平成 25 年度修士論文
米軍ハウスをめぐる社会環境の変遷と地域における役割の変化
―福生市・瑞穂町を中心に―
首都大学東京大学院 都市環境科学研究科 都市システム科学域 12887416 芳賀羊介
指導教員 山本薫子
2
章立てと目次
第1章 研究の概要(pp4-19)
1-1;研究背景と問題提起 1-2;先行研究・研究意義 1-3;研究目的
1-4;研究方法・調査方法 1-5;対象地域について
1-6;米軍ハウスについて(用語整理・定義)
第2章 福生市の変遷と所有者にとっての米軍ハウスの役割(pp20-62)
2-1;福生市の変遷
2-2;地域の変遷から見る所有者の動きと米軍ハウスの役割の変化 2-3;実数調査からみる米軍ハウスの分布と数の推移
2-4;ハウス所有者にとっての米軍ハウスの役割 2-5;小括
第3章 住民にとっての米軍ハウスの役割(pp63-103)
3-1;住民の変化と1970年以降の日本人居住について
3-2;現在の米軍ハウス住民の変化 3-3;米軍ハウス住民への聞き取り調査 3-4;居住の経緯からの米軍ハウス住民の分類
3-5;生活実態からみる住民にとっての米軍ハウスの役割 3-6;居住の長期化の背景
3-7小括
第4章 間接主体における米軍ハウスの役割(pp104-118) 4-1;間接主体における米軍ハウスの捉え方の変遷
4-2;メディアによる米軍ハウスの扱い方の変化 4-3;活用の多様化
4-4;地元企業による米軍ハウスの新たな活用の動き 4-5;小括
3 第5章 米軍ハウスの活用が既存住民に与える影響と地域資源に向けた課題(pp119-133)
5-1;居住の長期化が米軍ハウスにもたらした影響 5-2 ;住民を中心とした保存・活用の動き
5-3;保存・活用の意識からみる米軍ハウスに対する価値観の違い 5-4;米軍ハウスへの新たな入居者による付加価値とその課題 5-5;既存の住民の懸念と活用が既存住民に与える影響 5-6;地域資源に向けた課題点
5-7;小括
第6章 総括と課題解決に向けて(pp134-136) 6-1;総括
6-2;課題解決に向けて
謝辞と論文執筆作業を終えて(pp139-141)
4
第 1 章
研究の概要
5 1-1;研究背景と問題提起
1-1-1;地域ブランド化の課題と福生の現状
近年、地域の振興や活性化に向けた方策として、地域ブランドに対する関心は高まっている。
小林(2007)は、知財事務局、農林水産省、経済産業省の資料から「地域ブランド化とは、地 域発の商品、サービスのブランド化と地域イメージのブランド化を結びつけ、好循環を生み出 し、地域外の資金・人材を呼びこむという持続的な地域経済の活性化を図ること」とあげてい る [小林実(財団法人地域活性化センター理事長) 2007, p6]。また、小林は(2007)は、 「地 域ブランドが地域活性化に向けた取り組みのシンボルとなる」と述べ、その重要性を唱えてい る [小林実(財団法人地域活性化センター理事長) 2007, p78]。
地域ブランド化の事業の 1 つに、古民家や蔵などの建築ストックも再活用する動きがみられる。
しかし、それに価値を見出している人々を理解せずに、活用が進むことで、地域資源としての価値 自体が失われてしまうおそれがある。
東京都福生市は、近隣8都市1の中で唯一人口減少している自治体である。福生市の分析2によると、
「30代後半の家族世帯の流出によるものが大きく、主な転出先は、あきる野市が最も多く、続いて 23区、昭島市、青梅市、羽村市となっており、隣接する地域への転出が目立っている」と述べ、「若 年層の定着性」を課題として捉えている。そのため、市では、若者層定着に向けた様々な取り組み が行われている。隣接する横田基地があることを活かし、基地の前に位置する商店街を「ベースサ イドストリート」と名乗り、地域活性化に向けた取り組みが行われている。そして、米軍ハウスに ついても他の都市にない街の魅力として活用が行われ始める。しかし、米軍ハウスの活用は、既存 の住民の実態を理解せずに進んでいることが考えられる。
1-1-2;福生・瑞穂地域における米軍ハウスとは
第二次世界大戦後、アメリカ連合軍が占領地駐留のために、敗戦国に対して建設指令を行った進 駐軍将兵のための家族用住居をデペンデント・ハウス(Dependents Housing以下DH)と言う。日本 政府は、GHQから約20000戸(日本国内16000戸・朝鮮4000戸)のDHの建設を命ぜられた。
そして日本各地の接収地・米軍基地において約10000戸以上建設が行われた。
松本・岩下他(2002)は立川地域におけるDHを「基地外ハウス」と表現し、以下のような見解 を示している。
立川において、DH の計画的なものと異なり、立川基地周辺において民間地に建てられた基地 外ハウスは、不動産的な投機の対象として、民間による個別の建設によるものである。したが って、その平面構成は、DH設計方針の示すところに基本とするが、細部における仕様などは、
それぞれ異なる側面を持ち、アメリカ人の居住を意識しながらも、当時の日本の在野の建築が 色濃く反映されたものである。
[松本正富・岩下恵美子他 2002, p111]
1 八王子市・立川市・青梅市・昭島市・あきる野市・武蔵村山市・羽村市
2 [福生市 2008, pp9-15 ]
6 つまり、DH と「基地外ハウス」は米軍家族用住居という用途に違いはないが、建設経緯におい て大きく性質の異なる建物であったことがわかる。これは、立川基地のみならず、民間地での建設 が行われた横田基地周辺の福生市・瑞穂町においても同じ状況であったと考えられる。
そこで本研究においては、「基地外ハウス」として建設が行われ、現在、民間の所有物であるもの に関して米軍ハウスと定義する。
1-2;先行研究・研究意義
1-2-1;先行研究について
DH・米軍ハウスに関する調査研究の対象地は、沖縄県、首都圏のものがほとんどである。
まず、沖縄県を対象に扱っている調査研究として田上健一(2000)3・田上健一・上江田常実(2003)
4・田上健一(2004)5が挙げられる。
沖縄の場合、米軍ハウスは「外人ハウス」と言う名称で呼ばれている。田上(2000)では、「外人 ハウス」の普及の過程と衰退、その後の日本人が居住するまでの経緯を明らかにし、住居機能とし て「外人ハウス」の現状と住居者の特性に関して分析を行っている。田上(2003)では、「外人ハウ ス」の増改築の経緯を明らかにし、日本人の生活においての適応点と不適応点をあげ、「外人ハウス」
の機能特性を捉えている。その後、田上(2004)において、住居機能以外への転用の実態を明らか にした。
次に首都圏の米軍ハウスに関しては、篠原武史・北川哲・篠崎正彦(2010)
6・松本正富・岩 下恵美子他(2002)
7・岩下絵美子(2002)
8があげられる。篠原ら(2010)は、埼玉県のジョ ンソン基地(現入間基地)内の
DHに関して、増改築される中でどのように居住者の生活に対 応し、住環境として成立しているのか分析を行い、居住者の住まい方の意識に関して建築様式 の視点から考察を行っている。松本正富・岩下恵美子他(2002)は、立川市の米軍ハウスの成 立過程を明らかにし、対象地区における残存状況の推移、建築様式のまとめ、住まい方に関す るインタビュー調査、アンケート調査を行っている。岩下(2002)は、さらに松本・岩下他の
(2002)の調査に加え、米軍ハウスの実測調査を行い、住環境からのライフスタイルという視 点で考察を行っている。
1-2-2;松本・岩下他(2002)の行った調査について
松本・岩下他(2002)が立川市・昭島市(一部福生市・瑞穂町)の米軍ハウス住民に対して、戸 別訪問式のフィールド調査、アンケート調査(62人)、インタビュー調査(10人)を行っている。
その調査から現在の米軍ハウス住民に関して、いくつかの判明点がある。表 1.1 はアンケート調査 の調査概要である。表 1.2 はフィールド調査を参考に作表した。アンケート調査の属性分析から以
3 [田上健一 2000, pp5-8]
4 [田上健一・上江田常実 2003, pp101-104]
5 [田上健一 2004, pp9-16]
6 [篠原武史・北川哲・篠崎正彦, 「増改築の部位と改変内容の現況-入間川地区に現存する米軍ハウスの現況に関
する研究その1-」 2010, pp197-198]
[篠原武史・北川哲・篠崎正彦, 「居住者の住まい方の意識について-入間川地区に現存する米軍ハウスの現況に関
する研究その2-」 2010, pp199-200]
7 [松本正富・岩下恵美子他 2002, pp109-119]
8 [岩下恵美子 2002]
7 下の3つのことが判明した。
ⅰ)積極的居住選択
ⅱ)多様な職業構成と職業と居住の関係
ⅲ)米軍ハウスでの居住の長期化
調査結果によると、そのほとんどが積極的居住選択をしている。また、平均居住年数は16.2年で あり、10年を超えるものが7.5割に達しており、居住の長期化がみられる。さらに米軍ハウスか ら米軍ハウスへと居住を行っている場合もあり、積極的居住選択と考えられる。
また、自由業の割合が、44%、自営業が31%を占め、かなり偏った職業構成になっている。
そして職種との関連で仕事場+住居としている形態が全体の 3 割となり、職業構成と住居選択と密 接に関係していることが判明した(表1.2)。
表1.1 アンケート調査概要
調査日時 2001年7月 2001年11月 調査目的 居住者自身による住まいへの要望や評価
調査対象 米軍ハウスアートイベントの来場者 立川市・昭島市・一部福生市の米軍ハウス への居住者
調査方法 自己式回答用紙調査 自己式解答用紙調査 回収方法 直接回収・郵送回収 直接配布
配布総数 73 -
有効回収数 40(55%) 22
[松本正富・岩下恵美子他 2002, pp116-117]
表1.2; 米軍ハウスの使用用途について
住居のみ 仕事場+住居 仕事場 空き家 不明 計 31棟(38.3%) 27棟(33.3%) 6棟(7.4%) 7棟(8.6%) 10棟(12.3%) 81棟
[岩下恵美子 2002]のフィールド調査より作表
1-2-3;首都圏の米軍ハウスと沖縄の「外人ハウス」の相違点と類似点
以上の先行研究から首都圏の米軍ハウスと沖縄の「外人ハウス」の相違点と類似点をあげる(表 1.3)。建築様式に関して大きな違いが見られるが、積極的な居住が見られる点、居住者が増改築を 行っている点、住居以外の転用が見られる点において非常に類似しており、居住者の住まい方や志 向に関しては類似していると考えられる。しかし建設された数と現存する数を比較すると首都圏に 関しては、正確な数は不明だが、福生・瑞穂地域においても最大で 2000棟、現在は 200棟程度で あるため、沖縄の外人ハウスは桁が 1 つ異なっている。つまり、現存数は構造の違いによるものが 大きいと考えられるが、現在の活用や居住志向に関して、建設背景や地域の変遷、所有者の意識な ど建物以外の部分が大きく影響していると考えられる。
そこで本研究では、居住者だけでなく、米軍ハウスをめぐる社会環境にどのような変化があるの かその実態を明らかにし、地域における米軍ハウスの役割に関して考察を行った。
8
表1.3;米軍ハウスと外人ハウスの比較
類似点 ①居住者が積極的な居住をしている
②現在までに増改築が行われている場合が多い
③住宅以外の機能への転用が見られる
相違点 ①「外人ハウス」はRC構造であるのに対して、米軍ハウスは、木造である点
②所有の形態(「外人ハウス」は賃貸・分譲があり、米軍ハウスは「賃貸」のみ)
③建設された数と現存する数9
1-2-4;研究の新規性と研究意義
外人ハウスに関しては、建設経緯から現況を明らかにした上で外人ハウスの実態を明らかにされ ているが、福生市・瑞穂町の米軍ハウスに関して、建設経緯から変遷そして現在の状況といった全 体を総括する調査は行われていない。また沖縄・首都圏ともに建築様式という視点から論じている ものが多く、地域との関係性という視点は、考察がされていないことが多い。本研究は、地域の中 で、所有者、住民、行政など米軍ハウスをめぐる社会環境という視点からその役割を構造的に明ら かにするところに新規性がある。そして米軍ハウスの活用が既存の住民に与える影響の考察を行い、
地域資源に向けた課題点を挙げるという点に研究意義がある。
1-2-5;地域の関係性と米軍ハウスをめぐる社会環境とは
米軍ハウスをめぐる社会環境を構成する主要な主体(直接主体)に、所有者、管理者、居住者が あげられる。そしてそれを取り巻く、いくつかの間接主体がある。その 2 つを合わせた内部主体 を地域と定義する。そして、地域とは異なるが、米軍ハウスをめぐるは社会環境を構成する外部主 体に横田基地や入居希望者があげられる。各主体は、直接的、間接的であるが、米軍ハウスに対し て影響を与えている。それは時代ごとに異なるため、米軍ハウスをめぐる社会環境は変化している。
そのような変化の中で、所有者と住民と行政、議会、企業などの間接主体が、どのように米軍 ハウスを捉えているのかをその役割を明らかにした。
9 外人ハウス最大で12000棟、2004年現在約3000棟、米軍ハウスの正確な数は不明であるが、最大で1500棟 から2000棟、現在は200棟程度と言われる。
9
表1.4;米軍ハウスをめぐる社会環境を構成する主体
構成員 関係
直接主体
所有者 所有
所有者組織・不動産会社 管理
住民 居住
間接主体
行政 活用など
議会 活用など
商工会 活用など
企業 活用など
保存団体NPO 保存
外部主体 -
横田基地 供給先
居住希望者など 入居希望
図1.1;米軍ハウスをめぐる社会環境を構成する主体について
10 1-3 ;研究目的
1)福生市・瑞穂町の地域の変遷から米軍ハウスの現状の整理を行う。
2)米軍ハウスをめぐる社会環境の変遷を明らかにし、特に所有者、住民、活用を行う間接主体にお けるその役割の実態を把握する。
3)間接主体の行う活用によって既存の住民に与える影響について考察を行い、地域資源としての米 軍ハウスの活用に向けた課題点を挙げる。
1-4;研究方法・調査方法
1-4-1;研究構成と研究方法
1)第2章;福生市の変遷と所有者にとっての米軍ハウスの役割
地域の変遷とその中でのハウス所有者の動きを文献調査から明らかにした。また、米軍ハウ スの現存数の実数調査を行うことで、福生市の変遷の中で米軍ハウスの現状整理を行った。そ して、不動産会社、所有者への聞き取り調査を行い、所有者にとっての米軍ハウスの役割を明 らかにした。
2)第3章;住民にとっての米軍ハウスの役割
文献調査により、1970年代の住民における米軍ハウスの役割と現在の住民の変化を明らかに し、現在の住民への聞き取り調査を中心に居住経緯から住民の分類を行い、それぞれの住民の タイプにとっての米軍ハウスの役割と居住の長期化の背景を明らかにした。
3)第4章;間接主体における米軍ハウスの役割
間接主体が米軍ハウスをどのように捉えてきたかその経緯を文献調査を中心に明らかにし、
メディアの変化、現在の活用を見ることで、間接主体における米軍ハウスの役割を明らかにし た。
4)第5章;米軍ハウスの活用が既存の住民に与える影響と地域資源に向けた課題
以上から各主体の役割の違いの現状をあげ、特に間接主体における米軍ハウス活用が既存の 住民に与える影響の考察を行い、地域資源に向けた課題点をあげた。
11
図1.2;研究構成
1-4-2;聞き取り調査概要
各章において、主要分析対象となる不動産会社、ハウス所有者、ハウス住民に対する聞き取り調 査概要に関して記載する。補足で調査を行ったものに関しては、各章の脚注を参照すること。
表1.5;不動産会社に対する聞き取り調査概要(第2章)
不動産会社A 不動産会社B 調査日時 2013年9月20日(金)
16;00-17;00
2013年10月11日(金)
10;00-11;00 調査方法 半構造化面接法 半構造化面接法
備考 主に日本人向けの管理・貸出 主に現在も米軍向けの管理・貸出 調査内容
①現在管理を行う米軍ハウスについて
②ハウス住民の特性に就いて
③米軍ハウスの管理の引き継ぎ経緯
④ハウスの保存・取り壊し・活用に関して
12
表1.6;ハウス所有者に対する聞き取り調査(第2章)
ハウス所有者A ハウス所有者B
調査日時 2012年7月21日(土) 2013年9月25日(水)
調査方法 半構造化面接法 半構造化面接法
調査内容 ①建てる前の話(引き継ぎの話)
②ハウス住民の状況の変遷について
③取り壊した状況について
④米軍ハウスの保存・活用に関して
表1.7;ハウス住民に対する聞き取り調査(第3章)
調査 対象者
米軍ハウス住民 A
米軍ハウス住民 B
米軍ハウス住民 C
米軍ハウス元住 民D
米軍ハウス元住 民E
本 文 中 の 表記
住民A 住民B 住民C 住民D 住民E
調査日時 2013年
11月10日(日)
2013年
11月17日(日)
2013年
11月20日(水)
2013年
11月22日(金)
2013年
6月18日(火)
調査方法 半構造化面接 半構造化面接 半構造化面接 半構造化面接 半構造化面接 調査場所 対象者の勤務す
る店舗
対象者自宅(米 軍ハウス)
対象者自宅(米 軍ハウス)
対 象 者 事 務 所
(米軍ハウス)
対象者自宅
性別 女性 男性 男性 男性 男性
年齢 1973年(40歳) 1972年(41歳) 1973年(40歳) 1979年(34歳) 1963年(50歳)
調査内容 ・居住経緯
・ネットワーク形成について
・将来展望
・米軍ハウスの保存・活用に関して
13 1-5;対象地域について
本研究の対象地は、横田基地周辺で米軍ハウスの建設が行われた地域である。東京都福生市全域と 東京都瑞穂町の一部地域(瑞穂町むさしの2・石畑のみ)を対象とする。今回は、主要対象地の福生市 の概要をまとめる。
1-5-1;福生市の所在地
福生市は、東京都の都心部から西へ約 40km に位置し、市の西側には多摩川が流れ、市の東北部 には、米軍横田基地がある。東西約3.6km南北約4.5kmにわたってひろがり、面積は約10,24平方 km。JR福生駅を中心に市街地が広がり、東は立川市・昭島市・武蔵村山市、西は多摩川を隔てて、
あきる野市、南は八王子市、北は、羽村市・瑞穂町に隣接している(図1.3)。
主要交通網としては、JR青梅線・JR八高線・JR五日市線の3つの路線があり、JR青梅線福生 駅・JR八高線東福生駅・牛浜駅・JR五日市線熊川駅と市内4つの駅が存在する。また、米軍横田 基地と市の間には国道16号線が通っている(図1.4) [福生市 2008, pp7-9]。
図1.3;福生市の位置づけ GoogleMAPsより作図
14
図1.4;福生市と瑞穂町(一部)の位置づけ(Google Mapsより作図)
1-5-2;人口推移
住民基本台帳(1915年-2010年)に基づき、福生市の人口の推移を表したのがグラフ1.1である。
戦後 1945年から1960年にかけて人口の増加が始まり、1960以降人口が急増している。しかし、
1995年以降、人口増加は、停滞期に入っており緩やかな減少傾向にある。
グラフ1.1;福生市における人口推移(人)(住民基本台帳各年1月1日現在)
0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000
15 1-5-3;地形的特徴
横田基地のある市の東側から多摩川に向かって河岸段丘が緩やかに続き、市内に分布する段丘面 の境には崖線(ハケ)が連なる(図1.5)。立川段丘の上をJR八高線が通り、JR青梅線は、その次 の拝島段丘の上を通る。地質は、大部分が、関東ローム層で、多摩川の低地には沖積土である [福 生市史編さん委員会 1995, p870]。
図1.5;福生市内の断面略図(JR牛浜駅多摩川・平井川合流点付近)
[福生市史編さん委員会 1995, p870]
1-5-4;横田基地に関して
1940年、旧日本陸軍立川飛行場の付属施設として多摩飛行場を発足、終戦直後の1945年9月に 米軍が多摩飛行場へ進駐し、翌年 1946年 8月に第3爆撃飛行大隊が進駐し、公式に横田基地が開 設された。米軍によって基地の北東部、村山町(現武蔵村山市内)の字名「横田」をとって横田飛 行場と称した。現在は行政面積の32%を占めている [福生市役所 2011, p10-11]。
1-6;米軍ハウスについて(用語整理・定義)
1-6-1;用語整理
本論を進めていく上で、もう一度米軍ハウスの用語の整理(表1.8)と建築様式についてまとめる。
表1.8;用語説明
デペンデント・ハウス
(DH)
GHQの設計指導のもと、接収地の中で米軍集中住宅地区として建てられた 米軍家族用住居を指す。
米軍ハウス DHの基本設計方針に基づいているが、民間の設計が行われ、現在も民間の 所有である米軍家族用住居を指す。本研究の対象は米軍ハウスに限る。
ハウス住民 時代に関係なく、米軍ハウスへの居住者を指す。以下ハウス住民とする ハウス所有者 米軍ハウスを所有している人物を指す。以下ハウス所有者とする。
米軍ハウスをめぐる社 会環境
米軍ハウスを中心として、互いに影響を与えている環境を指す。それを構 成する主体に、直接主体、間接主体、外部主体がある。
直接主体 米軍ハウスをめぐる社会環境を構成する主要な主体で、所有、管理、居住 など米軍ハウスと直接的に関係している主体を指す。具体的には、所有者、
住民、不動産会社があげられる。
間接主体 米軍ハウスをめぐる社会環境を構成する主体を指し、活用、保存など間接
16 的に米軍ハウスと関係をもつ主体を指す。具体的には、行政、議会、企業 などがあげられる。本研究では、直接主体と合わせて地域と定義する。
外部主体 地域(直接主体+間接主体)以外に米軍ハウスに影響を与えている主体を指 す。具体的には、横田基地、入居希望者があげられる。
1-6-2;米軍ハウスの建築的特徴について
DH の建築様式に関しては、小泉和子(1999)10を参考にまとめていく。本研究での対象は米軍 ハウスであるが、DH の設計計画に基づいて設計が行われているので、まず DHの設計方針をまと めて、その後、松本・岩下他(2002)11の建築様式を参考に米軍ハウスの建築的特徴をまとめる。
1)DHの設計方針について
DHの基本設計方針は、GHQの管轄下のデザインブランチにより「連合国軍住宅新築工事標準 仕様書」が提示された。それを当時のデザインブランチ技術者が以下の5 つとして設計方針とし てまとめている(表 1.9)。DH の建設には、最小限な資源・経費で短期間に量産できるシステム の構築を考えながら設計が行われたことがわかる。
表1.9;DHの設計方針
(ⅰ)日本資材とわが国における設計およびに施工技術を以って米人の生活様式を満たすような建 物たること
(ⅱ)最小限度の資材と経費を以って最短期間に建築し得ること
(ⅲ)日本およびに朝鮮の如何なる地方にも建築可能なること
(ⅳ)大量生産可能であり、しかも各単位の住宅が連続して建設するも設計の長所を失わぬような 設計たること
(ⅴ)集団建築として建設された場合において、単調ならぬよう適当な変化を与えるような設計す ること
[小泉和子 1999, p72-73]
2)DHの平面プランと基本方針
延べ面積と平屋・二家建て別に、9種類用意されていた(表1.7)。AタイプとBタイプの違い は、面積によるものである。A タイプは、中尉以下の少佐や下士官用、B タイプは、大尉、佐官 用として用いられており、広さによるグレードの差は、軍隊という1 つの統制された階級を持つ 組織のための住まいということから対応されていたと考えられる。また、A-1と A-2の違いは、
寝室の数であり、使い分けとしては、異性の子供がいる場合に3 寝室の住まいが与えられ瑠葉に 意図された。Cタイプは部屋の数が4つであり、大家族に対応するものであった。最小であるA-1 タイプでさえ、当時の日本の住宅に比べ、2倍以上ある。基本方針は表1.11のとおりである。
以上のように平面プランの他にも、内装・外観の意匠・配置計画など詳細に指示があり、統一 すべきところと変化をもたせるところを調整しながら建設されていった。
10 [小泉和子 1999]
11 [松本正富・岩下恵美子他 2002]
17
表1.10;DHの平面プランのタイプ
タイプ 階数 床面積
(㎡)
LDの構成 寝室数 浴室数 トイレ メイド室
A-1 1 89.51 LD・K 2 1 1 0
A-1a 2 87.21 LD・K 2 1 1 0
A-2 1 97.68 LD・K 3 1 1 0
A-2a 2 104.11 LD・K 3 1 2 0
B-1 1 112.19 LD・K 2 1 1 1
B-1a 2 123.39 L・D・K 2 1 1 1
B-2 1 118.98 LD・K 3 1 2 1
B-2a 2 148.73 LD・K 3 1 2 1
C-1 1 138.86 LD・K 4 2 2 1
[小泉和子 1999, p88]
表1.11基本計画方針
(ⅰ)現在の日本で容易に入手でき、比較的安価な材料を使用し、かつ大量生産に適するもの
(ⅱ)平面は集合住宅として連続建設されることを考慮した間取りで、最も単純な矩形とすること
(ⅲ)玄関の位置は、居室に連続して設けること
(ⅳ)各室の広さは、所要の家具が、全部能率的に配置できること
(ⅴ)主寝室は日本の窓を外気に面しまたベッドの配置替えが出来るように壁面や間取りを考慮すること
(ⅵ)勝手口は集合住宅の場合に統一を計るため、その一をすべて背面に取ること、それはゴミ箱台が裏 側に揃い、ごみ収集にも便利となる
(ⅶ)建築面積を節約するため、各室の連絡上の廊下、広間などは、極力少なくし、小屋裏・階段下など も有効に使用できるようにすること
[小泉和子 1999, pp89-90]
3)米軍ハウスの建築的特徴
DHは、表1.8のように、詳細な計画が行われている。しかし、それは1つの住宅区としての計画の なかで実施されているためである。松本・岩下他(2002)は、「立川基地周辺において、米軍ハウスは、
基地外の民間地へ不動産投機的な対象として民間による個別の建設が行われていたため、平面構成は デザインブランチの示すところを基本としているが、細部における仕様などはそれぞれ異なる面を持 つ」と述べている。
横田基地周辺の福生市・瑞穂町も民間地への「基地外ハウス」建設が行われていた地域であるため、
立川基地周辺においてのみならず、福生周辺の横田基地周辺においても同様のことが言えると考えら れる。そこで、松本・岩下他(2002)の見解に従い、米軍ハウスの建築的特徴をまとめる。
米軍ハウスは、木造平屋建ての床面積 70-90 ㎡セメント板葺き切妻屋根の形態を持つ(図 1.6)。
その規模、平屋の基本構成から、DHの標準設計のA-1・A-2タイプが最も近い(図1.7)。 その特徴を表1.12に記す [松本正富・岩下恵美子他 2002, pp118-119]。
18
表1.12;米軍ハウスの平面構成の特徴
(ⅰ)その平面形は単純な矩形を持つ
(ⅱ)エントランスホールのような部分は待たずフロントヤードから直接リビングへはいる
(ⅲ)公室と私室の領域は、廊下で一旦区切られる
(ⅳ)LDは、一体の空間であり、キッチンはこれと分離する
(ⅴ)トイレ・洗面の水周りも集中したバスルームを1室だけ有する
[松本正富・岩下恵美子他 2002, pp118-119]
図1.6;A-1タイプのDH [小泉和子 1999, p91]
図1.7;タイプA-1(左)A-2(右)の平面図 [小泉和子 1999, p92]
19 第1章文献目録
岩下恵美子. 「立川・昭島地区における米軍ハウスの居住実態調査-日米のLIFESTYLEの比較を通して-」. (2002 年度修士論文), 工学院大学大学院, 2002.
篠原武史・北川哲・篠崎正彦. 「居住者の住まい方の意識について-入間川地区に現存する米軍ハウスの現況に関 する研究その2-」. 『日本建築学会学術講演梗概集』, 日本建築学会, 2010, pp199-200.
篠原武史・北川哲・篠崎正彦. 「増改築の部位と改変内容の現況-入間川地区に現存する米軍ハウスの現況に関す る研究その1-」. 『日本建築学会学術講演梗概集』 , 日本建築学会, 2010, pp197-198.
小泉和子. 『占領軍住宅の記録』. 第 上 巻. 住まいの図書出版, 1999.
小林実(財団法人地域活性化センター理事長). “「地域ブランド・マネジメントの現状と課題 調査研究報告書」.”
財 団 法 人 地 域 活 性 化 セ ン タ ー . 2007 年 3 月 . www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/7_consultkenkyu/docu/tyousaH17_tiikiburando.pdf [ア ク セ ス 日: 2014年1月15日].
松本正富・岩下恵美子他. 「立川米軍ハウスの居住者の構築にみる現代居住の要望」. 『研究年報』, 住総研, 2002, NO.29,pp109-119.
田上健一 . “「米式住宅の再生に関する研究」 .” 『日本建築学会研究報告. 九州支部』 NO .39, pp5-8 社団 法人日本建築学会, 2000: NO .39, pp5-8.
田上健一. 「沖縄における米式住宅の非居住機能への転用に関する研究」. 『日本建築学会計画系論文集』, 日本 建築学会, 2004, NO.586,pp9-16.
田上健一・上江田常実. 「米式住宅の住みこなしにみる適応と不適応」. 『日本建築学会研究報告』, 九州支部: 日 本建築学会, 2003, NO.42,pp101-104.
福 生 市. 位 置 と 地 勢. http://www.city.fussa.tokyo.jp/municipal/aboutfussa/profile/m1cpmb00000086c2.html [アクセス日: 2013年1月20日].
—. “福生市の現状.” 福生市HP. 2008. site:www.city.fussa.tokyo.jp [アクセス日: 2014年年1月7日].
福生市史編さん委員会. 『福生市史』 . 第 下 巻. 福生市, 1995.
福生市役所. 『福生市と横田基地』. 福生市, 2011.
20
第 2 章
福生市の変遷と所有者にとっての米軍ハウスの役割
21 2-1;福生市の変遷
2-1-1;福生市の人口推移
福生市の人口推移と人口増加率を見ると 2 度の急激な人口増加期があることがわかる。それは 1940年から1955年にかけてと1960年から1975年にかけてである。その要因としてまず、前者は、
旧日本陸軍多摩飛行場と米軍横田基地開設、後者は、市街化が影響していると考えられる。その詳 細を、飛行場建設と基地開設の動きと産業構造の変化、市街化の様子を見ることで明らかにする。
グラフ2.1;福生市の人口推移と人口増加率(住民基本台帳各年1月1日現在)
2-1-2;旧日本陸軍多摩飛行場と米軍横田基地の開設
昭和初期まで、養蚕を中心とした農村地帯であった福生町は、旧日本陸軍多摩飛行場の建設と 旧陸軍関係の諸施設が移設により、軍事都市としての発展していった。第2次世界大戦後、GHQ によって旧陸軍多摩飛行場は接収され、米軍横田基地が開設される。『福生市史』『福生町誌』を 参照すると、基地建設事業によって、人口増加する一方で、新たに流入した米軍兵相手の風俗関 係者、米軍関係者の存在がもたらす環境問題の発生など、基地の街として変化が見られる様子が わかる。
【旧日本陸軍多摩飛行場建設前の福生町の様子】
地域の東側から西に位置する多摩川に向かい3つの段上になっている地形とその大部分に関東 ローム層が広がる福生町は、ほとんどが畑地であり、昭和初期までは、養蚕を主とした農村地 帯として発展してきた。1894年民営の青梅鉄道12が敷設され、福生駅が開業されたことで、商 店や工場が立地するようになり、都市的要素が入ってくる。そんな福生の様子が一変するのは、
1940年に旧日本陸軍多摩飛行場が設置されてからである。
[福生市史編さん委員会 1995, p425]
12 現在のJR青梅線
6005 6370 7921 9918 14669 18173 20557 29113
37943
45418 48793 51457
57141 60207 60288 59473 58122
106 124 125 148 124 113 142 130 120 107 105 111 105 100 99 98 人口(人) 人口増加率(%)
22 【旧日本陸軍多摩飛行場建設に関して】
飛行場建設以前、福生の台地上は、利用し難い場所であったため、そこに目をつけた日本陸軍 航空本部は、1939年福生村に対し、飛行場建設による土地売却の令達を行い、関係地主の合意 のもと、土地の売り渡しが成立する。そして町の北東部に飛行場を作ると、さらに陸軍航空審 査部、陸軍整備学校が移設され、軍都として脚光を浴びる。1941 年太平洋戦争の勃発により、
多摩飛行場の重要性は増し、日本の東部防衛の基地に位置づけられた。
[福生町誌編さん委員会 1960, p245、p249]
【横田基地開設について】
1945年終戦を迎えると、旧日本陸軍多摩飛行場には、米軍第一騎兵師団一個中隊が進駐してく る。翌年、第3爆撃飛行大隊が進駐、公式に横田基地が開設される。米軍基地建設・拡張工事 などにより、町は急速に活気づいた。職を求めて町に移住するもの、工事を請け負った大手企 業の労働者など、町の人口も急増した。
[福生市史編さん委員会 1995, p453]
【基地開設による影響】
米軍兵相手の街娼婦、風俗関係業者も多数入ってきたことから、実在人口よりも多い配給人口
(幽霊人口)の存在、米軍関係者の存在からもたらされるゴミ問題、道路交通、消防、風紀の 乱れなど様々な問題への対処が必要であった。
[福生市史編さん委員会 1995, p426]
2-1-3;産業構造の変化 1)飛行場設置以前の産業
1889 年に市町村制が施行されて以降、福生村・熊川村13は、両村で組合役場を設け、事務処理 等を共同で行っていた。1937年の福生・熊川村において全戸数1056戸の内、農家戸数が481戸、
商業戸数が206戸、工業が69戸、その他が300戸となっており、半数近い数が、農業従事者で あったことがわかる(図2.1)。また、土地利用構成比は、畑地が54%を占め、田が、4%であるた め、圧倒的に畑作地帯であったことがわかる(図2.2)。
産業別生産額に注目してみると農業は、全体の約16%にあたり、工業が78%である。その中で も、紡繊工業が多く占めていた事がわかる。そのため、農業も養蚕によるものが農業の中の約50%
を占めていた。飛行場設置以前の福生・熊川一帯は、養蚕業と紡繊工業を中心に発展してきたこ とがわかる(表2.1)。
13 現福生市域
23
図2.1(左);福生・熊川村両村における産業別戸数の割合(1937年)(単位;戸)
[福生市史編さん委員会 1995, p558]より作図
図2.2(右);福生村・熊川村の土地利用構成比(1937年)
[福生市史編さん委員会 1995, p558]より作図
表2.1;福生・熊川村産業別生産額(1937年)
総額 工業 農業 林業 畜産 水産
総額 内紡繊工業 総額 内養蚕 1,541,170円 1,198,995
円
970,403円 243,445円 129,957円 32,307 円
66,051 円
362円
割合 約78% - 約16% - 約2% 約4% - 紡繊・養蚕の
占める割合
- 約81% - 約53% - - -
[福生市史編さん委員会 1995, p561]より作表 2)横田基地開設以降の産業の変化
戦後直後の福生町の産業別人口の資料は存在していないが、横田基地開設から 5 年後からの産 業別人口構成の推移(グラフ2.1)を参照すると、1950年は、農業従事者などの第1次産業は、
922人で全体の約15%、鉱業、建設業、製造業などの第2次産業は28%、卸、サービス業、小売、
公務、その他などの第3次産業は全体の56%であった。
第3次産業の中で、サービス業に限ると、1950年は、1329人で全体の21%を占める。その後 1955 年に、35%を占め、1960 年まで高い割合を示している。『福生町誌』では、「福生町よりも 人口の多い青梅市と比べ、飲食店数が勝っているのは、基地関連産業の影響である」と述べてい る [福生町誌編さん委員会 1960, p143]。基地関連産業の特色として、基地勤務が多いだけでなく、
卸小売やサービス業など基地に関連した職業従事者が多いことであった。具体的には、貴金属商、
土産物商・自動車修理業などが多く、その他接客業では、飲食、クリーニング、旅館、洋裁、バ ーテン、給仕などがあげられる。グラフを参照すると1960年まで福生町の経済活動は、基地関連
農業, 481
工業, 206 商業, 69
その他, 300
宅地 8%
田 4%
畑地 54%
雑地 34%
24 産業などサービス業の割合が高く、1960年以降、その他の第3次産業や第2次産業などの割合が 高くなっていったことがわかる。一方、第1次産業に従事する人は、1950年から1960年までの 10年間で半減している。1965年から1970年にかけてさらに半分以下となっている。
グラフ2.1;産業別人口構成の推移(1950年-1970年) [福生市史編さん委員会 1995, p558]より作図
(3)飛行場建設・基地開設による産業構造の変化
飛行場建設と基地開設によって、福生町の産業構造に大きな変化が見られた。飛行場建設前は、
養蚕を中心とする農村地帯であったが、飛行場建設、基地開設後は、特に米軍兵とその家族相手 のサービス業を中心とする第3次産業に従事する人口が増えた、一方で農業など第1次産業に従 事する人口は減少していった。
2-1-4;市街化の動き
グラフ2.2は、福生市における年別の農地の転用状況である。畑は、1960年から1965年の間と 1971年に大きな転用が行われている。田に関しては、1971年から1975年に多くの転用がみられる。
農地の転用は主にこの時期に行われた大規模公共事業の影響であると考えられる(表2.2)。 この結果 1970年には、人口 37000人に到達し、福生町は市政を施行し、福生市が誕生する [福 生市史編さん委員会 1995, p518]。その後も畑の農地転用は、毎年約 5万㎡の規模で行われ、農地 の減少は進んでいった。
1950年 1955年 1960年 1965年 1970年
第1次(人) 922 818 490 477 175 第2次(人) 1738 2113 2714 4645 7887 第3次(人) 3442 5007 6663 8887 13101 内サービス業 1329 2805 3017 3221 4113
0 2000 4000 6000 8000 10000 12000 14000
25
グラフ2.2;福生市における年別農地転用状況 [福生市史編さん委員会 1995, p580]より作図
表2.2;福生市の大規模公共事業の変遷
年 公共事業名
1961年 武蔵野・鍋ケ谷戸地区における都営住宅308戸完成 1963年 都立武蔵野工業高等学校開校
熊川団地入居開始 1964年 第五都営住宅入居開始
1966年 東京都住宅供給公社の加美平団地(1042戸)工事開始 1969年 福生町立第五小学校開校
1971年 都立福生高等学校開校 福生市立福生第六小学校開校
1972年 日本住宅公団、多摩河原用地工事開始 1974年 福生市立福生第七小学校開校
福生市立第三中学校開校
[福生市史編さん委員会 1995, p581] より作表 2-1-5;福生の風景の移り変わり
福生の風景は、第2次世界大戦前の桑畑が広がる農村地帯であったが、戦後の米軍横田基地が開 設されたことで、基地の街として、産業構造を大きく変化させていった。1960年までは、米軍兵と その家族相手のサービス業を中心とする第3次産業従事者の増加、そして1960年以降、大規模公共 事業が開始され、その他の第3次産業や第2次産業従事者が増加していった。一方で、公共事業に よる農地の転用で、街は市街化していった様子がわかる。
その中で、農業など第1次産業従事者は、1960年以前と1965年以降で2度、大きく減少してい ることが判明した。後者は、前項でも見たとおり、大規模公共事業の影響であったと考えられる。
前者は、米軍ハウス建設による影響が考えられる。詳細は次節で明らかにする。
0 20000 40000 60000 80000 100000 120000 140000 160000
㎡ 田
畑
26 2-2;地域の変遷から見るハウス所有者の動きと米軍ハウスの役割の変化
2-2-1米軍ハウス建設経緯と米軍ハウス建設の急増の背景
1)米軍基地の動き
1950年の朝鮮戦争勃発によって、B-29爆撃機を主力とする第92、98爆撃隊、第35戦闘機連 隊が駐留し、横田基地は、朝鮮戦争の主要基地となり、米軍人の数が増加していく。1951年には、
日米講和条約14を結び、日本は、横田基地を米国に提供した。そして基地内の米軍兵がアメリカ本 土から米軍家族を呼ぶことができるようになる。
その結果、横田基地内には、米軍家族用の住宅が不足したため、当時の横田基地司令官スティ ーバ-は、福生町に対して、民間地への家族住居の建設を依頼する。福生町は、一般町民から米 軍ハウス建設者を募集した [福生市史編さん委員会 1995, p577]。当時の具体的な軍人数や住宅の 状況に関しての資料は存在していないが、1952年10月の福生新聞には、このような記述がみら れる。
【スティーバ-の会見内容】
-アメリカの軍人が日本婦人(街娼婦)を抱いて街を歩いている姿は、決して日米親善のため にはマイナスとなってもプラスにはなっていない。今ベースには500戸のハウスがあるが、そ の半分は、立川基地で使っているので。200戸ほど不足している。従来の置屋15だった家の内部 を少し改造しさえすれば、米軍関係の家族用の住居にもなるし、また日本人使用人の家族用、
あるいは、寮としてどしどし貸してほしい。そうして街が浄化されれば、ベース内の家族も町 に買い物に出るだろう。それは、町としては、街娼婦に代わる新しい購買力となるのである-
(略)……と街娼婦の街、福生、よりもアメリカ人家族の住む街への転換を示して正しく繁栄 する福生町に替わることを祈念している力強い言葉であった。
[福生新聞社 1952]
「力強い言葉」という言葉の通り、戦後直後から米軍兵相手の街娼婦の出現など、風紀が乱れ ていた基地周辺地域に対して、多くの対策を練ってきた福生町が、前向きに米軍ハウス建設に乗 り出そうとする様子がわかる新聞記事である。この後、同年12月の同新聞16では、20戸の置屋の 駐留軍ハウスへの転用、翌年の1953年8月の同新聞17には、隣接する拝島村に事業家による50 戸のハウス建設事業に記事が出ており、この頃から米軍ハウス建設が始まったことがわかる。
『福生町史』によると米軍ハウス建設は、「1954年から始まり、1957 年、1958 年をピークに 年間200戸から300戸ずつ建てられ、1959年、1960年には、下火になったが、1960年の段階 で1700戸の米軍ハウスが建設されている」と書かれている [福生町誌編さん委員会 1960, p251]。
建設開始からわずか6年間で米軍ハウス建設は、急増した。
14 日本は、占領から開放されると同時に米軍基地の常駐を認める結果となる。
15 米軍兵を相手に商売を行う日本人女性のために貸し出していた部屋を指す。
16 [福生新聞社 1952]
17 [福生新聞社 1953]
27 2)農地の米軍ハウスへの転用
戦後、GHQ司令部が行った農地改革18の結果、一時的に専業農家が増加した。しかし、グラフ 2.3を見てみると専業農家の数は1954年から1959年にかけて30戸減少している。兼業農家の上 昇が見られる年もあるが、それは、専業が兼業になることによるものと考えられる。兼業の農家 自体の数も減少傾向にある [福生町誌編さん委員会 1960, p579]。農地改革により、小規模自作農 が増え、そのまま宅地へ転化する農家が増えたことが推測できる。この時期と重なっているのが 米軍ハウス建設である。
グラフ2.3;福生町における専業・兼業農家の推移(1953年-1960年)
[福生町誌編さん委員会 1960, p578]より作図
図2.3 1960年代の横田基地前に広がる米軍ハウス 地域住民より提供
18GHQ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーによって1945年に実施された土地制度改革のこと 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 専業(戸) 90 134 113 99 102 95 56 63 兼業(戸) 527 455 476 486 471 455 485 452
0 100 200 300 400 500 600
28 3)米軍ハウス建設急増の背景
『福生町誌』では1958年から福生羽村瑞穂地域で東京都農業改良普及委員をやっていたK 氏が、『ふっさっ子第4集』「消え去るか?福生の農業の中で」を引用し、当時の農家の様子を 以下の様に記している。また、米軍ハウスについて振り返る記事が1966年8月の『広報ふっさ』
に出ている。2つの記事からも分かる通り、建設当時の1950年代の農業経営の不振の様子がわ かる。また「ハウスブーム」と表現するほど、高額な家賃収入の見込みがある米軍ハウスの賃 貸経営に転化する農家が急増していた、その背景を読み取ることが出来る。さらに別の視点か ら米軍ハウス建設を行っていたことがわかる記事が2002年の朝日新聞で掲載されている。
戦後米軍が横田基地に入り、福生は文字通り、基地の町となったことです。これは農業にも 少なからず影響がありました。それは、米軍人やその家族の住む家が建てられたことです。
畑をつぶし、そこにハウスと称する米人向けの貸家を建てますと、日本人の貸家よりはるか に高い家賃収入があったわけです。そのため、たくさんの農家がこのハウスを持つようにな りました。そして畑もだいぶ潰れたわけです。(略)そして兼業農家が増え始め、俗に言う日 曜百姓の誕生となりました。
[福生町誌編さん委員会 1960, p577]
はじめは、1ヶ月36000円の家賃19という条件で400戸建てられました。乏しい収入に依存 していた農家の人達が、これを見逃すはずがなく、競ってハウス建設を始め、町はハウスブ ームにあおられました。
[福生町役場 1966]
当時横田基地周辺で100軒ほどのハウスを賃貸していた福生市のMさん(80)によると「と りあえず自宅の周りに8軒建てたら建築途中からアメリカさんが見に来て、たちまち満員に なったんです。一発勝負でした」(略)手応えを感じた M さんは、ベース周辺の土地を購入 し、数10軒単位でハウス事業を拡大した。後を追うようにして周辺地域の投資家たちが加わ った。基地周りにハウスが次々に広がっていった。
[朝日新聞社 2002]
以上のように米軍ハウス建設は、農家の宅地転用のように土地の所有者自身が行った場合と、
土地を買収し、大規模に不動産経営を行っていた場合と2つの経緯があることがわかる。
『福生町誌』の談話記録20によると、米軍ハウスの福生の所有は、300,400棟程度であり、その 他は、福生以外の所有という記述も見られ、不動産投資が大規模に行われていた様子がわかる。
19当時の一般家庭の1ヶ月の家賃は、約4000円であった。 [荒居直人 2002, p92]
20 [福生町誌編さん委員会 1960, p257]
29
2-2-2;ハウス所有者組織の設立とその実態
1)ハウス所有者組織の設立
米軍ハウスの数とともにハウス所有者も増加した。そして1954年に最初のハウス所有者組織が 結成される。結成の経緯を 1954年 2 月の福生新聞を参照する。結成の目的は、ハウス所有者同 士の連絡や情報交換・提供・防犯・家賃の適正化を主に行っていた。家賃に関しては、米軍側が、
建設された各米軍ハウスに対して年次査定を行っており、消防機能・ハウスの施設機能・衛生機 能等 14項目によりランク付けを行い、家賃査定を行っていた。つまり、ハウス所有者は米軍基 地側と直接交渉を行わなければいけなかった。
さらに 1956年11月の福生新聞21では、立川砂川南部地域のハウス所有者組織の記事を載せて いることから基地周辺の各地域にハウス所有者組織が結成されていた様子がわかる。多くのハウ ス所有者組織が結成される中、1957年12月の福生新聞22には、「基地ハウス組合は反発する」と いう記事が出ている。これは米軍基地側の一方的な家賃の引下げに反発する記事であり、基地側 とハウス所有者側には一方的な力関係が見える。そのため同年、新たなハウス所有者組織、横田 ハウス協会が設立された。この組織の目的は、表2.3のとおりである。組織結成の最大の目的は、
家賃の査定に関する米軍側との公正な交渉を唱えることである。これは今までの組織と異なり、
ハウス所有者の利益擁護のため、米軍基地側と対等な関係を維持する組織であることがわかる。
その後、横田ハウス協会は1965年に1523戸の米軍ハウスを管理するまでになり、福生における 最大のハウス所有者組織となった。
このほかに福生・瑞穂において4 つほどのハウス所有者組織が確認できているが、現在正式な 資料が存在していない。また、ハウス所有者組織に属さないで活動を行っていた場合も少数なが ら存在していた。
米軍向け貸家業者は、互いに連絡して、サービスの改善、防犯、家賃の適正化、米軍人の要望 周知方などをすることを目的に1954年1月24日に米軍家族住宅協力会を結成し、(略)なお 現在のところ組合員は32名70戸、未加入者、米軍人向け貸家の建設希望者は、一応協力会に 照合されることを希望している。
[福生新聞社 1954]
表2.3;横田ハウス協会活動目的
1.米軍でやる家賃の査定へ立ち合うこと
2.組合員所有のハウスには、一連番号の標識を附して登録しておくこと 3.米軍の入居を紹介すること
4.家賃その他の問題につき基地側と連絡折衝すること 5.そのほかの家主の利益擁護に関すること
[横田ハウス協会 1957]
21 [福生新聞社 1956]
22 [福生新聞社 1957]
30 2)横田ハウス協会の概要
ハウス所有者組織の中で最大の規模であった横田ハウス協会の概要を福生市郷土資料室より提 供していただいた資料iを元にまとめる(表2.4)。
役員は33名で構成されている。主に地元の名望家であることが多い。特に組織の発起人でハウ ス協会会長は、福生市の建設会社の会長でもあり、福生町議会議長を務め、最終的に都議会議員 になった人物で、福生町ではかなりの権力者であったと考えられる。協会に所属するハウス所有 者の正確な数は不明であるが、福生新聞によると23、1958年1月の創設総会には約200名の参加 者という記事が見られ、組織の規模の大きさが伺える。
また、基地側とのやりとりがスムーズに対応できるように通訳を雇われていた。この当時に英 語が話すことが出来るハウス所有者は少なく、ハウス所有者組織に加入しなければ、米軍ハウス の賃貸業を行えなかったため、多くのハウス所有者が加入していたと考えられる。
表2.4;横田ハウス協会概要
活動目的 1.米軍が行う家賃の査定へ立ち合うこと
2.組合員所有のハウスには、一連番号の標識を附して登録しておくこと
3.米軍の入居を紹介すること24
4.家賃その他の問題につき基地側と連絡折衝すること 5.そのほかの家主の利益擁護に関すること
組織構成 役員 :33名 協会員:不明 事務員:2名 通訳 :1名
運営期間 1957年(昭和32年)8月4日‐不明
協会所属米軍ハウス 結成時約1400戸(1957年)→1523戸(1961年)
主な活動内容 米軍との交渉(協会所属のハウス入居の優先・査定内容に就いて)
月報発行による協会員内への情報共有 税務に関する処理
米軍ハウスの設備に関する情報提供 会員旅行
会計管理
組織活動資金 協会費(米軍ハウス1軒に付き月額100円)
問題意識 協会側と米軍との査定交渉について 米軍ハウスの空き家問題
協会内の秩序
(協会費未納者・家賃を査定額よりも下げる・米軍兵以外に貸す)
23 [福生新聞社 1958]
24米軍ハウスは、米軍兵以外に対しての貸出は禁止されていた
31 3)主な活動内容
組織の活動内容を把握するために福生市郷土資料室より提供していただいた横田ハウス協会 発行資料の分類を行った。大きく分けると以下の表2.5のようになる。資料は、1957年7月の 組織結成から1961年12月まで43点であった。
定期総会は、年に1度、役員の選出や予算・会計報告をしていた。役員会は、月に1度、組 織の課題や米軍から情報についての報告を行っていた。
米軍側の一方的な家賃引き下げに対応すべく、ハウス所有者側と米軍側の間に結成されたハ ウス所有者組織であったため、やはり管理に関する情報提供は、頻繁に行われていた。空き家 の対策や査定をスムーズに行うための工夫として、具体的には、標識番号の設置である。P-1 や A-1 のような標識が米軍ハウスには見られる。これはハウス協会の名残でこの標識番号を目印 に米軍側に仲介を行っていた。
また、1960年から月報の発行を始め、協会員内への情報共有、会員の秩序統制が行われてい た。そのほかに、税務に関する処理のお知らせや基地側からの指定がある米軍ハウスの設備に 関する情報を提供していた。設備に関しては、当時、最新であったボイラーの設置などについ ての情報提供や火災の注意を呼びかけるものであった。
表2.5;横田協会発行資料の分類
分類 資料
数
主な活動内容
1.定期総会に関する資料 5点 会計・予算報告
2.役員会に関する資料 9点 会計予算管理・課題解決・基地側との情報交換
3.ハウス管理に関する資料 6点 米軍側との交渉の補佐
4.税務関係 3点 税務に関する処理
5.ハウス設備に関する資料 3点 米軍ハウスの設備に関する情報提供
6.ハウス協会月報資料 9点 協会員内への情報共有
7.会員旅行のお知らせに関する資料 4点 協会員内の交流
8.ハウス協会に関する資料 4点
9.その他 1点
32 4)ハウス所有者組織の問題意識と組織内の秩序の乱れ
1958年11月の福生新聞25に「ハウスの建築は既に飽和状態」と題して、基地内の住宅の整備が 進んでいきており、基地外ハウスをこれ以上建設しても、供給過多が進むだけで利益にはつなが らないことを推測する記事が出ている。しかし、前節でも述べたとおり、その後も米軍ハウスの 建設は続いた。1960年に発行が開始された横田ハウス協会月報には、空き家に関しての記事が目 立つ(表 2.6)。ハウス所有者の利益に直結する空き家に関して、問題意識があることがわかる。
結成当初の問題意識は、米軍側の一方的な家賃の引き下げに対する対等な交渉であったが、米軍 ハウス建設が続き、供給過多が進んだことで、問題意識に変化が見られた。
月報によると、「毎年のように米軍ハウスでは、夏場は空き家が増え、200から300軒になるが、
冬には、100軒程度まで落ち着く」とある。1年でこれほど入れ替わりが激しい原因は、米軍兵の 兵役に関係すると考えられる。米軍兵は一般に2-3年で基地間の移動や退役があるため、比較的 流動性が高い。そのため供給過多が進むにつれ、次第に次の入居者が決まらないといったことが 起きていた。このような状況のなかで、査定額よりも家賃を引き下げることで入居者を獲得しよ うとする者やハウス協会の仲介を挟まず直接米軍兵と交渉を行う者、協会費を未納する者が現れ るなど、ハウス所有者組織の秩序は乱れていった。1960年の協会会計報告によると協会費の未納 額は、3割強に及んでいる。
ハウス協会は空き家対策として、空き家リストの作成や基地側に対して、優先的に協会所属の ハウスへの入居補助を依頼していたが、実際に空き家リストが作成されたという記述はみられな いことやその後も空き家の記事が続いていることから、なかなか改善されなかった様子である。
空き家対策に翻弄しているハウス協会に追い打ちを掛けるように起きたのが、横田基地の変化 である。1960年11月の月報号外では、「基地外ハウス不必要時代来るか?米軍家族引揚げ」とし て米軍基地の再編の動きを掲載、基地外の米軍ハウスが不必要な時代が来ることを危惧している。
その対策としてハウス協会では、値下げの防止、新規投資の抑制、規制家屋の利用方法を改め ることや協会以外の米軍ハウスの貸し出し禁止の申し入れなどを考えていた。また、新たに日本 人向けへの転用として公団住宅、会社住宅への転用、また福生町を中心として商工会との連携で まちぐるみで対策を練るという新たな方向性も視野に入れていた。
実際この記事の直後に横田基地において大規模な兵隊の引揚げは行われることはなかったが、
この時期から在日米軍基地の再編成が行われていく。米軍基地の再編成の動きを次項で見ていく。
25 [福生新聞社 1958]
33
表2.6;横田ハウス協会月報記事について
ハウス協会月報第1号 1960年(昭和35年)8月
記事1;「月報」発行に関して ご挨拶
記事2;米駐留軍と協会との交渉
記事3;協会事務所便り
記事4(別項);査定表上主な改定箇所(1961年1月1日発)
ハウス協会月報第2号 1960年(昭和35年)9月
記事1;ガスの引き込みについては
記事2;空き家をなくすための協会の処置
記事3;協会費未納者を一掃しよう!
記事4;協会事務所便り
ハウス協会月報第3号 1960年(昭和35年)10月
記事1;定例交渉決定事項
記事2;貸家の転用を望まれる方へ
記事3;協会事務所便り
ハウス協会月報第4号 1960年(昭和35年)11月
記事1;最近の検査状況
記事2;値下げを慎みましょう
記事3;協会事務所便り
ハウス協会月報号外 1960(昭和35年)11月
記事1;基地外ハウス不必要時代来るか?米軍家族引上げ
ハウス協会月報第5号 1960年(昭和35年)12月
記事1;協会空き家今後の対策 泥縄式でなければよいが?
記事2;査定合同委員会“笛吹けどの”改正案 関心はもっぱら空き家の事
記事3;“税務懇談会”雑見
記事4;協会事務所便り
ハウス協会月報新年号 1961年(昭和35年)1月
記事1;役員挨拶
記事2;新春所感
記事3;固定資産税減税対策
記事4;協会事務所便り
ハウス協会月報第6号 1961年(昭和36年)3月
記事1;協会近況(題して風流無想?)
記事2;年次査定および税務関係事項
記事3;協会費納入の件
記事4;昭和36年度固定資産税評価格の決定に就いて ハウス協会月報第7号
1961年(昭和36年)夏
記事1;夏かれ空き家に就いて
記事2;空き家対策について
記事3;総会について
記事4;検査について
記事5;年次査定進行状況
横田ハウス協会発行資料より作表
34
2-2-3;在日米軍基地の再編成とアメリカ経済の影響
1)在日米軍基地の再編成と基地内住宅の整備
表2.7はアメリカ軍の極東戦略と横田基地の再編成の動きである。1963年、アメリカは、在日 米軍の縮小再配備計画を発表した。ベトナム戦争では横田基地は、極東の戦闘部隊の主要基地で あったがその後、再配備が行われ、1971年には戦術基地から空輸中継基地へ機能変更が行われた。
その結果、横田基地の軍人や家族併せて、約5000名の削減が行われた。さらに1973年には、関 東計画を発表、首都圏の米軍基地を横田基地に集中させる代わりに基地内住宅の整備が整ってい った。基地内人口推移(グラフ2.4)は、1970年から5年毎のデータしか存在していないため、
1975 年までに基地内人口は増加しているが、1971 年に再配備により、軍人・軍人家族約 5000 人減少しており、さらにその後の関東計画により、1971 年、1973 年にかけて、横田基地内の住 宅約1300戸の建設が行われている。そして1977年までに1500戸の基地内の住宅の整備を整え た。
つまり、1960年以降すでに供給過多が進んでいたとされる基地外に存在する米軍ハウスは、実 質的に不必要になったと考えられる。この時期のハウス所有者に関する資料は存在していないた め、当時の様子は正確には把握できないが、この時期から米軍ハウスには日本人居住がみられ始 めることから、ハウス所有者組織は実質的に機能していなかったと推測される。
グラフ2.4;横田基地内人口の推移(1970年‐1980年)
[福生市役所 2011, p25]より作図
表2.7;米軍の極東戦略と横田基地の再編成の動き(1963年-1980年)
1970年 1975年 1980年
軍人軍属(人) 7,100 6700 4600
家族(人) 6000 8000 5500
計(人) 13100 14700 10100 0
2,000 4,000 6,000 8,000 10,000 12,000 14,000 16,000