皇国精神よけ見下る浮土教義の基本的構造
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鶴 見 承序
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日本串は日本の歴史文化の上に立つ皇園の道現成の皐として考へられる。科事的であれ哲串的であれ、それは 永遠なる日本に就いての園民的危知と信と更には行とに成り立つ生ける撃でありゆくであらう。との小篇はとに かくさうした園民的た立場からし党津土教把握の試みに開ずる未熟友記録であり、まもん穀徒の一人の自己反省の 粗策た叙越である。 部土教義の基本的構遣といって標準とたるやうた客観的たものは恐らく求められさろにもたい。今は箪に私の 考で、浮土教の教理史的護展の段階から抽象される、いはば通念的或は常識的・及、宗教論理的形態としての経典 及び列租に依撮するコ一身卸一の報身の阿繭陀伸、その本願乃至救済、救済の規矩売る較法、救済の目的としての 滞土、封象としての衆生、衆生救済の契機としての信と行、とれらの要素によって構成されてある教義的盟系左 とりあげてみようと思ふ。 I 皇囲精神はわが園典売る古事記・日本書紀等に於ける古偉承の世界にその本原の姿を見るととができる。古偉 皇図精神より見たる海土教義の基本的構造ニ
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日 本 偽 教 皐 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 一 一 一 六 2 承は他の面からいへば神話である。皇園精神は其慮で本原的に道を成し思想在成す。道とは惟神の遣であり、思 想とは園韓観・園家理想観をその植軸とする皇園に関する論理・理念である。もとより道といひ思想といっても 本質は一であって二でたい。姑く賓践の面について道といひ論理の面について思想といふばかりである。皇園精 紳は宏大である。永遠に不易であって而も不断に生成護展してやまぬ。海外文化の揖取同化は著しいその現はれ である。勿論博士教の如きもその事象の一例に過ぎたい。かくて皇園精神の立場から滞土教義を見るといふヒと は何等爾者の封立硯を意味するものでゑい。それはあくまで根本の立場からそれの文化的護展を反省しようとす る と と で し か 怒 い 。 封照していへば、皇園思想と浮土教義とは先づ形態的.機能的にその在り方が比較されよう。形態の側に於て 歴史的と論理的、機能の側に於て政治的と宗教的との封比である。しかしか L る封比に於て雨者は平行的である より賓は寧ろ交叉的存在である。形態からいって皇閣思想の韓系は概して岡家歴史的叙速に於けるものであるけ れ N とも、同時に論理的構成に於てあるのであり、宗教論理的形態としてある浮土教が同時に時間・昼間の観念の 上に構成されてあるととも確かである。まもん機能からいっても皇園思想が宗教性||民族的・なものにもせよ 1 1 ー をも包含すると同様に、海土穀義が政治性||鞍圏的・なものにもせよーーをも包含するのである。か L る 爾 者 の 包含する交叉的性質は爾者聞の比較作業の基礎地盤たらうとするものである。しかしたがらその一一唐根本的友基 礎地盤として雨者の金曜的存在の意義が考へられねば怒らぬ。その護端の場所から一稜展の過程を遇して雨者に生 き つ Y ける各の根源的た力の世界に遡って、あらまし雨者存在の濁自的た或は相閥的注意義について考へて九掛か う と 思 ふ 。
皇園精神の本原は日本紳話に内包される。日本紳話を皇園精神の表現として見る場合、我 K は先づ自己に注意 しなければ怒らたい。人は紳話に封して種 k たる立場から接するととができ、その場合紳話は人の立場に臆じて その一面を現はずであらうが、限られ売立場からする分析に劃して神話は決して自己の金韓を示さたいであらう。 紳話は論理的金瞳として紳話売る賓をもっ。日本神話の本質は園家神話であるといはれるとき、正にそれは論理 的金腫としてあるものであるもので・なければたらない。しかし紳話が論理であるといふととは、それが古代人の 幼稚た頭脳から生れた原始的た構想物であり過去の遺物であるといふととではたい。か L る紳話の見方は自然科 皐的乃至西欧的偏見といってよいであらう。紳話は民族と共に在るものである。紳話は民族・園家と共に生きつ V A け、民族・園家の護展の原理として、批判として、指向として現在に存在するものでなければ友らぬ。紳話は 行篤的現在のものである。我 k が行矯の立場に立っとき、自己の現賓をその根源に於て生かしつ L 理想を指向し 現賓を批判して明日の自己を創造せしめるものとして紳話は在る。榊話はかく行矯的現在のものであるに拘らや、 同時にあくまで現賓以上のものであり、入のものを越えて紳のものである。一神のものとして榊墓である。神話の 説示は言霊としての力に生きる。人がその前に脆き言霊のまにまに奉行する。そとに紳話の批判・指向の皆みが あるのである。惟神の遣を包容する日本紳話は、我 K の行矯的現賓を、か a A る紳阜の霊能を以て制限し開額しつ ど け る o
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土思想の護生を大陸神話に探るととの意味についても新なる注意が要請される。論理的金躍としてある神話 でたければ紳話売るの賓は友い。滞土教義の構成要素に印度榊話を護生の母胎としたものはあっても、教義の根 3 源的地位に論理的金韓としてある榊話といふが如きものの存在は全く考へるととがでさない。持土教は静土教と 皇闘精神よ P 見たる浮土教義の基本的構造 七日 本 偽 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 = 一 年 ︶ 二一八 4 して初めてその論理を得たのである。金韓的たその場でその宗教的生命は成立してゐるのである。浄土教把握の 目的を以て教義構成の要素と関聯すべき神話的断片を自然科皐的分析の態度で渉猫するが如きは全く無意味の業 としたければたらぬ。我 K は大陸紳話の浮土教義に於てもつ意義が狭く局限されてゐるととを知る。日本神話が 園家神話たる本質を有するに比し、それは人間的たるものの信僚であったといへょう。との人間的信僚は教義の 構成要素を通じてその紳話的能力をもたうとはする。そのととは誰からも否定せられたいであらう。けれども紳 話の生命はそれを生み出した民族と共にあるものであり、民族的生命を離れて紳話の生命はたいといへる。た w h 大陸神話はその人間的危る動機の故に死滅を菟れたと見られるのである。浮土教の東漸は嘗然その神話的生命の 衰退を意味した。同時にとのととは博土教そのものの生命的衰退であり、精神的澗渇である。日本に揖取せられ 日本精紳によって解阻押せられ、阻噂せられ、その血とされ、その肉とされ、同時にその精神的内容を強力なる日 本精神の稜展に置き換へられるととによって浮土教は東障を得たが、それと同時に津土教は−初めて生ける宗教と 怒り得たのである。とれを、浮土教怒る生命的宗教が大陸に起り日本に停来して日本人を感化し日本精神を癌養 したと見るのは、神話の見方に於けると同様、遇俗的友自然科率的見解であって、事賓は全く逆であるといはね ば怒らぬ。まして日本博土教の根源的世界に印度紳話を求めようたどとする者が若しもあったとし売ら恰も舟を 刻んで創を求むる愚を・なすもので、自閣の何たるかを思はね貼に於て許せない錯畳である。要するに賓存の浮土 教は、強き日本の民族精神によって大陸的人類的精神の酒掲を止揚し、潤渇を止揚するととに於てそれを新に損 充 し つ L 、民族の護展的精神文化としての自己形成を怠しつピけて生をであるものである。枯死せる宗教は我 k の闘心の時外である。我 k が静土教といへば、それは東障して生ける博土教の謂でたければならたい。かくて皇
園精神の立場から浮土教義を見るといふととは、民族精神が人類精神を契機として如何たる創造を成したかとい ふととであり、今いつもんやうに臼本精神の護展の自己批判に過ぎ怒いのでるる。 大樟以上のやう友意味で封照的に見てゆかうと思ふ。封照は構成の要素左遇して金韓に及ぶべきであらう。今 は大韓浮土教義の構浩に沿ひっ L その要目を皇園の思想から照観しその結果を吟味してみようと思ふ。概して皇 園精神の側に言葉が多く津土教義に少いのは、との護衰のもつ環境がしたととである。
天之御中主紳と法身悌
浮土教に於ける本隼阿調陀悌の意義は無量害悌・無量光備として考へられる。本隼としての阿繭陀悌は三身部 一の報身売るそれであって、ーーとの賄、宗義によって多少の差はあっても、概してかう見るべきだと思ふ|| 理韓の悌身たる法身はその本樟的悌格たる意義をもっ。 かくの如き性格の紳格をわが古偉承の世界に求めると、根元榊天之御中主紳に至るのである。古事記の冒頭に 情 。 ゆ み は あ め 白 み な か 凪 し 申 か み た か み な す び 由 か み か み h u すび由かみ 天地の初裂の時、高天原に成りませる紳の名は天之御中主一脚、次に高御産巣日神、戎に紳産巣白神。此の三 み な & み 桂の神は並濁紳成り坐して、身乞醸したまひき。 と あ っ て 、 天 之 御 中 主 紳 、 高 御 産 同 県 日 神 、 一 脚 産 出 来 日 神 、 と の 三 柱 の 紳 を 根 元 紳 と す る 。 ﹁ 天 地 の 初 登 の 時 ﹂ と い ふ 書出しであるが、山田博士に依れば、初護の時といふのは、無かったものが有り始めた時といふ意味では友い、 人がその事に就いて誘き出す始たのである、始めに根元紳の事を一式ひ出した迄の事であるといふ。結封無の鏡に 映。もん有の姿とでもいふに相躍しく、と i A に 根 元 一 紳 天 之 御 中 主 紳 が 成 り ま し て ゐ る の で あ る 。 5 皐図精神よ P 見たる瀞土教義の基本的構造 二 一 九日 本 偽 教 挙 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶
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O 6 天之御中主神の意義は、天地即ち宇宙の中心の主宰者といふととである。然るに天地は無始無経である。少く とも日本の思想ではさうである。紳勅に於ける天壌無窮を始め随所にさうした思想の現はれを見るととが出来よ う。従ってとの一脚は無始無終の紳である。まもん中心にましますといふととは遍在するといふととでもある。それ で、天之御中主紳は時間的にも昼間的にも無始無終の紳格と奔し怠ければ怒らぬ。 産巣日のいわはうむす、即ち生み成す、生成、生育等の義であり、山は霊異−なるものをいふ詞である。高御産 巣日・紳産巣日雨紳は古事記、日本書紀、古語拾遺、いづれも天之御中主一脚の弐に必十出てゐる。つまりとれは三 紳一瞳の性質の紳格であって、産巣日の紳は中心神天之御中主一脚の一紳徳の表現として考へられるのである。即ち、 天之御中主紳は時空を韓とし、生成を作用とする神格たのである。それはやがて宇宙真理の神格といふととがで きよう。郎ち理韓の悌格法身の意義は根元紳天之御中主一脚の撮するととると申さねばたらぬ。浮土思想に於ては 無量害光の阿摘陀伸も常に報身中心であって、その本韓備としての法身が考へられるに過ぎたいのであるが、惟 紳の思想では根元榊が先づ無量時空の義を具へて出現せられたのである。出現して身を隠したまうたのである。 ﹁身を隠したまひき﹂の原文は﹁隠身也﹂で、宣長、園韓の本義︵猷伸省︶等もさう訓んでゐる。とれに﹁かくりみに まず﹂といふ訓み方もあって、 a とれだと金︿理障にたるわけで、田中額庸を始め神道の人 K は多くかう訓まれる やうであるが如何であらう。﹁みみをかくしたまひき﹂と訓むと、天之御中主一脚は理瞳的友一脚格であるが、その治 姿を現はして市して﹁かくりみ﹂に怒り売まうたと見るのである。語接的には爾様の訓み方が現在認められてゐる のであるが、宜一長設の方が自然のやうに思はれる。理窟はとにかく一度は院し身として現はれ給うたと見もんとと ろに、日本人的た物の見方、現宜的、具韓的危考へ方があヲて、古事記の停承の素撲性も見られると思ふのである。法身悌が概念的、抽象的であるのに封して、とれは直観的であり、具韓的でさへあっ売。時間昼間を伴って始 めて直観された榊であったので、との意義が宣長のやうに訓むとはっきりするのである。根元紳の現はれ方は純 粋で機微を極めてゐる。努需として現はれかっ消える文事的表現には、純粋経験・純粋持績といった哲準設を想 望させるものがある。かく純粋玄妙たる天地開聞設のもつ意義の間明は日本壊に輿へられた一つの課題であるで あ ら う 。
天照大紳と阿禰陀悌
海土教義に於ける本隼阿繭陀悌は三身印一の報身としての阿繭陀悌である。それが修因感呆の受用身であり、 自受用身他受用身のご義を具へるととはいふまでも友い。 天照大紳は沿名前の意義が極めてはっきりしてゐる。書紀には、 お ほ ひ る め 申 h u ち ま を 詠 こ ひ ひ り ヲ る ほ あ め っ ち て り さ ほ 是に共に日紳を生みまつります。大日嬰貴と競ナ。:::此の子光華明彩しくして六合の内に照徹らせり。 と あ る 。 天照す日紳にまします大紳が無限のみ光とみ命とを兵へ給ふととは申すまでもたいととである。郎ち無量害光 売る阿繭陀の意義は大神の掃し給ふととろである。 阿摘陀悌は過去無数の伸出世の後をうけ、法臓菩薩といふその因位に於て、諸の生死勤昔の本を抜くもんめに正 風買を成じ滞土を掃取せんと護心し、四十八僚の誓願在建て、無量の徳行を積植しその呆報として成悌するととを 得 売 。 か く 修 因 感 果 の 身 ・ な る が 故 に 報 身 と い ふ 。 7 皇図精神より見たる浮土教義の基本的構造一
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8 日本神話に於ては天地開闘の源頭根元三神の後、浮脂の如くして久羅下なす謀へる闘があり、弐々に紳 k の 出 現があって、園之常立紳以下いはゆる神世七代を経、最後に伊邪那岐命・伊邪那美命が成りました。二一紳は、天 つ紳諸の命もちて、漂へる園の修理国成をなされ、次で紳婚の御事がある。先づ大八測をた生みにたり、山川・ 草 木 ・ 一 紳 k をも副生みにたり、最後に更にとれら左統治せられる至高の紳売る天照大紳を生み給うた。か a A る過程 あ を経るととによって大一肺は生れましであるのである。 至高榊大紳が生れまし売か L る過程から見る喝ならば、法蔵出現に至る過去無数の悌の世は根元神以後綿 K 相纏 ぐ 紳 − R の御世、法蔵主口薩の積功累徳は岐美二神の修理国成より一紳婚の御事に於て、とれを揖し亭けるととができ るであらう。縫って阿繭陀備の報身としての成悌の意義も大紳の御神格に於てとれを包容し給ふのである。申す までもなく至高一脚大紳は日本のまた日本神話の中心神にまします。故に日本また日本紳話は金韓が主睡もんる中心 神大一脚の護顧展開として考へられるのである。部ち根元一紳以来段 K の弐第は悉く主瞳売る中心紳がみ駒の御世を 沿現はしにたる売めに在る次第であり、二神の修理固成より紳婚の御事は中心紳日紳が御日嗣の永遠に統治し給 ふ園土を創生せしめ給ひ、更に大紳御自身を生れ出でしめ給ふ震にみ射とり給うた御過程として拝されるのであ る。との理からいへば、兆載永却の修因の感果としての受用身といふととは浮土教義に於ける阿摘陀悌主樟観の 表 現 に 他 た ト り た い 。 かくの如き過程によって大紳は生れまし、御稜威宏大にして高物を化育し生成護展せしめ給ふ。自受用・他受 用雨義の御包容がそとにある。皇園は定に大紳の御功徳成就の園家である。皇園統治の大原理を沿示しに怒った 天壌無窮の榊勅に於てとのととは醸れもたい。護心菩願に出護する阿踊陀備の過程を、すべて逆の順序で包容し給ふのである。日本神話の形態が歴史的である所以である。 たほ注意の要があるのは大紳は榊婚の後に生れましてゐるととである。伸格は修行によって成就するが、皇園 の紳格は修行の結果達するものではたい。日本神話に紳の試錬は在る。須佐之男命の大圏主命に劃するが如きそ れである。しかしそのやうた試錬は紳の能力の錬磨、紳業の鍛錬の魚のもので、決して一紳格の成就に闘する如き ものではたいのである。紳格は顕現するものであって成就するものではない。天皇は大紳の直審問の御日嗣として 本有の御紳格を顕現し給ふので、蓮箇の理を深く考ふべきである。 天照大紳はその限り汝きみ光とみ命もて群品を統治し給ひ、阿摘陀備はその無量書光に於て衆生を救済する。 統治と救済については後述する。
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聖徳太子と臆身悌
際身悌は此土教化の矯に成道した人格的悌格といへょう。そしてとれが本有的たる悌と韓隼の備格との融合と あきつほさけ して理解されるのも普通である。臆身悌は圏語風にいへば現備であったのであり、法輪を轄じて社舎を教化しもん。 天皇は御稜威宏大、寓象を包容し給ふ。天皇は現紳にましまし、園家統治の圏法を布を給ふ。故に薩身の意義 を包容し給ふと ξ はもとよりであるが、しかし、天皇は天照大紳の直喬の御日嗣にましまし、寓世一系、連綿と して本有の紳格を顕現し給ふのである。寒に天皇の絶射の御地位に比し奉るべき何者も存し・ないのである。 しかし、皇園に於て躍身の観念と奇しき一一設を見出し得るた方はいますのである。それは塾徳太子であられる。 臆身悌は大法を韓現し、人類衆生の燈明党る備の道を演説し、枇舎鞍化の教法を護生せしめ売のであるが、皐園 9 皇図精神より見たる浮土教議の基本的構造一
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日 本 品 開 教 準 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 二 一 一 四 10 に於て惟紳の大遣を昭観し、園瞳・皇政の徴様、売る紳 k の世界を徴表し、園家統治の園法を護布せしめもんのが置 に塾徳太子であられた。卸ち、太子は天皇記・園記以下の園典を撰録し、十七保憲法を布き給うたのである。太 子が紳 k の世ぞ昭観し給うた事に就いては、我 K が現在接してそれによって紳 k の世界を知り得るととろの古事 記・日本書紀等の一紳話が、太子の園典撰録の御事業に負ふととるが少く・なかったであらうととを、園民はみ友想 見し・なければゑらたいのである。日本書紀はその編纂の規模等から見ただけでも太子の御事業と関聯なしには考 へられ放いゃうであり、古事記は天武天皇の御見識による一簡の園典と申すべきものであらうが、賢際は爾書共 に、太子の御事業と密接友関係左もってその兵糧的放影響の下に成立したものと見たければ友ら友いと思ふので ある。従来との事は明かにされてゐたとはいへたい。従って少 K とと長くたっても記紀成立の事情に闘し一通り 調べてみたければたらたい。最初に、順序として、太子の園典に闘する史博左見て沿かう。 日本書紀推古天皇二十八年の僚に、 是 歳 、 皇 太 子 、 島 大 臣 共 議 之 録 二 号 彰 ト ザ む フ
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風記、巨蓮伴遺園建百八十部、井公民等本記刊 とあり、同じく皇極天皇四年六月の僚に、 X サ カ ヤ カ ル 、 蘇我臣蝦膜等臨 v諒、悉焼ニ天皇記聞記珍費 4 舶 史 憲 尺 邸 疾 取 ニ 所 焼 園 記 − 一 向 奉 コ 中 大 兄 4 とあって、我が園最初の最貴重の園典天皇記以下は、業火の震に焼かれたのである。撰録よりとの間二十五年で あった。思へば大慶た火災であった。しかしとの火災で太子の御事業の一切が友に友ってしまったと考へたけれ ばたら・ないであらうか。それは飴りにも早ム口鮪た諦めでは・なからうか。との事に闘する一般の考へが私には不思 議た段”と早合鮪のやうに思はれて怒ら友いのである。現に園記は舶史恵尺が取出しもんと書いてあるでは泣いか。同じ箇僚で憶かれた方は信じて取出された方は信じないやうた考は私には不思議である。双方を信やる・ならば、 取出されたものの行方左綿密に探査すべきではなからうか。 園記が太子の園典に於て極めて重要た地位を占めてゐもんととは、方の書紀の記事中﹁天皇記た園記﹂と併構して 他の臣連等の記と直別してゐる賄、櫨聞かれるものを﹁天皇記園記珍賓﹂として他の記には言及せね鮪||恐らく他 の記も焼けたらうと思はれるのであるが、恵尺が取出したものが
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火念の航態が如何にあったにせよ||園記 であった賠などから充分考慮せられ友ければ怒らぬ。 園記はその名義によってわが園土に闘する記であったらうと思はれる。わが園土と一岬 h A の出現とは切離しては 考へられ友い。古事記・日本書紀の紳代巻を播けばとの事は飴りにも明瞭である。天皇記は後の帝紀・帝皇日櫨 等について考へられるやうに天皇の御衣第、御事積等を中心とした皇室の御系譜といふやうに拝される。ずると 後の本鮮のやう友神話の世界、恐らく天地間関、園土創生、園瞳原理護顕といふ如ぎ根本的たものを初として日 本紳話の世界は、太子の園典に於ては園記に記載されたものと考へるより他はあるまい。との轄に於て園記が取 出されたといふととは極めて重大怒意味を有するのである。遺憾訟ととには取出された圏記の其後の消息は更に 聞え・ない。しかしそれで誰もが絶望すべきであらうか。 園記はさて沿き、太子がその御事業について蒐集されたであらうととろの想像される尾大友史料のすべてが、 その火災で或は他の原因で、みた滅失したと信じ怠ければ怒らぬ理由を我 k はもってゐるであらうか。また、た とひ二十五年間でも、天皇記以下の典籍が巌として存在した事賓を、我 K は軽視すべきであらうか。 それだけのととを念頭に沿いて、記紀の編纂事情にとりか L らう。元来、天武天皇には二通りの園典編纂の思 11 皇図精神より見たる海土教義の基本的構造 二二五日 本 係 数 挙 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 一 二 六 12 召があったと考へられる。その一は天皇十年三月、川島皇子以下に詔して、帝紀及び上古諸事を記さしめ給う売 も の で
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る。とれは書紀の記事により大規模怒修史企重であったととが察せられるが、完成に至らやして天皇は 崩御し給うた。しかし結局との御事業が文武・元明・元正三朝に亘って櫨積せられ、迭に日本書紀三十巻挫に系 国一巻として完成するに至ったわけである。そのこは稗田阿躍をして諦み習はしめられた帝皇日糧・先代奮鮮で、 元明朝に古事記三巻として完成したものである。即ち天武天皇は一方には営時の事者を集めて詳細友園史を編纂 一方ではとれを事者に委ね給はやみ弼史料を整理し一箇の園典を撰録せんとし給うたの せ し め ら れ る と 同 時 に 、 で あ る 。 太子御事業と古事記・日本書紀との聞に開係が最も具瞳的に考へられるのは、記相の史料の方面に於てである。 か L る典籍の成立に史料が占める重大な地位を喋 k ずるまでもあるまい。記紀はその成立の最重要因子に於て太 子御事業の深き齢揮を受けてゐると思はれる。との意味に於て、太子御事業友くして記紀は今在る如くは在り得 ・ な か っ た と は っ き り 言 へ る と 思 ふ の で あ る 。 古事記撰録事情の考察の根本史料はその上表文である。その中に、 モ タ ル 品 也 一 一 ク フ ト ラ リ テ 品 パ メ ラ ラ ム ト ス ピ 諸家之所 v費 、 帝 紀 及 本 鮮 、 師 連 − 一 正 賓 ﹁ 多 加 ニ 虚 慌 叫 雷 ニ 今 之 時 ﹁ 一 小 v改 エ 其 失 ﹁ 未 y経 ニ 幾 年 − 其 旨 欲 v滅。斯乃 邦家之経緯、正化之鴻基君。 とある。即ち、諸家に停へられた帝組・本僻に既に虚備が多く嘗時に於てとれを正さ・なければ幾何も怒くその旨 意は滅びようとする、正しさ帝紀・本酔とそ皇閣の園韓、皇政の大本を示すものであるといふのである。上表文 のとの一節は古事記撰鋒の事情の要鮪を簡明に表してゐる。とれにより古事記撰録の目的が園韓皇政の徴表にあり、またそのための史料の偉存したものが頓に滅失に向ってゐ売事賓と更にその事置が古事記を成立せしめた有 力友原因となってゐるとととが知られるのである。古事記撰録には史料の関係がかく重要ゑ地位を占めてゐる。 そとで、史料であった帝紀・本酔等が如何たるものであったかがやはり重要怒意味をもつのである。 帝紀に類する語に帝皇日櫨・帝王本紀等があって、皇室の御系譜に営るもの左さし、本酔に類する語に奮僻・ 上古諸事等があって、上古の諸偉承をさすとされるのであるが、とれらがそれぞれ同一のものであるか、それと も遺ふものを指ずかに就いては未だ製設が一定しだいゃうでるる。就中、本構ム﹂奮酔の開係を明瞭にするととは 甚だ必要であるが、或は同じといび或は遺ふとする扶態である。さて古事記の直接の材料と・たったものは、稗田 阿撞の諦んだ帝皇日櫨・先代奮鮮でるるが、上表文では帝皇白樺・先代奮静爾者を最後には勅語窟首都と呼んでゐ る。とれは天武天皇の勅語によって諦んだ奮静だからさう呼んだので、奮鮮の語でもって爾者即ち古事記全般の 史料を表はしてゐるととろに、との語のもつ意味の買さが考へられると思ふ。とれから見ると前の本鮮は、その 用例から見ても、きた単に本といふ字の意味からいっても、誼かに狭義の語とし怠ければたらぬ。奮鮮は贋︿用 ゐると紳代の古倖承から塵史時代の偉承及び記事、更に帝紀に営るものまで包含したのであるが、それを最も狭く 最も重要友ものに就いて用ゐると上古の停承即ち紳話である。とれが根本的友奮僻である。根本的た奮癖即ち本 癖ではあるまいか。また本といふからには中心にたる正しいものといふ意味も考へられる。上古以来の偉承史俸 に於て異倖異設が直 k たる中、最も正しいとして信頼さるペき史博が基本的奮酔である。との基本的奮酔即ち本 酔とも考へられる。そとで、根本的、と基本的と二様の見方の合韓したととろに本鮮があるのであるのでないかと 思ふのである。つまり本鮮は正しき上古の倖承即ち基本的神話といふ意味に解すべきだと思ふのである。さうだ 13 皇国精神主習見たる穆土教義の基本的構造 七
日 本 悌 致 事 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ ニ ニ 八 14 とすれば、本鮮といふ言葉は官然紳話の世界降就いて既に基本的たるものとしての謹揮乃至集成が存在したとと を前提として在る語であるととに注意して治かねばゑらね。か L る基本的紳話が常時﹁既達ニ正賓﹁多加ユ虚慌
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といふ欣態であったのである。との欣態を我 k は日本書紀神代傘から想像するととができる。従ってそとから 既に存在しもん筈の神話の選揮乃至集成の事賓を考察する手懸が得られるでもあらう。日本書記は一ニ十巻のうち傘 ア ル ア ミ 品 ク ア ル ユ ク 一・袋二雨傘を神代紀とする。そとでは本文に附随して、﹁一書日﹂或は﹁一一式﹂として多くの別惇・異設を拳 げてゐる。とれによって営時の古惇承の扶態を具韓的に知り得るであらう。そとでとの一書及び一が如何放るも のか検討されねばたらぬ。 一書或は一の引用は巻三以下の人皇の紀にも問 k あるけれども、特に著しいのは倉一・巻二の紳代紀に於てで、 一品費目は爾巻を通じて、二宮は第二翁に見える。一書日と一一冒とはいつもさういふ用字法をしてゐるので、一書 去、一日とした所は雨傘に無い。翁三以下に於ては﹁一書去﹂﹁二玄﹂﹁或本云﹂﹁一本一古屋サナペて一去を用ゐてゐ るが、巻三以下ではか L る引用部分は小書の割註であって、神代紀に於て本文と堂− R 屑を並べて別俸を出してゐ るのとは意味が建ふのであるから、同様に見るわけにはゆかぬ。との鞘﹄に閲する限り一脚代紀だけを根擦として考 へてよいと思ふ。とにかく紳代紀は日と云の使ひ分けをちゃんとしてゐるのである。目と一冒とは近似した意味の 文字であるが、日は重く一式は軽い。従って一書と一とは性質の相達、例へば軽重といふやうな相違をもってゐ売 と思はれる。賓際、一 K の内容に就いて見ると、天地開闘設を始め根幹的友神話は悉く一書であり、一は紳代記 末部に於ける枝葉的停承に於て敷保教へ得るばかりなのである。しかし爾者の相違は内容のみではたい。 南者の相違はその呼稽からいふと舎の有無であり、縫って雨者聞に記録といふ形式に関する何等かの相違があ一 4 且 闘 が 文 献 形 式 で あ っ た と と は 自 明 の と と と し て 、 一 書 との封比に於てとれを未記録の惇承と解するのが安官ではあるまいか。わが古停承は上古以来口調停承せられ、 ったと見なければなるまい。 一 は 何 で あ っ た で あ ら う 。 推古天皇の頃から記録時代に入つ売といふのが近来の遇設のゃうであるが、ゑほ一部に古来の風習を存置して口 諦停承するものが存したらうととは想像に難く友い。とれらの残存せる諸侍承が一の内容をたしたととと思はれ るのである。それに封して一警は書紀の編纂準備時代||同時に大韓古事記の準備時代でもるつ売||以前に於 て文献記録化され売古倖承でたければ−ならない。以前といふのはそれが準備時代に文献化されたといふのでは意 味を成さゑいからである。準備時代まで記録化されや偉はったものが一であったらうといったのである。大規模 友編纂事業に於て口調停承が記録化の過程を粧品 y 直接本文に筆録されるとは事務的にも考へ難いととである。 然らばとれらの一書が文献と怒ったのは何時であっ売か。果して近来の遁設の如く推古朝頃からであったらう か。またそれらが文献とたった理由は何であったらう。元来何れの園や民族に於ても上古の紳話は古くは口謂を 唯一の偉承手段とした。殊にわが園に於ては語部といふ惇承を職とする部族まであって、 口調停承が有力に行は れてゐたのである。かく有力に行はれてゐもん惇承が殆ど全く記録化されるには重大友理由がたくてはたら友い。 串者の中には記紀の史料について極端た記録設を主張する者もたいではたいが営を得た設とはいひ難い。記鎌論 者が事げるやうに、書組仁徳天皇四十一年の艇に百済の産物を記録せしめたとと、履仲天皇四年の僚に諸固に園 史を置き言事を記さしめたととたどがあるのは相営の古記録の存在を諜想させる資料とはならう。ま売書紀欽明 天皇二年の僚の註が信用されるかぎり、書紀編纂営時に、従って古事記撰録時代に、少くとも帝王本紀の古記録 15 は 存 在 し た と し ・ な け れ ば 怒 ら ね 。 しかし系譜的危帝紀の類よりも、諸 k の古偉承を内容とする本僻或は奮僻の方 長図精神より見たる海土教義の基本的構治 二 二 九
日 本 品 開 致 事 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 二 一 ユ O 16 が 問 題 訟 の で あ る 。 とのととからいへば賓用的た政務の記録たどは問題外放のである。つまり、今拳げもんやうた 資料や、記録法が長所に官み護謹をし売事たどを理由として、紳代のものを始め古偉承の大部分が早く記録に怒 ってゐ売といふのは根操が薄弱であり、見営蓮ひの意味もあるのである。 上古語部を有してゐもん圏情、後世まで語り事・謡ひ物たどに残存した民族的危諸性質、古事記にそれが語り物 であった形跡の残ってゐる賄等、口諦傍承の有力性を裏附ける事情は少くない。口語偉承は種 k なる意味で保守 的性質をもってゐ売。それ自身の存櫨に就いても閣情や民族性に根ざした強い生命をもってゐた。従って上古以 来の惇承が記録法の護達に伴って漸失記録化されて行ったといふやうには考へ難いのである。さういふ脆弱た性 質のものとは思はれたいのである。即ち倖承の記録化には特殊的危理由が往くては怒らたい。 然るに高人を承服せしめる客観性をもった特殊の理由の存在が果してそとに認められるであらうか。無論認め られるのである。推古朝から記録時代とする遇設も、だから存在するのだと私は考へる。しかしとの謹の事情に ついて積極的た主張をしもん皐設の存在は知ると左が出来怒い。思へば不思議た事賓である。いふまでもなくその 特殊の理由を形成するものは聖徳太子の天皇記園記以下御撰録の史置である。 とれが何故に偉承の記録化の理由 にたるかは書紀の﹁一﹂に於けると同様の理である。編纂の事務的手績としても停承の記録化が嘗然考へられたけ れば怒ら危いからである。 さてとのやう怒特別重大友理由をたすものは記紀以前に於て太子の御事業以外には絶封に考へられたいととろ である。従って、口諦停承の強靭性と記録化の理由の唯一性とが同時に働いて、書紀の多くの﹁一書﹂||書紀本 文もとの中に含めるべきである︸|ーを太子の御事業に殻する文献記録と限定するであらう。古事記の本鮮が基本
それは神話の世界に就いて既に基本的たるもの、としての濯捧乃至集成が存在したととを前 提とする語でたければ友らぬといふととを、と﹄で考へ合はすべきである。本鮮に既に虚慌誤偉が多かった扶態 と、書紀一書の直 k もんる昧態とは此魔に於て吻合し、直 k もんるそれらは倶に既に存在した基本的たる神話の窪揮 乃至集成から、或はその震に集められた史料から、出裂し売と考へられる。その紳話の謹揮乃室集成として既に 的 紳 話 の 意 に 解 さ れ 、 存在したのが墓徳太子の御事業であったといふととである。 太子御撰録の闇記が舶史恵尺によって取出されたととを想起しよう。それが撰録された推古天皇二十八年から 火災を菟れ先皇極天皇四年までが二十五年間、それが取出されてから川島皇子以下に園史編纂に闘する詔の下っ た天武天皇十年までが三十七年間である。園記の内容は前述の如く皇園の紳話を中心曹として考へられる。伎を思 ひ之を想へば、よしやその消息は史上に氷く絶ったとしても、我 k は現存の圏典古事記・日本書紀の紙背に現に その悌を偲ぶ事を得るといへるでもあらうか。若しも如上の観察に大怒る誤が無かった怒らば、記紀の紳代巻は 闘記或はそれの材料から出で売るものを史料としてそれを統一・集成したものであるから、記紀神代巻は一一聞に 於て失はれたる闘記への復原的文献として見られるのである。 以上のやう友見解は日本串的に重大ゑ意味をもたう B とするであらう。との事の畢的主張には、その重大性に鑑 み、一暦精細た考詮・立論を要求せられるであらう。しかし今はとれだけでも長くゑり過ぎたゃうである。最後 に古事記の史料と怒っ売ものが推古朝までしか含んでゐたかったと考へられる事賓を大韓山田博士の設に従って 補足的に謹ペてゐくに止めよう。 古事記が推古天皇紀で終ってゐるととは上表文にも明記してある事で、後世の亡失ではたいととが明瞭で
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る 。 17 皇 国 精 神 よ P 見たる浮土教義の基本的構造一
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日 本 悌 教 築 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶
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18 天武天皇の御代に撰録される筈でるった古事記が何故に推古天皇紀で終ってゐるのであらうか。古事記撰録の直 接材料は帝皇日櫨及び先代奮酔であった。然らば古事記が推古天皇紀で絡ってゐるのはそれらの史料が推古朝以 後の事を偉へないものでb
ったか、若しくは推古朝以後の事もあったがそれは採録したかったのか、二者以外の 場合は考へられたい。その後者の場合、推古天皇以後の史料が整ってゐたのにとれ左採録したかったーとすれば、 上表文の記事に明か友やうに方に減びん ξ してゐる貴重放忠料を、有ってもとれを採録したいのであるから、そ れは滅びてもよいとせられたといふととにたって、古停の亡失をも申惜しみになって採録の業を題された天武天皇 の御意志に反して不合理である。大韓、古事記に於て第二十四代仁賢天皇以後の記事は頗る簡単で、皇室の御系 譜皇居皇陵等を記しただけのものであるから、推古朝以後も史料さへ整ってゐたら容易に採録ができた筈と思は れる。それが採録されてゐないのである。それで結局、前者の、その史料は推古朝以後の事を含ま友かったもの といふ考へにたらざるを得たいのである。 概略的ではあつもんが以上の考察によって、記紀爾書ともに、太子園典撰録の御事業と密接伝闘係をもち、その 具韓的危影響の下に成立したものと見友ければ・ならぬと云った最初の提言が、金︿の抽象的観念でも友かったと いふととにたれば幸である。 かくて聖徳太子の惟紳思想史上にもが占めにたる真の地位が臆身的注意義を包容する理は自然明かにたったと恩 ふ。序にいへば、聖徳太子の園史上に長占めにたる地位もそとを根操としてあるべきではたからうか。 太子の御事業が若しも無かったとして、蒐集記録の開門をくピるととなしに放置せられたその後の惇承史料の 混胤・散供を懐想すれば、まととに園民として懐然たるものを費えない者はあるまい。太子時代に於て既に、捨てて置けば念速に偉承の世界が混乱して行くさういふ歴史的事情が、わが閣を訪れてゐ売のである。太子の御事 業がさうした危険を未然に防がれ売意味をもっととは勿論である。しかしさうした消極の面よりも一磨重大たと とは御事業の有する積極的友意義である。至塾を遁やる天壌無窮圏家の原理・理想端医師酬の事賓である。事徳太子 は二十八年に閣典を撰録せられ、翌二十九年二月麗ぜられてゐる。との事賓に就いて園民売る者はみた深き思ひ をたすべきであらう。塞に園典の撰録は太子畢生の御事業であったのである。あらゆる深く買き御素養に立つ至 塾の御見識は最後に撮って天壌無窮園家の永遠の園鶴・皇政の鴻基を徴表し給うたのである。寒に太子の御一生 はそのための御一生であったとも拝される。従来、白本製徒も太子研究者もとの至要の一鮪をとかく放置してゐ るのは、思はざるも甚しきものといはれねばたらぬ。すべからく我 K は接またい串的努力を媒介として、聖徳太 子の大精神を記紀の圏典、その含む紳話のうちに、皐寛寓邦無比の園瞳・車中政のうちに、永遠に脈 k 流れ生きる ものとして把握するととろまで進ま・なければたらないと思ふ。聖徳太子の皇闘思想史上に於ける御地位は現賓的 には晦漉せられてゐる。天皇記以下の焼失がもたらした晦躍である。太子の紳格が躍身を揮するその御地位を損 充間明せられるやうに、その悪徳を顕詮するのは、以て皇思に報い奉る園民の榊墓なる責務ではあるまいか。
五
紳
勅
と
本
願
天壌無窮の園樫の大原理、皇園統治の大本をた示しになった天照大神の紳勅、及び、 八紘震宇の皇閣の理想を 19 た一示しに・なうた紳武天皇創業の勅語に立場をとって、調陀の本願を観るとととする。 諸備を遇守る綿願より別して、阿捕陀悌業生救済の心は四十八僚の本願の誓立と怒り、 とれによヲて踊陀樺土 皇国精神より見たる浮土教義の基本的構造一
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日 本 偽 教 血 中 協 舎 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 二三四 20 の 性 格 も 決 定 さ れ る 。 神勅勅語が圏韓の額示であり統治の原理と理想の唱導である慮から見ると、本願は滞土の性格の定立であり救済 の原理と理想の表現である。従って紳勅より本願を見るととは、園健から博土の性格を、統治から救済を観察す るととによってその内容を得るであらう。 と も お で は 表 現 の 在 り 方 を 見 て た く に 止 め る 。 四十八願の願意は要約して揖法身、揖衆生、揖浮土の三に撮するととが出来るであらう。いふまでもたく、撮 浮土は園土巌揮であり、揖衆生は願玉繭陀の家生救済であり、揖法身は阿摘陀悌の光書無量の示しである。今と れらは紳勅の御言葉から大韓左の共第で観察されよう。 第 一 に 、 豊葦原の千五百秋の瑞穂の園は、 から踊陀滞土巌飾の表現売る揖樺土願を、第二に、 是れ吾が子孫の主党るべき地捻り。宜しく爾皇孫就きて治せ。 から願王鵡陀悌衆生救済の門事んる揖家生願を、第三に、 行実口費一昨の隆えまさむとと、営に天壌と窮りたかるべし。 から阿繭陀悌光需無量の言表売る揖法身願を観るのである。そとに至妙に照観される意義の鷲見が必ゃあるであ らう。即ち、紳勅といふ統一的形態に於ける皇闘精神は、よく、本願といふ細目的箇僚を遇やる宗教的理想の要 諦を包容する意味をもつのである。就中第二の場合に於て、園瞳から浮土の性格、統治から救済の照観があると 、 と を 注 意 す べ き で あ る 。
共に、四十八願中第十八願とそ浄土教諸抵の教義的根擦をたす所調王本顕である。今とれを勅語の八紘震宇の 御精神から観察する。 六 A 口を粂ねて以て都を聞き、八紘を掩ひて宇と矯む。 とれは紳武天皇肇閣の御意志であり、皇闘永遠の理想のゐ示しである。先住異種族の統一に成る紳武天皇の創 業がそれであり、外来文化揖取同化の園史がそれの現はれであり、東亜共柴圏確立の事業もま売それの現はれで あらう。概言して、震宇の内容は大和にあるといへょうか。その場合、八紘矯宇は永遠の人類世界大和賞現を以 てその内容とする統治の御意志剖ち墓園の理想といふととに怒るであらう。 してみれば、十方の衆生をして必や悉く我が闘に生を享けしめるといふ第十八願文の趣旨は、まさに皇園の理 想に的臆する意義を有するものといはねば怒らぬ。十八願には﹁至心信柴:::乃至十念﹂といふ賓践的友説示があ るが、救慣の根因は如来大悲の本願力にとれを見なければたらぬ。それが浮土教の建て前であらう。願は卸ち意 士 山 と 理 想 の 宗 教 的 表 現 に 他 た ら ゑ い 。 序にいへば、十八願には﹁唯除五逆誹詩正法﹂の文があるが、とれも、大和賓現の前提的存在、売る葛藤といふ 事賓から見れば、寧ろその徴妙怒る封照に懐然たるものを費えさせられるでもあらう。紳勅に於ける統治の封象 が常に金韓的であるのに封して、本願に於ける救済の封象は個人的である。従ってとれが葛藤、不救済||爾者 とも一醸の存在ではある
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現れてもやはりさうたる。との相遣は統治と救済乃至政治 L ι 宗教の特性に蹄蒼ナ る で あ ら う 。 21 墓園精神よ P 見たる浮土教義の基本的構議 二三五日 本 悌 教 準 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶
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天照大紳の御日嗣の天皇は寓民を統治し給ふ。統治は園家的、宗教的事賓である。 阿摘陀備と衆生との閥係は救済といふ宗教的、教圏的事責である。その救済は掃取といふ言葉で表現せられ、 それは如来大悲の茸現としての衆生の浮土往生を意味する。 治 ま む た か ら 然るに統治は、肇園の勅語により、一刀元を鎮むるととろの、上乾徳に答へ、下皇孫養玉之心を弘むる道であ る。即ち統治は大紳の紳徳の賓現であり、天皇養正之御心の弘穫であるととろの園民の鎮まる生である。そと で園民的生から帯土往生を観察するととが要賠である。しかしそのためには先づ浮土が見ちれ泣ければたらねの で、とれは項を改めて述べるとととする。 統治と救済の封象が、金躍的であり、個人的であるといふととは、皐寛それらの働きの全から個へ、個から全 への働きの動きの何れの側に於て封象が把握されるかといふととで、そとに政治と宗教の働ま方の相違が見られ るわけである。しかしさうはいつでも、政治と宗教とは究極に於ては一轄の本質左もつ。とのととは我が惟紳の 遣に於て最も明瞭であり祭政一致といふ言表をもつわけである。現神売る天皇の寓民統治の大業を﹁まつり﹂と申 上げる。臣下がとの大業を翼賛し奉るのが﹁まつりごと﹂である。剖ち、 天皇は園民をまつらせ給ふので、とれにより、寓民みたその緒につき、皇閣の民として鎮まる生、無私なる生 を得るのであって、救済の本質はと L に揖せられ、統治は園家的救済の謂と怒る。 民の政治と生ける宗教とは済しく人類生命の鎮めである。根源的友一つのものの上に立つ文化のご方向である。養正の道売る政治に於て正しさが、神・如来への道売る宗教に於て聖らかさが常に道とともに在り、その道を遍 ︿ 照 す で あ ら う 。
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浮土教義に於ける博士設 b L いま簡単に便宜的に分析すると、竪に三土の別があり、横に、方相説的立場、本質 論的立場、調和的立場の三を拳げるととが出来る。 最初に、願王阿摘陀備が報身悌として存在するからには、その滞土が功徳成就の報土たるべきは理の営然であ る。宗義によってとの鮪に明瞭・不明瞭の差があっても、それは本質的友意味をもたらさ友いであらう。 ・次に方相設的立場とは、所謂指方立相に於ける揮土設の立場で、 る 形 質 的 世 界 で あ る 。 と 4 A に於て静土は西方十寓億の悌土を過信 C 売 本質論的立場とは浬撲界を以て鵡陀浮土の真相とする如き立場をいひ、調和的立場とは、方相論と本質論を師 一ずる立場であり、賓存の博土設は、爾極聞の奈謹にその部一的立脚地を置くかは別として、何れもみなとの立 場にあるといってよいであらう。 前述のやうに、わが園韓は紳勅にその根本的原理を見、持土の性格は本願によってその大本を定立されてある 筈である。然らば、揖浄土願によって徴妙に巌飾され売浮土は、揖衆生願により如来大悲の救済界であり、揖法 身願により光書無量の如来界であり、第十八願により十方の衆生を念伸に臆じて享生せしむる大和的理想をもっ た生命界である筈である。 23 皇圏精神より見たる崎市土教義の基本的構法 七日 本 悌 教 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 24 ニ三八 右に於ける限り
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念伸のもつ関係を別にして||わが瑞穂圏天皇の統治園であり、天壌無窮の紳圏であり 八紘篇宇を理想にもつ現賓生命園家である事賓からそのま L 照観されて、若しもその或一黙が同一睡である怒ら ば、さながらに全鰹が一轄であるべき性格を具へてゐるといはねばならね。 三土は三身に封臆する静土である。三身は、然るに、印一であった。三土もまた嘗然郎一性のもので怠ければ ならたい。しかし賓際に於てそのととが明瞭になってゐるであらうか。どうも三身郎一段ど無碍には行はれてゐ た い や う に 恩 は れ る 。 皇園は永遠に御日嗣の天皇の統治し給ふととろの、天照大紳の御功徳成就の闇家であり、とれが本来真理の紳 格天之御中主紳 K 開闘せられた天地に於てあるのであり、同時にそれらのととを昭観せられた聖徳太子、それら のとと在徴表する記紀の紳典を有する現賓園家であるのであるから、一ニ土の意義の如きは同時一韓に揖せられて ゐるのである。塞に至深至妙に成立せる三土即一包容の園家観ともいふベく、 その問萱暑の際も存したいのであ る。
滞土教義に於て三土郎一が三身印一一ほど無碍に行はれてゐないとすると、その理由が考へられねば怒るまい。 横の浮土観を見てみよう。 横の静土観といっても、調和設は雨極に依るものであるから、今は爾極の立場が考へられればよく、南極の立 場といっても、本質論を喋 k する必要はたいであらう。要は方相説的立場の如何にある。 指方立相的滞土説はその具象性の故に衆生の信の封境の説示として偉統的な強みをもっ。然るにとの立場に於 ける設一不が此土から隔給した他土、同時に死後享生の世界、としての固定的友博土の受容を成立せしめるととはいふまでもない。かく受容されたる静土は明かに三土印一一観に矛盾を将来するものである。 と の と と が 印 一 一 観 の 完成を妨げる主放理由として考へられよう。 また浮土は通じて機土に封ナる語である。此土を横土と見る場合、それを本質的には静土即ち臆土とする地盤 にしっかり立ってゐない限り、勢ひ浮土は他土的のものとたる。とのととも即一観を妨げてゐょう。 そのやうた現賞否定の行き方は皇園の道に見出せないものである。うまし圏、秋津島大和園は無始無終の時間 昼間を常に現賓に内包する中今の園であり、常に八紘矯宇への進みであるが故に不断に大和闘であり、天壊と 無窮友のである。そ乙に園民の鎮まる生がある。とれはさたがらに浬繋的世界といへたいであらうか。そとでは 謹み行くものに封ずる不断の肯定を以て現置が観ぜられる。従ってそとに他国的友皇園の思想の片鱗ずら現はれ る 払 跡 地 が ・ な い の で あ る 。 人は或はいふかも知れない、高天原は如何と。中には西方滞土を高天原に擬さうとする人もあるかも知れたい。 本営は、とれは全く遠ふのである。西方浄土的た既成観念で高天原注見るからそれを西方浮土ーと封照できる世界 の如く感やるだけのととである。しかし一臆述べて会く。 前述の如く本来わが園は宇宙真理の紳格天之御中主紳の開聞せられた天と地に於て在る園たのである。高天原 とはその天に他たらない。そとに在る闘であるから皇闘が法性土的意義を包容するのである。高天原は論理的に は原理的世界である。根一冗紳が時間・空間とともに直観せられてゐるととでも知られるやうに日本紳話に於ては 時空の観念が顕著である。昼間的定立たる高天原に於ける時間的系列として皇圏紳話は語られる。昼間と時間ム﹂ 25 は現象の舞肇である。高天原は無始無終、その懐に皇園日本を抱いて横たはる原理的世界である。 皐図精神より見たる穆土教義基本的の構造 一 一 三 九
日 本 品 開 致 事 協 舎 年 報 ︿ 第 十 = 一 年 ︶ 二 四 O 26 高天原は存在論的には根源的世界である。高天原に天照大榊が主紳’としてましまし、八百高の紳 K がいますの は、大八訓園統治の根源として在るのである。御日嗣の治しめす大八測園とそ、大紳の御功徳成就の園であり、 御目的であり御理想である。高天原のあらゆるカはすべて皇園大八酬へと向けられる。とれを静土教的術語でい へばすべてとれ還相の姿友のである。高天原は皇園の根源的世界である。 法戴菩薩の誓願によって建立され売西方浮土は、論理的には果報界・理想界であり、存在論的には往生界・目 的界である。高天原からは寧ろ封昧的方向にあるものである。 試みに皇園の思想的構成の様式を浮土設にあてはめてみるとその在り方の相違がわかり易い便宜があらう。す ると、滞土は阿繭陀悌救済の領域即ち教圏であり、それの無限的性格を本願によって附輿さる L 三土即一、現賓 邸浬繋的目的世界でたければたらぬ。かくあるとき、西方世界は原理的・根源的世界売り得るであらう。
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忠 と 信 、 業 と 行 衆生の静土往生の契機として信及び行がある。とれから見ると、園民的生の植機として忠及び業がある。 忠は天皇を中心とし奉り、天皇に絶封随順する道である。絶封随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に 奉 仕 す る と と で あ る 。 ︵ 園 慢 の 本 義 ︶ とれによって忠が、従って忠と信の閥係がわかると恩ふ。忠と信とは異質的危精神活動ではたい。天皇左中心 とし奉る絶封の信が忠である。忠は信の絶封的形態である。 博士教義に於ける行は念悌である。念備は稀名としてのそれである。念悌は救済の保件では友い。如来大悲の故に僚件の設定はあるわけがたい。それは大悲に照され生きる衆生が、そのととに於て浮土往生する正しい行で ある主張をもっ。天皇の御稜威の下に生きる圏民が、そのととに於て園民的生を生きる正しい行震は業務である。 念悌は如来大悲の揖取への呼臆でもあり、光害無量の如来界へ蹄入する永生的行でもある。業務はそのま L 大 政の翼賛であり、園家の無窮大和的護展への有機的参奥としてそれに蹄入する永生的行である。 忠が閤民生活の精神的中心であるに比し信は教徒的生活のそれである。業と行もまた同様の行矯的関係にある。 従って忠と信、業と行の存在の意義は、闘民と教徒との在り方に係ってゐるといはねばならぬ。