大 和 国 平 野 殿 荘 の 悪 党
下司平清重とその一類
坂井孝一
はじめに
永仁四(一二九六)年七月東寺雑掌尚慶は︑大和国平野殿荘の﹁下司・惣追捕使巳下土民等﹂を﹁悪党﹂の威をふるう
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ものとして︑﹁召上其身﹂げ﹁行自由狼籍答﹂うよう申状を捧げた︒下司の名は平清重︑惣追捕使は平清永︑法名を願妙と言う︒彼等は平野殿荘に根を張る在地武士で︑やがて﹁悪党﹂の﹁大張本﹂と断定され︑本所東寺と鋭く対立するよう
になる︒彼等は一体何を求め︑何を行い︑そして何故﹁悪党﹂とみなされたのであろうか︒
そもそも﹁悪党﹂とは︑鎌倉中・末期から南北朝期にかけての内乱期︑畿内・近国を中心として︑或いは年貢対桿等の
荘園制支配に対する反抗活動を繰り広げ︑或いは山賊・海賊・強盗等の反社会的な活動を行った︑多種多様な実態を持つ
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人々のことを指す︒諸先学によるその研究蓄積は︑中村直勝氏・石母田正氏以来極めて豊富なものがある︒すなわち︑﹁黒田悪党﹂﹁寺田悪党﹂等の個別研究の積み重ねはもとより︑﹁悪党﹂に対する評価が鎌倉末・南北朝期の内乱の歴史的
評価と密接に関連することから︑﹁悪党像﹂に関していくつかの相対立する学説が形成されるに至っているのである︒し
かし︑いずれの説においても共通しているのは︑﹁悪党﹂の実態が極めて多様性に富んだものであるということである︒
では﹁大和国平野殿荘の悪党﹂の実態︑その本質とは何か︒また鎌倉末・南北朝期の動乱といかなる関係にあったのか︒
本稿ではこの問題を︑諸先学の研究に導かれつつ︑また下司平清重という人物に着目することによって追求してみたい︒
東寺領としての大和国平野殿荘
平清重とその一類が︑下司としての︑そして﹁悪党﹂としての活動を展開した大和国平野殿荘とはいかなる荘園であっ
たのか︑先ずこの点から考察してみたい︒
平野殿荘は︑惣田数九町六反三百廿歩︑寺社除田四町半︑残五町六反小廿歩︑定田二町六反五十四歩︑隠田二町一反小
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三十六歩という狭小な荘園で︑生駒山地と矢田丘陵の間にひろがる平群谷の最奥部︑ほぼ現在の平群町棋原を中心とした( 4 )
地域にあったと推定される︒同荘に関する先行研究も少なからぬものがあるが︑そのいずれにおいても指摘されているのは︑伝領事情に基づく特殊な領有関係と︑大和国の荘園という特殊な立地条件といった問題である︒先ず前者についてみ
てみよう︒
清重が下司を勤めていた鎌倉時代後期︑平野殿荘は東寺供僧領として史料上にあらわれるが︑供僧が持っていた支配権
は領家職に当たるもので本家はまた別に存在した︒それはたとえば︑応永一四(一四〇七)年島田益直の注進した﹁長講
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堂領目録﹂に︑﹁庁分﹂の一つとして﹁同国平野殿庄御潅頂之時被成御布施畢﹂という記述が見られることからわかる︒長講堂領は︑言うまでもなく後白河法皇の寄進にかかる膨大な皇室領荘園で︑その本家職は同法皇から皇女宣陽門院︑ついで
後深草上皇へと伝領された︒つまり平野殿荘の本家は皇室であったということになる︒
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さらにまた︑暦仁二(一二一二九)年の﹁宣陽門院庁下文案﹂によれば︑﹁可早令権僧正行遍門跡︑進退領掌大和国平野殿事﹂とあり︑同荘はこの時点で︑同女院の絶大なる支持を得ていた仁和寺菩提院の行遍に寄進されたことがわかる︒但し︑
これは領家職の寄進と考えられ︑以後しばらく本家宣陽門院︑領家仁和寺菩提院という形をとって︑同荘は行遍の実質的
支配下に入る︒
ついで建長四(一二五二)年︑行遍は東寺に廿一口の常住供僧を再興するという宿願達成のため︑同荘を当時まだ十五
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口の規模であった供僧の料所として寄進した︒ここに初めて同荘に対する東寺供僧の支配権が生ずるのであるが︑ただこ( 8 )
の際︑行遍が預所の任免権等領家職の一部を菩提院に留保したため︑その領有関係が特殊なものとなってしまった︒すな( 9 )
わち︑本家は皇室︑﹁本領家﹂とでも言うべき立場に仁和寺菩提院︑そして領家が東寺供僧という関係である︒その結果︑菩提院によって任命された預所と供僧が荘の運営に関してしばしば対立するなど︑同荘が東寺供僧領として発展していく
上で様々な困難がつきまとうことになった︒次に見る百姓等の東寺掃除人夫役の拒否事件などは︑その端的な例である︒
文永七(一二七〇)年三月︑東寺は﹁掃除人夫﹂五人を差し出すよう平野殿荘に下知した︒この人夫役は︑行遍によっ
て同荘が寄進された頃二・三年間課したことがあるのみでその後長らく絶えていたが︑﹁諸堂庭草生重而見苦﹂しくなっ
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たため︑あらためて﹁本所役﹂として課したものである︒東寺にとっては︑これは﹁本所役﹂の一部に過ぎず︑まして先( 11 )
例のある役であるから何ひとつ問題はないと考えていたようである︒ところが︑百姓等は﹁自由対桿﹂をなしてこれを勤( 12 )
めないばかりか︑三たび申状を捧げて次のように主張してきた︒すなわち︑おほせをかふり候人夫のこと︑かない候ましく候︑庄なんと申候ヘハ︑わつかに田一丁六反にて候に︑領家の御方と申︑
又東寺の御方と申︑両方の御公事ハかなうましく候︑東寺へ御寄進の・ち︑両三年人夫まいらせたりと仰候ハ︑故僧正
マ こ
御房の御時︑いつミへ人夫をめさせ給て候しを︑いつミヘハめされ候はて︑京へめされ候て︑東寺のさうちをせさせさせ給て候ことこそ候しか︑またく東寺へむきて︑御庄より人夫まいらせたると候はす候
百姓等の主張の要点は︑これによれば次の二点であったと考えられる︒第一に︑当荘は狭小な荘園であって﹁領家﹂と
﹁東寺﹂の﹁両方の御公事﹂を勤仕することは不可能であるということ︑第二に︑東寺側の主張する先例は︑﹁故僧正御
房﹂によって徴集された和泉国への人夫役のことに他ならず︑それがその時はたまたま東寺の掃除に振り当てられただけ
であって︑掃除役そのものは恒常的な本所役ではないということである︒ここに言う﹁領家﹂とは仁和寺菩提院︑﹁故僧
正御房﹂は行遍である︒要するに︑﹁本領家﹂たる菩提院の存在が︑東寺供僧の支配権の貫徹を阻害する要因として働い
ていたことが理解できるであろう︒これはまた︑百姓の側からすれば︑二重支配の重圧に耐えなければならないのと同時
に︑その重圧をはねかえすためには︑逆に領主問のこの特殊な関係を意図的に利用するのが得策であった︑ということを
意味している︒
しかし︑この事件は実は︑菩提院と供僧との対立のみに帰せられるほど単純なものではなかった︒次に︑第二の問題と
して大和国の荘園という特殊な立地条件についてみておかなくてはならない︒というのは︑百姓等が供僧に対し捧げてき
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た十一月十四日付の申状に次のような表現が見られるからである︒又かすかの御公事のことハ︑春は候はす候しを︑はしめてしつけられて候しを︑とかく申候て︑うしない候てこそ候へ︑
もとよりかすかの御公事も候しことハ︑候はす候しなり(中略)このかすかの御公事の仰をかふり候につき候ても︑い
ま東寺の御公事をいよく百姓等かなへかたく候よし申候(下略)
﹁かすかの御公事﹂とは春日社によって課せられる所役のことである︒つまり百姓等は︑春日社を引き合いに出すことに
よって人夫役拒否の正当性を強調しているのである︒当時の大和国では︑周知のごとく︑春日明神の神威をふりかざして
興福寺及び春日社が絶大な影響力を行使していた︒ここでも︑﹁春は候はす候しを︑はしめてしつけられて候しを﹂﹁もと
よりかすかの御公事も候しことハ︑候はす候しなり﹂等の文言や︑一通目の卯月廿五日付の申状では一切触れられていな
いことなどから︑この課役が先例を無視する形で春日社から突然課せられたものであったことがわかる︒このように大和
国の荘園というのは.ほとんど例外なく春日社・興福寺の影響下に組み込まれていたと考えられる︒これが極めて特殊な
立地条件であり︑東寺供僧の支配にとって大きな障害となったことは言うまでもない︒しかしまた︑これは百姓の側から
すれば︑春日社・興福寺という大きな脅威に常にさらされていると同時に︑場合によってはこれを逆に他の権門の支配を
拒否するための手段として利用することも可能であった︑ということを意味している︒それ故に預所聖宴は︑供僧に対し
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て﹁当庄百姓大旨興福寺・僧候間︑不似余所︑於事不合期候条︑難治子細候﹂という嘆きの言葉を書き送り︑彼等を﹁強剛名主﹂と呼んでその対策に苦慮したのである︒
以上︑東寺領としての平野殿荘がいかなる荘園であったのか︑先行研究に学びつつ︑また文永七(一二七〇)年の百姓
等による東寺掃除人夫役の拒否事件を例に挙げて考察してみた︒では次章において︑先ず清重・願妙等が﹁悪党﹂と断定
される以前の状況を︑正応年間の一連の相論を素材として考察することにしたい︒
二正応年間の相論
正応元(一二八八)年から同四(一二九一)年にかけて︑平野殿荘においては東寺の支配を揺るがすような事件が相次い
で発生し︑東寺供僧・仁和寺菩提院・荘官百姓等を巻き込んだ一連の相論が起きた︒先ず︑その経過について簡単に見て
おこう︒
(一)相論の経過
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発端は︑正応元(一二八八)年九月に起きた﹁下司治部左衛門尉清重与惣追捕使太郎左衛門尉清永﹂の闘謬事件である︒東寺は本所として検断権を発動し︑清重・清永(願妙の俗名)両人の所職を改易し所領を点定した︒これだけであれば何