往生人と
切
経
はBじ
め
住政期には一切経は盛ん 供養されている。それは米 法思想の浸透に伴い、往生伝が次々と編纂された時期でもあっ た。往生伝では、往生人は往生するのにふさわしい行業が求め られていた。重松明久氏は﹃阪本浄土教成立過程の研究﹄にお いて、浄土教が民衆の生活のなかでいかに受容され、実践され ていったかを明らかにするために柱生伝の行業に注目された。 往生伝を個別に取り上げ、 そのなかの行業(特に念仏・法華 禅定などが中心)を分析してその意義を検討している。 重松氏の研究は、 その後の研究に多くの影響を与えたが、ムネ 格的に絞り上げられることが少なかったのが、造寺・造仏・ 経なども在生のための重要な行業として行われていたことであ田
子
中
タ
( l ) る。なかでも一切経常一回写は最大の替業として説かれているので あ る 。 コロ本往生極楽記﹄以下、平安時代に よって本稿では、 編纂された六往生伝において、 一切経に関わった往生人を紹介、 八 犬 4 4 y z 了 、 ふ 庁 ! 日 一 一 一 ロ J h t v L A d -v 一切経が人々の信仰に与えた影響について考察し てみることにする。 往生缶における往生人と一切経の関わりは(一)披間・修習 ︹修学のため、往生のため︺、合己勧進、 r-、
一
、-../ ︹ 往 生 の ため、仏法弘通のためて(四)その他に、分類されるのである が、多くの人々の協力を得て書写し、その功徳を共に持ること ができる一切経書写勧進への結縁は、個人では施主となれない 庶民にとって格好の行業であったこと、 また、多くの修善によ り、大きな功誌を得られると考えていた院や貴族には、 切 οz … は最大の品授業として行われたことなど、往生伝では、 そ j工係数大常総合研究所紀姿則的時三切経の燈史的研究} ぞれの状況に見合った行業の積み方が示されていることを考究 し た い 。
第
六往生伝における往生入と一切経
τ 日本往生植楽記らJ
u
本往生極楽記﹄は、慶滋課胤が中関の往生伝にならい 日本における浄土教思想の普及を目的に編纂したもので、成立 は十世紀末である。序文では、悶史や伝記、古老を訪ねて商方 極楽に住生したa
本人の伝を集成したものだと語っている。、ま た、源信が﹃往生要集﹄において高く評価しているように、十平 にならい銭源は τ本朝法華験記﹄を撰述し、大江匡一房は♂机 本朝往生伝﹄を編纂した。 本往生缶において一切経が登場するのは﹁ F七 沙門空母 L の 一 話 の み で あ る 。 @ 沙 掛 け 空 也 ︽ 関 連 要 旨 ︾(
a
は ﹁ 出 自 ・ 行 業 ﹂ 、 b は﹁臨終の様 由r -、 ⋮ ﹂ jL C は﹁その他 L)a
常に弥詑仏を唱え、好一に向弥陀聖と呼ばれた。市中において 仏事をなしたので、市患とも呼ばれた。道賂を修繕し、舗を ﹁ 上 一 ¥ 1/ 架け、井戸を掘った。っ語鹿沼緯保郡線合寺に 切 経 あ り て 、 数の年披閲せり。もし難義あれば、夢に金人ありて常に教 へ﹂てくれた。その後、各地で修行、苦行をして霊験を現し た 。 b 遷化の日には、浄衣を若け、香炉をささげて四方に向かい、 端坐して亡くなった。 C 丈米において ﹁ 上 人 来 た り て 後 、 (念仏を)自ら唱へ他をし て唱へしめぬ。その後、叶一をあげて念仏を事とせり。誠にこ れ上人の衆生を化度するの力なり﹂と述べてその功績を讃え て い る 。 平安時代中期の遊一行の碧空自(九O
三 j 九七二)は、本法に おいて紹介されているように、開弥陀聖・市聖とも称され、念 仏をとなえて浄土教の民間普及に貢献したとされる。 また﹃空 也諒﹄によると、 そればかりではなく、比叡山で受戒した後は 貴族との交流を深め、 その帰依を受けて造像・写経・寺設建立 に活躍した。そして、ム自身創建の西光寺(後の六波羅蜜寺) ( 2 ) おいて七十歳で没した。 ? こ吋
続
本
朝
往
生
伝
﹄
3
祝本朝往生伝﹄は、大江庄一房が﹃日本往生極楽記﹄な継い で撰述した。成立は十二世紀初顕である。序によると﹃日本住 生極楽記﹄成立から百余年を経て、身分の託い者や朝野を訪ね て、遺漏や以後の往生人の伝を収集して編纂したとのことであ る 本往生伝において一切経が関連するのは﹁四 源忠遠妥﹂ の 話である。 ②源忠遼妻︽関連要旨︾a
源忠遠の実は源教の孫である。年少の同咲から諮悲心があり、 喜怒を表さなかった。夫の忠逮に従い太宰府に下向した。 b 康 和 一 一 一 年 ( 一 一O
一)産後に逝去した。臨終の時、正念に安 住して、念仏は乱れず、梅のような異香がする っ た 。 C 没 後 その母が夢中で妥に往生の場所を問うと、 ﹁ 諸 菩 躍 の 工ミこ注りノ、 f ヵt
ふ ぷ F J みな大いに歓喜している﹂と答えた。また、肺 俗であった覚厳が没後託生の所を示せと吋観無量寿経﹄を読 一 読 し た と こ ろ 、 ﹁今日の読経甚だもて可へり。 なほ乞ふらく は、我がために重ねて間十八﹁通読せよ。必ず生を上品に転ず ベし﹂といい、今の住所を問うと、中品下生だと答えた。ま 役生人と一切経 た、ある人は夢に、この女が菩議の装束を着けて、太宰府安 楽寺の一切経会のなかにいるのを見た。 源忠遠妥の伝記については詳らかでない。また、夫である源 忠遼についても不明であるが、祖父の源教は嵯峨源氏の流れを くみ、歌人として知られた蝦の孫として生まれ、従五位下武蔵 ( 3 ) 守であった。g h
遺往生伝﹄
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遺投生伝﹄は に よ り ム l 俊紀末期から十二佐紀 初頭にかけて撰述された。序によると♂机本朝往生伝﹄をつい で、それに漏れた吉今の往生人について記したものである。全 三巻あるが、各序によると上巻が敢闘き終えられた設に、日出史別 伝や京畿辺外などから得られた往生の話を書き継いで中・下巻 が完成した。 先の 往生伝の行業は、念仏や法華経の読一部・書写が中心で あ っ た が 、 吋拾遺往生伝﹄以持、造寺造仏、 切経や大般若経 五部大衆経など大部の経典の書写や講経の開講など多種多様 な善業が一行われている。 本往生伝において 切経が登場するのは上巻﹁西 内供奉安 と向巻﹁二O
経選上人 L の二話である。 一 五 九州間数大学総合研究所紀姿別清三間切竹山札の盗史的研究⋮ 丞内供奉安恵︽関連要旨︾
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延暦寺の座主内供泰安恵は、幼い頃から聡敏で、七歳の持、 下野・小野の出寺の大法師広智に締市やした。広智は安恵の器 量をみこんで延暦寺の最澄につかせ、最澄は自ら止観 を授けた。大締入滅後、丹仁に詑い毘虚遮那・孔雀等の経を 習読した。天長四年(八二七)及第得度して、紀年の問、 ﹁ 一 一 一 部 の 念 論 、 四 種 一 一 一 味 、 一切経等を修習﹂した。承和十一 年(八四回)、出羽講師となり山を出て赴任した。この時、 郡内の道俗は法相宗を学んでおり、天台宗を知らなかったが、 安恵が入って以降、 みな法相宗をすてて、天台宗に帰依した。 貞 観 八 年 ( 八 六 六 ) 太 政 宮 の 一 牒 に よ り 、 天 台 座 主 は 真 ニ 一 一 口 ・ 止 観兼学の者を任ずるとされたが は 適 任 で あ っ た 。 b 貞観年十年(八六八) に 奄 然 と し て 気 叫 問 え た 。 一晩を続て遺 体を見ると左手は与願印、右手は宝印を結んでいた。 安恵(七九部?j
八六八)は河内大県郡大狛氏の出身で、比 叡山において学び、 その後、出羽閤講師となった。承和十三一年 (八四六)仁明天皇が建てた延磨寺定心院の十禅姉、貞観四年 (八六二)三月内供奉十禅師、貞観六年(八六回) 一月に円仁 が没すると天台座主四世となった c 著書には﹃顕法華義紗﹄ 可却身成仏義﹄などがある。 二 ハ ︿ ) @経謹上人伝・慈応︽関連要旨︾ c 多武蜂安養坊の住情であった経遣は、寛治七年(一O
九三) に入滅した。その後、多くの人が経混一生生の夢をみた。弟子 の 慈 応 上 人 は 、 切経の料紙を求めるために但州へ下向して い た 時 、 で地蔵に引導されて、極楽に往生した綬逗に会つ た。慈応は闘に仕えるために極楽に留まりたい っ た が 経選は早く帰ることをすすめ、 四十一日後にこの地に来るこ と を 伝 え た 。 。 九 六 ) に行われた金峯山奉納一切経来日 慈応は嘉保三年( ( 4 ) 写の勧進聖人である。締の経還は多武峰安養坊に住み、寺内に ( 5 ) 結縁瀧演のための謹頂堂を建立している c 両者とも詳細な行状 は 不 明 で あ る 。四
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吋後拾遺往生伝﹄は﹃拾遺往生伝﹄と同じく一⋮一善為康によっ て一編纂された。上巻の序によると可拾遺住金伝﹄に引き続き、 往生の伝止を集めることにより、来祉の知遇の となすこと、そ して、この記をそしる人も誉める人も同じ功徳が得られること を願って編纂された。 ﹃拾遺往生缶﹄成立以後(保安四年︿一 一二三﹀)頃から為康が亡くなる保延五年(一二一一九)までに成立 し た 。 一切経が登場するのは、中巻﹁部 沙問西法ヘ 下巻 参議左大弁為経﹂、同巻﹁七 文 章 待 土 行 盛 ﹂ の 一 一 で あ る 。 ⑤沙問密法︽関連要旨︾ a もと俗人であった。壮年に道心をおこし、 にわかに出家した。 以降、衣服を整えず、宿所を定めず、破壊された堂舎の修潔 ゃ、病や飢えた人々の養育を行った。また善知識に勧めて -, 切経を書き﹂写した。その他の善事はくわしく書くいと まがないほど多かった。 b 大治元年(一二ヱハ)仲秋の墳に発病してわずかに し 死期をあらかじめ知った。紙図寺東峰将軍基南側の雑草をは ら い 、 にわかに草堂を作った。九月二十三日にこもって僧徒 に勧めて法花機法を行い、弥陀念仏を修せさせた。上人笠口問 に 念 仏 し て 、 しばらくして亡くなった。その時、 の な かに異香が発した。 西法の詳しい出自や行状は不明である。伝から考えると寺説 の修繕や鴎窮者の救済、経典の書写勧進を行った遊行の聖であ ることがわかる c その活動は空也と共通する点が多い。 往生人と 切 不 足 @参議左大弁為騒︽関連要旨︾ a 少年の頃から仏法に帰依し、栄利を祈る 方で菩提を求めた。 処々の名山霊寺を訪れ、四天王像を安置し、不断の供養一法を 修した。賀茂社に経蔵を建て、金字大般若経と四天王像、を奉 安し、誠諭を開演、 また七宝塔を造った。能⋮野宝前では金字 妙品胤(を安置して調講供養した。さらに﹁一切経を書写す。外 題は自ら書き、他筆を交えず。すなわち春日社裏において、 法蔵を建立し、安寵供養した凡毎日、唯識論を講じ な 1う: く退転することはなかった。また、氏寺勧修寺の裏に二蓋花 と僧房を建立し、丈六の延命菩薩像を奉安して秘密の壇を 置き、長日供養法を修せさせた。その他、仏像を数百体造り、 堂塔を数十字建て、香花燈明の供養などを行って早川習を積ん だ。行年五十年以後、 さらに道心に住み、禁断殺生し、受戒 し の真一⋮百を唱え、法花減法をした。そして、智徳を請 ぃ、教法を問い談じ、知識の約をなし、臨終の儀を契った。 b 大 治 五 年 ( 八月に数日病悩して辞職し ひとえに 仏市静止な勤めた。九月八日に出家受戒した。僧侶と不断に声を 同じくし、念仏合殺した。そして、善知識とあい、平生の臨 いどおり、正念に安住し、居ながらにして逝去した。部屋に 奇瑞が現れ、僧は為隆が往生人だと思った。 C 没後、藤原宗友がその思容をしたい、為隆の墳墓の前で落涙 /¥
帥附教大学総合研究所紀前官刷出叫州三切殺の一校史的研究 し 一句の誌を詠んだ。 藤原為隆(一
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は、平安時代後期の公卿で ある。藤原締実・郎通親子の家司、白河院の別当を務めた藤原 為一房の長男として生まれ、弟には院の近庄である顕隆がいる。 蔵人、左中弁、勧学院別当等を経て、保安三年(一 一 一 一 二 ) 参 議に任じられ、以説、讃岐権守、周防権守を兼ね、従一一一位まで 進んだ。また、藤原締通・忠実・忠実室源師子の家司も務めた。 ⑦文章博士行盛︽関連要旨︾a
代々文士の家に生まれ、名儒として知られた。柔和で実夜で あった。﹁一切経を書写﹂ し 一千日の講経を修した。 そ のi
淘 は註記することができないほど数多あった。 b 近年一一一箇年病悩し、長承三年( 一 一 一 部 ) 十 一 月 十 九 日 に 危 品 一 心 に 及 び 、 二 十 日に辞職し、出家受戒した。臨終の時、衆 僧を請い、教法を受持し、仏口すか﹄称念して、静寂のなかで卒 去 し た 。 c 子息は夢に総菜を撃げて仔践を迎える二童子を見た。家僕は 夢に行盛が者一蓮華のなかに生まれたのを見た。 藤 原 行 盛 ( 。 七 回 l一
一一一泊)は文書博士、行家の子とし …L ノ¥ て生まれた。曾祖父広業は一条、一一一条、後朱雀天皇⋮一一代の侍読 として仕え、祖父家経や父は一行盛と同じく文書博士であると共 ( 6 ) に歌人でもあった。文章得業生を経て、勘解由次官、式部大輔、 左衛門機佐に任じられ、摂津守も兼ねていた。また、藤原忠実 の家司も務めている。彼の和歌や詩文はJ
1
右記部類紙背漢詩 集﹄﹃和漢兼作集﹄﹃金葉集﹄ に収録されている。行践の伝は 三 半 戦 一 物 修 技 生 伝 ﹄ 七にも収録されており後述する c 吋 一 一 一 外 往 生 記 L ﹃一二外往生記﹄は沙弥蓮禅の編纂である。編纂時期は所収の 往生人の没年から保廷五年(J
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の頃と思われる。序で は慶滋保胤・大江庄一涜・三善為康の撰述した往生一缶から漏れた 往生人を収録することで、 その功徳により一切衆生と共に九品 の浄土へ註生することを願っている。 本往生伝において 切経が登場するのは﹁ 良忍上人 L で あ る 。 ⑧ 向 民 恵 よ 人 ︽ 関 連 要 旨 ︾ a 良忍は延磨寺東塔常行堂衆であった。 平日間無動寺に参詣 して、名問を忘れているようであったが、これは菩提心を祈 るためであった。永く衆と交わることを絶ち、大原に小庵をか ま え て 止 住 し た 。 十 二 時 に 一 一 一 味 一 行 を 修 し 、 年 来 怠 る こ と が なかった 0 1 兼 ね て ﹁一切の経論を披閲した LO そして堂舎・ 仏探を造立し、多年練有した。 C 天 承 二 年 三 一一一一二)二月に遷化した後、大原律締覚厳の夢 に現れて、自分の本意を過ぎ上品上生にある、これは﹁融通 念仏の力﹂だと告げた。 良忍は幼くして比叡出に登り、大原別所で来週院と浄蓮華院 を建立したとされる。融通念仏は永久五年( 七 に 始 め たとされ、天台声明を大成させたともいわれる。良忍伝は往生 伝 の 他 、 生長三 ベ, ヲr く 二 の つ 説 吋 話
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iこ 司11 も 抄 耳v.. {b り 下 上ヴ占
ヒ コ メえ れ(ユ J.._ 7モt d古 ) 陀 』 ーと f 指 相 当 E ﹄ 本伝では﹁ 切経﹂ではなく﹁一切経論﹂と記している。こ れはすべての経論止を意味すると考える。往生伝の 切経は仏教 の袈典の総称を意味している。小稿では本訟の﹁一切経論﹂を 他の往生伝のつ一切経 L と向意と考えて紹介した。 -'-/ ¥吋本朝新修往生伝﹄
﹃ 本 朝 新 修 往 生 伝 ﹄ は藤原京友により仁平元年( 一 五 一 ) に撰述された。序によると﹃日本往生桜楽記﹂から﹃後拾遺往 生伝﹂まで往生伝が来日き継がれてきたが、近年にも往生人があ 往生人と一切経 るのでこれを書き記したという c 切経に関連する伝は 「七
文章博士藤原行議﹂ 「 七 沙門運党一コ 式部大輪藤原敦光 L の三例である c ②文章博士藤京行盛︽関連要旨︾ a 行践は儒行にすぐれていた。人柄は実註で、内には仏法に向精 依 し て お り 、 ﹁一切経を書き﹂写し、丈六像を造像した。 ラ,、
-れらは﹁けだし菩提のため L で あ っ た 。 一 一 一 年 間 病 に 献 し 、 ひ とえに死後善処に生まれることを祈った。 心に誠をあらわ し 、 子 座 講 止 を 行 っ た 。 b 長泳三年(一二一一四)十 月に張津守を辞職して出家した。 臨終の時、善知識にあい、衆僧と弥陀仏を唱えて亡くなった。 C 没後、男と家僕の夢に往生の奇瑞が現れた。 前述した可後拾遺往生伝﹄行盛伝と本伝は、話の概略は同じ で あ る が 、 ( 1 ) 本伝では仏法に帰依していたとの文言が加え ら れ 、 ( 2 ) ﹁ 菩 提 の た め ﹂ 一切経書写は だ と す る こ と 、 ( 3 ) 丈 六 持 派 遣 仏 の 一 記 事 が 加 え ら れ て い る こ と 、 ( 4 ) 前の伝では 切経書写の直後にあった﹁一千日の講経 L が 三 年 病 に 仰 臥 し て か らひとえに後生善処を祈り﹁千座詩﹂を行い仏道に資したとし て い る こ と 、 ( 5 ) 危急に及び辞職、出家したのは三日前帥附教大学総合研究所紀姿刻時 州 出 緩 の 闘 は 史 的 際 交 L かれていたことは十一月と月のみ記していること、 ( 6 ) 臨終 の時に﹁衆僧﹂が脳請されたことがっ義知識 L に値うとなって い る こ と 、 ( 7 ) 享年が六十四歳とあったが本伝では六十五歳 と な っ て い る 点 が 箆 ハ な っ て い る 。 ⑬沙門運覚︽関連要旨︾
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逮覚は醍醐寺住侶であり間関梨聖賢の弟子であった。少年の 時 、 一 ニ 論 、 真 一 窓 口 を 学 ん だ 。 ﹁ 如 来 滅 後 二 千 余 年 、 正像の時が 過ぎ、遺教減せんと欲す。当にこの時、 しく仏法を弘むべ し 」 その数は三十年間 と 願 い ﹁一切経を自ら書き﹂写し、 でニ千巻になろうとしていた。また、一二時行業を多年怠らな ミ コ こ 0 4 μ J v -ふ れ b 康 治 二 年 ( 一 間 一 一 一 ) 二 月 、 つねのように行法を行った後、 衣服等を整え、同行人を招集して、命終の時が来たので自分 のために尊務陀羅尼を諦し、 また、阿弥詑宝号を唱えて均土 行儀を助護するよう語った。そして、仏舎利の前に践を移し て 手 に 定 ' 山 仰 を 結 ん で 亡 く な っ た 。 連覚 ( ? i 一四一二)は字を行乗といい、式部上人とも呼ばr
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韮 た ] 頁 を 醍 受 翻 け 寺 て の し、 ~i主 る ~1首 O で あ { 呆 .-L噌 女 年 一二三宝院で伝 一 六 間 関 ⑮式部大輔藤原敦光︽関連要旨︾ a 敦光は多くの優れた詩句を作り、佳匂は多くの人々に詠われ た。新院(鳥羽設) には侍読として仕えた。 天養元年(一 一間四)四月に発病し、出家した。数日後、夢 に焔魔王から臣となるよう召喚されたが、出家していたため に返された。その時、 は敦光の生所は決まっていないと っ た 。 そ の 後 、 一 一 に帰依してもっぱら後生を祈った。持 戒念力は平生よりもました。別に衆僧を率いて三十講を行わ せ た 。 暁 タ に は 機 悔 法 止 な 行 い 、 日夜念仏の功を積んだ。また、 子息に自分は﹁一切経書写の願あり。その中の五部大来、 ま さにもって終功せんとす﹂といい、残りの常一回写を子息に依頼 し た 。 一生の問、仏法を深く舘じ、 日ごとに法花経を転読し た数は二千部に及んだ。その他の造仏写経は計り知れない。 b 臨終の持、善知識(中川嬰) 八斎戒を受けた。 に あ い 、 イ コ L 、 で光明真言を受一諦した。また人に声を出させて伽陀を訴させ た。そして、手に定印を結んで亡くなった。 c その後、僕従の夢に敦光が往生したことがみられた。 藤原敦光(一O
六 一 一 一 j 一四回)は平安時代後期に活諒した 学者である。文章博士を務めた藤原明衡の として生まれたが、 幼くして父を失い兄敦基の養子となった。文章得業生を経て、大内記、文章博士、式部大輔、右京大夫等を臆在した。生涯に 多くの{出馬子や皇女の名や年口すなどの勤中を行った。また、白河、 鳥羽誌をはじめ貴顕の人々の願文を作成している。優れた漢詩 止 を 数 多 く 残 し 、 ﹃中書記部類紙背漢詩集﹄吋本朝無題詩﹄﹃本朝 続 丈 粋 ﹄ に収録されている。八十二歳という長寿を全うした が、活曜は関十歳代以降であった。官人としての自らの境遇に その嘆きを詠んだものや、昇進を願って奏上した ( 9 ) 作品も残されている。大泊五年( 一 小 満 を 抱 き 、
O
に亡くなった娘の 娘子は往生人として 吋 後 拾 遺 詮 生 伝 ﹄ ヨ 一 一 外 往 生 記 ﹄ に収銭さ れ て い る 。 以 上 、 一切経に鴎わる往生人の伝を紹介した。 一切殺との関 わりは﹁披閲・修習 L ﹁ 勧 進 ﹂ ﹁その他﹂に大別できる。 では、分類した各伝を詳しく考察していき、住生人の生涯 のなかでの一切経の意義を明らかにしていきたい。 往 生 人 と 一 切 ' 経第 一
章
往生人による一切経の披閲・修習、
勧
進
、
そ
の
他
披
関
・
修
習
一切経の披陪・修習につい かれた往生人はコロ本往生極 楽記﹄空也伝、3
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遺往生伝﹄安恵伝、ヨ一一外往生記﹄良忍伝の である。空也、安恵伝は僧侶の修学として、良忍伝は遁佐 僧の修学として説かれているという違いがある。 争空也伝(吋日本往生極楽記﹄) 吋日本往生緩楽記﹄に掲載される往生人のなかで、 一 切 経 を 披閲したと書かれているのは空車だけである。この伝では、空 むは関門弥陀聖・市聖と呼ばれ市井で活動する宗教者ではあるが、 一切経を学んで壊解した学識がある聖として、人々に念仏を勧 めた﹁上人﹂であると語られているのである。 空白の活動は、中祉の説話集にもしばしば取り上げられてい る。その一部は、源為憲が空也の 周忌の回収に著した去ぷ也 を基本としている。本空也伝における一切経に関する記述 も吋空也諒 L 吋 空 自 認 ﹄ に よ る が 、 では各地での修行の一つと して以下のように記している c 一 六 五州開教大学総合研究所紀前宜別附ご同 w h A M の燈史的研究 播磨毘捻保郡有二峯合寺、有二切経論 J v 上 人 住 一 彼 道 場 、 智 披
雪国
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一 。 果 俳 而 烹 如 タ レ~1.-0;マ ;;ytIno、矧: J汗u o <W 一 金 人 J 常教二文義ぺ覚後間 吋空也均一部﹄では﹁一切経論﹂とするところを本伝では﹁一切 経﹂と記す点が異なる。 ま た2
ハ波問機蜜寺縁起﹄では、尾州国分寺で剃髪の後、以下 の よ う に 記 す 。 播磨国揖保郡峯合寺有二 切経論イ上人往間披陪。料隠之 義理白通顕。談ニ智行之徒 J 蜜 得 ニ 夢 想 之 訓 寸 ここでは料簡の義理がム自ずと顕らかとなり、夢想を得て学識 ある知日行の僧と対等に議論することができたとする。 このように吋空出諒﹄﹃日本往生極楽記﹄﹃六波経(鈴寺縁起 L では、空白の前半生の事績として、 一切経披閲の記事が取り上 げられているが、平安時代末期から鎌倉時代前期に編纂された 説話集のなかの空也伝には見られず、十三世紀以降に編纂され て L 、 ( 同 ~日阿 ν 裟: 縛J
少 明 旺 等 a I 各 伝 記 に得び取り上げられ た (MU) ﹃問問姿縛抄明匠等略伝記﹄空也伝は、冒頭に一切経披認を挙 げている。それに続いて霊験や勧進活動等がつづいており、 ず 、 切誌を学んでその後の活動 ったことを印象づけてい る 。 一切経修習の記事の丈一言は去エ出諒﹄と時文である。 一 一 、 品 、 J ノ J ノ問
。
t主 に各地での道路の修綾や架橋、 井戸の間前等をあげ、常に弥詑口すを唱えていたのでその井戸は 開弥陀弁と呼ばれたことを紹介。割分寺で剃髪、京都で阿弥陀 念仏を勧化して、 六波羅 J M 出 寺 を つ く っ た 後 、 山 弘 之 口 寺 で 議 イ 有 一 一 不 レ 通 処 J 夢金人来説﹂ かれている。そして霊験器、 大般若経供養等の へ と つ づ く 。 の 伝 は τ 空 也 山 一 部 ﹄ を も と に 作 ら れ た と 考 え ら れ る が 、 ( H け ) 前者では阿弥陀聖ではなく天台僧としてとらえられていること、 '-- -の 後者では読人に遇った工人が空也に教えられたとおり弥陀を念 じて難を免れた話(吋日本往生極楽記﹄) や松定明神の救済諮 ( 手 口 事 談 ﹄ 吋 発 心 集 ﹄ ) の吋空也諒﹄にはない霊験諮も加えら れている。これらは、空也の没後、人々のあいだで語り継がれ た空也伝承である。 一 一 つ の 空 也 伝 は 、 それまでの空也訟を編集して新たに製造さ れたふんぷ也像である。当時の知識人である 伝の撰者は、歴史に 残る優れた僧として空也を取り上げた。その名鵠空也の事績と して改めて一切経披関の記事を取り上げている。 ま 念安恵伝(吋拾遺往生伝﹄) 安恵伝は﹃拾遺往生伝﹄が最も十 μ く、他には鎌倉時代 さ れ た ﹃ 天 台 座 主 記 ﹄ ﹃ 時 姿 縛 抄 明 匠 等 略 伝 記 ﹄ ﹃ 一 冗 官 ア 釈 書 ﹄が あ る 。 しかし 吋 天 台 座 主 記 ﹄ ( お ) 安 恵 伝 に は 、 一切経修習は記されて いない。また、出羽講師になったこと、始めに最澄を師とした ことには触れず、﹁慈党大綿入室弟子﹂とする c 吋 仰 向 裟 縛 抄 明 一 位 仙 寺 略 伝 記 ﹄ 下 の 安 恵 伝 は 、 吋 弘 治 遺 往 生 伝 ﹄ 能略化したものとなっている。 一切経の修習は伝教大郎没後、 慈党大闘に随い﹁一切経論之旨窮一其ノ辺底イ半満教門之義謹二 其 ノ 根 帯 ♂ ﹂ と 記 す 。 しかし、前書と同じく出羽講一部の記事はな L 、 O 吋 元 古 γ 釈 品 川
E
二は﹃向裟縛抄明恒等略伝記﹄と同じく2
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遺 往 生 伝 ﹄ をもとに作られたものと考えられる。 し か し 、 釈書﹄ではコ二部念論・四種三味﹂を修したことはあげられて 一切経の修習は官官かれていない。末尾には﹁賛に日く、 い る が 、 業は勤むるに精し、是れ笈を負ふの事なり。四郎(勤操、護命、 道 雄 、 安恵) 宗止を異にすれども其の勤むるに精しきことは同 じ しかのみならず、(勤)操の霊、 ( 訟 は ) ム 叩 の 弁 、 ( 道 ) 燥 の 安 の 博 な る 、 と、安恵の博 に 夫 れ 辺 一 緒 な ら ん や ﹂ い学識を詳倒している。 ﹃拾遺往生伝﹄の安恵伝では、貞鶴八年(八六八) の太政官 の 牒 に 、 止観兼学の者をもて座主に裕ーすること、 す 一 て て永式となした﹂ことをあげて、すでに 年前の貞観六年に座 往生人と一切絞 ( 持 ) となっていた安恵は﹁己にその撰に当りぬ﹂とする。初期の 安恵伝であるこの伝において、すでに安恵 -ト L見57
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寸 ノ 右 兼ね儀えた座主としてとらえられていた。 前 述 の と お り 、 一切経の記述は全ての安恵伝に見られない。 を しかし、多くの缶において安恵は、最澄または円仁などから止 観 や 三 部 の 念 論 、 割種三味等を学んだことが記されてお り、天台における学僧としての正統性、優秀さが強調されていた。 一方、死設の奇瑞は全ての伝に共通してあり、技生人として の安恵像が浸透していたことがうかがえる。 ﹃拾遺校生伝﹄安恵伝では、安恵が 切経等を修習した博識 の 俄 で あ り 、 その学識により人々の帰依止を受け、生生を遂げて いた。安恵伝のように一切経修習の裏付けにより人々を教化し て、往生を遂げた僧の伝記は、生前 一切経を数度読んだと説 かれた法然伝に代表されるような、祖削仰の修学詑へと展開問する ものと考えられる。 @良忍伝 二 外 往 生 記 ﹄ ) 万一一外往生記﹄のなかで一切経に寵する記述があるのは良忍 伝だけである。本往生伝の往生人はほとんどが出家者であり、 多くは天台の学僧である。その他は南都、高野山や醍翻、吉野 ( η ) 等の諸山の僧であり、同じく学徒が多い。そのなかで良忍伝の 一 六 七係数大学総合研究所紀前立山出陣川ご切授の燈史的研究 みに一切経論の披閲があるのはどのような意味があるのだろう か 良忍の一切経の披隠は、延震キ一リ東塔常行堂衆の後で、大原別 所移住後であり、職を辞し、在生のために行を積んだ時期であ っ た 。 つまり、良忍の一切経披関は学僧の教養として行われた ものではなく、往生について学ぶことを自的に行われたのであ る 。 一 切 経 披 閲 は 一 一 一 味 一 行 、 堂 舎 ・ 仏 像 の 造 営 と 並 ん で あ げ ら れ ている。これらの行業は往生を目的としたものでゐる。揺遁し て、行業を穣み、上品上生を遂げるこの姿は、往生伝のなかで は理想の往生人といえよう。 他の良忍伝をみてみたい。 可 後 拾 遺 往 生 缶 ﹂ 下 巻 ﹁ 沙 門 良仁﹂伝では、良仁は比叡山の住侶であり、早くに堂衆となっ て久しく寺役を動め、頚暮の年に及んで大原出に隠居、永く沿い 営を断ってひとえに往生を願い、妙経読論、念仏、一一一時行法、 如法経書写を行うと共に、撚指供養、陸阪を断つ等の苦行も行 った。正念に安住して命終し、音楽が流れた。この伝には一切 経披閲の記事、融通念仏による往生には触れられていない c 承久二年(一二二
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弘前に増補されたとされる吋後拾造住 ( 同 日 ) 九の良忍伝によると、良忍は﹁首拐厳院の禅捷﹂ 2 4 ニ 、 ぺ ' 口 t 払 ) 主 バ コ ' わ H L 以 t ﹂ とされ、中年以後、大原へ移住してひとえに往生を願い、常に 仏前に対して殻明の光を諮し、極楽を観じていて、その他の行 ノ¥ 八 は知られていなかった。 しかしある時、舎弟の亮賢に、年来、 白 老 観 を 修 し 、 の罪を慨していたことを密かに告げた。ま た、この伝では臨終時に仏像の手に五色の糸をかけて念仏した 様子等が詳しく描かれている c ﹃ 後 拾 遺 往 生 伝 ﹄ コ 一 一 外 往 生 記 ﹄ の良忍(仁)は、自身の往 生を願って修行する隠遁の俗であり、後陸、説かれるような融 通念仏を勧めたことは書かれていない。 一 方 、 吋 古 今 箸 間 集 ﹄ 吋 広 疑 瑞 決 集 ﹄ コ 苅 古 ア 釈 敢 闘 ﹄ の 良 忍 は 、 往生を願って二十代で大原へ遁世して修行していたが、仏の諮 示室一党けて融通念仏を勧める上人となっている。 吋 吋 広 吉 疑 今 瑞 著 決~f
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長び集 b b で t主 治、 イ ム 一 ( 五 一 二 ) には一切経披閲の記事はない。 一切経の披閥、造寺造仏を行 っていた良忍に、阿弥陀仏は﹁瓶次往生の正業をしらず、 往生を遂げんと思はば、すべからく融通念仏を行うべし﹂とそ れまでの行業を否定する G ま た 、 フ 冗 亨 釈 公 開 ﹄ 開 よじ て ゆ t主 切経披閲の記事をあげず 沙門天に融通念仏を勧められているが、他の行業を否定してい ない。そして、良忍が如来蔵という経蔵を建てて﹁大蔵の経律 叫?をおいていたことを記している。本敢闘では冒頭〆に、良忍は ( 初 ) 天台の教えを良賀に、密寵を永意にうけたとあげ、融通念仏を 勧める天台密教の学識ある名僧として描かれている。館来識もその学識を裏付ける要素となっているのである。 一切経修習は、空也、安恵問伝では修行の一部として説かれ、 人々に仏法をひろめて往生した僧の学識の深さを表していた。 一方、良忍伝では遮世倦が一切経をひらき見て、往生を研究し て い た 。 つまり、住生を願う者の修学として 切経披閲が説か ? ν P 島 、 蜘 問 。 み A 寸 し ょ 7 在生伝の一編纂時期が下ると往生人の一切経修習は見られなく ( 幻 ) なる。また、天台座主や公請を勤めた僧なども減少している。 それに比慨して往生の僧は遁陛的で、 その修習は詳し カ ミ れ ず、大量の念仏や法華経読諭を仔うなど数量を重説した行業と な っ て い る 。 一切経の披期間・修習は平安時代末には往生人の行業として強 調されていなかった。しかし、鎌倉時代の高僧告で僧の豊かな 学識の象酸として再び取り上げられるようになっていたのであ る 勧 j
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住生伝にはこ人の 切経勧進塁の伝がある。共に三議為康の 撰述である。彼が選んだのは、 いずれも市井で活躍する遊行の 僚であった。編纂初期の往生伝において念仏や仏事を通じて ﹁ 勧 進 L する僧はいたが、経典書写をして﹁勧進﹂する者は少 往生人と一切経 な く 、 その姿が克られるようになるのは﹃拾遺往生伝﹄以降で ある。これは経典書写聖が増加した時期であり、往生伝に時代 が反映されていることがわかる。 ④慈応器(﹃拾遺往生伝﹄) 司 会 4峯出草創出記﹄によると、慈山応は寛治八年(一O
九四) カ ら 翌 年 に か け て 一 一 一 度 ﹁ 蔵 王 御 一 不 現 ﹂ が あ っ た た め 一 切 経 常 一 日 写 を 行ったとされる。 ﹂ の 併 設 写 卒 業 は 貴 族 も 注 目 し て お り 、 吋 後 二 候 締 通 記 ﹄ よ ると嘉保 ( 一O
九 六 ) 一 一 一 月 十 八 日 は ﹁ 一 日 一 切 経 常 一 日 写 之 後 、 於 二 本 所 一 奉 ニ 供 養 一 之 日 也 ﹂ と 記 し て お り 、 一切経が一日間で書 写供養されたことがわかる。部通はこの に参加しており ﹁六十巻華厳絞外題﹂を自ら書いている。その功徳は﹁華厳論 去、外題七字一触二耳日 J 剖 罪 之 獄 不 レ 入 レ 墜 ﹂タ
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題 であり、これは延真律師が語ったと説明している。 ま たJ
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右 記 ﹄ 両 年 一 一 一 月 十 八 日 条 に よ る と 、 今日京中上下万人、 切 経 イ 一 一 望 人 イ 得 ニ 夢 想 告 ﹂ 准 一 コ 催 人 々 一 於 一 在 家 々 一 ム ア 別供養了、送 聖 人 許 イ とその様子を記している。そして、これは﹁依レ為一一大善根 J 柳 所 一 也 L と書いていることから、書写古学業は善根を積むこ 一 一 、 ‘ ・ ー し 一 ⋮ / J ノ帥 附 救 火 学 総 合 研 究 所 勺 札 制 古 山 山 脈 二 M W 経 の 峰 山 人 約 研 究 ﹂ とであると考られていたことがわかる。このように当時、経典 書写の功徳が僧に語られ、人々に信じられ、こぞって結縁され ていたのである。 ま た 、
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右 記 ﹄ は承徳二年(一O
九 八 ) 一 一 一 月 二 十 一 日 に こ の一切経が金峯出に送られたことを書き留めている。それによ ると慈応は一切経書写後、法成寺に居住して、寺中の一切経に より一切経を校訂していた。そして、 二十一日に大殿(藤原師 実)や左大将(藤原忠実) から人夫と浄衣を給わり 切経を金 峯山へと送っており、 それに京都中の人々が ﹁品市内ノ↑n
上 自 A F A プ ! t l A 4 , 、 司 し て い る 。 この一切経書写の背景として、寛治七年(一O
九 一 一 一 ) 九 月 ( お ) 十日に蔵王堂が炎上したことがあげられる。そのおり、 金制蔵王設は焼失しなかった。十月二日には少史小野政孝が遺 わされ、十五日には余議で修造されることが決まった。一一一年後 の嘉保三年(一O
九六)六月には蔵王堂が完成、七月十五日に は堂供養が行われることが決められた。 慈応の一切経書写勧進は堂供養の四ヵ月前にあたることから、 ﹂の書写も後興事業の と考えられる。約十年後の長治三年 ( 一 一O
六)内大臣漉雅実により党鐙一口が施入されたが、 ( お ) の施入状によると ﹁ 仏 像 経 巻 、 支 金 口 鹿 浴 、 炎 上 之 後 、 重 復 一 一 旧 基こと述べており、経巻も護国の対象であったことがわかる。ヒ
f、一 」ノ ところで金峯山への納経は寛弘留年(一OO
七)、藤原道長 切経に結諒した藤原師通も埋 の埋経が有名であり、慈応勧進 (Mm) 経している。慈応の勧進成就の背景には、金山条山に対する信仰 の隆盛があったことはいうまでもない。慈応の勧進は、金峯出 ( 何 日 ) に対する信仰を広く庶民に浸透させたことに加え、人々に霊地 における一切経の必要性を伝え、 それに結縁することの功認を 人々に説き示した点にも意義があるといえる。 し @西法伝(吋設拾遺往生伝﹄) 西法にとっての一切経書写勧進は生前の善業を代表するもの であった。往生伝における一切経書写には、勧進聖が中心とな の って知識に勧めて行う場合と、自ら発願して行う場合がある。 比一一則者の例としては本伝と前述の吋拾遺詮生伝﹄経退缶・慈応の 例がある。後者は次節に述べる貴族たちの書写である。聖によ る一切経書写勧進は白河誌の時期(一O
八六 J 一 ブL よ り 増 加 し て 、 鳥 羽 院 の 岡 山 ハ ( 一 一 一 一 九i
( お ) らに上昇した。慈応の併は白、河院の前期の例であり、商法の例 一 五 六 ) 、 その比率はさ は白河期の末に当たる。鳥羽期最蟻期の古学例が山口同士上人末代の そ 常 一 回 写 勧 進 で あ る 。 久安五年(一一間九)、富士上人末代は人々に勧めて富士山 ( 向 山 ) 切 経 世 ⋮ 日 写 を 行 っ た 。 埋経のための 吋 本 朝 佐 紀 ﹄ 四月十六日によると、この書写には﹁関東の民庶﹂から鳥羽院まで、貴賎を 問わず多くの人々が参加している。この時に作られたっ鳥蕊天 ( ぬ ) 一大般若経一発願文﹂によると、鳥羽院は結縁のため、大股 若経を諸人に割りあてて書写させている。それは﹁且為レ就 世之願求 J 立 為 レ 致 吋 一 天 之 静 話 一 ﹂ で あ っ た 。 さらに、如法 切経は倭漢ではいまだ行われておらず、自分はその功訟を渇仰 し、その を増進することで﹁廼知ニ往劫機縁之令 u 然、査 疑 二 当 生 役 一 口 提 之 一 時 U証﹂とし、自身の菩提を頼ったのである。そ して、文末に﹁凡阪助成之輩、見出之衆、永磁ニ悪趣 J 皆 到 二 均 H 日 O
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-げ 旧 牧 合 日 レ ρ r L と し て 、 結縁の人々の往生を願って文を結ん でいる o 吋 本 朝 俊 紀 ﹄ ではこの事業を ﹁莫大之善根。諾天定歓 と 記 し て い る 。 ﹂ の 一 切 経 は 、 の後、五月十三日に仏頂支ならびに東出 七条の大武清陵堂において議大な供養がや口まれ、結縁の道俗が 雲霞のごとく集まった。大般若経書写参加の人名絞は院宣によ ( お ) り、能書家である藤原定信が書いている。 吋後拾遺往生缶 L 蕗法伝では、無名の遊行型が一切経書写の 勧進聖を務め、往生を遂げている。この時期は一切経の書写勧 進が増加した時期であり、多くの人々が結縁していた。この伝 では人々のなかで、 一 切 経 書 写 に 結 一 叫 称 す る こ と の行業と して定着していたことを読み取ることができる。 往生人と一切経 閣法は市井で活動した遊行の聖であり、富士上人未代は富士 出で修行する 上人である c また、前述の慈応も遊行聖と忠わ れる。これら三人は、 いわば無名の僧である c その彼らがこの ような大規模な卒業を行えた背景として、人々が書写経典へ結 縁することに功徳があることを信じていたことがあげられる。 その背景に空也や皮聖行円など、平安時代中期に活躍した重た ちの活動を見逃すことはできない。 やがて、このような大規模な結縁事業の普及が、十二世紀末 期から行われた東大寺復興を推進した大勧進俊乗房重源の活動 を成功へ いたのである。行業としての一切経の価値が法く 認められていくなかで、往生伝の中にも 切経が語られ そ の 勧進聖の活動も生生伝の中に収められるようになったことが指 摘できるのである。 往生人と一切経の関わりのなかで最も多いのが書写である。 は施主となった倒、自筆書写した例とがある。 切経をは じ め 摂 い 政 ( の は 、J
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本往生能楽記﹄吋続本朝往生伝﹄など初 期の往生伝には克られず、g h
遺往生伝﹂以後で増加してくる。 これは読政拐において、経治(書写が往生の行業として確立して きたことを示している(表 1 参照 ) 0 ー ヒ紳 開 放 火 ⋮ 一 手 稔 合 印 刷 究 所 紀 前 官 別 附 三 切 経 の 燈 史 的 研 究 往生伝における経典i!?写
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五 主主 i設 立日 不 奇2 2 大 幸Jl 1仁L1 切 主反 王 法 F 采f -F07ih 耳!:.";;、仁ζ 司~J:ζ 経 上*y 司長 rYi F日本f主役様楽記J。
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記本初往生伝」。 。。。。
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3 4 I 17 「三外往主伝記」o
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ド中ifj;$!r修往生{云」 3 I 1。 。。
2 8 1i-〉1、 3 4 50 表 l ⑤藤原為隆伝(可後拾遺往生伝﹄) 本伝によると為降は少年の頃から に帰依しており、行つ た 議 口 業 は 莫 大 な 回 一 一 認 で あ っ た 。 一切経もその っとして行われて いる。また、各地の寺読に四天王像を奉納しており、護法祈願 の意図がうかがえる。彼に財力があったことは、後述する彼の 持仏堂からもうかがえる。 しかし、彼が実際に一切経を書写し たことは確認できない。 為陸の臼記吋永田間一記﹄には、他者が行った一切経書写供養の ー と 記事がある。嘉承元年( 。六)九月二日条では因幡守陸時 の堂宇で一行われた東名寺上人の 切経供養一について記している c そこでは導部や冗願のこと、百口の僧侶等をまねいて供養した こ と や 、 その一切経がこの六ヵ年偏えに知識をもって書写され たこと、これは聖人の勧めであったこと、僧侶等は布施を受け 取らなかったことなど、供養にまつわる話があげられている。 また、天仁三年( 一O
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一 一 一 月 九 日 か ら 十 一 日 ま で の 条 に は 白河上皇が法勝寺で行った金泥 切経供養の記事がある。供養 の二日前からの上皇や藤原忠実の動向一、雨による供養の遅延の ( 日 記 ) 様子も記されている。 為珪の弟で勧修キ寸流の祖である倦の寛信(一O
八五 l 一 五 三 ) も 一 切 経 常 一 日 写 を 行 っ て お り 、 それは長承ニ年(一二三一一) に亡くなった母の﹁為レ訪二彼菩提 J 発 二 切 経 世 一 日 写 大 願 一 L し た ( お ) の で あ っ た 。 一切経の場合、全てを自筆書写した例は少なく、六往生伝の なかでも、外題は為陵伝のみ、全ての書写止を試みたのは後述す る運党だけである。為隆の 切経は自ら外題を玄関き、氏神であ る春日社へ安置・供養されている。その自的は一切経の奉納に より氏神の神威を増すことで一族の繁栄を祈願をしたものであ る 。 日社では﹃殴ハ福寺略年代記﹄によると寛治四年(一O
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十一月喝日に一切経転読が始められた。﹃後二条師通記﹄ ( お ) その翌年の一切経転読を記している。また、康和二年 ( 泌 ) に白河上皇により一切経読諦が行われた。その後、 ヂ ﹂ 令 ι 、 b v f 一O
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永久五年(一 に藤原忠実が叔父である興福寺別当の大 七 僧正覚信のもとで一切経を書写させ、書写ができるに随い供養 ( 訂 ) して塔に置いた。これは忠実存命中には出来あがらず、治承二 一七八)七月十五日に孫の藤原基実の夫人・平盛子が完 ( お ) 成させ、春日社経蔵に納めた。 年 仁平元年(一一五一)十月七日には前宮内大締藤原定信が自 筆一切経を春日社において供養し、問胤ハ福寺経蔵に安置している (定信一切経については後述)。このように春日社では院政期よ りしばしば その多くは春日社を氏神とする 切経が泰綿され、 藤原氏関係者からであった。現在、為経の 切経は確認されて いないが、実際に納められていたとすれば春日社では早い時期 の 施 入 捌 別 で あ る 。 春日社は白河院の一切経供養以来、長治元年(一
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田)四 月二十二日には遷宮により御社宝殿凶字が造営され、永久間同年 六 ) 二月六日には忠実による五重塔(商御塔)が落慶 ( 一 一 ( お ) する等、十 世紀末から十二世紀前半にかけて、境内の建物等 が次々と整備されていった。 ま た 、 その後の保延二年(一 九月十七日には初めて 往生人と一切経 若宮祭が行われ、保延六年( 田O
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十月二十九日には鳥羽 ( 必 ) 上皇御願の塔(東御塔)が落慶する等、春日社への信仰仰が隆感 していく様子を見ることができる。為降の一切経施入は、春日 (HU) 信仰仰が高まっていく流れの中で行われているのである。J
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お記﹄には、為陸の記事が多々あり その実直な働きぶ りがうかがえる。大治二年( 二七)十月十七日条には為隆 の持仏堂供養の記事がある。池や山が配され、一二間関面の丈六 堂や機法賞、迎講堂等がある仏堂の様子を宗忠は﹁風流絶妙﹂ と賞賛している。この堂の諸仏は本伝の永昌坊の道場と 致 す る。また、同記大泊五年(一 一 三O
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九月八日条には為隆莞去 の記事がある。そこには と出白、職歴が 一 九 二 人 炎 こ 、 、 刀 ふ イ ナ j f j t ﹁ 数 日 病 悩 し 、 にもって築逝す。参議従三位勘解白長官な り L と記し、これも本伝の記事と一致する。 為 隆 は 嘉 承 元 年 ( 二O
六 ) から勧学院別当に任じられてお り、文人貴族たちと親しい陪柄であった。本伝文末には﹃本朝 新修註生伝﹄の撰者とおもわれる藤原宗友が、為援の思容を慕 ︿ HU) ったことが記されている。また、為経の堂供養では、後述する 往生人の藤原行盛が願文を執筆している。さらに、為隆の弟の 都隆は文章生一の出身である。 本 伝 記 の 撰 者 で あ る 一 一 ( 一O
四 九 1 一 三九)は、為 陸と同時期に活動しており、為隆の行業も知っていたとおもわ ヒ紳 附 教 大 山 γ 総 合 研 究 所 紀 削 究 開 山 肌 山 一切経の墜史的研究 れ る 。 ( ② 藤 原 行 盛 伝 ( 吋 後 拾 遺 往 生 伝 ﹄ ) 行盛の の 品 一 営 業 に つ い て 一 切 経 書 写 、 一千日の議経を修す ほかは﹁善業数多 L と省略して舎かれており、先の西法伝と北ハ に一切経が当時、修善のなかでも特別な存在であったことがわ か る 。 をひらくこと、 の行業として﹁講経﹂ ( 必 ) それを縮問することが勧められている。講経で 行盛伝にあるように往生伝では、 たびたび講じられていたのは法華経であった。例えば﹃後拾遺 式部大輪敦光女娘子 L 伝によると、臨終 後、親族の夢に現れた姫子は、浄土の詰殿の門の前 往生伝﹄中巻コ⋮
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ち、自 八 刀 は 万 日 の 法 花 講 を 行 っ た 強 口 被 に よ り 往 生 す る 六 九 月 中 日 一 旨 と い う 人を待っていると話した。 ﹁我在世の時、病痢を栃い そ し て 、 扶け、(法花講を) しばしば聴開いたす。 その縁により、 '--ー の 浄科に詣り往くべし﹂と諾った。この伝では講経を行うこと、 ( U 判 ) それを聴聞することは往生の要問となることが説かれている。 また、行盛訟の末には行践の と家僕の相方の夢に往生の 奇瑞が表われている。往生は仏教興隆を自的とした一切経の書 写・講経の功徳によるものと読みとることができよう。 行盛が実際に一切経企一回写を行ったか否かは定かではない。ま じ [些│ た、彼が仔った善業についても不明である。彼の動向は同時代 に活躍した藤原宗忠の日記﹃中右記﹄に見ることができる。そ こでは官吏としての記事が多いが、 なかには春季仁王会の況額 文、白河詫四十九日の願文作成等、法会の願文を執筆していた ( 応 ) ことが知られる。 本伝では﹁近年三箇年、病悩して、 つねに沈む L とあるがJ
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右記﹄には行躍が没する二年前から行盛の病悩の記事が表 れている。亡くなる約半年前に摂津守に任じられている。本法 では﹁漸く危急に及ぶ、長承三年十 2 1 L i 1 U 寸 11 ・ 4 f ノ 一 J Jノ ﹁ 仁 十 ι 日希くに より、勿ちに所械を辞し、出家受戒、臨終の時﹂と記し、数日 間で病状が悪化して死去したことが読み取れる。同記では一行盛 が死亡した四日後に小除目の記事があり、技士口選宮が近々一行わ れるので、急いで摂津守となしたとして、新たに藤原顕遠が摂 津守に任命されている。本伝では行畿の没年を六十四歳とする が、同記では六十五日帆と異なっており、 また、没後の瑞夢につ いても見あたらない。 撰者の⋮一⋮菩為康は行践と同時代止を生きた人物であり、行盛の 一切経書写を見開していたことも推測される。史実は不明であ るが、本伝撰述当時、往生人にとって一切経書写が善業を代表 するものであることを物語っている。⑨藤原行感怯(﹃本初新修往生伝﹄) 吋後拾遺往生伝﹄行盛伝では出白、品畳間業が挙げられ、病とな ってから死までの時間的な経緯が説明され、記録的な記述とな っているのに対して、 吋 ζ 耳 青 ・ 多 主 主 一 瓦 オ , t 士 ぷ Z ,
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ノ イ ・ バ 口 コ イ i ではもとより弘法に 帰依していたことや、病となって偏えに後生善処を祈ったこと、 臨終において衆僧と数遍阿弥詑仏を念じて、戸が止まり亡くな ったことなど、在生人にふさわしい描写となっている。 行盛も行った千座議は 可 本 一 司 訴 彦 主 主 ) 子3
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込 「 五 入道参議 平実議﹂伝にも見られる。 来(法華経) 俊 一 九 親 は 千 日 に 誤 っ て の講を行ったところ、 ﹁聴関市をなし、功徳は隣に存﹂ っ た と して、講経の意義を述べている。 また、本伝では千座講と共に、菩提のために丈六仏が造られ た記事が追加されている。往生伝では、丈六仏の造設が採り返 ( 幻 ) の行業として重要な投誼を占めていた。往生の し 説 か れ 、 業国として知られた丈六仏造段、講の開講と並んで記された 切経敢闘写は、往生の行業として高い餓僚が認められていたこと が わ か る 。 吋拾遺往生伝﹄以後の往生伝では、丈六仏のように大きな仏 像 と 北 大 に 、 切経のような大部の経典の書写が一行われていた。 その後の﹃本朝新修往生伝﹄では、多国道の念仏、経山地(書写、造 帰依等、数量信仰に恭づく行業が行われていた。これは往生人の 往生人と一切絞 財力に応じて行われた行業である。 ⑮運党結(﹃本朝新修往生伝﹄) 連覚伝における一切経書写の目的は仏法興隆にあった。 切 の目的が勧進や自身の往生 一挟繁栄にあった前述の伝 とは異っており、目的が多様化していることがうかがえる。 吋 十 令 部 新 修 往 生 伝 ﹄ ﹁ 一 一 一 一 一 大嬬清原信俊 L 伝で、信俊は数 十人の浄侶に如法経三十余部、法華経一千五百部を書写させ、 各地の名出霊寺に送った。それは﹁法久しく住し、流布し、演 説せしめんがため L であったことが舎かれ、経品川(書写が弘法興 隆の呂的として行われ、 それが普業であることが明確に説かれ るようになっている。 運覚の師とされた聖賢(一O
八 一 一 一 j 四七)は、威儀師少 別当賢丹の子息であり、酪融寺理性院罷基賢党の舎弟で、小野 流 の 一 つ で あ る 金 剛 王 院 流 を 聞 い た 真 一 一 一 一 口 僧 で あ る c 天仁元年 一O
八)韓関寺無関前一光院において勝覚から伝法瀧頂を受け た。弟子には源速、売恵等がいる。 連党とその隔の聖賢に伝法濯頂止を授けた勝覚(一O
五 一 一 一 l 一 ブL は、第十四世の醍醐寺座主で、一二宝院の関山としても 知られる。左大臣源俊一房の子で、醍醐寺底、五定賢の弟子となっ た。応徳三年(一C
八 六 ) に醍醐寺産主となり、永長元年(一 一 七 五係数大学 ι 総 合 併 究 所 紀 姿 別 階 二 m w 経 の 眼 目 史 的 研 究 い 。九六)白河上皇落飾の際には戒師を務めた。その後、東大寺 別当、東寺長者等に任じられた。付法の弟子には制限翻三誌を立 てた定海、聖賢、賢覚等がいる c また、往生人として吋後拾遺 往生伝﹄下巻七に収銭されている。 連覚は、当時、醍鴎寺でも一俊秀な学僧の近くに位註した僧侶 であった。この時期の醍臨寺は、自河上皇や、源俊一房をはじめ 諸説が整備され とする村上流源氏の帰依を受け、境内の ( 川 崎 ) た時期でもあり、運覚は寺内の僧侶の修学の必需品である一切 経をそろえるためにも、 したのではないかと考えられる。 連党は一切経を自ら書写しているが、数千巻にも及ぶ 切 b V 耳::1': は大事業であり、自筆で書き上げることは希であった。当 時、自筆一切経を完成させた人物として、藤原定信(
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)¥ )¥.. ー?)があげられる。定信は藤原行成の子孫にあたり、能書家 として知られる。二十三年間同かけて 人で一切経を書写して、 仁平元年(一一五二十月七日、春日社宝前において供養した。 その法会では、供養の導師を別当権僧正隆覚が務め、百僧が招 ( 必 ) 請され、舞楽が演奏される盛大なものであり、院宮諸家から多 ( ぬ ) くの贈物あった。この一切経は、後に輿福寺内に建立の経蔵に 安鼓される予定であり、﹁定信現世遺二万代之名イ鴬来免一一三途 之苦ぺ訪ニ和漢両朝 J 米レ間二政勤者。﹂と吋{子機記抄﹄に舎かれ ( 幻 ) ている。この記事から定信の一切経書写は、後世に名を残す偉 占 J M -¥ 一t t
ノ というだけでなく、一一一途の苛を免れるほどの功徳があると信 じられていたことがわかる。 また、主口 A 7 著間集﹄二(五五) には後日談が⋮諮られている。 左大草藤原頼長のもとに参じた定信入道を、頼長は衣冠をただ じ と て 拝 せ ら る しーと 切
臼 経 舌コ 石ノ 口 三 条 1 1,~ヨ記 き
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た Tさ と 交 い(芝 弓52)峰 、)げ た る 人 な り O して礼拝し 「、
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と 戸 一切経を自筆書写し た者が尊崇されていたと語られていたことは興味深い。定信が 陛尊寺中流の能祭であることを考えると、般の経典来日写は自分の 才を生かした修善であり、善を尽くし美を尽くした仏への供物 を作って奉綿していた当時の人々から見れば、 さぞや行業とし ても功徳のあるものと絞ったことであろう。 ⑬藤顕敦光伝言本朝一新修往生伝﹄) 丘小拐新修往生伝﹄の撰者である藤原京友は、本伝の冒一践で、 往生人の敦光は﹁朝の賢師、道の宗匠なり﹂と讃えるとともに、 ﹁天性廉直にして、財軽く才意し﹂とその性質を賛美している。 本伝は天養元年(一 一自由)四月に発病、出家以後の記事が大 半を占める。敦光は亡くなる半年ほど前に、夢で没後の生所が 定まっていないことを知って以哉、 に帰依して専ら往生を 祈り、一一一十詩、暁タの滋悔法、念仏を行っている。そして、 切経書写発願の記事の後に、付け加えるかのように、 一生仏法に帰依したことや法華経転読等の行業があげられて﹁甑鉱する に遠あらず L と記されている。この伝においても 切 経 常 一 日 写 が 行業の代表として特記されているのである。 敦光が実際にどのような善業を修めたかは定かではない。 かし、白河院の石清水八幡宮奉納 切結の願文をはじめ、法会 の願文等を数多く執筆しており、 そこからは仏法に問附する学識 の深さがうかがえる。また、永観の足代生拾沼﹄に﹁関白大相 ( 幻 ) 毘﹂のム叩により、後序を書いたとされる。長承元年三二一一 ( 一 叫 ) 一一)の﹁初冬述懐百韻 L では、文学の士と博突の徒に対して仏 道を勧める内容の文を作っている。その一方で、敦光が役俗的 な名利にとらわれていたことも否めず、この思いは官位を請う ( { 加 ) に如実に現れている。しかし、本伝では出家後 て 蕊 ︿ 上 し の敦光に﹁式部大輔、右京大夫、正問柱、帝王の師、遺恨なし と諾うべし﹂と語らせているように、 そのような様子は読み取 れない。また、 で焔魔王の在下となるよう召されたことや、 不動明王から宝器を授かったこと等、仏との関係を重ねて説い て い る 。 そして、臨終の時、藤原忠実の出家の戒締も務めた中川型 (実範)を苔知識として受戒して安らかに亡くなり 後 日 、 生の奇瑞を得ている。撰者は、冒頭の賞賛の と共に、敦光 を理想の往生人として描いている。 役余人と 切 tf 敦光は、夢で生所が定まっていないことを知り、行業を拍恨む なかで一切経の書写を発願したが未完となったため、子息に造 志を継がせて往生した。敦光の 切経書写が実経に行われたか し 百かは不明である。 しかし、往生伝では遺族が一切経常一回写を引 き継ぎ、追善することを勤めているのである。 すでに指捺されているように、敦光と撰者の藤原京友は信仰附 ( 部 ) や作文を介したつながりがあった。また、前述のとおり一一 康は吋後拾遺往生伝﹄藤原為詮誌において、為隆の墓に詣でた 宗 友 の 次 大 を 記 し て い る 。 一方、前に述べたとおり行蟻は為控と の交流があった。そして、行践と敦光との関係も深い。行盛の 獄策の m旬、問頭止を敦光が務めている。その後、 二人は共に作文 ( 幻 ) に参加したり、法会の願文や呪願文を作成したりしていた。 このように往生伝において 一切経を書写した貴族の往生人と 撰者は、同時代を生き、 それぞれ何等かの関係があったのであ る 。 その関係は勧学院院当(藤原為隆) 文章博士(藤原行盛 と藤原敦光)と、 いずれも丈人貴族と関わり深い にあった ことは興味深い。彼らのなかで往生の行業として一切経が注目 されていたことを指摘することができるのである。 十・十一世紀に院や摂関家を中心に仔われていた一切経常 M 写 は、十二股紀になると説側近の間何でもさかんに行われるように なった c そのような時期に、 一切経を書写して往生した貴族が ー と
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刷 附 品 科 大 学 稔 合 研 究 所 紀 前 古 別 際 ﹁ 切 m w 札 の 院 は 史 的 印 刷 究 ﹂ 往生伝に収録されているのである。 一方、永久三年( 一 五 )
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から康治二年( かけて秦氏により書写された松尾社一切経中の政文のなかには、 ﹁書写力﹂をもって一族や衆生などの現低の身の堅田と、所願、 ( 出 品 ) 成就、浄土往生を願う一文が記されている。 一 切 経 の 力﹂の功諮が信じられていたことも併せて考えると、当時、 切経書写の功憶に対する信仰がいかに深かったかを改めて知る ﹂ と が で き る 。四
-刷 出 , ペ 3 aそ
の 仏教聖典の総称である一切経は、仏法の象設でもあった。 安 時 代 に は 、 しばしば一切経を供養する法会が行なわれた。そ の綾子は一例ではあるが、往生伝にも描かれている。 ②源忠遠萎伝(可読本朝往生伝﹄) 源忠遠姿伝では往生を一不す夢の話として、天神法楽の一切経 可北野天神御託宣記文﹄ 会に往生人が登場している。 正隠元年 ( 九 九C
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の御託宣によると、天神道真は﹁一切経論ヲ欲レ令口書 道 心 ノ 人 仁 難 レ 会 志 。 我 家 ノ 末 孫 乃 此 ノ 駁 於 可 立 時 一 人 、 忽 ニ 以 テ ( m 叩 ) 難 レ 有 志 。 向 後 二 一 吋 一 J 出来ごと託宣したとされる。﹃天満宮安楽 寺草剤記﹄によれば、安楽士ずには永暦元年(一O
七七)別当基 ヒ J¥ 円により﹁一切経蔵﹂が建立され、同年十月二十七日に経供養 ( 印 ) 会が行われている。 同じく天神を肥る北野天満宮も ﹃ 百 練 抄 ﹄ に よ る と 、 水 久 三 年(一一一五)六月一日に聖人が﹁於二北野瀬前﹂供コ養一切 ( 日 ) 続一﹂しており、天下の貴賎が結縁している。 平安時代半ばになると社寺へ 切経が奉納されて経会が盛ん に催され、年中行事となっている c 行事化された著名な例が字 治平等院の一切経会であろう。平等院一切経会は、活久一光年 ( 位 ) 年中行事化され、 ( 一O
六九) に藤原頼通が行って以降、 .7,、
- -の 後、各地の社寺でも行われた。 忠遠姿の往生伝は、各地で一切経会が隆盛した頃に接述され た。姿が夢で菩薩の装束を着けたことにより、註生人であるこ ( 邸 ) の舞﹂に とを象徴している。これは一切経会で行われた なぞらえたものと考えられる。この舞は極楽浄土を演じる裁で あ る 。 切経会は仏の世界を表したものであり、極楽への結縁 を願う法会であったことを物語っている。 ( 引 肘 ) また、忠遠妥は部僧の党厳に吋観加盟⋮量古河伐とを読諭してもら の場所が中品下生から上品へと転じられると語 う こ と で 、 ( 俗 ) っている。これは、追善としての吋観無量寿経﹄読訴の功徳が 勧められたものである。 忠 涼 一 妥 は 吋 観 無 口 一 双 寿 経 ﹄ の 追 加 読 一 誠 に よ り 九 品 の 階 位 を 上 げょうとした c ♂机本朝往生缶 L では、往生は困難なものである ﹂とを操り返し述べられている。 川 仰 を あ げ る と 、 ﹁ 一