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真宗研究30号全

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(1)

ISSN 02880911 

最宗連合學會研究紀要

― 第 三 十 輯 一 一

函 和 61 1

虞 索 追 合 學 嘔

(2)
(3)

真 宗

研 究

真 宗 連 合 学 会

(4)
(5)

第 三 十 輯

寺 内 に つ い て

・ 覚 書 ⁝

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⁝ ⁝ 遠 下 間

氏 加 署 文 書 の 一 考 察 ⁝

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⁝ ⁝ 片

ヽ ノ

親 鸞 に お け る 行 道 深 の 層 的 考 察 二 ⁝

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⁝ ⁝

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⁝ ⁝ 鍋

︵ 

親 鸞 に お け る 勒 弥 の 問 題 ⁝

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⁝ ⁝ 安 然 法

以 後 の 南 都 浄 土 教 に つ い て

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I j

歎異抄第九章の疑問……•………:松

ー念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと—_、

真 宗

研 究

目 次

山 智

島恵昭︵一︿︿︶ 藤

島 直

山 藤

樹(‑︱︱写︶

雄︵

写︱

‑︶

光︵ら︶ 伸

︵一

六︶

‑︵‑︶ 

(6)

学 会 彙

﹃末燈紗﹄に於ける一︑二の問題

ー特に﹁無義為義﹂の消息について

l

八記念講演>

. . .

. . .

. . .

. . .

. . . . . . . . . . . .

. . .

. . .  

. .  

 

新会員紹介…………•………

. .  

1 )  

野 正

永 大

信︵九︱︱‑︶

(10四︶

(7)

寺内

につ

いて

・覚

従って︑戦国史研究としての寺内町論は︑ へ一定の反省をもたらしたからである︒

つま

り︑

ーゼを一向一揆論に投げかけたことにより︑それまで︑ 重要な論点となったからである︒それは︑

寺内町は︑寺内の周辺に存在する︿都市空間﹀であり︑寺院という組織・機関がその成立の前提となっているいわ ば︿宗教都市﹀の一形態である︒戦国期真宗においては︑

① 

れを示すが如き研究史を構築してきた︒

真宗の寺内町が戦国史研究において特に注目される事情は︑本願寺・一向一揆体制の実相を探る一つの視点として

② 

一九六三年に鈴木良一氏が﹁本願寺と一向一揆は明らかに別物﹂というテ 一向一揆論は︑新たに一向一揆と民衆を結びつける︿場﹀を論議し

③ 

なければならなくなり︑その可能性の︱つにいわゆる寺内町が研究対象となったと考えられる︒

一向一揆の社会的基盤論として︑井上鋭夫氏が提起した﹁ワタリータイ

は じ め に

寺 内 に つ い て

.覚書

この寺内町が特に発逹し︑寺内町研究と言えば︑真宗のそ 一向一揆の組織論を︿真宗教団発展史﹀に置き換えた研究史

︵龍

谷大

学︶

(8)

いたのかという点から論議しなければならない︒ ④ シ﹂論と合体しつ論議されたのである︒現在︑その到達点は、峰岸純夫•藤木久志の両氏らの業積にあると考えられ、

一向一揆論を戦国史研究へと再構成する一前提として︑寺内町を論議するわけであるが︑

⑤ その主たる︿ねらい﹀は次の如くである︒

︿寺内町﹀の成立根拠となる

この点は︑どのように論議されてきたのであろうか︒寺内町研究史にこの点を読み込

むならば︑以外な事実が判明する︒け︿寺内﹀という仏教︵寺院︶の組織・機関を分析する視座が確保されていない︒

⇔都市的機能を重視するあまり︑

寺院の組織・機関としての寺内分析を怠ったために︑

縁﹀としての機能論を欠いている︒などの分析視角の欠如が指摘しうる︒ 寺院を支える

つまり︑従来の研究史は︑︿寺内町﹀を寺内町として成立せしめる前提に対する基礎分析が欠如しており︑︿寺内﹀

とは何かという点への論議が強く要請されるであろう︒そして︑寺院を支える組織・機関としてどのように機能して

⑥ そのため︑ここではヒンター・ランドとして石山本願寺における︿寺内﹀と︿寺内町﹀を設定する︒それはこれま ︿寺内町﹀が分析されなかった︒

国ま

た︑

周 ︿

寺院という中世宗教領主の役割が軽視され︑戦国期の領主間編成・配置のなかで 従来の寺内町研究において︑ ︿寺内﹀の甚礎概念とは何かを問う作業が課題となる︒ 在する

︿寺

内﹀

ま ︑

' , し

寺院を構成する組織・機関としてみなければならない︒ 寺院は︑仏教における︿固有﹀の組織・機関である︒それゆえ︑

ー ヽ ノ

問 題 の 所 在

︵ 

さて︑本稿においても︑ 現在も論議が稽重ねられつつある︒

寺内

につ

いて

・覚

つま

り︑

︿寺内町﹀を寺内町として成立せしめる寺院が存

(9)

る ︒

寺内

につ

いて

・覚

たいどんな︿寺内﹀と︿寺内町﹀によって構成されていたのか︑という問いが根本的な問いになると考えたからであ 史料囚一︑前住上人仰ラレ候テ︑御本寺御坊ヲハ︑聖人ノ御存生ノ時ノヤウニオホシメサレ候︒御自身ハ︑御留守ヲ

当座

御沙

汰候

石山寺内の甚本的性格 シカレトモ仏恩ヲ御忘候コトハナク候︒御斎ノ御法談二仰ラレ候キ︒御斎ヲ御受用候間モ︑御ヮ

⑦ スレ候事ハ御入ナキト仰ラレ候キ︒

願得寺実悟の編になる﹁蓮如上人仰条々﹂︵﹁実悟旧記﹂︶によれば︑本願寺

11

本寺

は︑

であり︑本願寺宗主自体は﹁御留守ヲ当座御沙汰﹂するのが役目であると蓮如が語ったと伝えられている︒

さて︑このような基本的性格を持つ本願寺は︑天文元︵一五=三︶年に法華一揆・六角定頼連合軍による山科坊舎攻

撃のため焼失することになる︒

史料⑱二十四日 あくまで宗祖である︿親鸞聖人﹀︑

朝早々ョリ諸勢取出候︒取マワシ七メ候︑ ﹁聖人ノ御存生ノ時ノヤウ﹂

四時也︒△昨日ョリ今日二至マデ︑城中静ニシテ強也︒

然処兵庫介︑和睦之曖トシテ人質二出源次郎内へ取時︑諸勢水落ョリ乱入シテ︑火ヲヵヶ候問︑

衛門

宿へ

行︑

意識の上においては︑本願寺の住持は︑

一時之間二︑寺

中御坊等焼失候︒△予・舟後御堂庭ニテ打死スベキ覚悟ノ処︑諸勢打ョセザル間︑六時二落行候︒勧修寺五郎左

⑧ ソレヨリ上ノ醍醐へ行︑水本坊へ夜明候時分二参候︒富式同︒ ことにその﹁御影﹂であるというのであ

つま

り︑

る ︒

( 二 )

での寺内町論と一向一揆を結ぶ論議が︑いわゆる︿大坂並体制﹀論であり︑寺内町研究において︑︿石山﹀とはいっ

(10)

文御日記﹂・﹁私心記﹂によって見るならば左表の如くになる︒ て山科の大伽藍を収容するだけの設備はなかったはずである︒ あ

る︒ ﹁私心記﹂の著者である実従一行は︑焼失した山科坊舎より︑宗祖である親鸞の影像を醍醐に移した︒天文元年八

1一四日のことである︒この後に宗祖影像は︑宇治田原に九月十︱︱一日に移された後に︑翌年七月に摂津石山の坊舎に

史料c二十二日 移徒されることになった︒

明後日大へ可下分相定︒送ノ事田中二云也︒二十四日二治定云々︒

二十四日八時ョリ立出也︒高五郎宇治マデ被送候︒州先与次下マデッレ候︒宇治之小倉ョリ夜船二乗下︒夜明

ノ前暁天ノキレヘシク︒旅人屋ニテ夜ヲアカシ︒

二十五日 ソレヨリ出口居住候火庭へ︒

朝飯食候ョリ大坂殿へ下候︒

0

酒殿へ参リ︑筑前二逢テ云々︒

0

先へ与一=左衛門遺候︒其後袴衣出ロ

ニ借

候ヲ

著シ

候︒

0

酒殿二待申候︒

O

其後御亭へ参ノ懸御目御盃載候︑肴ナシ︒御ウヘ︑参︑御盃同前︒△上様

⑨ へ︱︱一十疋︑大ヘニ︑御堂へ二筑ヘニ︑御影二︑御礼如此︒座敷ナキ問︑阿佐布所二先々︒

つまり︑本願寺教団は︑天文元年の山科坊舎の焼失という突発的な事情により本寺を摂浦石山へ移転することを余

儀なくされたのである︒従って︑石山坊舎に本寺の機能は移され︑宗祖の墓所として影像が奉安される場となるので

舎ヲ建立七シメ︑又当然明応六年仲荀下問ノ冬ニイタリ︑ ⑩ ところが︑石山坊舎は︑周知の如く蓮如が﹁御隠所﹂として﹁明応第五之秋此ョリ︑カリソメナカラ如形一宇之坊

⑪ 且々周備満足ノ為体﹂と完成していたが︑当然のこととし

従って︑石山坊舎への本寺の移転は︑寺内へその機構︑組織を移す点から窺い知ることができる︒その過程を﹁天

寺内

につ

いて

・覚

(11)

内寺

につ

いて

・覚

年•月・日一

ロ ー

ー一明応5

. 琳 蓮 如 石 山 に 坊 舎 の 建 立 を 開 始 す る

︒ 一

﹁ 諸 文 集

︵‑

一四

九ナ

年︶

 

9,

―ー— -|1111

2

明 応

6.

11

月 下 旬

︱ 石 山 の 坊 舎 完 成 す る

︒ 一

﹁ 諸 文 集

﹂ 9 9 9 , 1  

﹁私

心記

﹂ 山科本願寺・六角定頼・法華宗徒により焼かれ︑宗祖影像を醍醐

3

天文

元.

8.

2 4

︵一五三一一年︶水本坊へ移す︒

9 9 9 9  

. ,

,  

•9.13

宗祖影像を宇治田原に移す。『本願寺年表』⑬

4天文元

̲

│ 1

1 1 ' I I I I

│ 1

1 1

5

一天

2.

.7

25

宗 祖 影 像 を 石 山 坊 舎 へ 移 す

﹁ 私 心 記

︐ 

9,

'︐

6  

一天

4.

5.

26

︱ 宗 祖 影 像 を 南 座 敷 に 移 し

︑ 御 厨 子 の 中 に 納 め る

﹁ 私 心 記

̲ 1 ,

 

 

7

一天

5.

12

.2

7

寺内あをや町の古比丘尼庵の跡地を

3 0 貫 に て 買 得

﹁ 天 文 日 記

﹂ 9 9  

︐ ̲ 

本 山 殿 堂 条 制 を 定 め る

﹃ 本 願 寺 年 表

8

一天

文 6.1

︐ 

 

̲1

r │

│ 1

9天文

.8

12

.2

5 一法華寺東堀より下の岸までを

7 0 貫 に て 法 安 寺 よ り 買 得

﹁ 天 文 日 記

﹂ 1 0

天文

11

.5

.1

5 食 堂 を 御 堂 の 北 に 移 す

﹁ 私 心 記

 

﹁天

文日

記﹂

・﹁

私心

記﹂

II|_I ー—'ー 1.|_| —ー 19-,1'_|I

1 1

天文

11

.7

.1

6 阿弥陀堂の礎石が置かれる︒

1 2

一天

11

.7

.2

1 阿 弥 陀 堂 立 柱

﹁ 天 文 日 記

•9,i.,

. .  

, 1 ,  

‑﹁

天文

日記

・﹂

﹁私

心記

│1

1 1 1 1 / 1 3

一天

11

7.

.2

6

一阿

弥陀

上堂

棟゜

1 ,  

,

̲  

4︱天文

11

.1

1.

19

阿 弥 陀 堂 へ 新 造 の 本 尊 を 入 れ

︑ 仏 事 を 修 す る

︒ 二

﹁ 天 文 日 記

﹁ 私 心 記

 

拠⑫

(12)

1 5

天文

11

.1

1.

20

開山影像の御厨子・仏壇を新調する0

:﹁

天文

日記

﹂ 1 6

天文

12

.8

.2

御 影 堂 内 陳 手 狭 な た め 改 修 す る

﹁ 天 文 日 記

﹂ 一

199,~'`冑,99

1 7

天文

12

.8

.1

7 御 影 堂 内 陳 改 修 が 落 成 す る

﹁ 天 文 日 記

99‘'

,~',

, 1

1 8

天文

13

.4

.8

一 石 山 生 王 屋 敷 堀 の 晋 請 を 始 め る

﹁ 天 文 日 記

﹂ 1 9

天文

13

.5

.1

2 寝 殿 の 柱 立 を す る

﹁ 天 文 日 記

ヽ~

2 0

天文

13

.6

.3

寝 殿 の 上 棟 を す る

﹁ 天 文 日 記

﹂ 2 1

天文

13

.8

. 認 寝 殿 を 築 き 始 め る

﹁ 天 文 日 記

9

'

2 2

天文

認・

11

.8

網 所 の 立 体 を 行 う

﹁ 天 文 日 記

﹁ 私 心 記

, '

2 3

天文

14

.1

・ 認 寝 殿 落 成 す る

﹁ 天 文 日 記

﹁ 私 心 記

, '

v 9 ,

2 4

天文

14

.6

.2

3 寝 殿 の 門 が 建 つ

﹁ 私 心 記

99~

し~,

2 5

天文

15

.4

.2

0 阿 弥 陀 堂 前 の 四 足 門 が 建 つ

﹁ 天 文 日 記

﹂ 2 6

天文

15

.8

.5

興 正 寺 御 堂 立 柱 を 行 う

﹁ 天 文 日 記

999 

9 9  

7 1 . 9 ,

﹁天

文日

記﹂

2天文16.12一太秦広隆寺の鐘を御堂の庭に釣る︒

2 8

天文

19

.5

.6

ー 阿 弥 陀 堂 前 に 鐘 楼 を 立 て る

﹁ 私 心 記

石山寺内への本寺の移転は︑右の通りの経過をもって行なわれたようであるが︑

寺内

につ

いて

・覚

その結果として次の如くの傾向が

, 

/  

(13)

︑ ︒

寺内について・覚書 導き出せよう︒﹁御礼﹂が本願寺から細川側へ納められ︑ は以外に時間が費されている︒それは︑天文一揆が終結せず︑石山周辺の治安が安定せず︑従って︑寺内整備にかか

⑮ 

るのが治安の回復後となったのであろうか︒この点は︑細川晴元との間の﹁和与﹂が天文四年十一月に整い翌月に

⑯ また︑天文五年十一月になってから︑六角定頼との﹁和与相調﹂

が本寺の移転なのであるが︑

科という地に坊舎再建の可能性があったのではなかろうかという点である︒

それ

は︑

ここで留意しなければならないのは︑実際に寺内整備が動ぎ出すのは︑天文十一年七月に阿弥陀堂

それ

は︑

﹁影像﹂が搬入されることにより確定するが︑

やはり山科坊舎の焼失という突発的事情によるものであるから︑以前として山

山科坊舎焼失後の天文四年十一月の細川との和平実現後に︑

の立柱がなされている点からも理解できょう︒

により︑摂河泉の権力編成にどのような影響を与えたのかという点である︒

︵ 表 216

を参

照︶

翌年一月には︑

ただし︑山科坊舎の本寺としての復興はなされなかったのである︒

た︑どのような理由をもって石山の地を本寺再興の場所として決定したのかという事情を明らかにすることはできな

さらに︑考えなければならない点は︑石山という地に︑本願寺・一向一揆体制の頂点にたつ本願寺が移転したこと

つま

り︑

石山への本願寺の移転︑

伴う寺内の整備という事態に対して摂河泉の諸権力はどのように受けとめたのかということである︒

天文一揆の処理は、天文四•五年のうちにおさまったのであるが、戦国期の摂河泉の諸領主権力の側にすれば、本 の建立が開始されるのを待たねばならなかった理由である︒

︵ 表

10

11

4

参照

︶そ

れは

石山へ﹁影像﹂が移ったこと しかしながら︑ ろからも察しうる︒ まず︑第一点は︑本寺としての石山はその機構が再整備されるに

ったとこ

さっそく山科の旧寺地の堂舎

それに

(14)

願寺・一向一揆という戦国期権力の中枢が石山に位骰することは︑

本願寺教団の本寺としての組織・機関を収容しうる寺域を確保し︑

泉の領域支配を握る細川睛元︑木沢長政らの承認は必要だったと考えられる︒

)ういった坊舎の移転が︑寺内の拡大

地域の権力構造の変動を惹起せしめ新たな緊張関

︵この点については次節で詳しく論ずることとなる︒︶従って︑石山寺内の整備事業︑

かつ円満に建築を進めるためには︑ぜひとも摂河 というのは︑天文八年十二月二五日に法安寺より寺域拡大のための土地を買得したが︑実際には︑阿弥陀堂の建設

が開始されたのは天文十一年七月であり︑この間の政治過程を注目しなければならないからである︒

て︑本寺としての石山坊舎は︑天文十一年の阿弥陀堂の新築︑十五年には阿弥陀堂前に四足門︑十九年には鐘撞堂が

建てられその威容を整えた︒

御影堂の内陳や厨子•仏壇も整えられ、寝殿も新築さ 天文十︱︱一年十一月には︑網所の立柱も行なわれている︒このように︑

は︑天文二十年ごろまでには︑本寺としての基本的な建造物は整ったことになる︒

さて︑石山寺内へ移転したのは︑本寺ばかりでなく︑内衆下間氏や寺内坊主衆︑

石山坊舎

また︑地方からの本寺への上番衆 が詰める宿所なども移転した︒その状況は﹁天文御日記﹂・﹁私心記﹂からは詳らかにはならないが︑判明しうる範囲

⑰ 

まず︑天文四年十二月に一家衆に加えられた興正寺は︑天文十五年八月に御堂の建立を行っている︒その他の坊主 分が石山寺内でどのような居を構えたかは︑興正寺の例が判るだけであとは﹁宿所﹂が存在したという事実しか判明

 

その例は数多いが︑数例をあげると﹁丹後宿所﹂︑﹁光徳寺宿所﹂︑﹁定専坊宿所﹂︑﹁興宿﹂といった具合に本願寺の

周辺にそれへ勤仕する人びとが居住する坊舎も建ち並んだようである︒ し

ない

で論議してみたい︒ れ

てい

る︒

︵ 表

15

11

7

19

12

4)

また

︵ 表

10

11

4

2 5

2 8 )

その

間に

は︑

係を生んだことが予測させる︒ 寺内について・覚書

また

︵ 表

91

28

)

そし

(15)

従って

寺内について・覚書

めぐる諸般の動きとして理解することができる︒

このように考えるならば︑天文年間の石山寺内の基本的動向は︑本願寺教団の本寺としての機能の整備と︑それを

⑫ 

また︑本願寺・一向一揆体制(II﹁本願寺法王国﹂︶の中心が摂河泉 の戦国期の領主権力の編成の中に入ることにより︑

また

︑ その地域の中で︿寺内﹀が諸権力の認知を受けることによ り本願寺なる宗教領主が存在する空間

11

都市として確定することになった︒

石山寺内の確定 石山寺内が整備されつつある天文七年︑本寺たる本願寺が移転することにより膨張してゆく寺域とその周辺は︑戦 国期の諸権力との緊張を生み出した︒それは︑石山寺内の守護反銭などの守護役を含む諸公事の免除の問題であり︑

石山寺内が宗教領主本願寺の領有空間として︑戦国期の他の領主権力の︿不入の地﹀として確立する上での問題であ

ったとも考えられよう︒

しかしながら︑

これまでの寺内町論においては︑寺院のいわば領主権の象徴たる︿不入﹀の問題は︑一向一揆と民

 

衆を結ぶ︿アジール的特権﹀として評価され︑寺内を寺院という組織・機閃が存在する空間として理解する線は弱い︒

ここでは︑天文七

l

九年にかけて寺内不入の問題をめぐって細川・山中・木沢などとの議論を︑︿寺内特権﹀

という視点からではなく︑寺院の領主権と不入権という問題から読み込んでいく︒

・ 月

・ 日 目 典 拠 R

1

摂津守護細川晴元賊郡の徳政を施行︑その旨︑山中藤佐衛門より通告を受ける︒︱﹁天文日記﹂

天文

7.

5.

10

一(

‑五

一二

八年

( 三 )

と結びついたことは言うまでもない︒

(16)

寺内

につ

いて

・覚

2天文

7.

5.

11

徳 政 の 件 を 細 川 へ 確 認 す る 旨 の 返 答 を 山 中 へ 行 う

﹁ 天 文 日 記

﹁ 一

天文

日記

﹂ 細川へ木沢長政を以て細川政元澄元の徳政・諸公事免除を記した制札を提示

一する︒また︑改めて制札を要求︒ 3天文

7.

5.

14

, 9 9 9 , '  

‑﹁

天文

日記

﹂ 4一天文7.7.9諸公事免除の制札︑木沢︑取次をもって細川より来る︒

5天文

7.

8.

21

細 川 へ 制 札 の 礼 が 木 沢 の 添 状 と と も に 送 ら れ る

﹁ 天 文 日 記

‑﹁

天文

日記

﹂一

山中方へ︑大阪寺内諸公事及び徳政の免除地であることを︑細川より承認さ一

れた旨を通告する︒ 6天文

7.

8.

27

~99,

'

,r99 9 ,  

7天文

8.

8.

28

山 中 方 へ の 通 告 は 木 沢 を 通 し て 行 な わ れ る

﹁ 天 文 日 記

︱ 証如︑諸公事・徳政の寺内免除の下知の文言が︑山中の主張により︑﹁殊於

︳﹁

天文

日記

﹂一

天文8.9.1

寺 内 者 被 免 除 記

﹂ と な っ て い る 点 に 不 満 を 主 張 し

﹁ 於 大 阪 寺 内 者 縦 雖 郡 中

8{ 2

共被免除記﹂と訂正させる︒しかし︑なお﹁いかにも/\難分別﹂と不満を一

︳も

らす

︐ 

﹁天

文日

記﹂

ー 山 中

︑ 細 川 の 下 知 と し て 摂 津 闘 郡 の 段 別 米 二 升 を

﹁ 寺 内 出 分 之 衆

﹂ に 対 し て

一賦課することを通告する︒ 9天文

9.

11

.7

﹁天

文日

記﹂

証如︑山中の段別米賦課の通告を先年の半済に対する﹁諸公事ム

をもって︑出作分に対する賦課を拒否する旨を返答︒ 10天文

.9

11

.1

1

ll

l 天 文 1 0 . 1 2 . 1 5

︳ 久 宝 寺

・ 西 証 寺 へ

﹁ 飯 尾 上 野 判 形

﹂ の 制 札 が 出 さ れ る

﹁ 天 文 日 記

‑ 1 2

︳天

20

.1

2.

19

︱再建された堺御坊に諸公事免許が許されんことを細川方へ要求︒

1 0

 

(17)

寺内

につ

いて

・覚

さらに︑また︑天文九年十一月には

しかし︑武家側は︑

︵表9︑

1 0 )

以上︑摂津守護細川睛元らと本願寺の石山寺内の範囲をめぐって︑

った具体的な問題からの論議が天文七年︑九年を中心に行なわれたようである︒そして︑

家権力﹀が︑本願寺という︿寺家権力﹀が存在する空間り領域へ︑

とくに徳政の適用除外および諸公事の免許とい

︿寺内﹀という空間可衣をめぐっての寺家側と武家側の理解の差である︒これは︑

⑳ すでに峰岸純夫氏によって指摘された点でもあるが︑つまり寺内とその

それは︑峰岸氏によれば︑本願寺

1 1寺家は寺内の︿不入﹀の範囲を石山寺内という空間に限定せずそこに居住する 的に考えたというのである︒検討のために︑表中

(8

︑9

でも示した史料を引用する︒)

▽◇自木沢︑藤井帰候︒中坊被申事には下知之文言︑山中望之通候︑寺内計と聞候て如何候︑早々号成 懸可取直之由候︒偲中坊被申候文章は︑於大坂寺内者縦雖為郡中共被免除記と候て可然之由︑被申候︒

⑰ /\難分別候︒

ぐっての論議がおき︑本願寺側は︑属人主義的立場から山中の主張を拒否している︒

半済が﹁諸公事免許﹂の範囲として確認されている旨が主張されている︒

また

いかにも

史料回△◇木沢並中坊又以藤井昨日承候趣難令分別候︒先ニハ以制札之旨徳政不行候き︒是ハ殊於寺内者被免除記と

⑳ 

候上者︑兎角被申候ハ人事有間敷かと思候︒但僻案候哉と申遣候︒

この問題と同質の細川の段別米が﹁寺内出分之衆﹂に賦課されるか否かをめ

その際に︑前例として︑ 史料り朔日 住民を対象とする属人主義的に考え︑

︿不入﹀の範囲を寺内という空間のみに限定する属地主義

住民を寺院の領土と領民という問題からとらえ直してみたい︒

︵ 表

11

10

)

Jこでは︑寺院の頷主権といった視点から︑

そし

て︑

︶こ

で興

味深

いの

は︑

を確認したという点に意義が見い出せる︒

いかなる形においても︿不入﹀であるということ

Jの問題は︑戦国期の︿武

(18)

︑ ︒

ぅヵ 史料り七日△◇従山中藤左衛門︑

⑳ 以使者申送候︒

史料目十一日△◇山中藤左衛門へ︑段別事返事今日中遣候︒先年寺町之時︑段米雖懸之以諸公事免除之筋目聞分記︒

中嶋入

又山中も以前半消事雖申懸之︑依申披相除候き︒先年之例と云︑井原局馬廻輩之知行除之と云︑芳不例也︒

年也⑳ 

又非惣次之儀之上者︑諸公事免許成敗之旨︑得其意於聞分者︑祝悦之由申遣詑゜

さて︑本願寺をして︑

以細川之下知︑欠郡段別米式升宛鱈年疇疇工麟

暉乳事︑寺内出作分之衆可出之之由︑

というものであるが︑属人主義的立場を貫こうとする本願寺証如の立場が読みとれると思われる︒

⑪ 

﹁寺内住民の要望をふまえて﹂いわゆる﹁寺内特権を確保﹂させた理由は何であったのだろ つまり︑本願寺証如は︑寺内住民の商業活動やその権益を代理して︑摂津守護と寺内での諸公事・徳政適用免 除へと熱心に働いたと一連の動きから読み取ることができるのであろうか︒

たし

かに

︑ 山科から石山へと本寺の組織・機関を移転させ︑本寺を収容する空間としての︿寺内﹀の整備には︑ぜ ひとも寺内の商工業者の経済カ・技術力が必要であったと思われる︒

しかしながら︑問題となるのは︑この論議の結 果︑石山寺内は︑武家の領主権の及ばない領域であることが確認され︑本願寺という寺院の支配する領域であり︑

た︑その住民は本願寺の支配下に入る領民として確定したことを意味する点である︒

本願寺にしてみれば︑寺内の︿不入権﹀が確定することにより︑中世的な法秩序に規制されつつも︑全国的教団組 織を統合するための裁判や処断を執行する権門としての確立を意味したと思われる︒それゆえに︑天文七年︑九年の 事件を︑本願寺教団の本寺としての組織・機閃が石山寺内で整備されゆく過程で起ったと考えるならば︑

やはり摂河泉の領国支配体制︑

︱つの画期としてとらえるべきと考えられる︒

寺内

につ

いて

・覚

そこ

には

︑ とくに領主間配置の中に本願寺という寺院領主が割り込みそのなかで編成されていく

(19)

① 註

寺内

につ

いて

・覚

て︑私が主張する寺院の領主権という視点と寺院という組織・機関の問題を考えないと解釈しきれないと判断したも

のにとどまるという点である︒

⑬ た︒本精を覚書としたのはこのためであり︑

寺内町と寺内町の研究史については︑池上裕子﹁寺内

町﹂︵﹃日本歴史大系﹄二中世︑一九八五年︑山川出版社

本稿においては

領主として評価するならば︑

さて︑以上︑寺内とは何かという問いに対して︑二つの主要な問題と史料を中心に論議してきたわけであるが︑

⑬ 

こから次に述べる寺内町研究への展望を獲得した︒

まず第一点は︑石山坊舎への本寺の機関・組織の移転と寺内の拡大を見るならば︑寺内は寺院の存在する空間およ び寺院を支える諸機関が存在する領域として論議する必要があること︒

べきであること︒以上の二点である︒

この二点を中心に論議したが︑ ととしたい︒ ただし

︶ 

四 問 題 の 展 望

︵ 

J

の問

題は

② 

ここで提示した史料で論じ切るのは質量ともに不足するため︑今後の課題として意識するこ

そ また︑第二点は︑寺内における寺院の存在を

いわゆる︿寺内特権﹀は寺院領主が武家領主に対して保有する︿不入権﹀として理解す

とくに留意したのは︑使用した史料は︑これまでの研究史におい

刊 ︶

鈴木良一﹁戦国の争乱﹂︵前﹃岩波講座日本歴史﹄中世

1 0

頁 ︒

0

日 ︶

い︑︑つれ稿を改めて私なりの︿寺内町﹀像を提示したい︒

従って︑ここでは史料操作・解釈上の問題点の指摘にとどめ︑

具体的な論議は控え

(20)

⑦  ⑥  ⑤  ④  ③ 代表的な論考として︑峰岸純夫﹁一向一揆﹂︵﹃岩波講座日本歴史﹄中世四︑一九七六年︶︑藤木久志﹁統一政権の成立﹂︵﹃岩波講座日本歴史﹄近世一︑一九七七年︶︒井上鋭夫﹁中世鉱業と太子信仰﹂ーー初期本願寺門徒の社会経済的性格に関する試論︵﹃真宗史の研究﹄一九六六年︑永田文昌堂刊︶によって提起された︒なお︑井上氏のこの問題に関する諸論文は︑﹃山の民・川の民﹄︵一九八一年︑平凡社選書︶に一本にまとめられた︒﹁ワタリ・タイシ﹂論の私なりの理解は︑拙稿﹁一向一揆論のための序章﹂︵﹃仏教史研究﹄ニ︱号︑一九八五年︶で述

一向一揆論を戦国史研究に再講成する試みは︑藤木久志

﹁一向一揆論﹂︵﹃講座日本歴史﹄中世二︑一九八五年︑

東京大学出版会︶においてなされている︒また︑その方

法については︑拙稿﹁一向一揆論への一視点﹂︵﹃新しい

歴史学のために﹄一七八号︑一九八五年︶で論議した︒

石山寺内の研究については︑今井修乎﹁石山本願寺寺内

水本邦彦﹁畿内寺内町の形成と展開﹂︵﹃論集近世史研

究﹄一九七六年︑京都大学近世史研究会刊︑後に峰岸純夫﹃本願寺・一向一揆の研究﹄一九八四年︑吉川弘文館

二巻︑蓮如とその教団︑同朋舎刊︶︑四五九頁上段︒

⑧⑨﹁私心記﹂︵﹃真宗史料集成﹄第三巻︑一向一揆︑同朋 寺内について・覚書

舎刊︶︑天文元年八月四日二条︑天文二年七月二1

一 日

ニ四日条︒五四01五四一頁︑五四九頁︒

﹁拾塵記﹂︵﹃真宗史料集成﹄第二巻︶六

0九頁上段︒ま

た︑﹁実悟旧記﹂に﹁︵山科︶本堂御影堂ヲモタテラレ︑

御住持ヲモ御相伝アリテ大坂殿ヲ御建立アリテ御隠居

﹁諸文集﹂麟︵﹃真宗史料集成﹄第二巻︑二七三頁下段︒

表の典拠は︑﹁諸文集﹂︵﹃真宗史料集成﹄第二巻︶︑﹁天 文御日記﹂︵﹁天文日記﹂と略︶﹁私心記﹂︵﹃真宗史料集

⑬⑭﹃本願寺年表﹄(‑九八一年︑浄土真宗本願寺派︶九0

⑮﹁私心記﹂天文四年十二月朔日条︑︵﹃真宗史料集成﹄第

0

頁 ︒

⑯﹁天文日記﹂天文五年十一月十二日条︑︵﹃真宗史料集

成﹄第三巻︶七一頁上段︒

⑰﹁私心記﹂天文四年十八日条︵﹃真宗史料集成﹄第三巻︶

⑱⑲⑳⑳﹁天文日記﹂天文十一年一月四日条‑︱一月十日

1 0

1 0

七頁上

山寺内に﹁典正寺所御堂立柱﹂をし︑寺基を移転させた

ようである︒また︑大坂坊舎と興正寺の関係について

は︑宮崎清﹁大坂坊舎建立の事情﹂︵木村応夫編﹃蓮如

⑫  ⑪  ⑩ 

(21)

⑳  ⑳  ⑳ 

⑳  ⑳ 

寺内について・覚書 上人の数学と歴史﹄一九八四年︑東方出版刊︶︒﹁本願寺法王国﹂については︑拙稿﹁﹃本願寺法王国﹄論への一視点﹂︵北西弘先生還暦記念会編﹃中世社会と一向一揆﹄(‑九八五年吉川弘文館刊︶︒また︑戦国期権力論と一向一揆の関係については︑﹁戦国期権力における本願寺・一向一揆体制﹂︵﹃二葉憲香博士古稀記念論文集﹄一九八五年︑永田文昌堂刊︶︒寺院のアジール性についての論議の代表的論稿は︑網野善彦『無縁・公界・楽』ー—日本中世の自由と乎和

寺内町論が都市史研究ないし一向一揆研究という問題視

角から論議されたためであり︑寺内町を寺院史的視角か

ら論議していく必要性を感じる︒

峰岸氏﹁一向一揆﹂︵﹃日本歴史﹄中世四︶一四四頁

1‑

四八頁︒また︑峰岸氏の一向一揆に関する議論は︑管見

の及ぶ範囲では次の通り︒﹁一向一揆﹂︵﹃シンポジウム

日本歴史﹄九土一揆︑一九七四年︑学生社刊︶︑﹁大名領国と本願寺教団」ー—とくに畿内を中心にー(『日本

の社会文化史﹄︱‑︑封建社会︑一九七四年︑講談社刊︑

後に峰岸氏編﹃本願寺・一向一揆の研究﹄に収録︶︑﹁一

1

そのニネルギーの謎ー︵﹃日本史の謎と

発見﹄八︑戦国の風雲︑一九七九年︑毎日新聞社刊︶︒

⑳⑮⑳⑳﹁天文日記﹂天文七年九月朔日︑二日条︑天文九

年十一月七日︑十一日条︵﹃真宗史料集成﹄第三巻︶一

八五頁下段1一八六頁上段︑二六五頁上段︑下段︒

⑳峰岸氏﹁一向一揆﹂︵﹃日本歴史﹄中世四︶一四六頁︒

⑫本稿では︑寺内町を都市論的に検討することはできなか

った︒この点についての展望は︑仁木宏﹁石山本願寺と寺内町」ー~摂河泉を中心として(京都大学文学部、

一九八四年度卒業論文︑一九八五年七月九日﹁日本史研

究会中世史部会報告﹂レジメ︶がすぐれている︒

R本願寺の宗教社会史的性格から︿寺内﹀の性格について

は︑大会当日の報告の主要な論点の一っとなっていた

が︑成稿にあたって枚数が大幅に超過することとなるた

め省略した︒別稿を革する予定である︒また︑本願寺の

宗教社会的性格については︑拙稿﹁本願寺成立の特質﹂

ー真宗教団史論への一前提﹂︵﹃仏教史研究﹄十八号︑一

九八一二年︶︑﹁いわゆる﹃仏法領﹄について﹂︵﹃龍谷史

壇﹄八一・八二合併号︑一九八一二年︶︑﹁仏法領と仏物

と﹂︵木村武夫先生喜寿記念会編﹃日本仏教史の研究﹄

一九八六年︑永田文昌堂刊行予定︶︒

︿附記﹀大会当日のタイトル﹁寺内と寺内町と﹂を本稿の

内容に即して﹁寺内について・覚書﹂と改めた︒

(22)

下問氏が差出人となる文書は︑当時の本願寺公文書の最も主要なものであるが︑

一揆研究にとって不可欠の作業というべきであろう︒近年︑

その前提となるべき基礎研究︑すなわちこの種の文書に

① 

関する古文書学的研究が︑金龍静・草野顕之・泊清尚氏らによって相次いで発表されている︒これによって︑個別文 書の意味解読をおこなうあらたなコンテクストが準備されつつあることはいうまでもない︒これにくわえて︑近年ま で全く閑却されてきた志納請取状の研究が示唆するように︑

この研究線上において真宗史・教団論のあらたな視角が

② 

生みだされようともしているが︑この点には泊氏らが言及しているので︑詳しくはそちらにゆずりたい︒本稿は︑比 較的まとまった研究の進んでいない十六世紀前半について専ら基礎的分析をすすめることで︑右の諸論がかたちづく る研究状況の一端につらなろうとするものである︒なおここでは考察対象時期を︑顕如が門跡勅許を得た永禄二年十

下間氏は蓮如時代以後本願寺の侍臣として成長し︑

下間氏加署文書の一考察

一向一揆時代の本願寺の動向に深くかかわる存在である︒この

その内容検討は本願寺教団史・一向

山 伸

︵大

谷大

学︶

一 六

(23)

下間氏加署文書の一考察

の四類型に分類している︵︿﹀内は片山が便宜的につけた呼称︶が︑

( D )  

ベ含問題である︒ ③ 

これは草野氏も指摘するように︑下間氏の坊官就任に起因する﹁礼﹂関係の変換が︑文書の 様式・休系に少なからぬ影轡を及ぼしたことを想定すべきだという理由から︑あらかじめ設定されたものである︒

宗主の意を伝達する︿奉書﹀

純然たる︿私状﹀

なお︑もとより分類には多様な基準設定が可能であり︑それ自体一定の恣意性にもとづくものなのだから︑

( C )  

本願寺の公的意志を下間氏が独自に指令する︿直札﹀

( B )  

宗主書状の︿副状﹀

( A )  

解明することにある︒この点︑金龍氏が︑

(一)

たがってこの時期区分の当否は 二月以前に設定したが︑

一 七

Jの小論 J

れは意志伝達の型式という面からは動かし難

いずれあらためて︑本願寺の公文書全体を通時代的に見たうえで検討しなおされる

補註1

本稿の当面の目標は︑下間氏加署の文書群を様式に即して分類し︑そこにあらわれる意志伝達手続き上のルールを い分類と考えるので︑本稿でもこれを踏襲する︒また公文書という枠を設定し︑

(A

)1

(C

)のみを考察対象とする︒

はひとつの試論の域にあるものといわねばならない︒換言すれば︑分類とはあくまでも対象の一断面を射照する機能

(24)

をもつものであり︑

とこ

ろで

職的

地位

ここに有効性と限界とがある︒この点︑私の方法的前提として確認しておきたい︒

︑︑

︑ まず分類にさきだって注意しておきたいのは︑対象を本願寺公文書におく限り︑そこに署判する者の公 つまり加署の資格を見出しうるはずだという経験的前提である︒本稿ではこの点に注意を払い︑文書様式 との連関を考えてみたい︒幸いにして証如時代の宗内の諸記録にはそのための手がかりを見出しうるから︑適宜検討

をくわえてゆくことにするが︑

さらにその前提として︑事前に整理しておいた方がよいと思われる事柄が一点ある︒

というのは︑右に言う諸記録にあらわれる﹁奏者﹂と﹁取次﹂なるものの概念についてである︒先行の研究によると︑

金龍氏は﹁︵下間氏︶上座・名代の主な任務は︑宗主にたいする奏者として︑諸家門末の取次・披露を行う事である﹂

④ 

と言い︑﹁取次﹂を﹁披露﹂とならぶ上座の職務の一還としている︒草野氏は︑ある面で︑

⑤ 

一視している︒また泊氏は︑事実関係を保留するとしたうえで︑

⑦ 

日記

﹁奏者﹂と﹁取次﹂を同

⑥ 

このふたつの語を使いわけている︒しかし﹃天文御

︵以下﹃天記﹄と略称する︶天文五年一月廿八日条に︑

⑧ 

には下問氏上座以外の多様な人々があたっていることなどからみて︑

﹁取次明照寺・奏者上野也﹂と記すことや︑

ある︒本稿ではこの点の弁別を明確にしておく必要があるが︑実はこれについては大桑斉氏が上記の研究にさきんじ て両者の役職としての差異を指摘し︑そこに生じた重層的官僚機構の矛盾が︑本願寺東西分派に連動する家臣団分裂

⑨ 

の一動因であったことを論じている︒大桑氏はつぎのようにのべる︒

取次が動詞に使われているところからみて︑特定の役職を示すものではなく︑礼物・書状などを取次ぐという機 能をさしているものであるといえよう︒従って在地寺院であっても︑

﹁奏者某﹂とい

上野のような奏者であっても︑取次を行な うことが出来るのであって︑奏者のように対面に立合って披露をするというようなものではなかった︒

ほぽ納得のいく説明であるが︑私なりに整理すればつぎのようにいえる︒

下間氏加署文書の一考察

﹃天記﹄を検索すると︑

﹁奏者﹂と﹁取次﹂はあきらかに別個の職制で

﹁取

次﹂

(25)

下問氏加署文書の一考察

頼資 頼良 連関に目をむけてゆきたい︒ 備忘の必要がないが︑ 逹・奉行にあたる宗門内部制度的な役職であり︑

は う

記入

ぱ︑

﹁奏

者﹂

一 九

は下間氏上座という特定の者に課せられるもので︑とくに

しばしば証如自らがだれかと対面したことの記事に付随してあるのにたいし︑

一般に音信の授受に関する記事に付随する︒これよりみれば﹁奏者﹂とは︑宗主対面の際にその場に伺候して奏 記入はなんらか特別の事情がある場合である︒

︵﹃天記﹄天文五年九月十三日条︶

当所名主百姓中

など

とあ

る︒

一方﹁取次﹂は︑文字どおり音信・志納等の仲介をおこなう社会慣 習的行為であると考えられる︒そもそも﹃天記﹄において﹁取次﹂は逐一記入されるのを原則とするが︑

たとえば﹁上野留守の間ハ左衛門大夫に奏者の事︑以光応寺申付也﹂

﹁取次﹂は不特定がこれをおこなうものだからである︒また詳しくは後述するが︑

﹁奏者﹂と同様に上座の職務である︒次節以下では実際に文書遺例の様式検討をすすめるなかで︑

つぎに掲げるのは︑傍点部分より判別されるように︑

⑩ 

﹁鹿

王院

文書

︿奉書﹀の事例である︒

﹁奏

者﹂

﹁披

露﹂

これらの職制との

嵯峨洪恩院領加州石川郡安吉保公要事︑就未進分之儀︑近年雖有申事悉以被棄破記︑早令存知之︑年貢諸公事物

︑︑

︑ 等︑如先々対鹿王院上使速可令其沙汰︑聯不可及遅怠之旨被仰出之状如件︑

永禄元九月廿七日

一方﹁取次某﹂という記入

(26)

御状之通令披見候︑偲内島殿就出陣之儀内々可有合力欺之由致披露候処︑宗肱之大法候之間貴所陣立不可然之旨 御意候︑此趣内嶋殿可被仰出候︑定不可有与俵候︑乍大儀自然之助成候者可然欺︑委細者御使申候︑恐々謹言︑

︵ 花 押

上座に任ぜられ︑

まず︿奉書﹀加署の資格について考える︒結論からいえば︑この時期の本願寺にあっては下間氏嫡流より筆頭者が

⑫ 

これと︑場合によってはその名代とが﹁奏者役﹂にあたったとされており︑遺例に即して考えると

︿奉書﹀はこの上座・名代が署判するものである︒ただ︑この結論にはひとつの障害がある︒あきらかな︿奉書﹀の

 

署判者としてあらわれる下間兼頼・頼助・頼盛らが︑谷下氏・金龍氏らの通説的見解では奏者経験者とされていない

ので

ある

︒ つまり︑天文十年八月以後︑奏者一二人制が敷かれたとする説が通説化しているのであるが︑しかし﹃賀州

⑮ 

本家領謂付日記』天文――•三年分には「奏者」として筑前

(11頼秀)・民部少(11頼盛)・丹後(11頼玄)三者の名前

があらわれる︒

うにみると天文四年以降の単独奏者制こそ︑頼秀︑頼盛追放ならびにその父頼玄の引責をめぐる非常事態を示してい るのではあるまいか︒奏者=︱‑人制を本来のものとみるならば︑兼頼・頼助らの︿奉書﹀も︑むしろその存在から彼ら

⑯ が奏者であったことを推定すべきであろう︒

奏者と奉行とは担う意志伝逹の方向こそ逆ではあるが︑あきらかに同種の原理にもとづく職務であり︑本願寺にお いてはこれをあわせて下間氏上座・名代がつかさどっていたのである︒

したがってこのときすでに奏者三人制︵上座一人︑名代二人︶がおこなわれているのであり︑このよ

御返事 照蓮寺 九月五日 ⑪ ﹁高山別院照蓮寺文書﹂ 下問氏加署文書の一考察二

0

(27)

下間氏加署文書の一考察 かわるものである︒

ところで︑例一と例二の様式上の差異はあきらかだろう︒機能・目的からみると︑前者は頼資・頼良が上座頼総の

⑰ 

名代としての資格において加署した加賀国行政文書であり︑後者は門末照蓮寺よりの通信ー│̲披露状ーを受信した 書﹀はこれらの例に代表される加賀国行政文書と宗内門末に充てるものとに大別できる︒

⑬ はじめ﹁謹言﹂と書止めるものから︑折紙で付年号をもち︑

達如件﹂と書止める一層下知状様式に近いものへと移行する︒他方宗内充の場合には︑おおむね切紙で決して年付を

⑲ 

書かず︑候文で書かれてあり︑永禄年間未頃に発生する印判状を例外としてあくまでも﹁謹言﹂と書止める書状様式 私は本願寺の加賀行政権とは守護権にもとづくものと考えるが︑

奉行人に擬せられた下間氏上座が宗主にかわって下知する公文書である︒それゆえ様式的には︑室町幕府奉行人奉書 が意識されているように思われる︒他方宗内充の︿奉書﹀は︑身分制に起因して宗主が門末に宜接の意志伝逹をおこ なわぬ場合︑宗主の私的な雷札を︑下間氏上座が代行作成するものである︒その意味で︑後者はあくまでも書状様式 を逸脱してはならないものなのである︒そこで私はこれらを弁別して︑

こう

と思

う︒

その内容を宗主に披露し︑

なお︽上座奉書︾の特質として︑

照蓮寺にこれをつげると共に宗主の意向を奉じ伝達したものである︒

部におかれる事が多いという点に注意しておきたい︒

したがってその文書は︑政治的な通達を︑守護代・

とくに後者を︽上座奉書︾として握把してお

︿奉書﹀であることをつげる文言︵奉書文言︶が︑全文の末尾にではなく︑中間

したがって型式から見る限り奉書文言のあとにくる内容は宗主

の意志ではなく︑下間氏上座・名代自身の意志をあらわしていることになる︒この点は︑後述の︿直札﹀の意義とか を墨守しているのである︒このような形式上の差異は

つぎのような意味の反映と理解できるかと思う︒すなわち︑

のち永禄初頭には例一のごとく﹁状如件﹂あるいは﹁執

一般に︑加賀国行政文書は 上座蓮応が

︿奉

(28)

善徳寺殿 披露文言と呼ぶことにする︶の存在から︑上座の作成する文書であると考えられる︒何故なら︑

と門末志や勧進物等の宗主への﹁披露﹂は︑原則として奏者がつとめているからである︒

一環であると考えられよう︒次掲の付表にあきらかなように披露文言は志納請取状の場合︑

普遍的に存在する︒

﹁御書被参候﹂という文言より︑

御報 月廿六日 主志納請取礼状の︿副状﹀はそれにあたる︒

⑳ 

﹁城端別院善徳寺文書﹂

︑ 御礼旨拝見仕候︑如仰当春之御慶事旧候畢︑初鳥目五十疋致披露候︑同御方様江一二十疋致披露候︑何も御書被参 候︑随而私江弐十疋被下候︑過分至極候︑将又已前就御門徒之儀︑上様江一二百疋青木方より請取申候︑致披露候︑

同御方様江弐百疋︑定而御書可有御申候︑目出存候︑将又雖軽徴至極候帯弐筋進入候︑誠表御祝詞計候︑何様御

上洛之時可申入候︑恐憬謹言︑ 例 ︿奉書﹀以外にも上座が自らの職務の一環として加署する文書が存在する︒たとえば城端別院に伝存する二通の宗

下間

氏加

署文

書の

一考

蓮応︵花押︶ つぎの例三はその一通である︒

︿奉

書﹀

︿副状﹀ともに ﹁披露﹂は奏者役の職務の

これが︿副状﹀であることが判明する︒加えて﹁致披露候﹂という文言︵これを

﹃天記﹄を通覧する

(29)

下問氏加署文書の一考察

I 15  14  13  12

五 ― . i o

9  8  ;  6  5 ‑4  3 ‑ 2  1 │ 

心 砿 蓮 蓮 頼 頼 頼 実 砿 蓮 蓮 蓮 蓮 蓮 蓮 砿 兼 頼 は 五 差 法 署 出

; 勝 琶 応 応 秀 秀 秀 英 芭 応 応 応 応 応 応 巴 頼 玄 橋 者

' ‑ 八

..  . 一

源 五 郎

善 徳 寺

善 徳 寺

照 蓮 寺

浦惣中 内

島 照 蓮 寺

照 蓮 寺

照 蓮 寺

照 蓮 寺

照 蓮 寺

照 蓮 寺

照 蓮 寺

明 顕

名 充 人

十 一 月 廿 八 日

月 廿 六 日

月 十 六 日

五 月 一 日

⑤ 

三 月 廿 八 日

卯 月 二 日 十

月 十 五 日 十

一 月 晦 日 二月二日

︱︱

一月

十五

日 二月二日

二月廿七日 十

月 五 日

八 月 晦 日

九 月 九 日

日付

⑧ 

勝 興 寺

ロ / 

高 山 別

⑦  院 善 徳 寺

⑥ 

願 慶 寺

高 山 別 院

二六

 

① 

勝 霊 寺 五

I I  

'  

 

② 

由来記裏

③ 

高 山 別

院 伝

付 表 現 存 下 間 氏 加 署 志 納 請 取 状 一 覧

◎※

 

0

※ 

0

※ 

◎※

 

◎※

 

◎※

 

◎※

 

◎※

 

◎※

 

◎※  ◎※ 

◎※

 

◎※

 

1

' 

!

‑‑‑‑' 

付表註

1奉

書文

言︑

0 1副

状文

言︑

※1披露文言の存在を示す︒

註⑬

参照

﹁高山別院照蓮寺文書﹂︒番

号は﹃岐阜県史﹄所載の番号︒

註⑪

参照

﹁勝

婁寺

蔵照

蓮寺

旧蔵

文書

﹂︒

番号は﹃岡崎市史﹄6所載の

番号

﹃岡崎市史﹄では正月廿八日 ︒

とす

るが

写真

では

一一

一月

と読

る︒蓮如忌の折のものであろ

﹁願慶寺文書﹂︒註⑪同様の う ︒

写真によった︒﹁城端別院善徳寺文書﹂︒番

号は﹃富山県史﹄所載の番号︒

註⑳

参照

触順史編﹃雲龍山勝興寺古文

書集﹄七号︒なお︑同書はこ

の文書を﹁疑いあり﹂とするが︑﹃富山県史﹄通史編

I I 八

ニ︱

︱一

頁所

載の

写真

は︑

﹁蛯

家文書﹂等と対照して正文と

見倣してよい︒この点﹃県

史﹄本文参照︒ ⑧  ⑦  ⑥  ⑤  ④ 

③ ②  

参照

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