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組合漁業の実態 : 磯漁業を中心とした一漁村にお いて

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(1)

組合漁業の実態 : 磯漁業を中心とした一漁村にお いて

その他のタイトル A Survey of Fishermen's Association

著者 柏尾 昌哉

雑誌名 關西大學商學論集

1

4

ページ 351‑379

発行年 1956‑11‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/00021865

(2)

この報告は︑昭和三一年の夏季を利用して行った実地調査の資料から一部をとりまとめたものである︒対象の村

は︑徳島県海部郡YI

Ay町は町村合併の生み出した非常に細長い町で︑その長い海岸に

点々と漁浦が横たわっている︒これは︑調査上誠に不便で︑特にI浦等は町役場から半日も要する程であった︒制

なま約された予定日数の下で︑出来るだけ多くの人から生の資料を聞いて廻ったのであるが︑くい違っている点や不確

実なところがかなり多く︑差当り︑いわゆる指導層の言を中心に本稿を組立てたが︑これがため︑或は重要な点を

逃したかも知れない︒又︑歴史的にも︑資料の見出しにくいことと明治以降の村政資料が町村合併を機に焼却され

たこととによって︑かなりあいまいなものとならざるを得なかった︒これらの点も︑主として村の人々の記憶を辿

ったのであるが︑前と同じ理由で重要点を逃してはいないかと危惧している︒

さ ︑

ー磯漁業を中心とした一漁村において

l

(3)

ほすさまじい荒磯となっている︒ の生命が与えられているのである︒

徳島市から海岸沿いに南下すること約一五里で瀬戸内海と太平洋を分つ蒲生田崎に到達する︒この蒲生田崎を最

後にして徳島の瀬戸内海岸は終を告げ︑それからは鋭角を画いて南面する徳島県海部郡の太平洋海岸の荒磯が展開

されている︒その最初に築かれているのが︑I浦及びA浦から始まるy町の各漁浦である︒I浦及びA浦は︑昨年

まではA村として一単位を形成していたが︑昭和三0年町村合併によってY町に編入され︑現在は海部郡yI

Aとなっている︒だから︑ここにとり上げた1浦及びA浦というのは昨年までのA村と全く同じ範囲になる︒

I浦及びA浦︵旧A村︶は︑既に述べたように︑東西に細く長く延びる海部郡の東端に位置し︑背後に紀伊水道を控え、東々北に細長く構成された漁浦である。それは、東西の延長約二里、南北約一里、面積僅か0•六一四方

海部中央山脈︵四国山系の一っ︶の延長と認められる山脈が︑東南から生起して東々北に進み︑Y町と那賀郡と

の境界を形成し︑約四五0メートルの山々を生起し︑いわゆる分水嶺となっている︒従って︑I

A浦は︑山脈

に梱度に迫圧された箆めて平地の少ない南側斜面に構成された部落である︒このように︑北に山脈を背負った地味

の食しいこの部落も︑南は日本海流︵いわゆる黒潮︶の流れる太平洋に臨んで開けている︒ここにこそ︑この部落

(1 ) 

その海岸線は︑屈曲こそ比較的乏しいけれども︑A浦では鹿の首という岬を起点に東方海中に散在する一0数箇

の岩礁︵女郎岩と呼ばれている︶は︑天然の漁港としてのA漁港を形成し︑政治︑産業︑交通の中心となっている︒

他の大部分の海岸は︑激しい波浪の侵蝕のために急崖となってそそり立ち︑屏風のように絶壁が連なり︑その水際 里という小さい規模を持つに過ぎない︒

(4)

A村は︑東にI浦があり西にA浦がある︒昭和三0Y町合併直前の数字によれば︑I浦は戸数八一︑人口五

A浦は戸数一四四︑人口七五=一を擁しているが︑

田畑は両方合して田で約一0町︑畑で約一八町という我弱

一戸平均合計田畑は僅か二反にすら達しない︒しかも︑そのほとんどは山の急傾斜面に急カープを画い

て展開されている極小面積のいわゆる千枚田である︒田畑の反当り平均筆数が四0筆にも及ぶということはこの事

情を余すところなく物語っている︒従って︑農業収入は樫度に食困で︑部落全体の一カ月の飯米確保が精々である︒

山林は比較的恵まれ︑約四五0町を有しているが︑これとても部落を支える力はない︒この部落の中核は完全に漁

業によって形成されている︒即ち︑旧A村は︑完全な純漁村として生成して来たし︑現在もそうして発展しようと

I浦には小学校と漁業協同組合︑A浦には保育所︑小学校︑漁業協同組合︑郵便局︑町役場分所︵旧A

村役場︶それに診療所があるが︑交通は余り発達しておらず︑主として海上に頼っている︒陸路はY本町から山越

えしてA浦に至り︑更に海岸沿いにI浦に至る村道と山越えして那賀郡s村へ至る山道があるが︑

誠に不便である︒だが︑最近の船舶の発達は︑逐次阪神方面との海上交通を進歩させている︒ ともに道が悪く

( 1 )

鹿ノ首岬ほ︑旧

A

村の南方に海中へ長く突出した岬で︑本島とは礫石の洲によって接続されている︒この岬ほ標高四〇 メートル程の矮樹で覆われ︑南面は波に洗われて断崖となり多くの岩礁が連なっている︒幕末にはこの山上に遠見所があった

という︒海部郡誌刊行会﹁海部郡誌﹂ーニ九頁ーニ︱

10

若千の歴史的考察

(5)

漁業の面から鍋察を進めよう︒

0

(2 ) 

I浦もA浦もその創始は詳らかでない︒IG寺対岸の高さ五0メートルの山上にある経塚は︑足利時代のもの

(3

) 

といわれているし︑A浦砂岩宝匡院塔西方の小五輪は足利末期のものといわれているところから︑足利氏の軍政時

代には既に漁民が存在していたことが明瞭である︒ただ︑これら漁民が何時頃何処から来たかは判らない︒

戦国動乱の時代に︑阿部和泉守政吉︵祖先は阿部佐五郎といわれる︶が︑いわゆる山城として元亀年間︵或は天

(4

) 

正年間ともいう︶に城を構築したといわれる︒阿部氏の家来は一八人であって︑始め一八軒であったというのはこ

徳川時代に入って︑両浦は蜂須賀氏の大名領に編入され︑代々の庄屋をK家が勤めている︒何れにしても︑徳川

初期には︑戸数せいぜい数十軒を数えるに過ぎない寂蓼とした寒漁浦であったと思われる︒それが︑徳川時代の二

つの漁業繁栄期である元祗期︑文化文政期を契機として商品経済の滲透に伴い︑逐次発展して略y現在に近い段階

にまで生長して来たものであろう︒ちなみに︑幕末には︑I浦で戸数約六0

戸 ︑

A

1 0 戸を数えていたと

この部落の農業は古来全く食弱の一語につきる︒それでも︑慶長から寛永年間にかけて若干の開墾が行われたよ

うで︑例えば五人与であったM家の田畑の中には慶長年間に初めて開墾したといわれているところがあるし︑他に

も寛永年間から開発されたといわれるところがある︒この食弱桓まる農業は︑必然的にこの部落の発達を阻止して

来た︒ここが漁村として発展し始めるのは︑交遥が発達し︑商品経済が或る程度滲透してからであることはいうま この古くからの土俗の言である︒

(6)

近畿各地にまで及んでいる︒ 行商し︑帰りに食糧品を搬入したものである︒ 足利末期頃までのここの漁業は︑磯における採藻採貝が中心であったと思われる︒漁法としては海士による潜水

漁が中心ではなかろうか︒だが︑足利末期から以前の記録が全くないので確かなことは判明しない︒I浦でもA

ともに漁業に関連する言葉がそのまま地名となっているということは︑古くから特徴的な漁業地であったこ

とを物語っている︒既に述べたように︑ここの地形が︑海藻及び貝類の繁殖に絶好であって︑漁法も簡単な海士漁

で充分であったという事情は︑確かにその開発を早めたであろう︒しかし︑逆に又︑このような自然的条件は︑農

産物の柩度の不足があったとはいえ︑商品経済の発達に伴って漁法を大型化し共同化し次第に沖合へ進出するとい

う漁業発達コースヘの道を阻止して来た︒商品経済の発展は︑この部落の漁業を次第に盛大にし︑漁業人口を次第

に増加させて行ったが︑それはあくまでも磯漁としてであり︑荒海に乗出して行く漁業としてではなかった︒

徳川時代以降もこの部落にとって食糧の問題は常に深刻を極めていた︒特に︑天保以降には米麦諸物価の値上り

(5 ) 

によって︑少しの不漁にも漁民は難渋し群代に対し生産手段或は生活資料の貸付けを要望する訴願が相次いでいる︒

このような事情は︑部落における支配的力を握るのが漁民に対する食糧供給者であることを示している︒こういう

場合には︑庄屋とか商人とか或は近隣農村の高持ち百姓とかがこの地位に立つのが常である︒しかし︑この部落に

(6

) 

関する限り何れにしても庄屋を中心に支配的力が構成されていたことは間違いない︒例えば︑婦人の﹁戴き行商﹂

が天明寛政頃からA浦の女子によって始められているが︑これも庄屋が統制していたという︒この行商は︑商品経

済を促進するため︑商人ルートとは又別に︑海藻及び貝類と雑魚の塩蔵品を女子が一定のグループを組んで近郊に

﹁戴き行商﹂は︑次第に発展して近郊から四国全域に及び︑後には

(7)

明治四年の廃藩置県で旧藩と絶緑し︑五年の大区小区の制のとき海部郡は第八大区となり︑A

I浦村は第

一小区に編入された︒この大小区制は明治︱一年に廃止され︑翌年郡役所をH町におき︑各村は数村組合で村役場

を設けた︒このとき︑I

A両浦村はA浦に役所をおいた︒明治二二年町村制実施により両浦村が合併して新た

A

1 0 Y町に合併されるまで続いたのである︒なお︑旧A村役場は︑明治二二年の町村制

実施によるIA

A

S

G寺において仕事をしたが︑大正年間小学校に移り︑戦後に至

②明治維新から太平洋戦争に至る時代

せり売りされたという︒ I浦もA浦もともに全くの漁村ではあるが︑その漁業は他の漁業地と趣が違っている︒即ち︑岩礁が多く磯或は

瀬が多いという自然的条件は︑イセニビ︑

発展せずむしろ他国からの出漁にまかせられていた︒この磯漁場はここでもいわゆる部落共有とされていたが︑漁

法が海士漁中心であるという事情は︑商品経済の進展にも拘らず部落共有の平等形態を長く存続させた︒従って︑

少くとも表面的には網元と網子という関係は顕著ではない︒

だから︑この部落は︑部落共有の平等関係の下で小規模の磯漁業を続け︑他の漁業地のように共同的大規模漁業

化が行われなかった︒いわゆる網元による漁業生産の支配というものは現われないが︑商品経済に依存して発達し

たここの漁業は︑農業生産力の模度の貧困を軸として商業ルートにおいて支配被支配の関係が出来上って来る︒漁

業における網元に代る支配層︑それは前にも述べたように庄屋をめぐる支配機構であった︒藩権力と商業資本とは

互に反揆しながらも︑庄屋において妥協し密着していたのである︒なお︑旧藩時代にIA浦ともに魚五分一所が

サザ=︑

アラメ等の磯漁を発達させ︑沖合への漁撥は

(8)

漁村農業の上限が三反程度の経営面積であること が全体の六割から七割に及んでいることは︑大体

1)

22

40

14

15

22

2)

されるように一反ないし二反までを経営するもの いることを示している︒何故ならば︑︵表

4)

戸 数 推 移

60  70  69  76  81  79  82 

構じようとして︑老幼婦女子による農作を行って

130  135  137  147  149  142  148 

漁業従事戸数

応して行くために︑

いささかでも食糧自給の途を 渦中に巻込まれた漁民が漁業生産の不安定性に対

ら 叫 InIi│A 1計(旧A

190  205  206  223  230  221  230 

\ 年 度1 戸 数 琳業漁I兼業 I業計

40 206  146  ?  ? 

I 148 223 229  153 151  56 62  209 213  15 221  155  55  210  22 230  163  54  217  兼業には,漁業を主とするものと漁 業を従とするものとが含まれている。

って始めて独立建物が造られた︒幕末からこの間に至る旧

A

村の戸数はほとんど変動はしていない品︑ここでは︑太 産業構成から見ると︑明治大正昭和を通じて圧倒的比率を占めているのは漁業である︒

に全戸数の七割は実に漁業専業であり︑兼業を加えると九割以上が漁業に従事していることになる︒残りの僅かが 農業であり林業であったのである︒

先ず︑農業から考えよう︒というのは︑この資弱な農業でも多数の漁民が密集して生計を営むこの部落にとって 田畑合して三

0

町にも足らないこの部落で︑小作地がその三分の二を占めているということに注目しよう︒

3) によれば︑中でも畑地における小作面稼は圧倒的でその九割近くに及んでいる︒しかも︑経営規模は二反以下

はこの上ない重要性を持っているからである︒ 平洋戦争までの旧

A

村の概要を掘察しよう︒

︵ 表

︵ 表 2

) で明らかなよう

(9)

きの一町以上三戸に比して二倍に増加している︒これは︑それがいわゆる地主であることを示している︒なお︑ニ 町以上の三戸の土地所有者というのは︑

かつての庄屋の家

Kと五人与Mの家と寺院G

ところで︑地主と小作の関係が︑何時頃どのような径路を辿って形成されたかは明確ではない︒たゞ︑明治末期

KMG

寺院ともに︑その土地所有面積は三町を越えていたといわれているし︑祭礼時にはこの三家へ大

︱町から二町が一二戸あって︑経営規模別に見たと 土地所有規模別戸数によると︑二町以上が三戸︑ は僅か数戸というところに過ぎない︒ 以上はなければならない︒とすると︑それは一七

(K 4)  

戸ないし二

0

戸程度であろう°従って︑農業専業

︵ 表 5)

ることが出来るためには︑最大限に甘く見て五反

他方︑農業を専業として或は主として︑経営す る︒なお︑厳密には︵表

5) による二反未満の土 地所有戸数との差がそれであろう︒

(表3) 自小作別耕地而釈推移(単位反)

中していることは︑この事実を更に明瞭にしてい も ︑

一反ないし二反の経営規模へ向って漁家が集

細農業であることが判別されるからである︒中で を考え合すと︑この圧倒的小作地が漁家の極小零

(表4) 経営規樅別戸数

, \ 規 校 Iない 11 5   1  

三 \I戸数]_もの 1未 満 1 212 51 1 2 I

14 223  ‑‑ ‑ ‑‑ 205  ̲115  8 229  25'80  73  │ 31 17 3  │  15 221  27  1 67  79 │ 28  1 17 

i ‑ 22 230  31  { 64  1 88  : 29  1 14  │ 3  1 

(表5) 土地所有規校別戸数

:て一—

五 巳 戸 数 は 11 2│2 5│

l 8 981  32  │ 20  17  15 I 105 I 42  I 21  I 24  22120 49  ¥ 37  19 

│  1町〜 2 121以上 1

13  │ 3  │ 

12  13  │ 2  │ 3 l  

(10)

漁が︑大正年間を通じて逐次滲透して来る︒

ハマチ︑イワシ等の刺網︑浮敷網の 一本釣に代って小規模の延織 ほ移ってもほとんどそのまま続けられて来た︒ ハマグリ等の貝類︑ワカメ︑ 挙して訪門し饗応にあづかっていたというから︑明治二0年以降の一般的な地主制成立期においてここの地主対小

0町歩に及ぶ山林のうちで︑木材用造林区は約半分を占めているが︑その四割はこの部落と外村の地主層で

あった︒だから︑造林区の他の部分は部落有林から次第に造林区として開墾されて行ったものである︒この部落に

は︑林業としての木材はまだ生長していない︒むしろ︑中心は製炭と製薪であり︑約一0戸内外が従事しているが︑

二戸は農業を兼ね︑他のほとんどは夏季の海士漁を兼ねている︒つまり独立の林業として存在してはいないのであ

さて︑旧A村の主要産業である漁業は維新以後どのような変貌を見せたであろうか︒

たびたび述べたように︑この村の漁業は磯漁業が中心である︒

ツノマク等の海藻類︑その他︑雑魚︑

る ︒ 作関係は確立したのであろう︒

サザエ︑

イセニビ等の審殖する部落海岸では︑海士漁が何といっても

最も有利な漁法であった︒だから︑春から夏にかけてここのほとんどの男女は全力を挙げて海士漁に従事し︑秋か

ら冬は男は出稼ぎに或はささやかな一本釣に女は薪造りに或は﹁戴き行商﹂に従事したのである︒この形態は時代

しかし︑だからといって漁法における進歩変遜が全然見られなかった訳ではない︒例えば︑この漁浦の生命とも

(7 ) 

いえる海士漁にも︑潜水器使用が明治三一年に開始されている︒これは日本でも︑いや泄界的に見ても非常に早い

方で︑潜水漁の発展に大きく貢献したことはいうまでもない︒叉︑釣漁においても︑

一方︑網漁も大正年間に至って︑

(11)

一種である棒受網︑八手網等がぽつぼつ普及して来るが︑これらが一応の成長を示すのは昭和五年以降の漁船の一

6)

般的機動化以来のことである︒重要なのは︑大正末期にI浦に敷設された大敷網による定置漁の出現である︒これ

以上はすべて磯漁業に属し︑強力な慣行漁業権の範囲内の漁業であり︑封建的関係に強く縛りつけられており︑

従ってこの範囲内の樵業はいわゆる資本主義漁業としての発展は食弱であった︒とすると︑その封建的実力者は一

土地所有関係をめぐる強力な地主の支配関係が存在することは既に述べた︒即ち︑KMGを中心とした一連

のグループがその支配者であった︒このほとんど副次的意味しかもたない旧A村農業の封建的支配関係は︑そのま

ま漁業面の支配関係と連っているのである︒封建的磯漁業が中核であるここの漁業は︑

構造の下にあった︒この部落の漁業組合は︑A浦で明治二三年四月︑

KMGを始め一連の支配グループがそのまま顔を連ねているのがこの事実を物語っている︒これ

は︑旧い生産関係を新しく法制化したといわれる明治三五年の漁業法によって︑新たに漁業組合として改組された

けれども︑実質は旧支配関係の承認強化であり︑磯漁場の排他的占有を強力を維持し︑資本主義的発展を阻止し︑

封建的支配層の利益を保償して来たのである︒ いうまでもなく強い封建的

I浦で二三年八月に設立されているが︑その

このように︑ここの漁業は一連の封建的支配層の下に漁業組合を通じて操業されて来たのであるが︑この組合が

商業機能を早くから担当していたことは注目に値する︒即ち︑A浦漁業組合で︑魚商人による取引価値が異常に安

く利益の大部分を中間搾取されていた実状を打破するために︑大正一︱年︱一月から漁業組合自身によって漁獲物

(12)

6) 漁 船 隻 数 推 移

\年度分1 動 力 漁 船 数 │ 無 動 力 漁 船 数

I IA I I IA I

40

゜゜゜

32  67  99 

14 33  66  99 

8 11  16  29  61  90 

15 13  19  29  58  87 

22 13  17  27  55  82 

を直接阪神魚市場に輸送し︑次いで氷蔵庫を造るなどして中間魚商人を排除しようとし

たのである︒その結果は非常な好成績をおさめ︑取引魚価は五割も高騰し︑従来の約三

万円の売上高が︱二年には四万五千円となり︑他の近郊漁業地に較べて逝かに有利とな

った︒これを嘴矢として他村の漁業組合でもこれに傲うものが逐次現出している︒

この封建的漁村には資本主義的漁業への動きは全くなかっただろうか︒そうではない︒

︑ここの地主k及び他の一名は︑合同出資して五島列島へまで延'1 3

編漁業を試みかなりの成功を示している︒もっとも︑これは大正初年の津波で漁船を失

って中絶した︒次いで︑大正九年には地主層の合同出資でTが代表となり台湾へ延織出

漁を行い数年継続している︒これも長続きはしていない︒とあれ︑以上のようにここの

地主層が単に封建的支配にのみ固執することなく︑漁業の資本主義的発展の方向へ進ま

うとしていたことは明瞭である︒しかし︑葵大な封建的利益を保償されていたことと︑

ここの礫漁業資源が容易に枯掲化しなかったことは︑もう一息の努力を示すことなく︑昭和以降再び旧秩序の中へ

(8 ) 

引込んでしまった真因であった︒だからこそ︑大正一四年︑I浦に創設された他町村資本による大敷網に対しては︑

0

年間三千円別に売上高の五劣の漁場代要求に止まっている︒こうして︑明治末葉から大正年間にかけて資本主

義的漁業を企図した地主層も︑昭和初頭からは再び慣行漁場の中に沈澱してしまったのである︒

昭和に入ってからも始めのうちは︑ここの漁業は他の漁業地におけるような盛衰もなく続いて行ったが︑昭和八

年頃から次第に不振化して行く傾向が現われて来た︒これに対して︑延縄漁及び網漁等が少しずつ活澄化して行っ

(13)

漁業用資材の統制に伴い︑政府の漁業生産力維持増進政策は必然的に沿岸磯漁業に指向された︒最初から磯漁業

中心のこの部落では︑その限りにおいて戦争の打撃は少くとも初期の間は大きいものではなかった︒石油︑綿糸︑

マニラロープ︑ゴム︑鉄鋼材︑針金等の必須漁業用資材は︑極めて厳格な統制を受け︑優秀漁船も又相次ぐ徴用に

次第に姿を消して行った︒この部落のように︑非常に動力漁船が貧弱で︑近代的漁業への発展の遅れているところ

では︑他の漁業地における程これらの統制及び徴用の打撃は目立たなかった︒とはいえ︑これらの打撃ほ︑磯漁業

をも次第に圧迫し︑能率の悪いものにして行ったことは決して例外ではなかった︒

この部落の磯漁業に最も大きい打睾を与えたのは︑戦争の進行に伴う漁業労働力の収奪であった︒

業人口は半減したといわれている︒勿論︑それでも他の近代的漁業地よりは遥かに打撃は少なかったといえよう︒

0年に戦争は終り︑祉界最大の漁業国と自認していた日本もその再建は不可能とさえ思われる程の惨憎たる状

態を呈した︒だが︑この部落の立直りはかなり早かった︒石油︑綿糸等は引続いて強力な統制の下にあったが︑敗

戦による漁業労働力の復帰は︑磯漁業それも採貝採藻を中心としたこの部落の漁業を活気づけた︒巨大資本中心の にも次々と襲いかかって来た︒ ‑ J . ︑ t

一九年には漁

︵ 表 6

)

に示されるように基本的生産手段である漁船の動力化が貧弱であることは︑これらを近代的優秀漁

業として成長させて行くことを許さなかった︒事実︑太平洋戦争までのここの動力漁船は︑

の小型漁船でしかなかったのである︒このような状態で戦争期に突入した︒

③ 農地改革と漁業改革

ほとんどがニトン内外

日本帝国主義が日華事変の渦中に投じて以来︑国内の収奪機構としての戦時体制の波は︑この僻村

(14)

復興政策に基づく数々の統制及び米穀食糧の不足が︑この漁村の回復を阻止したことは事実である︒だが︑他の漁 業地の回復体制が盤う前に︑漁業生産に着手したということは︑折からの異常な食糧危機においてかなりの闇利益 をもたらした︒更に︑この漁村に農地がもう少しあったならばその利益は飛躍的に増大していたであろう︒このよ

日本産業の上層建築優先復旧政策とともに︑湘大な数に上る下層に対していわゆる民主化政策が遂行され たことは衆知の通りである︒これが︑農業における農地改革であり漁業における漁業改革であったことはいうまで

︵ 表 7)

三分の二を占めていた田畑の小作地は農地改革の結果全くなくなった︒従って︑地主も小作も表面的には全く消

ように全く解消されていない︒

一反ないし二反を経営する極小農業︵というより漁家副業︶は︑

つまり︑貧弱極まるこの部落の農業は︑農地改革によっていわゆる地主の力を弱め たが︑農業そのものとしては何らの進歩をももたらさなかった︒

中心産業である漁業に目を転じよう︒既に述べたように︑漁業労働力の復帰は︑ほとんど生の労働力に依存する 採貝採藻業を速に回復し︑食糧不足による米穀の高値を相殺してもなお相当の闇利益を与えたのであった︒だが︑

このような好調は僅か一年余り続いたに過ぎない︒ニ︱年︑巨大漁業資本中心の復興政策は︑早くも完全に軌道に 乗り︑復興金融金庫による鋼船建造︑石油を始め漁業用資材の優先供給︑更には戦時中の横領隠とく物資を動員す る等して︑これら巨大資本は狭いマ・ライン内を縦横に操業したのである︒これが定大な独占的利益をもたらした

ことはいうまでもない︒旧A

村沖合でも大資本による操業は強烈に続けられた︒

滅した訳である︒だが︑ もなかろう︒農地改革と漁業改革による変移を観察しよう︒ うに︑この部落の立直りは意外に早かったのである︒

︵ 表

8)

に示されてある

(15)

のである︒詳細は後に譲る︒ は逝かに遅い︒そして漁獲高も︑

これは必然的に漁業資源の急速な低下となり︑この村の沿岸一本釣漁業 は早くも二二年には強度の不振に見舞われている︒これに対して︑二ニ年

I

A

浦二の八田網漁業が発足し︑二三年にはニビ及びハマチの剌 網漁業が︑更に二四年には棒受網漁業が開始された︒これらの漁法の採用は 決して好成績を挙げたという訳ではないが︑それでも次々と進んだ漁法を 採用しなければ漁村として存続して行くことは不可能であったのである︒

純粋に磯漁業の村であった旧

A

インフレの昂進と増大する人口の 圧力の下では︑従来の採貝採藻漁業に加えて近代的漁業が必然的に強く要 請されるに至ったのである︒前記の各種網漁業が遅ればせながら発足した のもこの現われである︒延繕漁︑桝網漁も次々と採用され︑二七年には

A

浦で大型定置も設置されている︒この間︑動力漁船も次第に増加し︑その 中には︑戦前には全く見られなかった三

0

トン級の漁船も数隻見られるよ

9)

うになった︒勿論︑それでも他の漁業地に較べるとその動力化及び大型化

︵ 表 1 0

) のように戦前戦後を通じての五ないし六万貫から最近では一五万貫位ま で増加している︒ところが︑これでも赤字なのである︒

つまり︑投下資本に比してそれだけの漁獲高が得られない ところでこの間に︑漁業改革即ち漁業法改正に伴う種々の変革が行われている︒ニー年に企画されてから四年の

7) 自小作別耕地面稼推移

\ 総 面 積 , 

鱈・1戸~J下―I 自作 I 小作 1 自作 I 小作

2293  1a6  60  42 23  1s4 

27 I 267  I  o  I 91  I  o  I 176  I  o  30 I 230  I 36  I 71  I 18  I 159  I 18 

8) 経営規模別戸数

I戸数 1 1 11 212 51こI

22230 31  64  88 29 14 

271 227  34  72  78  26  17 

30221 38  91  59  20 19 

(16)

旧形態から資本制生産形態へと質的な転換を急いでいる︒

KMG

叉他の二名の旧地主も︑新しい装いの下にその支配を存続して行こうとしている︒

以後の漁業は︑協同組合を中心に古い血液に連なる旧支配層の強い力を包含しながら複雑を形態をと って進められて行く︒二七年には組合自営の下に

A

浦で大型定置を設置した︒二八年には︑数箇の漁業協同組合の 共同出資でカツオ・マグロ漁船による操業を開始した︒二九年には︑漁業協同組合連合が中心となって操業する遠 洋カツオ・マグロ漁業にも出資した︒このように︑封建的諸関係を内包しながらも︑この村の漁業は全体としては

9)

`年度動 力 漁 船 数 1 無 動 力 漁 船 数

I /A I計 , I IA I

22 13  17  27  55  I 82 

24 13  17  27  55  82 

26 15  20  27  55  82 

28 16  23  25  53  78 

30 17  24  25  52  77 

る ︒

KMG

もその中に名前を連ねている︒小作地を失っ

表10)

支配者の中はかつての旧支配者がそのまま残存したことであ

漁船隻数推移

漁穫高推移(単位貫)

̀ I

 

21 22,479 

30,223  !  22 21,757  25,370  24 30,025  29,228  26 35,678  24,503  28 71,347  !  73,933  30 60,448  101,651 

のとはならなかったのである︒まだある︒漁業協同組合の新 業権を漁民に解放するといっても実質的には何ら目新しいも び負債がそのまま新組合へ移行したに過ぎない︒

つまり︑漁

れほとんどの漁業権が移行されていたから︑二六年九月に行 われた新旧漁業権の切換えは︑実質上は旧漁業会から資産及

I浦及びA

浦では︑既に二五年に︑漁業会は協同組合化さ

なものであったことは既に指摘されている通りである︒ に至って始めて成立したが︑この漁業法が不徹底な非民主的 歳月を閲し︑その間四度び変遷した漁業法改正案は︑二四年

(17)

しかし︑まだ旧A村漁業の中心は︑

イセニビ︑カヂキ︑

の礫漁業にある︒この磯漁業こそ漁場の村中共有という旧い慣行漁業権が認められているところなのである︒だか

ら︑旧地主層と一部資本家が漁業協同組合という近代的形態の中に融合して︑職漁業における封建的なものを漁民

支配の拠点としながら全体としては急速に資本家的漁業への衣換えを急いでいるというのが現状である︒この職漁

いわゆる近代的漁業労働者の発生は未熟であり︑漁民層分解も遅れ︑全体的に食困化しているのである︒

(2)IG

寺対岸の高さ五〇メートルの山上にある松の根元に鶏卵大の礫石が無数に露出している︒これがいわゆる経塚で ある︒これは一字一石の経塚で︑各々の石に経文一字宛を記入して埋めたものである︒

(3)A

浦のK

家墓地に花協岩大五輪︵徳川時代︶一甚があり︑その上方庵の谷というところに花禍岩及び砂岩の中五輪の一 部数個と砂岩宝匡院塔の一部があり︑更にその西方に小五輪がニカ所にわたって数基ある︒これら中小五輪は︑この辺の叢林 中に埋没散乱しておったものを発堀したもので︑足利末期のものという︒

海部郡誌刊行会﹁海部郡誌﹂︱‑=二頁ーニ

1

1 1一 頁

( 4 )

現在は城址が残っているだけである︒旧

A村役場から北々東へ七町程行ったところの約一

00

メートルの丘がそれであ る︒ここは郡賀郡

S

村への山越えの道を拒するところである︒俗に城山と呼ばれ︑山頂の本丸に至るところは南北六問︑東西

三問の平坦地であり︑その四囲は高さ一1一間の人工削岩土である︒徳川中期といわれる黒色の茶腕の破片が発堀されている︒又︑

アワビ等の磯貝類の造物も発見されている︒

( 5 )

これに関する資料は次の書物に数個所見ることが出来る︒

農林省水産局﹁旧藩時代の漁業制度調査資料﹂︵第一紺︶三一

0

( 6 )

﹁戴き行商﹂とはA

村の婦人が頭上に海藻等を入れた籠又は箱を戴せて行商する奇風をいったもので︑その起源は天明 年間だといわれる︒幕末の

A村婦人によるコンプ行商は︑京阪神を風靡したものであった︒

(7)A

村は古来潜水漁の発達したところであるから︑潜水器使用の海士漁も他に先んじていた︒その先鞭は明治=二年宮浦 新八氏によってつけられた︒な抽︑同氏は三五年頃には潜水器を携えて朝鮮に出漁しているし︑富浦豊一氏は大阪の豪商と結

ハマチ︑イワシ等々

(18)

托してカナダのバンクーバーで潜水漁業を行い︑更に大正初年にはバナマ共和国にも出漁している︒

海部郡誌刊行会﹁海部郡誌﹂一三七頁

(8

)

この大敷網は︑旧M

HR及び高知の0が共同出資してI浦沖合で操業したものである︒操業用無動力船五隻と運

搬用動力船一隻を準備し︑四0名の漁夫及び船夫を日給及び歩合でI浦から暮集し冬期に操業した︒網は北海道式の落し網で︑I浦の正南約一0町の辺に網を敷設し︑主としてイワシ︑ハマチ等を漁獲した︒昭和一八年からこの大敷網はI漁業協同組合

自営に移行している︒

漁村農業と山林

10

町の田と約一八町の畑しか持たないこの村の農業は︑副次的産業としての地位を占めているに過ぎない︒

ニニ七戸のうち農業らしい農業を営んでいるのは専業の八戸と林業或は漁業を兼ねる一︱戸との合計一九戸を数え

るだけである︒にも拘らず︑

に︑約一五0人は主として常時農業に従事している︒このような漁村農業は一体どのような性質を持っているだろ

経営規模の点から見て︑その断層と思われる点は二つある︒即ち︑三反と七反である︒

先ず︑三反以下には︑

階層こそA村漁業の主要担当層なのである︒ところで︑

戸存在する︒中でも︑農業専業は七反以上がほとんどであり︑他の一戸も六︒八反を占める︒三反ないし七反の農

家は︑大体において兼業に依存しているが︑比較的林業とのそれが多い︒ ~゜

(1) 

いわゆる農家が一戸も見当らないがこれは当然であろう︒︱︱︱反未満の田畑しか持たないこの

, 

いわゆる農家は︑三反以上を耕作する全二四戸の中に一九 一八九戸の家が老幼婦女子による桓小農業を営んでいる︒

︵ 表 1 2

)

︵ 表

1 1 )

でも判明するよう

参照

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