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禅研究所紀要 第31号 007長谷部幽蹊「『續燈正統』と聚雲法門〔Ⅰ〕」

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ 序 説 明 清 仏 教 界の 動 向 遠く 南 北 朝、 漢 土に 根をおろし、 唐 代に 至って 根 幹を 強 固ならしめ、 宋 代に 枝を 分かち、 五・ 七の 広 葉を 四 方に 繁 茂せしめた 禅の 一 宗は、 元 代 以 降 頓に 衰 頽の 一 途を 辿るこ とにな っ たとみら れている 。 学 者は 夙に 元・ 明・ 清の 三 代 を 目して 禅 宗 衰 微の 時 代と 呼んだ 。その 頽 勢が 云々さ れる 理 由の 一として、しばしば 禅 浄 習 合 的 傾 向が 助 長され た 点 が 挙げら れている が、そ れ 自 体は 寧ら 禅に 内 在したものの 発 現として、 またある 種の 歴 史 的 必 然 性を 伴った 宗 教 思 想、 及び 実 践 形 態の 変 成ないし 転 換と 見ることができ るもので あり、これを 以て 直ちに 衰 頽と 決め 付ける 見 方には 遽かに 賛 同しかね る が、 仮に 唐 代まで を 醇 平として 純なる 禅── ただ 実 際には 浄 土 門 的 要 素は 早くから 混 在していた──が 行われ た 時 代とすれば、 相 対 的に 元 代 以 降は、 確かに 変 衰 期と 呼ばれ て 然るべき 様 相を 呈しており、 隆 盛 期のそ れに 見られ るよ う な 淳 朴さや 創 造 性に 乏しく、 禅 匠 達も 自 由 闊 達にして 清 新なる 気 宇を 喪 失しているという 印 象は 拭い 去 ることができない。 禅 浄 習 合の 問 題は 暫く 措き、 学 人が 弁 道 修 行に 精 励し、 宗 師 家が 全 身 全 霊を 挙して 第 一 義 諦の 挙 揚に 専 念している か 否かを 価 値 判 断の 一 応の 基 準とし、 そ の 程 度の 如 何によっ て 時 代 区 分を 試みるとしても、 元 代 以 降につ い て は 、 やは り 衰 頽 期である こ と を 容 認しなければなるまい。

〔Ⅰ〕

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) しかしなが ら われ われは 、 思 想 実 践に 関わる 面ないし 教 学 史 的 事 実と、これを 担う 人 的 集 団 組 織ならびに 対 社 会 的 活 動の 面、 教 団 史 的 現 象とを 一 応 区 別して 考える 必 要があ る。 教 団 史 的 視 点に 立って 見れば 、こ れらの 時 代を 変 衰 期 ( 1 ) とする 評は、 仔 細に 観る 時 隆 替 消 長はある と しても 全 面 的 に 当るとは い い 難い。 特に 明 代の 末 葉 近くに 至り、 復 興の 萌しを 見せつ つ あ っ た 禅 門 諸 流では、そ れぞ れ 多 数の 嗣 法 者を 生み 出して 宗 勢の 伸 展を 策し、また 律 学を 復 興し、 併 せて 禅の 伝 灯を 継 承しようとす る 者が 現れて 、 教 団の 発 展 拡 大に 力め、その 社 会 的 影 響 力は 軽 視できぬもの が あ っ た と み られ るか らで あ る 。 そしてその 事は、 例えば 明 末から 清 初にかけ、つ と め て 嗣 法 者の 数の 増 大を 抑 制し、 乱 統を 戒めている 曹 洞 宗にお いても、 三 宜 盂 下に 二 十 五 師、 瑞 白 雪 下には 三 十 五 名に 上 る 嗣 法 者を 出だし、 臨 濟の 一 宗では、 密 雲 悟の 十 三、 萬 如 微の 三 十 三は 寧ろ 少 数の 部に 属し、 牧 雲 問 下に 四 十 八、 費 隱 容 五 十、 浮 石 賢 五 十 九、 破 山 明 六 十 九、 退 翁 儲と 木 陳 忞 下の 嗣 法 者は、そ れぞ れ 八 十 一、 八 十 二 師の 多きを 数えた とい った 事 実から 窺い 知られ るので あ る ( 2 ) 。そ れら 諸 師が 各 地に 化 門を 開いていた 訳である か ら 、 少なくとも 教 団の 規 模という 点からすれば、 禅の 盛 期に 比して 決して 遜 色がな いといえる で あろう。しかしな がら 教 団の 勢 力 拡 大という 動きに は、 付 随して 世 俗 的 要 素の 混 入が 伴うの が 常であ り 、 各 派の 勢 力 争いに よって 世に 醜 態を 曝すといった 事 例も 少 なからず 見られ るが ( 3 ) 、 宗 教 集 団としてのまとまり、 結 束 力 は 以 前にも 増して 強 固となり 、 師 弟およ び 同 門 同 志の 連が りは 、よ り 緊 密とな ったかの ようである 。 別の 所で 触れた ことで あ るが 、 授 戒をめぐ る 戒 師と 戒 弟との 間 柄は、 法の 授 受と 絡んで 二 重 三 重に、 関 係 連 鎖の 環を 強 化し 増 幅する に 至ったもの である 。 こうした 状 況を 考 慮に 入れて、 教 学 思 想 史 的 観 点から 、 元 代 以 降を 変 衰 期に 含めな がら 、 宗 派 勢 力の 胎 頭 著しい 明 末 清 初の 一 時 期を、 別に 宗 派 再 編 成 期として 特 色づけて 把 えるのが 適 当である と 思うの である 。 そ う するこ と に よ っ て、これ らの 時 期に 関するさ ま ざまな 事 象が、 比 較 的 容 易 に 解 釈し 整 理するこ と が 可 能になるからで ある。ここに 取 り 挙げた 聚 雲 一 門も、 こう した 動きの 一 部を 構 成するもの である こ と は 疑いない。

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ それ まで の 中 国 仏 教 界には 、 今 日われ われが 宗 派という 言 葉を 耳にす る 時、 心 内に 表 象する ような 意 味 内 容を 具 有 する 宗 教 集 団 組 織は 存 在しなかったといって よ い ( 4 ) 。 無 論 五 家 七 宗といわれる よ うな 宗 派らしきものを 表わす 称 呼は 早 くから 文 書に 見られ るが 、 そ こにいう 宗は、 少なくとも 近 世 以 降におけるわが 国のそ れのように、 互いに 他と 截 然 区 別し 得るよ う な 独 立した 人 的 集 団、 教 化の 組 織 体であ った とは いい 難い。それは 構 造 的に 有 学の 宗 師 家 個 人を 中 心に 成 立し、その 死によ っ て 解 消する 場 合が 多く、 多 分に 浮 動 的な 性 格を 帯び た もので あ っ た と み られ るか らで あ る 。 未 詳 法 嗣の 属に 編 入され て い る 宗 師はこの 類いで あろう 。 ところ で 明 代の 中 期 以 降、いわゆる 中 衰 期と 呼ばれ る 一 時 期を 経 過する 間、 嘉 靖 中の 仏 法 沙 汰の 影 響もあって、 各 派ともに 伝 灯 相 承の 次 第さえ 分 明ならぬほど 委 微 衰 頽した が、 明 末から 清 初にかけて 禅 門の 復 興を 策した 宗 師 家 達が、 宗 派の 源 流を 探り、 宗 統 頌や 源 流 頌を 述 作して 門 人に 付 与 し、 対 外 的には 、 宗 派 圖、 世 譜、 燈 録 等を 編 纂して、そ れ ぞれ 自 宗の 旗 幟を 闡 明ならしめ ることに 努めた。 そ の 結 果、 一 方において 法 系、 師 承を 同じくす る 法 侶 相 互の 連がり が 顧 慮せられ、 自 宗 他 宗の 別が 明 瞭に 意 識せられ る ようにな り、 嗣 法 者の 数 的 増 大に 伴って 組 織 化の 動きが 促 進され る と 共に、 法 系を 異にす る 幾つかの 法 流が 発 展を 見た。そし てその 過 程において、 所 伝に 不 明 確な 点がな し た こ と も 一 因とな って 異 論が 生じ、 燈 録の 纂 輯 公 刊を 契 機としてそ れ が 表 面 化し、 宗 派 間に 紛 争が 惹き 起こさ れ る に 至ったの で ある。 いま 一 例を 挙げれ ば、これらの 時 期 以 前に、 一 旦 提 起さ れてい な が ら 、さ ほ ど 大きな 論 議を 呼ぶこと が な か っ た 、 天 皇・ 天 王 両 道 悟の 存 在や、 雲 門・ 法 眼 両 宗の 帰 属をめぐ る 問 題 等が 大きく 前 面に 浮 上し 来って 、 洞 濟 両 宗の 間で 激 論が 交わさ れたこ と が 知られ るが 、 他に 破 山、 吹 萬、 燕 居、 雲 腹、 山 暉 等、 諸 師の 間に 闘わさ れた 論 争などを 挙げる こ とができ る。 これ に 関 連して 陳 垣 氏は、その 著『 清 初 僧 諍 記』 において 明 末 清 初には 宗 義 学 説をめぐっ ての 法 論は 少 なく、 世 俗の 事に 亘る、 門 戸 派 系に 関わる 軋 轢、いわゆる 意 気 勢 力の 争いが 多いことを 指 摘しておられ る 。 こう した 事 実からわれ われは 、 明 清 時 代 以 降の 禅を 究 明 する 場 合、こ れに 先 行する 時 期のそ れとは 評 価の 尺 度を 改

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) める 必 要がある と 思うの であり 、 研 究の 方 法 論に つ いても 再 検 討の 要があ る と い わ な け れ ば な ら な い 。 と い う の は 、 第 一 義 諦に 関すること が 中 心 課 題である の は 自 明であ るが 、 ただそ れだけでなく、 教 団 史 的 事 実にも 注 目し、 権 力 闘 争 に 絡む 政 治 史 的 視 点をも 含めた、 一 般 社 会 事 象の 研 究 法を 加 味して 考えることによって、 全 体 像が 露わとなり、 宗 教 史 的 研 究が 完 結に 導かれ ること に なる ( 5 ) 。 清 初に 当り、 禅 門 諸 流によ る 宗 勢 伸 張の 経 緯と、 伝 灯に 関わる 諍 論の 帰 趨に 注 目しつつ 、 新たに 一 灯を 掲げ 教 界に 明 輝を 添え、 聚 雲 法 門の 存 在を 世に 知らしめたのは、 吹 萬 の 法 孫 別 庵 性 統である 。 一 聚 雲 法 門とその 伝 灯 1 『 續 燈 正 統』 の 編 述の 意 図 明の 世 宗( 一 五 二 一 - 一 五 六 六 在 位) の 治 世に 沙 汰を 蒙っ て、 凡そ 三 十 二 年 間に 亘り 表 立つた 活 動が 一 時 停 息を 余 儀 なくされ ていた ( 6 ) 仏 教の 諸 宗は、 逼 塞した 状 況の 中にあって も 僅かに 法 灯を 相 続し、 一 縷の 命 脈を 保ったものの 如くで ある。 次いで 隆 慶から 萬 暦にかけて、 徐々に 復 興の 動きが みられ る ようになったが、とくに 明 末から 清 初にかけて 江 南に 化を 盛んに した 禅 門 諸 流とは 別に、 西 蜀およ び 華 南の 、 粤、 黔、 とい った 地 域にも 教 線の 著しい 伸 張を 見る に 至った。 前 述の 如く 禅 門の 各 派は、 嘉 靖 以 降 法 統は 懸 糸に 喩えら れている ように 、 宗 統の 源 由、 相 承の 次 第に 明 確を 欠く 向 きが 生じた。かくして 明 末から 清 初にかけて、 憂 法の 宗 師 達が 八 方 奔 走して 資 料を 蒐 集し、 法 脈 相 継の 経 緯を 明かす べく 源 流、 宗 派 圖、 伝 灯の 譜 等を 編 述し、 公 刊する 動きが 相 次いだ。その 間、 系 属や 世 代 表 記の 仕 方に 不 同 齟 齬を 来 たす こ と が あ り 、 これ らの 点をめ ぐ っ て 諍 論を 醸すに 至 った ( 7 ) 。けだし 明 清の 間に 編 纂され た 燈 録の 記 述は、 何れも 大 同 小 異で、この 分 野において 先 駆 者の 役 割を 果たした 一 部の 学 匠や、 綿 密な 考 証を 試みよ う と した 宗 史 家を 除き、 編 者が 現 地に 赴いて 碑 銘を 確 認し、 語 録の 諸 版 本に 当って 編 述をするというの は 寧ろ 稀な 例 外である と さ え いえ る の であ って 、 大 部 分は 先 行する 灯 録の 記する ところ を その ま ま 承けたもの であり、こ れ に 若 干 補 足ないし 取 捨 選 択をし て 修 訂を 施したり、 単に 編 成を 変えた 程 度でも 別 個の 書と

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ して 刊 行され て い るよ う な 例も 少なしとしない ( 8 ) 。 明 末 以 降における 密 雲 系 諸 派によ る 演 派の 動きに 大きく 遅れをとったものの、 聚 雲 一 門の 伝 灯を 初めて 完 斉な 形に まとめ 上げ、 灯 録として 世に 送り 出したのは 別 庵 性 統( 一 六 六 一 - 一 七 一 七) である 。 別 庵の 手に 成る 『 續 燈 正 統』 は、 五 燈 録に 続くものとして ( 9 ) 、 聚 雲 法 門の 正 統 性の 根 拠を 内 外に 明 示しようとした もので あ り、 同 時に 以 下に 述べる ようなこの 一 統の 独 自な 主 張を 含んで いる ( ) 。 因みにこの 書 には 、 白 巖 淨 符の 『 祖 燈 大 統』 の 記に 拠ったと 思われ る 節 が 多 分に 認めら れ る 。しかしな がら 淨 符が、その 全 精 力を 傾 注して 解 明に 力を 致し、 広く 世に 訴えよ う と し た 濟 家の 二 世、 洞 門の 五 世を 刪 去する 新 説は 採らず、この 点につ い ては 従 来と 同 様の 系 譜を 樹てている ( ) 。ただ 性 統は 淨 符の 説 に 対し、 積 極 的に 異を 唱え よ うとしたわけではなく、 寧ろ 一 部これ を 肯っていた よう である 。 しかし 敢えて 採ること もしなかったのは、 大 統が 濟 家のみならず 同じ 洞 門の 学 匠 達によ っ て も 手 厳しく 批 判され 、 非 難の 的とな ったいわば 曰くつ き の 書であ り 、 淨 符 一 門の 諸 師が、その 後も 証 拠を 挙げて 極 力 弁 明し 立 証に 力めたものの、 未だ 世に 受け 入れ られ るには 至っていなかったからで あろう ( ) 。 性 統には 別に 期する ところ が あ っ たから、 当 時の 教 界に 依 然として 強 力 な 主 導 権を 有していた 虎 丘の 一 門を 刺 戟して、 無 用の 軋 轢 を 生ずるの は 避ける べきこ と であり 、 また の 周 辺に 隠 然 たる 勢 力を 有した 鼓 山 一 派の 反 感を 買うのも 、 この 際 好ま しいことではないと 判 断したためで あ ると 考えられ る 。『 續 燈 正 統』 は、 徑 山 下は 曹 溪 第 三 十 一 世、 虎 丘 派につ い て は 、 曹 溪 第 三 十 五 世、 洞 宗は 第 三 十 七 世を 以てそ れぞれ 筆を 止 めている が ( ) 、そ れら が 法 源を 同じくして 各々 派を 分ちな が ら、 僅か 十 世 紀 足らずの 間に、たと え 一 世 代に 長 短の 差を 生じ、 延 促 等しからざるところ ( ) があ った とし ても 、 一は 四 世 代、 他は 六 世 代と 大きな 間 隔が 見られるの は 不 自 然で、 世 系 展 開 上、 不 均 衡が 甚だしいといわざるを 得ない。こう した 事 実に 気 付いた 者が、 旧 説に 不 審を 抱いたとしても 無 理からぬことであろう。 性 統 自 身も 初めこの 点に 注 目して 新 説をとったと 思われ る。 清 代 順 治 中から 康 煕の 初 頭にかけて、 禅 宗 教 団の 内 部で は、 法 系に 関する 問 題をめぐっ て 甲 論 乙 駁、 議 論の 沸 騰を 見たが 、こ れよ りやや 遅れて 江 南 仏 教 界に 登 場した 性 統は、

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) 双 方の 主 張、 諍 論の 由 来 経 緯 等を 知 悉していたはずであり ( ) 、 師の 炯 眼を 以てすれ ば 、 事の 理 非 曲 直は 見 極め 得たは ずで あるし、また 師は 冷 静に 客 観 的に 判 断できる 立 場にあった と 思われ る。 然るに 性 統は、 敢えて 真 実を 直 視するの を 避 けようとしたかに 見うけら れ る 節がある 。 康 煕 二 十 五 年( 一 六 八 六) 性 統は 西 蜀を 後にし、 江 浙の 地に 来 至して 南 海 普 陀に 入り( ) 、 二 十 六 年 法 雨 寺に 晋 住し、 康 煕 帝や 政 界の 要 人に 敬 重せられ、 以 後ここに 化を 盛んに した。 こ の 時 点での 別 庵 東 来の 意 図は、 そもそも 奈 辺にあっ たの であろうか。そ れ は 先 師 高 峰の 遺 命によ り、 聚 雲の 禅 風を 広く 江 南の 地に 播 殖し、 妙 喜の 宗 風を 紹ぐ 正 統 派とし ての 確 立することにあったと 考えられ る ので ある。 聚 雲の 児 孫は 当 時すで に 西 蜀、 く に そ の 東 部に 遍ねく ( ) 、 その 法 化は 拡 張の 一 途を 辿りつ つ あ っ た もの の、 如 何せん その 宗 勢は 中 土の 西 辺の 一 隅に 局 限され て お り、 密 雲 一 流 の 化の 盛 昌なるに 遠く 及ばぬ 状 況であ った ( ) 。 南 海 普 陀は 三 大 霊 山の 一に 数えられ る 観 世 音 菩 薩 応 化の 霊 場として 名 高 く、しかも 密 雲 法 派の 化が 及んで いないという 点でも 新 興 勢 力が 進 出する 恰 好の 条 件を 具えていた。この 地に 法 幢を 掲げるこ と は 満 天 下の 注 目を 集めるこ と になる の は 必 定で、 この 選 択は 別 庵の 炯 眼、 先 見の 明の 力らしめる とこ ろ で あっ たといってよい。この 一 門は、 早くから 東 進の 機 会を 窺っ ていたとみられ る 節がある ( ) 。も と よ り 聚 雲の 一 派は 徑 山の 末 流たることを 自 任していたの で ある が、 新たに 虎 丘 派の 本 拠 近くに 宗 旨を 建 立す るため には 、まず 法 灯 相 続の 縁 由 を 述べて、 徑 山の 嫡 流である と 主 張している 根 拠を 明らか にしなけれ ば ならなかった ( ) 。 その 事はす でに 在 蜀の 一 門の 宗 匠 達が 共に 力を 致したと ころ で も あ っ た ( ) 。 別 庵も 一 門の 期 待を 背 負って 東 来してよ り 僅か 数 年の 間に、 大 部の 灯 録を 修 撰して 能く 先 師の 遺 嘱 を 果たし、 法 乳の 恩に 酬いたので あった ( ) 。 別 庵 性 統によ る 『 續 燈 正 統』 編 述の 動 機は、 偏えに 聚 雲 法 門の 源 流と 師 承の 次 第を 明らかにし、 徑 山の 正 統を 称す る 所 以を 立 証し、 文 詞を 鏤 刻して 入 蔵して 流 布せしめ、 天 下に 広く 一 門の 存 在を 認 知させることにあった。 従って 他 宗 派の 法 統の 真 正 性の 詮 索など、 当 面の 関 心 事ではなかっ たから、しばらく 禅 門 諸 派が 従 来 認 証して 来た 説に 則って 立 説し、 無 用の 論 議を 醸すのを 避け、 在 地 勢 力と 友 好 的 関

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ 係を 保 持するのに つとめたもの とみら れ るの である 。 よっ て 例えば 『 祖 燈 大 統』 に 含まれ る 長 所は 取り 入れてこ れ を 生かし ( ) 、 世 系に 関して は、 洞・ 濟 両 宗ともに 旧に 依り、 屡々 繰り 返され た 諍 論の 経 緯に 鑑みて、 世 代 数の 表 記 法につ い ても 大 鑑 一 支のそ れを 採るなど 無 難な 方 法を 選び、 概ね 従 来の 叙 述 編 録の 方 式を 踏 襲し、また 政 界の 要 人にも 縁を 求 めて 序を 請い、 聚 雲 一 門の 法 灯の 由 来 伝 承に 拠あることを 一 言せしめて 傍 証としている ( ) 。この よ うに 師は 極めて 慎 重 に、 且つ 周 到な 配 慮を 以てこの 書の 編 纂 印 行の 事に 当った ことが 知られ るので あ る。 2 教 界における 『 續 燈 正 統』 の 位 置づけ 明 末 以 降、 西 蜀 一 円の 地に 化を 盛んに したの は 破 山 海 明 ( 一 五 九 七 - 一 六 六 六) と 吹 萬 廣 眞( 一 五 八 二 - 一 六 三 九) の 法 流であ る 。 こ の 両 師はほ ぼ 時を 同じく し て 世に 現れ、 道 誉 等 比し、 教 界での 声 価は 互いに 拮 抗する 関 係にあった ( ) 。 破 山と 同 門の 浮 石 通 賢の 嗣 山 暉 行 澣( 一 六 二 一 - 一 六 八 七) は、 丈 雪 通 醉に 復する 書 中において 聚 雲 吹 萬が 自らを 大 慧 の 的 裔に 位 置づけ、また 吹 萬 集に 十 八 人が 上 堂して 大 慧に 連がら んこ と 願い、また 崇 禎 十 三 年 中に 目にしたという 一 集に 六 代を 偽 作した 記を 取り 挙げ、 道 統を 乱るものとして 難じて い る ( ) 。こ れ に 対し 燕 居 德 申( 一 六 一〇 - 一 六 七 八) は、 破 山 下であ り な がら 吹 萬に 袒いで 雲 腹 道 智( 一 六 一 三 - 一 六 七 三) を 排した。そこで 山 暉は 書を 各 方に 致し 燕 居 を 声 討する 等のことが あったが、 雲 腹は 燕 居に 一 矢を 酬い るこ ともな か ったとさ れている ( ) 。やや 遅れて 康 煕 三 年に 山 翁 道 忞の 嗣 自 融 等が 編 述した 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寶 傳』 は、 巻 末に 吹 萬の 伝を 収めて 拾 遺としている。そこに は 、 吹 萬 に 関して、 師は 萬 暦の 間に 出 世したが、 時まさに 禅 門の 再 興 期に 当り、 天 啓から 崇 禎にかけて、これ ら 巨 匠は 相 互に 書 簡を 往 来するこ と あるも 大 慧の 一 流に 言 及され て い な い の は、そ れぞ れ 己が 宗 風を 闡 揚するの を 急 務としていたと ころから、 之を 軽 重する 暇が な かったからで あろう、と 述 べている ( ) 。また 共 編 者の 性 磊は、 康 煕 二 十 五 年、 天 童 封 龕 の 事を 為し、 四 明を 経、 壽 昌 禪 林を 過ぎつ て 旧を 訪い、 吹 萬の 玄 孫 別 庵に 遇い、 始めて 廣 眞 下 三 代の 全 録につ い て 委 細を 知った。よってこ れ が 補 伝を 為さざるを 得ない。で な けれ ば 闕 典の 責めを 負うことになる、といった 趣 旨のこと を 述べている 。 聚 雲 法 門が 少しく 世に 受け 容れら れつつあ

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) る 情 況が 察せられ る 。しかし 丈 雪 通 醉( 一 六 一〇 - 一 六 九 三) は 蜀 地の 禅の 伝 灯を 叙した 『 錦 江 禪 燈』 において、 敢 えて 吹 萬 一 門の 法 統を 採 録するこ と をして い ないの で あ る 。 本 録の 再 刊に 先 立って 別 庵は 『 續 燈 正 統』 を 編 述し、 後に 嘉 興 蔵に 付して 印 行するのこ と が あ っ た。この 事は 聚 雲 一 門が 教 界に 確 固たる 地 歩を 築き 上げつつ あ ったことを 裏 書 きする 事 実といえる であろ う 。 因みに 本 録は、 大 鑑 下 第 十 六 世から 筆を 起こし、 巻 首に 昭 覺 勤の 法 嗣として、 徑 山 宗 杲、 虎 丘 紹 隆 両 師の 伝を 収め ている。 凡 例には 「 續 燈 仍 舊 名 也」 とある が 、 構 成の 上か らみると、 『 五 燈 會 元』『 續 傳 燈 録』『 増 集 續 傳 燈 録』 その 他 既 存の 何れの 灯 録の 続 輯としてというの で はなく、 聚 雲 法 門が 徑 山 大 慧の 法 灯を 承け、これ に 続く 正 統である こ と を 内 外に 闡 揚するこ と 、そこに 編 録の 趣 意 目 的が 存する と 解 され るので あ る ( ) 。 本 録では 第 一 巻に、 昭 覺の 法 嗣のう ち、 徑 山、 虎 丘の 二 師のみを 録し、 他の 五 十 七 師は 第 二、 第 三 巻に 列 次され て いる が、 録の 構 成、 紙 数の 配 分 上は 不 均 斉を 免れず 、 徑 山、 虎 丘の 両 師は、 意 図 的に 別 格 扱いにさ れ ているとみら れ る ( ) 。 徑 山 杲は、 彼 等が 一 門の 祖と 仰ぐ 宗 師である か ら 、 異とす るには 当たらない が 、こ れを 虎 丘 隆とを 並 置し、 十 分の 敬 意を 払っているの は、その 末 流 法 眷の 思 惑を 顧 慮したもの といえ よ う。 さらにこの 書が 他と 区 別され る 最 大の 特 色は、 徑 山 杲の 嗣、 大 鑑 下 第 十 八 世 西 禪 需 禪 師 以 下、 一 八 世 木 菴 永、 一 九 世 淨 慈 明、 二〇 世 苦 口 良、 二 一 世 筏 渡 慈、 二 二 世 相 國 顯、 二 三 世 小 菴 密、 二 四 世 二 仰 欽、 二 五 世 無 念 有、 二 六 世 荊 山 寳、 二 七 世 鐵 牛 遠、 二 八 世 月 明 池、 二 九 世 吹 萬 眞、 三〇 世 鐵 壁 機、 三 一 世 石 樓 昱 等と 逓 代 相 承し 来ったとさ れ る 伝 灯 系 譜を 掲 載している 点にある。 『 五 燈 會 元』 は、 南 嶽 十 七 世を 以て 終っている から 、ここに 収 録され て い るのは 木 菴 永までで あ り、 『 増 集 續 傳 燈 録』 も 木 菴 永まで を 録 出し ている に 止まる 。 そ の 後に 至って 『 継 燈 録』『 五 燈 會 元 續 略』 等が、 淨 慈( 晦 翁) 明を 木 菴の 嗣として 挙げ、 木 陳 道 、 忞もこれを 『 禪 燈 世 譜』 に 編 入し、 且つ 悟 明が、 『 禪 燈 會 要 ( ) 』 を 纂 修したことに 触れている が、 以 下は 断 嗣の 形とな っい る。と こ ろで 上 掲の 一 連の 世 系はあ く ま で 『 續 燈 正 統』 の みに 含まれ る 独 自な 部 分である が 、そ の 余の 部 分はお お む ね 『 祖 燈 大 統』 の 記 述を 踏 襲しているとみられ る。 別 庵と

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ して は、その 全 体を 受け 入れる 事はできなかったので あ ろ うが、 『 祖 燈 大 統』 の 考 証が 行き 届いていることは 評 価して いたもので あ ろう。 明 末に 勃 興し、 西 蜀の 地を 本 拠とする 聚 雲 一 門が、この 系 譜を 高く 掲げ、 他の 諸 派に 向かっ て 公 示するに 至ったの は、 知られ る 限りで は 聚 雲 吹 萬 廣 眞の 頃から であると 考え られ る。 た だ 崇 禎 十 三 年、 破 山 明 公が 聚 雲 法 派の 伝 灯を 偽 作とみなして 難 詰したように ( ) 、この 一 流の 由って 来ると こ ろは 必ずしも 明 確であ った と は いえ ず 、 伝 灯 諸 祖の 伝 歴 法 語 等に つ いても 不 審な 点が 少なからず 存したから、 当 時に あっ て も この 法 灯 説は、 十 分 説 得 力をも ったもの と は いい 難く、 況んや 満 天 下の 禅 宗の、 等しく 是 認する ところ と は なっ ていなかっ た と い っ て よ い 。 そ こで 聚 雲 法 門が 密 雲の 一 流に 比 肩し 得る 禅の 正 統 的な 一 派として 教 界に 認 知され るため には 、 そ の 伝 燈に 拠あることを 明らかにする 必 要が あり、 『 續 燈 正 統』 の 印 行によ っ て 一 門の 宿 願は 果たさ れた ことになる。 続いて 江 浙の 要 地に 法 化の 拠 点を 設けるこ と が 急 務とさ れた。 性 統が 一 門の 輿 望と 期 待を 担い( ) 、 重 大な 使 命を 帯び、 寧 波を 経て 普 陀に 入ったの が 恐らく 聚 雲 法 門 南 邁 弘 布の 初めで あろうが、 恐らく 康 煕 三 十 六 年 ( ) ( 一 六 九 七) に 高 峰の 同 門の 弟、 竺 峰 敏 公が 慶 忠 老 人の 舎 利を 奉 戴 して 南 来した。 竺 峰はしばらく 普 陀に 寓 居したとさ れ る が、 別 庵の 招 請に 応じたものと 思われ る。 康 煕 四 十 一 年 夏、 竺 峰は 請に 応じて 嘉 興 楞 厳 寺に 入 院 開 法したが、そ れ に つ い ても 別 庵の 尽 力によ る と こ ろ が 大であったこ と は 疑いな い。 別 庵は 法 叔に 当る 竺 峰のため、その 入 寺 上 堂に 際し、 自ら 白 槌 師となり 法 化を 扶けた。 次いで 翌 癸 未( 一 七〇 三) の 春、 康 煕 帝が 南 巡し 普 陀に 駐 蹕するのこ と が あ っ た。この 時 別 庵は、 翰 林 侍 讀 仇 兆 鰲 等と 共に 聖 駕を 迎え、 竺 峰が 行 道の 始 末を 審らかに 奏 上した。 上は 甚だ 之を 嘉し、 師の 所 住に 「 振 宗 禪 寺」 と 御 書の 額を 賜った。 竺 峰は 大いに 面 目 を 施し、 翌 年 勅 額を 奉じ 西 蜀の、 治 平 改め 振 宗 禪 寺に 再 住 した ( ) 。こ れを 以て 別 庵はじ め 一 門 宗 師の 意 図 念 願は、ほ ぼ 達 成され た も の の よ う で あ る。 か く し て 江 南のみ な ら ず、 西 蜀の 一 円にも 聚 雲 一 門は 光 輝を 増 添するこ と とな った。 それ は 別 庵が 予てよ り 待 望していたことであ ったが、いま ひとつは 一 門の 諸 師の 語 録を 刊 行し、 広く 世に 流 布せしめ ることも 聚 雲 法 門の 顕 揚に 連がる 重 要な 事 業として 企 画の

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) うちにあった。 当 時における 禅の 法 化の 中 心は、あくま で 江 浙 一 帯にあったから、 西 辺の 新 興の 宗 派にしては、 嘉 興 續 藏において 聚 雲 派 諸 師の 著 作の 占める 比 率は、 禅 門 諸 派 全 体のそ れに 比べてかなり 高いことが 判る( ) 。そ れは 恐らく 別 庵の 意 欲 的な 働きか けが 奏 功した 結 果であると 思われ る。 既に 先に 竺 峰の 楞 嚴 寺 入 院 開 法のことが あり、こ れ に よっ て 絶 好の 機 会が 与えられ、 法 嗣を 通じて 便 宜を 得る 手 段も 講ぜら れたに 相 違ない。 別 庵は 逐 一 必 要な 策を、 周 到な 配 慮を 以て 実 行に 移したものとみられ るので あ る。 前 述したように 別 庵は、 『 續 燈 正 統』 四 十 二 巻 編 纂の 業を 全うし、 一 門の 伝 灯 相 承の 次 第とその 真 偽に つ いて、 諸 派 の 宗 師が 抱 懐した 疑 問に 対する 一 応の 解 答を 用 意し、 部 分 的に 解 明した。 確かに 形 式 上からすれば、 虎 丘 派と 並ぶ 徑 山 杲 以 下、 高 峰 来に 至る 法 統が 整 然と 配 次され 、 灯 録の 態 をなして はいる が 、 歴 代 諸 祖の 詳 細に 亘る 伝 歴や、 法の 逓 代 承 継の 次 第を 立 証する 原 資 料の 存 在は 明 示され ては い な ので あ る 。 在 蜀の 諸 師の 語 録には 宗 統 頌が 収 載され て い る が、そ れ とて 破 山 明 公 等が 指 摘する 疑 点に 答え 得るもので はな か っ た 。 こ の 時 代には 禅 林にも、 考 拠( 証) 学にみら れる ような 実 証 的 気 風が 瀰 漫しつつ あ っ た か ら 、 史 実に 即 していちいち 立 証するこ と が 求めら れたの で ある が、この 時 点では 資 料 的 制 約もあり、それは 至 難な 業であ った とい えよ う 。 そ こ で 別 庵として は 不 本 意であ っても 政 界に 要 人 の 後 楯を 求めて 宗の 権 威を 増 添し、 反 論の 口を 封じ、 黙 認 せしめ る といった 挙に 出でざる を 得なかったのでは な かろ うか ( ) 。しかし 事 実 上、 康 煕 四 十 年 代には 、 聚 雲 一 門の 宗 勢 は 江 浙の 地に 揺るぎなき ものと な り、 その 法 孫は 西 蜀に 遍 く 化を 伸 張しており、 敢えて 異を 唱え 批 判を 加える 動きも みられ な くなった。 現 実 問 題として、この 一 派の 存 在を 無 視し、 或いは 否 定するこ と はできない 状 況に 置かれ ていた ということで あろう ( ) 。 加えて 禅の 伝 灯そのものが 昔 日の 如く、 至 上の 拠り 所た り 得なくなっ ていたから、それが 宗 門の 存 否を 左 右するに は 至らず、 勢い 宗の 命 運を 賭けて 論 争する 必 要もなくなり、 決 定 的な 解 答が 提 示され な い ま ま 放 置され 、 時を 重ねる こ とにな っ たものと 思われ る。 因みに 三 山 下 性 統の 同 学に 関して は 弘 秀 編『 別 庵 同 門 録』 三 巻がある 。 同 戒 録の 存 在は 知られ てい るが 、 こ の 種の 同

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ 類の 書は 例が 少ない。 恐らく 何 分か 孤 立した 疎 外され た 状 況の 中で、 一 門の 結 束を 固め るため の 紐 帯の 役 割をこ れに 期 待したもので あ ろう。 僅か 三 巻の 小 録の 中に 總 兵 ( ) 袁 寳 善 をは じめ 五 人の 居 士が 立 伝され て い るのが 注 目を 惹く。 二 聚 雲 法 門の 興 起 明 末 教 界における 禅 門 各 派 演 化の 状 況に 関して は 先に 少 しく 言 及する ところ が あり 、『 續 燈 正 統』 編 述の 目 的 意 図に ついても 触れたの で ある が、 以 下 改めて 主 要な 宗 派の 形 成 に 与った 師 僧の 世 代と 名を 併せて 確 認しておきたい。 隆 慶 萬 暦の 間に 至るや 虎 丘 十 八 世 龍 池 幻 有 正 傳( 一 五 四 九 - 一 六 一 四) が、 善 果 笑 巖 德 寳( 一 五 一 二 - 一 五 八 一) に 得 法したと 伝えられ る が、その 当 時 禅の 法 統は 懸 糸の 如 く 危 殆に 瀕していた。その 後に 至り、 天 童 密 雲 圓 修( 一 五 七 五 - 一 六 四 二) 、 磬 山 天 隱 圓 修( 一 五 七 五 - 一 六 三 五) の 道が 大いに 栄え、 また 皐 亭 南 明 慧 廣( 一 五 七 六 - 一 六 二〇 ) は 車 溪 古 湛 性 冲 ( ) ( 一 五 四〇 - 一 六 一 一) の 法を 嗣いだ。こ の 時、 法 統また 糸 懸の 危うきにあったが、 普 明 鴛 湖 妙 用( 一 五 八 七 - 一 六 四 二) に 至ってその 道は 大いに 江 南に 振うこ ととなった。 洞 門につ い て みれ ば、 雪 竇 十 九 世 廩 山 蘊 空 常 忠( 一 五 一 四 - 一 五 八 八) は、 宗 鏡 小 山 宗 書( 一 五〇〇 - 一 五 六 七) に 少 室に 法を 嗣いだ。この 頃 同じく 正 統 傾 蕩す るも、 雲 門 湛 然 圓 澄( 一 五 六 一 - 一 六 二 六) 出づるに 及ん で、その 道 大いに 行われ るに 至った。 大 慧 十 三 世 朝 陽 月 明 聯 池( 一 五 七 三 - 一 六 三 八) は 秦 嶺 ( ) 鐵 牛 德 遠に 得 法したが 林 間 洞 中に 専ら 修 道を 事とし 世に 顕れる こ と な く 、 法 統ま た 糸 懸の 状にあった ( ) 。 聚 雲に 次いで 三 山、 別 庵 等の 精 力 的 な 教 化 活 動によ っ て 、 漸く 派 演の 盛を 見たが 、 時に 法 社の 星 列 雲と 布いて 互 相に 大 法を 激 揚したので あった。 聚 雲 派 は 破 山 一 門によ っ て 厳しく 批 判 声 討され たが 、 別 庵が 『 續 燈 正 統』 を 世に 問うた 頃には 聚 雲 派の 地 歩が 確 立され て お り、 加えて 各 派の 間で 久しく 戦わさ れ た 諍 論も 一 段 落し、 終 熄に 向かい つつあ っ た。その 事がこ の 一 門に 幸いしたと いえる で あろう ( ) 。 聚 雲 派は 大 慧 杲の 法に 連がる も の で あ ると 主 張して お り 、 その 法 統は 一 部『 祖 燈 大 統』 に 録され て い るが 、 そ れ は 少 林 下 二 十 三 世 懶 庵 需から 同 二 十 五 世 悔 翁 明まで ( ) に 止まり 、 それ 以 下に つ いては 承 継の 次 第が 不 詳である 。 無 論『 續 燈

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) 正 統』 は、 大 慧から 聯 池に 至る 十 二 師の 名を 連ね 立 伝して いる が ( ) 、こ の 部 分はと か く の 議 論のあ るとこ ろ で も あり、 確 証を 得 難いの で 、 こ の 一 門の 伝 灯は、 聚 雲の 師であり、 伝 歴にも 拠ありとみられ る 聯 池から 始める の が 適 切であ ろ う。 1 月 明 聯 池の 行 履 師の 伝 歴に 関して は 「 西 蜀 敍 州 府 ( ) 朱 提 山 朝 陽 洞 月 ( ) 明 池 和 尚 傳」 と、 別 庵 性 統 編『 續 燈 正 統』 所 収の 伝 文に、これ を 窺う 手 掛りを 見 出し 得るに 過ぎない。 以 下これ ら 二 資 料を 比 較 参 照して 師の 行 履を 跡づけてみたい。 師は 道 古 戎 ( ) の 范 氏に 出で、 司 馬 公の 後 裔と 伝えられ る 。 幼きとき 林 下に 居るに、 一 日 僧の 過ぎるあり 。こ れを 訪う も 遇わず 、 た だ 壁 上の 聯に 題していう。 「 阿 彌 陀 佛は 間な り。 念は 忙なり 。 念じて 佛を 得るもまた 無 念、ま た 無 無、 鼻 孔を 落するこ と なく んば 最 上 乘 禪、 朝に 參じ、 暮にも また 參ず。 參じて 禪に 到るも 寂、 參も 寂、 寂もまた 寂、 面 門を 劈 開せよ 」 と、これは 一 廉の 見 識を 示すもの で ある 。 師はこ れを 見て 忽 然として 世を 厭い、 髪を 祝ちて 彼の 僧の 許に 至った が、 す で に 去って 他に 赴いた 後であ った とい う。 以 上が 傳によ る 師の 入 道の 機 縁である が 、『 續 燈 正 統』 にも ほぼ 同 様のことが 記され て い る。 かく して 師は 杖 笠もて 南 遊し、 飢 寒 暑 湿など 苦 辛 万 状、 憔 悴 甚だしきに 至った が、 単えに 如 上の 聯を 以て 提 撕の 話 頭としたと 伝えられ る 。 之を 久しうして 洛 迦への 路に 一 僧 に 会う。 そ の 僧の 偉 儀 殊 貌は かに 衆 表に 出づる も の があ っ た。 師は 僧の 前に 在って 脚を 踏み 外して 地に 趺き、 阿 彌 陀 佛を 念じた。 後に 在りし 僧はい う。 「 此は 是れ 敲 門の 瓦 子な るのみ、なんぞ 抛 却せざるや 」 と。 師は 参 礼していった。 「 瓦 子を 抛 却してのち 如 何」 と。 僧はい う。 「 葉 落ちて 根に 帰す。 来 時に 口なし 」 師ここにおいて 遂に 省 発する を 得た。その 後に、 洛 迦を 覩 畢れ り 、とあるから、 浙 江 東 南 海 中、 普 陀 山に( ) 詣でたも ので あろう 。 山 中には 五 代に 院が 創せられ、 宋を 経て 元 明 清 三 代に 亘り、 相 次いで 梵 刹が 建 立され 、 観 音 大 士の 道 場 として 広く 信 仰を 集め、 海 天 仏 国と 称せられた。 明 末の 萬 暦 中には 勅 諭 賜 蔵のことが あり、 清 代には 康 煕 帝から 幾 度 か 賜 蔵 賜 金 賜 物がなさ れ て い る 。 そ の 後 師は、 随 行 三 十 余 衆と 連れだ って 少 林へ 向かったが、 彼の 地は 旱 蝗 ( ) によ り 草

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ 木 枯 槁し、また 雨ふること 珠 玉の 如く、 食は 須 陀 衆のごと し、とあるから、 災 害 相 次いで 困 苦し、 食も 頭 陀の 行 者の 如く 貪 欲を 棄 捨するの を 余 儀なくされ たのでは ないかと 思 われ る。 師は 少 林に、 無 言 宗 主の 室に 造り、 階 下に 排 座し、 暫く 殿 後に 在った が、その 室 中に 造るのを 許され 、 無 言と 談 論するこ と 終 日、その 可する ところ と な っ たとい う 。 無 言とは 幻 休の 法 嗣 無 言 正 道( 一 五 四 八 - 一 六 一 八) のこと で、 道 公は 萬 暦 十 八 年に 少 林に 主とな っている 。 幾 何もな く 師は 少 林を 辞して 關 中に 入り、 秦 嶺を 過り、 たまたま 一 頭 陀 僧の 身に 紅 布の 跨を 披し、 笠を 頂き 鍬を 地 中に 揮うを 目にした。 師はい った 。「 者の 漢 一 頭 軍たるにさ も 似たり 」 と。 その 頭 陀 僧こそ 荊 山 懷 寳の 嗣 鐵 牛 德 遠であ っ た。 遠はい う。 「 箭を 看よ 」 と。 師は 箭を 躱す 勢いをなす。 遠 公は 近 前して 手を 携え、 幽 深 処にある 一 草 庵に 至り、 「 こ こに 在って 人を 待つこ と 数 十 年なり、 汝いま 既に 来れり 。 当にわが 為に 人を 求めて 祖 道を 中 興すべし 」 といい 事を 嘱 せん と し た。 師は 「 何を 以て 証 拠とせ んや 」 と 問う。 遠 公 はよって 源 流 ( ) を 示し、 徑 山 大 慧 下 西 禪 需から 荊 山 寳に 至る 伝 法の 諸 祖の 名を 挙げ、 荊 山が 法 授 受の 本 師なることを 明 かし、 師に 偈を 付していった。 「 身に 就いて 能く 刧を 打し( ) 、 筈を 劈きて 善く 三 玄を 奪 窩す。これよ り 三 要を 出し、 多く 探 竿 影 草を 為さざるに 主 賓 分る。 師 子 迷 踪するに 我を 奈 何 せん 」 と。 師は 拝 謝して 直に 劍 門 ( ) に 入り、 亀 城を 過り( ) 、 峩 眉に 得 心に 謁し 住 持するこ と 十 有 余 年、 得 心の 寂 後に 始め て 梓 里に 帰り、 朱 提 山 朝 陽 洞に 居る。 師は 毎に 危 座し、 二 時に 淡 齋をとるのみ で あったようで、 城 中の 士 庶は 漸く 淡 齋 僧が 月 明 和 尚である の を 知ったとい う。 師は 参 者の 来るを 見るや 、 言 教を 挙げる 者には 言 教を 以 て 之を 導き、 習 座を 挙ぐる に は 即ち 観 法を 以て 之を 導き、 調 摂を 挙ぐべ きに は 摂 生を 以て 之を 導いた と さ れ て お り 、 ただ 斯の 一 味 死 猫 頭、 思 算 無きの 人に 遇わずんば 定んで 口 耳を 起てず、というように 応 病 与 薬の、しかも 峻 烈な 接 化 の 法を 以て 学 人に 臨んだ よう である 。 かくて 諸 方は 枯 坐 無 用、の 名を 以てし た と い う ( ) 。 師は 崇 禎 十 一 年に 滅を 唱え( ) 、 洞の 傍に 塔した。 世 寿 六 十 六、とさ れ るから 西 暦では 一 五 七 三 年から 一 六 三 八 年の 間の 在 世である 。 2 吹 萬 廣 眞と 聚 雲 派の 胎 頭 聚 雲の 師 月 明 聯 池は、 韜 晦して 山 中の 窟 院に 住し、 密々

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) に 無に 参じ、 無 理 会の 処に 向かっ てひたすら 己 事 究 明に 力 め、ただ 一 個 半 個を 打 出し 以て 足れり とし た 。 そ の 会 下の 俊 英 吹 萬は 道を 後にして 東 蜀に 化 門を 開き、 徑 山 大 慧の 法 孫たることを 標 榜して 嗣 法 香を 焚き 上 堂 説 法をなし、こ の 一 流が 蜀の 地に 発 展する 基 盤を 確 立した。そ れは 教 化の 法の、 陰より 陽への 転 換であ り 、 世の 注 視する ところ と も なっ た。 当 時すで に 巴 蜀 一 帯の 地に 広く 化を 布いていた 破 山 一 派がこ うし た 動きに 敏 感に 反 応し、 咋に 不 快 感を 表 明 し 異を 唱えた ( ) ことに つ いては 先に 一 言した。 別 庵の 『 續 燈 正 統』 に 載せる 吹 萬の 伝は、 後 出のものと はいえ 、 簡にして 要を 得たも の で あ る か ら こ れ を 核とし、 語 録 中の 塔 銘、 行 状 ( ) 塔を 併せ 参 照して、 師の 行 業を 探って みよ う 。 吹 萬 廣 眞は、 西 蜀 敍 州 宜 賓の 人で 姓は 李 氏、その 先 三 世 は 婆 羅 門 ( ) の 出であ った と 伝えられ る 。 父 無 後は 仏に 祈り 焉 を 生む。 降 神の 日、 大 士 八 人その 舎に 臨み、う ち 一 人は 父 に 指 語していった。 此に 八 宝 応 真 出で 世を 興さ ん 、と。 他 に 母が を 厭い 素を 食したことなどがいわれている。 師 十 五 歳に 至り 下に 在って 同 学と 書を 読むに 、 偶々 菊 華の 芯 芬 芳たる を 見て、 歎じていった。 「 此の 花、 今 歳 凋 零するも 来 春 生を 発するなら ん。 曽て 聞く、 生 死の 事 大、 無 常 迅 速 なり。 寧んぞ 生 死を 免れん 」 と。 竟に 学を 絶し 少 峩 ( ) に 登り、 浩 翁に 参ずる ( ) こと 之を 久しうし、のち 里に 帰り、 大 慧 録と 正 法 眼 蔵を 手にした。この 時 師は、さな がら 旧 物に 臨むが 如く 朝に 暮に 参 礼をなし、 失う 所ある が 如くで あっ たと い い、これ によっ て 苦 参 力 究するも 進 歩の 処なき 有 様であ っ た。そもそも 師が 仏 法を 参 究せん と し た の は 老 妣の 饒 益を 志 願したからで あ り、 自ら 解 脱に 至り、 人 天に 及ばさ んと するも の で 、 も し 了 悟し 得ざると き は 、 定んで 出 家せず 、 と 誓い、 朝 暮に 四 十 八 願を 頂 礼し、 次いで ま た 旧の 如く 提 撕をなしたの で あ っ た。 後に 一 僧に 遇い、 見 訪するに 、 問 うて 曰く、 「 如 何なる か こ れ 佛」 、 師は 対えん と 擬するに 、 僧はい った 「 不 是なり 」 と。 数 期を 経て 対 話するに 、 また いう。 「 不 是なり 」 と。 師は 者の 一 を 被って 塵 念 灰の 如 く、 午に 至りて 僧の 刀を 磨するに 値うの 次いで 、 俄かに 「 如 何なるか 是れ 佛」 と 問う。 僧の 「 われ 今 日 剃 刀を 磨せり。 且く 明 日を 待ちて 來れ 」 というを 聞き、 師は 言 下に 省 発す るを 得た。 次いで 朱 提に 入り、 朝 陽 月 明 和 尚に 参ずること

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ になったので ある。 初 相 見の 次 第と 問 答 応 酬を 略 述する と、 師わずかに 礼 拝して 起つ。 月 明 問う。 「 如 何なるかこ れ 古 佛 の 心」 と。 師は 手を 拱いていう。 「 請う、 師 尊 重せよ 」 と。 また 問うに 、「 音 声 色 身を 用いざるを、 な んぞ 喚んで 本 来の 人と 作すや ( ) 」 云々と、このよう に 月 明から 痛く 敲 撃を 蒙っ たが 、 偶々 祖 母の 病い 篤しと 聞き、 即ち 白 衣を 以て 帰り、 祖 母の 為に 法を 説き、 以てその 卓 越を 助けた。 祖 母 逝きて のち、 服 するこ と 二 年にして 方に 出 家を 謀る。 是より 先、 衣 道 者なる 者あり。 里 人に 向かっ ていった。 「 此の 処に 久 しからずして 当に 至 人の 出 世するあら ん 」 と。 果たして 萬 暦 四 十 一 年 癸 丑 秋、 師は 城を 踰えて 入 山し、 再び 月 明を 拝 して 受 具 ( ) するに 至った。 一 日、 月 明は 師に 対していった。 「 汝、 な お 一 句の 未だ 會 せざるものある が 如し 」 と。 師は 問うてい う 。「 是れ 那んの 一 句ぞ 」 月 明 曰く、 「 音 聲 色 身を 用ひず、 黙 然 良 久し、 我が ため に 眞 空を 現 出し 來れ 」 と。 師 払 袖して 出で 自ら 思うに 〈 この 事 草々なるべからず。 是のう ち 必ず 玄 要あらん 〉 。 かくして 月 明の 許を 辞し、 佛 子 塞 山に 赴いた。この 山は 鬼 魅 多しとせられ た が、 師が 至るや 寂 然として 聞くことが なくなったという。この 種の 異 徴につ い て 種々 説かれ てい る。 師は 水を 汲み 自ら 炊くなど 苦 参するこ と 三 年、 経 行 危 坐し 脇 席に 至らず、 限 満ちて 朱 提 山に 入り、 月 明に 参 覲し た。 明は 一 見して 便ち 問う。 「 畢 竟いかんが 明を 現 出すや 」 、 次いで 明は 師の 手を 引いてその 口を 掩うに 、 師は 豁 然とし て 大 悟した。そこで 月 明は、 縱 然 奇 特なりとも 終に 是れ 尋 た と ひ 常の 明なり 」 といい、 遂に 臨 濟 正 宗 ( ) を 取り 出して 師に 付 与 したと 伝えられ る 。 時に 本 郡の 翠 屏 寺は、 師を 迎え 之に 主たらしめた。 師は 機に 随い 方 便して 四 人を 接 得した。その 一は 法 師、 二は 頭 陀、 三は 優 婆 塞、 四は 優 婆 夷で、 頭 陀は 山に 隠れ、 他の 三 人は 化し 去った。そこ で 里に 帰り、 母のため に 法を 説いて 道 心を 勧 発せしめた。それよ り 杖を 風 塵に 策き、 一 衲 一 瓢 もて 孤 雲 白きところ 海を 渉て 呉に 入り、 を 過ぎり 粤に 踵 り、 楚を 旋って 湖 南 瀟 湘 湖 東 禅 院に 至る。 湖 東 主 人 霜 輪な る 者からして、 当 時 道 誉 一 世に 甚だしく 著れた 山と、 偉 儀 格を 越え、 磊 落にして 塵 表に 栖む 趣きのある 聚 雲と、こ の 両 大 家が 隻 手を 出だし、 已 墜の 禅 風を 扶 起され るよ う に と 望まれ た。 師は 微 笑して 答えることはしなかったが、 請

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) に 応じて 上 堂し、 月 明に 嗣 法 香を 梵いた。 萬 暦 四 十 六 年の ことで あ る。これは 事 実 上 聚 雲の 開 派 宣 言ともい う べきも ので あり、 法 語は 語 録 巻 一に 録さ れ ている。この 時 堂 中の 学 人は、 二 百 余 衆を 数えたといい、 商 量の 間に 師は 主 道に 妨げある を 感じて 之を 辞し、 武 陵の 灼 然 澤 公を 伴って 三 峡 に 棹し、 門を 過ぐる に 、 太 平 寺の 寺 主は 師の 至るのを 予 知し、 法 属を 為さん ことを 願った。ここにおいて 師は 水を 遡りて 忠 南に 侍 御 田 公 無 無 居 士と 邂 逅した。 田 公は 師を 挽 き 留め 刹を 建てて 居らしめた ( ) 。 行 状には 寺 名を 挙げな い が 、 語 録 巻 一に、 崇 禎 辛 未( 四 年) 布 金の 檀 越 田 侍 御の 令 子、 別 駕 素 庵 居 士が 四 衆と 共に 師を 請して 忠 州 聚 雲 禪 院に 結 制 せしめた、とあるのに 関わるの で あろ う。 聚 雲 禪 院は、 忠 州の 北、 三 目 山の 麓にあり、 聚 雲の 創する ところ と さ れ て おり ( ) 、 こ の 一 門の 新たな 法 化の 拠 点とな ったもの であろ う 。 師が 聚 雲を 以て 呼ばれ るのは 故なしとしない。 漢 月 法 蔵か らの 書 信に 接し、 上 堂し 具を 展べて 拝し 三 喝してその 大 悲 に 謝したのは、 聚 雲 在 山 中のことで ある。 師はまた 為 人 垂 手の 方 便として 三 関を( ) 設け、これ によって 透 得せば、 方に 親しく 聚 雲に 見えるもので あ るといっている。 崇 禎 十 年、 師は 尹 参 府 遂 江 居 士の 請に 応じて 重 慶 府 忠 州 郭 屏 山 巴 臺 禪 院 ( ) に 結 制し、 翌 十 一 年には 州 府 萬 縣 寳 峯 山 雲 來 禪 院 ( ) に 結 制をなし、 同 年 冬、 萬 縣の 興 龍 禅 寺に 晉 住し た。これ ら 諸 大 刹における 上 堂 説 法の 語は、 吹 萬 語 録の 巻 一およ び 巻 二に 録され て お り、 巻 三 以 下には 、 普 説、 小 参、 示 衆、 諸 禅 人への 開 示 法 語 頌 古、 偈、 書 問、 詩、 詞、 歌、 賦、 記、 引 文、 序、 跋、 傳、 篇、 説、 縁 等が 収めら れてい る。 師は 文 章 爾 雅、 訓 辞 深 厚にして、 教 界の 時 流の 訛 説を 訂し、 修 教の 説の 欠を 補い、 学 解 偏 重の 風を 戒める な ど 、 多 彩に 亘る 論 説を 展 開され てい る が 、 そ の 著 作とし て は 、 ( 括 孤 省 略) 石 室 禪 議、 一 貫 別 傳、 原 易 説、 大 極 圖、 大 明 御 製 勒、 顯 佛 集、 説 樂 正 論、 古 音 王 傳、 文 字 禪 那、 楞 嚴 夢 釋、 言 語 紀、 恣 夏 草、 心 經 詮 註、 禪 林 雅 訓、 正 觀 録、 問 答 録、 居 士 頌、 本 行 録、 維 摩 診 脉、 圓 覺 解、 楞 伽 三 昧、 金 剛 點 眼、 宗 門 正 眼、 正 録、 等が 挙げら れ、 総じて 三 十 種 六 十 六 巻 ( ) と いわれ て いる。しかし 実 際には 、 優にこれを 越えるものが あるとみら れ る。 崇 禎 十 二 年( 一 六 三 九) 七 月 三 十 日、 師は 曽って 侍 僧に 予 告したごとく、 大 喝 両 声して 脱 去した。 世 寿 五 十 八、 門

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ 人 舎 利を 迎えて 平 都の( ) 地 蔵 寺および 三 目 山の 陽に 建 塔した 。 師は 法の 濫 授を 許さず、 僅かに 慧 機、 慧 芝、 慧 麗の 三 師が 入 室の 弟 子として 正 令を 全 提した。 清の 順 康の 間、 聚 雲 派の 伝 灯 説に 異を 唱えた 破 山 明 公の 同 学、 木 陳 道 忞の 法 嗣 幻 牌 自 融( 一 六 一 五 - 一 六 九 一) は、 広く 禅 門 尊 宿の 伝と 語 要を 蒐めて 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寳 傳 ( ) 』 を 編 述し、 次いで 門 人 性 磊はこ れに 輔 輯したが、その 収 遺 の 部に 吹 萬の 伝が 収 録され て い る。 師の 伝 中には 、 大 慧か ら 月 明を 経て 聚 雲に 連がる 法 付 属の 次 第が 挙げら れ て おり 、 初めてこの 一 流が 禅 門 伝 灯の 中に 正 当に 位 置づけられ てい るのを 見る。 それは 清 初における 聚 雲 法 派の 化 門の 盛 大を 裏 付ける 一 証 左とみら れ るの であり 、 明 末 以 降における 一 門 諸 師の 真 摯な 修 道と、 撓みない 接 物 利 生の 行が、ここに 至って 漸く 実を 結んだ、というべきで あ ろう。 聚 雲 大 師は、 禅 門 中 衰の 後を 承け、 西 蜀より 崛 起して 大 慧の 宗を 中 興し、その 再 来と 称せられ る に 至った。この よ うにして 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寳 傳』 が 補 輯され た 康 煕 三 年の 時 点には 、 正 録およ び 三 世の 語 録が 存し、 嘉 興 蔵にも 編 入 され て 流 通し、 聚 雲 法 門の 存 在が 漸く 世に 認 知され るよ う になったとみられ るので あ る。 注 ( 1 ) 惣 滑 谷 快 天『 禪 學 思 想 史』 下、 第 六 編。 増 永 靈 鳳『 禪 定 思 想 史』 には 第 四 期として 衰 頽 期を 立てる 。 ( 2 ) 拙 稿『 明 清 仏 教 研 究 資 料』 僧 伝 之 部、 各 世 代 別 師 僧の 概 括 的 紹 介の 記 参 照。 ( 3 ) 宗 派それ 自 体、とも す れば 権 威 化して 宗 教 的 生 命を 涸 渇 させ、 教 団 発 展の 美 名に 隠れて 宗 教 本 来の 在り 方から 逸 脱し た 方 向に 向かう 怖れな し と しな い 。 それ 故にこ そ 、 内 部から 本 源への 還 帰の 動きが 生じ、それが 繰り 返されるこ と に なる のである 。 ( 4 ) 禅 宗の 場 合、 教 理 義 学の 総 意によ って 派を 分つと いうの では な く 、 同 一の 宗にお い て 教 化の 法が 異なる とこ ろか ら 、 格 別の 宗 風が 形 成され る こ と に な る 。 ( 5 ) 確かに 宗 派は 世 俗 的 性 格が 濃 厚な 組 織 体であ る が 、 宗な いし そ の 本 質が、 世 間に 具 体し 機 能する ことが 必 要とされる 限り、 こ れ を 離れて 宗 教は 成り 立たないとい え るであ ろ う。 真 野 正 順『 仏 教にお ける 宗 観 念の 成 立』 序 説 参 照。 ( 6 ) この 間にも 一 部では 仏 寺の 修 建が 行われ たの み な らず 、 新 造され た 形 跡さえ 認めら れ る 。 例えば 代 州 五 台、 龍 樹 庵、 明 嘉 靖 中 創 建、 温 州 三 峰 寺、 嘉 靖 三 十 三 年 改 建、 杭 州 虎 寺、 嘉 靖 三 十 四 年、 等が 挙げられ 、 他に 事 例は 乏しく ない 。

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ( 7 ) 陳 垣『 清 初 僧 諍 記』 に 詳しい 。こ れ に つい ては 、 野 口 善 敬 氏により 訳 注 本が 刊 行されてい る。 ( 8 ) 拙 著『 明 清 佛 敎 敎 團 史 研 究』 六〇 三 頁。 ( 9 ) 『 續 燈 正 統』 姜 辰 英の 序に、 「 補 修 五 燈 之 未 備、 是 之 謂 續 燈 也」 と 見えて い る 。 同 書 巻 首。 ( 10) 仏 法を 中 衰 状 態から 救い、 こ れ を 復 興しようと する 動き の 中で、 そ れ ぞ れ 自 派の 伝 灯 整 備に 強い 関 心が 払われ る よ う になった。それが 一 面では 従 来 不 明 確であった 宗 派 意 識を 目 覚めさ せる の に 役 立った が 、 他 面では 分 派 主 義 的 傾 向を 助 長 し、 諍 論の 一 因をな し た 。 ( 11) これ に つ い て は 「 曹 洞 丹 霞 五 代 大 統 刪 出…… 中 略…… 編 稿 已 定 云々 」 とあ る 。 別 庵は 淨 符の 新 説を 採る 事はしなかっ たが、こ れを 非 難して い る 気 配もみ ら れ な い 。 し か し 淨 符と 同 宗の 道 霈まで が 淨 符を 批 判するに 及んで、 遽かに 淨 符に 追 随する の を 止めた 感があ る 。 ( 12) 『 續 燈 正 統』 には 淨 符の 文 言をそのまま 承けた 部 分も 少な くな いが、 鹿 門 覺、 青 州 辨に 関する 記 述など 『 五 燈 會 元 續 略』 に 依って い る とみられる。 ( 13) それ ら は 性 統に 先んずる こ と 一 世、 即ち 性 統の 師 三 山 來 と 同じ 世 代の 宗 師までを 録した も の で あ る。 ( 14) それ に つ い て 洞 宗では 、 丹 霞 以 下の 五 世、 濟 家の 虎 丘 派 の 場 合は、 両 海 舟 慈に 絡む 世 系の 異 同を 考 慮する 要がある。 ( 15) 性 統は 諍 論の 経 過を 詳 細に 論じた 淨 符の 門 人 智 楷が 撰し た 『 正 名 録』 にも 目を 通してい た と 思われ る 。 本 録について は、 拙 稿「 智 楷 撰『 正 名 録』 につ いて 」『 印 度 學 佛 敎 學 研 究』 第 三〇 巻 第 一 号、 参 照。 ( 16) 性 統が 天 童 山に 留 錫 中、 屠 酔 忠が 提 台 陳 公 等と 語らっ て 法 雨に 主たらんこと を 請うた 因 縁によ るとい う 。 ( 17) 『 續 燈 正 統』 姜 公の 序に、 「 泛 南 海 登 普 陀 得 晤 別 庵 和 尚、 與 語 連 日、 知 爲 大 惠 十 七 世 孫 云々 」 とあり 、 別 庵 等の 登 場が あっ て 「 由㍾ 是 南 方 之 人、 始 知≒ 徑 山 一 派 猶 盛㍼ 於 西 蜀㍽ 超 原 序。と 認 識を 新たに し た の で あり 『 別 庵 同 門 録』 の 序に、 性 統 及びそ の 一 統が 盛んに 祖 道を 挙 揚しつ つ あ るこ とに 触れ、 「 自 此 聚 雲 一 燈、 又 將 漸 傳 於 天 下 矣」 と 述べら れてい る 。 ( 18) 『 萬 峰 眞 語 録』 の 序に、 李 屏 山が、 大 惠の 法 孫が 嗣を 続け てい ることを 耳にし て 、 こ れ を 疑ったと 述べら れて いる。 中 華 藏 二 - 七 七 冊、 六 六 九 八 二。 ( 19) すで に 聚 雲に 徑 山への 行あり 、こ の 時 四 衆は 師を 遮 留し たと い う 。 康 煕 七 年に 衡 山 炳 公が 雙 徑に 出でて 祖 塔を 掃い、 康 煕 八 年には 三 山 來 公が 嘉 興に 赴き、 天 寧に 住し、 徑 山に 祖 塔を 掃わんと し て 果たさず、 翌 年 高 峰に 帰った とさ れ て い る 。 一 門の 意 図する 処が 察 知され 、 入 山を 拒 否された の であ ろ う か。 翌 九 年、 聚 雲 三 世の 語 録を 楞 嚴 藏に 付したのは、 一 歩 前 進というところであろう 。 ( 20) 本 録が 徑 山 杲から 筆を 起こしてい る 理 由はそ こ に あ る と いえ る 。

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ ( 21) 例えば 『 三 山 來 語 録』 中の 「 宗 統 頌」 、 『 喬 松 億 語 録』 に 見える 「 宗 統 編 頌」 、 『 萬 峰 眞 語 録』 に 収 載され て い る 「 宗 統 頌」 、 野 雲 映の 「 宗 統 頌」 、 鑑 堂 一およ び 翠 崖 必の 語 録に 含ま れて いる 「 源 流 頌」 等は 諸 師が 苦 心 頌 出し た も の であり、こ れらは 法を 弟 子に 授ける 際、 手 書して 与え 伝 法の 証とし たも ので、 破 山 下 諸 師の 間にも 行われ て い た こ とが 知られ る 。 た だ 破 山は、これが 宗 統の 由 来を 明かす 典 拠にはな ら ないと 断 じて いる 。 ( 22) 自 序は 辛 未( 一 六 九 一) に 成って い る から 、そ れより 五 年、 刊 行まで に は さらに 若 干の 歳 月を 検した も の のよ うで あ る。 ( 23) 『 續 燈 正 統』 の 凡 例 七、 八、 九 等にいう と ころ は 、 淨 符の 口 吻に 多 少 類 似しているよう であ る 。 ( 24) 同 書、 楊 雍 建 撰の 序 文ほか 参 照。 ( 25) 破 山はそ の 『 佛 道 聲 價』 の 中で、 吹 萬 一 統を 非として 肯 わない 。 ( 26) 『 山 暉 禪 師 語 録』 巻 十 二、 中 華 藏 二 - 五 七。 ( 27) 雲 腹は 象 崖の 法 嗣、 破 山の 法 孫に 当る。 陳 援 庵『 明 季 黔 佛 敎 考』 巻 二 - 五 四。 ( 28) 陳 新 會『 中 國 佛 敎 史 籍 概 略』 一 五 九 頁。 ( 29) 、、 すで に 三 山 燈 來に 『 正 燈 集 拈 頌』 上・ 中・ 下 巻あり 、と いう 。 三 山 語 録、 但し 續 藏には 無 録。 ( 30) 例えば 『 續 傳 燈 録』 では、 宗 杲の 伝は 正 統より 遥かに 長 文に 亘って 記 述されてい る が 、 虎 丘ほか 五 師、 無 録を 含める と、 計 十 五 人が 一 巻に 収めら れ て い る 。 ( 31) 安 永の 嗣 晦 翁 悟 明には 『 宗 門 聯 燈 會 要』 の 作ありと す 。 淨 慈 二 十 一 代。 勅 建 淨 慈 寺 志』 巻 八 - 二 一。 ( 32) 『 破 山 禪 師 語 録』 巻 二 十 付、 年 譜。 陳 援 庵『 明 季 黔 佛 敎 考』 巻 二 - 五 一。 ( 33) 性 統の 同 門の 兄、 大 笑 崇 公が 師に 宛てた 返 書に、 その 活 躍を 喜び、 「 高 峰 正 眼 在 賢 弟」 と 記してい る 。 性 統は 在 蜀の 一 門の 諸 師と 絶えず 密 接な 連がり を 保って いたようで あ る。 ( 34) 別 庵には こ れ よ り 屡々 帑およ び 賜 物の 事があり 、 また 普 陀の 伽 藍の 修 復をなし 、 詔 見の 機 会にも 恵まれた か ら 、 その 名は 夙に 康 煕 帝や 貴 顕の 知るとこ ろ となっていた 。 ( 35) 該 寺は 四 川 忠 州 城 東 門 外にあ り 。 唐には 龍 興を 称した。 康 煕 十 年、 知 州 劉 肇 孔の 重 修にか か る 。『 忠 州 直 隷 志』 は、 振 宗を 勅 賜された の を 康 煕 庚 寅( 四 十 九 年) とするが、 竺 峰 敏 公 等の 住 山の 年 時との 関わり か ら 疑 問とさ れ る 。 但し 康 煕 戊 申( 七 年) 住 忠 州 勅 建 振 宗 禪 寺の 記は、 竺 峰の 語 録 編 纂 時に は、こ の 寺 号が 勅 賜され て い たところか ら 、 書き 改められた ので は な か ろ う か 。 な お 師は、 康 煕 四 十 四 年に 振 宗に 再 住し てい る。 『 續 燈 正 統』 に 振 宗 寺の 事に 触れら れて いないのは、 竺 峰の 南 来 以 前に 執 筆されていたから と も 考えら れ る 。 ( 36) 嘉 興 續 藏には、 聚 雲 吹 萬 眞 禪 師 語 録をはじめ、 宗 義、 宗 論、 史 伝、 一 門 諸 師の 語 録 等、 合 計 二 十 三 点が 収めら れ て お

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) り、 こ れ らは 中 華 大 藏 經では 、 第 二 編、 五 八、 七 七、 七 九 冊 に 影 印 収 録されてい る。な お 蔡 念 生 編『 禪 藏 目 録』 では 『 續 燈 正 統』 以 下の 諸 書を、 又 續 藏 所 収とする 。 ( 37) その こと は 諸 録の 序 文 等から 窺われ る と こ ろ で あ る が 、 他に 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寳 傳』 によれば 、 吹 萬 以 下 三 世の 語 録、 及び 三 巻から 成る 所の 正 録なるも の が 存した と い い 、 四 川の 向 化 侯 譚 養 元が 俸を 捐てて 梓に 付し、 嘉 興 楞 嚴 藏に 付して 流 通せしめたとさ れ て いる。 ( 38) この 時 期に 破 山 同 門の 諸 師が、 一 様に 聚 雲 派 批 判を 行っ た 訳では ない。 漢 月は 師が 置かれ て い た 立 場から 寧ろ 当 然と さえ いえ よう が 、 聚 雲 一 門の 主 張に 理 解を 示している。 『 吹 萬 眞 禪 師 語 録』 巻 上、 接 得 漢 月 禪 師 書 上 堂」 中 華 藏 第 二 輯 - 五 八 冊、 四 七 九 七 四。 卍 續 藏 二 乙・ 一〇 ・ 四 巻 第 十 五。 前 掲の 僧 寳 傳には 吹 萬の 伝が 補 録され て い る 。 編 者 自 融は 木 陳の 法 嗣、 補 輯をな し た 性 磊は 法 孫に 当る。 ( 39) 武 官の 重 職の 一、 緑 営の 鎮 守 總 兵 官の 略 称。 Br iga de Ge ne ral . ( 40) この 一 流は 余り 知られ て い な い の で 略して 法 統の 連がり を 示せば 、 虎 丘 紹 隆… 無 準 師 範… 無 聞 智 度… 無 際 明 悟… 寶 芳 進… 無 趣 如 空、と な る 。 ( 41) 陝 西 省 西 安の 南、 終 南 山の 背 後に 東 西に 連なる 山 脈。 ( 42) 同じ 部 類に、 龍 池、 南 明、 大 覺、 廩 山が 含まれ る が 、「 出 でて 諸 方に 参 尋し、 退いて 林 泉を 守り、 衒 鬻を 務めず 、 名 高 を 博めず 」 とい う よ う な 行き 方。 別 庵の 自 序 参 照。 ( 43) 『 祖 燈 大 統』 巻 六 九 - 七 四。 佛 敎 大 藏 經 第 一 一〇 冊。 ( 44) 大 慧 下につ いては、 巻 九、 十、 十 一、 十 二、 十 三、 十 五、 十 六 等の 各 巻 参 照。 ( 45) 明 末 清 初、 諸 派の 諍 論を 広く 取り 挙げて 論じた 智 楷の 『 正 名 録』 にも 、こ の 一 派につ いては い うと ころが な い。 ( 46) 敍 州、 漢には 爲 郡、 南 朝の 梁は 戎 州を 置く。 隋は 州を 改めて 爲 郡とし 、 唐には ま た 戎 州といい 、 南 溪 郡と 改め、 また 戎 州と 称した。 宋 代に 敍 州と 改む。 明、 清 代 敍 州 府、 治 所は 宜 賓 県。 ( 47) 朱 提 山は 宜 賓 県 治 西 五 十 里、 劉 元 煕『 宜 賓 縣 志』 巻 六 - 一 七。ま た 府の 西 南 六 十 里、 曹 學 『 蜀 中 名 勝 記』 巻 一 五 - 四。 朝 陽 洞は、 治 北 三 十 里にあ り 。 洞 大にして 屋の 如く、 南 向する が 故にこ の 名あり 、 と せら れ 、 その 崕を 朝 陽 崕とい う。 前 掲 書、 巻 六 - 一 八。 従って 朱 提 山の 朝 陽 洞ではない 。この 二 所に 住した と 見るべ き で あ ろ う 。 宜 賓では 壽 昌 寺、 無 等 院、 大 覺 寺、 石 龍 庵、 石 鳳 庵、 眞 覺 寺、 半 邊 寺 等の 仏 寺の 存 在が 知られるのみ で 、 共に 恐らく 窟 院の 如きも の で あ っ た と 考え られ る 。 同 志 巻 二 七 - 一 三 参 照。 讀 史 方 輿 紀 要』 は 朝 陽 崖 府 の 西 北 二 十 里にあ りと す 。 巻 七〇。 ( 48) 道は 宜 賓の 古 称、 漢 代 道 県を 置く。 北 周は 外 江と 改 め、 隋は 道に 復す。 古 戎は 前 述の 戎 州に 古を 付した も の 。 ( 49) 周 應 賓『 重 修 普 陀 山 志』 王 亨 彦『 普 陀 洛 迦 新 志』

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『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) ─ ─ ( 50) 旱 蝗はこ の 国では 頻 繁に 発 生してい る 。これ に 近い 時 期 では 、 萬 暦 四 十 四 年 七 月、 常 州、 鎮 江、 淮 安、 揚 州、 河 南 地 方に 蝗 害があ っ た こと が 知られ る 。『 明 史』 巻 二 八 - 志 一 四ほ か。 ( 51) 『 續 燈 正 統』 鐵 牛の 条には、 主に 聯 池への 付 偈のこと を い い、 こ こ に は 源 流 提 示のこと を いう、 鐵 牛が 一 門の 伝 灯や 系 譜に 関 心を 有し たとは 考えられ な い。 他に 法 嗣もい な い 状 況 で 未だ 宗 統の 形 成を 図る 段 階に 達してい な い と み ら れ る から である。 後に 朝 陽 洞に 碑が 建てられてい る 。「 朝 陽 洞 碑 額 篆」 がそ れで ある。 こ れには 「 正 眼 源 流 四 字 文 云、 月 明 大 師 得㍼ 法 於 鐵 牛∩ 傳㍼ 大 慧 心 印∩ 兀㍼ 坐 朝 陽 洞イ 二 十 餘 年、 待㍼ 其 偈㍽ 而 後 飛 雲 吹 萬 師 翁 獨 得㍼ 其 宗 旨∩ 継㍾ 往 開㍾ 來 今 有㍼ 我 師 鐵 壁㍽ 矣。 水 部 尚 書 郎 熊 汝 學、亜 元、 沈 奕 爲㍼ 大 師 傳 法 子㍽ 也。 水 木 之 思 勒㍾ 石 垂㍾ 遠。と 見えている。 『 宜 賓 縣 志』 巻 五 四、 外 紀 八 七。 ( 52) 長い 歳 月をか けて 修 行する こと。 ( 53) 劍 門は 四 川 省 劍 閣 県 東 北 六 十 里の 地。 ( 54) 亀 城は、 四 川 成 都 県 城を 指すの であろ う 。 ま た 亀 化 城と いう 。 ( 55) 月 明は 一 派を 統 率する 禅 門の 宗 師とい うより 、 一 頭 陀の 行 者という 風 格を 具えて お り 、 そ の 所 住も 簡 素な 窟 院の 如き もの で あ っ た と み ら れ る 。 ( 56) 月 明は 朝 陽 洞 内に 坐 化した ようで、 明 末の 記には、 「 肉 像 現 存」 とあ る 。 前 掲の 碑はその 像の 右に 在ったと さ れ 、 碑 陰 には 崇 禎 十 六 年 立とあ る と い う 。 ( 57) その 理 由として、 一、 法 統に 不 確かな 点が 認めら れるの に 加え、 二、 両 派の 開 法の 寺 院が 地を 接して、 互いに 競い 合 う 環 境に 在った こ と 、 三、 聚 雲 下の 代 数が、 破 山 一 派より 少 なくなってお り 、 そのため 同 年 代の 師 僧についても、 世 数が 四 世 先んじ 上 位を 占める 結 果となること、 などが 挙げられ る 。 ( 58) 塔 銘は 湖 廣 參 知 政 事 田 華 國、 行 状は 法 孫 童 眞 至 善 撰。 聚 雲 吹 萬 禪 師 語 録 巻 二〇 所 収。 ( 59) 状 況から 推して、 三 世 以 前の 祖が、 とい うこと で あ ろ う 。 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寶 傳』 には、 「 代 籍㍼ 婆 羅 門㍽ とあるが 、 表 々 現が 適 切かど うか 検 討の 要があ る。 ( 60) 峩 山に、 大 中 小の 三 峩あり 。 小 峩は 嘉 定 府 峩 眉 県 南 三 十 里にあり と いう 。 曹 學 『 蜀 中 名 勝 記』 巻 十 一 - 十 二。 ( 61) 浩 山との 問 答 応 酬を 記すると 、「 生 死 事 大、 如 何んが 了 得 せん 」 浩 山はい う、 「 鷺 雪に 臥す 」 と。 師は 参ずる こ と 三 日、ま た 問ふ、 狐 狸 外に 躁がしく 、 木 自ら 安けき 時 如 何」 山はいう 。「 切に 動 著すること 莫れ 」 と。 師はいう 。「 向 上さ らに 事ありや 否や 」 山は 答えて い う 。「 汝 出 家するを 俟ちて 来 れ。 汝がために 了 却せん 」 と。 師はこの 語を 会し 得ざり し と いう。 ( 62) 『 續 燈 正 統』 は、 師が 月 明に 初めて 相 見した 時の 問 答を、 月 明の 伝 中に 載せ、 さらに 一 僧が 来って 問 話した こと を 録し てい る。これは 月 明については 伝えられる 事が 少なかったか

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─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅰ〕( 長 谷 部) らで あろ う。 ( 63) 別 庵は、 そ れ を 萬 暦 四 十 一 年のこ ととする。 因みに 嘉 靖 末 年に 再 度 沙 汰があり、 開 戒 壇が 禁 止されて 後、 古 心が 五 台 に 初めて 皇 壇を 開いて 授 戒した の は 萬 暦 四 十 二 年 四 月であ る から、こ れ は 禁 制が 解かれ る 以 前の 事に 属する。 ( 64) 正 宗の 記、とい う こ と であ ろう 。 こ の 一 派でそ れ 以 前か ら 源 流に 類した も の が 伝 承され て い た か どう か は 明らか で な い。 師はのち に 華 嚴 經を 閲し、 入 法 界 品の、 毘 目 仙が 善 財の 手を 執り、 一 須 臾の 間に 仏 刹 微 塵 数 世 界を 歴 遊し、 微 塵の 諸 仏に 参 見し、 法々 昧まさ ず 、 事々 無 碍 法 界に 至り、 初めて 圓 悟が 張 無 盡に 示した 用 処を 解し、こ れ より 五 宗の 譌 悉く 妙 契し 得たとい う 。 ( 65) 呉 友 修『 忠 州 直 隷 志』 には、 進 士 田 鍾 衡が、 衆に 勧め て 開 闢した と い う 。 巻 三 - 二 八。 鍾 衡は 後 侍 御とな る 。 吹 萬 語 録 巻 十 - 三。 ( 66) 前 掲 書、 巻 三 - 二 九 参 照。 ( 67) 吹 萬 禪 師 語 録 巻 一 - 五、 中 華 藏 二 - 五 八、 二 三 九 所 収。 ( 68) 寺は 城 西 二 里の 地にあ り 。 唐の 龍 昌 上 寺で、 山 頂と 山 腰、 山 下とに 三 寺あり と 。『 忠 州 直 隷 志』 巻 三 - 二 七。 ( 69) 萬 県の 向 近 蟾の 請に 応じた も の と い う。 ( 70) 『 南 宋 元 明 禪 林 僧 寶 傳』 巻 一 五。 續 燈 正 統』 は 百 巻に 近 しと す 。 師の 主 要な 著 作は、 熊 汝 學が 俸を 捐てて 梓に 付し、 版は 忠 州 治 平 禪 院に 収められ、 語 録 等は 向 化 侯 譚 養 元が 開 版 し、 嘉 興 藏に 入れた 。 ( 71) 師がこ こに 住した 事は 知られてい ないが 、 平 都は 福 地と 称せられ た 所で、 塔は 平 都 山に 建てられたも の であろう 。 重 慶 府 都 県 東 北 二 里 許り。 ( 72) 卍 續 藏 二 乙、 一〇 - 四。 影 印 本 一 三 七 冊。 吹 萬の 伝はそ の 三 八 二 以 下。

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