四祖道信と牛頭法融の安心観
―観心守一から絶観忘守へ―
石 野 幹 昌
はじめに ――安心とは――
「佛と作らんと擬する者は先づ安心を學べ.」(『楞伽師資記』求那跋陀羅章T85, 1284a–b)達摩の安心壁観や,後世創作された慧可との安心問答のように,「安心」 は禅家にとって究極の命題であった.本稿は,達磨禅の事実上の起源と言える東 山法門の四祖道信と牛頭 宗 初祖に仮託された法融禅師の安心観を比較し,初期 仏教史に於ける達磨禅の思想的変遷について考察する. 1.四祖道信の安心観
禅宗史上最初の大規模な修行教団を率いた四祖道信(580–651)は,多様な素質 に対応した様々な方便行を用いて数多くの学人を教導した.彼の著書,『楞伽師 資記』所収の『入道安心要方便法門』(T85以下,『方便法門』と略称)には,安心の 為の様々な方便行,即ち,禅観が全 に亘って詳しく説かれている.中でも,彼 の法要(教法の真髄)は『文殊説般若経』巻下の一行三昧(T8, 731a24–c4)に基づく と言う.この一行三昧は,中国初期仏教の諸派に好んで依用され,その解釈・行 法には各宗派の本質や特徴がよく表れている. 1.1. 道信の一行三昧 一行 は一行相(eka-ākāra)の意で,真理の世界(法界)の無差別の姿(一相) を言う.一行三昧とは,この一実相の法界に繋縁する(意識を集中させる)ことで あるが(理観),法界は思議を超え,無礙無相であるため,具体的な行法として 称 名 念仏も挙げられている(事観).つまり,一行三昧には,(a)繋縁法界とい う理観と(b)繋心一仏(称名念仏)という事観の二つの行法が存在する.では, 道信はこの一行三昧をどう解しているのか.佛を念じて心心相續せば,忽然として澄寂にして,更に縁ずる所の念無し.『大品經』に 云く「念ずる所無き者,是れ 佛を念ず と名づく」と.何等をか 念ずる所無し と名づ くる?即ち佛を念ずる心を 念ずる所無し と名づく.心を離れて別に佛有る無く,佛を 離れて別に心有る無し.佛を念ずるは即ち是れ心を念ず.心を求むるは即ち是れ佛を求 む.所以は何?識は形無く,佛は相貎無ければなり.若也し此の道理を知らば,即ち是れ 安心なり.常に佛を憶念して攀縁起らざれば,則ち泯然として相無く,平等にして二なら ず.此の位中に入らば,佛を憶する心も謝し,更に むるを須ひず.即ち看ん,此等の心 は即ち是れ如來が眞實の法性身なることを. (『楞伽師資記』道信章T85, 1287a9–a17) 「心には形が無く,仏には姿が無い(識は形無く,佛は相貎無き)」為,道信はま ず『文殊説般若経』の(b)繋心一仏(称名念仏)を憶念仏と解し,一行三昧への 手がかりとした.仏をひたすら憶念し続けていくと,ある時ふっと澄み渡って静 かになり,それまでずっと念じられてきた心(所念の仏)が消え,念じ続けてい る心(能念の心)も消える.このような,念じられる仏も念じる心も忘れるほど 念仏三昧に没頭した境地が 安心 であると言う.つまり,絶え間なき憶念仏の 果てに至る能所両忘の三昧境,即ち,憶念仏三昧になった心がそのまま真の仏で あり,それがまさに道信の言う 安心 なのである. 1.2. 法界一相の悟解 憶念仏には念仏という手がかりがあるが,法界は無相であり,法界を知らぬ者 には繋縁すべくもない.そこで,(a)の法界繋縁,即ち,法界を悟る方法につい て道信は,直須任運(a-1)と諦可看心(a-2)という二つの正反対のあり方を提示 する. 直須任運 とは,憶念仏以外の方法で,仏を念じたり,心を求めたり, 心を観察したりせず,観行はしないが,かといって,散乱もしない.何も手出し はせず静観し,ただ心のあるがままにさせることである(T85, 1287b18–b20).一 方,「諦かに心を看ずる(諦可看心)」とは,『方便法門』後半部分の観身空寂や守 一不移,及び初学者の坐禅看心の項がこれにあたり,それぞれ詳しく述べられて いる.さらに,後者の諦可看心は漸修であるが,前者の直須任運という一切の作 為を放捨する方法は,六祖慧能に託される南宗禅の頓悟に繋がったと思われる. ただ,まだこの段階では,直須任運は法相を悟らせる為の上級者向けの一行法で しかなく,頓漸両方の立場を認めつつも,頓悟を最上とする南宗禅程高い位置付 けではなかったようである.
1.3. 守一不移 道信はさらに, 観身空寂 と 守一不移 について説く.観身空寂は守一不 移の前方便であり,自己の身(四大・五蘊)及び六根・六境・六識(十八界)が空 寂であると観じる行法である.守一不移は, 守一不移とは,此の空淨の眼を以て意を注いで一物を看ず.晝夜の時を間つる無く,專精 にして常に動ぜず,其の心,馳散せんと欲ば,急手ぎ還た攝め來れ.(後略) (『楞伽師資記』T85, 1288b16–b18) というように,観身空寂によってすっかり空じられた身心で一対象を日夜観察し 続ける徹底した集中行であった.『維摩経』の「心を攝むるは是れ道場なり(心を 集中させていることが悟りの真っただ中)」という言葉を引き,「此れは是れ心を攝む る法なり(これこそ,心を集中させる行法だ)」としているところから,この心の集 中行こそ道信禅の本領であった.さらにこの後には,初学者向けの種々の坐禅法 が具体的な静座法も交えて説かれていくが,いずれも綿密な心の観察行である. 全体を通観するに,道信禅は漸修の宗であるが,法相悟解の一手段ではあるもの の,後世の南宗禅へと繋がる 直須任運 のような修行法も胚胎していた.以上 のように,『方便法門』は,様々な種類の修行法を えてその具体的実践法を示 した上で,如何にしてそれらを修行者の素質に合うよう用いるかを説いた道信禅 の指導書であったと言えよう. 2.
牛頭法融の安心観
さて,禅宗の牛頭宗初祖法融禅師の『心銘』は,一切の作為の放棄の後におの ずと現れる心性現前の悟境が全 を通じたテーマとなっており,彼の思想をよく 特徴づけている.その主な内容を挙げると,(a)修養論(無作為→悟境)(b)悟境 (絶観忘守など)(c)即今現在(今あるがままの心)(d)無心の働き(e)対治の否定等 である.このうち,(b)悟境については, 菩提は本より有れば,用て守るを須ひず.煩悩は本より無ければ,用て除くを須ひず.靈 知自 ら照し,萬法如に歸す.(中略)観ることを つて守ることを忘る. (牛頭山初祖法融禅師『心銘』T30, 457c15–c17) と言う.これは四祖の「心を摂むるは是れ道場」という心の観察行とは正反対の 如(あるがまま)の境地である.そしてそれは,一切顧ること莫れ.心を安んずるに處無し.處として心を安んずること無くんば,虚 明 自 ら露る. (『心銘』T30, 458a7–a8) 「心はどこにも安んじられない」つまり,心を対象化して修めない.そうした あり方によってはじめて,「とらえどころのない明るさ(心性)がおのずと現われ る」ということである. 四祖にとって安心とは,仏を念仏の対象として念じ続ける憶念仏三昧であり, さらに,法相悟解の為の様々な観行法も用意されていた.一方,法融にとって安 心とは,求むべき仏も観るべき心もそもそも無い(「三世に物無く,心無く,佛無 し.」〔『心銘』T30, 457c6〕),心性現前の境地である. ところで,『景徳伝灯録』牛頭法融伝にも道信の 法要 が収められている. 汝,但だ心に任せて自在なれ.觀行を作すこと莫れ,亦た澄心すること莫れ.(中略). 蕩蕩として 礙 無く,意に任せて縱橫たれ.(中略)行住坐臥,觸目遇緣,總て是れ佛の 妙用なり. (そなたは,ただ心のままに自由であれ.観行を行ってはならないし,心を研ぎ澄ませて もならぬ.(中略)心のびやかにして何物にもとらわれず,思うがままに振る舞えばよい. (中略)歩いている時,立っている時,坐っている時,横になっている時,目に触れるも の出会うもの全てがそのまま仏の妙なる働きなのだ.)(前半部分省略) (『景徳伝灯録』巻四 牛頭法融伝T51, 227a24–a27) 四祖の法要の前半部分は本来仏である心の本体を説いたものである.問題はそ の後半部分.ここで道信は,「観行をやめて心のままであれ」と説き,さらに, 「そのあるがままの心がそのまま仏の妙なる働きなのだ」と説く.そして,その 法要に続く問答では, 師曰く,「既に觀行を作すことを許さざれば,境の起る時に於て,心,如何が對治する?」 祖曰く,「境縁に好醜無し.好醜は心より起る.(中略)妄情既に起きずんば,眞心,遍く 知るに任す.汝,但だ心に隨つて自在なれ.復た對治すること無かれ.即ち,『常住法身, 變異有る無し』と名づく.」 (法融,「観行をしてはならぬとおっしゃるのでしたら,対境が[認識の対象として]生じ た時,どう対治したらよいのですか?」四祖,「境という対象[自体]に善いも悪いも無 い.善いとか悪いとかは心から生じる.(中略)妄想が生じなければ,本当の心にどこま でも知るがままにさせておけばよい.そなたは心のままに自由であれ.もう対治はしなく ともよい.それ(心のままであること)がそのまま,「永遠なる法身(心性)は変化しな い」ということなのだから.」) (『景徳伝灯録』巻四T51, 227a29–227b4)
と,対治観行をやめるよう重ねて諭す.『方便法門』では,如来の真実の法性身 は憶念仏三昧に到った心であった.しかしここでは,対治や観行を離れた心のあ るがままの働きがそのまま不変の常住法身であると言う.『方便法門』で漸修の 対治観行を勧めていたはずの道信がそれをやめるよう説き,その法要,即ち,道 信禅の真髄も,ここでは憶念仏ではなく,本来仏である心とその任運自在なる働 きにあると言う.観行や澄心の否定,日常生活に於けるあるがままの心の働き (=仏の妙用)というのは,いずれも『方便法門』の説ではない.