• 検索結果がありません。

People from Beiqi (北斉) and the Guan-LongClique (関隴集団)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "People from Beiqi (北斉) and the Guan-LongClique (関隴集団)"

Copied!
27
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

People from Beiqi (北斉) and the Guan-Long Clique (関隴集団)

稲住, 哲朗

九州大学大学院人文科学府

https://doi.org/10.15017/27522

出版情報:九州大学東洋史論集. 41, pp.52-77, 2013-03-29. The Association of Oriental History, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

東洋史論集四一

北 斉 出 身 者 と 関 陣 集 団

手 首 住

モド斤

仁ヨ

朗 は

じ め に

北貌分裂後に関陣地域を版図とした西貌・北周は︑五七七年に山東地域の北斉を滅ぼした︒さらに︑その後継国家で

ある惰は︑南朝最後の王朝である陳を滅ぼし天下統一を果たした︒このように関陣地域を基盤とした政権が勢力を伸張

させた点について︑かつて陳寅幡氏は所謂関陣集団論を提示された︒すなわち︑西貌・北周では民族や出自を超えた結

束を図るために︑﹃周礼﹄に倣った官制の採用や府兵制といった諸政策関中本位政策が行われ︑この体制をもとに統

治者集団リ関隣集団が形成されたとするのである︵

l z

この理解は多くの研究者に影響を与え︑我が国では惰唐を六朝以

来の貴族制の連続とする見方に対して︑布目潮楓氏がその支配者は鮮卑系やそれに奉仕した武人的官僚出身者であった

側面を指摘し︑その支配者集団に関陣集団の語を使用された

2 0

また︑谷川道雄氏は関陣集団論と貴族制とを結びつけ︑

北貌末以降に社会的向上を目指した人々が旧来の門閥主義の克服を目指した新貴族制の実現形態であったと論じられて

いる

2 0

関陣集団論によれば︑北周は関中本位政策によって強固な紐帯を形成し︑唐高宗前期まで独占的に支配者の位置を占

め続け︑政権の中枢を担い続けたとされている︒しかし︑政権の中枢を関陣集団が担い続けたとされる期間については

異論も提出されており︑惰文帝期にはすでに状況に変化が生じていたとするもの

2

︑場帝期以降に徐々に衰勢に向かっ

hu

(3)

たと

する

もの

5︶︑唐太宗期に宰相・将軍位の独占が崩れているとするもの

5

などの諸見解がある︒すなわち︑陳氏の所

説とは異なり各々その画期に差があるものの︑関隣集団が上層部を独占していた状況に変化が生じ︑政権内で北斉や南

朝出身者の割合が高まっていったとされているのである︒

一方で︑関陣集団の優位性低下の理解に対し︑李万生氏は︑陳氏が﹁広義の関隣集団﹂を規定していたことを指摘し︑

北斉出身で政権に参与した者を含めて﹁広義の関瀧集団﹂として理解すべきことを論じられた︵7

︶︒

さら

に李

氏は

︑﹁

義の関犠集団﹂が唐高宗期まで統治集団を独占したと考えるべきであり︑﹁北斉出身者の進出﹂H﹁関瀧集団の優位性

の低下﹂という諸氏の指摘自体が正鵠を射たものではないとする︒李氏の見解は︑関隣集団に北斉出身者が含まれ得た

ことを再論したものとして重要であるが︑氏の理解によれば︑関隣集団に組み込まれた北斉出身者が存在する一方で︑

それ以外の北斉出身者はやはり異分子として排除され続けたとされている︒この北斉出身者に対する見方は︑かねてよ

り宇都宮清吉氏が入.周後の顔之推を通してその政権に対して失意の姿を通して論じられ︵立︑藤善真澄氏が﹁何よりも彼

等 ︵

H北斉出身者・:筆者加筆︶にとって︑関中生活はエトランゼのそれであり︑また彼等自身が亡国の民︑虜囚にも似た

境遇から免れることはできなかった﹂と指摘されるようにす︶︑多くの先行研究で指摘されてきたものである

5

︒とする

ならば︑北斉出身者の一部を取り込むという外に聞かれた面を持ちながら︑他の北斉出身者に対して厳然と閉鎖された

集団であったといういわば相反するこ面性があったこととなるが︑その実態についてはいまだ考察の余地があると筆者

は考

える

その第一歩として︑かつて筆者は北斉出身で惰に使えた麗思道という人物に注目し︑彼が惰代に北斉・北周の歴史を

著した﹁周斉興亡論﹂に注目し考察を行ったことがある

5

︒その際に︑まず︑﹁周斉興亡論﹂では︑周惰を正統とみな

す当時の状況に反し︑北斉の正統性をも認める記述が見られること︑そうした記述への糾弾を彼は惰朝から受けていな

いことを指摘した︒次に︑その背景として﹁周斉興亡論﹂には惰が天下統一を果たそうとする現状を好意的に捉える記

述もなされており︑北斉を単に賛美するのではなく︑王朝交替により誕生した惰による統一の永続を願う意識があった

北斉出身者と関離集団︵稲住

丹 ︑υ

ph d 

(4)

東洋史論集四一

ことなどを論じた︒そして︑彼の歴史認識や国家観は︑関隣集団論とつながる北斉出身者との対立構造からは導き出さ

れず︑一土大夫の事例とはいえ︑王朝交替を経た土大夫の動向という点から当該時代への再検討の余地を示唆するもの

であると指摘した︒このような見方が当を得たものであるか否かを論じるためには︑視座を広げ北斉出身者全体が果た

して如何なる立場にあったのかという全般的な考察が必要とされるが︑そうした検討はさらに関隣集団という支配者集

団の性格そのものとも大いに関わってくると考えられるのである︒

本稿は以上の問題意識の下に︑北斉出身者が置かれた北周末から惰代における状況について考察し︑以て当該時期の

政権構造に関する新たな知見を得ようとするものである︒

北 周 末

楕 に お け る 北 斉 出 身 者 の 仕 官 状 況

﹁はじめに﹂で述べたように︑先行研究では︑北周・惰で北斉出身者の政権内への参与が見られながらも︑彼らは抑

圧された状況にあったとする見方がなされている︒本節ではこうした見方の当否について検討するため︑まず︑当該時

期の北斉出身者の仕官状況と彼らの置かれた位置について検討する︒

五七七年の北斉滅亡後︑北斉出身者は北周・惰にどれほど仕官し得たのであろうか︒この点に関連する史料として︑

﹃周書﹄巻六武帝紀下︑建徳六︵五七七︶年三月壬午の条に︑北斉併呑直後に出された詔として︑

山東の諸州に詔すらく︑各々明経幹治の者二人を皐︑げよ︒若し奇才・異術ありて︑車爾不牽なる者あらば︑多少に

拘は

らず

︑と

とあり︑同本紀同年七月己丑の条に︑

山東の諸州に詔すらく︑有才の者を奉げよ︒上勝は六人︑中将は五人︑下勝は四人︒行在所に赴かせ︑共に治政の

得失を論ぜしめよ︑と︒ AFυ

(5)

とある︒右の二つの詔からは︑旧北斉領を統治するにあたり北斉出身者をその統治機構に積極的に組み入れようする方 針が読み取ることができるが︑そこには彼らを駆使することで旧北斉領統治の円滑化を意図したものと考えられる

2E

また︑同書巻七宣帝紀︑宣政元︵五七八︶年八月の条には︑北斉滅亡の翌年に出された詔として︑

詔して九僚を制し︑州郡に宣下す︒:::七に日く︑偽替の七品以上は︑己に救して牧用す︒八品以下︑愛に流外に

及ぶまで︑若し入仕せんと欲せば︑制刻圏叫剖料引剖剰

U

︑二等を降し官を授けよ︑と︒

とあり︑北斉出身者のうち七品以上の者はすでに勅命によって任官されていること︑及び八品以下の仕官を求める者に

対して﹁二等﹂下げて官職を授与すべきという方針が打ち出されたことを伝えている︒ここで︑八品以下の者に対して

﹁皆な選に預かるを聴し﹂とあることからは︑後述するように北斉時代に比べ官位の下降はあるものの︑仕官を望む者

に対して基本的に間口を閉ざすものではなかったとされるであろう︒また︑﹁救﹂によって﹁収用﹂された七品以上の

者についても︑﹃北斉書﹄巻一一慶寧王孝所伝に︑

長安に至り︑例に依り開府・豚侯を授けらる︒

とあり︑問書巻四

O

唐山

邑伝

に︑

︵唐︶色︑遂に周に降り︑例に依り儀同大将軍を授けらる︒

とあるように︑北斉時代の地位や官職に対応していたであろう﹁例﹂の規定により任宮が行われていたことがわかる︒

さらに︑こうした任官を差配した者に目を向けると︑﹃惰書﹄巻四二李徳林伝に︑

此より以後︑詔詰格式及び山東の人物を用ふること︑一に以て之︵H

李徳

林︶

に委

ぬ︒

とあり︑北斉出身の李徳林に一任されており︑李徳林は北斉出身者の代表とも目される人物であった

8 0

この

こと

は︑

北斉政権内の事情を熟知した人物を通すことにより︑以前の官歴や能力に可能な限り見合った任官を円滑に行うための

措置であったと考えられる︒

次に︑北周を継いだ惰の事例を挙げると︑﹃文館詞林﹄巻六九一惰文帝令山東品川四州刺史挙人勅に︑

北斉出身者と関臨集団︵稲住

Fh u 

hd 

(6)

東洋史論集四一

天下に君臨するに︑須つ所は材なり︒荷も材を求めずんば︑何を以て化を為さん︒周の東夏を平らげてより︑毎に

捜揚せしむるも︑彼の州の俊人︑多く未だ麿起せず︒:::朕︑天命を受け︑四海もて家と為す︒関東・関西︑本よ

り差異無し︒虚心もて之を待つこと︑猶ほ飢えて食を思ふがごとし︒彼の州もし替に仕へ七品巳上の官︑及び州・

郡・懸︵豚︶の郷望にして勝功曹己上︑在任・下代なるを聞はず︑材幹優長にして時事に堪ふる者有らば︑仰ぎて精

選して之を器︑げよ︒たとい未だ仕官を経ざるも材望釈然たるもの︑郷望高からずと雄も人材卓異なるものは︑悉く

挙限

に在

り云

々︒

とある︒右では︑北周末から山東諸州で人材を求めていたものの︑いまだに仕官に応じなかった者も多数いたこと︑そ

れを受けて北斉で七品以上であった者を推挙をすべき方針が打ち出されている︒﹁精選﹂とあることからは推挙対象は

真に有能な者のみであったとはいえ︑その任用が出身ではなく人才主義的なものであったとされるであろう︒以上より︑

北周・惰両朝ともに︑北斉出身者を政権内に積極的に取り込もうとする方針を打ち出してたと考えられるのである

g

では︑実際にどれほどの者が両朝に仕官したのであろうか︒その各事例を整理した結果得られたのが︑後掲の︻表

1

であ

る︒

︻表

1

︼は北斉で起家した後に北周・惰に仕えた人物の事例に限定したものであるが︑豊富とは言い難い現存

史料からも一五

O

名余りが挙げられ︑支配者層全体の中で一定の割合を占めていたとできるであろう︒ただし彼らが北

斉時代と同等の官職を得たわけではなかったことは︑前掲の﹃周書﹄の記述中に八品以下の者に﹁二等を降し官を授﹂

けられたとあることや︑︻表

1

︼に挙げた各事例からもその傾向を読み取ることが可能である︒そうした実態を示す史

料として︑劉士安墓誌にはき︑

周の東夏を平らぐるに属び︑箸纏を改易し︑鍾鼎膏映もみな豚に仕ふ︒

とあり︑北斉の滅亡を受けて︑﹁鍾鼎膏腺﹂すなわち名族さえも県の属僚として仕えていた状況を伝えている︒また︑

﹃金石翠編﹄巻四三所収︑房彦謙碑には︑文帝期のこととして︑

是の時︑普朝の資蔭︑復た叙に称はず︒鼎貴高円︑倶に九品より糟褐す︒

‑56‑

(7)

とあり︑北斉時の資蔭が惰代ではそれに応じた官職への就任とは結びつかなかったとしている︒さらに︑先に掲げた史

料であるが︑﹃文館詞林﹄巻六九一惰文帝令山東品川四州刺史挙人勅に︑

毎に捜揚せしむるも︑彼の州の俊人︑多く未だ藤起せず︒

とあ

り︑

﹃惰

書﹄

巻六

九王

勧伝

に︑

替︑滅びて︑周に入るも︑調さるるを得ず︒

とあるように︑仕官を頑なに拒んだ事例︵虫︑あるいは仕官を望んだが適わなかった事例も存在しており︑北周・惰での

彼らをめぐる︑厳しい政治環境を反映するものともされている

5 0

このことからは︑北周による北斉併呑直後には北周出

身者と北斉出身者との聞には︑明確な官職の高下や環境の差が存在したとできるであろう︒

しかし︑それは支配者集団から排除・抑圧を受けたとされる北斉出身者像と必ずしも結びつくものであろうか︒亡国

の遺臣である彼らが︑北斉時と同等の中央官の官職を保持し続けたとする状況がそもそも考え難いことであり︑官職の

定員数などからも彼らがその当初に厳しい境遇に置かれることは︑むしろやむを得ないことと捉えるべきと筆者は考え

る︒次に節を改め︑彼らが北周・惰と王朝交替を経る中での地位の変化から︑この問題についてさらに論じることとす

る ︒

iFhd 

北 斉 出 身 者 の 地 位

惰から唐初に至る政権構造に関して︑山崎宏氏や吉岡真氏は三省六部長官の出身別割合を考察し︑北周出身者が政権

の中心をなす一方︑北斉出身者の勢力が限られたものであったことを指摘されているき︒北周出身者を中心に政権が運

営されていった点に筆者は異論はないが︑北斉出身者の地位を官職から計るならば︑長官職の割合のみではなく︑彼ら

の就任官全体の傾向からも論じられるべきであると考える︒

北斉出身者と関陣集団︵稲住

(8)

さて︑このような官品の上昇が確認された上で問題となるのは︑官品の上昇を以

てその地位の上昇とみなすことが可能かということである

それは︑官位の上昇と

信任を受けることとが必ずしも同義ではないためであるが︑この点について周情交

替期に北斉出身者が抜擢された事例をもとにさらに論じることとする︒

かつて︑谷川道雄氏は惰建国について︑﹁新政権の三省を把握したのは︑これま

で楊堅の丞相府の属僚であった高頬・虞慶則・李徳林らである﹂とし︑政権の枢要

官に任じられた者の大部分が︑丞相府の属僚出身者によって占められていたことを

指摘されている

B

︒すなわち︑関隣集団の内部はここで宇文氏を中心とした序列・構成から楊氏を中心としたものへの

変容が生じ︑政権内の序列が流動的なものとなったのであるが︑その際の北斉出身者の動向は︑官職の高下だけでは計

ることのできない政権内での地位の一端がうかがわれるものと考えられる︒この文帝集団の構成に関して︑呂春盛氏は

文帝集団として史料中に見える六十三人を︑①﹁北鎮勢力及其後背﹂七人︑②﹁関隣河南河東土着勢力及其後育﹂二十

五人︑③﹁追随貌帝勢力及其後背﹂十人︑④﹁南朝梁系人物﹂三人︑⑤﹁北斉系人物﹂七人︑⑥﹁其他﹂十一人に分類 東洋史論集四一

[図

1

]官品表

(事例数)

14 

10  8 

8

9

そこで︑︻表1︼に挙げた事例より︑各人物の時期毎の地方官・散官・散実官を

除いた極官の官品︵北周は命を品に換算︶を集計したのが﹇図1﹈である︒まず︑北

周末の事例を見てみると︑七品の事例が最多であり︑その最高位は二例の四品とな

って

いる

次に︑惰文帝期の事例では︑十三例の四品官・六品官が最多であり︑最

高は四例の三品官となっている

現存史料が豊富とは言い難いこと︑分布に偏りが

あること︑加齢に伴う昇進などを考慮しなくてはならないが︑

﹇ 図

1﹈からは北斉出

身者の就任官が北周末と惰文帝期を比べ上昇傾向にあったことが読み取れるであろ

加 叶

6

7

5口口

4

3

口口

2

1口口

‑5 8‑

(9)

されている告︒この呂氏の分類に拠るならば︑出自が不明である⑥を除外した①②③が北周出身者となるのに対して︑

北斉出身者は⑤の七名︵李徳林︹臼﹈・高勘﹇

2

﹈・

李誇

﹇竹

内︺

・郎

茂﹇

η

で張度威﹇花﹈・蓑矩﹇初﹈・陸玄※﹇﹈内の数字

は︻表1︼に対応︶のみであり︑人数で比較するならば四十二対七と北斉出身者は二割にも満たないこととなる︒そし

て︑そのことより北周出身者を中心とする政権内で付け足し的存在に過ぎなかったとする理解も成り立つであろう︒

しかし︑彼らが置かれていた諸条件を考慮するならば︑その人数の多寡によってのみでは論じることはできないので

はないかと筆者は考える︒いま︑この点について見てみると︑﹃惰書﹄巻五

O

郭栄

伝に

︵郭︶築︑少くして高祖と親狩情契して歎を極む︒:::築︑深く自ら結納す︒:::即ち相府柴曹参軍に奔せらる︒

とあり︑同書巻四六長孫平伝に︑

高祖︑龍潜の時に︵長孫︶平と情好款沿なれば︑丞相と為るに及び︑恩種は禰々厚し︒

とあるように︑文帝楊堅は北周末に丞相府を開くにあたり︑西貌・北周以来の同僚や眠懇の者を丞相府属僚に引き上げ

るなど厚く遇した︒つまり︑北周出身者であれば旧来からの間柄を以て抜擢を受け得た状況にあったのである︒一方︑

北斉出身者に目を転じると︑北斉併呑からのわずかな年数と官位の下︑げられた状況の中で︑帝室の外戚たる人物と親密

な関係を作り上げる機会は︑極めて限られていたとされるであろう︒先の北斉出身者七名の中で︑そうした事例として

李誇

﹇九

︺と

郎茂

η

﹈の二例が挙げられるが︑同書巻六五李誇伝に︑

︵李︶誇︑高祖の奇表有るを見︑深く自ら結納す︒高祖の丞相と為るに及び︑甚だ親待せられ︑訪はるるに得失を以

てす

とあり︑同巻郎茂伝に︑

時に周武帝︑象経を為むるに︑高祖︑従容として︵郎︶茂に謂ひて日く︑:::茂︑縞かに歎じて日く︑此の言︑山互に

常人の及ぶ所ならんや︑と︒乃ち陰かに自ら結納し︑高祖も亦た親ら之を槽ふ︒

とあるように︑いずれも﹁自ら結納﹂した結果であった︒また︑属僚として抜擢された事例として︑同書巻四一高穎伝

北斉出身者と関臨集団︵稲住

AY  

F同U

(10)

東洋史論集四一

に︑北周出身の高頬のこととして︑

高祖︑政を得るに︑素より︵高︶頬の強明にして︑又た兵事を習ひ︑計略の多きを知り︑音叫ふに之を引きて府に入ら

しめ

んと

欲す

とあるように︑その能力を買われた場合もあった︒その前提として皇帝やその周囲から評価される必要があるが︑﹁素

より﹂知られる機会を多く有していたのは高穎のような北周出身者であったとして大過ないであろう︒北斉出身者がそ

うした機会を得たのは︑北斉併呑直後に北周武帝が﹁平替の利︑唯だ爾に在るのみ﹂と述べた李徳林のように

g

︑すで

に隣国に名が轟いていた人物であるか︑同書巻六七蓑矩伝に︑

高祖︑定州線管と為り︑召して記室に補し︑甚だ親しく之を敬ふ︒

とある表矩﹇別﹈のように︑その直属の部下となる機会を得た人物に限られるものであったと考えられる︒

このように考えてくるならば︑政権の中枢に抜擢された者の多寡のみでは論じられず︑北斉滅亡からわずか数年で政

権の中枢を担うに足るものとして存在感を増していたことを示していると考えられるのである︒同書巻四二李徳林伝に︑

︵李︶徳林を以て丞相府属と為し︑儀同大将軍を加ふ︒未だ幾くもならずして三方乱を構へ︑兵略を指授するに︑皆

な之と参詳す︒軍書羽搬は朝夕に填委し︑一日の中に動もすれば百敷を途ゆ︒

とあるように︑李徳林が政権の中枢に深く参画したことはその象徴と言えるであろう︒また︑それは文帝が政権を北周

出身者のみを中心に運営しようとしていたわけではなかったことを示すものであり︑一度掲げた史料であるが︑﹃文館

詞林﹄巻六九一﹁惰文帝令山東品川四州刺史挙人勅﹂に︑

朕︑天命を受け︑四海もて家と為す︒関東・関西︑本より差異無し︒

とあり︑天下全体を一家とみなし山東も関陣も区別がないとする趣旨に合致するものである︒

以上より︑北斉出身者の官位は︑北周末に比べ惰文帝期には全体として上昇傾向にあり︑周惰交替期に楊堅集団の一

員として政権の中枢に参画するに至る事例などからは︑官位の上昇にともない立場をより確固たるものとしていったと

‑60‑

(11)

考えられる︒例えば︑文帝集団の一人として名が挙げられる袈矩﹇別﹈は︑﹃惰書﹄巻四一蘇威伝に︑場帝期のこととし て ︑

左吻衛大将軍字文述・黄門侍郎袈矩・御史大夫蓑趨・内史侍郎虞世基と朝政を参掌し︑時人︑稽して五貴と為す︒

とあるように︑朝政を左右した﹁五貴﹂の一員にも挙げられるに至っている︒また︑同書巻六七袈趨伝に︑場帝期のこ

とと

して

擢んでられて御史大夫を授けらる︒表矩・虞世基と機密を参掌す︒

とあり︑同書巻六七袈矩伝︑史臣日条に︑

政事に輿聞し︑多く歳年を歴︑危乱の中に慮ると雄も︑未だ廉謹の節を巌かず︒

とあることからは︑﹁機密を参掌﹂し長年﹁政事に奥聞﹂する立場にあったことがわかる︒さらに︑三省六部の要職へ

の就任者も存在しき︑同書巻六六高構伝に︑北海高氏の高構﹇乃﹈のこととして︑

歳徐にして︑吏部侍郎に縛じ︑競して職に稀ふと為す︒復た薙州司馬に徒り︑事に坐して整屋令に左輔持するに︑甚

だ治名有り︒上︑之を善しとす︒復た薙州司馬に奔せらる︒又た吏部侍郎と為り︑公事を以て免ぜらる︒場帝︑立

ちて︑召して復位せしむ︒時に吏部と為る者︑多くは職に稿はざるを以て官を去る︒唯だ︵高︶構︑最も能名有りて︑

前後選官を典り︑皆な其の下より出づ︒

とあるように︑人事権を握る吏部侍郎に文帝︑場帝二代にわたり複数回任命された高構のような事例も︑豊富とは言い

難い史料の残存状況の中で見出されるのである

8 0

以上︑本節では北斉出身者の政権内での地位について考察し︑北周末から惰へと時代が推移する中で北斉出身者の官

位が全体として上昇傾向にあったこと︑そうした上昇は周惰交替期に文帝集団の一員として抜擢を受けたように︑政権

を担う一員としてその地位を高めたことを背景とするものであったことを論じた︒しかし︑一方でこれまで論じてきた

事例は三省六部の中央官に就いた者を中心とした事例であり︑それは名族出身者がその門地により与えられた特殊な事

北斉出身者と関陣集団︵稲住

124 

PO

 

(12)

東洋史論集四一

例ともできるであろう︒したがって︑北斉出身者全体を見回せ排除される存在であったとする先行研究の枠組みもいま

だ成り立ちうる余地もあろう︒しかし︑そのようには考え難いことを論じるため︑節を改めさらに視点を広げ彼らが担

った

職務

のう

ち︑

︵ 1︶禁衛武官︵

2

︶軍務︵

3

︶制度制定の三点から考察することとする︒

就 任 官 と そ の 職 務

1

︶ 禁衛武官

まず︑禁衛武官就任者の事例についてである︒﹃惰書﹄巻七

O

越元淑伝には︑越元淑の父世模のこととして︑

初め高賓寧に事へ︑後︑衆を以て周に蹄し︑上開府を授けられ︑京兆の雲陽に寓居す︒高祖︑践昨し︑恒に宿衛を

典る

とある︒右は︑越世模が高宝寧の北斉亡命政権に使えた後に北周に降りさ︑惰文帝期に入って禁衛を典る立場を﹁恒に﹂

担ったことを伝えている︒当該時期の禁衛武官については張金龍氏により詳細な研究がなされているがき︑皇帝の警護

や首都の治安と防衛を担っており︑皇帝権の不安定であった五胡・北朝諸政権では権力の源泉の一つとして最重視され

るも

ので

あっ

た︒

また︑皇帝の安否に直接関わる職務である以上︑同時に皇帝の強い信任を得ていなければ︑当然任じられ得なかった

職務であったと考えられる︒そのことは︑同様に北斉出身者の就任が確認できる史料として︑王鐘葵墓誌に王鐘葵﹇ね︺

のこ

とと

して

き︑

開皇二年︑領宗衛都督を授けらる︒耕一市旅を委ねらるる所にして︑情の寄さるること︑斯に重し︒

とあり︑﹃惰書﹄巻六八何欄伝附︑劉龍伝に︑

‑62‑

(13)

高祖︑践昨するに及び︑大いに親委せらる︒右衛将軍に拝せされ︑将作大匠を兼ぬ︒

とあることからも明らかである︒

さらに︑文帝期の事例として︑﹃北斉書﹄巻四二劉世清伝に︑

代人劉世清:::惰開皇中︑開府・親衛牒騎将軍に卒す︒

とあり︑郁久間伏仁墓誌にはを︑郁久間伏仁﹇川﹈のこととして︑

開皇元年︑入りて親衛と為る︒

とある︒劉龍﹇剖﹈︑劉世清および郁久間伏仁︹附﹈は︑いずれも旬奴や柔然に出自が求められる人物であり︑その任用に

あたっては武人としての力量を見込まれたものと考えられるが︑才知何により出身がその任官を妨げるものではなかっ

たとする私見を支えるものとできよう︒

こうした任用は︑文帝期のみではなく続く場帝期にも見られる︒すなわち︑﹃惰書﹄巻六三奨子蓋伝に︑高句麗遠征

のこ

とと

して

遼東の役にて︑徴されて左武衛将軍を撮ね︑長率道に出づ︒笥︑宿衛なるを以て行かず︒

とあり︑同書巻七

O

越元淑伝に︑越元淑のこととして︑

遼東の役にて︑将軍を領し︑宿衛を典る︒

とあり︑高句麗遠征に際して︑林大子蓋︑越元淑が場帝の宿衛をそれぞれ担っていたことを伝えている︒

このことからは︑禁衛武官が皇帝の身辺の警護に当たり︑権力の源泉の一つである重職であったにもかかわらず︑文

帝期・場帝期を通じて北斉出身者が任じられたとされ︑皇帝との聞に極めて信頼関係を有した人物が惰代を通して存在

したことの指標の一っとできるであろう︒

北斉出身者と関臨集団︵稲住

‑63‑

(14)

東洋史論集四一

場帝期 文帝期 北 周 末 高

⑬越元淑⑩妻矩 ⑫都権⑮段済 ⑮津羊可婆頭骨郁久聞骨劉弘模⑫趨世 由表矩 @劉権 ③黙張言⑦伏乞慧⑥助高⑤奨子蓋 @倹張曲静道衡 ②李孝貞乞伏慧例由

3~ ~ 3 3 ,  ‑...,  ,  ...,  ,  .., , 

場及 侍斜兵部郎政亡合出征従吐 之。五業大皇開 詔、越藤戸鼓、 年恒十陳平之 従 頭於塞外可達。 詔太平鈴二十詔奉伐陳之 戦交、 令詔{府同義祖高 (  州俄縛荊総管 及大息遣地彦水 政宣 祖高 三岡祖為高槌為高 位嗣 河道。谷逐北年、年元、蓋カ戎妖定、日道什北役、王 公由 州問、撫巡 役 枕為流矢所中柱圏三騨受 T陳隅奨同馬控年元、相作、」司。丞丞

」建海ヨ青

E

後征吐 乃口旬 逐以鍔行軍 伐随 高x又嶺司領 褒陽・司 )領行 浮

2

v 徒 旬 相、

諒玉.入 行以為虜獲揮谷、 詔公破催請屡不樹而奥接 帥元表諾従箪、 先鋒 」 行歳為 承制署美帥為刺史 元帥記宅 公孝賜物三千騎栴以車 纏管軍 領源又科以働為精子蓋率」 討賊詔陳央 郁元帥 尉作尉惇従孝寛撃

~Ji高聖

綿 行康至南」宅枕行為時」領箪

元契桂軍a管'~,兵撃磁

州、

淑元帝令豊 司富ド円種衆率山 越h佐谷、 石単長史カ職而 定出 詔令軍繍貸 郷兵・ 獣張州錨 柵英 機盤君整 語奪、 孝貞 本

従 楊

/II' 黍勝至伊吾理山時」槌機討動効プ」U理」報施多燕然。徒緯管吐プ」死 道難、・

4

」穏

t T

0 後校三裁庫三 従後膏玉 等討言之 管三十従公宜陽王獲船六百 ,趣内剛、 州

5

掻刺陵

a . 

従章孝 」武砂士

撃 兵侍部I」候依奥賊相 誠君 温兵姑笥新翰一緒度筒司 以矩為行 矩 州道行拠為司至義 虞平陳、 水陸州諸軍司耳世積J 寛撃之 明 遇 心 同〜ー 与軍所緩司軍時処.功以 避兼」下陳 授以功 雅等 撃走 奉口 集者 賊輿

J

江畑 雪 儀上

惰 惰7 6  惰6  惰6誌段済墓 E誌墓羊掌扇墓婆費 情 惰間 7 7   惰6  惰 惰6 6   6 惰 惰6  階 惰 惰 惰 自6 5 5 5  倹量妻張産階5  惰 情 出5 5典 0 7  5  5 可 1 0 7  7 7   5  3  1 5 5 5誌 7 7 5 

【表2]北斉出身者が軍務に就いた事例

※惰・﹃惰書﹄︑数字:巻数

2

︶ 

軍 務 次に︑北斉出身者が軍事を統轄あるいはそ

れを補佐する立場として軍務に就いた事例に 注目するが︑それは禁衛武官と同様に一定の 軍事力を担い︑その任用は相応の信任を反映

したものと考えられるからである︒

現 存 史 料 中 か ら そ う し た 事 例 を 集 め る と

︷ 表

2

︼のようになるが︑文帝・場帝期を通 し て 彼 ら が 軍 務 に 携 わ っ た 事 例 が 確 認 さ れ る︒このうち北周末に起こった尉遅週の乱平 定の事例は︑彼らの政権加入後まもなく起こ った反乱であり︑同時に彼らの立場を危地に

追い込みかねない事件であった︒それは︑﹃情

書﹄巻二高祖本紀に︑

尉遅過︑全替の衆を奉ぐるも︑一戦して

亡ぶ

とあり︑﹃周書﹄巻一二尉遅迦伝に︑

開府・小御正窪達撃を以て長史と為し︑

鈴の委任も亦た多く審人を用ふ︒

‑64‑

(15)

とあるように︑反乱には北斉出身者が数多く参加していたからである

g

︒政権に加わって日が浅くその地盤も確固たる

ものとは言えない中で︑かつての同胞に反乱に加わる者が続出している状況は︑北斉出身者の立場全体を損なうもので

あったと考えられる︒にもかかわらず︑①乞伏慧﹇似﹈︑②李孝貞﹇臼﹈︑③醇道衡﹇郎﹈はそれぞれ討伐軍の将として乱の

鎮圧に功績を挙げていることは注目されるべきであろう︒その起用には北斉領内の土地案内や人心安定の側面が考えら

れるが︑彼らが一定の信頼を勝ち得ていたことを示すものということができる︒

ただし︑討伐軍の総指揮権は章孝寛の掌中にあり︑彼らが有した兵権を誇大に強調することは厳に慎まねばならない︒

しかし︑梁壊墓誌にはさ︑北斉出身の梁壊﹇山﹈について︑

尉遅︑鼎を問ひ︑元帥府賓曹参軍事を授けらる︒身ら武帳に培ひ︑六奇を献策し︑旬月の聞に︑高里を蕩清す︒

とあり︑反乱を討伐した章孝寛の幕僚として︑その討伐に当たって献策を行っていたことを伝えている︒墓誌の記述内

容の正確性に対しては慎重な態度が必要なものの︑少なくとも首脳部たる元帥府の幕僚の一人に加えられていたことが

わかる︒また︑先に掲げた史料である﹃惰書﹄巻四二李徳林伝に︑

︵李︶徳林を以て丞相府属と為し︑儀同大将軍を加ふ︒未だ幾くならずして三方乱を構へ︑兵略を指授するに︑皆な

之を

参詳

す︒

とあり︑李徳林が楊堅とともに乱平定に向けた善後策を練っていたことを伝えている︒すなわち︑北斉出身者の地位が

不安定な状況であったにもかかわらず︑戦術面のみならず戦略面に至るまで彼らが関与しており︑そのことは政権内で

の立場をはかる上での指標の一っとできるであろう︒

さて

︑︻

2

︼⑦の乞伏慧の事例では︑文帝期のこととして︑

俄にして荊州線管に縛じ︑又た漕・桂二州線管三十一州諸軍事を領す︒

とあり︑乞伏慧が荊州線管と漕・桂二州線管三十一州諸軍事の任にあったことを伝えている︒その管轄領域の広さと権

限の大きさが注目されるが︑当時の江南は反乱の頻発した難治の地域であり︑惰朝の支配は総管府を中心に点と点を抑

北斉出身者と関陣集団︵稲住

t u 

t u 

(16)

東洋史論集四一

えたに過ぎなかった

8 0

したがって︑その州の数を以て中原などの諸地域の事例と単純に比較することはできないが︑

ここでその管轄地域について見てみると︑同書巻五三達実長儒伝に︑達桑長儒が同様の官職にあった事例として︑

復た荊州線管三十六州諸軍事に縛ず︒高祖︑之に謂ひて日く︑江陵は要害にして︑園の南門たり︒今︑公に委ぬる

を以て︑朕︑慮ること無し︑と︒

とある︒右によれば︑荊州総管三十六州諸軍事の任にあった達盛大長儒に対して︑荊州の江陵は﹁園の南門﹂である重要

な地であると文帝は述べており︑荊州を南方の拠点として重視していたことがうかがわれる︒その言には︑赴任する達

桑長儒への奮起を促すための誇張もあったと考えられるが︑先述したような江南の状況を鑑みれば︑その職責の重さは

一定以上のものであったとされるであろう︒とするならば︑同様に荊州総管に任官された乞伏慧も要地の防衛を担って

いたこととなり︑それは相応の信任を得ていたことを示すものとできるのである︒

以上より︑北周末の尉遅週の乱に際して︑その立場が厳しい状況であったにもかかわらず重要な軍務に携さわってい

たことや︑地方の軍政官として乞伏慧が荊州総管に就任した事例など︑一定の信頼を有し得ていたことが背景にあった

と考えられる事例が︑史料上から確認されるのである︒

‑66‑

3

︶ 制度制定

周知のように︑かつて陳寅悔氏は惰唐の制度的来歴について︑東貌・北斉の遺制が多く参考に供されたことを指摘さ

れている

g

︒そのことを示す史料として︑﹃惰書﹄巻八礼儀志三に︑惰初のこととして︑

開皇の初め︑高祖︑典槽を定めんと思ふ︒:::︵牛︶弘︑因りて奏して皐者を徴し︑儀種百巻を撰せしむ︒悉く東替

の儀注を用ゐて以て準と為し︑亦た微に王倹の穫を採る︒修め畢りて之を上る︒詔して遂に天下に班ち︑威な遵用

せし

む︒

(17)

ここで︑北周出身者である牛弘は典礼を定めるために学者を集め︑その際に北斉の儀礼を規範として定められ

たことを伝えている︒では︑このように北斉の遺制が新制度の雛型とされたならば︑制度自体やその運用法に最も習熟

していたのは︑自ずから北斉出身者であったと考えて大過ないであろう︒そのことがうかがわれる史料として︑同書巻

七五劉熔伝に︑文帝期のこととして

著作郎王勧と同じく園史を修め︑兼ねて律暦を参議し︑仰に門下省に直し︑以て顧問に待す︒

とあり︑同巻劉熔伝に︑場帝期のこととして︑

敷年にして︑復た徴されて以て顧問に待す︒

とあり︑劉悼・劉舷は皇帝の下問に対する﹁顧問﹂役として重用されていたことからもうかがうことができる︒このこ

とからは︑制度制定の面を見た際にも︑政権運営において彼らの活躍の場が用意されていたと考えられるのである︒

同様の事例を列挙すると︻表

3

︼のようにな

るが︑楽・天文・律暦などの儀礼制度の多岐に

豆り北斉出身者の関与があったことが確認でき

るであろう︒作成した儀礼の重要性︑関与の度

合いを一様に論じることはできないが︑④の蓑

矩の事例は独孤皇后の葬送に関するものであり︑

重要な儀礼の作成にも関与していた事例の一っ

として注目される︒また︑北斉出身者の制度制

定への参与が儀礼的な案件に限定されるもので

はなかったことを示すものとして︑同書巻六六

源師伝には︑文帝期のことを伝えて︑

とあ

る︒

制度制定に携わった事例

※陪:﹃情書﹄

R① 

醇 李i

道徳|例 衡 林

本文

﹁救令奥太尉任園公子翼・高煩等同修律令︒﹂﹁時高祖又令弘輿楊素・蘇威・醇道衡・許善心・虞世基雀子稜等井召諸儒︑論新種降殺軽重︒﹂﹁奥左庶子字文憧等撰東宮典記七十巻︒﹂

﹁其年︑文献皇后崩︑太常蓄無儀注︑矩奥牛弘擦脊種参

﹁尋奥浦公鄭謬修正楽章︒﹂﹁奥左僕射楊素・吏部尚書牛弘・園子祭酒蘇威・鴎子祭酒

元善・博士粛該・何妥・太皐博士房障遠・雀崇徳・菅玉

文 息子

e雀院等於園子共論古今滞義︑前賢所不通者︒﹂﹁熔又奥諸儒修定纏律︑除雲騎尉︒﹂﹁又奥諸術者修天文律暦︑兼於内省考定君事言︑内史令簿陵李徳林甚穣之︒﹂﹁及萄王康︑奥諸儒修定五種︑授旅騎尉︒﹂﹁開皇初︑柿園公鄭謬等定築︑初為黄鍾調︒﹂

窃親権

⑦劉怯

[表3】

4 9

6 7

6 7

7 5

7 5

7 5

7 5

7 8

数字:巻数 i6 

(18)

東洋史論集四一

入りて尚書考功侍郎と為り︑例ほ吏部を揖ぬ︒朝章園憲︑参定する所多し︒

とある︒右によれば︑源師﹇河﹈は︑尚書考功侍郎と吏部を兼務し︑﹁朝章園憲﹂の策定にもカを振るっていたとある︒

周知のように尚書考功侍郎や吏部は人事考課などにかかわる官職であり︑彼が参定した﹁朝章園憲﹂には先述の楽・天

文・律暦などのみならず︑考課規定などの制度が含まれたものと考えられ︑そうした分野の制度制定にも広く参画して

いた

ので

ある

以上︑本節では北斉出身者が任じられた職責について︑その地位を示す指標たり得る禁衛武官・軍務・制度制定とい

う三種の職務に絞って考察したが︑北斉出身者がその経歴や才能によって信任を得て重職にあった事例が確認された︒

このことからは︑前節で見たような︑三省六部の枢要官に就き政治の表舞台にあった文人官僚だけではなく︑支配者層

全体を見た際にも政権内で信任を得ていたとできることが明らかになるのである︒

お わ り に

‑68‑

以上︑本稿で述べたことをまとめると︑次の①

1

④の

よう

にな

る︒

①北斉出身者の中には︑北斉滅亡後に北周・惰に再仕官したものが多数存在しており︑政権側も積極的に彼らを政権内

に取

り込

もう

とし

た︒

②彼らの官職は北斉時と同等のものではなかったが︑彼らが亡国の臣であったこと︑官職に限りがあったことを考えれ

ば︑それを以て彼らが抑圧されていたとすることはできない︒

③周陪交替の中で関陣集団にも変容が生じるとともに︑文帝楊堅集団の一員として側近たる地位を得た人物もいたこと︑

北周末と惰に入ってからの官職との比較などからは︑彼らが政権内で地位を上昇させていったことがわかる︒それは

三省六部の枢要官に就いた者に限定されるものではなく︑禁衛武官・軍務・制度制定という多岐に渉る分野で信任を

(19)

得︑重職に就いていた者が存在していた︒

④北斉出身者は︑その出自によって著しい区別を受けることなく︑広く活躍の場を与えられていたものと考えられる︒

本稿のこれまでの考察を踏まえると︑北斉出身者は北斉滅亡直後の状況を乗り越え︑政治や軍事の要職をしめるよう

になり︑なかには政権中枢を担うものも輩出するようになったことが分かる︒したがって︑先行研究が指摘するような︑

関陣集団の下に北斉出身者がいたとする当該時代像とは離酷が生じてくるのである︒また︑このことは関隣集団が︑出

身を異にする人々を広く受け入れたことを示しており︑とすれば︑自ずから関陣集団の変容を生じさせたであろう︒つ

まり︑関陣集団は西貌・北周の時代そのままに存続し得たのではなく︑時代の状況に応じ︑その外にあった勢力を取り

込みつつ絶えず変容していたということが言えるのである︒

中でも第二節で述べたように︑惰建国の際に関隣集団は文帝楊堅を中心とする集団へと大きく変貌した︒そして︑そ

の文帝を中心とする集団の中に北斉出身者は数多く登用された︒一方︑その後の唐の建国は高祖を中心とした集団へと

関陣集団を新たに再編させたをoつまり︑惰室楊氏に連なり︑それと一体化した一門は権力中枢から遠ざけられ︑高祖

を中核とする新たな権力構造が構築されたのである︒

ところで︑北貌の時代の名臣として名高い激海の高允は︑中央政界で長期にわたり活躍するが︑彼の兄弟は激海郡に

あって仕官することがなかったという︒﹃貌書﹄巻四八高允伝に︑高允の弟の高盤のこととして︑

世祖︑毎に−訪問して徴するも︑辞するに疾もて慮ぜず︒恒に︵高︶允の屈折して久しく宮へ︑京邑に栖泊するを磯笑し︑

常に家に於いて従容とす︒

とある︒ここには当時都に上り仕官の道を歩んだ人々と︑本貫にとどまり続けた人々の姿が描写されている︒かつて演

口重園氏が指摘される所謂郷官廃止によって︑旧来の在地勢力は大きな影響を被ったとされているさ︒しかし︑それを

画期としてそうした施策が長きにわたって存続してきた貴族勢力を一挙に一掃し得たわけではなく︑一方では︑﹃貞観

北斉出身者と関瀧集団︵稲住

‑69‑

(20)

東洋史論集四一

氏族志﹄をめぐる雀民幹の事例に見るように︑唐の李世民の時代となっても︑時の王朝権力とは一線を画す形で存続す

る貴族の存在もあったのである︵包︒このことは換言すれば︑時代の流れに応じてその構成を変容させる関陣集団の外側

には︑それと距離を置く在地の勢力が︑一方では存続し続けたことを示している︒

このように見てきたとき︑本稿の序節で述べた︑関陣集団は惰代︑あるいは初唐期には優位性を失い解消されていっ

たとする見方には一定の修正の必要があろう︒西貌・北周から惰唐にかけての歴史の流れを大局的にとらえ︑その支配

集団に連続性を見出す見方は︑この時代を考察するとき︑やはり実態を踏まえた見方と言えるであろう︒しかし︑一方

で︑この集団が絶えず変容をとげつつ唐中期まで存続したことは︑この集団が一貫して外に向かって閉じた集団であっ

たわけではなく︑時代の流れに応じて変容する︑外に向かって聞かれた集団であったことを示していると言えるのでは

なかろうか︒こうした点を一層明確にするためには︑中央に出仕した個々の一族と在地とがどのような関係にあったの

か︑惰文帝・場帝︑唐高祖・太宗といった︑集団の核となった人々の出現︑王朝交替に際し︑どのように勢力が消長し

たのかといった点を詳細に解明する必要があろう︒こうした問題のさらなる究明は今後の課題としたい︒

‑70‑

註 4 

陳寅悔﹃唐代政治史述論稿﹄︵三聯書店︑一九五六年︶︒

布目潮楓﹃惰唐史研究唐朝政権の形成﹄︵東洋史研究会︑一九六八年︶︒

谷川道雄﹃増補惰唐帝国形成史論﹄︵筑摩書房︑一九九八年︶︒

韓国弁﹃惰文帝伝﹄︵人民出版社︑一九九八年︶︑同著﹁周惰壇替中的知識館員及至唐初立国理念的演変﹂︵﹃文史﹄総第八六輯︑

OO

九年

︶︒

黄永年﹁関陣集団始末﹂︵初出一九九六年︑﹃六至九世紀中国政治史﹄上海書店出版社︑二

OO

四年

︶︒

(21)

一九五七年︶︑涯鍾﹁唐太宗之抜擢山東微族与各集団人士之井進﹂︵﹃注鐘惰唐史論稿﹄中ヰ仲勉﹃惰唐史﹄︵高等教育出版社︑

国社会科学出版社︑一九八一年所収︶︒

宇都宮清吉﹁関中生活を送る顔之推﹂︵初出一九六七年︑﹃中国古代中世史研究﹄創文社︑一九七七年所収︶

藤善真澄﹁北斉系官僚の一動向﹂︵初出一九七七年︑同著﹃道宣伝の研究﹄京都大学学術出版会︑二

OO

二年

所収

︶︒

北周・惰での北斉出身者について論じたものとして︑山崎宏﹁惰朝官僚の性格﹂︵﹃東京教育大学文学部紀要﹄六︑一九五六年︶︑︑

気賀津保規﹁惰代郷里制に関する一考察﹂︵﹃史林﹄五八

l

四︑一九七五年︶︑黄氏註︵5︶前掲論文︑呂春盛﹃関瀧集団的権力結

構演変!西貌北周政治史研究﹄︵稲郷出版社︑二

OO

二年︶︑牟発松﹁旧斉士人与周惰政権﹂︵初出二

OO

三年︑同著﹃漢唐歴史

変遷中的社会与国家﹄上海人民出版︑二

O

一一年所収︶︑陳金鳳・梁理﹁山東士族与惰朝政治略論﹂︵﹃山東師範大学︵人文社会

科学版︶﹄四八|六︑二

OO

三年︶︑堀井裕之﹁即位前の唐太宗・秦王李世民集団の北斉系人士の分析﹂︵﹃駿台史学﹄二一玉︑二

OO

五年︶︑韓昇﹁周情交替中的知識官員及至唐初立国理念的演変﹂︵﹃文史﹄二

OO

l

一︑

OO

九年︶などがある︒

李万生﹁説H関中本位政策d

﹂︵

﹃清

華大

学学

報﹄

O

Ol

四︑

O

O

年 ︶ ︒

拙稿﹁虚思道と﹁周斉興亡論﹂について﹂︵﹃九州大学東洋史論集﹄三九︑二

O

一一

年︶

北周末・惰初では︑旧北斉領が統治困難な地域とされていた︒この点については︑気賀沢氏前掲註︵8︶論文︑岩本篤志コ斉

俗﹂

と﹁

恩倖

l

斉社

会の

分析

|﹂

︵﹃

史滴

﹄一

八︑

一九

九六

年︶

など

を参

照︒

李徳林は︑北周・惰で官達を果たした北斉出身者の代表格として︑あるいは﹃北斉書﹄の著者として著名な人物である︒気賀

揮保規﹁賓建徳集団と河北

l

惰唐

帝国

の性

格を

めぐ

って

﹂︵

﹃東

洋史

研究

﹄一

一一

l

四︑一九七三年︶などでは︑北周・惰を通じて北

斉出身者のリーダーとしてその代弁者たる立場にあり︑北斉出身者のみじめな境遇からの脱出を企図した︑あるいは惰朝自身を

北斉風に変容させようと試みた人物として理解されている︒ただし︑現存史料中にはそうした李徳林の意識を示す記述は︑管見

の及ぶ限り見出せず︑従来の李徳林像には再検討の余地があろう︒

気賀

沢保

規﹁

惰代

にお

ける

江南

の動

向に

つい

て﹂

︵﹃

鷹陵

史学

﹄二

YEi 

i

9  8 

︵ 叩 ︶

︵ 日 ︶

︵ ロ ︶

1 3   1 4  

一九

七六

年︶

は︑

﹁惰

の発

足に

際し

︑:

::

北周

系以

外の

官人

にも

主体

北斉出身者と関醜集団︵稲住

(22)

東洋史論集四一

的な政権への関与を可能にしたものであった︒だが︑そのさい︑参加を許されたものたちが︑この新体制に適合しうる存在へとスムーズに

自己変革をとげていったとは考えられない︒むしろ︑元からの利害関係あるいは意識を払拭しないままで政治とのかかわりを持ち︑ときと

して

それ

らを

持ち

出す

こと

によ

って

︑惰

の一

元化

撃用

に対

する

桓桔

とも

なっ

たよ

うに

思わ

れる

︒﹂

とし

︑北

斉出

身者

の政

界進

出が

あっ

たが

その

こと

がも

たら

した

否定

的な

側面

を指

摘し

てい

る︒

︵日︶﹃惰代墓誌銘葉考②﹄︵銭装書局︑二

OO

七年︶一二五

1

一二

七頁

所収

︵同︶一例を挙げれば︑前掲註︵凶︶①巻一二五

1

一二七頁所収﹁劉臆道墓誌﹂には︑広平劉氏出身の劉会のこととして︑﹁強仕の歳︑

周人︑審を滅ぼす︒乃ち冠を控けて郷里に還り︑終駕の志有り︒周武帝︑亡替の人物を甑訪し︑公を以て徴砕の首と為し︑特に

論璽を降すこと再三に至る︒公︑以為らく︑人の禄を食みて人の難に死すこと能はず︒量に復た硯容もて面を革め︑二姓口朝に

仕ふるや︑と︒固く疾を以て辞し︑門を杜ざし人事に交はらず︒﹂とあり︑劉会が仕官を頑なに拒否した理由を伝えている︒

︵口︶牟氏註︵9︶前掲論文は︑山東土人の北周・惰に対する疎遠性は周惰朝廷内の﹁東西の限﹂あるいは﹁関中の旧弊﹂の壁と関係

があったとし︑政権内では山東土人に平等な官途が聞かれなかったとする︒

︵凶︶山崎宏﹁惰朝官僚の性格﹂︵﹃東京教育大学文学部紀要﹄六︑一九五六年︶︑吉岡真﹁北朝・惰唐支配層の推移﹂︵﹃岩波講座世

界歴史9﹄岩波書店︑一九九九年︶︒

︵印︶谷川氏前掲註︵3

︶書

三四

六頁

︵初︶日氏前掲註︵9︶書三一二

l

コ二

六頁

︵幻︶﹃惰書﹄巻四二李徳林伝︒

︵辺︶北斉出身者中の吏部侍郎就任者として︑他に越仲将﹇日﹈︵﹃北斉書﹄巻三八越彦深伝附︑仲将伝︶︑高構﹇乃﹈︵﹃惰書﹄巻六六高

構伝︶︑陸彦師﹇幻﹈︵﹃惰書﹄巻七二陸彦師伝︶などの事例が挙げられる︒

︵お︶﹃通典﹄巻二三職官五吏部尚書条には︑﹁惰より侍郎を置く︑尚書の事に震ひて︑則ち六品以下の鐙補は︑多く以て之に鯖す︒﹂

i

(23)

とあり︑人事に関して多くの権限を有していたことがわかる︒

︵斜︶高賓寧については︑﹃北斉書﹄巻一二沼陽王紹義伝参照︒また︑北斉亡命政権を論じたものとして︑平田陽一郎﹁突厭他鉢可汗

の即位と高紹義亡命政権﹂︵﹃東洋学報﹄八六|二︑二

OO

四年

︶が

ある

張金龍﹃貌晋南北朝禁衛武官制度研究﹄︵中華書局︑二

OO

四年

︶︒

﹃惰代墓誌銘葉考④﹄︵銭装書局︑二

OO

七年

︶一

二五

頁所

収︒

﹃惰代墓誌銘葉考①﹄︵銭装書局︑二

OO

七年︶一九一頁所収︒

尉遅週の乱に関しては︑黄永年﹁尉遅週相州奉兵事護微﹂︵﹃中国史学﹄一一︑二

OO

一年︶︑山下将司﹁唐・開元二六年﹃北周

・尉遅週廟碑﹄について﹂︵﹃早稲田大学教育学部学術研究︵地理学・歴史学・社会科学編︶﹄玉

O

︑二

OO

一年

︶な

どが

ある

前掲

註︵

お︶

書一

O

八頁

所収

気賀

津氏

註︵

日︶

論文

参照

陳寅幡﹃惰唐制度淵源略論考﹄︵商務印書館︑一九四

O

年 ︶ ︒

李淵集団の構成に関しては︑布目前掲註︵2︶書などの諸研究がある︒

演口重国﹁所謂︑惰の郷官廃止に就いて﹂︵初出一九四

O

年︑﹃秦漢惰唐史の研究﹄東京大学出版会︑一九六六年︶︒

﹃貞観氏族志﹄の編纂に関しては︑陳寅幡前掲註︵1︶書や竹田龍見﹁貞観氏族志の編纂に関する一考察﹂︵﹃史学﹄二五|四︑

一九五二年︶など多くの研究の蓄積がある︒

︵ お ︶

︵ お ︶

︵ 幻 ︶

︵ お ︶

︵ 却 ︶

︵初

︵汎

︵ 犯 ︶ ︶

δ

i

︵ お ︶

M︶ 

北斉出身者と関臨集団︵稲住

参照

関連したドキュメント