の

中に破船せしめぎらんことを熱望する者なり」と叫ぶのであ

る。

三預は松村介石、戸川残花両氏の編輯するところ、三頼

の題号既に其の精神を告ぐるに足る。吾人は「三預」を

得て始めて純文学界に、剛強なる東洋的趣味を得たるを

喜ぶこと頻りなり、頑固なる国粋主義は渠と共にあらず、

而して却って洋外の森厳なる思想、かの「調和」とかい

ふ天使の異に乗りて翔し来るを見るなり。「三溝」は明

治文学の一希望を禿せり。吾人は此意味を以て其発刊を 祝するものなり。 透谷は介石・残花が編輯する「三籠」の「精神」に賛意を 表している。此誌によって「剛強なる東洋的趣味」がはじめ て、「頑固なる国粋主義」とは切り離され「洋外の森厳なる 思想」と「調和」した形で表現されたという。文化の「調和」 が巧みに達成されている点を指して、「明治文学の一希望を 充せり」という言葉が述べられているのである。このような 積極的発言は、透谷独自の文学観が集約された『国民と思想』

(「評論」第八号、明治二六年七月十五日) のなかの、「誰

か能く剛強なる東洋的趣味の上に、真珠の如き西洋的思想を

調和し得るものぞ」というアピールに符合するものであった。

この意味からも「創造的勢力」の撞頭を「出でよ詩人、出で

よ真に国民大なる思想家」と熱望した透谷にとって、介石・

残花による「三頼」の存在は、重要な位置を占めるものであ

ったと考えられるのである。

その後、「三溝」の「精神」に早速応えるかのように、透

谷は同誌の次号(四月三十日)に『満足』という評論を執筆

している。その作品のモチーフは、いかなる人間も一生涯の

うちに挫折を免れられない厳粛な運命の前で、どのようにす

れば心に「満足」が得られるのかというものであった。そこ

ー127‑

(7)

には著者自身の体験、すなわち自由民権運動からの脱落や横

浜外国人居留地での商業活動の失敗などを通じて、みずから

味わった暗澹たる思いが込められており、人生の「暗黒なる

時代」にあるものが「『満足』といふ社殿」に到達できる道

筋を、少しでも明らかにしようというのである。透谷によれ

ば、その公算が見込める方法の一つは、すでに世のなかで客

観的に常識と見なされているような「経験」を参考にするこ

とである。処世訓のごときものを手がかりにすれば、安全に

物事を済ませるであろう。・もう一つは遠回りではあるが、そ

のような常識に一切頼らず「何ぞや」という主観的な問いを

発しながら「鋸ヂ揖ユ蹄の経験」を積み重ねることである。こ

れは多大な困難を伴うにせよ、何より主体的な行動が可能と

なるであろう。人間が心に「満足」を得るためには、そのよ

うな二通りの「経験」の道筋をたどることしかないのだが、

実はそれだけでは最終的な目標に到達できないとされる。

「最後に満足は天命を知るによつて生ずるもの」だからなの

である。

最後に満足は天命を知るによつて生ずるものなり。人

間五十、始めより天命を知.るものにあらず、本より主観

のみにて天命を知悉すべきにあらず、本より客観のみに て天命を明知すべきにあらず、本より経験のみによりて 天命を認むるものにあらず。真に天命を知るは己れを知 りたる後にあり、己れを知り、天命を知るが為には、造 化万物情を秘することなく、吾人をして縦に観察し、縦 に学究し、縦に冥実するを得せしむ。

透谷によれば、客観であれ主観であれ「経験」だけでは不

十分で、「天命」を知ってようやく「満足」が得られる。人

間が「天命」を知るのは、まず幾多の挫折を通じて「己れ」

を知り、その後で存分に「造化万物」を「観察」し「学究」

して、それとの「冥契」に及んだときであるという。人生と

いう悲喜劇が交錯する「大ドラマ」の舞台で、いかにして人

間が「天命」を知るのか、それは文学作品には欠かせないテ

ーマであり、もはや「妄りに宗教と哲学とをポヱトリーより

分離し去らんとするの僻見」は破棄されるべきであるとする。

この「造化万物」との「冥契」というモチーフは、あらため

て『内部生命論』 (「文学界」第五号、五月三一日)でも、

人間に「内部の生命」を「再造」して「造化万物」に極致を

見いださせる「瞬間の真実」、すなわち「インスビレーショ

ン」として説明されることになる。『満足』で着目されたモ

チーフがそのまま『内部生命論』に引き継がれ、透谷独特の

‑128‑

(8)

概念として一層の理論化がはかられたのである。

「三橋」の「精神」に応えるかのように、透谷が『満足』

を執筆しているのであるが、まずここで押さえおく必要があ

るのは、介石切評論にも、透谷のものと通底するかのような

動い批判構神が季まれていたことである。

限を挙て見よ、世上何ぞヒューマニチーを要するもの

〜其れ多きぞや。算じ来れば同胞四千万人と称す。然れ

ども其所謂る四千万人の同胞たるもの今日如何なる生況

にやある、汽笛嘲々、其声文明を鳴らすと錐ども破篇茅

屋到るところの鉄路に沿ふ、石屋瓦鮨、轟々堂々、高く

都会の天表に馨ゆるものありと錐も、左る代りに記憶せ

よ、貧家の窮迫日々に益々甚しく、年に公売処分に会ふ

もの万を以て数ふるに非ずや、今や民力休養の声高し、

然れど.も猶ほ疑ふ、彼の所謂る代議士たるもの、果して

ヒューマニチーの味方なるや、否や。

(『ヒューマニチーの意味』、「三額」創刊号)

介石は読者に問う、「ヒューマニチー」を必要とする人々

が世に溢れているではないのかと。文明の象徴である鉄道が

汽笛を鳴らして走り、立派な石造建築が鳶を並べる都市に目 を奪われがちであるが、忘れてならないのは、その光景の背 後で、多くの民衆が破屋で窮乏しながら生活していることで ある。彼らが真に救済されるためには、自分たちの主義を理 解してもらうことが何より必要になるという。そこで介石が 用意したのが「天道」 (デビニチー)という概念であった。

彼は『デビニチーの解』 (「三頼」創刊号)

のなかで、その

概念が「自然界を楽しむ」・「聖学を志ぎす」・「宗教心を

養ふ」という三つの目標を掲げたものであると説明する。そ

れらの意味する村容は、四時、自然の息吹に触れて詩魂を楽

しませること、聖学を修めて知命楽天の墳に自得すること、一

永遠の希望を求めて卑俗な世事に煩わされないことという。29

ちなみに「聖学」とは、キリスト教に儒教・仏教を合わせた、一

人間を安心立命に導くための総合的な学として定義されてい

る。もしそれらの目標がみな遂げられるのなら、「山川を呼

吸し、自然に酔ひ、白雲に乗じ清風に賀し、熱々乎として天

地六合の問を冶遥遊」する「デビニチーの快楽」の享受が可

能になるというのである。

鴫呼帰れ帰れ、富嶽は汝の前に在り、琵琶湖は汝の側に

在り、宜しく汝の神魂を呼び返し、来りて以て、我所謂

るビニチーの清界に入れよ、月映々として照り、風渦々

(9)

として来り、花爛漫として笑ひ、鳥噂々として噂じ、湖

山無陽に相映じて、永遠の生命、自ら其間に溢る〜もの

あるにあらずや。何ぞ天地の人たるを忘れて、而して塵

土の畠たるや。

(コアビニチーの快楽』、「三頼」創刊号)

このような介石の主張は、残念ながらどれも抽象的であり、

個々の概念に十分な説明がなされているとはいい難い。だが、

自然との冥合を目指した「天道」 (デビニチー)が「造化万

物」との「冥契」を導く「天命」

(インスビレーション)と

通じ合う性質を持つものであったといえよう。東西文化の形

而上学的な概念を縫合させて精神の新しい領野を拓こうとし

た介石の著述のなかに、「剛強なる東洋的趣味」に「真珠の

如き西洋的思想」を「調和」させる「創造的勢力」の撞頭が

たしかに見いだされていたのである。

ここで、今日ではその名前を知る人も稀となった介石の経 歴について、明治二十年代までの部分を中心に簡単な説明を 加えておこう。彼は安政六年十月、播磨国明石郡大明石村 (兵庫県明石市桜町)に明石藩士の松村如屏の次男として生 まれる。明治三年、安井息軒のもとで儒学を修め、明治八年、 神戸諏訪山の宣教師1・アッキンソン(JObnLaid‑a考Atkin sOn)より『新約聖書』 マタイ伝をテキストに用いて英語を学

ぶ。明治九年、御茶ノ水玉藻学校で学んだ後、ヘボン夫人が

設立し1・バラ(JObn CraigBa〓agb)が主任となって経営

していた横浜居留地三九番地のバラ塾で英語を学ぶようにな

る。その間、横浜第一長老公会(横浜指路教会)にて受洗す

る。後年、入信の動機を回想して「宗教の問題よりも寧ろ人

格の問題で、我輩はキリスト教のため、初めて自己中心の人

物より国家社会の為めに尽そうという人格」 (七}に成長するこ

とができたと語っている。この辺りの経緯は明治青年の気概

を示す典型的なエピソードとして関心が持たれる。明治十三

年、バラ塾を卒業して東京一致神学校に進学するが、自分の

学習意欲を十分に満足させることのできない宣教師と衝突し

て三カ月で退学してしまう。

まもなく松山高書の紹介で備中高梁教会牧師として赴任す

るものの、明治十七年七月、耶蘇教排撃の運動に乗じた千名

を超える群衆によって、教会堂が襲撃されるという事件が起

一130‑

(10)

こる。過激な奮闘の末に健康を専して、牧師を辞職した後は、

金森通倫の紹介により『福音新報』・『基督教新聞』の編輯

に加わることになる。

明治二十年、押川方義に推薦され山形英学校に教頭として

赴任する。そして新潟打ある、内村琴二が追放されたばかり

の(後任の教頭として)北越学館に転ずる。当校はミッショ

ンスクールであったにもかかわらず、キリスト教にもとづい

た礼拝や校則を廃止し、学生個人の「良知良能」を発揮させ

るペく、陽明学を応用した自由放任主義の教育を実践する六〉。

北光会を組織して月刊誌「北光」を発刊するのだが、やがて

また教育方針の対立から宣教師と衝突して辞任に追い込まれ

てしまう。

その後、帰京した介石が東京基督教青年会館で講演会を開

き、それが大好評を博していたことについては、すでに先述

した通りである。そのかたわら彼は健筆を揮い、『保羅之伝』

・コアビニチー』・『信仰之道』・『人物論』などの著作を

次々に発表した。その奮迅の活躍を称えて、植村正久は彼を

「キリスト教文学界の元老」茎と呼ぶのに相応しい人物であ

かと述べている。

そこで、介石の文学に対する基本的な態度を検討しよう。

『詩情之源泉』 (「三頼」第八号、明治二大年十月三十日) という評論は、新しい価値観のために揺れる明治日本の

「慰しき社会」を批判しながら、文学に託されるべき「其

誠なる詩情」の所在を明らかにしたものである。

今日の如く、権利、義務、実利、論理、学術、技芸、才

能、権力等の一方に騒忙しき社会に在ては、実に其誠な

る詩情を奨励すること極めて極めて大切なるべし

介石は具体的に「実利」主義者の1・S・ミルの例を引い

て説明する。ミルが妻を亡くした際、彼女の墓所に庵を結ん

で追悼したのは、平生信条とするところの「実利」からでは

決してない。さらにまた、当時の日本社会でもてはやされて

いたような権利義務、学術技芸などの価値からでもなく、そ

れは「人性の真心」の根底にある「デビニチー」・「ヒユマ

ニチー」といわれるものに従ったゆえの行動なのであった。

介石によれば、そこにこそ普遍的な「詩情の本源」が存する

のであり、詩人の表現すべき「内部の情念」もそこから産ま

れるのだという。

131

一体今日の詩人家たるところのものには技術、制作、名

吟、佳句などに心を労するもの多くして、而して更に内

(11)

部の情念に留意するもの少きは何ぞや

いかなる技術を使って秀作を編み出すか、そのことばかり

に拘泥するのは、詩人のあるべき姿ではない。介石が一貫し

て主張するところの「デビニチー」・「ヒユマニチー」をす

るどく感知することによって、胸中で熱を帯びて来る「内部

の情念」を表現することが、詩人本来のあり方なのだとする。

真正の詩人たるものは我が所謂るデビニチーを味ひ、ヒ

ユマニチーを感じ、情念こ〜に熱し来りて禁ずること能

はず、乃ち之を口に発し、語に顕はし、文字に写し、調

音に合せて、而して天地人生の感慨を宗ふものたらざる

ペからざるや明かなり

「内部の情念」に動かされて「天地人生の感慨」を謡うの

が「真正の詩人」とする介石の態度から見れば、透谷の詩作

晶は、どのように映ったのであろうか。透谷が人間の(内部)

の意義を発見して、「詩人哲学者は到底人間の内部の生命を

解釈するもの」 (『内部生命論』)と主張していたのは周知

の通りである。その意味からも「詩情の本源」としての(内

部)に着目していた介石が、透谷の表現をどう受け取ってい たのかを示す資料は、両者の関係を読み解くうえで興味深い ものになるはずなのだが、残念ながらその当時の資料は現存 していない。ただ後年になって、介石が「三役」の時代を回 顧する記事中、つぎのように述べている。

愛に面白い話がある。北村透谷が、蛍に題して、新体詩

のやうなものを書いて寄越したが、如何にも憐れつぼい、

無常観のものであつたので、其後予輩が透谷に会ふて、

何だ、あんなあはれなことでは駄目ではないかと云った

が、其より一二カ月も経たぬ中に、この透谷は、自身の

庭の桜の木か何かに頚く〜つて死んで仕舞った。

この記事は、介石が主宰する雑誌「道」第三四五号(昭和

十二年三月、道社、六七真)に掲載された「明治宗教の回顧」

という論文のなかの一節である。これは透谷研究では、はじ

めて取り上げられる記事なのだが、介石によれば、透谷本人

に直接会って「あんなあはれなことでは駄目」ではないかと

告げたという。ここで話題されているのは、『はたる』

(第

四号、六月三十日)という詩であり、先にも触れたように、・

透谷が「三顎」に寄稿した詩は、さらに『蝶のゆくへ』

(第

七号、九月三十日)という一篇があった。「腐草に生をうく

‑132‑

(12)

る身」の蛍、「秋の野面をそこはかと、尋ねて迷ふ」蝶の哀

れなイメージがそれぞれの詩を構成しており、どちらも戸川

残花の無常観が濃厚な詩と同じ真に掲載されていた王(、『さ

くら田の雪』、⊇円山の墓地にて』)。介石に取り上げられ て批判された『はたる』の、「緊に生をうくる身の、/か

なしや月に照らされて、/もとの草にもかへらずに、/たち

まち空に消えにけり」という最終連の表現は、たしかに読者

に哀憐の感慨をもよおさせる。また三つの連全体を通しても、

空に消える蛍のはかない生命を哀惜するような言葉が各所に

用いられているのである。

ゆうべの嘩をさまりて、

まづ暮れか〜る草陰に、

しつかに影を鮎せども、

なを身を恥づるけしきあり。

羽虫を逐ふて細川の、

浅瀬をはしる若鮎が、

静まる頃やはたる火は、

低く水辺をわたり行く。 席亭に生をうくる身の、

かなしや月に照らされて、

もとの草にもかへらずに、

たちまち空に消えにけり。

(『ほたる』、「三預」第四号、明治二六年六月三十日)

ところが、次作の『蝶のゆくへ』では、やや詩の趣きが変

えられており、とりわけ最後の連には、短い生命を終えて行

く蝶の、「『運命』の外には『我』もなし」という注目すべ

き表現がある。

舞ふてゆくへを間ひたまふ、

心のほどぞうれしけれ、

秋の野面をそこはかと、

尋ねて迷ふ蝶が身を。

行くもかへるも同じ閑、

越へ来し方に越へて行く。

花の野山に舞ひし身は、

花なき野辺も元の宿。

133

(13)

前もなければ後もまた、

「運命」の外には「我」もなし。 ひらくくと舞ひ行くは、

夢とまことの中間なり。

(『蝶のゆくへ』、「三鴇」第七号、明治二六年九月三十日)

これまで多くの研究者が『蝶のゆくへ』の最終遵に論及し

てきたが、それらのうち説得力に富むものとして、佐藤泰正

氏は透谷が「(運命)を(かみ)とよぶ時、この未定着な言

葉のひびきはそのまま、彼の明滅する心の揺動をあざやかに

示すかにみえる」=⊥。と指摘している。佐藤氏が指摘する通

り、「運命」に「かみ」というルビが振られるこ七によって、

この詩の趣きが一変し、『蛍』のような「無常観」なるもの

の感慨などではなく、彼方から「我」を厳しく見つめている

超越者の存在を否応なく意識することになる。超越者に対す

る意識を内在させることによって、人間には(内部)の世界

が形成される。まさに(それはわれわれがそれをわれわれの

対象としようとする時には、常にわれわれがそれの対象とさ・

れてしまうような無限の情熱の事柄) 至〉なのである(P・

ティリッヒ)。当時、作家の内面がカタストロフィックな状

況に置かれていたことはいうまでもないのだが、「三領」と いう雑誌の性質も合わせて考慮すれば、詩のスタイルを用い 「東洋的趣味」に「西洋的思想」を調和させながら、新しい (内部)の世界を創造しようとした意欲も、そこから同時に うかがい取れよう。透谷が介石の批判する「如何にも憐れつ ぼい、無常観のもの」ばかり書いていたわけではなく、むし ろそれを「面白い話」として紹介する介石の方こそ短慮な思 考しか持ち合わせていなかったことが明らかになる。「三橋」 に寄稿された二篇の詩、つまり『ほたる』から『蝶のゆくへ』 に移る創作の過程のなかに透谷の表瑛が決定的に深化してい ることを見落としてはならないのである。

134

月刊で発行されてきた「三溝」は、時事や文芸などの多岐

にわたる言論活動を精力的に展開しながらも、第十号(明治

二七年一月三十日)をもって終刊の運びとなる。その最終号

の巻頭には「本誌大改良予告」と題して、つぎのような一文

が掲げられている。

(14)

松村介石先生は専ばら社会学の方面に当り抱負する所

の三大真理を宣べ戸川残花先生と文壇の俵将山田美妙斎

先生とは編輯印刷にも主幹となり愈々三響を鳴し高踏唯

心に偏せず唯物俗小に流れず長安一路坦々たる円環的大

道を歩まむことを期す

今後の新tい陣容に触れつつ、「高踏唯心」でも「唯物俗

小」でもない「円環的大道」を歩むのだという声明は、雑誌

を打ち切る理由ではなく、何らかの形で雑誌が復刊される含

みを持たせている。事実、それと同時に百五十貢程度の隔月

刊でまもなく再開されることも予告されている。植村正久は

「三頼」の廃刊を費用のうえで「若干の損失」を招いていた

からであったと伝えているが(十三〉、早くから編輯者には、区

切りのよいところでひとまず整理しようという心積もりがあ

ったよケに考えられる。その予告文のなかの「高踏唯心」や

「唯物俗小」という言葉がともに人生相渉論争で用いられた

批判の用語であったことは、いまさら筆言を要しないであろ

う。ただこの場合、どちらにも組みしないという態度は、撞

謝に走らない公正さを維持できるかのようにも見えるが、本

来、言語表現というものが(生活世界) (Leben笥e‑t)と対

略するなかで意味を分節させる、その緊張関係を溶解させて しまい、やがて精神的葛藤なき折衷主義の立場に逢着してし

まう恐れが生まれるのである。

明治四十年十月、介石は既成のキリスト教界を離れて「日

本教会」という新宗教を組織する。信仰箇条を「信神、修徳、

愛隣、永生」という四綱領のみに限り、陽明学や老荘思想の

要素を取り込んだ折衷形式の(日本的キリスト教)の創設を

企図したのであった。さらに翌年五月には、「東西両津の文

明若しくは思想の融和」を基本的な主張の一つに定めた雑誌

「道」を発刊する。だが、直ちに彼の考え方は、三並良『松

村介石君の自己撞着』 (「六号雑誌」第三六四号、明治四四

年四月)において手厳しく批判され、教義の矛盾が「耶蘇を

詩聖賢に等しく見て後ちに此の耶蘇と君の宗教との関係はど

うなるかは少しも考へてない」と指摘される。東洋の詩聖賢

をキリストに見立てさえすれば、たとえキリスト不在でもキ

リスト教が成立するのだという介石の所説に非難が集中した

のだが、ついに明治四五年四月、「日本教会」を「道会」と

改称して、名実ともにキリスト教会と訣別することになる。 このような段階にまで至ると喜)、もはや思考の純化に必要

な精神的葛藤は、介石の思考のなかに寸竜も見いだせなくな

っていたのであった。

本稿を締め括るエピローグとして、透谷追悼会の一助につ

ー135‑

(15)

いて言及したい。透谷の没後三通間目に当たる明治二七年六

月四已、九段坂下の貸席玉川亭にて追悼会が開かれている。

家族の他に坪内冶遥・森田思軒・山路愛山・竹越輿三郎・内

田魯庸二戸川残花・植村正久・厳木善治・島崎藤村二戸川秋

骨・平田禿木・星野天知・馬場孤蝶・石坂昌孝など、生前故

人と親交の深かった四二名の人々が集まり、その出席者には

介石も含まれていた。天逝した友を悼む情景は「文学界」第

十八号(六月三十日)掲載の『透谷子追悼会』 (無署名)と

いう記事に紹介されるのだが、各人が憫然と黙想するなか

「松村三頼氏憮然として坐し」ていたことが描写されている。

「憮然」と坐っていたとされる彼の胸奥には一体、どのよう

な思いが秘められていたのであろうか。透谷は「東西南北は、

思想の側のみ、思想の城郭にあらざるなり、思想の最棲は円

環なり」

(『国民と思想』、「評論」第八号、明治二大年七

月十五日)と語った。「思想の長塩は円環なり」という部分

だけを取り出せば、介石打主張と実に似通うのだが、透谷の

場合はそれが「内部の生命は千古一様にして神の外は之を動

かすこと能はぎるなり」 (『内部生命論』)という理性の極

北に達するまでの、思考の純化を徹底する作業を経験しっつ

表現されたものであった。だが、その後の介石の生涯には、

透谷が描いて見せた(超越)の垂線を仰視する瞬間は、つい に訪れることがなかったのである。 注、本稿では、北村透谷のテキストは『北村透谷集』

(『明

治文学全集』第二九巻、筑摩書房)から、『ほたる』・『蝶

のゆくへ』の二篇については、橋詰静子氏の「校本『透谷抒

情詩歌集』

(『目白学園女子短期大学研究紀要』第三一

号、平成六年十二月)から引用した。

また「三頼」は関西大学附属図書館所蔵本から引用した。

なお原則として旧漢字は新湊字に改めている。

(一)

『北村透谷全集』第二巻「改題」 (昭和二五年十月、

岩波書店、四三六支)、ちなみに「聖書之友日課表」は

明治十六年一月、「聖書之友月報」は明治ニー年一月、

「聖書之友雑誌」は明治二五年一月から刊行が開始され

ている。

(二)同右第三巻、六八〇支

(三)

『我が見たる耶蘇教会の諸先生』 (「太陽」第十六巻

第十六号、明治四三年十二月、四八貢)

(四)

「教育と宗教の衝突」論争との関わりは、拙稿「北村

透谷『井上博士と基督教徒』論‑メソジスト的「ポジチ

ー136‑

(16)

ープの道徳」に対する「学者」擁護論の展開‑」

(「三

重大学日本語学文学」第九号、平成十年六月、五九〜七

大貢)。

(五).高道基「松村介石‑日本プロテスタンチズムの鬼子‑」

(「論集」第二二号、昭和四∧年九月、神戸女学院大学

研究所)

(六)近代ナショナリズムとの関わりは、拙稿「明治二十年

代のナショナリズムにおける文学と宗教の動向‑北村透

谷のトランセンデンタルな批評意識についてー」

(「広

島大学教育学部紀要」第二部第四五号、平成八年三月、

二八三〜二九l一夏)。

(七)

「信仰の生涯』 (警醒社書店編「回顧二十年」、警醒

社書店、明治四二年十月、二四二貢)

(八)大内三郎氏は、介石の主張するキリスト教について、

つぎのように述べている(r松村介石研究序説‑その人

と思想‑』、「日本文化研究所研究報告」第十二集、昭

和四九年三月、十貢)。

「彼の主張する『キリスト教』が、果して聖書に基・

く其のキリスト教といえるかどうか。それによく吟

味すると理論的構成が弱く、項目羅列的で『儒教的

キリスト教』とはいえ、内容からすると、果して儒 数的といえるかどうか問題もあろうが、『至誠』に 立脚したキリスト教を主張して、自らをキリスト教 の埼外に放り出している観がある」。

(九)

『基督教徒の新聞雑誌及び共の記者』 (「福音新報」

第一六五号、明治三一年八月二六日、引用は『植村正久 著作集』第三巻〔昭和四一年六月、新教出版社、三一六

〜一三七真〕からおこなった)。

(十)透谷と「東洋趣味」との関係については、すでに山田

謙次氏『雑誌「三預」についてーその「東洋的趣味」と

透谷1』 (「愛知大学国文学」第二四・二五号、昭和六

十年三月二五日)の検証がある。

(十こ 『日本近代詩とキリスト教』、平成九年十月、三田

七〜三四八貢

(十二)P二アイリッヒ『組織神学』第一巻(Pau‑Ti〓ich)

S竃tematic→hg‑Ogござー畠e One‑‑誤rThe冒i扁rSit『

Of

ChicagOPr¢SS)

(谷口美智雄訳、平成二年一月、新

教出版社、十六貢)

(十三)、(九)と同書、二二六貢。

(十四)鈴木範久氏は、この段階を「宗教が現世倫理自体で

はないにせよ、より総合的な現世倫理とみなされ、両者

は修養で連続するものとなっている」 (『明治宗教思想

‑137‑

(17)

の研究‑宗敦学事始‑】、昭和五四年八月、東京大学出

版会、一三九貢)と説明するが、それは現実に対する迎

合的な態度であるといえよう。

〔おにしやすみつ

本学教員〕

本稿は、北村透谷研究会全国大会(平成十年十月三一日、

帝塚山学院大学)において口頭発表した内容に、修正加筆し

たものである。席上、御意見をいただいた諸氏にあらためて

感謝申し上げる。

〔追記〕本論文は平成十年度文部省科学研究費補助金(奨励

研究(A)、課題番号‥一〇七一〇二〇八) 「日本近代文学

における宗教的言説の批判的考察‑北村透谷を基軸としてー」

の交付を受けてなされた研究成果の一部である。

1̲38

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