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主題把握指導論史の研究

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(1)

主題把握指導論史の研究

後 藤 恒 允

A StudyoftheHi stor yofTheor i es onGui di ngMethodsf orCh‖dr en

toSei zetheTheme Poi ntsoftheTeachi ngMater i al s

Tsuneyos■Goto

は じ め に

われわれ に とって こ とば を 「 正確 に理解 し適切 に表現す る」( 学習指導要領)こ とは,社会生活 を営 んでい くうえで どうして も必要 な条件 である とともに, それ を着実 に実行 す るこ とが なか な か容易 ではないこ とも日常生活で しば しば実感す る ところである。国語教育で も 「 理解」の指導 事項の第一 目標 に 「 話や文章の主題や要 旨を欽逆 に即 して的確 に とらえるこ と」 ( 同) をかが ず,

また 「表現」の指導事項 では 「 構成 を工夫 し,主題や論 旨が明確 になるよ うに表現 す るこ と」 に 重点 をおいて, 冒頭 に述べ た 目標 を達成 しよ うとしてい る。

ただ, ここで,説明的文章 を論証的 な意味 に縮約 して 「 要 旨」 を的確 に とらえるこ とと,文学 的文章 の 「 主題」 を的確 に とらえるこ とは異質の作用であることをは っき りさせ ておかねば な ら ない。 なぜ なら,前者の言語が明示的,一義的で あるの に対 し,後者の言語 は暗示的, 多義 的, 象徴的 であるか らである

.W.

イーザ‑は,文学的文章の 「 意味 はイメー ジの中に しか現れ ない」

し , 「 作 品の意味 は,論証可能 な意味 に切 りつめ ることがで き」ず , 「< もの >の よ うに取 り扱 え」

ない とい う

(

1 ) 。仮 に文学的文章 を論証可能 な意味 に切 りつめ概 念化す るよ うに指導 した として も, それは, イメー ジの中にあ らわれ る意味 をよ り鮮明 にさせ るための手段 であって,文学的文章指 導の最終 目標 とはな らない。文学 とい う具体 的 な形象 を,短 いこ とば に縮約 し概 念化す るこ とに よって抽象化す るこ とは,文学的文章 の読 みの指導 とはいえない。

ところが,長 い間わが国の読みの基礎理論 であった解釈学 は,文学的文章か ら,作家の「 意図」

を普遍的 な真理 として分離す るよ う教 師や学習者 に求めて きた。 イーザ一 によれば,解釈学 は芸 術作品 を 「 真理 を完全 な姿で表す機関 ( オルガ ノン) 」 と考 え, そこに隠 された普遍的 な意味 を, 読者主体 とは分散 して客観的 に掘 り出す こ とを目的 としたのであった。 けれ ども, こうした ロゴ ス中心 の神話 は分析批評や記号学 ( 請)に よって破 られた。 ロラン ・バル トは 「 作 品か らテ クス トへ」 を提 唱 し, また , 「 作者の死」 を宣言 してテ クス トか ら作者 を捨象 し , 「 読者 の誕生」 を告 げる( 2 ) 。テ クス トは,読者の主体 的 な参加 な しには織 り上 げ られ ない し , 「 一個 の普 遍的記号 とし て機能」す る 「 作 品」 は, もはや 問題 とはな らない。分析批評 において も,作者 よ りテ クス トを 優先 させ , 「 作者の意図」 を問題 にす るとい うこ とはない。

しか し,問題 は,イーザ‑が指摘す るよ うに「 今 なお普 遍性 を標梼す る解釈規範が生 き長 らえ」,

「 意味 とは メッセー ジや生 の哲学」とい う考 えが根強 く残存 しているこ とである. イーザ‑は, こ

うした伝統的解釈規範が生 きなが らえ得 た姿 を 「 分析批評」に もみ る0 「 分析批評」は確 かに 「 芸

術作品の形態面の構造 とその外的連関 を分離 し,形態構造 その もの をテーマ とし 」 「 意味探求の放

棄は された ものの」,作品価値 を作 品の要素 間に調和が成立 しているか どうか によって測定 した点

(2)

で, なお古典 的解釈規範が放棄 されていない とす る。 イーザーは , 「 分析批評」がテ クス トの もっ 受容作用の機能 にふれていない点 に不満 をあ らわすので ある。

イーザ一 に とって, イメー ジの中に現 れ る意味 とは 「テ クス トの記号 と読者の理解行為 との相 互作用の産物」であった。読者はテ クス ト構造の呼 びが ナに, 自分 の コンテ クス トをもって応 じ, 独 自の意味 内容 を形成す る。 こうした 「 受容作用」 では読者主体 に とっての意味 しか問題 になら ない。イーザ‑は , 「テ クス トの意味構成が有意的 となるのは,読者がテ クス トの呼 びか けに応 じ て意味構成 をす る過程で,読者 自身になにかが生 じる場合 をおいてない」とい う。 その 「なにか」

は,読者一人ひ とり異なる, テクス トとのかかわ りによって生 じた認識であ る。国語教育 ではそ れ を尊重す るとともに,互 いの認識 を披渡 し,話 し合 うこ とによって各 自の認識 を深め合 うよう な指導が望 まれ る。

以上 , 主題」の とらえ方 につ いて,解釈苧‑分析批評一読者論‑記号学 とい う流れに治 って概 観 した。読者論 的主音論 は現在では もはや 自明の こ とか もしれない。 しか し,主題把握指導 はな お 「 混迷

(3)

」の状態 にあ り, そ こには, これ まで主題の概 念規定や主題把握指導の方法 をめ ぐって 展開 されて きた諸理論 が複雑 にせ め ぎ合 ってい る混迷 の様相 が原因 としてあ る。本稿 は, こ うし た混迷 に関係秩序 を見出 し,史的展開の相 を理論的 に明 らか に しよ うとす る ものであるO そこか ら,実践 に有効 にはた ら く指導原理 をひ き出 し,学習者の認識力の拡充や 人間形成 を促 す手だて につ いて考察 してい きたい。

第一章 形象理論 ・解釈学理論 におけ る主題把握指導 第一節 垣 内松三 『 国語の力 』

『 国語の力』の発想の根底 に

invention

の問題 がある と指摘 したのは輿水実 で あった

(4)

。『 国語の 力』 に対す る一般的 な評価 は, 内容 ・形式の一元化 された形象 をゲ シタル トとして追体験的 に再 構成す る,全文 法 とい う解釈 の方法 を提唱 した画期的 な意義 にある とす る見方 である。 しか し, 輿水 は , 「 表現学」の立場か ら垣 内のい う 「 国語の力」

「 思想 その もの を生みだす力」 を意味 す ると考 えるのである。事実,垣 内は,解釈が 「 創造的 読 方」た りえるには 「 能産 の作用 を対象」

とす るこ とな しにはあ りえない として,思想 を生みだ し組織 してい く目で文章 を読む こ とを提唱 す るのである。

垣 内は文 法学 を 「 思想 と言語 との純一 なる結合作用 を探求」 し , 「 文の形 よ り一書 ・一語 ・句読 の微 に至 るまで, その表現の作用の生 ける力を見 る」学問である と規定 し, その見方 は同時 に「 読 方綴方の方法的根砥」である とす る。垣 内に とって修辞学 ・ 文法学 は

invention

よ り始 ま り,文 体論 ・文章論か ら措辞法 ・単語論 に移 り,更に これ を創意 に照 らして方法的 に研究す る もの」で あって,読方や綴方の原則 となる ものであった。 ここには形象 を媒介 に して表現 と理会 を一体化

して捉 えよ うとす る立場 が示 されてお り,後述の西 尾や石 山の立論 に影響 を与 える。

さて,思想創造 にあっては 「テーマは作者の インベ ンシ ョンを集 中」 し 「 統一 と組織 を作 りだ す

(5)

」求心 力 をもつO 『 国語の力』にはテーマ と同 じ内包 をもつ 「 主題」 とい う語かつかわれては いない。 しか し , 文 の産 出 された根源」,形象の 「内面 に於 ける統率概 念」 な どの同義語が使用 されてお り, それに 「 想 ひ到 る」 こ とが解釈 で あった。 その意味 で 『 国語の力』 は主題把握指導 論 の出発点 となる。 こ うして表現作用か ら言語象徴 をみ る とき,作者の 「 悪の形」が , 「同時的継 続的仝‑」体 となった 「 意識の流動」 として見透か され るのであって, これ を追体験的 に再構成

した とき , 「 文の形」が顕現す る と説 くのである。

以上 の記述 を もとに して 『 国語の力』の特質 と課題 についてい くつか触れてみ よ う。

(1

) 垣 内は 「 言語 を文化的精神 の所産」 と見てお り,個 人の思想創造の根底 に文化的精神 を置

(3)

くO垣 内理論 にあって 「 主題」 に相 当す るのは この文化的精神 とみて よいC垣 内は この文化 的精神 が どの よ うに して表現 とな りどの よ うに して理解 され るか を究明 した。

(2)

解釈 の対象 を 「 文学」 に限定せ ず,文化的精神の所産 としての言語すべ てにわたって表現 と言表 との関係 を考察 した。

(3)

解釈 の方法 として 「 直下 に 」 「 作者の思想の微妙 なる結晶の形象 を観取」す る全文 法 を説 い た。「 先づ文全体 を洞察 して,それ を全面 に引 き据 ゑた上で,徐 々に解 らぬ言語の解釈 を辞書 に求めて言語の意味 を考‑,文の真意 を提‑ る」 とい う三読法の読解過程 は後 に諸論 の基本

とな り, また垣 内 自身が直観 ・自証 ・証 自証 と整序す る基盤 となる。

しか し,形象 を直観す る方法 その ものが観念的であ り,作者の 「 想の形」 を把握 す るため の表現構造分析 の手続 きも具体性 を欠いた。

(4)

読者 に作者の表現意図 を絶対視 しそれ に帰一す る 「自然 な態度」が要求 され る 。

(5)

読む こ とは 「 与へ られた或物 を感知」す るこ とではな く, 「それ を追 ひ越 して新 らしい路 を 歩み出す」創造作用であるとした。 しか し,読者 に感動体験 を通 して変容の 自覚 を促す とい

う意味 での文学の創造的機能 を見出す にはいたっていない。

垣 内の 『 国語 の力』 は,近代国語教育論 の原点 として,主題把握指導論 において も,賛否両論 に材料 を提供す る源泉 となって影響 を与 える。 その ことは以下 に漸次究明 され よう。

第二節 西尾実 『 国語国文 の教育 』

形象理論 の系譜 に連 な りなが ら

,

『 国語国文の教育』は 『 国語の力』と 「 基本的 な発想の違 い

(6)

をみせ ている。 この こ とを前節であげた( 1ト ( 5) の項 目と関連 させ なが ら考察 してみたい。

まず,垣 内が考察の対象 を全 ての文種 としたのに対 し,西尾 は文学 に限定 し,作 品研究の方法 論 を展開 しようとした。す なわち文学的形象 を 「 作者の主観的感動 」 「 作者生命」の表象化 と規定 し, これ を客観的に認識す る方法体系 を立て よ うとす るのである。垣 内 と同様 に表現作用 と形 象 的認識 を重ねて見 よ うとす る次の一文 は西尾の発想 を集約 している。

作者 の全 存在 を動か して,制作の原動力 となるよ うな感動 は,単 に作者意識上の ことのみでは な く,更 に深 く意識の底 に横 たわる,い まだ意識化せ られ ない深 いいの ちの上の事実で あって, 削作の過程 は、これが漸次 に対象化せ られ客観化せ られてゆ く一つの 自覚作用にはか な らない。

ゆえに, また文 を読む こ とは,作者の主題感動 に触発せ られ, その 自覚の方向に沿 うて, この 展開 の過程 をた どる体 験でな くてはな らぬ。

西尾 は,垣 内が 「 文化意識 」 「 意識の流動 」 「 想」 と観念的に捉 えた内容 を , 「 感動 」 「いの ち」

と情意化 し, しか も表現 も解釈 も 「 主題感動」の 自覚作用 ・認識作用 として同一体験 だ とす るの で ある。

西尾理論 を

invention

か ら見た とき , 「 主題」は表現 の 「 最 も直接 な形成原理」で あ り 「 形象 と して展 開せ られ るべ き種子」である と明確 に規定 され, 作品鑑賞 において も 「まず この主題 を発 見」 し, その 自律的展開の相 を追体験 して再構成す る認識作用が読者 に もとめ られ る。文学的形 象が主題 を萌芽 とす る有機 的生命体 として把握 されてい るところに垣 内理論 との違 いが あるO『 国 語の 力 』で 「同時的継続的同一」体 とせ られた形象 も, ここでは 「 超感覚的具 象的 な統一体 であ

り,時間的発展性 として成立す る作用体系である」 と規定 されている点 に相違 がある。

したがって,形象 を直観 し,表現分析 によってそれ を検証 し確認す る路線 は同 じであって も,

手続 きに違 いが生 じる。西尾 は垣 内理論 を 「 直観 を確立すべ き読みの意義 の方法 もいまだ具体 的

に根基づ け られていない」 と方法論 の弱 きを突 き , 「 素読一解釈 ( 主題一構想一 叙述)‑ 批評」の

読みの体系 を提 唱す る。後年,西尾は 『 国語教育辞典』の 「 主題 の指導」 で主題認識の方法 につ

(4)

いて次 の よ うに述べ る(7)0

文学作 品で も,一般 の言語作 品で も,読解 の 目的 は主題 の理解 で あ る といえるO真 の主題 の決 定 は,印象的 な主題 に よって構 想 ・構成 を吟味 し, さ らに叙述 ・記述 を検 討す るこ とに よって 実証 され な くては な らない。 この よ うな方法的手続 きを尽 くす こ とが解釈 と呼 ばれ る作業 で あ

る。主題 の発 見 は解釈 の 中心 目標 で ある。

西尾の読 みの体 系 につ いて は詳述 を避 け るが 8),植 物 の種 子 た る 「主題 」が 「構 想」 (幹 ) とな り 「叙述」 (枝葉 ) となる よ うな有機 的立体 的体 系 となって い る点 で 『国語 の 力』 とは異 なって い る。主題 の発見 ・理 解 を中心 目標 とした西尾の方法論 は その後 の読解指導 に根 強 い影響 を与 える こ とになった。

しか し, 西 尾の主題把握指 導論 は次 の点か ら検討 されねば な らない。

まず

,

主題 感動」の感動 は作 者の感動 で あって読 み手 の感動 ではない こ とで あ る。な るほ ど「 判」 の段 階 で 「読者 の主観的感動」 が作 品の価値 を判断す る認識作用 と表裏一体 をなす もの とし て重要視 されて い る。 しか し,後述 の よ うに,井 関義久が, まず読 み手が感動 した ところを主題

として仮説 し,感動 の根 拠 を記号表現 に求 め させ る 「分 析批評」 を提 唱 したの に比べ る と,読 み 手の感動 の位 置 は到達 点 と出発点の違 いになる。 この点 につ いて西尾 は後 に問題 意識喚起 の文学 教育論 を提 唱 して 自己修 正 して い く。

また,西尾の提 唱 した読 みの体 系 は,文 学の作 品研究 の方 法で あった。 「素読」にお ける文 学的 形 象の 「直感」といい

,

構想」 で主題 が 自律 的 に展開 してい る「内面 的プ ロ ッ ト」を把握 す るこ と といい,読解指導過程 とす るには観 念的で あ った。西 尾のみ な らず解釈学理論 に よる読解指 導 は, 文学 の作 品構造 を解 明す る撤 密 な理論 に よらない限 り,具体 的 な手がか りを欠いた状態か ら脱す

るこ とがで きなか ったので あ るO

第三 節 石 山僑平 『教育 的解釈学』

石 山の国語教育論 は,西洋近 代解釈学の体験構造論 か ら導 かれ る。石 山に とって表現 とは,戟 と外 界 との相 関関係 が精神 内 に構造化 され た体 験 を外化す るこ とで あ った。 それ は対 象の側 か ら い えば,事 象 と理 念 と情調 との関連構 造で ある。 た とえば

,

古 池

「蛙跳 び込 む (動作)

の音」 とい う芭蕉 に よって選 択 され た特定 の事 象 は, 閑寂 な枯淡 な蝉脱 し切 った 「焦点 ・統一方 向」 に秩序づ け られて意味 を生ず る。芭蕉 が表現 しよ うとした閑寂 な枯 淡 な澄み切 った悟道 の境 地 は芭蕉 に とって望 ま しい価 値 であ り,石 山は これ に [理 念」 と命名す る.

石 山の解釈理論 は,理 念 をギ リシャ語 の イデア あるいはエ イ ドスにあた る とし

,

観照せ られ た 真相, 直観せ られ た本 質」 で あ り

,

超個 人的価 値

価値追 及の永遠 の方 向」 で あ る とした。 か くて 「体 験 は これ に よって始 めて客観 的意味 を帯 び得 る」 こ とになるので あ り,解釈 の普遍妥 当 性 を希 求 した石 山理論 の基点 ともなる。 ただ, 石 山は理 念 を全 く観 念的 に捉 えたのでは な く,理 念 を成 立 させ る 「価値 感受性

価値希求 力」とい った, 感性 的 な価値 意識 と一体 化 した もの とし て捉 えてい るの は注 目され よ う。

体験構造 が 「想化」せ られ言語 に定着 して文 章構 造 となった ものが理 会の対 象 となる。 「文 の事

文 の主題

文 の情報調 」 が文構 造の契機 とな る。

文 の主題 は想 を統一す る理 念で あ るが,石 山はその把捉 に柔軟 な態度 を示 してい る。主題 は文 章 に必ず しも顕在化せ ず,把握 Lが たい とす るので あ る。主題 は 「それ 自身 として作者 に 自覚せ られず,寧 ろ事 象 の観方統一 の仕方 その ものの 中に内在 し,蔽 ほれて ゐ る場合 もあ る」とし

,

全体 を貫 いて謂 はば文 の底 に動 いてゐ る血脈で あ り,無形の 力」 だ として い る。主題 が顕在,港 荏,浸潤 といった 多様 なあ られ方 をす る と考 える石 山理論 は妥 当で あ り, 主題把握指導 の実際 に

(5)

即 している。

石 山は また,主題 を理会す る力は , 「 読者 に於 ける価値希求

「 価値感」であ り , 「 作者が希求す る価値 が読者 に とって もまた望 ましい価値 でなければな ら」 ない とした。読者の積 極的 な働 きか けによて理解 が成立す る と考 える石 山の立場 は,読者論の立場か ら評価 で きよ う。

以上の よ うに,体験構造 ・文章構造 を考察 した基礎作業の上 に立 って石 山は解釈 の実践過程 を 説 く。 主題 に関 していえば,通読段階で仮定的主題 として設定 された主題 は,精読段階で探求決 定 され る。つ ま り主題は 「 作者が原体験 を素材 としてそれ を表現の想 にまで構成す るに当って, 何 を意図 し,如何 なる価値方向 に導かれてそれ を成 したか といふ点の考察であ」って,作者の構想 の指導原理 ・想化作用の中心方向であった。味読段階では,読者の想 と化 した主題 を表現読み と して音声化す る。通読一精読一 味読の三層読みは垣 内理論の乎俗化 として実践の場 に浸透 した。

さて,石 山は 『 教育的解釈学』で理会の普遍妥 当性 を求め ,「 『 読者の悪意独断 を誘 ひ易 さ主観 主義 を排 して,専 ら客観的態度,素直 な読 み方 を強調 した」のであった。 それは,理会の対 象 を 構成 してい る超個 人的法則 に従 って 自己の精神 を構成す る 「 範噂的追構成」によ i ) , 「 認識論上の 真の主観主義 が同時に真 の客観主義 である」 とい う形で保証 され るはずで あった。 しか し,理 会 の普遍妥 当性 は理 会者の精神 の高 さに よって制約 され , 「 理解者のその時々の精神の発達程度 に応 じて常 に相対的」で あ り,理会者の主観 との相互依存の関係 にある。理 会の普遍妥当性 は永遠の 憧博 であって,石 山は,理 会者がそれにむか って 「 只管 に 自己人格 の向上 と一層真筆 なる解釈 に 向って精進すべ きもの」 とす る。

解釈 の深 さは無限で あ り,読者 はその前 に謙虚で なければな らない とす る立場か らみ る とき, 石山の立場 は首肯 され るo Lか し,理 念 ・主題 を読者 ( 理 会者)が帰一 してい く絶対的 な もの と

して とらえ,また理 会の普遍妥 当性 を得 るため読者 に精神主義 を要請 して いる点 に課題が あった。

よりよい解釈 はあって も絶対の解釈 はない とい うこ とは,理会の普遍妥 当性 とい う観点か らでは な く,読者主体 とのかかわ りの面か ら考 え られねばな らない。

第四節 蓑手重則 『 文芸作 品の主題 の理論 と指導 』

前節 まで述べ た三著 に共通 していたこ とは,生の哲学 を主 な基礎理論 とし, また大正末期 か ら 昭和初期 にかけて教材研 究か国語教育論の主潮 をな していた背景 を受 けて,文学研究的国語教育 論の性格 をもっていたこ とで ある。時枝誠記が, この期の国語教育 を 「 読 む こ との,主体 的実践 的活動 の育成ではな く,作品 を生徒 の外 に突 き離 し,一つの客体 として, これ を観察 し研究す る 態度 において これ を把握す るこ とを教育 した

(9)

」 と指摘 したこ とは正鵠 を得ている。

蓑手は こ うした解釈学理論 を継承 しつつ,文学理論 を導入 して主題の概 念 をはっ きりさせ,主 題把握 の手続 きを明 らか に した。本書の敏密 な論理 の展開は,本書がね らった 「 合理的」 な主題 把握指導の方法 を明確 に しているO

蓑手 は,主題 を,動機一 目的一具体 化 ( ①意図‑② 主題‑ .」 笥構 想‑④ 叙述) とい う仮説的 な創 作過程 の中で とらえる。

動機 ( 創作衝動へか りたて る体験) に よって創作の 目的 ( どんな事象 を とりあげて どんな形態 の作品 を善 くか とい う抽 象的 な 目的)が決定 され る。 それ を具体 化す る第一段 階 として,作者は 表現活動 に先立 って,創作の終極 の 目的観 念 ‑作品形象の原型的 な もの ( 意図)を思 い描 く。「 主 題」は具体 化の第二段階 にあ り,「 作品の題材形象に即 して喚起 された作者の主体 的 な価値意識 ( 判 断 ・感情 ・態度)で あ」って , 「 意図」の中核 と観点 を明 らか にす る。主題 は意図 と相互補完 しな が ら 「 作 品の全体形象の形象作用である作 品の取材 ・構想 ・叙述 の全活動 を全‑的 に規定 し統率 する機能 を演ず る」 こ とになるとす る。

‑ 37‑

(6)

裏手 の発 想 には西 尾の解釈 ( 主題一 構 想一 叙述 )の体 系の影響 がみ られ る。 しか し , 「 主題」の 前段階 で動機一 目的一 意 図 とい う,表現 意志 が漸層的 に具 象化 され る姿 を とらえて 「 主題」 の具 体 的 な統率 作用 を明 らか に した点 と , 「 主題」を題材 と一体 化 した作者 の主体 的 な価値意識 として 認識性 を強調 した点 に前進 がみ られ る。

また , 「 構 想」 の契機 として( 1 ) す じ , ( 2) 構成 , ( 3) 場面 , ( 4) 視点 をあげて詳述 し, 「 叙述」 につ い て も,方法 としての説明 ・叙事 ・描写 ・会話 ・文体 ・韻律, 表現 内容 としての人物 ・環境 ・思想 な どをあげて考 察す るな ど,創作技法や レ トリックの面 か ら具体 的 に説明 して いる。 この点 で も 西 尾理論 の観 念性 を越 えて い る。

西 尾理論 との関係 は, 主題把握 につ いて も同 じこ とが いえ よ う。

蓑手 に とって 「 鑑 賞」とは , 「 作 品の表現 形式 を媒 介 として,読者が作者 の体 験 を観 念的 に追体 験 す る活動」で あって, 原理 的 には 「 作 品の再 創作 」 「 創作の過程 の近 似的 な再 現」で あ った。蓑 手 は,主題 一構 想‑ 叙述 の三層読 み と,主題 の直感‑検証‑確 認 とい う三段 法 によって作品形象

を全‑ 的 に読 み とる解釈 学的方法 を継 承す るこ とになる。

蓑手 は しか し,西尾理 論 の 「 全体 形象 に即 して主題 を直感的 に とらえる方法」 にか わ って 「 作 品の題材形象 に即 して主題 を分析 的 に とらえる方法」 を提 唱す る。

( 1 ) 作 品の題 材 を とらえる ‑ ( 2) 題材場面 ご とに部 分主題 を とらえる ‑ ( 3) 題材場面 相互 の関係 を お さえて,部 分主題 を全‑的 に ま とめ る

‑ (4)<

作品の題材形 象 ×作者の価値意識 > とい う 命題文 のか た ちにお いて, 作品の主題 を とらえるO

こ うした 「 合理 的」 な手続 きに よる主題把握指導論 に立 って,蓑手 は 「 主題 はい くとお りで も 存在 す る とか、主題 は読 み手 によって異 なる もの だ とか」とい った,主題複数 説や読 者論 的主題論 を批判 す る。

けれ ど も蓑手 の説 は次 の よ うな点か ら検討 が加 え られねば な らない。

第一 に,創作過程 を,動機 ・目的 ・意図 を経 て主題 が確定 し具体化 され るの だ とす る仮説 は, 創作の実際 の場 では必ず しも成立 しない とい うこ とであ る。文学 作品が必ず しも作者のね らった 意 図 どお りに書 けない もので あるこ とは 多 くの作家 の体 験談 が実証 す る。

第二 に,作家 に よって発信 され た 「 意 図」が,再 現 の過程 で, 「 等質」に 「原型 を保 って」読者 に受信 され るのではな く,読者の主体 的 な判 断 によって変 え られて しま うもので あ る とい う,香 現 の メカニ ズム を考慮せ ねば な らない こ とで あ る。市毛 勝雄 は,鑑 賞 は 「 作者 の想像 力の追体験 で はあ りえ」 ない と蓑手 説 を批判 す る

(10)

第三 に,<作 品の題 材形象 ×作者 の価値 意識 >の く作者 の価値 意識 >が 「 情 緒的, 感傷的」な と らえ方 になって いる点 で ある。

た とえば, Fごん ぎつ ね』 の場合 , 「いたづ らのつ ぐない を しよ うとした孤独 なごん ぎつねの善 意 も , 同 じ孤独 な兵十 の心 には通 じなか ったばか りか, か えって うち殺 されて しまった こ と ( 作 品の題 材形象) は, まこ とに悲 し く痛 ま しい こ とで あ る。 ( 作者 の価値 意識

)

」 と表現 され る。市 毛 は,裏手 白身の 「 個性 的 な判断 を普遍的 な価 値意識」 だ とす るな ら 「 独 断 に陥 る」 危険性 があ

る と指摘 してい る

(ll)

第二章 解 釈学理論 にお け る主題把握指導論への批 判 ( ‑) 第‑節 小 野牧夫 に よる考察

本章 では,解釈学理論 批判 の うち,民 間教育 団体 に属す る論者 た ちの著書 を と りあげて考察 し

てみたいO これ らは, イデ オ ロギーや立場 の違 いか ら対 立す る関係 にある もの もあ り, その間に

交 わ され た論 争 は, 主題把握指導 に示唆 を与 えて くれ る。

(7)

小野 は 「 解釈 学克服の モ メン ト‑ 近代国語教育 にお いての文学作 品 ・形 象 ・主題‑

(12)

」 で, 垣 内 ・石 山 ・西 尾 を とりあげ , 「 文学作 品は どの よ うな もの として認識 しなお され て いったか, の 吟味 に集 中 して,荒 けず りの ままで解釈学 を越 えるこ との必然性 を提示 し」 よ うとした。 す なわ ち,抽 象的観念的 にみ られて いた文章 が具 象的 にみ られて い く文章認識の変化 の過程, と りわ け

「 叙述」 の把握 に重点がおかれて い く過程 を概観 してい る。

垣 内理論 にあ っては,<印 象 に よって読 者 の意識 の 中に再 構 成 して見 た形 >す なわ ち読 者 の意 識 の 中に表 象 した形 と,<書 かれ た こ とばの内 に潜在す る作者の悪の形 >か,く文字 の底に内在す る文 自体 > とい う場 で ぴた りと出会 わ な くて は な らない。 しか も方法 として,垣 内は文字 に泥 む こ とな く 「想の形」 を直観す るこ とを提 唱 した。小野は垣 内理論 につ いて次の よ うに述べ る。

「 文 自体」は観 念の うえでは想定で きて も, その実在 を現実 の 中に見 るこ とはで きない。 ここ にお いて,垣 内に よって作 品その ものの実在性 は観 念の操作 に よって消さ れ るO形式 をそなえ た作 品は,観 念の上 でのみ しか想定 で きない ところの「 悪の形」に とってかわ られ る。 (

216ペ ー

ジ)

小野 は,近 代文学成 立の モ メン トとして描写 ・説 明 ・場 面 な どを重視す る立場 か ら , 「 描 かれ た もの の美 しきや お もしろ さを感 じとった リ,描 きだ され てい るこ との意味 を問 うた りす る作 品の 読 み は消 されて しま う」 こ とに文学教育 としての具体 的手かか りが欠 けて いるこ とを指摘 す るO また,垣 内が文章 を , 「人性」 「 文化 意識」 か ら発す る作者 の意識の流動 ・生命 の流動 の外化 の 過程 として捉 え,「同時的継続的全 ‑ 」で ある と規完 した薫 につ いて,小野 は次 の よ うに指摘 す る。

「内容 と形式」の統一的把握 を F 国語 の力1にお いて試 みたそれ は,試 み7) 城 を出て実証 され るこ とは,十年 た って も不 可能 で あった。 「 文 」 は 「 悪の形」す なわ ち 「 想」 の外化の 「 過程」

とい う立証 は仮説 に止 まった ままで, その破 産 を示 しているので あ る。 (

218ペ ー ジ)

小野 は次 に, 石 山の前著 につ いて,垣 内の 「 想 内容」の 「『 想』 と同 じで あ

り,解釈 の実践過 程 も 「 現 象的 な と りあげ方 に傾斜 し」た と限 界 を指摘 してい る。 ただ , 「『

文=

lの 叩き式三を認め, また F 文 の性格 』 に 『 対 象的性格 』や F 歴 史的 ・社 会的性格』 を認 め たのは,具 体 に即 そ うとし た一定 の積 極面 で あった」 こ とは前進 として評価す る。

小野 は, 西 尾の前著 につ いては 「 垣 内の形 象理論 の一部 を引 きず り」 つつ 「克服のモ メン ト」

を作 り出 していた とす る。西 尾 にあ っては 「作品の主題」 と作者 の 「 主題 感動」が未分 化で あ り, 形象 も研究対象 としての形象 と鑑賞作用 にお いて成立す る形象 を併存 させ て い る点 に課題 が あっ た。 しか し, ともか く, F 国語 の力』 で は未分化で あった主題 と形象 とが分化 され た こ と、また文 章 が 「時間的立体 的 な意味 関連 として体 験 され る」知 的認識 の営為 を含め た体験 の対 象 とされ,

「叙述」 が 「 客体 的 なおかす こ とので きない実在 として とらえ られ」 て いる点 に,小野 は 「発展」

をみ るので あ るOす なわ ち,西 尾が主題‑ 構 想‑ 叙述 の 「 叙述」 を 「 意味 関連」が 「 感覚 的具 象 性 を獲得す るこ とに よって展開 を完結 し, 表現 を固定化」 した もの を規定 した点 に,小野 は 「よ

り現実 主義 的 に 『 作 品』 を とらえる」 こ とを可能 に した カギをみ るのであ る。

しか し,小野 は これ に とどまらず,昭和

9

年 に小野 己代志 が実践 人 として行 な った講演記 述 を とりあげ る。主題 を 「 材料 を通 して現 れて ゐる もの」 と規定 し, その あ らわれ方が 「 記述的,描 写的, 説明的」 であ る とす る点 に一 層の進 展 を見, また作品事例 の解説 を 「 一語一一句の F 叙述 』

か ら, 人物 形象の作 品 にお け る葛藤や形 象の組織性 を とらえ, その間 に 『 主題i nが動的 に浮 かび あが るこ とを示 した」 もの として評価 す るので あ る。

小野牧夫 の論考 は,文学教育 を研究す る者の立場 か ら解釈学理論 を概 観 して,西 尾理論 に解釈

学 を克服す るモ メン トを見出 し, 自らの実践の理論 的基盤 に しよ うとした点 に特 色があ った。

(8)

第二節 奥 田靖雄 『 国語科 の基礎 』等

奥 田は 日教組傘 下 にあって,教育科 学研 究会国語部 会の理論 的先導者 として いわゆ る教科研方 式の三読法 を推進 して きた。奥 田理論 は唯物 史観 に立つ現実 反映主義 で あ って,解釈 学理論 の主 観主義 を排 斥 しつつ,三段 法の読解指導過程 は批判的 に継承 してい る。また読解過程 をめ ぐって,

形象の

認 識 方法 側面 客 観 的 側 面 主 観 的 側 面

感 性 的

感 情 的 本 ことが ら ( 生活現象) 感情‑評価的な態度 支

理 性 的

論 理 的 斤 斥 主 題

/

同 じ日教 組傘 下 の 児言研 等 とも論 争 をかわす こ とになった。

ところで,奥 田が仮説 としてあ げた形象 ( 文学 作品の 内容)分析 の カテ ゴ リー は左図の如 くで,「 主 題」 は他 の三つの カテ ゴ リー との 関係 にお いて とらえ られ る。 この こ と を図 に即 して簡 潔 に説 明 す る。

奥 田は文 学作 品 を 「 生 活現 象 を典型化す るこ とで その本 質的 な もの, 法則的 な もの をあか るみ にだ し, こ うす るこ とで生活の真実 をあか るみ にだ し, こ うす るこ とで生活 の真実 をよみ手 につ きつ け」 る ものだ とす る。奥 田の い う 「 主題」は, 作品 にえがかれ てい る生活現 象の 「 本 質 」 「 法 則」で ある。 この 「 主題 」は 「 感情 ‑評価的 な態度 で色 ぞめ され た こ とが ら」 ( 形象)を知覚 す る こ とを土台 に, それ を分 析 し理性 的 に認識す るこ とで把握 され る。 また , 「 主題」 と 「 理 想」との 関係 につ いて,奥 田は 「『 主題』 と 『 理 想』 とは, ひ とつ の思想のふ たつ の局面 で ある。 あ る思想 は,客体 的 な ものの反映 としてみれば, 『 主題』にな り,主体 的 な主張 として うけ とめ るな ら 『 理 想』になる」とす る。 ここで い う 「 思 想」とは , 「 社 会的 に意味 の ある生 活上 の問題」に対す る 「 一 定 の回答 」 「そ うで なければ な らない と信 じる作者 の, そ して人び との理 想像」 で あって, 当然,

「 理 想」 は 「 主題 」 よ りも 「ひ ろい」 , 「『 主題 』 か ら発展」 した もの とな る。奥 田理論 は , 「 主題

を生活現 象の レベ ルで とらえた本質規定 に とどめ て いる ところに特 色か あ る。奥 田は こ うす るこ とで 「 文学作 品の よみ方指導 が主題 の理解 にか たむ くこ と」 をふせ ご うとしたので ある。奥 田理 論 にあ っては,解釈 学理論 は作者 の意図 ‑主題 とす る主観 主義 で あ り言解釈学 が絶対的 な もの ( 氏 族精神 ) をみ とめて,侵 略戦争 に奉仕 した点で排 斥 されねば な らない ものであ った。

文学作 品の構造 と主題 との関係 につ いて,奥 田は まず 「 文 学作 品の構 造 は, そこに えがかれて い る人物 のむす びつ き方, 人間関係 の体 系 にはか な らない」と規定 し , 「人間関係の法 則」で あ る

「 す じ」 を重視 す る。 なぜ な らそれは, 人間の生活現 象の真 の意味, す なわ ち作品の主題や理 想 をひ さだ してい るか らだ とす るので あ る。

奥 田は しか し , 「 文学 作品の 『よみ』 のふか さ」 は, 作品の 内部構造 の分析 だ けでは な く, 「 作 品内容 を現実 の生活 にむすびつ け」 る 「 作 品の内部構造 を明 らか にす る」 作業 に よって とらえ ら れ るのだ とす る。

以上 の よ うに,奥 田理論 は,文学 作品 を 「 客観的 な現 実の反映

「 社会意識の存在 形態」で あ り, 文学 を 「 現実認識の手段 」 と規定 していた。 ここか ら,奥 田は 自説以外 のほ とん どの理論 を 「 主 観主義」と規定 し批判す るこ とになる。 「日生連, 児言研,文教研 と, ア ンチ教科研 の グループが み ご とに隊 を くんだ。 ここに文部 省が くわわ る と, 完全 な統一戦線 がで きあが る」 と,奥 田は批 判対象 を図式化 し,個 々 と論争 を展開す る。

荒木繁 (日文協 )は,問題 意識喚起 の文学教育論提 唱の立場 か ら,教 科研 の学 習指導過程 を 「 客

観主義 的傾 向 を持 っていて,読 み手の主体性 が いち じる し く軽視 されて い る」 と批判す る。荒木

に とって文学 とは 「 私 た ちの内部 にひそんで いる問題 意識 をゆ きぶ り自覚 させ

「 認識的価値 的変

(9)

草」をひ きお こす もので あ り,文学的経験 とは 「私 た ちの人間存在 の深部 と交渉 す る

「きわめ て 主体 的 な もの とかかわ る経験」 で あ った。奥 EHまこれ を,読 み手の内部 に 「問題 意識 なる ものが あ らか じめ存在」し

,

「よみ」が これ に規定 され,各個 人に応 じた主観的 な うけ とめ方 をされ る「 理主義 的 な観 念論」 だ とす るO奥 田理論 では, 生活現 象の客観的反映 で ある作品が客体 と して ま ず存在 し, それが読 者主体 を規定 して客観 的 な現実 認識 を もた らす もので あった0

荒木,奥 田 と も唯物論 的 な立場 か らの現実認識 を文学教育 の 目標 とす る こ とでは合致 して い る。

問題 は, 認識 (読み) を 「客体 (現実)へ の主体 の投影」 とみ るか,主体 ‑ の客体 (現実) の反 映 とみ るか にか か って いた。

奥 田が提 唱 した学 習指導過程 は,現実 の なか にあ る 「イデー」 を把握 す る合理 的手順 が設定 さ れて いた。 しか し, 荒木理論 を も 「帝 国主義 で生産 され た,独 占資本の文学教 育論」 と批判 す る とき, その 「イデー」 が実 は客観性 を欠 いた偏 向性 を もつ もので あ った こ とが明 らか にな る。解 釈学理論 の 「民族精神」 を排 斥 した奥 田は, そ うした イデー を絶対 的 な主題 ・理想 として追 究す

る点 でお な じ道 を歩んだ こ とにな る。

第三節 荒木繁 『文学教育 の理論

』等

荒木 は昭和286月, 日本文学協 会 の大会で 「民族教育 としての古典教育‑ 『万葉集 』を中心 と して‑ 」 とい う実践報告 を した. これは

,

文 学教 育 の根本 問題 の い くつ か を提起 し(13)」,読解 中 心の読 みの授業 に学 習主体 の文学経験 を回復 させ た点 で 「根本的改革 的 な提起(14)」 となった。荒 木 は, まず,古典 の教 材 を,生徒 が 自らの持 ってい る生活問題 意識 で直面 した とき認識 の変革 を 促す生産作 用 を もつ もの として とらえた。防 人の歌 は民衆の抵抗文 学 として生徒 に受 け とめ られ た。荒木 は, そ うした主体 的 な文学経験 に よって生徒 に認識 の変革 を もた らす こ とを文 学教 育の 目標 としたので あ り

,

文学 の もつ 人間変革 の機能」を果 た し うる文 学遺産 (古典 )を もって いる 喜 び と誇 りを感 じさせ るこ とを通 して祖 国 に対 す る愛情 と民族的 自覚 をめ ざめ させ よ うとした。

荒木 の文学教 育論 の特色 として

,

「人間変革 の機能」を果 たす教 材の選択 を大事 に して い る点 が あげ られ る。荒木 は,こ うした立場 か ら,民間教育 団体 が指導過程論 に傾 き過 ぎるこ とを批 判 し, 教科研 の文 学教 育論 に検討 を加 えた。

荒木 の批判 は, 第一 に,教科研 の理論 が 「きわめ て客 観主義 的 な傾 向 を持 って いて, 読み手の 主体 性 が い ち じる し く軽視 され」るこ と

,

教 師 は客観的 で完壁 な作 品理解 を持 ってお り,生徒 を

‑歩一歩 そ こに近づ けてい くのだ とい った誤 れ る科学主義」 に堕す る点 にあったO

第二 には

,

一次読 みの段 階 での生徒 ・子 ど もの感想発表 をお さえるこ とで あ」った。荒木 に とっ て,作 品が学 習過程 を決定す るのでは な く,作 品 を受 け入れ る学 習者 の問題 意識 が手 がか りに なっ

,

「人間変革」へ導 くプ ロセ スが決定 され る とす るので ある。 これ に対 し奥 田は次 の よ うに反批 判す る。

荒木 君 は客体 を反映す る認識活動 の そ とに感情 とか意志, 問題 意識 とい う主体 的 な ものの 存在 をみ とめ るので あ る。客体 か ら き りは な して,実体 としての観 念 (主体 的 な もの) の存在 を心 理 の なか にみ る。 これ は主観主義 的 な観 念論 の基本的 な特徴 で ある0

荒木 は これ に対 し,奥 田の指導過程 を 「作品が あ り, それ に応 じた正 しい読 みか た とい うもの があ り,教 師は生徒 の主体 的 な もの を媒 介 に しつつ, その主観性 を しだ いに切 りす てて,客観的 な読 み を実現 しよ うとす る」 ものだ として, そ こでは真 に学 習者 の 目は外 に向 いて開 かれ な い と 指摘 した。

奥 田 と荒木 の文学教育論 は,唯物 史観 に基づ く現実認識 (社会認識)の変革 を目標 とす る点 で それほ どの隔 た りは ない。違 ってい るのは,学 習主体 の文学 的感動 ・間轟 意識 を基本 にす るか,

(10)

作 品構造 の理性 的認識 をよ り重視 す るか にあ った。 しか し, 荒木の文 学教育論 には敏密 な指導過 程論 が形成 され ていず,一方,奥 田の文学教 育論 には学 習者 の感動体 験 が考慮 され ていない点で, 相互 に補充せ ねば な らない面 を もって いた。

第四節 太 田正夫 『 想像 力 と文学教育』

太 田は, 創作主体 と読者主体 とが想像 力 を媒 介 に して文体 とい う場 で切 り結 び,現実世 界にか か わ ってい く実践性 にこそ文学教 育の 目標 が あ る として 「 十 人十色の文 学教育」 を提 唱 し,教科 研 の 「 客観主義」 を克服 しよ うとした。

本書 で太 目 引ま,荒木 ‑奥 田 ・宮崎論 争 につ いて荒木擁護 の立場 か ら奥 田 ・宮崎 に批判 を加 えつ つ 自説 を展開 して い る。

太 田は,奥 田が民間教 育運動 の 中の相互批判 は 「 敵対 す る階級 の問の矛 盾の 反映」 だ と発言 し た こ とに対 し , 「そ こには,自己の もの,あるいは集 団 に よって客観的 と認 め られた もの を絶対化 して しま う」排他性 が あ る と指摘 す る。 それは

,「

『 客観的 な もの を打 ち出せ る, そ して それ を読 み とらなければ な らない』 とい う 『 読 み方』の理論 と重 なる」 , 「 絶対化 のお ご り 」 に通 じる とす

るので あ る。

荒木 ‑奥 田 ・宮崎論 争 には文学教 育 の 目標観の違 いが あった。 荒木 は 「 批評 意識 の育 成 こそ文 学教育 の核心」 と考 える。一方,奥 田は,客体 としての作 品 を正 し く認識 させ るこ とに重点 を置 いて 「人間 を と りまいて い る ものや, 人間 その もの につ いての知 識 を うるこ と」 を 目標 とす る。

太 田は,教科研 の 「 読 み方」 につ いて , 「 客観主義」 を唱 えなが ら 「いか な る作 品 に も主題 ・ 理 想 を打 ち出 して い くひ とつのパ ター ン化」 が あ り, か えって 「 読者主体 の 内在的 な もの との対決 を経 ない こ とか ら くる,作者の主体 的 な行為 としての作 品構造 が生 んだ作 品の実在 に迫 るこ とが で きず, みずか らの観念 の域 内 にお いて読 み とっている とい う主観主義 に陥 ってい る」 こ とを指 摘 す る。客観 的理解 を絶対化す るこ とはか えって 「 主観 主義 を内蔵」 させ るこ とになる と,太 田 は教科 研方 式の矛盾 をつ くので あ る。

太 田は また,荒木 ‑奥 田 ・宮崎論争 の争点 となってい る 「 主体 」 とは 「 対 象化 し客体化 す るか ら主体 」で あ る とい うのではな く, 「 生活 と実践 が構造的 に とらえ られ る もの としての世 界 に対 し て実践 者 として

かかわ る とい う意味 での 「 主体」で なければ な らない とす る。太 田に とって「 実 践 の一つ として読 む とき,主体 的 に読 む」 とい うこ とになるので あ った。 つ ま り, 自己 を世 界に 開示 し,世 界 とのかかわ りの 中で 自己 を変容 させ る, そ うした主体性 を もって作 品世 界 を実 感的 に体 験 し, また その体 験 に よって世 界 を とらえなおす こ とを太 田は文学教育 の機能 として主張す るので あ る。 その とき , 「 想像 力 」 「 構 成的 な想像 意識」 が重要 なはた ら きを示す。

太 圧‖ま, 想像 力の もつ機能 につ いて, 直観性 ・具体性 ・全体性 ・同時性 ・解放性 ・変容性 ・自 己否定性 ・能動性 ・総合性 ・否走性 ・返照性 ・創造性 ・把握性 ・主体 性 ・行動性 ・共感性 ・転位 性 ・ 現実性 とい った徴標 をあげて説明 し , 「 想像 力は以上 の力動的 な諸特性 が あげ られ る構造 的 な 行動 力 なの であ る。 そ して文学 の世 界は これ らの機 能 が働 くこ とによって作家 主体 と読者主体 と の共通 の行為 として そ こに想像 界 ( イマ ジネー ル) を創 りあげ るのだ」 と結論づ けてい る。太 田 の提 唱 した 「 十 人十色 を生かす文 学教 育」 とは、学習者個 々人の 「 想像 力」 の独 自性 を尊重 した 文学教 育 で あ り,主体性 の尊重 にお いて, また力動的 な言語行動 力 を 目指 す点 で,教科研方式‑

の批判 た りえて いる。

第五節 児言研方 式 につ いて

児童 言語研究会は, ゲ シュ タル ト心理学 に支 えられ た従 来の読解指導過 程 を,通 読 に よって全

(11)

体 を直観的 に とらえる 「 三読 法」 と規定 し, これ に代 えてル ビンシュテ ィンの分析 ・総 合の理論 に よる 「 一読総合 法」 を提 唱 した。小松善之助 は,一読総合法の原理 を 「 文章 の一部分 の読 み と りは それ に先行 す る他の部分 の読 み とりの程度 にかか ってい るのです。 この定式化 ・定式が えの 理論 こそ,読 み手 が一文一文 を読 み とってい く過程 を正 し く説 明で きる ものです

(15)

」ととらえる。

また, その読 み とりに 「内容 の理 解 は もとよ り, それ につ いての感想 も批判 も予 想 も」含 んだ緊 張 した思考 活動 が要請 され る ところに一読総合 法 の特 質が ある とした。

一 読総合 法 では ,「 『 文体 』 を読 む とい う行為 に よって,書 き手主体 と対決す る」読 み手主体 が 尊重 され るo Lか も読 み手主体 が彼の「おかれ た現 在の社会,状況 との関係 にお いて これ を読 み, それ に よって更 に現在 の社会状況 を とらえなお し, 見 なおす とい う読 みが成立す る とき」読 み手 主体 の変容 を うながす創造的 な読 み となる とす る。一読総合 法 は,読 み手主体 に 「 文体」 を批判 し価 値づ けつつ形象化す る創造性 を見出 した点 で,読者論 の地平 を拓 いていた ともいえる( 1 6 ) O

一読総合 法 にお ける主題把握 は,読者論 的立場 と密接 な関係 にある。林進治 は , 「 主題 とは その 文章 がお うてい る課題 で あ り, その追究 の過程」 で ある と規定す る。つ ま り,形象 を媒 介 に した 作者 に よる人生 の問 いか け と読者主体 に よるそ2 1‑ の応答 ・追求 の過程 に主題 が生 まれ る とし,

「たん なる現実 の反映ではない」 と教科研 の主題観 を否定す る。

また菱 沼太郎 は,論 考 「 主題 を ど う考 えるか」 で次の よ うに述べ て いる。

作者 が主題 を もっ こ とは正 しい。作 品が主題 を もつ とい うこ とも正 しい。 しか し,作者の主題 は,作 品の主題 の 中で しか生 きられ ない し, その作 品の主題 は, あ るこ とは確 か だ と考 えてみ て も,読者 の読 み に よって しか現前 して こないO とすれば, われわれ は,作者7) 主題, あ るい は,作者 の意 図,理 想 な ど とと り立 てて分 け るこ とは,作 品の読 み にお いては必要 をみ とめ な い。 そ して,読 者 の とらえる主題 か,文 章 の ワ クの 中で あ る程 度 の 巾の で きるの は 当然 で あ る

。 (17)

菱 沼 は,作者 の主題 が その まま作品の主題 として反映 され た一義 的絶対的 な存在 では な く,読 者 とのかか わ りの なかで 多様 に現前す る ものだ として,教科 研 の主題把握論 を否定す る。

児言研 の唱 える読 みの基本過程 は,① まず題 名か らは いって,本文 にすす む,② 冒頭 か ら,書 きだ Lや書 きこみ を しなが ら読 みすすめ る,③ 立 ち どまって,表象 を明確 に し,短 く話 しか え, 感想 ・意見 をだす,① 見通 し ・予想 をたてて,次 の部 分 に読 みすすめ る, といった総合S 分析 C 7 ) 過程 をた どる。 しか し, 児言研の 二・ の基本過程 は さまざまな問題 を含み, どの教材 に対 して も,

また読 みの過程 の どの段 階 に も有効 なのでは ない。 日常 の実践 では,三読 法 と一 読法は相互 に補 完 し合 うもので なければ な らない。

第六節 熊谷孝 F 文体づ くりの国語教育‑ 創造 と変革‑ C 7 ) 道

熊 谷の国語教育論 は,こ とば を第二信号 系 とす るパ ブ ロフの理論 に依 っている。熊谷 に とって, こ とば とは 「 信号 の信号‑ す なわ ち二重 の媒体 にお いて事物 ( ‑世 界)を反映 す る, その よ う な組織 活動 のひ とま とま りの システムの こ とで」 あ り, こ とば を通 して世 界を反映 ( 反省) す る とは , 「 反映の しか た を変 えて認知 を深め る,反映 の しか たその もの を外界 の法 則に合致 す る よ う に 自己規制 して い く, た えず その よ うな規制 を行 う」とい うこ とで あった。 この とき , 「 現実 把握 7) 発想」 と , 「 文体 ( 発想法 との関係 にお いてつか まれ た "こ とば"K‑文章》の あ りか た) 」が, 主体 的個性 的 な思 考 に とって重要 な もの となる。 熊谷は 「 "こ とば日にお いて保 障 された発想 ( 質 在化 され た発想 ) 」 を 「 文体 的発想」 と呼 んで,文体 的発想づ くりの国語教育 を目指す。

熊 谷に とって, あ る作 品 を文 学 史に位置づ けるこ とは, その作 品の表現 を文体 的発想 とい う一

点 にお いて歴史社会的 につかむ こ とにはか な らない。つ ま り 「 ① 作 品の文 章が媒 介す る, その社

(12)

会 をあ る生 きか たで い きたその人間主体 の現実把握 の発想の しか た をつかみ, また,② そ うした 発想法 をつ かみ とるこ とで, そ うした発想 にお いて把握 され た現 実の姿, 現実 の問題 を

,

わ た し た ちが歴 史のパー スペ クテ イヴ ( 遠近 注) にお いて主体 的 につかみ なおす」 こ とで あ ったo 熊谷 に とって文 学 史 とは 「 準体験 的 な, つ ま りは主体 的 なっかみ なお しの作業 にはか な ら」ず , 「 相手 の体験 に同化 して,相 手のつ かみか た を もう一度 なぞる形 でその対 象 をつ かむ, とい う追体 験 の 作業 では断 じて な」 か った。 ここに示 され た,解釈 学理論‑ の否定的態度 は, 主題論 とも関係が あ り,前述 の第二信号 系理論 にか えって検討 してみ たい。

第二信号 系理論 にあっては,こ とばは,信号 の信号 として,す なわ ち二重 の媒体 として事 物 ( 世 罪) を反映す る もので あ り,事物 の等価物, あ るいは本質 ( 実体 ) ではなか った。 ま してや,伝 号 が符号化 され た記号 としての こ とばは事物 の等価物 で ない こ とはい うまで もない。 第二信号系 理 論 では, こ とばは事物 の意味 の等価物 で あった。 ところが,解釈学理論 で は , 「その こ とば,そ の文章, その作 品 には, その送 り手 ( こと だま ‑作者)の意拭 ・志 向が内容 として封 じ込め られ てい る」

とす る , 「 ナ イー ヴな言語実体 説 ‑言霊 思想」に依 っていた とす る。 熊谷は, こ うした 「 汎言語主 義 の言語観 ・ 国語観」 が 「 天皇制 臣民教育 のひ とつの ケル ン ( 核)」 となって機能 した こ とを指摘 す る。解釈 学理論 にあっては, 作品は 「 記号 その もの として 」 「 一定の実体 的 内容 を盛 り込 んで封 印 した容器」で あ り, その実体 を概 念化 してつ かむ こ とが読解 で あったC 熊谷は, 「 作 品の内容 の 概 念的エ ッセ ン スー つ ま り本 質 ちゅ うの本 質‑ だ と教 師 た ちに よって考 え られ て い る主題 ( テーマ)の把握 とい うこ とが,読解指導方式 の国語教育 では非常 に重 ん じられ るこ と」 に疑 問 を投 げか け る。 なぜ な ら , 「 文体 的発想」にお いて主体 的 に個性 的 に思考す る学 習者 の意識作 用の て つけつ 芽 をつ んで しま うか らであ る。 「自己内心 の概 念中心主義 的観 念 ・ 想念 との対決 と別技」 が熊 谷の 課題 となったので あ る。

想像 にお いて,虚構 にお いて 「 未来 をさ きど りし, その さ きど りされた未来 か らイ メー ジにお いて現実 を,今 日的現実 を, 人間の生 きかた を主体 的 につかみ なおす」, そ うした「 現実 か らの飛 棚 と現実へ の飛 朝 」 を 「 芸術 的 イマ ジネー シ ョンの二つ の根 本的契機」 として文学 を読 んで い く こ とを熊 谷はめ ざしたので あ る。

第三章 解釈 学理論 におけ る主題 把握指導論 への批判 ( 二) 第一節 西郷 竹彦 『 文学教育 入門』 F「冬景色」論争』等

前章 で は,解釈学 にお ける主題論 を克服す る過程 で交 わ された い くつか の論争 を見て きた。 そ れ は主 に民 間教 育 団体 間の論 争で あ った。 本章 では その系譜外 にあって独 自の理論 的根拠 に立 っ て主題論 を展開 して い る諸説 を と りあげて検討 してみた い。

西郷 竹彦 は, 虚構論 ・視点論 を軸 に した独 自の 「 文芸学」 を構築 しその立場 か ら,蓑手重則 ・ 古 田拡 との間 に二つ の主題論 争 を行 った。前者 は形象の関係 づ け, 後者 は視点 とい う 「 文芸学」

の根本命題 にかかわ る主題論争 で あった。

(1)

昭和

40

年,西郷 は 『 文学教育 入門』 を著 して 「 関係認識 ・変革論 を原理 とした文学教育論 の体 系化 をめ ざ」 し文芸学樹立の第一 歩 を踏み 出 した。本書 で西郷 は, 自ら翻 訳 した 「 大 きな 白 樺 」( N. アルテュ‑ ホワ原作) を分析 して, 関係認識 ・変革 の文学教育 の具体 例 を示 した。

大 きな 白樺‑ それ は , 「のは るよ りお りるほ うがむずか しい」とい うもの として あるo その存 在 ( 状況)の主 人公 に よる低 い認識‑ したが って母 にたいす る認識 の あ ささが,主 人公 自身 の危機 をまね (行動 ・体験 と母 の愛 に もとづ く理性 的指導 の結果 として変革 され, 高 い認識 に 達 す る‑ これが全体 を貫 いてい るこの作品の主題 で あ る。 ( 1 90ペ ー ジ)

「 大 きな 白樺 」 をめ ぐる蓑手 ( 前掲 書) と西凝

B(18)

との論 争 の争点 は次の三点 で ある0

(13)

第‑ は,事物 形象の機能 につ いての問題 で あ る。 蓑手 は, 自然形象 を人物 形象 と対等 に扱 うこ とを退 け, 人間関係‑ 愛情 関係 を軸 に主題 を とらえよ うとす る

C

これ に対 し西郷 は 「 形象関係 論」 の立場 か ら, ア リョ‑ シャに認識 の変革 をお こさせ た 自然形象 を, 人間関係 を有機 的 にかか わ らせ なが ら トー タル に作 品 をお さえよ うとす るO

西郷 の 「関係 認識 ・変革 の教育」 では, すべ ての形象の相 関関係 を重視 し, それ に よって もた らされ る主 人公C 7 ) 認識 の変革 を,読 者 が イ メー ジに よって共体 験 して認識 を変革 しそれ を現実認 識 に反映 させ るこ とを願 う。 こ うした点か らみ る と,事物 形象の機能 に着 目 した西郷 の考 えは独 創 的で あった。

第二 は,主人公の問題 で あ る。蓑手 は,主人公 を作者 の意図 とのかかわ りで特定 しよ うとす る。

それ に対 し西郷 は 「 主 人公 とは, まさに 『 読者 に とっての主 人公』 で あ るか ぎ り,読者の主体 的 な人物 とのかかわ りが決 定す る もの」 で あ る と規定 し,読 者 の 「 考察 の基点, 基準 の と りか た」

に よって主 人公 とい う概 念 は 「かわ り得 る」 もの だ とす る柔軟 な立場 を とったC西郷 の い うよ う に,読 者論 的立場 に立つ限 り 「 客観 的 に誰が主 人公 と決めつ けるこ とは意味 が」 ないのであ る。

第三 は,主題 の概 念規定 と把握 の方法の問題 で あ る。西郷 は この こ とにつ いて両者の違 い を次 の よ うに ま とめて い る。

引用文 の筆 者 は主題 とい うもの を<作者が作 品 を通 して書 きあ らわ したい と思 ってい る中心 に なるこ とが らや考 え> と規定 して い ますが, これ は く作 品 に書 きあ らわ され てい るこ とが ら>

とすべ きです。主題 を作 者 の意 図や モチ‑ ーフ と混 同 しては な りませ ん。主題 は作者の意図 をこ えて実現 す る ものです。また <中心 になる> とい う考 え方 も誤 りです。主題 は作品全体 にわた っ て とらえ られ るべ きもの なのです。したが って,引用文 の よ うに,<主題 に直接 関係 の あるこ と が ま とまって書 かれ て い る ところ>に 目をつ け て <主題 さが し>をす る とい う方 法 も誤 りで すo作 品全体 を構 造的 に とらえた ときに主題 は とらえ られ るのですO決 して, どこか に主題 が か くれて いて, それ をくさが し>だす ものではないのです。

引用文下線部 に示 され た西郷 の考 えは, これ まで述べ て きた解釈学理論 克服の流れ に沿 うもの で あ り, おおむね妥 当だ といえる。

(ll)

「 冬景色」論 争 「冬景色」 は厳 谷小波の叙景文 で国語読 本尋常小学五年生 の教 材 となっ ている。芦 田恵之助 が 『 読 み方教 授』 に 自らの実践 例 として あげた授業記録 を,垣 内松三 が形象 理論 を立証 す る好 例 として 『 国語 の力』 で論 じて以 来, 形象理論 に よる文学教 育の象徴 的実践例 の位置 に まで史的評価 が高 まって いた。西郷 は

(

解釈 学理論 の)理論 的 ・ 実践的 克服は今後の国 語教育 の発展 に とって無視 す る こ とので きない課題 の一つ で ある

(19)

」 との立場 か ら, 自らの文芸 学理論 を適 用 して分析 した。 これ に対 し芦 田門下の古 田拡 が反論 して論争 が展 開 され た。 この論 争 は 「 文学教育論 としての土俵」 で争 われ た新 旧理 論交代 のせ め ぎあい として重要 な史的意味 を もつ とともに,論争 の焦点 となった主題把握指導 をめ ぐっては,理論 的整合性 が場合 に よっては 誤 った主題把握 に陥 るこ ともあ る とい う文学教育 が かか える問題 を提 起 した。

主題 に関 しては,西郷 が 「 冬景 色」を題 材 とし

,

「冬景 色の なか に春 を兄 いだ して いる人の 目 と 心」が主題 で , 「 春 まつ心」が思想 であ る と主張 したの に対 し,古 田は解釈 学的方法 に よってす な お に 「 冬枯 れの世 界の美」を読み とった対 比 にある。西郷 に 自らの理論 に こだわった [ 読 み過 ぎ」

( 古 田)が あ った こ とは明 らかであ る。 しか し , 「 冬景 色」 論争 は, 問題 を提起 した西郷 の側 に立 っ てみ る とき,単 なる主題 の二者択 一の問題 ではな く,視 点 ・虚構性 ・文学的遠近法 ・筋 な ど西郷 文芸学 を支 える主 な要素 をひ きあげての 「 対決」で あ った。 この論争が ひ きお こされ た背景 には, 西郷 の視点論 の成 熟が あ った

。 (20)

西郷 は, 作者 と視 点 人物 を切 り離 し.視 点人物 の 「内の 目」 に よって 「 現実 をふ まえ,現実 を

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