カバーリヌイ=ホロープに関する1649年法典の規定
著者 石戸谷 重郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 23
号 1
ページ 79‑94
発行年 1974‑11‑15
その他のタイトル ПРАВИЛА УЛОЖЕНИЯ 1649 ГОДА О КАБАЛЬНЫХ ХОЛОПАХ
URL http://hdl.handle.net/10105/2660
Bull悪幣」23S」
iv.Educ,V吉l?2壬a*‑a ,N。1,雪。。l豊富票.)1974
カバーT)ヌイ‑ホロープに関する1649年法典の規定
石戸谷 重 郎
(歴史学教室) (昭和49年4月23日受理)
ま え が き
「カバーリヌイ‑ホロープ」というのは、 16位紀末葉ロシアにおいて法的に創出されたホロー プであって、いわゆる「完全ホロープ」とも、また「債務リュ‑ジー」とも区別されるCO。 「カバ
‑リヌイ」の語源は「カバラアJにあるカさ、その場合「カバラア」とは、 「スルジーラヤ‑カバ ラア」を把さしている0 16世紀末葉以降、それは「カバーリヌイ十というホロープになるための 証文として(主人側からいえば、ホロープにするための証文として)広く流布したものである。
スルジーラヤ‑カバラアは、その内容において債務にもとづく奉公の義務を記載しているので(2)、
われわれはカバーリヌイ‑ホロープを「債務ホロープ」という訳語で示したこともあるが、本稿 ではそのまま「カバーリヌイ‑ホロープ」とし、略称としてたんに「カバーリヌイ」というo ま た、たんに「カバラア」というとき、それはつねに「スルジーラヤ‑カバラア」を指さす。
1649年法典は、その第20章に仝119か条にわたってとくにホロープについて規定している。わ れわれはすでにこの第20章の諸条項のうち、逃亡ホロープについて考察したことがある 1649 年法典に関す,る限り、本稿はその続編といえるO以下にたんに条項のみを示すとき、それはつね にこの法典の第20章のそれである。本稿のねらいは、 16世紀末葉にはじまるカバーリヌイ‑ホロ ープの制度が、この法典によっていちおう確立されたと見られているロシア農奴制国家のもとで、
どのような姿をとるにいたったかを明らかにすることにある。
l 前歴訊問とその日的
ある人が誰かのカバーリヌイになろうとするとき、本人の前歴が問いただされる。これについ ての原則的な手続きを示しているのが第7条である。前歴訊問は、まず主人たるべき者によって 行なわれ、これに合格したときは、さらに「ホロープ庁」において同じ訊問がなされる。ここで 不審の点がないと判定されたとき、はじめてスルジーラヤ‑カバラアが国家によって承認され、
クニ‑‑〟
カバラア本文の写しおよび訊問に答えた本人の陳述などが「帳簿」に記載され(いわゆる「̀ヵバ ラアの登録」)、カバラア原本はカバーリヌイの主人に交付される(条文には出ていないが、主人 は後日の紛争に備えてこのカバラア原本を大切に保管するのがふつうであった)0
ところで、第7条の中心は、本人に対する前歴訊問の内容の明示におかれている。第20章の諸 条項には相互に結びついているものが多いが、この第7条について他の条項との関係にもある程 度ふれながら検討を加えておきたい。はじめに訊問すべき諸事項を条文テクストに即して示せば、
79
グオJレヌイ・リユージ‑ ザ・ケム
次のとおりである: 「いかなる自由人か、どこで生れたか、以前に何びとのもとに住んでいたか、
7ルジールイ ゴスダーL/ワ.スル‑ジバ チヤブロ‑
勤務人なる父の子ではないか、君主の勤務についていたのではないか、国租を負担していたので はないか、何びとかの逃亡したリュ‑ジ‑、あるいは農民、あるいはボブイリではないか。」
一読してわかるように、誰でも欲するままにカバーT)ヌイになれたのではない。まず眼につく のは勤務人の子弟および勤務人自身がなることを禁止されている点である。これについては第20
シエ‑チ‑ .ポヤー‑′レスキー
葦の冒頭で指示されていて、 「下級士族」にしてすでに以前からカバーリヌイになって'いる者は、
これを認める(第1条)、しかし今後は君主が名ざLで許可するはかは、何びとも下級士族をホ ロープにとってはならない、ホロ‑プ庁はかれらに対するカバラアを認可してはならない(第2 秦)、以前に君主の命令および貴族の決定によってホロープから解放された者が、同じ主人のホ ロープになるこ′とを許す(第3条)、というのがその骨子である。下級士族‑勤務人は封地を与 えられ、これによって軍役奉仕をした最下層のものであるが、モスクワ国家の軍事力として重要
な役割を果たしてきており,すでにイワン4世1550年法典第81条は、下級士族とその子弟をホロ
‑プにとることを禁止している(4)。いま1世紀後の1649年法典の上掲3か条を見れば、下級士旅 のホロ‑プ化が根絶されているとは思われないC5>。それだけに、とくに上の第2条の方針にそっ て、第7条は自由人と称する者のなかにかれらがまざれ込んでいないかを、前歴訊問の段階でチ
ェックさせようとしているのである。
前歴訊問の内容で次に注目されるのは、カバ‑T)ヌイを希望する者が「リュ‑ジー」すなわち ホロープと、農民(ボブイリを含む)かどうかである。周知のように、法典はその第11章「農民 についての裁判」 (全34か条)で農民土地緊縛を完成している。この第11章によって農民とその 子弟は土地から移転できなくなっているのであるが、第20章はホロープとの関連において第6条 で、農民とその子弟が「逃亡して」カバーリヌイになろうとしてもカバラアを認めてはならない、
「土地台帳または人口調査簿に記載」されているところに従って、領主に返えすべし、と再確認 する形で規定している。かつ、同条は地方におけるカバラア承認の責任者なる各都市駐在の
拍E3aED3
「軍令」に対してとくにこの趣旨の実行について注意を与えている。領主は、他人のでなく自分 のならば、農民をカバーリヌイにできたか、というと、第113条はこれを禁止している。けだし、
農民は第7条上掲の部分にも見える「国税」負担者であり(6)、同一債主のもとにおけるホロープ への転化が許される筈はなかろう(7)。逃亡農民よりもいっそう複雑なのは逃亡ホロープの問題で あるO逃亡ホロ‑プの問題が複雑であるというのは、関係諸条項が多いとか難解とかという意味 ではない。ホロ‑プ、とくにカバー1)ヌイ‑ホロープについては、逃亡かそれとも合法的移転か がつねに争われ(8)、罪20章は極論すれば、この種の争いに答えることを主目的としているともい えるのである。ホロープの合法的移転とは何か。それは、かれらが解放された上で、つまりはホ ロ‑プでなくなってから移ることである.しかし、現実にはかれらの自由・非自由をめぐって、
新主人の支持のもとにホロープは自分が旧主からすでに自由であると主張し、他方の旧主はなお 自分に隷属しているとしてこれに反対したのである。後述するように、とくにカバーリヌイにつ いては、主人の死までという一時的・条件的非自由がかの1597年法令以来確立されているため、
このグループからは不断に被解放者が放出される可能性があって、問題をいっそう複雑にしてい
るのである。カバーリヌイがすでに自由になっていることを疑いもなく証拠だてるのが解放状で
あることはいうまでもないが、法典第20章は、次に述べる第8条以下の数か条で、とくにこの解
放状と旧主からの自由、そして新たに別の主人のカバーリヌイになることの可否などを取上げて
カバ‑リヌイ‑ホロ‑プに関する1649年法典の規定
81グオ‑‑Jt,ヌイ・リユ‑‑}‑
いるのであるO ある人がカバリ‑ヌイになるときの前歴訊問について最後に「自由人」にふれて おきたいO スルジーラヤ‑カバラアが普及してきた最初の段階ですでに、 1550年法典第78条は、
これが認められるのは自由人に対してのみ、ポロ‑プに対しては不可、と明示しているO この場 合、ホロープというのは、とくに主人から逃亡して自由人と詐称する者を指しており、ホロープ かどうかを確めてカバラアを取れ、ホロ‑プの場合には本人が旧主に返えされるのみならず、新 主人は与えた金をも失なう、と同条はつけ加えている。 16世紀末および17世紀初頭の現存カバラ ア登録帳簿および17世紀後半にまで及ぶ個々のカバラア原本を見ると、 「自由意志の奉公人」 ( 後述)およびかの「動乱期」に農民が一時的に多くなっているのを除けば、 「自由人」と記され ているか、もとは誰かに隷属していたがいまは自由人になっている者をその理由をあげて記して いる場合が圧倒的に多い′9)。1649年法典第20章第7条は、その冒頭の部分で、カバーリヌイたら んとする本人が「自由人であると名乗るとき」訊問を諜する、としている。自由人のなかから、
下級士族や都市の国租負担民などが除外されるとすれば(農民はこの段階では自由人に入らな い)、雇傭労働者、流浪民(乞食を含む)、そしてホロープからの被解放者がその主なものとし て残るであろう。第7条が前歴訊問の冒頭に、 「いかなる自由人かJをかかげていることは、カ バラアほ自由人からとるという前提と、その自由人たる所以と除外範囲を確認しようとする姿勢 を示しているように思われるのである。
2 解放されたカバーリヌイと旧主との関係
欝7条が、カバーリヌイたらんとする者に対する前歴訊問について、いわば共通的な事項を示 し、これを通過するときカバラアを認める、と定めているのに対して、これにつづく第8‑15条 はそれぞれ特殊なケースについてカバラア認可の可否について指示している。それに共通してい るのは旧主との関係であり、従ってその大部分は解放状の問題に言及している。
まず、第8条は旧主の死後に別の主人のカバーリヌイになろうとする者が、願い出と同時に旧 主あるいはその執事による解放状を提出している場合で、問題なくカバラ了が認められるノ‑マ ルなケ‑スであるO 同条は、それ故に、カバラ了の写し、解放状の写し、および本人の人相など を登録帳簿に記載する、という手続きにまで言及しているのである。カバラアの写しと本人の人 相などは現存の帳簿にふつう見られるものであり、ときに解放状の写しもそえられている。この ことは、第8条も17世紀中葉に新たにつくられた条項でなく、 16世紀以来の慣行に従っているこ とを確信させる。
法典第20章は、しばしばカバーリヌイに対立する古い型の完全ホロープを「スタリンヌイ」
スタリナ‑
(字義通りには、 r古さ」によるホロープの意)と呼んでいる(10)。これとの比較においてカバーリ ヌイの最も大きな特性をあげるとすれば、さきにも一言ふれたように、その隷属と非自由が「主 人の死」までに限定されていることである。ところが主人側にしてみれば、自分の死後も自分の 子にホロープとしてのこしておきたい。そのために主人は生存中に、そのカバ‑リヌイを自分の 子のホロ‑プとするためのカバラアを申請することがあるo このようなカバラアが認められるか について答えているのが第9条であって、 「解放状なしにはかれらの子にカバラアを与えない」
のである。分りやすくいえば、父なる主人はそのカバーリヌイを解放状をもっていったん解放し その上で本人の意志によって主人(厳密にいえば、すでに旧主)の子のカバーリヌイになり得る、
と定めているのであって、カバーリヌイの法的地位を最もよく示している条項の一つである。解
放状に重きをおいているのは、長年のホロープ帰属をめぐる争いから得られた教訓の結実であろ
ブL/ジニイ.スウオイ.Jズヤ‑リン
うと思われるが、第10条は「以前の自分の主人」すなわち旧主の死後自由になったカバーリヌイ が解放状をたずさえて、はじめ甲なる別の主人のもとに赴いてこの者に「自分の解放状を渡し」、
さらにそのままで乙なる第三の主人のもとに「解放状なしで」赴くというケースを取り上げて、
乙にはカバラアを認めない、甲に認める、と指示している。甲と乙との問で争いが起っている状 況を設定しての規定であるかどうかは、条文から速断できないにしても、被解放者に対するカバ ラアは解放状の提出をともなって承認される、という原則が貫かれていることだけは確認できる であろうO 第11条は、この原則をふまえながら、ホロ‑プが自らは「解放された」と述べ、しか も「解放状を〔裁判に〕提出しない」場合を取り上げている。ここでは、ホロープがカバ‑リヌ イかスタリンヌイかを区別し、かつ旧主が生存中かあるいはすでに死亡しているかをも問題にし
べ'レウイ.ポヤ‑・・‑リン
ている。条文テクストではおわりの項にかかげられているが、 「 最初の主人」すなわち旧主(厳 密にいえば、旧主でない)が生存中であれば、解放状なしには新しいカバラアは一切認められな いのである。旧主がすでに死亡しているときはどうなるか.カバーリヌイとして奉公していたと きの答えは、第12条にゆずられ、また旧主のスタリンヌイであったときの答えは第13条に兄いだ される。
第12条は、上のような状況において、そのカバーリヌイに「どこで、何年にカバラアが取られ たか」を述べさせ、これにもとづいて「ホロープ登録帳簿」 (既述の「カバラア登録帳簿」に同 じ)を調べ、そこにかれに対するカバラアの写しが兄いだされるときは、旧主にカバリーヌイと して奉公していたという本人の主張を認めて、新しい主人へのカバラアを「解放状なしでも」認 可している。これに対して第13条は、ホロープの旧主が死亡していても、 「カバラア登録帳簿」
にそのホロープに対するカバラアの写しが兄いだされず、しかも旧主の子らが父‑旧主のスタリ
スタlノンナヤ・クレポスチ
ンヌイであったとして「古い証文」を提示するとき、そのホロープは旧主の子らにひき渡される、
と指示している。二つの条項を比較してみると、カバーリヌイとスタリンヌイのそれぞれの特性 がよく理解されるであろう。第13条は、その末尾において、そのホロープが「新たにJ 奉公す
ることを願っていた新主人を「拒否し」、かれに「カバラアを与えない」と結んでいる。このこ とは、条文の前の部分では何らの言及がないにかかわらず、 1人のホロープをめぐる争いに備え て、より適切には争いの体験から、本条がつくられたことを思わせる。第20章のそれぞれの条項 は、空理空論の産物ではない、と見るべきであろう。なお、第13条ではスタリンヌイに対する証 文が提出されているが、その提示ができないからといってスタリンヌイの主人側は権利をあきら
ポワ‑・・リヌイ・オブイスク
めるには及ばなかった.この場合には、第108条に示されている r住民調査」の手段に訴える途 ものこされていたのである(ll)。
主人の死後に自由を得べきカバーリヌイを主人の遺族が手放そうとしなかったことは充分に考 えられる。第14条と第15条とはこのような場合についての規定で、主人の遺族の態度をそれぞれ、
ウジェ チ
「自由に解放せず、自分のもとにとどめ置こうと欲している」、あるいは「解放することを欲せ ず、解放状を与えない」と述べている。これが法に違反していること、は明白であり、カバーリヌ
イに自由を与えている点では第14条と第15条とでちがいはない。しかし、その自由の与え方が異
スジヤー プリースタ7
なっている。第14によれば、 「裁判官」はホロープ庁から「執行官を派遣し」(1急)、双方を対決させ て取調べの上、遺族に対して「ただちにそのホロープに解放状を与えるように命ずる」のである。
条文には勿論ふれられていないが、あとは第8条のノーマルなコースに従えばよいわけである。
他方、第15条によれば、そのホロープが主人にカバー1)ヌイとして奉公していたことを調べて確
カバーリヌイ‑ホロ‑プに関する1649年法典の規定
83詔の上(第12条のように登録帳簿への言及は、ない)、死亡した主人の「妻、子ら、兄弟たちか
スウオグ チ クオーリIY
ら解放し、自由を与える」、そしてかれが奉公したいと願う新しい主人に、 「解放状なしでも」
カバラアを承認して与えるのである.主人の死後カバ‑I)ヌイは自由、という原則が守られてい る点で二つの条項は一致しているが、具体的な処置はこのように異なっている。このちがいがど こから来ているかといえば、それぞれの想定されている状況のちがいからであろう。遺族のカバ ーリヌイにに対する執着の強さでは同じであっても、第14条は、死亡した主人が生前に遺族に 対して「自分の死後にカバ‑リヌイを自由に解放するように命じている」場合を取上げていて、
(解放しない遺言状の無効については、後述第63条)その命をそのまま実現することは解放状を 与えることに直結する。だから、同条にいう「ホロープ庁への訴え」は解放状を出させることを
スつラ・y ・スノ)レチ
目的にしていたであろう。これに対して、第15条は、主人が「急死」によってこの世を去るケ‑
スを問題にしており、主人の遺言はあり得ないわけで、遺族が解放状を出さない場合には、 」解 放状なしでも」カバーリヌイの自由を認める、という処置をとっているのである。第14条はいち おう、死亡した主人の命令‑遺言を表面に出しているが、カバー1)ヌイと主人との関係、あるい はカバーリヌイの特性という立場から見れば、第15条の方がカバーリヌイの本質をよりよく示し ているといわねばならない。
3 カバーリヌイまたはその主人になり得ない者および自由意志の奉公人 誰がカバーリヌイになり得たか、という問いをもってはじめられたわれわれの考察は、あらぬ 方に走ったかのように見える。しかしながら、以上の考察はホロープ、とくにカバ‑リヌイ‑ホ ロ‑プにして解放された者が、再びカバーリヌイになる場合について1649年法典が詳細かつ具体 的な規定によって大きな配慮を加えていたことを知らしめるであろう。いわゆる「自由人」のな かにこの種の被解放者がかなりの比重を占めていたことも思われるのである。また、上乗の考察 において旧主との関係あるいは解放と解放状が主に論ぜられてきたように受けとられるかもしれ ないが、どのような手続きでカバ‑T)ヌイになるか、どのような場合にかれに対するカバラアが 国の承認を受け得るか、という視点から考え直してみれば、法典第20章の第8‑15条は、新しい 主人へのカバラア承認を、あるいはその可否を主題にして構成されている、といえよう。
ところで、誰かがカバーリヌイになろうとするとき、あるいは誰かをカバーリヌイにしようと するとき、そこに制約があることについては、すでにいくつかのケースをあげてきたが、この点 をもう少し追加し整理しておきたい。
まず、カバーリヌイには年令の制約がある0第20条は、 15才未満の者に対するカバラアを認め ていない。これはすでに1558年9月の法令に見られるところである(13'。 15才未満の者が完全に排 除されるときは、家族ぐるみでカバ‑リヌイになることができない.そこで第110条は、これら 未成年者を父母とともにカバ‑リヌイにすることを認め、前歴訊問に当たっては、未成年者が欠 席してもよい、としている。ただし、 15才以上の者については、かれらを父母と同じカバラアに 記載する際(このとき前歴訊問が行なわれる)、本人をも出頭させ、帳簿には本人の「人相およ び特徴」を記すのであるO一般にカバーリヌイの子は、両親の主人から自由であり得たか、この 主人以外の者にカバーリヌイとして奉公するを許されたかO 第5条はスタリンヌィ、カバ‑リ
ヌイの両者を含めての規定で、かの1497年法典第66条および1550年法典第76条を受けついでいる
ものであるが、両親がその主人のホローブになる前に生れ、かつ両親と別個に生活しているホロ
‑プの子は、両親の主人から「自由である」ことを明記している。注目すべきは、ここにこっの 条件があげられている点で、どちらが欠けでもホロープの子は両親の主人に隷属せしめられるこ
とが他の条項によって確認されるのである。すなわち、第24条によれば、スタリンヌイおよびカ バ‑リヌイの子、また農民の子が、 「自分の父または母を捨てて、他の誰かにスルジ‑ラヤ‑カ バラアを出すとき」、そのカバラアは無効であり、かれらほ父母の主人に(ホロープの子の場合) あるいは父母に(農民の子の場合)にひき渡される。これらの者はまさに逃亡者なのであるが、
新主人のもとで捕えられて裁判にかけられ両親に対決させられても、自分の親でないと否定する ことがある.第25条はホロープの場合についてのみであるが、これについて規定していて、二度
‑一ト..
にわたって「拷問」を加え、なお否認しつづけるときは新主人のカバーリヌイたるを認めて、そ の者に渡す、としている。これは、第24条の原則に違反していると見なさるべきでなく、第24条 の原則が通用さるべき親子関係が確認されないのみ、と解すべきであろうO この第24条およびさ きの第5条の補則ともいえるのが第83条である。ここでは、両親が何びとかのカバ‑リヌイにな
ってから生れた子が成年に達した、という具体的なケースをあげて、 「自分の父と母を捨てて、
‑‑‑他の誰かにカバラアを出」していても、両親が奉公しているその主人にひき渡される、と指 示している。この場合、 15才に満たない場合は別として(既述、第20条)、成年に達しているカ バ‑T)ヌイD子は、カバラアによって両親の主人に正式に隷属せしめられることなく、放置され るのか、という疑問が出てくるのであろう。まさにこれに答えているのが、第30条であって、両
イマ‑・チ
親の主人はこのようなかれらの子から、その望むと望まざるにかかわらず、カバラアを「取る」
ことがでるのである。この処置がとられたあとでは、カバーリヌイの子は第25条による逃げみち もなく、新しい主人を求めることは全く許されないのである。
さて、カバーリヌイたらんとする者を主体に見てきたが、カバーリヌイを持とうとする者、い
ポヤ‑ーリン
わゆる「主人」の側に眼を転ずれば、ここにも制約が加えられている。その第一は、職務による
ポエダオ‑ダ ブりカ‑ズヌイ・リユ‑ジ‑
もので、各都市の「軍令」および「官庁人」は、第58条によって、自分の勤務する都市では何び とからもカバラアをとることを禁ぜられている。これらの者が地方におけるカバラア承認の当事 者・童任者であったことを考えれば(既述、第6条。後述、第72‑73条。)、その職権乱用をい ましての規定と思われる(14)第二は、教会人の一部であって、かれらのもとに「自由人が住もう
*蝣蝣< i^^^^^tmi覧
として赴くとき」、第104条は、司祭長および補祭長には自由人からカバラアをとってこれを自分
プリチエトニタ
のカバ‑リヌイにすることを許しているが、一般の司祭、補祭、聖歌僧などにはこれを認めず、
タロ‑チヌイ蝣‑3‑ドタイ ,rTヤ Jt,スキ‑・チェロベータ
「一定年限」にかぎっての契約書で傭う、と定めている。第三は、 「̀貴族の用人」で、第105条 は算104条と同じような表現をもってかれらがカバリーヌイをもつことを禁止し、やはり一定年 限の契約によるべLと指示している。貴族の用人は身分としてほホロープであって、第105条に よれば、かつてはカバーリヌイをもつことを許されていたが、 「143年」すなわち西暦1635年に そのようなカバラアを破棄すべきことが命ぜられているのである。最後に、異教徒なる外国人に ついて第70条は、かれらはギリシア正教徒なるル‑シ人をホロ‑プとして(カバーリヌィ、スタ リンヌイ両者を含む)もち得ない、と定めている。同条は、この禁令がすでに1628年、当時の
バトリアルフ
総主教フィラレート(当時の皇帝ミ‑イル‑ロマノフの父に当たる)によって出されたことにも 言及し、改めてこれを禁止すると述べ、違反する者には「厳罰を科す」とつけ加えている。
以上四つの特定のグループは、このようにカバーリヌイをもつことを禁止されているのである
が、ここで考えなければならないことは、主人側への制約というものを広義に解するとき、それ
はこれら四つのグループに限られたものではない、ということであるO一般の主人は、自由意志
カバ‑l)ヌイ‑ホロ‑プに関する1649年法典の規定
85の奉公人を別とすれば、 「自由人」のみを新たにとり得る、という意味での制約を受けていたの である。さらにいえば、カバーリヌイになろうとする者にも「自由人」、しかも狭い意味でのそ れが資格として要求されていたのであるから、ここにも制約があったといわねばならない。この ような二重の制約の上に、 1649年法典はカバーリヌイ‑ホロープの制度を構築しようとしている のであるO これまでの考察からもうかがわれるように、この制約はカバ‑リヌイの増加にプレ‑
手をかけているように見えても、それは外見のみであって、実はこの制度を維持し確立するため のものなのである。むしろ、国家体制を厳重な身分制度の上に固定させようとしたのが、その真 意であった、といわなければならない。このような意図は、カバー1)ヌイの個々人を国家管理の
ドブT3クオ‑リヌイ
もとにおくことを可能にしたカバラア登録制度(後述)にも示されているが、いわゆる「自由意志 の奉公人」に対する規定やカバラア額の一定化にもこれを見ることができよう。
「自由意志の奉公人」は、またr自由意志のホロープ」とも呼ばれており、その特質は「カバ ラアなしに」奉公していることである。カバラアがない、ということはいつでもその主人から立 ち去れることを意味するO しかし周知のように、 1597年法令第10条は、 6か月以上同一主人のも とでカバラアなしに奉公した者について、その主人が本人の希望いかんにかかわらず、この者か らカバラアをとることを認めたのである(15)いま、半世紀を経て1649年法典は、さらにこれを強 化しているのである.すなわち、第20章第16条は、 6か月を3か月に短縮し、 「かれらがホロー プになるを欲しなくても、強制によってでも」主人がカバラアをとることを許しているのである。
「自由意志の奉公人」は、 1597年法令ではときに「自由なホロープ」とも呼ばれ、また法典第20 章では「自由意志で証文なしにホロープ身分において生活する自由人」 (第17条)といわれてい ることから察せられるように、独特な隷属民あるいは半自由人ということができよう。
1649年法典は、 1597年法令になかった二.つの条項を自由意志奉公人についてもっている。すな わち第17条と第18条であって、まず17条では自由意志で「証文なしに、ホロープストウォにおい
スノ・‑ス
て住んだ自由人」が他に移り、もとの主人が「持逃げ」で訴えても裁判に取り上げない、つまり 逃亡と見なさず、合法的移転と見なす、としている。同条は期間のことにふれていないが、 3か 月以上の場合も含めて、と解さるべきであろう。このような解釈では、第16条の実効力が弱めら れることになる、と反論も出るかもしれないが、第16条は上述のように「強制によってでも」カ バラアをとることを許しており、別の意味ではカバラアをとっておくことをすすめているのであ る。それ故、主人がかれらからカバラアをとらずに放置しておいて、本人が立ち去ったとき、そ の責めをカバラアをとらなかった主人に負わせ、主人の訴えを取り上げないとしているのが、第 17条の真意と読みとられるのである。事実、第17条は、その最後に、主人がかれを「信用し、証 文なしにとどめ置いた」ことをあげて、訴えを取り上げない理由としているのである。この点は、
自由意志の奉公人がスルジーラヤ‑カバラアでない他の形式の書類によってある人のもとに「住 み」、そこから別の新しい主人のもとに去ってカバラアを正式に与えているとき、前者を「拒否 する」、と定めている第18条でも同様であって、ここでは「ヵバラアなしにとどめ置かないよう に命ぜられている」ことが理由とされている。第18条について見落しできないのは、最初の主人
tfシモ‑
がカバラアそのものではないが、何らかの「書類」を自由意志の奉公人がとっているのに、これ
クL/‑ポスチ
を無効としていること、条文のことばをかりていえば「証文にならない」としていることである。
自由人が非自由の隷属関係に入るときの文書としては身売りや報告状があるが、これは17世紀、
とくにその中葉には絶無である(これによる隷属者の、つまりポロ‑プの、子孫が当時なおホロ
° ° °
‑プであったが、問題は別)。いま、第18条は、カバラア以外の文書を、人を新たに非自由に導く
法的文吉と認めていないのである。カバラアの特質の一つは、それが国家の帳簿に登録され、カ バラアによる隷属者が国の管理のもとにおかれていることにあるO第18条にいう「書類」は、単
なる個人的契約にすぎない。これをはっきり否定していることに注目すべきであって、ここにカ バ‑リヌイ‑ホロープの制度をもって国家体制の一翼をになわせようとした企図が、別の形で示 されているのである。その意味では、自由意志奉公人への対策はー この第18条にその本心を誤り なく伝えている、ということができよう。
ところで、上にいうカバ‑リヌイの画家管理に蘭達してできているのが、第19条に定められて
ブロ
いるカバラア額の国家による統制‑固定化である。同条は、カバラア調製にも当たっていた「広
シチヤ‑ドヌイ・ポジヤ‑チ‑
場の書記補」に対して、 「1人について3ル‑ブリでスルジ‑ラヤ‑カバラアを書く。 [これよ り]多くも少なくも書かない」ことを指示している。スルジーラヤ‑カバラアの書式について本 稿では一切ふれずにきたので、理解を得られ難いかもしれないが,カバラアには形の上で「何ル ーブリ借りました」という貸借関係が明記されており、 1597年法令以後返済によって自由を得る 権利が奪われた後も、自由人が非自由の隷属関係に入るときの、つまりカバーT)ヌイ‑ホロープ になるときの証文として重要な役割を果たしてきているのである。そこに記されている負債額、
われわれのいうカバラア額は、 1597年法令以後には負債額ではなくて、主人(名目的には債権者、
ただし、全く有名無実!)の死までという条件づきの身売り金になっている。その額は、 17世紀 前半では16世紀のようなカバラアによる大きな差をもたなくなってきているが(17)、 1649年法典は、
上掲のように、カバーT)ヌイ1人について3ルーブルときめてしまったのである。 17世紀後半の 現存カバラアが例外なくこの額を守っていることは、この規定が空文化されなかったことを物語 っているが、このような規定が法典に条文化されて入っていることは、一面においてカバラア額 が負債額そのものでなかった事実に即応しているとともに、他面においてカバ‑リヌイ‑ホロー プの制度の全体が国家の統制に服せしめられていることを示すものであろう。事実上の身売り金 といっても、カバラア額には個人差があってもよいと思われるが、これをも許容しない点に強い 統制が印象づけられるのある。
4 カバラア登録制度について
カバラアの帳簿への登録あるいはその帳簿の利用については、これまでの考察においても、第
・7・8・12・58の各条がこれに言及していることを見てきたが、もう少しく立ち入って検討 してみたい。
カバラア登録の制度は、 1597年法令に引用されている1586年法令(そのテクストは伝わらない) にはじまり、 1597年法令で強化されているが、 1649年法典のこれについての諸規定は、単にいっ そう詳しくなっているというだけのものではない。法典の多くの条項に読みとられる半世紀にわ たるホロープをめぐる紛争の体験の教訓がここにもにじみ出ているのである。とくにこの点に注
目したいと思う。
第7条ではカバラアの承認と登録がモククワの「ホロープ庁」で行なわれる場合をあげている が、他の諸条項からそれが地方都市でも行なわれたことは明白である。そのうち、第72*73の2 か条は地方都市においてこの業務にたずさわる軍令らに対する注意事項である。第72条によれば、
グ‑‑プヌイ・スタ ロスタ ペチヤ‑‑チ
軍令、官庁人および「郡の長老」は、カバラアに「印章」を押すのでほなくて、自分で署名しな
ければならない.郡の長老は、農民のなかから選ばれ、文盲の者が選ばれるおそれもあったので
カバ‑1)ヌイ‑ホロープに関する1649年法典の規定
87同条は、 「読み書きできない者を、郡の長老に選ばない」ように指示している.軍令や官庁人が 読み書きできないときはー その都市でカバラアを承認することは許されず、これをよくする軍 令、官庁人および郡の長老がいる 「他の都市」でこれが行なわれるのである。これはカバラア 原本についてのことであるが、その写しを転写し、カバーリヌイの陳逮(既述、第7条)や本人 の人相などを記載するカバラア登録帳簿についても、第73条は軍令以下の印章でなくて、その署 名を要求し、署名のない帳簿とカバラアはこれを「信用しない」といっている。しかし、第73条 の主たる指示は、モスクワと地方都市との帳簿についての関係であって、簡単にいえば、軍令ら は署名したカバラア登録帳簿を「毎年モスクワに送る」ことが義務づけられているのである。こ の制度もけっして1649年法典にはじまるものではない1597年法令には認められず、また1586年 法令についてはこれを確認すべくもないが、現存する1580‑90年代の登録帳簿は、ノヴゴロドか
らモスクワに1年あるいは半年ごとに帳簿が送られていた事実を確認させる(18)。
カバ‑リヌイが国家管理のもとにおかれた、という意味は、カバ‑T)ヌイとその主人との問の 支配‑隷属の関係を律するカバラ了が、国の承認を受けて帳簿に登録されるときはじめて効力を もつことである。カバラアの承認と登録、さらには調製の年月日が一致せしめられている事実も これに関係があると思われる。主人が死亡したあと、そのホロープがスタリンヌイであったか、
それとも当然解放さるべきカバーT)ヌイとして奉公していたのかについて、登録帳簿のみが根拠 にされることがある(既述、第12)c カバーリヌイをめぐる争いには、カバラア原本(主人がこ れを保管している)のほか、カバラア登録帳簿も活用されたのであるが091、これについては実際
にはいくつかの問題があったことが1649年法典の条項からも知られる。その主なものについて見 れば次のとおりである。
ポトスタ‑ワ イスチエ・‑ヅ
(1) 「替え玉」についてO第23灸は、ある「原告JがカバーT)ヌイに対して権利を主張すると き、ホロ‑プ庁においてカバーリヌイ本人の人相を登録帳簿と照合し、これが一致しないときは、
替え玉をつかっているとして、これを拒否している。このような替え玉は、帳簿に登録するとき になされていた可能性もある。同灸は、 「替え玉でカバラアを取ろうとする者」について、これ
ビ‑チ.タヌ‑トム
に「苔打ちの罰を科す」と定め、また名をいつわる者あることについて「信用しないように」と 注意を与えている。
(2)カバラアが登録されずにおわっている場合。第28条は、主人がある人を自分のカバーリ ヌイと主張してかれに対するカバラア原本を裁判に提出し、しかもその原本の写しが登録帳簿に 兄いだされない場合を取り上げている.このカバラアは「都市のカバラア」で、そこには「帳簿 に登録されたり」ということが署名入りで記されており、かつまざれもなく「軍令、官庁人およ び郡の長老の署名」が確認されるものであるO第28条はこのような場合について、主人に「その カバラアの代りに新しいカバラアを与える」と指示している。これについて注目すべきことの一 つは、主人が法廷に持参したカバラアをこの裁判の段階でおくればせながら登録するという方法 をとらず、新しいカバラアを改めて与えていることである。さきに一言したように、カバラアの 調整、承認、および登録の三者の日付を一致させる原則がここにも守られているのである。とこ ろで、カバラアを帳簿に登録しなかった、というのは、カバーリヌイ‑ホロープの制度にとって も重大な過失である.第28条は、そのおわりに、このような過失を犯す者には、 「君主の下す罰 を科する」と明記している。
(3) 1人のカバーリヌイに対する二つのカバラアがともに登録されている場合。 1人のカバ
ーリヌイに対し2人の主人がそれぞれカバラアを裁判に提出し、しかも二つとも帳簿に登録され
ている、これが第75条に取り上げられているケースである.同条は、 「人相および特徴において 帳簿に一致するカバラア」を、たとえ調整・承認・登録の日付がより後のものであってもとる、
と指示しているO このような事態をまねくにいたったのはカバーリヌイの逃亡が根本原図である にしても、前歴訊問を厳しくすることが考えられる。これとの関係で、立法者は人相・特徴の記 載を徹底させようとしている。すなわち、つづく第76条は、 「この法典以後、このような争いに 備えてカバラアそのものに特徴を記載する」ことを指示し、これによって「今後はこのような争
ブオ・‑ロス ,jIロダ‑‑
いはなくなるであろう」と述べているO 「中背、髪亜麻色、あごひげ亜麻色」(20)などが、特徴記 載のし方であるが、ノヴゴロド地方のカバラア原本にはすでにこの1649年法典以前からカバラア 本文のなかにこれが認められること稀でない。第76条は、その意味で全く新しいことを指示して いるのではない。他方、カシタノフは、南方ロシアの現存カバラア原本には、その本文のなかで なく、他人の筆蹟による裏書き追加として、特徴が書かれていろことを指摘している(21)第76条 は、南方辺境にカバーリヌイ‑ホロープの制度が拡大されてゆく過程を反映しているものかもし れない。
(4)カバラア登録帳簿が紛失している場合0 第56条は、裁判でカバラアの信葱性が問題と なるときについて、そのカバラアが「120年」つまり西暦1611‑1612年の日付またはそれより古 い日付をもち、そこに関係当事者の署名があれば、これを登録している「帳簿がなく」照合が 不可能な場合でも、 「そのカバラアを信じ」カバラアの提出者‑所有者に係争の的になっている
カバーリヌイを引き渡す、と規定しているO このようにカバラアの年代を示しながら、同条は帳 簿がない理由を端的に示さず、上の措置をとるのは皇帝ミ‑イルが「ロシア国家に君臨するまで にそのカバラアが書かれたが故に」とのみいっている。それが、先帝ミ‑イル(ロマノフ朝の始 祖)の即位前の動乱、とくにポーランド軍のモスクワ占領とその撃退の混乱によって帳簿が紛失 したことを指さしている、という推定は、他の条項から根拠づけられる。まず第‑は、第56条と ほぼ同じ内容をもっている第103条が、 「帳簿がない」場合について、年代をあげず、先帝ミ‑
イルにも言及せず、モスクワの混乱を「モスクワ破壊」なる語で示し、それ以前のカバラアを特 例としていることである。もう一つは、スタリンヌイに対する証文についての第29条で、 「モス クワ破壊のときに、 121年(西暦1612‑1613年に当る‑引用者)以前に失なわれた」証文は、 1612‑16 14年にその届出がなされていれば、これによってスタリンヌイヘの権利を認めることを規定して いるのである。つまり、第56・103・29条は、いずれもカバラア登録帳簿あるいは証文がモスク ワ破壊のとき、ミ‑イル即位の直前に紛失したことに関係しているのである(17倍紀には、かの 1597年法令によるスタリンヌイに対する証文登録のごときは、行なわれていない、 1649年法典に もその規定はない)。ところで、第103条は、第56条と同じ状況を設定し、結論的にも「そのカバ ラアを信ずる」としながらも、そこにいたる方法がやや複雑で、関係当事者が死亡しているとき は、そのカバラアにおけるかれらの署名を他のカバラアと比較して「署名が著名と一致するとき」、
問題のカバラアを信ずる、と規定している。第103条と第56条とのこのような相違は、それぞれ が依拠した具体的な判例がそのまま条文化された、と解する以外には妥当な解釈がなさそうであ る。
以上、 16憧紀末にその基礎をすえられたカバラア登録の制度は、半世紀の経験を生かして詳細 かつ具体的な規定として1649年法典に条文化されている.カバーリヌイをめぐる争いの激しさと、
これに対処して農奴制国家の樹立に腐心した為政者・立法者の姿がここにもうかがわれるであろ
う。
カバ‑.)ヌイ‑ホロープに関する1649年法典の規定
895 カバーリヌイとその妻の法定地位
カバーリヌイの法的地位は、主人の死まで主人にのみ隷属、主人の死後は自由、につきるであ ろう.この原則については、誰がカバーリヌイになれるか、解放状は必要か、などを考察した際、
かなり言及している。思うに、カバーリヌイの問題が17世紀中葉ロシアの為政者・立法者を悩ま せたのは、この原則が、あるいはカバーリヌイ自身によって、あるいは主人側によって、犯され ることが多い、という現実であった。カバーリヌイがこの原則を犯すのは、主人生存中に逃亡し て他の新しい主人にカバラアを出す、という形をとり、他方、主人側は、主人の死後にその遺族 がカバ‑ヌイに自由を与えなかったり、主人自らが自分のカバーリヌイをスタリンヌイと同一視 して他人に譲与・遺贈したりして(他人への隷属をもたらす!)、この原則に従おうとしなかっ た。カバーT)ヌイの逃亡は、このカバーリヌイの法的地位を念頭において、逃亡か合法的移転か の判断が下されたのである。ここでは、主人側の不法に対して法典がどのように対処しているか、
またカバーリヌイの隷属と非自由がこれと結婚した者にも及ぶ、この2点を中心に見ておきたい。
主人の死後カバーリヌイは自由、という原則は法典第20章の多くの条項に反映しているが、生 のままでこれを示しているのは、けだし寛52条と第63条であろう。算52条は、誰かが「父のカバ ラアによって」カバ‑リヌイを手もとにとどめ置こうとしても、父が死亡した以上は「父のリュ
‑ジーを解放」しなければならない、そのカバ‑リヌイは他人にカパラアを出してそのカバーリ ヌイになり得る、と明示している。一方、第63条は、第62条との対比において(第62条は、スタ リンヌイを譲与の対象として、例えば持参物として娘または妹に与えることができる、と定めて いる)、父‑主人の遺言状が「カバー1)ヌイを自分の妻子に〔与えると〕書いている」場合を取 り上げている。第63条がこのような遺言状についてその無効を宣して「信ずべからず」といって
チ‑ーン
いるのは当然であるが、その際とくにその理由を明示して、 「何となれば、あらゆる階層の人に、
ポヤリン
カバラアによるホロープは、自分の主人の死まで[のみ]隷属するからである」と述べているの である。第63条は、遺族が父‑主人の遺言状にかかわらず、このようなカバーリヌイを「自由に 解放」すべきことを指示するとともに、このカバーリヌイが「自分の最初の主人の死後にカバラ
タレ‑‑オごタ
アを出す者に隷属する」と示しているのは、同条もまたたんに原則を抽象的に条文化しているの でなく、カバーリヌイをめぐる争いの現実をふえての規定であるえとを思わせる。第63条、さら には第62条の前提になっているのが、第61条であって、ここでは「身売り状の‑、報告状の‑お よび買われた‑リュージ‑、ならびに他国の捕虜」. (1649年法典はこれらの「完全ホローブ」を スタリンヌイと総称していることが多い)を遺言状などに書くことを認めるとともに(完全ホロ
‑プ制の維持!)、カバーT)ヌイについてはこれを「遺言状、婚約書、および贈与状に書いては ならない」と規定しているO いま、カバー1)ヌイを主体にして考えれば、第61‑63条はこれをス タリンヌイと区別することに意を用い、これによって主人側の攻勢に対処していることが知られ
る。 ブラ‑ーワヤ
このような配慮は、 「判決書」にも及んでいる.判決書はホロ‑プをめぐる裁判の結果を記し ているもので、勝訴者に「権利の証書」として与えられ、その手もとにカバラアなどと同様に保 管されているものである。第82条が、判決書でスタリンヌイに対する権利が保証されていればこ の権利は主人の死後に妻子に移る、と定めているのに対して、その前の第81条は、同じ状況のも とで「カバーリスイ‑ホロ‑プを[死亡した主人の]妻と子から、ホロープ身分から解放する」
と指示している。この第別条は、その後半において、妻子にとって判決書は「証文でない」とす
るとともに、判決書とカバラアを並記してその理由を次のように示している: 「何となれば、か
ナ.チヨ‑・‑・イ‑ミヤ
れは、カバラアと判決書がその名に対して書かれた者(死亡した主人をいう一引用者)に[のみ]カ
クレーポク
バラアと判決書によって隷属するからである。」つまり、さきの第63条におけると同じ原則がか かげられているのである。くりかえして注意を喚起したく思うのは、本条もまたカバーリヌイと
スタリンヌイとの対比、両者の区別を意図している条項群のなかに入っていることである。
ところで、カバーリヌイを手もとにとどめ置こうとする主人側の企ては、スタリンヌイについ ての原則「ラーバによってホロープ、ホロープによってラーバ」、簡単にいえば非自由人と結婚 すれば自らも非自由人、という原則が認められている第31条を利用して、カバーリヌイをスタリ ンヌイに転化することにも向けられたであろう。他方、主人の死後改めてその遺族が同一人から カバラアをとることについては、法典は解放状を要す、としてチェックしている(既述、第9条)0 さらにまた、主人側の好智は、カバラアに父子、兄弟の名を連ねて記しておく方法をも考え出さ せた。これについては、すでに1606年1月7日法令が禁止しているが二22)、 17世紀中葉に及んでも その車はやまなかったと見えて、法典第20章はその第47ォ48条において再び取り上げている。た だし、その取上げ方は、 1606年の場合と異なって、第48条でその対策を指示している。第47条は、
1人のカバーリヌイに対して「父が子とともに、または兄弟が兄弟とともに、またはおじが甥と ともにカバラアを取り」、 「原告」がこのようなカバラアによって訴えてもこれを「拒否し」、そ のカバーリヌイを「解放する」、と定めている。第48条における対策というのは、すでに「取ら れたスルジーラヤ‑カバラア」は、これをモスクワのホロ‑プ庁に、あるいは地方都市では軍令 らのもとに提出させ、 「古いカバラア」を没収し、 「新しいカバラア」を与える、というもので ある。主人側の攻勢に対してとられた積極策の最もよい例と見られよう。
主人の死後は自由、というカバーリヌイの特質は、主人の死までの非自由と表裏一体をなして いること、これを見落しては、カバーリヌイもまたホロ‑プであることが充分評価されずにおわ るであろう。この「主人の死までの非自由」について念をおすために、カバーリヌイの妻につい て検討しておきたい(カバーリヌイの子については、既述)O
カバーリヌイの妻は、結論的にいえば、スタリンヌイの妻と同じく、夫の主人に隷属するOた だ夫の(より厳密にいえば夫婦の)主人の生存中という期間の限定によってスタリンヌイの妻と 区別される.ホロープ(スタリンヌィ、カバ‑リヌイを含む)の子が両親を「捨てて」他に移転 できない(第24条、既述)と同様.に、ホロープなる夫も妻も、第26条によって、相手を「捨てて」
他に移転できない。この第26条の規定は、第84‑87条においてもっと具体的に条文化されている。
第84条は、スタリンヌイまたはその妻が、相手を「捨てて」他の主人のもとに走り、そこで結婚 していても、かれらは、最初の妻または夫のもとに、別言すれば、旧主のもとに連れ戻される。
この場合、二番めの妻または夫は、最初の妻または夫が死亡していない限り、新しい主人のもと
にのこされる.これに対して、カバ‑リヌイについて規定している第85条と第96条は、少しく異
なった角度から見ている。すなわち、第85条は、カバーリヌイが「自由人なる女」と結婚し、その
後にカバーリヌイ本人が死亡しても、その妻は他の新しい主人にカバラアを出すことを認めてい
ない。このようなカバラアは、 「カバラアでない」つまり無効とされる。いいかえるとカバーリヌ
イと結婚した女は、自由人であっても、夫の主人に隷属するのである。第26条が、カバーリヌイ
をも含めておよそホロープたる者は、夫または妻を「捨てる」ことができない、としてその主人へ
の隷属を規定しているのに対して、この第85条は、より端的にカバーリヌイの妻がまさに夫の主人
に隷属することを規定しているのである。しかも、逃亡して他人にカバラアを出しても無効である、
カバーリヌイ‑ホロ‑プに関する1649年法典の規定
91「かの女の夫によって、かの女の最初の主人にその女をひき渡す」というように、現実の紛争を 念頭において規定している。スタリンヌイの妻との比較でいえば、この「 かの女の夫によって」
は、スタリンヌイの結婚についてのrラ‑バによってホロープ、ホロ‑プによってラ‑バ」(罪 31条、既述)にまさに即応するものであり、また、第85条は、その末尾で、上のような状況でか の女が他の主人のもとで結婚しているとき、「夫とともに̲」旧主に引き渡す、と指示して、スタ リンヌイの妻についての第84条に一致させている。第87条は、スタリンヌイまたはカバーリヌイ が主人から逃亡して自由人の女と結婚して子をもうけ、その後別の主人に夫婦と子を含むカバラ アを出していても、妻子とともに旧主に連れ戻されることを規定している。これに対して、第86 条は、カバーリヌイ独自の、やや複雑な場合についての規定であるO本条を理解するためには、
15‑17世紀ロシアにおいて、妻は夫とは別に自分のホロープをもち得た、ということを知らねば ならない(23)
。第86条が設定している状況は、夫‑主人あるいは父‑主人が「カバーリヌイ‑チェ ロベ〜ク」(カバ‑リヌイ‑ホロ‑プ)をもち、妻‑主人あるいは息子‑主人がこれとは別に「
カバーリナヤ‑ジェフカ」(未婚女性のカバ‑リヌイ‑ホロ‑プ)をもち、そのカバーリヌイ同志が 結婚し、その後に主人‑夫あるいは父‑主人が死亡する、というケ‑スである。主人の死後は自 由という原則と、カバーリヌイと結婚した者は夫または妻の主人に隷属するという原則と、二つ のうちこの場合には後者が優先する。第86条はこの場合について次のように規定している:「そ のホロ‑プは、カバーリナヤニラ‑バによってかれ(死亡した主人一引用者)の妻と子に、ホロ‑
プ身分において隷属する.」「カバーリナヤニラ‑バ」とは女性のカバ‑リヌイ‑ホロ‑プである が、条文はスタリンヌイについての「ラーバによってホロープ」と同じことをいっているのであ る0第86条はその末尾で、妻‑主人あるいは子‑主人が先きに死亡すれど、上のカバーT)ヌイが 夫‑主人あるいは父‑主人に隷属することにも言及している。第86条は、さきの第47サ48条が1 人のカバーリヌイの共同所有を禁じているのに対し、主人である夫婦あるいは父子が、自分たち のカバ‑リヌイを結婚させることによって、かれらの生存中はカバ‑リヌイ夫婦を共同所有する ことを認めているものである。理論的に考えても、第86条は筋道にかなっていると恩う。法典編 纂者もこのような形での共同所有を禁ずることはできなかったのである。
むすび
以上の考察を要約し、あわせて展望を述べておきたい。
1649年法典第20章は、カバーリヌイ‑ホロープについて、(1)これになり得る者となり得ない 者を厳別しようとしている、(2)なり得る者は、狭義の自由人であり、とくに解放されたカバー リヌイを念頭においている、(3)主人の死後にカバーT)ヌイは自由、の原則を手段をつくして守 ろうとしている、(4)それとともに、カバーリヌイとその妻子を家族ぐるみで主人に隷属させ、
逃亡をきびしく取締ろうとしている、(5)カバラアの承認・登録の手続きは厳密・詳細であり、
個々人の人相・特徴までカバラアおよび帳簿に記された、(6)カバラア登録帳簿の整備は、カバ
‑リヌイを国家が掌握することを意味した、これは土地台帳による農民掌握と同じ目標にそって
いる、(7)その目標とは身分固定による農奴制国家の確立である、(7)そのためには浮浪人的自
由人をなくすとともに、自由人とホロープとの中間にあり、両面の性格をもつ「自由意志の奉公
人」をいっそう少なくする方策をとった、(8)基本的輸廓は、16世紀末ホロープ制変革の継承で
あるが、はるかに詳細かつ具体的になっている、(9)これは、カバーリヌイをめぐる実際の争い
‑裁判がもたらしたものであり、各条項はこのような裁判に備えて規定されている。
以上が要論であるが、われわれとしては、法典第20章が、とくにカバ‑リヌイについて、農民 よりもはるかに多くの条項を備えている事実を直視しなければならないであろう。それは、農民 よりもかヾ‑リヌイが数的に多かったことを意味するものではないが、農民よりもかヾ‑)ヌイ が為政者・立法者をより深刻に悩ませたことは否定できないのではあるまいか。このことは、現 在に伝えられるホロープ、とくにカバーリヌイをめぐる裁判記録からも推察できるのであって、
わずか1家族の、あるいは1人のカバーリヌイがどちらの主人に帰属するか、旧主から自由であ るのか、をめぐって、 17世紀ロシア国家は無益とさえ思われるような労力と時間を費やしている のである。この点を本稿は具体的に示すいとまがなかったが、考えてみれば、カバーリヌイが主 人の死後に自由になる限り、かれらの浮動性を般絶できないのは当然なのであって、農奴制社会
の安定といっても、そこに限界があったことを知るべきであろう(24)。
そもそも、カバーリヌイはいつまでも自由と非自由をさまよっていたのであろうか。そのくり 返えしの過程のなかで農奴農民として定着するもの、あるいはスタリンヌイを経てそこに落ちつ
く者が次第に多くなった筈であるO これなくしては、ピョートル大帝によるホロープの農奴農民 への転化が考えられないのであるO この面におけるピョ‑トルの改革には、ホロープも国家負担 にたえ得る、という前提があったと思う。このようなことに恩いをいたすとき、浮動性を助長す る面あるを否定できないカバーl)ヌイ‑ホロ‑プの制度が何故16世紀未から17世紀後半にわたっ て、ロシア国家で支持されたのか。これに対する答えは、ホロープ自体とともに、ホロープを労 働力として必要とした階級の内部的構造の省察を必要とするであろう0
注
(1)拙稿「16世紀末のホロ‑プ法令と債務ホロ‑プ」 (史林、 45の5、 1962年)、同「16世紀ロシアの債務.) ユジイ」 (土地制度史学、 14号、 1962年)参臥
(2)上の拙稿「債務l)ユージイ」の「Il.スルジ‑ラヤ‑カバラア」参照o
(3)拙稿「逃亡ホロ‑プに関する1649年法典の規定」(奈良教育大学紀要、人文・社会科学、 20の1 、 1971年)0 なお、 1649年法典のテクストについては、この拙稿「逃亡ホロープ・・・」の注(3)参照。
(4)下級士族を1550年法典第76条スルジ‑ラヤ‑カバラア最高額15ループリに結びつける見解がソビェト史 学に強まってきている B.A. PoMaHOB, CyAe6HHK HBaHa rpO3Horo, 《H3》 t. 29, 1949; ero >Ke, K Bonpocy o l5‑py6jieBOM MaKCHMyMe b cnyacujibix KaSajiax XVI b., 《H3》 t. 55. 1955; H.H.
CMHpHOB, OiepKH nOJImHHeCKO員HCTOpuh PyccKoro rocyAapcTBa 30‑50x roノhob XVI BeKa, 州.‑.71. 1958, CTp. 309, 375‑384; K).I¥ AjieKceeB, n只THa^uaTHpySjieBfaifl inaKC以MyM no cjiyjKHJio員 Kaoajie, cjiyx6a c 3eMJH h中eo只asibttaa perna, 《MccJie月OBaH朋no coiiHajifeHO‑ncwHT的ecKO員 HCTOOHH POCC打h, C6. ct. naM兄th B.A. PoMaHOBa》, JI. 1971, (且ajiee‑MccJieノicmaHHH, C6. ct.) CTp. 110‑117; B.M. UaHeHX, OiyiKHJibie Ka6ajibi Ha月eTeft 6ohpck打x no yKa3y 1558 roAa,
《FlpoSjieMbl HCTOpH珂eeo4ajiH3Ma Pocci川, C6. ct. k 60‑jieTHK) B.B. maBpo且HHa》 JI.1971, CTp.
122‑126.
(5) A. HKOBjieB, XojioncTBO h Xojionu b mockobckom rocy^apdBe XVII b. t. I, M.‑JI. 1943, rji.
IV, ち 2. 3aKa6aJieHHe cnyyunjiux jik>且e員, CTp. 143‑152.
( 6)農民以外の国租負担者の代表的なものは都市民であるO法典第19章「都市民について」 (仝40か条)参照o
(7)ホロ‑プは原則として国租を課されないo これについては反対意見もある、拙稿「最近のソビェト史学
カバ‑リヌイ‑ホロープに関する1649年法典の規定
93におけるホロープ研究H日」 (史学雑誌、 81の10・11、 1972年)参照。
(8)その17世紀中葉の事例研究として、拙稿「17世紀ロシアのホロープ裁判」 (奈良教育大学紀要、人文・
社会科学、 18の1 、 1969年)参照。
(9)カバラア登録帳簿における前歴記載とその分析については、次を参照:前掲拙稿「16世紀末のホロープ 法令‑」; A.只KOBjieB, yKa3. com. tji. H. OraTiイCTIイKa HoBropcyicKHx 3aKa6ajiet川員1592‑1609 (100‑117) rr., cxp. 57‑82; H.H. Cmhphob, BoccraHHe BcwoTHHKOBa. 1606‑1607, 1951, crp.
68‑71; B.M. ftaHe月x, KaSajibHoe xojioiictbo Ha Pycn b XVI BeKe, JI. 1967, CTp. 49‑51.また、
17世紀中葉から後半軒こわたるカバラア原本にして既刊のものについては、 AKDB. t. ll. Jva 127. CTp.
26‑42; KaTajior nacTHbix afくtob MocKOBCKoro rocyAapcxBa, 《npOOJieMU HCTOHHHKOBeAeHH兄》
C6. ll. M.‑JI. 1936. noHJIO〉KeHHe.
clO) 「スタリンヌイ(‑ホロープ)」という術語を法典第20章は、ときにカバー1)ヌイに対立する完全ホロ
‑プの総称として、またときに完全ホロープのなかで証文によらない、 「スタリナ‑」による隷属者の 意味で使っている。
(ll) 「住民調査」については、前掲拙稿「逃亡ホロ‑プ‑」の3、同「・・・ホロープ裁判」の5を参照。
(12) 「執行官」は警官・執行吏の役割を果たし、これを派遣することは当局の強い態度を示す。
(13) nPn. Bwn. 4, CTp. 515.
(14) 「軍令」の一般的任務、および軍令が法網をくぐって自分の息子にカバラアを認めた17世紀前半の事例 については、前掲拙稿「‑ホロープ裁判」の2.参照。
(15)前掲拙稿「16世紀末のホロ‑プ法令.・・」の3.参照。
(16) 「自由意志の奉公人」について、 16‑17世紀の諸法令・法典を中心に考察したものとして、 B.M.
FlaHe兄X, ,H,06pOBO,M>HOe XCWIOnCTBO B 38KOHOJnaTejibCTBe XVトXVII bb. (1550‑1649 it.),
《Hccjie^OBaHHH. C6. ct.》 CTp. 198‑216.
(17)カシタノフが1619年のカバラアの内容について詳しく説いている解説は、この点にもふれていて参考に 資するところ大である nPn. Bra. 5. cto. 93‑110.なお、 16‑17世紀のカパラア覇の考察としてほ、
B.州. riaHeax, Ka6aJibHoe xcvloncTBO. CTp. 38; A. flKOBjieB, YKa3. coh., CTp. 60‑65.なお、す で醍1641年5月30日法令でカバラア額は「3ル‑ブT)以下」とされている: A.只KOBJieB, yKa3. COH.,
CTp.53,315.