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新自由主義における教育思想・政策と 大学自治の関連性に関する考察

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1.はじめに

現在進行しつつある安倍内閣における新自由主義政策は、政治・経済活動のみならず、大学 政策・行政においても影響をおよぼし始めている。本稿では、この新自由主義思想や政策が、

学問の自由や大学自治にどのような影響をもたらす可能性があるかを、歴史的な考察とその関 連性から明らかにしていく。

第一次安倍内閣においては、戦後約60年間改正されていなかった教育基本法を改正(2006 年)し、「郷土を愛する心」など、いわゆる愛国心を醸成する文言を入れ込み、学校教育法や 学習指導要領などに反映させていった。また、教育基本法17条においては、教育振興基本計画 を明文化し、わが国の教育振興に関する施策の総合的・計画的な推進を図ることとした。さら に、第二次安倍内閣では、学校教育法と国立大学法人法の改正(2015年施行)を行った。とく に学校教育法の改正では、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければな らない」(93条1項)という文言を「大学に教授会を置く」(93条1項)と変更し、同条文のな かで「前二号(1)に掲げるもののほか、教育研究に関する重要な事項で、学長が教授会の意見を 聴くことが必要であると認めるもの」(93条2項3号)(筆者脚注)と規定し、上掲した規定中 の「重要な事項」を「教育研究に関する重要な事項」(93条3項)と限定的に規定し直した。

このような矢継ぎ早の法律改正は、学問の自由と大学の自治に大きな影響をもたらすと考えら れるだろう。

また、教育政策において第二次安倍内閣は、私的諮問機関である教育再生実行会議(2)(2013 年1月発足)を設置し、第3次報告で学長のリーダーシップの確立を掲げ、① 学長の選考方 法等のあり方、 ② 教授会の役割の明確化、③ 部局長の職務や理事会・役員会の機能の見直 し、④ 監事の業務監査機能の強化等の検討を進め、抜本的なガバナンス改革を行おうとして いる。さらに、第2期の教育振興基本計画では、「学長のリーダーシップの発揮等による適切 な意思決定を可能とする組織運営の確立、基盤的経費の一層のメリハリある配分等を通じ、ガ バナンス機能の強化を図る」とし、学長のリーダーシップ、学長選考、加えて教授会権限の見

新自由主義における教育思想・政策と 大学自治の関連性に関する考察

Study on the Relevance of University Autonomy, and Educational Thought and Policy in Neoliberalism

三 和 義 武

MIWA Yoshitake キーワード:学問の自由、大学の自治、新自由主義

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直しを指摘している(石井2013、34-35頁)

以上のように、大学の自由は、新自由主義にもとづくレッセフェール(市場主義)のなかに 組み込まれ、政府は、新たな教育政策として、競争原理のなかでトップダウン方式の組織運営 を行い、大学の競争力や質的向上を目指そうとしている。しかし、この改革を行うにあたって は、明治以来、多くの研究者たちが学問の自由と大学における自治の確立を目指して戦ってき た歴史が存在することを忘れてはならない。

歴史的にみれば、1889(明治22)年公布の大日本帝国憲法(明治憲法)下では、成文化され ていなかった学問の自由、それを実現させる大学の自治について様々な戦いのなかで慣習法と して確立させ、戦後においては、新たに公布された日本国憲法のなかに23条として学問の自由 を条文化し、通説的見解によれば、それを制度的に保障するものとして大学の自治は含まれる とする(橋本1978、202頁)

学問の自由と大学の自治についての研究は広くなされている。たとえば、家永(1998)は、

『家永三郎集 学問の自由・大学自治論』のなかで、現代社会における大学の自由の問題を大 学の社会的使命との関連のもとで究明し、近代日本における学問の自由の成長がいかなる歴史 的条件によって阻害されてきたか、また、大学自治の歴史的考察を大学管理制度との関係から 論じている。寺崎(2001)は、『日本における大学自治制度の成立』において、東京大学(帝 国大学)を中心に、自治的制度の萌芽形態、自治的慣行の形成などが、わが国のなかでどのよ うに形成・成立・進展していったかを歴史的に考察している。しかし、これらの先行研究にお いては、現在の第二次安倍内閣が改正を進める教育関係の法令と上述した歴史的考察をもとと した大学の自治との関連性をとらえた先学はほとんどみられない。

そこで、以下では、明治期以来の様々な大学における国家による学問の自由の侵害を観察し ながら、現在の新自由主義にもとづく国家の教育政策によって、学問の自由や大学の自治が侵 害される可能性の可否を検討していく。

2.明治期から昭和期における学問の自由と大学の自治に関する事件

本項では、文部省(現:文部科学省、以下同じ)と大学自治の関連性のなかで、政府の行政 権と大学の自治権との関連性に焦点をあて、大学自治における基礎的研究のイシュ―を論じ、

考察していきたい。

明治期から昭和期にかけての学問の自由、それにかかわる大学の歴史的考察を行うにあたっ ては、日本で初めて創設された東京大学の歴史を探ることによって、東京大学が直面してきた 大学問題の背景に存在する様々な歴史的事実やその原因を探究する必要があろう。そこでま ず、簡単に東京大学の歴史に触れておく。東京大学の源流は、江戸時代の半ばから後期にかけ て徳川幕府が設けた三つの教育研究機関にたどり着く。一つ目は、林家(私塾)に起源をもつ 昌平黌(昌平坂学問所)であり、二つ目は、種痘所に起源をもつ医学所、三つ目は、蕃所調所

(洋学所)に端を発する開成所である。その後、国学者、漢学者、洋学者間の学問闘争が続き、

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様々な分裂過程を経ながら、南校、東校を経て、東京医学校と東京開成学校になり、1877(明 治10)年に官立・文部省所管の東京大学となる。1886(明治19)年には、帝国大学令により、

東京大学が帝国大学とされ、1897(明治30)年に京都帝国大学が新設されると、帝国大学は東 京帝国大学と改称された(東京大学百年史編集委員会1984、7-550・787-817頁・寺崎2001、413- 417頁)。1877(明治10)年開設の東京大学の時代は、少しずつ独立した機構として歩みつつ、

わずかながらではあるが、大学の自主的裁量の幅も広げていった。また、東京大学に勤務する 外国人教師は、日本よりレベルの高い西洋近代科学をもった専門家であったため、大学におい ては、ほぼ完全な教授の自由をもつことができたのである(寺崎2001、29頁)

1893(明治26)年3月に、井上毅が文部大臣に就任すると、帝国大学管理の法制と形態は、

新しい局面を迎えることとなる。それは、大学自治的制度のあり方からいえば、大日本帝国憲 法(明治憲法)下にその法理の枠内で許容される最大限の制度的完成を意味する改革となっ た。その内容についていえば、井上は、高等教育の実学化を期待し、また、帝国大学について は、帝国大学解体を目指しながらもそれを後に回し、帝国大学における自治権の法制度的拡大 を遂行する行動をみせた(寺崎2001、253-256頁)

以下では、学問の自由と大学の自治にかかわる政府と大学との対立など、その主だった事件 を戦前・戦後にかけて時系列的に整理しておく。

久米事件(1892年)

久米邦武博士が「神道は祭天の古俗」を論じ、神話解釈でも神は人なりという見解を述べ、筆 禍事件として帝国大学を非職 (退職)となった事件である。「神道は祭天の古俗」(『史学界雑誌』

1891年)とは、日本の神道は宗教でなく、祭天(天を祭ること)の古俗の一つであるとした学説 で、伊勢神宮・三種の神器などにおける従来の天皇中心の神話的解釈についても批判した。当時 は、大学人自身も大学自治の意義をまだ十分に自覚していなかった時代である。

哲学館事件(1902年)

1902年10月、東洋大学の前身である哲学館に文部省視学官である隈本有尚以下数名が訪れ、卒 業試験を臨監した際、中島徳蔵講師担当の倫理学の試験問題に「動機善にして悪なる行為ありや」

という設問があった。哲学館では、桑木厳翼訳のミュアヘッドの倫理学書を用いており、隈本は、

一学生がこれにしたがって書いた答案を国体上不都合であるとし、中島講師を引責辞任に追い込 み、同時に勤めていた東京高等工業学校講師も退職させた。そして、1898年以来、慶應義塾・早 稲田・國學院とともに許されていた教員無試験検定の特権が哲学館は取り消された。

戸水(七博士)事件(1905年)

日清戦争(1894・1895年)後、欧米列強におけるアジア地域への略奪・侵略政策のもとで、日本 も帝国主義へと突入した。日露戦争開戦時には、対露強硬外交を主張し、ポーツマス条約締結反 対を唱えて政治活動に乗り出した七博士(東京帝国大学ほか)の中心であった東京帝国大学の戸 水寛人教授に、文部省が休職を命じた事件である。当時の東京帝国大学総長である山川健次郎は、

責任を負って辞職したが、全学の教授が、山川総長・戸水教授の復職、久保田譲文部大臣の辞職 を要求し、大学側が勝利した。これにより、大学の自治における教授の身分保障の確立や大学自 治の意義が社会的になった。

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沢柳事件(1914年)

1913年、東北帝国大学から京都帝国大学に転任してきた沢柳政太郎総長は、大学の改革と沈滞 の一掃のもとに、教育学の谷本冨教授ほか七教授を辞職させ、小西重直等の教員を採用した。他 方、法科大学の教授等は、沢柳に対し教授の進退について、総長が文部大臣に具状する前に、教 授会同意の必要を迫った。沢柳がこれを拒絶したため、翌年、40数名の教授等が辞表を提出し、

休講届を出して欠席した。最終的に教授側は勝利し、教授の任命について、総長が職権の運用上 教授会と協定することには差支えなく、かつ妥当であるという覚書を奥田義人文部大臣より獲得 した。沢柳総長は退陣し、内規により、総長(学長)、教授および助教授の任免、進退に関しては、

あらかじめこれを教授会に諮り、その多数の同意を得て決定すると定めた。

森戸事件(1914年)

1919年、東京帝国大学経済学部助教授森戸辰男が学部機関紙『経済学研究』の創刊号に、「クロ ポトキンの社会主義思想の研究」という論文を掲載した。学内の右翼団体「興国同志会」が、こ れを「けしからん」と騒いだだめ、検事局が乗り出し、新聞紙法42条「朝憲紊乱」の項の抵触に より森戸は休職処分にされ、禁固3ヵ月の刑を受けた。編集発行人の大内兵衛助教授(東京帝国 大学)も休職処分にされた。検事局は森戸の検挙を文部省に通知し、文部省は東京帝国大学の山 川健次郎総長に伝えた。経済学部教授会は、6対1で森戸の休職を決定、しかし学生委員の向坂 逸郎は、「われらは学問の独立を期す」という決議案の説明演説を行い、また法学部学生大会は、

経済学部教授会・総長の反省の決議を採択した。

河上事件(1928年)

左傾教授の処置として、水野錬太郎文部大臣は、大森義太郎(東京帝国大学助教授)、河上肇(京 都帝国大学)、向坂逸郎、石浜知行、佐々弘雄(以上、九州帝国大学教授)の諸教授を指名し、各 帝国大学総長に断固たる処置をとるように厳命した。河上は、辞意を表さなかったため、荒木寅 三郎総長は、経済学部教授会の決議による体裁を整えようとし、教授会に問うこととした。経済 学部教授会の決議は、総長が河上肇教授の辞職を要求する理由に同意するものではないが、教授 の自発的辞職を要求することに異議をいうものでもなかった。これにより、総長は河上に対して 辞職を勧告し、河上はこれを受け入れた。

滝川事件(1933年)

1932年、京都帝国大学法学部教授滝川幸辰は、中央大学で「『復活』に現れたるトルストイの刑 罰思想」という講演を行った。そのなかで、滝川は、「社会は犯人に対し、復讐的態度をもっての ぞむに先だち、犯罪の原因を十分に検討しなければならない。同情と理解とは、報復的刑罰にま さることはるかに大である」という意味のことを主張した。これは、共産党弁護の演説だとして 検事総長の耳に入り、法務大臣を通じて文部大臣鳩山一郎が動きだした。鳩山一郎文部大臣は、『刑 法読本』を左翼思想だと決めつけ『刑法講義』とともに発売禁止とした。文部省は、教授会の一 致した反対の意思表示にもかかわらず、滝川を休職処分に付した。最終的に、滝川教授は、免職 となった。

天皇機関説事件(1935年)

美濃部達吉(東京帝国大学教授)の天皇機関説は、第一次世界大戦中から学説として主流を占 め、また、政府公認の理論でもあった。美濃部の理論は、天皇を国家の最高機関とするもので、

天皇を否定するものではなかった。しかし、軍部や右翼は、天皇を機関ということは神聖を犯す 反国体の議論として攻撃を加えた。衆議院議員江藤源九郎(予備陸軍少将)が、美濃部を不敬罪 で東京地検に告発したところ、美濃部の著書である『逐条憲法精義』、『日本国憲法の基本主義』等 の三冊が発売禁止となり、政府は国体明徴の声明をだして、公式に機関説を否定した。美濃部は

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右翼テロリストに襲われることなどがあったため、大学教授たちは有形無形の圧力を感じ、その 発言は極端に窮屈なものとなった。

矢内原事件(1937年)

1937年に日本の中国侵略が始まった折、東京帝国大学の矢内原忠雄教授は、帝国主義下の台湾・

満州の問題などを取り上げた。そして、『中央公論』に投稿した「国家の理想」という論文が東京 帝国大学経済学部長土方成美の目に留まり、土方はこの論文を取り上げ、論文内容が反戦的であ るとし、矢内原の追放を提案した。土方はこの問題を長与又郎総長にあずけ、総長独自の職権で 善処するよう要望した。長与総長は、一度は処分を見合わせたが、内務省警保局長安倍源基は、

矢内原の個人雑誌『通信』における講演の反戦的な内容を文部大臣に伝えた。これにより、文部 大臣は長与総長に矢内原の辞職について圧力をかけ、その結果、長与総長は矢内原の処分を決心 し、矢内原は辞表を提出した。

河合事件・平賀粛学(1939年)

反マルクス主義・自由主義者の東京帝国大学経済学部教授の河合栄治郎は、軍部とファシズム の台頭に批判的となり、2・26事件(1936年)について、反対の批評を行った。また、荒木貞夫 文部大臣の総長官選方針に対して経済学部内の反対派の中心となった。そのため、河合は軍部・

右翼・文部省からねらわれ『改訂社会政策原理』、『ファシズム批判』、『時局と自由主義』等の著 書が発売禁止処分となった。これらの問題に関し、当時の東京帝国大学総長平賀譲は、河合とと もに東京帝国大学経済学部教授の土方成美教授を罷免する断をくだし、その旨文部大臣に具申し た。その結果、高等文官分限委員会は、河合と土方を休職にした。なお、土方は総長官選賛成派 であった。

津田事件(1940年)

1939年10月、東京帝国大学法学部の東洋政治思想史の講座で、早稲田大学文学部の津田左右吉 教授が中国の政治思想史を主とする講義を約10回行った。原理日本社の蓑田胸吉の雑誌『原理日 本』は、以前から津田の学説を攻撃し、津田の特別講師就任と同時に東京帝国大学の法学部攻撃 を津田攻撃としてきた。その結果、1940年1月、津田は早稲田大学を辞任し、著書『神代史の研 究』、『古事記及日本書記の研究』等は発禁処分になった。津田の学説は、大正初めから『古事記』

『日本書記』にある神代の物語は、歴史的事実を語ったものでなく、朝廷において皇室の由来をと く政治的意図のもとにつくられたものと主張し、日本古典解釈の基準的存在となっていた。

イールズ事件(1949年)

1949年、新潟大学開校式(新制大学として発足)における CI&E (総司令部民間情報教育局)教育 顧問であるイールズ博士の講演は、反共政策を大学におよぼすことを目的とし、日本の大学をアメ リカの世界政策に組み入れることをねらったものであった。イールズはこの講演で、共産主義は危 険で破壊的な主義である、共産党員は思想の自由をもっていないなどと説き、この声明は各大学に 大きな波紋を投げかけた。九州大学、熊本大学、秋田大学、富山大学においては、共産党員または 同調者ということで多くの教員に辞職勧告が行われた。大学教授連合等は反対運動を行ったが、イー ルズはその後も、静岡大学、山口大学、横浜国立大学、名古屋大学などで同様の講演を行った。

東京大学ポポロ座事件(1952年)

1952年、東大構内の教室で同大公認の学生団体(ポポロ劇団)による演劇発表会に、私服警官4 人の潜入を学生が発見し、警察手帳を奪う等の暴力を加える行為をしたため、学生2名が暴力行為 処罰法1条1項違反で起訴された。最高裁は、学問の自由と大学の自治との意義を説き、教授その

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他の研究者が大学の自治の主体であり、学生の自由ないし自治については、それらの主体の享受す る自由と自治の効果として与えられるものとし、とくに「学生の集会が真に学問的な研究またはそ の結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動にあたる行為をする場合には、大学 の有する特別の学問の自由と自治は享有しない」とし、当該演劇発表会は学問の自由と自治の対象 にならないとした。その結果、1973年3月22日、再上告棄却判決で被告有罪が確定した。

以上、伊ケ崎2001、26-150頁・伊藤1997、288頁・教育判例研究会1972、2309(83)-2338頁を参考 に作成。

以上のように戦前・戦後にわたり、国家(政府)と大学の対立の状況をみてきた。戦後、日 本国憲法23条における学問の自由は、戦前における日本の教育制度・教育行政の中央集権化、

強度の官僚統制、尊重されない教育の自主性、学問研究の自由の不当拘束への批判と反省から なされたものであるといえる。人間にとって真理を探究するための理知的活動である学問は、

美の追求(芸術)、善への意思と実践(道徳)、人生や社会に対する考えにおける確信(思想・

良心)、神などへの信仰(宗教)などとともに、人間生活にとって欠くことのできない本質的 なものである(伊ケ崎2001、5-6頁)。戦後になると、このような学問の自由と大学の自治は、

戦前の慣行から法的保障を得ることとなった。また、その法的保障は、帝国大学・官立大学だ けに与えられていた特殊な権益から脱却し、国・公・私立のすべての大学に広げられていっ た。いうなれば大学の自治とは、大学が政治・宗教・行政上、またその他の権力や勢力の干渉 を排除して、大学構成員の意志にもとづいて研究と教育の自由を行使することであろう。この ことは、真理の探究を使命とする大学を大学たらしめ、学問の自由を保障するための制度的慣 行といえよう(伊ケ崎2001、9頁)

このように明治憲法体制の崩壊と日本国憲法の制定は、学問の自由をめぐる歴史的状況を一 変させた。戦前において学問の自由を制約してきた治安立法は、ことごとく廃止され、大学等 に対する文部省の統制権は、おおむね撤去された。敗戦直後に樹立された日本国憲法を、とく に優れたものとする思想・学問・教育に関する法秩序が、その基本的な原理を変えることな く、そのまま維持されていたならば、少なくとも権力による学問の自由への外部からの制約は、

すべてなくなったであろう。しかし、不幸にしてこの学問的自由の時代は極めて短期間で終わ り、東西冷戦の激化に伴う占領政策の転換にともなって、学問の自由は再度厳しく束縛される ようになった。それはまず、占領軍の直接の圧力という形であらわれた(家永1998、265頁) 家永によれば、「この前後になると、占領軍の直接の指令によるばかりでなく、国内法の体系 もまた大幅に変質し始め、思想および表現の自由を無制約的に保障していたはずの憲法の実質 的空洞化が進行し、治安警察の戦後版ともいうべき公安条例や、治安維持法の再現ともいえる 破壊活動防止法などの再編成」(1998、265-266頁)が行われ、それにより、教育二法(「教育 公務員特例法の一部を改正する法律」1954年6月3日公布・「義務教育諸学校における教育の 政治的中立の確保に関する臨時措置法」1954年6月3日公布)、教育委員会公選制の廃止、教 科書検定の強化や学習指導要領の改訂など文部省による教育統制が再び進むことになった。こ のように、終戦直後の時期には、米国による民主的思想の導入から一転し、「日本を反共の砦」

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にするという逆コース政策(3)によって、学問の自由に対する侵害が、再び様々な形において現 出してきたのである(家永1998、266頁)。また、終戦から10年以上が過ぎると、1960年代の日 米安全保障条約改定や高度経済成長政策のもとで大学統制が試みられ、最終的には成立しな かったが、1962(昭和37)年6月には「大学管理法案」(中央教育審議会)が表出された(伊 ケ崎2001、17・18頁)

このように、大学の自治は、当時大きな危機に直面していたが、間接的には、大学が文部省 等の外部勢力の圧力を受け、教官の不利益処分を強行した事例はあるものの、政府の意向によっ て大学教授の罷免が行われるといったことは、現在のところみられない。したがって、学問の 自由が、米国の逆コースの政策転換にもかかわらず、今までのところでは、戦前よりもよく維 持されているといえる。しかし、教科書検定の強化などいくつかの面で学問の自由の侵害がな されていることも看過すべきでない(家永1998、266頁)

3.憲法における学問の自由と大学の自治について

(1)学問の自由の内容

学問の自由(23条)は、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、および表現の自由

(21条)と重複し、本条は他の精神的自由権に対する特別法とされる(成嶋2006、175頁)。こ こではまず、その内容についてみていこう。学問の自由は、通説・判例が一致して認めるとこ ろ、① 学問研究の自由、② 研究成果発表の自由、③ 教授(教育)の自由、④ 大学の自治の 4つがあげられる。そのなかでも、国民一般と一般統治主体との間で保障される一般保障、研 究教育者機関において教員研究者(団)と機関の設置管理者との間で保障される特別保障とい う枠組みを援用した場合に、特別保障は ①~④ のすべてに関わり、一般保障は主として ① と② にかかわるといえる(松田2011、206頁・教育判例研究会1972、2309(83)‐2309(96) 特別保障の具体的な形態として、公務員ないし職員として雇用関係に立つ教育研究者は、研究 教育の固有内容に関して外在的な任命権や上司の指揮監督を受けない。この点について、学校 教育法では、「学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する」(92条3項)と規定されてい るが、「所属職員を統督する」についての解釈は、「監督は細部にわたらず、大局的立場に立っ てなされるべきこと」を意味するのが有力説である(天城1958、212頁)。このような教員人事 の一部でもある身分保障法制は、研究教育活動に対する否定的評価にもとづいて、その地位を 奪われることがないように担保されなければならない。身分保障は、「教育研究という専門職 能が専門職能として存立しうるための最低不可欠の必要条件」(高柳・大浜1986、101頁)であ る。現在、非公務員化した国立大学法人、公立大学法人には教育公務員特例法の適用がなくなっ たが、憲法原理としてのアカデミック・デュー・プロセス(4)という観点から、私立大学も含め て類似の手続きを就業規則・労働協約等において定めることが必要とされる(成嶋2006、177 頁)。憲法23条の学問の自由の意義について、高柳・大浜は、研究者も当然一市民として、同 僚市民と等しい市民的自由を保障されるべきであり、それにより個人として自由に真理を探究

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できると指摘する。また、確かに研究者といえども、より高度かつ特別の自由を要求・享受し うるものではない。しかし、研究教育機関においては、設置管理者が教員研究者の自由な研究 教育機能の遂行を、彼らの所属する研究教育機関の使用者としての立場においてもつ諸権限(業 務命令権、懲戒権、解雇権)を行使して、これに恣なる干渉を加えてくることから守ることの 必要性が認識されるべきであると述べている(1986、99頁)

(2)大学の自治の内容

次に、大学の自治について通説・判例は、① 教員人事権、② 施設・学生管理権をあげてい る。これに対して、特別保障の実質化を企図している学説は、さらに、③ 研究教育の内容・

方法・対象の決定権、④ 自主的財政権の2点を加えている(松田2011、209頁・橋本1978、202- 208頁)。とくに ① 教員人事権については、同僚人事の自主決定が、「共に研究・教育活動を 担う教員団の構成員を銓衝・決定する教員人事は、それによって選ばれ、迎えられた教員の相 互交渉・・・・・・を通して、そこでの『教育研究』の在り方を直接決定づけ、変化させるため の始動作用」(蟻川2002、66頁)として、研究教育との密接不可分性を説明している。いわゆ る教員人事の自治権は、法形式的には任命権者(私立大学の場合には理事会等の外的管理機 関)がもつ教員人事権を形式化し、実質的には、学問的専門能力と知的誠実性を正しく評価で きる同僚たる教員研究者自身(教授会)が教員人事を確保することが、大学自治確立の中心課 題となるのである(高柳・大浜1986、101頁)

このように戦前における学問の自由が慣行法的に行われていたのに対し、戦後は学問の自由 が成文化され、それにともない大学の自治が確立することによって、とくに大学教員における 特別保障としての学問の自由が堅固なものとなったのである。

昨今の事例としてあげられるのは、たとえば科学技術の世界において、2014(平成26)年春 に防衛省から輸送機の不具合の原因究明に協力を求められた東京大学が、軍事研究を禁じた 1969(昭和44)年の確認書によってこれを断った。このことは、教授会を通した大学の自治が 機能したといえよう。ところが、その大学自治の機能が危うくなるような事例が発生している。

先般の国会で成立した改正学校教育法(2015年施行)は、教授会を諮問機関化し、その権限を 大幅に縮小することで、学長が教授会に対し強いリーダーシップを発揮し、大学経営・運営を 行うことができるとした。それについて池内は、この改正が学長を甘やかし、かつ唯我独尊に する可能性をもち、学長の意向次第で研究がゆがむ恐れがでてくる危険性があるとしている

(2014、11頁)。このように現行の教育政策により、大学の自治が侵害される危険性が生じてい るが、現憲法下では学問の自由が保障され、大学の自治が確立しているのは事実である。

(3)歴史的経緯とその内容

歴史的に考察すれば、学問の自由を獲得する道のりは険しいものであった。以下では、学問 の自由と大学の自治を獲得するための経緯と内容について論じておこう。

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大学自治の危機的状況の可能性を歴史的に観察すると、1877(明治10)年に創設された東京 大学の段階においては、ヨーロッパの大学において認められていた大学自治が、日本の大学に おいても同様に、管理・人事事項についてある程度認められていた。しかしそれは、形式的模 倣の域をでないと思われ、必ずしも明確な自治意識からであったと断定できない。1886(明治 19)年に帝国大学令が発布されると、「国家ノ須要ニ応スル」という規定は、大学にも官学主 義・国家教育主義が固定化したことを意味する。したがって、帝国大学存在の基本理念や性格 においてドイツ思想の影響が認められるとしても、ここでは、日本の大学の伝統的理念が復活 したというべきであろう。いわゆる、帝国大学が官学(国立)主義をとり、かつ管理上は文部 大臣 (政府)直属の方式を採用したことにより、学問自体の独立性が保持できないだけでな く、学問が侵害される可能性を残す危険性があった(酒井1978、505頁)。学問の自由を侵害し たとされる事件は、1892(明治25)年の久米事件、1905年(明治38)年の戸水事件、その後、

1914(大正3)年の沢柳事件(教授の任免・罷免には教授会の同意を必要とするという慣行が 初めて政府により公認)、1920(大正9)年の森戸事件、1923(昭和3)年の河上事件、1933

(昭和8)年の滝川事件、1935(昭和10)年の天皇機関説事件、1940(昭和15)年の津田事件 などがある。このような事例は枚挙にいとまがなく、戦前の明治憲法下においては、学問研究 のための機関である大学の内部でさえも、学問の自由は必ずしも保障されていなかった。戦前 の大学には、実定法上きわめて狭い範囲でしか大学の自治が認められておらず、大正デモクラ シーの時代に入って以後、慣習法的規律よって自治の範囲がある程度政府によって認められ、

大学が慣習法の上で総長・学長・学部長・教授・助教授の人事権を獲得したが、その人事権が 成文法の根拠を欠いていたことは、大学自治制度としては、致命的な弱点であった。そして、

1931(昭和6)年の満州事変以後の時期に入ると、政府は帝国主義思想のもとでこの慣行を踏 みにじり、政府が好ましく思わない教授を退官に追い込んだ例も少なくなかった(家永1998、

249-316頁)。

その後、1945(昭和20)年の太平洋戦争の敗北によって、日本国憲法が制定され学問の自由 が基本的人権の一つとして明文化された。そして、大学にも未だかつてない自由を与られるこ ととなったのである。その反面、上述した大学管理法はついに成立をみるに至らなかった(家 永1998、323・327頁)。この学問の自由の成文化は、大学自治の歴史上まさに画期的な出来事で あったといえる。

4.新自由主義における教育思想および政策と大学の自治の関連性

今日における教育改革の背景には、愛国心、公共精神、規範意識といった新国家主義あるい は新保守主義のイデオロギーと新自由主義のイデオロギーが介在している。新自由主義イデオ ロギーは、世取山の言葉を借りれば、「法制論的に見た場合には新自由主義は、政府によるあ る特定の作用の供給およびそのための財政支出の義務付けに関わる民主的に設定された普遍的 なルールを撤廃・緩和して、そのルールから政府を解放し、政府にそれが保有する貨幣の使用

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目的、配分量、配分方法および支給先の決定に関する自由裁量を与えることと定義」すること が許されるとしている(2005、101頁)。また、成嶋は、新自由主義について、政府の役割が表 向きは縮小しているが、貨幣保有の事実をバックとする政府のパワーの拡大に存在するものと いえると論じている(2014、229-230頁)。いわゆる市場主義原理のなかで、政府の権限は縮小 されているようにみえるが、実態は大きなパワーを保有しているとも解される。そのなかで、

第一次安倍政権下では、2006(平成18)年に教育基本法の改正を行い、教育振興基本計画を導 入し、第二次安倍政権下では、首相直属の教育再生実行会議を設置し、道徳の教科化、いじめ 防止対策推進法、教育委員会制度の改革などについて中央教育審議会で審議させた。さらに、

6・3・3・4制の弾力化・複線化なども懸案事項として提出されている。

大学に関していえば、細井は、人材養成機関として大学が効率的・効果的に行えるように、

大学ガバナンスが格別に重視されていることを強調し、教育再生実行会議の第3次提言「これ からの大学教育等の在り方について(2013年5月28日、閣議決定)」のなかの「大学のガバナ ンス改革、財政基盤の確立により経営基盤を強化する」から8つの要点をとりあげている。そ のなかの大学ガバナンスに関する2つの要点をみると、① 学長・大学本部の独自予算の確保 など、学長がリーダーシップをとれる体制の整備や教授会の役割の明確化などの法令改正も含 めたガバナンス改革、② 教授会の役割を明確化するとともに、部局長の職務や理事会・役員 会の機能の見直し、監事の業務監査機能強化などについて、学校教育法などの法令改正の検討 や学内規定の見直しも含め、抜本的なガバナンス改革を行うこととしている。そして、このよ うな新自由主義改革を永続的に実行する仕組みを確立させるためには、大学ガバナンスの改革 の名による自治崩壊と本来基盤的経費である運営費交付金の競争的資金化などを喫緊の課題と していることが明らかであると述べている(2013、32-33頁)。これらに対する具体的な動きと して、今回の学校教育法と国立大学法人法の一部改正については、新潟大学教育学部教授会が、

「学問の自由と大学の自治を根底から覆す」として反対し、この改正が学問の自由と大学の自 治を奪い、政府や文部科学省の意向を反映する学長のリーダーシップとガバナンス強化を進め るものと指摘している(朝日新聞2014a、26頁)。さらに、高知大学人文学部教授会でも、大 学の自治が損なわれる法改正は認められないとして、学校教育法と国立大学法人法の一部改正 に反対声明をだしている(読売新聞2014、28頁)

初等・中等教育に目を向けると、道徳の教科化について、文部科学省は、「特別の教科 道徳」

(仮称)として、学習指導要領の改定を行い、教科書検定基準の作成を経て、早ければ2018(平 成30)年度からの教科化を目指している。また、教育委員会制度改革(2015年施行)により、

教育長と教育委員長を一本化した新「教育長」(仮称)をつくること、さらに教科書検定基準 の改定など様々な教育改革が実施されようとしている。

現代の日本社会が世界各国と伍して競争していくためには、このような教育制度改革を進展 させ、市場原理と競争原理にさらされながらより頂点を極めることの重要性をもつことも必要 である。しかし、それを理由に大学が戦前・戦後を通じて守ってきた大学の自治を侵害するこ

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とがあってはならない。最近では、文部科学省が2013 (平成25)年度から、私立の大学や短 大、高等専門学校への補助金に「点数制」を導入した。たとえば教員が、学生に対応するため に研究室にいる時間帯「オフィスアワー」を設定していれば何点、科目ごとに記号や数字をつ ける「科目ナンバリング」を実施していれば何点、学生に授業アンケートを実施すれば何点な どと定め、点数によって補助金が決まるという制度が導入されている。しかし、このような教 育機関の多様性を拘束する制度では、大学の個性が喪失され、学生の個性を伸ばす教育が可能 であるかという問題が生じる。本来、個性的な学生の育成には、教育機関自身の自立と個性化 が必要であろう(高田2014、15頁)。

そこには、政府による補助金や認可事項をたてに、大学の自治の問題まで踏み込んで、規制 をかける事態がないとは限らない。もちろん上述した学長のリーダーシップや大学ガバナンス の強化が必要性を帯びることは重要なことであっても、市民はもちろんのこと、大学教員にとっ ての学問の自由や大学の自治が侵害されることがないように注意を払う必要がある。日本国憲 法は、大日本帝国憲法下の悲劇的な経験から、精神的自由権のなかでも学問の自由が独自の意 義をもつことを認めたものである。本来、人間は、本当のこと(真理)を知りたいという欲求 存在のなかから、学問を追究する源流がみいだされるのである。そのなかで大学の存在、ある いは意義は、人類の学問の成果を継承し、知見をみいだしていくという中核的役割を担ってい る機能をもつもととして位置づけられ、公共的性格を踏まえた高度の自律性(大学の自治)を 保持すべき必要が求められるのである(佐藤2012、241頁)

5.学問の自由と大学の自治における歴史的再考

これまでみてきたように、学問の自由の内容としては、一般に、学問研究の自由、研究成果 の発表の自由、教授の自由およびこれらの自由を保障するための大学の自治があげられる。ま た、いわゆる東大ポポロ事件(最大判昭和38年5月22日刑集17巻4号、370頁)では、学問の 自由の保障内容を「学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由」に限定した一方で、一般 には学問の自由の保障内容とされる「教授(教育)の自由」は必ずしも憲法23条の保障する「学 問の自由」には含まれないとし、他方で、大学の研究者がその専門の研究結果を大学の講義等 で教授する自由は保障されるとした。この判決が、学問の自由の保障内容からひとまず、教授

(教育)の自由を除外した結果、憲法23条によって保障される「教授(教育)の自由」は、「す べての国民」にではなく、「大学教員のみ」、大学の本質にもとづいて、保障されるものである となった(5)(竹内2013、194頁)。野上も、「学問の研究が行われるのは、主として大学におい てであるから、大学において、最も学問の自由が問題とされることが多いのはいうまでもない。

学問の自由を大学に即して考えるときは、それは、『大学の自由』にほかならず、見方をかえ れば『大学の自治』となる。即ち学問の自由と大学の自治は、密接不可分の関係にあり、本条 で学問の自由を保障したことは、その一環として、若しくはその前提条件として、大学の自治 を承認しているものと解することができる。『大学の自治』に関しては直接憲法その他法律の

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明文で規定されてはいないが、これを認めることは憲法上の要請であるといえる」と論じてい る(1977、76-77頁)。

これまで、新自由主義における教育と学問の自由・大学の自治について触れてきたが、ここ で再度、学問の自由と大学の自治の歴史を簡単に振り返ってみる。日本の大学の創設は、欧州 のそれと異なり国家権力により国立大学を典型として発達してきた経緯がある。そのなかでも とくに、東京大学は、日本の大学の典型としてその地位を失わず、そこから日本の大学の歴史 的特質が生みだされてきた。当時、天皇制国家の機関と位置づけられた国立大学が、国家のた めの大学としての役割を果たすことはいうまでもなく、学問の自由や大学の自治の原則も認め られていなかった。大日本帝国憲法やその下での諸法令は、学問の自由を保障せず、帝国大学 令や大学官制は大学の自治を認めておらず、大学教授といえども、帝大・官立大にあっては一 種の官僚にすぎなかったのである。しかしその後、時代の進展にともない厨川白村(6)や吉野作 (7)のように、自ら進んで「象牙の塔を出て」活動する大学教授もあらわれ、その結果、人事 などにおいては、ある程度の大学自治の慣習も獲得された(家永1998、205-209頁)。1945(昭 和20)年の太平洋戦争敗戦による天皇制国家権力の一応の解体によって、大学の社会的なあり 方にも大きな変化が生じた。新たな憲法23条によって、学問の自由が基本的人権の一つとして 保障され、大学の自治は学問の自由を制度的に保障するものとなった。また、教育公務員特例 法 (1949年公布)によって国・公立の学長・教員に関する人事権は、大学管理機構に委ねら れることとなった。日本の大学は、これによって初めて法律上の権利として大学の自治を享受 したのである。しかし、戦後、大学の自治に対する最初の危機的状況があらわれたのは、占領 軍のレッドパージ問題であった。いわゆる逆コースの時期に入ってから、愛媛大学の教官懲戒 処分問題などに代表されるような大学の自由に対する危険が、年ごとに増大していった(家永 1998、212・216頁)

現在では、レッドパージによる教員処分などの事例はみかけないが、教員人事問題について は、新自由主義政策下での今後の動向が注目される。たとえば、従来多くの大学において、学 部長人事は選挙制を採用しているが、弘前大学(国立大学法人)では、学部長の人事を学長が 指名できるように改革する動きもある(朝日新聞2014b、1頁)。このことは、学問の自由を制 度的に保障した大学の自治における人事の自治のなかで、研究者(教授、助教授、講師、助手 等)や管理者(学長、学部長等)の選択は、大学の機関(教授会、評議会等) によりなされ なければならない (橋本1978、204頁)を阻害するものと考えられる。確かに、法人化された 国立大学法人や公立大学法人においては、教育公務員特例法の適用はなくなった。また、評議 会という組織体もなくなっているが、たとえば同法4条3号の「学部長の採用のための選考は 当該学部の教授会の議に基づき、学長が行う」ことが適用除外となったといえども、歴史的に 構築されてきた大学の自治を尊重するならば、弘前大学の動きは、大学自治を侵害するものと いえるだろう。

私立大学については、芦部は「『公の性質』をもち、『教員の身分は、尊重され』(教育基本

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法六条)『重要な事項を審議する』機関は、国公立大学と同じくまず『教授会』である(学校 教育法五九条)から、人事に関する大学の自治が保障されることは、いうまでもない。ただ、

私立の場合は、それぞれの独自の教育方針をもつことができるので、教員の人事について国公 立と異なる特別の規律を設けることも、合理的である限り、許される場合はありえよう。しか し、大学管理機関(理事会)が教授会を上回る実質的権限をもつことは、大学の自治にとって 危険である」(8)(2000、227頁)という。しかし、現行、私立大学において、理事会等の外的 管理機関のもつ教員人事権が形式化(伊藤1997、290頁)されることによって、理事会主導に よる教員人事が行われている例も少なくない。さらに、予算管理については、横浜市立大学に おいて、理事長と学長に人事権を集め、予算と人材を「適材適所」に配置する経営健全化策が だされたという(朝日新聞2014b、2頁)。これについても、大学自治における自主的予算管 理を阻害するものであろう。以上のような事例から、大学の自治が、絶対的な完全自治を意味 するものではないことは承知の上でも、今後、大学の人事が、大学トップによる独断的な方策・

施策がとられる危険性が生じることは避けたい。

6.おわりに

大学自治の源泉を探れば、従来、大学の自治は、教授会の自治とされてきた。これは法人化 以前の旧国・公立大学がドイツ型の教授団の自己統治団体として同じ観念をもつものとみなさ れてきたことにある。現行におけるアメリカ型の素人理事会管理体制をモデルとする法人法制

(国立大学法人法)の導入以降は、私立大学とも法制度の筋道をあわせて、「大学の国に対する 自律」とともに「教授会(教授団)の学長(法人)に対する自律」の重要性が高まっていると いえる(常本2006、8頁)。その意味では、戦後の大学は、レッドパージ事件ばかりでなく、

引き続き、外部からの大学の自由に対する侵害に不断にさらされなければならないといえる

(家永1998、348頁)。これまでの考察から、学問の自由および大学の自治と新自由主義教育政 策との関連性を問うならば、成文法上あるいは慣習法上における大学の自由は、新教育政策や 大学の経営判断について現状に即した要請をある程度認めながらも、学問研究・研究成果の発 表・教授の自由といった根幹となる学問研究上の自由を主張しなければならないであろう。

本稿では、教員人事権を中心に考察・検討してきたため、その他の大学自治項目である施設・

学生管理権、研究教育の内容・方法・対象の決定権、自主的財政権を深く検討することができ なかった。また、大学自治の限界性についてもほとんど考察できなかった。残された課題とし て、今後は、上述した項目についても、新自由主義政策のなかで、どのような影響がもたらさ れるかを考察していきたい。最後に、18歳人口が減少期に入っている現在、大学の存亡が問題 となる。その対策には、学長における即時即決の判断も必要となろう。しかし、その経営的判 断が学問の自由の存在を脅かすことは許されない。換言すれば、新自由主義の教育政策が、学 問発展の多様性を阻害することなく、学問の自由と大学の自治を尊重しながら、両者の互恵関 係を保つことが重要であろう。

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【注】

(1) 一号 学生の入学、卒業および課程の修了 二号 学位の授与

(2) 第二次安倍内閣における教育提言を行う私的諮問機関である。2013(平成25)年1月に 発足した。道徳の教科化、いじめ対策法、教育委員会改革などを中央教育審議会で審議さ せている(日本科学者会議大学問題委員会編2013、25頁)

(3) 米国による日本の占領政策の転換であり、在日朝鮮人の民族教育に対する弾圧、1,700 人に昇る教員のレッドパージなどを行った朝鮮戦争を境に行われた反動化政策、いわゆる 日本における反共政策のこと(佐藤2004、37頁)

(4) 適正な過程、適法手続または適正手続と訳される(竹内他1990、1030頁)。ここでは、

大学教員における身分保障について、学問の自由を保障するための適法手続(適正手続)

のことをいう。

(5) 最高裁の見解によれば、大学その他の高等教育機関以外の教育機関(初等・中等教育機 関)の教授(教育)の自由には、憲法23条の保障がおよばないこととなる。この解釈は、

後の、普通教育においても「教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認め られなければならない」が「教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されな い」(最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号、615頁)との見解に受け継がれていると思わ れる(竹内2013、194頁)

(6)(くりやがわはくそん)、英文学者・評論家で京都帝国大学教授でもある。西洋文芸の紹 介、近代思潮の解説に貢献した。著書に、『象牙の塔を出でて』などがある(新村 出1976、

653頁)

(7)(よしのさくぞう)政治学者・思想家で東京帝国大学教授でもある。大正初年に民本主 義を主唱し、政治・外交・社会の民主化要求の論陣を張り、知識層に大きな影響力をもっ た。大正デモクラシーの立役者でもある(新村 出1976、2281頁)

(8) 本文中の教育基本法は、昭和22年3月31日法律25号の文言で、現行は、平成18年12月22 日法律120号により改正されている。同様に、学校教育法においても、現行(最終改正:

平成26年6月27日 法律88号)では、93条1項である。

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