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湯探歩倶楽部 新緑の奥多摩に遊ぶ
期 日:平成28 年 5 月 15 日(日)~16 日(月) 参加者:牧田賢二、栗原一、伊藤幸雄、山田直樹(記録) 写 真:無記名・山田撮影、名前記載・メンバー撮影 奥多摩散策:詳細は伊藤さん作成の企画書による。 奥多摩・御岳山参詣並びに整備された歴史的由緒のあるハイキングコースを散策した。 武蔵御嶽神社から、神代ケヤキ、天狗岩、ロックガーデン、綾広の滝、などを巡る。 宿泊は、JR 御嶽駅近くの老舗旅館・山里懐石料理旅館「河鹿園」(かじかえん)である。大きな旅館 で、老舗の雰囲気が醸していた。文人墨客・他有名な氏が多く宿泊された。 廊下には、来客されたそれらの方々の色紙がずらりと掲げられていた。 主人によると営業は今年いっぱいとのこと。多くの部屋が空き部屋である。客足が伸びず採算が取れ ないとの由。 翌日、奥多摩の清流・鳩の巣渓谷をハイキングした。 計画では奥多摩までハイキングすることになっ ていたが、我々の体力では厳しいと判断し、また暑さも加わり、結構疲れていることでもあり、鳩の巣 駅までにして、ここから電車で奥多摩駅に行く事にした。 平成28 年 5 月 15 日(日) 湯探歩倶楽部 奥多摩1泊のハイキング旅行は、久しぶりに栗原さんが、奥さんの体調を気遣いなが らも参加して貰え、4 名での「奥多摩に遊ぶ」が出来た。有難いことである。 東京駅発8 時 46 分の青梅線快速で出発する。栗原さんとは乗り換えの青梅駅で合流した。 青梅駅乗換 御嶽駅2 ケーブルカーの発着駅・滝本駅に向かう 大型のケーブルカーだ 武蔵御嶽神社:御由緒から抜粋 御岳平の藤棚 ご祭神: ・櫛眞智命(くしまちのみこと) ・大己貴命(おおなむちのみこと) ・少彦名命(すくなひこなのみこと) ・廣国押武金日命 (ひろくにおしたけかねひのみこと) 奥の院:日本武尊(やまとたけるのみこと) ご眷属:大口眞神(おおくちまがみ) ・日本武尊御東征のみぎり、この地で難を狼 (ニホンオオカミ)により救われたと云われ、 以来このご縁により御嶽大神のお使いとなり、厄除・火災除・病気平癒の守り神である「大口眞神」とし て多くの人々の崇敬を集めている。 武蔵御嶽神社 本殿 創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、平安 時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆乃天神社 (おおまとのつのあまつかみやしろ)として記され ており、古くより関東の霊山として信仰されて来 た。 山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一 大中心として、有力な武将たちの信仰を集め、御 嶽権現の名で厄払い・延命・長寿・子孫繁栄を願 う多くの人たちの参拝によって栄えた。
3 武蔵御嶽神社 常盤堅盤社(ときわかきわしゃ) 天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、 朱印値三十石を寄進され慶長十一年大久保石見守長安 を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに改めました。 人々の社寺詣が盛んになるとともに、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、 現在に及んでおります。 明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。 現在の弊殿拝殿は元禄十三年に徳川幕府によって造営されたものです。 畠山重忠(はたけやましげただ): 宝物殿前にある畠山重忠の騎馬像 案内資料から抜粋及び追記 桓武天皇(平氏)の血筋をひき、*坂東八平 氏の中でも有力な武将であった。 先祖は秩父氏を名乗り、八幡太郎義家に 従って奥州征討の男衾群(おぶすまごおり) 畠山荘(川本町畠山)・現在は埼玉県深谷市 畠山に移り住み「畠山氏」と称した。畠山重忠 はこの畠山館で長寛二年(1164 年)に生まれ た。 忠重が17 歳の治承四年(1180 年)八月 源頼朝は石橋山に平氏討伐の兵をあげた。 重忠は父の重能が京都にいて平宗盛に仕えていたことから「子は親に従う」と頼朝の軍勢を打つべく 一族郎党を引き連れて自分の祖父にもあたる源氏方の三浦氏と戦っている。しかし、後に千葉の豪族 千葉常胤などと共に頼朝方に付き義仲討伐、平氏追討、奥州の藤原氏討伐に参加して大いに活躍、 その名を天下にとどろかせた。
4 正治元年(1199 年)正月 13 日頼朝はこの世を去ったが、頼朝の信任の厚かった重忠は死ぬ間際に 枕元に呼ばれ「子の頼家のことを頼む」と後事を託された。頼朝亡きあと幕府の権力を握ろうとした北条 氏は、関東の名族で武蔵の大部分を勢力下に治めている畠山氏が邪魔な存在であった。 ここで北条時政は部下と謀り、謀反の下心ありと元久二年(1205 年)6 月 19 日「鎌倉に異変在り、至急 参上されたし」と重忠を呼び出した。 重忠は部下134 騎で菅谷の館(現・嵐山町(らんざん))を出て鎌倉に向かったが、途中二俣川 (横浜市)で、北条義時を大将とする軍勢3 万余の急襲を受けた。忠重は部下の「陣を立て直しては」 との進言に、「そうすれば謀反が本当になる。このまま戦うのが武士の望むところ」と述べ、42 歳の働き 盛りで陰謀の露と消えた。 *坂東八平氏: 桓武平氏の末流で、関東地方に土着して勢力をふるった豪族。人によって違うが一般的には千葉・上 総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八豪族を云う。国衙官僚、開発領主として在地を支配した。 尚、畠山氏は秩父平氏の中に含まれる。 御嶽神社への歓迎アーチの出迎え 神代欅 御岳の神代ケヤキ: 日本武尊東征の昔か生い茂っていた木とされ 古くから「神代ケヤキ」の名で親しまれている。 周囲:二丈八尺 高さ:十丈、
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参道の整備された道・杉の木が多い 天狗の腰掛け杉
6 奉納契乃門と綾広の門の前で 写真:栗原カメラ ロックガーデンの苔むした倒木・小川 天狗岩(反対側から) 写真:栗原撮影 河鹿園(かじかえん): 老舗の「山里会席料理旅館 河鹿園」 大正中期から昭和初期にかけて建てられ、日本料理の 良さとサービスに、繁栄時のこの地にあって豪華な建 物、文豪・著名人に愛されて来た旅館である。 廊下に飾られた色紙には古川録波・三原修平・菊池一 夫などが掲げられている。 今日は経営が難しく、一部の部屋の使用で宿泊客も 少ない、今年中に閉館するとのこと。我々は、多摩の老 舗の最後の年に宿泊した客として何かのご縁を感じる。 川合玉堂の句: 「駅出るや 河鹿聞こゆる 橋見ゆる」 (注:河鹿蛙の鳴き声はコロコロときれいな声だ)
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飾られた著名人の色紙(写真:伊藤撮影) 御岳橋
河鹿園から御嶽橋を望む 御嶽橋からの多摩川 カヌーの練習場所
8 平成28 年 5 月 16 日(月) 晴 ・奥多摩散策・鳩の巣渓谷のハイキング。結構厳しいハイキングであった。午後2 時に奥多摩駅から 帰宅の途につく。 2 日間青天に恵まれた幸運な旅であった。 懐かしい旧ポストがある御嶽駅 小丹波熊野神社(東京都西多摩郡奥多摩町小丹波(こたば))由緒 Web から参照 ご祭神:伊邪那美乃命、速玉乃男命、事解乃命 創建年代不詳。もと熊野権現と称した。仁寿三年(853 年)十二月の勧請と云われる。安永七年(1778 年)一月一日社殿消失。旧社殿は石段の下にあったが、同八年原島貞平衛らによって現在地に移され た。 楼門:東京教育委員会のWeb 情報 この建物は、演劇の舞台としての機能と、神社の桜門に似た性格とを兼ね備えた特殊な遺構である。 桁行12.7 メートル、梁間 5.5 メートル、懸造、屋根入母屋造、カヤ葺。階上の舞台面は地表から 0.8 メ ートル高、前面は吹抜、背面中央は窓、他は板壁であり、階下の中央は神社の参道、社殿に向って右 脇間は楽屋、左脇間は物置になっている。幕末から昭和の初年にかけて、西多摩・南多摩地域の主とし て神社の境内には、歌舞伎を楽しむために、種々の形態の農村舞台が数多く建てられた。それらのうち でこの舞台は、建築の構成上、はなはだ特色のあるものである。なおこれと同じ様式の舞台が、ここから 南東約1.1 キロメートルの川井八雲神社にも存する。
9 楼門を石造りの鳥居 楼門をバックに 社殿 大多摩ウォーキングトレイルの看板 途中で小休止(下の写真:牧田撮影) 奥多摩ウォーキングトレイル (同上小休止の場所 写真:牧田撮影) 古里駅から、いよいよウォーキング。 雲仙橋を渡ってから本格的な多摩のウォーキング の感じが湧いてきた。 伊藤さんは平坦な道だから、楽な散策になると 道すがら云っていた。 ガイドの略図で示す工程では、古里駅から 鳩の巣駅の近くの雲仙橋まで3.2 ㎞・約 70 分 である。たいしたことはないと安心していたが、 豈はからん、森林の中のアップダウンが激しく、 曲りくねった道、暑いことから大汗だった。 牧田さんは盛んにだまされたなどとの冗談を云いながらのウォーキングである。
10 松の木尾根の展望台にふうふう言いながら到着する。展望台には既に男女の若者が数人いた。我々 に遠慮してくれたのか、親切に展望台の中を開けてくれた。 早速、しばし休憩・汗をぬぐう。 雲仙橋 予定では、白丸ダム、多摩駅へとウォーキングする予定で あったが、へばってしまい、歩く元気も失せて、電車で奥多摩 へ行くことになった。 残念ながら、我々の歳。体力には勝てない。 無人の鳩の巣駅に下った。 鳩の巣駅 車の重量制限2 トン 奥氷川神社 氷川三本杉 奥氷川神社:Wikipedia 他Webを参照 祭神:スサノオ(素戔嗚尊) クシナダヒメ(奇稲田姫命) 氷川三本杉:根元近くから三本に分岐した珍しい杉。 鎌倉時代に植えられたという伝説がある神木で都内 最大の杉。樹高約43 メートル。 東京都天然記念物に1926 年 4 月指定。
11 氷川神社とは: 氷川神社は、東京都・埼玉県に多く、元荒川(荒川の古い河流)を東の限界とし、西は多摩川を限界と した区域にのみ多い神社である(その他の地方では、神奈川県・千葉県・北海道に1社、茨城県・栃木 県に2 社)。その多くは、埼玉県大宮市にある大宮の氷川神社の分霊を移し祀ったといわれている。 氷川の社名の由来 島根県の簸川(ひかわ)の川上にある出雲大社の分霊を移し祀ったところから、その川の名前をとり、 氷川(ひかわ)神社としたとされている。また、氷川の「川:カワ」の意味は、泉・池であり、水源を神聖視 し、そこに氷川神社を祀ったともいわれている。 武蔵三氷川(むさしさんひかわ) 武蔵三氷川(むさしさんひかわ)とは、武蔵国三氷川とも呼ばれ、現在の東京都と埼玉県に鎮座する 三社の氷川神社で、本社の大宮氷川神社の他、「中」・所沢市の中氷川神社、 「奥」・奥氷川神社が 社号に付く氷川神社三社である。 山麓会(伊藤さんの母校・山岳部) 日原川と氷川大橋をバックに 伊藤さんが学生時代、山麓会で活躍した時、御嶽山登山記念に、地元の方の好意でこの場所に植樹 した。しかし、生育の環境が悪く枯れてしまったとのこと。 *記念碑だけが残る。「夏草やつわものどもの夢のあと」 詩:松尾芭蕉 以上
12 <その他 参考資料> 【武蔵御嶽神社の歴史年表】 東京都御嶽自然教室 御嶽山の歴史・文化から抜粋 崇神(スジン)7 年【紀元前 90 年】御嶽神社の創立と伝えられる。 景行(ケイコウ) 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征のおり、御嶽山に武具を納め【武蔵】の国 ができる。 天平(テンピョウ)8 年【西暦 736 年】僧行基(ソウギョウキ)東国鎮護のため蔵王権現の像を彫って 安置する。 文暦元年【西暦1234 年】大中臣国兼(オオナカトミノクニカネ)が戦乱の為荒廃した山を再建。 以来、金峯山御嶽蔵王権現として修験の山となる。 慶長10 年【西暦 1605 年】徳川家康が社殿を東向きに建造し、江戸城の守りとする。 明治7 年【西暦 1874 年】明治政府の神仏分離政策により、御嶽神社と改められる。 【御岳山のお犬様・大口真神】 青梅市御岳山の武蔵御嶽神社は、農耕の守護神として昔から関東各地の農民に深く信仰されてい る。オオカミの姿が描かれている、この御嶽神社の大口真神(オオクチトルマガミ)のお札は多摩の農家 の入り口などによく見かける。 大口真神は俗に「お犬様」と言われるが実はニホンオオカミ。大昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が 関東征討のため武蔵から上野へ向かう途中御岳山を通っていると、山の邪神が大きな白鹿に化けて道 をふさいだ。日本武尊は占いによってその正体を知り、山蒜(ヤマヒル)を投げつけたところ、目に当たっ て鹿は倒れた。すると、俄に山が鳴動して暗雲が巻き起こって、軍を進めることができなくなった。この 時、どこからともなく2匹のオオカミが現れ、軍の先頭に立って道を案内したので安全に通過することがで きた。 尊はオオカミの労をねぎらい、永く火災盗難を護れと命じると、オオカミはかしこまって御岳山の方に 向かって走り去ったという。この由来に寄って、今でも御岳山のお犬様のお札は、家や土蔵の入り口など に貼られ、火災盗難除けの神として崇められている。