平成 22 年度 岡山市埋蔵文化財センター企画展
岡山市埋蔵文化財センター
OKYAMA CITY ARCHAEOLOGICAL RESEARCH CENTER
開催にあたって
岡山市は、古代に「吉
き び
備」といわれた地域の中心に位置しています。吉備は、広い平野と
温暖な気候、瀬戸内海の水運にも恵まれていることから、大
や ま と
和に匹敵する勢力をもっていま
した。
西暦3世紀の後半になると、日本列島では、地域や集団の代表となる人のために、大小の
お墓を築く古墳時代になりました。その頂点に立つのは、おしゃもじの形をした前方後円墳
です。前方後円墳は、大和で成立しましたが、吉備でもほとんど同時に築かれるようになり、
や が て 西 暦 5 世 紀( 古 墳 時 代 中 期 ) に は、 全 長 が350m に も 達 す る 造
つくりやまこふん
山 古 墳 が 出 現 し ま す。
造山古墳は、同じ時代の大和や河
か わ ち
内の代表者の墓と同等の規模であり、吉備の代表者が日本
列島のなかで1、2を争うような勢力をもっていたことを示しています。「前方後円墳の時代」
とは、吉備の最も輝いていた時代といえます。
今回の展示では、弥生時代から古墳時代のお墓にテーマを絞り、その変遷からかつての吉
備の姿を垣間見てみたいと思います。
伝片岡家銅鐸
吉備東山遺跡出土器台・壺
長坂古墳群出土特殊器台
弥生時代前期と中期の墓制
日 本 列 島 に 水 田 稲 作 が 伝 わ り、 そ れ と と も に 生
活 様 式 も 大 き く 変 わ り ま し た。 お 墓 も そ の 1 つ で
す。 北 九 州 で は、 支
し せ き ぼ
石 墓 な ど の 朝 鮮 半 島 の 墓 を そ
の ま ま 真 似 し た も の も 見 ら れ ま す。 吉 備 で は、 そ
う い っ た お 墓 は 見 ら れ ま せ ん が、 木 の 板 を 組 み 合
わ せ た 棺 を 用 い た 木
もっかんぼ
棺 墓 が 新 た に 登 場 し ま し た。
このほか、穴を掘っただけの土
ど こ う ぼ
壙墓や乳幼児を葬っ
た土器棺墓があります。
前期の中頃から中期初頭にかけて、特定の人を
葬 っ た 円 形 の 溝 を め ぐ ら し た 円
えんけいしゅうこうぼ
形 周 溝 墓 も 認 め ら
れ ま す が、 一 時 的 の よ う で す。 北 九 州 で は、 巨 大
な 甕 棺 の な か に 青 銅 器 や 玉 を 副 葬 す る 特 定 の 人 の
た め の お 墓 が 継 続 的 に 営 ま れ ま す が、 吉 備 で は 特
定 の 人 の た め の お 墓 を つ く ら な い 共 同 墓 地 が、 中
期までのお墓づくりの基本だったようです。
福岡県横隈狐塚遺跡出土の甕棺
横隈狐塚遺跡・甕棺出土状況
土器棺墓(百間川沢田遺跡) 木棺墓 ( 百間川沢田遺跡 )
弥生時代後期の墓制 -墳丘墓の出現-
西暦1世紀前後、弥生時代後期になると、吉備社会は大きく変化します。墳
ふんきゅうぼ
丘墓の出現です。
北九州地域や備
び ん ご
後北部地域、あるいは畿
き な い
内地域などでは、後期以前でも土を盛り上げた墳丘
をもつお墓が築かれていました。墳丘墓に葬られる有力な人たちがいたことを示しています。
この時期に吉備で出現した墳丘墓は、それらとは異なる意味をもっています。それは、全
長 が80m に も 達 す る 巨 大 な お 墓 が 突 如 築 か れ る こ と。 さ ら に、 前 方 後 円 墳 で は、 葬 ら れ た
有力者のためだけのお祭りが行われていたと考えられていますが、同様のお祭りが墳丘墓で
も行われ、古墳時代の開始と時間的にも連続すると考えられることです。
それまで、各地域ごとに築かれていた有力者のお墓が、前方後円墳という列島規模の規格
によって築かれるようになった古墳時代、それは単にお墓の好みの問題ではなく、大きなお
墓をつくれる有力者の出現と有力者同士の政治的な連携関係ができあがったことを示してい
ます。吉備の墳丘墓は、そいった社会の成立に深く関与したことを示しています。
長坂古墳群出土特殊壺
津寺 ( 加茂小 ) 遺跡出土特殊器台
器台形土器から埴輪へ
器
き だ い
台 形 土 器 は も と も と 集 落 の 農 耕 の マ
ツ リ に 使 わ れ る 土 器 で し た。 井 戸 な ど か
ら ま と ま っ て 出 土 す る こ と も あ り、 豊 か
な 水 や 豊 穣 を 祈 る マ ツ リ だ っ た の で し ょ
う。 そ れ が 有 力 者 の 葬 儀 の マ ツ リ の た め
に特別なものになったのが特殊器台です。
特 殊 器 台 は 高 さ1m 近 い 大 型 の 器 台 で
「組
くみおびもん
帯紋」と呼ばれる水引きのような文様
や綾
あやすぎもん
杉紋、鋸
きょしもん
歯紋などで飾り立てられています。
奈良県箸
はしはかこふん
墓古墳をはじめとする最古の古墳からは特殊器台形埴輪
と呼ばれる埴輪が見つかっています。この埴輪は特殊器台のものに
よく似た文様で飾られており、特殊器台をもとに生み出されたもの
のようです。このことは古墳のマツリが吉備のマツリを取り入れて
創り出されたものであることを示しています。しかし、その後次第
に 埴 輪 が 吉 備 の 特 殊 器 台 の 祭 り で あ っ た こ と は 忘 れ ら れ て い き ま
す。埴輪に文様は描かれなくなり、さまざまな器物を模した形象埴
輪が出現します。
器台形土器から埴輪へ
巨大化
特殊器台文様の付加
墳墓での使用に特化
脚部の喪失
多量配列
器台形土器 特殊器台・特殊壺 特殊器台形埴輪
弥生時代 古墳時代
〈楯築型〉 〈向木見型〉
倉敷・楯築弥生墳丘墓 倉敷・楯築弥生墳丘墓 三次・矢谷弥生墳丘墓 総社・宮山弥生墳丘墓 岡山・都月坂 1 号墳
〈宮山型〉 〈都月型〉
吉備東山遺跡の器台出土状況
吉備東山遺跡出土器台・壺
吉備最古の前方後円墳-浦間茶臼山古墳-
浦
うらまちゃうすやまこふん
間茶臼山古墳 ( 岡山市東区浦間 ) は墳長約 140 mの前方後円墳で、後円部の中央に内法
の長さ 7 mを測る竪穴式石槨があります。盗掘されていましたが、石槨内には中国製の鏡片
をはじめ多量の武器、工具、農具、漁具類が副葬されていました。
注目されるのは古墳の形と埴輪です。浦間茶臼山古墳は前方部の端が三味線のバチのよう
に 開 く 独 特 の 形 を し て お り、 卑 弥
呼 の 墓 と も い わ れ る 奈 良 県 箸 墓 古
墳 の ち ょ う ど1/2に 造 ら れ て い る
よ う な の で す。 埴 輪 は 箸 墓 古 墳 か
ら も 出 土 し て い る 特 殊 器 台 形 埴 輪
と呼ばれる最古の埴輪です。
浦 間 茶 臼 山 古 墳 は 吉 備 の 中 枢 地
域 か ら も 遠 く 離 れ、 周 囲 に は 有 力
な 集 落 遺 跡 な ど も 見 つ か っ て い ま
せ ん。 な ぜ 吉 備 最 古 の 巨 大 前 方 後
円 墳 が こ こ に 造 ら れ た の か は 謎 に
満ちています。
浦間茶臼山古墳 ( 左 ) と箸墓古墳 ( 右 )
埴輪の世界
器台と壺という吉備のマツリを象徴していた埴輪は次第にもとの意味が忘れ去られ、新し
いマツリの象徴となっていきます。それとともにさまざまな器物や動物を模した形象埴輪が
出現します。
埴輪の性格のひとつは古墳と外界と
を画する結界といえます。古墳の回り
にすき間なく埴輪が並べられ、邪なも
のを防ぐ盾や弓矢を入れた靱
ゆき
、甲冑な
どを模した埴輪が作られます。
また、新しい死生観を表すものも現
れます。亡き首長の生活の場でしょう
か、 家 形 や 囲
かこい
形 埴 輪、 首 長 の 権 威 を
表 す 蓋
きぬがさ
、 夜 明 け を 告 げ る 鶏、 死 者 の
魂を運ぶ水鳥などがあります。後には、
さまざまな人物埴輪、さまざまな動物
埴輪でマツリの様子や、首長にかしず
く人々、葬列の様子などを表すものも
現れます。
金蔵山古墳埴輪出土状況
造山第 2 号古墳埴輪出土状況
造山第 4 号古墳出土家形埴輪 造山第 2 号古墳出土円筒埴輪
副葬品とは?
遺 体 と と も に 墓 に 納 め た 品 物 の こ と を 副 葬
品 と い い ま す。 副 葬 品 の 種 類 は、 埋 葬 さ れ た
人物の性別・地位によってちがいます。また、
時 代 の 移 り 変 わ り と と も に そ の 内 容 が 変 化 し
ま す。 古 墳 時 代 の 初 め 頃 は、 鏡 や 勾 玉、 鍬 形
石 な ど 石 製 品 が 副 葬 品 の 中 心 で し た。 こ れ ら
の 副 葬 品 は 実 用 品 か ら ほ ど 遠 く、 祭 祀 に 関 わ
る品物であると考えられています。
古 墳 時 代 の 中 頃 か ら 終 わ り(5 世 紀 初 め ~
6 世 紀 末 頃)に か け て は、 武 器・ 馬 具 な ど 鉄
製 品 が 副 葬 さ れ る よ う に な り ま す。 こ の 変 化
は、 墳 墓 に 埋 葬 さ れ た 人 物 が、 祭 祀 を 司 る 者
か ら、 政 治 や 戦 闘 を 指 揮 す る 指 導 者 へ 変 化 し
たことと関わっているものと思われます。
前方後円墳の終焉
西 暦 3 世 紀 の 後 半 か ら 有 力 者 の お 墓 と し て
築 か れ 続 け た 前 方 後 円 墳 は、 西 暦 6 世 紀 の 後
半 を 境 に 築 か れ な く な り ま す。 そ れ は、 お 墓
の つ く り 方 が 変 わ っ た と い う 文 化 的 な 面 だ け
で は な く、 そ れ ま で 葬 ら れ て い た 代 表 者 の 性
格 や 社 会 そ の も の が 大 き く 変 化 し た こ と を 示
していると考えられます。
挿図出典 / 宇垣匡雅 1987「吉備の前期古墳-Ⅰ 浦間茶臼山古墳の測量調査-」『古代吉備』第 9 集
白石太一郎・春成秀爾・杉山晋作・奥田 尚 1984「箸墓古墳の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 3 集
南坂 27 号墳の箱式石棺
伝・千足古墳出土の玉類
日近医王谷古墳の横穴式石室
平成 22 年度岡山市埋蔵文化財センター企画展 「前方後円墳の時代への道」
平成 22 年 10 月 4 日
編 集 岡山市埋蔵文化財センター 〒 703-8284 岡山市中区網浜 834-1