「物語」の終わる時
一《従妹ベット》覚え書き一
山 田 登世子
バルザック晩年の大作《従妹ベット》について,論じることはあまりにも多い。だが,ここ で私たちの関心は,この作品が何かの終わりを語っていることにある。1846年,七月王政も末
、 、 、
期をむかえたこの時代に,いったい何が終わろうとしているのだろうか。
ひとまずそれを,ヒロイスムの終わり,あるいは物語の終わりとよんでおこう。ヒーローた ロマン
ちの野心の冒険と,その悲劇の物語が,ここで終わろうとしているのだ。そうして,ヒーロー たちがその物語とともに姿をけそうとする時,すぐそこにみえているのは,もはやヒロイスム が時代錯誤でしかなく,およそロマネスクなものが喜劇でしかない,白々とした時代である。
凡庸な,という形容詞がもっとふさわしい時代が始まろうとしているのだ。
本稿は,《従妹ベット》がさしかかっている,こうした「時代」をめぐる一つの覚え書きで
ある9)
(1)
バルザックのヒーローたちの野心の冒険とその悲劇。いうまでもなく,その舞台はパリであ る。けれどもこのパリ,十九世紀のフランスの首都は,具体的にそこに在る場所というより,
むしろ見えない非一場所であり,〈夢の砦〉(2)にほかならない。ありもしない虚構の場であるか らこそそれは,たえず〈地方の青年たち〉(3)の欲望をよびさまし,彼らをいざなってやまない のだ。パリとは,あらかじめサクセス・ストーリーが語られている「物語」の場なのであり,
バルザックの青年たちは自分をその主人公になぞらえて生きようとするのである。
ヒ−ロ−
『物語批判序説』のなかで蓮實重彦は,七月王政時代を「流行の時代」と論じつつ,この流 行という現象が,特権化と排除という分割作用をおよぼしながら「社会そのものを物語として 虚構化する」機能がある,と述べている讐)このような流行現象の発生の場が都市でしかあり えないのはいうまでもないが,七月王政下のパリは,その発生の場にとどまらず,いたるとこ ろに「パリ」と「地方」という分割線をひいてゆきつつ,特権化の対象となった当のもの,異 常なまでの熱狂をもって語られることによって「物語」となった都ではないだろうか。ありも
しない虚構の装置として「芸術家」物語があるように,人びとを駆りたててやまぬ虚構の装置 としてのパリがある。それを,パリ物語とよんでおこう。
〈夢の砦〉をめざすバルザックの青年たちは,このパリ物語のヒーローであろうとするのだ。
そしてこのとき,この虚構を作動させるのは,ナポレオンである。ナポレオンもまた「語ら フイクシヨン
れることによって肥大するイメージ」t5}「幻想的な記号」(6}そのものにほかならず,バルザック において,パリ物語はナポレオン物語ときりはなすことができない。ラスティニャックをはじ め,このような物語を生きようとする《人間喜劇》の数多い青年たちのなかでも,もっとも典 型的なひとりが,《幻滅》のリュシアンであり,リュシアンのうちに,こうした装置としての パリ物語が描きつくされているといっても過言ではない(しかも同時にまたそれは,自分をユ ゴーに,ラマルチーヌになぞらえる,典型的な「芸術家」物語でもあるのだが)7)バルジュト ン夫人にパリの話を聞かされたリュシアンの胸に,パリはまさに夢の都,〈才能ある者たちに 腕をさしのべる,金色の都〉(8)としてたち現われる。そして,そのときリュシアンに,このパ
リ物語を生きるべく,欲望をかきたてるのはナポレオンなのだ。〈そのときリュシアンの心に,
ナポレオンの像がうかびあがった。多くの凡庸な人間に自負の念をふきこみ,「十九世紀」にとっ てかくも運命的なものとなった,あのナポレオンの像が>9)ナポレオンの模倣。それが,バ ミメーシス
ルザックの青年たちの生きる「物語」であり,ヒロイスムである。
けれども,そうして彼らの生きようとするパリ物語は,その物語の必然として,幻滅物語で } s あるほかはない。王のミメーシスを志し,英雄であろうと欲しながら,だれもがそう望むがゆ ヒ−ロ−
えに,結局ヒーローはどこにもなく,あるのはただ,王ならぬ臣下どうし,似た者どうしの競 りあいだけなのだ。同じ欲望を組織し,同じ主人公をつくりだしてしまうこと,それが「物語」
ヒ−ロ−
という装置の運命であり,ヒロイスムをあおりたてながら,同じその装置によって,ヒーロー はどこにもいなくなってしまう。このパリ物語の不幸こそ,バルザックが〈ここ三十年来の青 春の悲劇の歴史>a°}とよぶものにほかならず,その不幸な青春の諸相は,前稿でみたとおりで ある。
だがそれにしても,いみじくもバルザックが語っているように,それは悲劇である。いや,
むしろそれは悲劇であったというべきかもしれない。というのも,時とともにパリ物語は風化
} N s N
し,もはやそれが悲劇ですらない時代がやってこようとしているのだ。七月王政も終わろうと する,《従妹ベット》の時代が。《ゴリオ爺さん》が書かれてからおよそ十年あまり。パリはも はや夢の砦であることをやめ,パリ物語は,いささか色あせた昔物語になろうとしている。い や,パリと地方の分割線はその後もとだえることなく続いてゆき,パリ物語も,色うすれ,希 薄になっただけ,いっそう物語として定着したのだといってもいいが,とにかくそこに悲劇は 不在になりつつある。
《従妹ベット》に登場する青年ヴィクトランの肖像が,こうした時の移りゆきを端的に語っ
てくれるだろう。作品冒頭に登場するヴィクトランは,いまだにパリ物語の跡をとどめる,野 心にみちた青年である。〈息子のほうのユロは,まさに1830年の革命がうみだした青年であった。
政治が大好きで,将来への夢をもち,野心に胸ふくらませていた(……)>9Dだが数年の後,
父ユロにかわって事実上ユロ家の家長となったヴィクトランは,もはや夢の痕跡もなく変貌を とげている。〈彼は実に立派な人間になった。(……)弁護士ユロは,内心の据倣をすて,うわ べの自信も,演説家ぶった尊大な態度もすて,そして政治的野心もすてた。つまりは母親のア ドリーヌを男にしたような人間になった。妻のセレスティーヌはたしかに自分の夢をかなえて くれる女ではなかったけれど,文句をいわず彼女をうけいれようと覚悟をきめた。そうして,
一般に世の常として,何ご占もほどほどのところで満足すべきなのだと悟り,人生を健全に判 o o o o
断するようになった〉㍗
過剰な野心を放棄し,〈健全な〉男になったヴィクトランは,要するにいっさいのロマネスク なものを断念した青年,といっていいだろう。〈金持ちの娘のなかでも,これほどまでにあり ふれて,取りえのない娘もなかった〉鯉と描かれる妻のセレスティーヌは,ヴィクトランが断 念したものの影のようにそこにいるのだ。
バルザックは,この青年の変貌を,ラスティニャックやリュシアンのそれのように,いささ かも幻滅劇として,悲劇として描かない。はやナポレオン物語ははるか遠く,過剰なヒロイス ムは悲劇ならぬ,喜劇であり,アナクロニスムでしかないのである。ヒロイスムの終わり。パ リ物語の終わり。〈何ごともほどほどのところで満足すべき〉時代。いま始まろうとしている O O O O
この時代をよぶのに,凡庸という言葉ほどふさわしいものはないであろう一まさにそれが,
《従妹ベット》の時代である。
(2)
けれども,この凡庸の時代は,たんにヒロイスムの不在だけにとどまるのではなく,むしろ,
ヒロイスムのカリカチュアが際限なくくりひろげられてゆく時代といったほうがいい。
ナポレオン物語が遠いものになろうとするとき,人びとは,もはや英雄ならぬ,おたがいを モデルにして,ただいに他を追いぬこうと,はてしない〈虚栄心の競りあい>ODの世界にひき ずりこまれてゆく。つまりはジラールのいう内的媒介の時代,分身どうしの競りあいの時代が 本格的な到来をつげたのだ。「嫉妬」と「羨望」,それが,この凡庸の時代の欲望のかたちであ 、 、 、 る。そして,それこそ《従妹ベット》の人物たちを動かしてゆく,暗い(しかも滑稽な)エネ ルギーである。(ユロとアドリーヌという,時代にとり残された二人の人物をのぞいて)。
そして興味深いのは,バルザックがここで,この分身たちの競りあい,その相互ミメーシス を,英雄のミメーシスのカリカチュアとして,明らかにそれと意識しながら語っていることで
ある。
ユロがナポレオン庭下の軍人であり,ナポレオン帝政の終焉とともに彼の堕落が一そして ユロ家の崩壊が一始まるのは決して偶然ではない。〈1818年から1823年にかけて,ユロ男爵 は仕事がなくて暇だった。そこでその間,せっせと御婦人方のご機嫌をとるのに励んだのであっ た。ユロ夫人の思うのに,夫エクトルの浮気は,帝政時代の幕切れとともに始まったらしかっ o o oた。〉讐「赤」(剣)の時代の終わるとき,すでにナポレオン物語の終わりは始まっているので
あり,七月王政も末期にさしかかった《従妹ベット》の時代は,全面的に「黒」が勝利をおさ めた時代である。凡庸の時代,それは黒の時代なのだ。
すでにバルザックは,作品冒頭部の青年弁護士ヴィクトランの肖像を,こう描いていた。〈こ の手の青年たちは,昔日のフランス人がなかに納まった,生きた棺桶のようなものだ。(……)
こうした棺桶連中は,きまって黒い服を着ている>li6)と。〈昔日のフランス人〉の喪に服した,
黒い服。やがてボードレールがこの黒服を,群衆のなかの匿名者,現代の新しいヒーローと モデルニテ
するまでの間,《従妹ベット》の黒は,ひたすらヒーローの不在をえがく,ネガティヴな時代 の色である。もはや赤の英雄はどこにもいない,黒の時代。
いや,というよりも,もっと正確にいえば,ただその剣の英雄の似て非なる「複製」だけが コピ−
残ってしまった時代,というべきだろう。というのも,そこには,国民軍の制服に身をかため,
レジョン・ドヌール勲章をぶらさげた,クレヴェルがいるからだ。なにかといえばすぐに〈ナ ポレオン式のポーズ〉をとりたがる国民軍大尉クレヴェルは,いまさらいうまでもなく,剣の 英雄のカリカチュアそのものである。〈たいていの男は,それぞれ得意のポーズというものを 持っている。そうしたポーズをとってみせれば,身にそなわった風格がなおさらひきたってみ えると信じているのだ。クレヴェルの場合,その姿勢は,ナポレオン式に腕を組み,顔はやや ななめに構えてみせる,といったものだった(……)。〉⑰真の英雄はもうどこにもなく,中身 のすりかわった複製だけが,いたずらに数をふやして,似たものどうし,競りあいを繰りひろ コピ−
げてゆく時代。〈真の自由とその否定的なカリカチュアにほかならぬ奴隷状態>9それが,赤と 黒との二つの時代をへだてる差異であり,バルザックはきわめて明瞭にそれを意識しながら,
赤のカリカチュアとしての黒の時代を(しばしばナポレオンの比喩をもちいながら)えがいて
ゆく。
事実,《従妹ベット》のバルザックは,人物の描写においても,事件の叙述においても,年 代記作者が過ぎた時代をふりかえりながら,いま眼前にしている世界を語っていくような口調 がことに著しく,それが,他の作品にもまして《従妹ベット》の語りの特色をなしているといっ ていい。
いまあげたクレヴェルの描写もその典型のひとつだが,作品の中心テーマである放蕩の語り かたにも,顕著にそれがうかがわれる。たとえば次の一節など,そうした語りの典型的な例の
ひとつであろう。〈(……)ヴァレリーの母親は,モンコルネ元帥がパリに滞在していた間,そ こパリで元帥にかこわれ,二十年ものあいだ,すべての人間が自分の足もとにかしつくのを眼 にしてきた。浪費好きで,贅沢のかぎりをつくした日々を送り,いっさいを惜しみなくまき散 らし,すべてを蕩尽しつくした。このような贅沢なやりかたは,ナポレオンが失墜してからと いうもの,ふっつりと見うけられなくなってしまった。帝政時代の高官たちは,派手な遊びか たにかけては,昔の大名たちにもひけをとらないくらいだったのである。(……)要するに貴 族たちはブルジョワ的になり,大きいところがなくなってしまったのだ〉撃あるいはまた,い みじくも〈1840年の連れこみ宿〉と題したくだりの9しめくくりの次の一節もその典型である。
〈以上の素描は,1840年のパリでは,秘められた恋がどんなにみみっちくなったかを,万人に o o 描いてみせるだろう。ウルカノースの網によって,道ならぬ恋が象徴されていた三千年前とは,
何というちがいだろう!〉⑳
だが,黒の時代をえがくバルザックの筆が,いっそう毒をおびるのは,人物をつき動かす欲 望の描写においてである。剣の英雄のカリカチュアであるクレヴェルは,何よりまずユロの模 s倣者である。まずはじめにユロ夫人を誘惑し,ついでユロの情婦ヴァレリーの虜になるクレヴェ
、 、
ルは,たえずユロの欲望を通して欲望し,決して自分の欲望をもつことがない。〈自分勝手に きめたお手本を模倣しようとして躍起となり,月みたいに他人の光で自分の姿を輝かせようと して,競いあう>9この欲望のかたちにおいてこそ,クレヴェルは〈のしあがったブルジョワジー の典型的人物〉㈱であり,黒の時代の自画像なのだ。たえず他人を通して欲望し,他人の欲望
を欲望し,つまりは他人の奴隷であること。(これにたいし,後にふれるが,ユロは自らの欲 望の奴隷ではあっても,決して他人の奴隷ではなく,そこに,ユロの放蕩の貴族性がある)。
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そして注目すべきは,このクレヴェルが,香水製造商のパイオニア,セザール・ビロトーの 二代目であることだろう。クレヴェルは,ユロの模倣者である前に,ビロトーの模倣者である。
〈クレヴェルが区の助役になったのは,昔,主人のセザール・ビロトーが助役をやっていたか らだ。国民軍の大隊長になったのも,主人の肩章がうらやましくてたまらなかったからであ る。〉例〈(……)クレヴェルは,不幸に倒れた先輩の豪著な生活ぶりを,家具の類にいたるまで,
いちいち模倣した〉㌘一代目のビロトーは,香水製造の英雄であり,だからこそ,そのヒロイ スムの不幸に倒れた。けれども二代目のクレヴェルは,決して自らの悲劇をもつことなく,た えず他人の真似をしながら,喜劇をしか演ずることができない。黒の時代は,いやおうなく赤 の時代のパロディの舞台になってしまう禦
同じことが,この黒い世界の中心にいる娼婦ヴァレリーについてもいえる。モンコルネ元帥 にかこわれた浮かれ女を母親にもつヴァレリー一は,その〈母親から娼婦気質をうけついだ〉夕 二代目の娼婦である。けれども,母の時代の派手な散財ぶりが,はばかることのない豪著な蕩
尽であったのにたいし,娘のヴァレリーは,〈ペチコートをつけたマキャペリ>OPといわれるに ふさわしく,けちくさい打算で武装をかためている。〈一家の財産を食いつぶすのは,こうい
う女のけちくさい小づかい帳であって,気まぐれな遊びごとではない>OSのだ。そして,この〈ペ チコートをはいたマキャベリ〉がたくみに男たちをあやつるその戦略も,くっきりと黒の時代 の刻印をおびている。すなわちそれは「嫉妬」の戦略だ。バルザックは,幾多のマルネフ夫人 たち,ギリシアの昔ならぬ,ブルジョワ時代のパリのライスたちについて述べながら,その彼 女らのあやつる術を次のように語っている。〈最後に,あくまでひとりの男に貞節であるよう にみせて,道楽ものたちの渇望の的にならなければならない。ひとりにだけ貞節をつくすとい うことになれば,だれしもその幸運にあやかりたいと羨むだろう>OOまず,あるひとりの男の 欲望の対象となり,その欲望を他に伝染させること。つまりは,他人の欲望を欲望する分身た 、 、
ちの数をふやして,競いあわせること。
まことに自分の時代を心得たブルジョワ的なマキャベリというべきだが,といってそのマル ネフ夫人自らも,他人の欲望にそまらないわけではない。剣に象徴される男のエネルギーを浪 費し,破壊する勢力としてヴァレリーを考察する論は多いが,ヴァレリー自らが,その欲望の かたちにおいて,相手の男たちと同族なのだ,と指摘する論者は多くないのではないだろう
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か61)だが,まぎれもなくこのヴァレリーも,他人の欲望を模倣する奴隷たちのひとりなのだ。
スタインポックにたいする彼女の恋は,《浮かれ女盛衰記》のエステルのような,ロマン派 好みの「娼婦の真実の恋」ではない。バルザックが次のように明記しているとおり,ヴァレリー は,自分が男たちをひきよせるのと同じメカニスムでスタインボックにひきよせられてゆくの である。〈ヴァンツェスラスは,妻オルタンスの熱愛のくびきにつながれていた。だからヴァ
レリーは自分のためにも,オルタンスを憎むリスベットに味方した。世の男たちが,数多くの うぬぼれ男から望まれる女に執着するように,女もやはり,競争相手のいる愛人に執着するの だ。したがって,マルネフ夫人についてくだした考察は,一種の男の娼婦ともいうべき女にも てる男にも完全にあてはまる。ヴァレリーの心にもたげた恋心は,まるで熱病だった(……)〉幽 ヴァレリーは,欲望を他に伝染させながら,みずからも同じかたちの欲望に伝染させられてい る。つまりは彼女も閉じこめられた円環のなかにいる,同じ時代の同じ分身たちのひとりなの であって,だからこそ結局ヴァレリーは,貴族のユロとではなく,クレヴェルと一緒になって,
パリ区長夫人におさまるのがふさわしいのだ。
こうして,黒の時代のパリは,似たものどうし,分身たちの数を次々とふやしながら,その 競りあいのコメディの場となってゆく。二代目のクレヴェルが一代目ビロトーの真似をした 複製であるように,そのまた真似をするコピーのコピーがあらわれてくるだろう。〈ボーヴィ
コピ−
ザージュはパリ風俗を身につけたがっていた。(……)彼はどんなことでもいっさいクレヴェ ルに相談し,クレヴェルの行きつけの服屋の所在地をたずね,クレヴェルのまねをし,クレヴェ
ルのようにそり身の姿勢になることもやった。要するにクレヴェルは彼が模範とする大人物で あった>CO〈あいつ,ポーヴィザージュは,三年前のわしのように,上流夫人に好かれるため なら,十万エキュだってなげだすだろう。(……)あいつはわしが羨ましくてしょうがないん だ〉曾こうして幾多の「クレヴェル」たちは,嫉妬と羨望という同じかたちの欲望をとおして 互いに他のコピーになりながら,際限なくその数をふやして凡庸の時代をかたちつくってゆく。
(3)
だが,嫉妬というなら,文字通りその化身であり,ひたすら従姉アドリーヌにたいする嫉妬 によって生きている,貧しき縁者ペットこそ,語るべき最大の存在であろう。〈嫉妬が,この 女のエキセントリックな性格の基盤をなしていた〉禦
けれども,注意しなければならないのは,ベットのこの嫉妬が,幾多のクレヴェルたちのそ れとは微妙にちがっているということである。醜く貧しいベットは,ただただ美しい従姉アド リーヌの幸福を羨み,ユロ家の幸福を妬んで,ひそかにそれを破壊しようとする。〈ベットにとっ て,ユロの家庭は日一日と憎らしいものになっていった>CO〈アドリーヌはしあわせすぎて罰 があたったのよ,わたし,うれしくてしかたがない,子供のころを思いだすもの。だれにも順 番があるわ。こんどは彼女が泥にまみれ,このわたしがフォルツハイム伯爵夫人になる番よ!
……р?獅ッれども,ベットのこの羨望,この執念は,実は大いなる幻想のうえになりたって いるのである。というのも,ベットが復讐をくわだてるまでもなく,とうの昔にアドリーヌは 不幸になっており,ユロー家は崩壊の一途をたどっているのだから。
《従妹ベット》が当時の大衆にうけたメロドラマをシェーマにしていることは周知のとおり だが,N.モゼはさらに,このベットとアドリーヌの二人の従姉妹の設定に,「おとぎ話」のシェー マがあると指摘している。ヴォージュの農村に生まれた貧しい百姓娘の二人のうち,器量よし のほうの娘が,パリの貴族にみそめられて男爵夫人になる筋だては,まさに《シンデレラ物語》
そのものである。けれども《従妹ベット》は,そのシンデレラ=アドリーヌのその後の不幸を } s
語るのであって,バルザックは〈反一おとぎ話〉を書いたのだ,とモゼはいう。しかも,この おとぎ話の反転が,その民話を支えていたイデオロギー的基盤であるナポレオン帝政(家父長 的秩序)の崩壊と機を一にしている,というモゼの論は実に示唆するところが大きい撃
けれども,私たちの関心は,ベットのなかで,その「おとぎ話」がいつまでも生きつづけて いるということにある。彼女からみれば,アドリーヌはいつまでたっても依然として〈シンデ レラ姫〉なのだ。はや,そのシンデレラは色あせ,〈しおれかかった百合〉倒になって,ひたす ら不幸に耐えているというのに。〈ベットの眼からみれば,男爵夫人の邸宅は相かわらず豪勢 さを誇っているかのように見えた。ベットは,成りあがり香水商人とはちがって,虫の食った
肘掛け椅子や,黒ずんだカーテンや,かぎ裂きのできた絹地のうえにありありと現われている 一家の貧窮には気がついていなかった。(……)ベットにしてみれば,ユロ男爵の屋敷は,帝 政時代に盛んに打ちあげられた戦勝記念のベンガル花火の輝きに今もあかあかと照らされて,
つきせぬ威光を放っているように見えたのである〉壁
ベットのこの幻想一ベットにとって,ユロ家の屋敷は,いまなおナポレオンの威光にあか あかと照らされた,いわば〈夢の砦〉といえるのではないだろうか。そしてアドリーヌはその 夢の館に住まうヒロインであり,そのヒロインを,ベットは羨んでいるのだ,と。O.まりベッ
トは,もはやパリ物語が終わってしまったこのパリで,いまだにパリ物語につきまとわれてい るのではないだろうか。
というのも,ベットは,まさに〈語のあらゆる意味で,ヴォージュ地方の百姓娘〉㈹だから である。〈野蛮な>sauvageという語が,ベットを形容するのに頻繁にもちいられる語彙であ る留けれども,ベットのこの野蛮さは,彼女がパリに,いやパリ物語にそまっていないとい うことではない。モゼは,ベットの発揮するすさまじい憎しみのエネルギーが,〈社会をおび やかす危険な力を代表し>9〈民衆の羨望と暴力を象徴〉@していると論じているけれども,こ の〈民衆〉は,ひたすらパリの方を向き,夢の砦をめざしているがゆえに,けっしてパリを越 えることがないのである。
ジラールは,他人を通して欲望するという,黒の時代の欲望について,次のように述べてい る。〈形而上的欲望のこのような前進は,異なった二つの前線で展開してゆく。このオントロジッ クな病いは,まず,すでに汚染された地域で悪化し,その一方で,いままで汚染をまぬがれて いた地域にもひろがってゆく。〉㈲ヴォージュ地方の百姓娘ベットは,すでに汚染されきったパ リで,おくれて感染するのであり,時代おくれの「パリ物語」を一自分がヒロインになれぬ
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というネガティヴなかたちで一生きようとするのだ。〈こんどは,このわたしが,フォルツ ハイム伯爵夫人になる番よ!……〉。決して模倣欲望をこらえられぬこと。いや,こえるどこ ろか,いまだに〈この病いの最初の襲来〉㈹の圏域にとどまりつづけていること,そこに,ベッ
トの暗いエネルギーの根源的な不毛性がある。
ヴァレリーという他者の肉体をかり,背後からあやつる悪魔的な力として,ベットはよく ヴォートランと比較されるが,いまこの欲望論的な次元で両者の差異をあらわしてみれば,こ う言うこともできるだろう。すなわち,ヴォートランは軽蔑するが,ベットは嫉妬するのだ,
、 、 、 、
と。だからこそヴォートランは世界を超越するのに対し,ベットには決してそれができないの
である。
そのベットをよそに,パリはますます汚染の度をつよめ,いっぽう地方にもその汚染はひろ がっていって,第二,第三のボーヴィザージュたち,〈群衆になるためにこの世に生まれてきた,
いなかのクレヴェルの類〉⑰は,どんどんその数をふやしていくことだろう。
(4)
この凡庸の時代に,もはやパリ物語は時代おくれであり,ヒロイスムはもうどこにもありは しない。もしそこにまだ語るべき物語があるとすれば,もっぱらそれは,反一ヒーローを語る 倒錯した英雄物語,モゼの言葉をかりれば,〈反一叙事詩〉でしかないだろう{YD旧ナポレオン 麿下の軍人であり,一家の父であるユロの放蕩,この「放蕩親爺」の物語は一そのユロに最 後まで貞節な妻アドリーヌの「美徳の不幸」の物語とともに一文字通りこうした反一叙事詩 そのものである。
実際誰もが他人を通して欲望し,他人の奴隷になっているこの世界のなかで,ユロとアド リーヌの二人だけが例外をかたちつくっている。そもそもユロは,すくなくともヴァレリーに 出会うまで,嫉妬というものを味わったことがない。〈猛将ミュラが恐怖の情というものを知 らなかったように,美男の生まれのおかげで参事院議員ユロは,嫉妬を覚えたことがなかっ た〉禦アドリーヌもまた,夫の数々の不貞をしりながら,けっして嫉妬することがない。この 二人は,ただひたすらぞ?処の欲望に(一方は好色の,一方は夫への愛の)盲いているのであっ て,だからこそ二人は,誰もが他人の欲望をまねてしまうこの黒の時代と劇的なコントラスト をなしながら,語の全き意味で時代錯誤的な「赤」のヒロイスムを生きるのである。いや,ヒ N } へ N
s
ロイスムならぬ反一英雄物語,ひたすら堕ちてゆくことしかしらぬ反一ナポレオン物語を。〈わ たしは,ただただ,あなたというわたしのナポレオンのジョゼフィーヌなのですわ〉倒
事実,この好色の「ナポレオン」ユロの時代錯誤ぶりは,他でもないその放蕩そのもののな かで遺憾なく発揮される。〈ユロ男爵は,帝政時代の人間で,帝政風のやり方になれていたから,
当世風の恋に駆けひきにはとんと通じていなかった>51)このユロが,打算で武装し,〈当世風の 恋の駆けひき〉にたけたヴァレリーに苦もなくあやつられるのは当然のことだろう。国をあげ て「金持になれ」といそぐこの蓄積の時代に,ただただ一家の財産を食いつぶしてゆくユロは,
(色恋のさなかにも銭勘定を忘れぬ香水商クレヴェルと対照をなしつつ),その「蕩尽」にお いて貴族的であるともいえるが,それ以上に,誰もが他を追いぬこうと競いながら,結局みな 互いに似てしまう水平化の時代にありながら,いわば垂直に,ひたすら堕ちてゆくその破滅性 シ s N
において,(最後の,そして倒錯した)赤の英雄なのである。
だが,それにしてもユロは堕ちてゆく。一家の父であるべきユロは。クレヴェルがビロトー の二代目であり,ヴァレリーが母娘二代の娼婦であるようには,ユロは誰の二代目でもないが,
放蕩親爺の系譜をさかのぼれば,そこには《絶対の探求》のクラーエスがいる。クラーエスも またその探求の情熱に盲いて,財産を蕩尽し,一家を破滅においやる,堕ちた父である。けれ ども,そのクラーエスは科学的探求の英雄であり,未知なるものの征服にのりだす「ナポレオ ン物語」のヒーローそのものであった6カしたがってクラーエスは,その狂気において上昇す
るが,一方のユロは,その狂気を通してひたすら下降してゆくことしかしらない。1846年,7 月王政も終わろうとするこの時代に,もはやナポレオン物語はもう二度と書かれうるべくもな いのだ。そのパロディとしての,反一叙事詩のほかには。
物語の終わり。物語のない時代の始まり。堕ちた父ユロにかわって,〈何ごとも讐ζ讐ζの ところで満足すべきことを悟った〉,賢明なヴィクトランが,やがて父の座につく。そのヴィ クトランたちが数をふやし,ボーヴィザージュたち,似たものどうしが,際限なく数をふやし てゆく時代一ディヤーズが言うように,ここで「熱きもの」の時代は終わりをつげ,〈シュ
ミラークルのはてなき王国〉が,すでに始まろうとしているのである㌣
(5)
最後に,いま始まろうとしているこの時代に,もっとも似つかわしいひとりの人物にふれて,
この覚えがきを終えることにしたい。それは,〈なりそこないの芸術家〉⑭スタインボックであ
る。
作品の冒頭に登場するスタインボックは,〈若い才能のはつらつとした勢いと血気にみち た〉㈲作品を創造しうる彫刻家であった。外国から亡命してきたスタインボック,そしてベッ
トの庇護によって社会から隔離されていた彼は,この時代にあっても,なお「大芸術家」とい うナポレオン物語の王道を歩んでいたといってもいいかもしれない。〈ヴァンツェスラス・ス タインボックもリスベットの手で屋根裏部屋につながれていたときは,これら偉大な人たちの 踏破した不毛の道,栄光のアルプスへと通じる道に立っていた〉禦けれども,オルタンスの愛 の手でその屋根裏部屋から解放されたスタインボックは,数年のうちに,少しも作品をうまな い〈名ばかりの芸術家>tlηになってしまう。よく指摘されるように,スタインボックは女によっ て(まず妻のオルタンスによって,次に娼婦ヴァレリーによって)去勢されてしまうのである。
けれども,彼を去勢してしまうのは,はたして女だけであろうか。モゼが言うように,むし ろ彼はこの時代によって去勢されてしまうのではないのか一「剣」にかわって「言葉」が力
となった,というより,「言葉」が力の幻想をあたえる記号になりゆこうとしているこの時代 に㌣スタインボックの変貌を語るバルザックの文は,実に的確である。〈スタインボックはそ のころ,上流社会に出入りしたり,観劇したり,イタリア座へ出かけることがくせになってい た。芸術を論じるのは実にみごとだった。言葉をあやつり,批評家ぶった説明をならべて,上 流社会の人の目にあくまでも大芸術家とうつるようにふるまった。パリには穎し言〔gξしさ 一生をすごすような,そうして一種サロンの花形になって満足してしまうような才人が何人も いる。スタインボックは,そういう魅力的な去勢された男たちのまねをしているうちに仕事を
日一日と嫌悪するようになっていった〉撃
スタインボックは,芸術を創造するかわりに,芸術を語る者になってしまったのであり,語 s s
ることによって,あたかもそこに「芸術」(才能)があるかのように自らも信じ,他にも信じ させているのだといっていいだろう。つまり彼は芸術家になるかわりに〈批評家〉になったの である。〈各管4・g㌘芸術家になった彼は,サロンの人気者となり,しろうと連中の相談も受 けることになった。要するに,デビュー当時にまやかしだった無能者の例にもれず,批評家に なってしまったのだ〉◎
《従妹ベット》が頁を閉じようとする結末ちかくに姿をみせるこの〈批評家〉,〈言葉をあや つり〉,〈おしゃべりをして一生をすごしながら,サロンの人気者〉となるこのスタインボック
ー〈サロン〉を「大衆」にかえれば,いま私たちのすぐそばにもいそうな存在だが一,そ
れこそ『物語批評序説』のいう「芸術家」物語の語り手,芸術を創りもせずに芸術を語り,語 ることによってあたかもそこに「芸術」があるかのような幻想をひろく共有させる制度のにな い手ではなかろうか。彼らのはてしない〈おしゃべり〉によって,芸術は去勢され,実体を失っ } Nた記号となり,だからこそ誰もが語りうるものとしてひろく定着してゆくことだろう。この〈お しゃべり〉が際限なく増殖していって,「芸術」物語があまねく流通してゆく時代,すでにそ れは,〈誰が,何のために語っているのかが判然としない>96i)「現代的な言説」の時代である。語る者をいやおうなく去勢し,匿名化してしまうその言説(おしゃべり)の時代とともに,物 語ることとヒロイスムとは最終的な分離をとげる。いささかの幻滅も悲劇もなく,やすやすと 批評家に変身してしまう〈名ばかりの芸術家〉をえがく《従妹ベット》は,まことに物語(ヒ
ロイスム)の終わりをみきわめた物語といえるだろう。
ナポレオン物語が終わり,パリ物語が終わり,ヒロイスムが終わる時,同時に生誕する幾多 のスタインボックたちは,その〈おしゃべり〉によって,終わったはずの物語の終わりを隠し,
けして終わることのないもうひとつの物語を語りはじめてゆく。語れば語るほどその語り手を ヒロイスムから遠ざけてゆく「制度」としての物語を。語のあらゆる意味での反一ヒロイスム を主題とする《従妹ベット》は,その二つの物語のあいだに位置して書かれた,ほとんど最後 の物語,「物語」の終わりの物語といえるのではないだろうか。
注
(1)《従妹ベット》が,その対の作品《従兄ポンス》とならんで,《人間喜劇》のさまざまなテマティーク の終結と変容を語っていることは,N.モゼをはじめ,すでにほとんどの論者が指摘するとおりである。
本稿はそれを,モ蕩]喜とそのヒーローという視点から考察しようとするものであり,同じ問題を課題に した前稿「バルザックあるいは魔界としての近代」(『愛知淑徳大学論集」第10号,1984年12月)の補論 をなすものである。
②(3)〈パリの都は,地方の青年たちがこぞって襲撃しようとしている,夢の砦にも似ている>
Balzac;Illusions perdues. pteface de l edition I)umont, LA COMEDIE HUMAINE, Bibliotheque de la P1eiade,
t.5,1977,pユ19.
(4)蓮實重彦『物語批判序説』(中央公論社,1985年),p.57.
「物語批判序説』は,十九世紀から現代へといたる「説話論的な磁場」を論じつつ,バルザックをはじ めとするいわゆるロマン主義の大作家について(いわゆるというのは,こうしたロマン主義とかレアリ s s へ N
スムとかいった規定そのものを,「物語」(制度)にすぎないとするのが,著者の物語批判の内容のひと つだからだが),彼らは「物語」の外に在って,「震感」によって書いた,と述べている。これにたいし,
マルト・ロベールのr起源の小説と小説の起源』の主題は,ほかならぬこの「震感」そのものが「物語」
を生きようとする欲望と一つのものであった,とするものである。むろん両者のいう「物語」の内容は まったく異るとはいえ,その差異は小説論として実に興味深いが,その詳細な検討は他日を期したいと 思う。本稿で用いる「物語」は,両者にかかわるものである。(なお,マルト・ロベールの論については,
注(1)にあげた拙稿をみられたい。)
(5)(6)『物語批判序説』,前出,p.62.
(7) cf.∬llusions pe rd ues, oP. ciし, P.238.
(8) ibid., p.250. (9) ibid., p.178.
(1()) ibid., p.1 19.
(11)Balzac;LαConsine Bette, LA COMEDIE HUMAINE, Bibliotheque de la Pleiade, t. VII,1977, p.97(なお,
《従妹ベット》からの引用はすべてこの版による。以下,CB,と略記し,ページ数のみ記す。また,引 用の訳は,河出書房新社『世界文学全集』第42巻「バルザック』の佐藤朔訳を基本にさせていただいた。)
(IZ CB. pp.363−364. (13) CB. p.97.
(14) Rene Girard;Mensonge rcmtαntique et泌γ 6 romanesque, Grasset,1961, p.116.
(IS CB. p.77, a6) CB. p.97.
(17) CB. p.62.
(18 Ren6 Girard:Mensonge romantiqtte etび6πM rontanesque, OP. cit., p.137.
(19) CB, p.151.
⑳ Le Constitutionnet連載時のタイトル。 CB. Note et variantes, p.1362.
佗1) CB. p.420. ¢⑳ CB. p.156.
¢3 CB. p.158. 佗4) CB. p.156.
@9 CB. p.157.
佗〔) cf.」.−L. Diaz; Destins du Deux)》, Bαlzac et Les Pa ren ts Pαuvres. soci6t6 d edition d enseignement sup6−
rieur,1981, pp.199−208. Diazもクレヴェルを〈複製人間>rhomme−copieと指摘しつつ,そこから〈反 復の道〉(分身化による同一物の再生産)をたどって,バルザックの作品世界が〈冷たいものの文学時代〉
にさしかかっていく,と論じているが,本稿が「赤」から「黒」への移行として論じているものも,ほ ぼこれにひとしい。
閻 CB. p.151.⑳ ⑳ CB. p.188. cf, N. Mozet;1αConsine Bette de Balgac.6ditions P6dagogie moderne,
1980,および同じくMozetによる二論文,・ LαCousine Bette, roman du pouvoir feminin?ll Bαlzac et Les
Pa ren ts Pauvres. oP. cit., PP.35−45,《《Cr6ation et/ou Paternit6 dans LαConsine Bette},・Revue des∫ciences
Humαines, n°175,1979, pp.49−60.本稿は,《従妹ベット》を帝政の世界(ナポレオンー父権一創造力)の崩壊ないし反転ととらえる基本的な視点において,モゼのシェーマに負うところが大きい。ただしモ ゼが,この崩壊をはやめ,それにかわる新しい体制を支える力として「女」と「民衆」の力をとりあげ る点にかんしては,見解を異にする。
βO BC. p.187. BD 注助参照
β⑳ BC. p.274. β3) BC pp.254−255.
⑭ BC. p.329. BS BC p.80.
β〔9 ⑬カ CB. p.201.
幽 N.Mozet; hαCousine Bette, roman du Pouvoir feminin?,). op. cit., pp.34−35.
(39) CB. p.322. 140) CB. p.85.
自1) CB. p.80.
幽 cf. L. Frappier−Mazur;L exptession me taphoriqμe dans La Cσm 9d ie humaine. Klincksieck,1976, pp.154−
155,
㈲ ㈹ N.Mozet; La Cottsine Bette, roman du Pouvoir feminin?)}op. cit., p.35.
(4S 自θ R. Girard;Mensonge romantique et%ηfゼrolnanesque. op, cit., p.155.
ぐ幼 CB. p.254.
(49 cf. N, Mozet;《《La Cσ:tsine Bette, roman du pouvoir f6minin?)v op. cit., p,38.
(49) CB., p,213,
(50)CB. p.124および, CB., p.. 73〈結婚の当初から今日にいたるまで,男爵夫人は夫を愛してきた。ジョ
ゼフィーヌ妃が最後にはナポレオンをそのように愛したのと同じ愛情でもって(……)〉
(51) CB。 p,140.
(5Z cf, Marte Robert;Raman des origines et origines du roman, Grasset,1972, p.277.
(5al J.−L, Diaz;{《Destin du Deux,), op. cit., p.208
(54) CB. p.396. (S5) CB. pp.127−128.
(5〔}) CB. p.246, 〈50 CB. p.449.
(Sg cf. N. Mozet: Creation et/ou Paternit6 dans La Cousine Betto>, op。 cit.,とくにp.51.
(59) CB. p.245. (60) CB. p.449.
㈹ 蓮實重彦「物語批判序説』,前出,p.27.