鈴 木 晃志郎(首都大学東京大学院都市環境科学研究科)
鈴 木 亮(首都大学東京大学院都市環境科学研究科)
要 約 小笠原諸島は現在、2011 年の世界自然遺産登録に向けた取り組みが進められている。そ こで本研究は、小笠原の自然環境の現状と登録に向けた課題を、文献研究と現地視察に よって多方面から整理した。分析の結果、現行の基本計画は、外来生物の侵入・拡大や固 有種再生の取り組みは進んでいる一方、登録後の継続的な環境保全・適正利用のための枠 組みづくりが十分でないことが明らかにされた。 「適正利用」や「持続可能な開発」の美名のもと、観光開発を無制限に受け入れれば、 小笠原は危機遺産化する危険もある。観光活動がもたらす利益とリスクを厳密に評価し、 持続可能な環境保全と適正利用のガイドラインを提示することが必要である。Ⅰ.はじめに
東京から南へ約 1,000km、年平均気温 23 ℃の亜熱帯気候区に属する小笠原諸島は、古第 三紀始新世(5,500 万年∼ 3,700 万年前)に火山活動によって形成され、第四紀前半に掛け て海上に現れた(岡、2004)。ガラパゴス諸島やハワイ諸島と同様、過去に大陸と陸続き になったことがない海洋島である。 海洋島では、何らかの手段で海を渡って島にたどりついた生物だけが定着し、島内で独 自の進化を起こす結果、多くの固有種が分布する。一方、長距離分散することが難しいた めに、生物相が少なかったり、特定の分類グループに偏っていたり、哺乳類や爬虫類など の大型捕食者が欠落している場合が多い(立川、1994 ;小野、2007)。そのため、海洋島 の生態系は単純で、外来生物の侵入に対して極めて脆弱である。 近年、こうした小笠原独自の生態系を保護していくための手段として、世界自然遺産へ の登録をめざす動きが活発になりつつある。世界自然遺産への登録が実現すれば、それを 契機として、小笠原におけるエコツーリズムのあり方は大きな変革を迫られることが予想 される。 この情勢に対応する形で、首都大学東京は 2008 年、新たに大学院観光科学専修を創設した。同年 4 月には、すでに修士課程の第一期生が入学を始めている。専修内に設置された 自然ツーリズム分野は、エコツーリズムやルーラルツーリズムなどの領域を研究対象とし、 「環境保護・保全」と「適正利用」のバランスをとりながら、研究機関のみならず広く実 社会においても活躍できる能力を備えた人材の育成を掲げている。これは観光学関連の他 大学・大学院とは一線を画した教育目標である。 自然保護官や企業の環境関連部局、さらには環境関連の NPO など、実社会のツーリズ ムとエコロジーの関連領域には、公的資格や人材育成制度によって一定レベル以上の知識 と技能を保証された人材の活躍しうる舞台が数多く存在する。そうした高レベルの人材を 安定的に供給していくため、東京都はさらに 2007 年 8 月、(近い将来の資格制度化を睨み つつ)公認の人材育成・認証制度「ECO-TOP プログラム」を創設した。当専修は同プロ グラムの認定第一号校でもある。 今後、ここを巣立ってゆく人材の活躍の場として、また持続可能なエコツーリズム創出 に関する研究および実践の場として、小笠原は当専修と直接・間接に関係が深まることが 予想される。なかんずく当専修が、即戦力として通用する人材の育成に向けて重視してい る「インターンシップ」の舞台として、すでに小笠原研究施設という拠点があり世界遺産 級の自然を有する小笠原は、またとないフィールドであろう。 そこで 2008 年 12 月下旬、当専修の自然ツーリズム分野に属する教員 4 名は小笠原諸島父 島を訪問し、現地関係者との会合を行うとともに各々の関心に沿って島内での巡検・視察 を実施した。本研究はその巡検報告を兼ね、小笠原の世界自然遺産登録をめぐる動きを整 理するとともに、主としてツーリズム学の観点から、世界遺産候補としての小笠原の抱え る課題を展望することをめざす。
Ⅱ.小笠原と世界自然遺産
1.世界遺産とは何か 本論へと進む前に、まず世界遺産とは何かについて触れておく必要があろう。世界遺産 は、人類の共通財産としての「顕著な普遍的価値(Outstanding universal value)」をもつ 遺跡、建築物、自然等の総称であり、「世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保 護に関する条約)」に基づいて規定される(七海、2006)。 1960 年、アスワンハイダムの建設計画がヌビア地方のアブ・シンベル神殿群およびフィ ラエ島の遺跡群を水没させる危険があることが明らかになり、ユネスコは国際的な募金活 動を展開。遺跡群を 20 年がかりで高台へ移設する工事をおこなった(西村、2004)。 これを契機に、人類の共有財を国際社会が協力して保護・保全する機運が生まれ、1972年 11 月 16 日の第 17 回ユネスコ総会で、世界遺産条約が成立する。1975 年には 20 ヶ国がこ れを批准し、条約は正式に発効した。世界遺産リストの第一号は、イエローストーン国立 公園を含む 12 件(自然遺産 4、文化遺産 8)で、1978 年に登録されている。2008 年現在の 条約締約国は 185 か国。先進国中最も遅い 1992 年に世界遺産条約を批准した日本は、125 番目の加盟国である。 世界遺産条約では、加盟国に対して自国内の文化遺産・自然遺産を保護するための措置 を講ずるように義務づけてはいるものの、各批准国の国家主権を優先するため強制力はな い(高樋、2003)。つまり、人類の共有財であっても、実際の管理運営は当該国・地域に かなりの裁量権があり、その対応いかんによっては、遺産の質的維持が困難になる危険が ある。 自然遺産への登録は、毎年年末に開催される世界遺産委員会において審議される。登録 の条件は、(1)ひときわ優れた自然美を備えた自然現地又は地域、(2)生命進化の記録、現 在進行中の地質学的な過程等で地球史の各種の段階をあらわす優れたもの、(3)陸上、淡 水、海洋の生態系の進化過程において、現在或いは現在進行中の生態学、生物学の過程を 表す全てのもの、(4)科学的視点から世界的に高い価値を持ち、絶滅の怖れのある種や多 様な野生生物の生息地、の 4 要件のうち 1 つ以上を満たすこととされている(松浦、 2008)。 登録にあたっては、(1)締約国の政府がそれぞれの国内の世界遺産候補地を世界遺産委 員会に推薦する「推薦」、(2)世界遺産委員会の依頼により、IUCN(国際自然保護連合) の専門機関によって実施される「候補地の評価調査」を経て、(3)毎年 1 回開催される世界 遺産委員会で候補地を審査し、「世界遺産リストへの登録」を決定するという、3 つのプロ セスが実施される。 2.小笠原の世界遺産登録への動き 小笠原が日本の世界自然遺産候補地の暫定リストに登録されることになったのは 2007 年 1 月 29 日と、ごく最近のことである。 通常、リストに登録された候補地は、翌年 2 月には世界遺産委員会事務局へ推薦書を提 出でき、その翌年 7 月までに登録の可否が決定されることになっている。このため環境省 は当初、2009 年に開催される第 33 回世界遺産委員会での登録を目指す方針を固めていた。 しかし、ほどなく 2011 年に先送りする方針へと転換する(毎日新聞 2006 年 12 月 22 日)。 その大きな理由の一つは、「遺産区域の検討」とともに掲げられた「保全管理(保護担保 措置の強化、外来種対策と生態系保全、適正利用等)の検討と実施」にあった。すなわち
外来種による生態系浸食が予想以上に深刻だったのである(地域連絡会議・科学委員会合 同会議議事録、2007 年 2 月 22 日)。 もともと、小笠原諸島の世界遺産登録が提唱されるきっかけとなったのは、2003 年に環 境省と林野庁が設置した「世界史全遺産候補地に関する検討会」において、屋久島、白神 山地に続く候補地の一つとして小笠原諸島が選定されたことにある。しかし、外来種の侵 入による固有種、希少種の減少や自然環境の劣化を受け、環境省はすでに前年度から「小 笠原自然再生推進計画調査」を開始。小笠原における自然環境の保全と再生、とりわけ外 来種に関する基礎情報の収集・整理、現地調査の実施、対策の基本方針及び技術手法の検 討を進めていた。また、小笠原に関わりの深い各分野の専門家や地元関係団体、関係行政 機関等の参加を得て 2004 年 10 月 27 日には「小笠原自然再生推進検討会」の第一回会合を 開催。計 3 回の「小笠原自然再生推進検討会」での検討を通して、「小笠原地域の自然環境 の保全と再生に関する基本方針(平成 16 年度案)」を作成した(松井・平野、2008)。 この基本方針に基づき、さらに計 2 回の「検討会」を開催して検討を加えた成果は、最 終的に 2007 年 3 月「小笠原の自然環境の保全と再生に関する基本計画」にまとめられた (小笠原自然再生推進検討会、2007)。関係主体はこの基本計画に基づき、適切な役割分担 と緊密な連携を図りながら、それぞれの取り組みを進めることとなった。小笠原自然再生 推進検討会はこの後「小笠原科学委員会」と「小笠原地域連絡会議」、小笠原科学委員会 付の「外来種対策・自然再生部会」に事業を引き継ぐ形で発展的に解消し、外来種対策は 部会を中心として、本格的に検討されるようになった。 外来種対策・自然再生部会の初会合は 2007 年 12 月 17 日のことであったが、すでにこの 会合には、IUCN 自然遺産評価委員のレス・モロイ氏によって前年に行われた、予備的な 視察が見えざる影響をもたらしていた。2006 年 6 月 15 日から 26 日に掛けて小笠原を訪問し、 視察を行った彼は、登録に向けての課題として、外来種対策が研究段階の域を出ず、具体 的な施策がおこなわれていない点を挙げ「まず実施段階に進むべき。対策が実施段階に進 めば推薦は可能だが、遺産登録の可能性をより高めるため、推薦を遅らせてでも、問題を 解決できることを実証することを提案したい」とした。氏はこれと並んで、まずは実現可 能性の高い対策から優先的に着手することや、侵入の前線で予防的措置を行うことの重要 性も指摘している(IUCN のモロイ氏による小笠原列島現地視察の際のコメント、2006)。 環境省から明確に 3 年延期の方針が最初に打ち出されたのは、このモロイ氏の助言を受け た第二回科学委員会(2006 年 12 月 21 日)でのことである。専門部会の設置は、小笠原の 世界遺産化を見据えた自然環境の再生事業として、ある意味、2007 年に新たなスタートを 切ったばかりといえるだろう。
3.小笠原の自然環境の現状 世界自然遺産の登録に必要な「自然景観」、「地形・地質」、「生態系」、「生物多様性」の 4 つのクライテリアのうち、環境省は現在のところ「地形・地質」、「生態系」、「生物多様 性」の 3 つで、小笠原は条件に合致するとの立場をとっている(環境省、2007a)。このう ち「地形・地質」における「顕著な普遍的価値」は、「プレートの沈み込み初期に発生し た無人岩(ボニナイト)が、地殻変動による破壊を受けずまとまった規模で陸上に露出し ているのは、世界でも小笠原諸島だけである」と説明されている。大きな地殻変動や天災 などがない限り、無人岩に致命的な損傷が及ぶことは考えにくく、無人岩の存在が「地 形・地質」のクライテリアに合致するとの説明図式にも、今後大きな変更はないであろ う。 一方、残る 2 つのクライテリアに該当するのは、動植物が織りなす生態系である。生態 系は絶えず変化するため、その独自性が容易に損なわれやすい。これまで小笠原諸島で観 察された生物は、植物が 765 種(固有種 161 種[21 %];外来種 318 種)、哺乳類が 10 種(固 有種 2 種[20 %];外来種 6 種)、鳥類が 195 種(固有種 13 種[7 %];外来種 1 種)、爬虫類・ 両生類が 8 種(固有種 1 種[13 %];外来種 5 種)、昆虫類は 1378 種(固有種 373 種[27 %]; 外来種 27 種)、陸産貝類では 127 種(固有種 84 種[66 %];外来種 20 種)である(2005 年現 在)。固有種率は日本国内で小笠原諸島が最も高い。しかし、それらの生物のうち、植物 3 種と陸産貝類 24 種は、すでに絶滅している。また、絶滅危惧種に指定されている生物は、 植物 120 種、哺乳類 1 種、鳥類 21 種、爬虫類 1 種、陸産貝類 18 種、昆虫類 1 種に上る(小笠 原自然情報センターのデータベースより算出)。 これら固有生物の減少・絶滅として特に有力なものが、外来生物による攪乱の影響であ る。1960 年代に父島に持ち込まれたイグアナ科のトカゲ、グリーンアノールは、1980 年台 後半には父島および母島全土に分布が拡大し、在来昆虫の強力な捕食者として、在来昆虫 相の種数や個体数を激減させている(槇原ほか、2004)。また、1990 年代に植栽用として 沖縄本島から取り寄せた樹木と一緒に父島へ侵入したとされるニューギニアヤリガタウズ ムシは、固有陸産貝類へ深刻な脅威をもたらした(大林、2006 ; 2008)。このほか、母島 で野生化したネコが絶滅危惧 IB 類のオガサワラカワラヒワに食害を及ぼしていること(川 上・益子、2008)や、固有種であるノヤシをカンショオサゾウムシが加害していること (苅部ほか、2008)が、最近報告されたばかりである。在来動植物相の破壊をもたらして いる外来動物の事例としては、ノヤギ、ネズミ類、ブタ、アフリカマイマイ、オオヒキガ エル、セイヨウミツバチなどもあげられる(松本、1978 ;冨山、1988 ; 1998 ;矢部、 2006)。
一方植物では、1862 年父島に導入されたギンネムが、在来植生を脅かしている。ギンネ ムは前述したウズムシと共に、IUCN が 2000 年に指定した世界の最も悪質な侵略的外来生 物 100 種(Global Invasive Species Database)の中にも選定されたほど、強い繁殖力をもつ。
元は砂防や用材調達を目的に導入され、のち放棄されて拡がった(船越、1990 ; 1991)。 ギンネムは裸地が形成されると真っ先に繁茂し、純林を形成する。有人島の父島や母島 では、明治期以降、人為的に外来種の移入が進められた(木村、1983)。1862 年、幕命に より派遣された阿部檪斎によって父島扇浦に植栽された記録が最も古いが(船越、1990)、 その後 1879 年に小笠原農業試験所が開設された際、砂防や小用材調達を目的に所長の武田 昌次によってインドから導入された。これが、のちに放棄されて拡がり、現在のギンネム 林の状況へと結びついている(船越、1991)。 主に母島について、1944 年の強制疎開直後から 1968 年までの植生変化について触れた 吉田・岡(2001)によれば、ギンネムやリュウキュウマツなどの外来種は、本土への島民 の強制疎開に伴って耕作放棄地で二次遷移が起き、急速にその分布を拡大した。ギンネム は他感作用により他種の侵入を阻害するため(Chou & Kuo, 1986)、在来植物の更新を妨 げ、本来の植生遷移とは異なる遷移を引き起こす危険性も指摘されている(畑・可知、 2004 ;畑ほか、2006 ; Hata et al., 2007)。実際、耕作地跡にギンネムが侵入した母島にお いて、数十年のスパンでギンネム群落の遷移過程を分析した吉田・岡(2000)によると、 ギンネム群落は、純群落として維持されるか、アカギやシマグワといった他の外来木本種 が優先する群落に遷移していた。その一方、在来種が優先する群落への遷移は見られな かったという。 ただし、ギンネムは極めて強い陽生型木本であるため原生林へ侵入する可能性は低いと 考えられ、放棄畑や軍施設跡地などの裸地がなくなった現在では、新たな侵入可能地は少 なくなっている(船越、1987 ; 1988)。また、同齢林における寿命や 1985 年に侵入したギ ンネムキジラミ、ノヤギによる食害等の要因により、小笠原のギンネムにおいては一斉枯 死の兆候が見られる(山村ほか、1999 ;鈴木ほか、2001)。そのため、全体としては衰退 しつつあると見てよい。 一方、ギンネムをしのぐ侵略性をもった外来植物として、アカギ、モクマオウ類、リュ ウキュウマツがある。これらは原生林へも侵入するため、生態系に及ぼす影響は遙かに大 きい。ギンネム、モクマオウ、リュウキュウマツの三種類の外来種について、1979 年と 1991 年の分布状況を比較した山口(1998)によれば、1980 年代のマツノザイゼンチュウに よる虫害でリュウキュウマツ群落は激減しており、在来種のヒメツバキとある程度置き換 わっていることが明らかになっている。同様に矢加部・岡(2007)も、リュウキュウマツ
の更新が可能なのは、土壌が比較的薄く、水分の乏しい生態的ニッチの空白域だとした。 しかし、Hata et al.(2006)は、このリュウキュウマツの一斉枯死が、これに代わる外 来種アカギの分布拡大を招く一因になったことを明らかにした。彼らは 1997 年に大型台風 が小笠原を襲った際には、林冠回復期にアカギの優占度が大きく高まったことも指摘して いる。 外来植物の分布拡大に、動物が関係する例もある。延島・加藤(2007)は、1987 年に採 取した標本の中に、1945 年頃に植栽されたと思われるリュウキュウガキが含まれていたこ とを報告し、当初植栽されたと思われる地点から飛び地的に生息域が拡がっていることか ら、固有種のコウモリやヒヨドリによって散布された可能性を指摘した。 このほか、近縁の固有種と雑種を形成する外来種もいる。外来のシマグワは固有種のオ ガサワラグワと雑種をつくるため、現在では純粋なオガサワラグワは存在しないともいわ れている(冨山、1998)。 このようにみると、「東洋のガラパゴス」と称される小笠原諸島の動植物相は、実際に は極めて深刻な打撃を受けている状況といえる。この傾向は、人の生活する父島と母島で 特に強い。各種の開発や外来種の意図的・被意図的導入に伴う人為的影響がその中心的な 要因になってきたのは間違いない。
Ⅲ.考察
1.観光開発と外来種の新たな侵入経路出現のリスク 国立公園化に伴う遊歩道や休憩所の設置によって固有種の群落が損傷された事例、野生 化したノヤギやアフリカマイマイによる食害などを紹介し、外来種による固有種駆逐の危 険性を指摘した豊田(1984)のように、農林試験場の関係者や旧都立大の研究者たちは、 かなり早い段階から小笠原の希少な固有種の学術的価値を称揚し、その保護・保全に尽力 していた。 なかんずく、先に述べたギンネムについては、旧東京都立大学時代に、小笠原研究施設 が設置されたこともあり、生物学系の研究者を中心に少なからず基礎研究が進められた。 昭和 52 年(1977 年)には生物学科の木村允助教授(当時)らが中心となって、父島各所 に永久方形区、帯状調査区の設置が進められ、そこで始められた一連の生物学的観察調査 (木村 1978 :木村編、1983)は、後の数多い研究成果の礎となっている。ギンネムやリュ ウキュウマツが衰退傾向にあることも、これら地道な基礎研究から明らかにされた成果で ある。最も緊急に対策が求められていたアカギとリュウキュウマツは、薬剤による枯殺実 験も行われ、成果を挙げている(環境省、2007b ;藤沼ほか、2008)。しかし、世界遺産級の自然景観とされる小笠原諸島も、その価値が学識経験者以外に認 知されたのは最近になってからのことである。実際、返還から 10 年後に行われた観光客に 対するアンケート調査では、現在は立入制限または禁止がなされている中央山稜部へも観 光客が自由に出入りしていた様子がうかがえる(黒川、1978)。観光客が外来植物の拡散 に直接間接の寄与をすることはよく知られており(Pickering & Hill, 2007)、最近も、釣り 人の靴底や獲った魚に付着し、北米大陸全体に拡がって河川環境に深刻な脅威をもたらし た挙げ句、2004 年以降はニュージーランド南島へも上陸した珪藻ディディーモ(Didymo: Didymosphenia geminata)の事例がある(Lagerstedt, 2007)。父島における外来種の分布 拡大を考えるうえでも、観光客がもたらした影響を完全に無視することは難しいであろう し、将来に向けても同じ事が言えるであろう。 今回の巡検の際にも、コペペ浜周辺で観光客向けの道路・駐車場整備の舗装工事を行っ ている箇所に遭遇した。工事に伴って、道路の両脇に部分的な裸地が形成されたことによ り、ギンネムが新たに侵入している様子を観察することができた(写真 1)。前述のとおり、 ギンネム林は開発に伴って裸地化した道路沿いや人家の周辺に成立しやすく、ギンネム林 沿いの道路では大量の種子が散布される。それらの種子は、車のタイヤや靴底に張り付い て島全土に分散する危険性を秘めている(写真 2)。したがって、インフラ整備を含めた観 光開発は、結果的にギンネムの拡大を促進する危険があることも考えておかなくてはなる まい。 写真 1 コペペ浜の駐車場整備工事 筆者撮影(2008 年 12 月 22 日)。少し分かりにくいが、タンクの奥に群生する丈の低い植生 がギンネムである。左上にギンネムの拡大写真を示す(ただし撮影場所は異なる)。
また小笠原は、現在主に問題とされている外来種以外にも、常に新たな外来種が侵入す る可能性をはらんでいる。例えば父島・母島の河川や貯水池を対象に外来淡水魚の侵入状 況を調査した庄子・渡辺(2004)は、観賞用や飼料用として持ち込まれた淡水魚 7 種類が 定着し、野生化していることを明らかにした。 2005 年 6 月に施行された外来生物法により、特定外来生物は飼育・運搬・販売・野外へ 放つことなどが原則禁止された。したがって、今後外来種の意図的な持ち込みは減少する ことが期待される。しかし、前述のギンネム種子のように、衣服や荷物に張りついたり、 紛れ込んだりして非意図的に持ち込まれる危険まで回避されるわけではない。このため母 島では、ニューギニアヤリガタリクウズムシの拡散防止策として、下船時に海水による靴 底の泥落としの取り組みを行っている(環境省、2008)。 世界自然遺産化が実現すれば、観光客の増大と観光形態の多様化がもたらされることは 想像に難くない。それに伴い、持ち込み動植物のコア・ゾーンへの侵入が増加する懸念は 拭えないであろう。また、世界遺産化を見越して地元で行われる公共事業やイベントに付 随して、これまでに考えられなかった環境負荷が掛かる可能性もある。これらが、侵略的 外来種の拡散に直接・間接の影響を及ぼす可能性も検討しておく必要があろう。 写真 2 ギンネムの種子拡散 筆者撮影(2008 年 12 月 23 日)。スイカの種のような茶褐色。靴裏の窪みに入り込み、気づ かれずに運ばれていく。
2.観光に関わる者のあり方をどうするか 世界遺産に登録された地域は、観光地としての魅力が増すため、大なり小なり観光客の 増加を招く(Drost, 1996 ;渡辺ほか、2008)。その結果、観光資源の過剰利用により、踏 圧による自然植生の破壊、ゴミの増加、大気・水質汚染、その他インフラ整備事業に伴う 破壊といった弊害が生じうる。屋久島では、1993 年の世界遺産登録以降、増加した観光客 が特定ルートの登山に集中し、過度の負荷によって登山道や人気スポットの自然環境劣化 を引き起こした(岩本ほか、2008)。また Tokumaru(2003)も、登山者の増加による山道 の拡大や植生の破壊、山小屋からの汚水による富栄養化や汚染、オーバーユース、さらに エコツアーガイドの増加によるガイドの質の低下といった問題が生じていると指摘してい る。 観光客が増大するということは、観光業に携わる者の増加もまた起こるということであ る。世界遺産登録後の小笠原を考える上では、2007 年 6 月 26 日、ユネスコの世界遺産委員 会によって「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に加えられたガ ラパゴス諸島の事例が教訓となろう。 1984 年の世界遺産登録後、観光収入の増加に伴ってエクアドルからの移民が増えたガラ パゴス諸島では、1980 年時点で僅か 18 軒だったホテルが、2006 年には 65 軒に増加(Epler & Proaño, 2008)、1974 年に 4,078 人だった人口が、2006 年には 19,184 人まで増加した (Proaño & Epler, 2008)。観光客や貨物の輸送量が増大すれば、それに伴ってより多くの動 植物が持ち込まれる。ガラパゴスの外来昆虫種の年次変化を調査した Causton & Sevilla (2008)によれば、490 種に上るガラパゴスの外来昆虫種の 69% は、1960 年代以降のわずか 40 年間に持ち込まれたものだという。このように、世界自然遺産登録にともなう観光客増、 それに伴うビジネスや就業の機会を求める観光業者や労働者の増加(新木、2004)は、 オーバーユースやゴミ問題、様々な乱開発、さらには外来種侵入のリスクを高めることに なろう。 一度観光業が成立すると、環境保全のための事業規制は、観光業の運営に負担をかける 可能性があるため、実施が難しくなる。屋久島のエコツアーガイド業の動態について調査 した瀬戸口ら(2004)は、屋久島の環境保全への貢献や資源利用の規制は、ガイド事業の 運営に対して負担をかける可能性からその実現は容易ではないと指摘する。予めそれらを 見越した対策をとっておくことは、小笠原を第二のガラパゴスにしないためにも、必要な 手続きであろう。 しかしながら、環境の保全を強調するあまり、地域住民の生活を崩壊させてしまうよう では、持続可能な発展は望めない。1985 年に世界自然遺産に登録されたインドのナンダ・
デビ国立公園では、自然保護のための厳しい規制をかけた結果、野生動物による家畜被害、 エコツアーの禁止、医薬用植物採集の禁止等の経済的損失を生じ、地元住民の経済基盤が 成り立たなくなった(Maikhuri et al., 2001)。 サスティナブル・ツーリズムを実現するには、予め当該地域が受容可能な観光客人数を 決定し、観光がもたらす環境負荷を正確に把握し、観光客数を調整するための観光料金を 掛け、継続的なモニタリングを行っていく必要がある(Drost, 1996)。自然遺産地域が保 全できるかどうかは、観光と調和的な関係を築けるかにかかっていよう。 厳しい入島制限を課すことで逆にブランドイメージを高める、事前講習や外来種駆除の ボランティアなどの参画プログラムを入山の条件にする、保護区域への立ち入りには貸衣 装や貸し靴への履き替えを義務づけるなど、ツーリズムの視点を生かして提示できるアイ デアは少なくない。環境保護・保全と適正利用のバランスの取れたあり方を考えるうえで、 「観光に関わる者」たちも、積極的に関与・貢献していくことが必要ではないか (イーグ ルスほか、2005)。 3.“適正な利用”を可能にするモデルづくりの必要性 世界遺産登録に向けた小笠原の環境保全と適正利用に関して、現在指針となっているの は、環境省が 2007 年にまとめた「小笠原の自然環境の保全と再生に関する基本計画」であ ろう。そこでは、基本方針として(1)固有種・希少種・独自の生態系の保全、(2)外来種 に攪乱された生態系の健全化、(3)自然と共生した島づくり、(4)小笠原の自然を保全・再 生するための仕組みづくりと小笠原ルール、の 4 点が掲げられている。この指針に沿って、 小笠原の現状を検討すると、問題点はいっそう明確になる。 これら 4 つの指針のうち(1)と(2)はいわば表裏一体の関係にあり、2002 年の段階で公学 連携的な研究グループによって、相当の成果があがっている(社団法人日本林業技術協会、 2003 ; 2004)。また、すでに紹介したとおり、都立大時代から、首都大学東京は小笠原研 究センターを拠点に膨大な基礎研究を蓄積してきた実績がある。ところが、(3)および(4) については、基本計画中に具体的な研究成果はほとんど紹介されていない。 これは小笠原諸島が、世界自然遺産を目指せるほどに学術的価値の高い自然環境を有す る一方、1830 年まで定住者のいない無人島であり(小笠原村産業観光課、2007)、固有の 歴史や文化の蓄積が乏しいことに起因すると考えられる。一部の例外(e.g. ロング編、 2002)を除くと、人文・社会科学の研究者にとって、小笠原は最近まで、どちらかという と魅力的な研究対象となりにくい場所だったのである。従って、世界遺産登録に向けた小 笠原諸島の課題は、すでに対策が進みつつある外来種対策よりも、むしろそうして再生さ
れた自然環境を「持続可能な」ものにしていくための人的および社会関係資本の整備であ り、多方面からみて公正な「小笠原ルール」の策定であろう。 管理計画立案に際してのロールモデル構築の試みは、エコツーリズムと環境マネジメン トの関連領域で、既に幾つかの成果を生んでいる。例えば、1970 年代以降の北米では、適 正収容力(Carrying capacity)の考え方をベースにした、環境資源の適正管理計画を立案 するためのフレームワークが提案されている。保護区域などでの適用実績が多いものとし て挙げられるのは、連邦森林局の George Stankey らのグループによって 1985 年に提示さ れた、保護区域の管理計画策定のプロセス・モデル「変化の許容限界(LAC = The Limits of Acceptable Change)」フレームワーク(Stankey et al., 1985)であろう(図 1)。LAC の モデルはその汎用性の高さから、多くの国立公園局で目的に沿った形に改訂が加えられて いる。1990 年にはアメリカ国立公園局が中心となって「利用影響管理(VIM = Visitor Impact Management)フレームワーク」(Kuss et al., 1990)を、1993 年には「利用経験と 資源管理(VERP = Visitor Experience and Resource Protection)」フレームワーク(USDI, 1997)を策定した。このほか、1985 年にはカナダ国立公園局で「観光活動管理(VAMP = Visitor Activities Management Process)」(Graham et al., 1988)モデルが、1996年には南豪 州政府により「観光最適化モデル(TOMM = Tourism Optimization Management Model)」 (Manidis Roberts Consultants, 1997)が、それぞれ作られている。
LAC
PLANNING
SYSTEM
STEP 1 IDENTIFY AREA CONCERN & ISSUES STEP 2
DEFINE & DESCRIBE OPPORTUNITY CLASSES STEP 3 SELECT INDICATORS OF RESOURCE & SOCIAL CONDITIONS STEP 4 INVENTORY RESOURCE & SOCIAL CONDITIONS STEP 5 SPECIFY STANDARDS FOR RESOURCE &
SOCIAL INDICATORS IDENTIFYSTEP 6 ALTERNATIVE OPPORTUNITY CLASS ALLOCATIONS STEP 7 IDENTIFY MGMT ACTIONS FOR EACH ALTERNATIVE STEP 8 EVALUATION & SELECTION OF AN ALTERNATIVE STEP 9 IMPLEMENT ACTIONS & MONITOR CONDITIONS 図 1 LAC モデルの概念図 問題の同定から最終的な管理計画の立案、および実施に至るまでのプロセスを 9 段階に図 式化するプロセス・モデルである(出典: Stankey et al. 1985)。
小笠原をフィールドにする生物学系の研究者の間でも、世界遺産登録をめざす現状を見 据えて、いくつかの提案がなされている。例えば加藤(2006a ; 2006b)は、予防措置とし ての「有害植物リスク評価(Weed risk assessment)」と、有害植物導入後に併用される 「有害植物主導管理(Weed-led control)」および「地域主導管理(Site-led control)」から なる外来種対策システムを、主としてニュージーランド環境保護省が行っている管理対策 を範としながら提案している。植物に限定されているとはいえ、現状把握から一歩踏み込 み、外来種のリスクや管理上の優先順位の評価モデルを作ろうとする試みは大いに評価で きる。 ただし、これらの環境マネジメント・モデルの多くは、自然保護官を始めとする実務上 のエキスパートによって策定された経緯がある。このため、一定の知識を備えた運用・管 理主体が半ば一元的に保護区域の管理を行うことを前提にしている。小笠原の場合、島民 は 2,000 余人ほどしかおらず、エキスパートの数はさらに限られる。本土から 1,000km 以 上の距離があり、外部の人手も限られた小笠原で、外来種の駆除や抑制を彼らだけで継続 的に行うのは困難であろう。観光業者を含む地元住民や観光客をも活動の環の中へと取り 込んだ、より包括的かつ実践的なロールモデルを構築することが必要である。 関係主体が有機的に連携してエコツーリズムを創出することにより、「世界自然遺産」 を新しい管理ツールとして利用することを提言した例は、日本でもいくつか出てきている。 例えば渡辺ら(2008)は、「地域住民(ホスト、ガイド)」、「研究者、コンサルタント」、 「旅行業者」、「観光客」、「行政」の 5 つのステークホルダーの連携で対象地域を保全するフ レームワークを提示した。この枠組みは、具体性こそ乏しいが、居住者や来訪者まで取り 込んだより包括的な視座から対象地域の管理をめざそうとするものになっている。 小笠原で、エコツーリズムの観点から適正利用に関する明確なルールが整備されたのは、 2002 年のことである。ガイドと観光客によるオーバーユース(一木・朱宮、2006 ;一木ほ か 2007)が問題となり、東京都は南島を対象に「東京都版エコツーリズム」と称する協定 を小笠原村と締結した。ここでは、一日あたり 100 人の入島制限やガイドの同伴義務、入 島時間制限などを定めた適正利用に関するルールが明文化されている。また、地元観光業 者たちは、同年エコツーリズム推進委員会(のち小笠原エコツーリズム推進協議会)を発 足させ、自主ルールをまとめた「小笠原ルールブック」の作成や「エコツーリズム推進マ スタープラン」の策定(2004 年)を通じて、小笠原のエコツーリズムにおける基本方針を 打ち出してきた。こうした状況を踏まえ、林野庁はアカガシラカラスバトなどの希少動植 物保護の観点から、2007 年には全島レベルで生態系保護地域を設定し、立ち入り制限を実 施した(ただし、林野庁の立ち入り制限はガイド一名あたりの同行者の上限を設定するに
とどまっており、環境負荷の面から一定期間の利用人数に総量規制を掛けたわけではな い)。 このように小笠原では、これまでもツーリズムに関与する様々な立場の人々が、それぞ れ自主規制やルールを策定してきている。ただ、先の南島における取り組みを除くと、規 制が特定の動植物種に限定されていたり、単なる観光客への呼びかけに過ぎなかったり、 規制に科学的な裏づけが乏しかったりしている。様々な立場のステークホルダーが、立場 を超えた意志疎通や連携をはかり、総合的な観光政策の枠組みを練り上げる試みは、いま だ手探りの域を出ていない。世界自然遺産への登録がなされ、小笠原諸島をめぐる状況が 大きな変化を遂げれば、手を下すことができないまま、状況がなし崩し的に悪化すること は充分に予想される。今のうちに、観光に携わる人々の間で合意形成を図り、誰もが等し く依拠することのできる包括的な適正管理計画の大綱を予め定めておくことは、小笠原版 の“サスティナブル・エコツーリズム”を実現していくうえで、極めて有効な手段となる のではないだろうか。
Ⅳ.おわりに
旧東京都立大学でかつて理学部長だった小林道夫教授は、発刊後間もない小笠原研究委 員会の機関誌に「生物学の宝庫としての小笠原」と題する短文を寄稿した(小林、1978)。 彼は、新型船の就航で翌年には東京から小笠原への往復時間が 3 分の 2 に短縮されること について触れ、「研究者にとって便利になるとともに、観光や釣に行く人も今より多くな ることと予想されるが、ガラパゴスに匹敵すると言われるこの生物学の宝庫と美しい自然 がいつまでも破壊されないよう望みたい」と述べている。われわれが、発足後まもない ツーリズムコースの一員として小笠原へ足を踏み入れることになったのは、それからちょ うど 30 年目の冬であった。 僅か 3 日ほどの滞在であったが、立入制限区域内にまで普く咲き乱れる外来種のホナガ ソウ、三日月山を埋め尽くさんばかりのギンネム群落や、宮ヶ浜一帯の山林で完全に優占 種となっているモクマオウ林を前にして、改めて世界遺産登録に至る道のりの険しさを痛 感せざるを得なかった。 世界自然遺産への推薦・登録を見越し、東京都は 2007 年に小笠原ビジターセンターを改 修、新館を開設した。同様に 2006 年に組織された小笠原諸島世界自然遺産候補地科学委員 会は、事務局を兼ねたウェブサイト「小笠原自然情報センター」を開設し、世界遺産推 薦・登録に向けた進捗状況の情報開示を進めている。林野庁によるアカギ駆除や環境省に よるモクマオウ駆除などに要する膨大な経費を捻出する上でも、「世界自然遺産登録」のスローガンは大きな役割を果たしていよう。 その一方、二週間に一便の定期船の入港を、地元民が大勢出迎えに訪れ、港には小笠原 空港建設を願う横断幕。植物生態学を専門とし、かつてオオハマボッスの生態調査を行っ たのち、数年ぶりに足を踏み入れた第二著者と、観光開発に伴う住民運動を専門とする第 一著者の目には、登録を目前に、ともすれば Sustainable な development を「開発」と訳出 しがちな現地の空気に、少なからぬ違和感を拭えなかったことも告白せねばならない。 Cunningham(2002)が父島の宿泊施設所有者 16 人を対象におこなった意識調査によれ ば、彼ら宿泊業者たちは小笠原の資源のうち、歴史や遺産あるいは文化よりも「自然資源」 の独自性を高く評価しているにもかかわらず、現状の観光客数について 6 段階評価をさせ たところ、「一層増加すべき(4.28)」が他の項目「現状維持(2.42)」や「減らすべき (1.98)」の平均値と対照をなす結果になっていた。 環境の「適正利用」を重要な課題と位置づける当専修にとって、ともすれば観光開発へ 傾斜しがちな地元観光業者の生活の維持は見落とすべきではない課題といえる。しかし、 ここまで述べてきたように、小笠原の自然環境は現状においてすら、すでに外来生物に よって修復・再生事業なしには維持困難な状況にまで陥っている。確かにエコツーリズム を現地で実行するのは観光業者たちである。だからといって、世界遺産が更なる観光開発 の梃子になるようでは、今後の小笠原の持続可能性は却って損なわれる結果にもなりかね ない。 渡辺ら(2008)は、世界遺産登録後に、長い年月を掛けて清掃登山の努力が必要となっ たサガルマータ国立公園や、ゴミによって世界自然遺産登録に失敗した富士山の事例を挙 げながら、遺産登録後のビジョンが明確でなかったことが、無計画な開発や不適正な利用 によるゴミの増加につながったとしている。また Proaño & Epler(2008)は、1963 年に僅 か週 2 便の飛行機しか飛ばなかったガラパゴスが、1984 年の世界遺産登録を経て、一日 7 便が飛ぶまでに観光客を増加させてきた点を指摘する。ガラパゴスを危機遺産ならしめた 最大の要因もまた、無軌道な観光事業の拡大路線だったのは間違いない。 翻って小笠原は、現在もなお二週間に一便の定期船でのみ外界と繋がっている。考えよ うによってはこの定期船こそ、25 時間 30 分と片道数万円の旅費を投じてでも来るほどコ アなツーリストのみを受け入れる、フィルターの役割を果たしてはいまいか。ならば、選 ばれた者には選ばれた者に相応しい、コアなエコツーリズムのあり方が選択肢に含まれて も良いように思われる。 小林(2006)は、環境省が策定した国立公園の公園計画作成要項に幾度となく「適正利 用」という言葉が用いられているにもかかわらず、“適正な利用”の示す内容が抽象的で、
判断対象や対象地域に対する具体的な「方針」や「指針」の記載がない点を指摘した。任 意の自然環境にとって、どの程度の利用までが適正なのかについては、専門家の間ですら 具体的な方針や指針はないのが実情である。そうである以上、いわば「知的権威」として、 その発言が政策決定や活動を推進する際の判断材料や後押しとなりかねない研究者は、こ うした用語の使用によって観光形態の未知の可能性を閉ざしてしまうことがないよう、特 に慎重でいなくてはなるまい。 世界自然遺産の登録をするということは、現状が「人類の共通財産としての『顕著な普 遍的価値』」を有する自然環境であると、世界に向けて宣言することである。観光客の増 加が外来種の侵入を増加させるリスクは果たしてどの程度なのか。自然資源の損壊や喪失 を防ぎつつ受入可能な観光形態はどのようなもので、受入可能な観光客規模はどの程度か を、多角的なデータから整理して解明することが必要である。生物学系の研究者が中心と なって進められてきた既往の小笠原研究では、こうした人文・社会科学的な研究成果は、 残念ながらまだ極めて手薄な状況といえる。 世界遺産化によって、小笠原の自然環境に新たなインパクトが加わる前に、ツーリズム コースの一員として果たすべき役割があるのではないか。当専修に課せられた使命の大き さを感じる旅であったことを記して、巡検報告としたい。
謝辞
本研究を進めるにあたり、小笠原村役場、小笠原支庁、小笠原村の小中高等学校、小笠 原村観光協会、NPO、小笠原亜熱帯農業センターの関係者の方々には、聞き取り調査への ご協力を頂きました。また首都大学東京大学院理工学研究科の畑憲治氏には、原稿執筆に 際し有益なご助言を賜りました。以上の方々に対し、記して御礼申し上げます。 文 献 新木秀和(2004): ガラパゴスにおける社会紛争−海洋資源管理問題を中心に. 人文研究、 Vol.154, pp.1-27.Causton, C. and Sevilla, C. (2008): Latest records of introduced invertebrates in Galapagos and measures to control them. In Cayot, L. ed. Galapagos report 2006-2007. CDF, GNP and INGALA, pp.142-145.
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