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現代評論社
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一 . 本 容 は 、 社 会 主 義 建 設 に か ん す る 毛 沢 東 の 発 言 ハ 講 話 、 手 紙 、 指 示 な ど ﹀ を 編 集 し た も の で み る 。 一 、 本 書 で 、 ﹃ 方 議 ﹄ と し た の は 、 ﹃毛沢東思想万歳﹄の略称である。ただし、これには 、 つ ぎ の 四 了 本 種 類 の テ キ ス ト が あ る 。l
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本 一九六七年四月版小企編集企筒凝刻 、 一九六七年四月版小倉制集金剛被刻 一九六七年版小企嗣鋭企図凝刻 一 九 七 四 年 ・ 一 九 七 四 年 ・ 一 九 七 凶 年 。 乙 本 丙 本 -圃. 文 選 一 』 九 と 六 し 九 た 年 の 八 は 月 版.
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小倉編集企耐覆刻 一 九 七 四 年 . 一 . ﹃ 毛 沢 東 選 集 ﹄ は 、 ﹃ 選 抑 制 ﹄ と 略 称 し た 。 一、訳注は、本文中に︹︺のなかに記したほか、当核個所に中心ツキで ( 1 X 2 ﹀ : ・ と 印 し 、 各 知 の 末 起 に ま と め て 記 し た 。教 工 藤 箆 先 生 の m m 前にささげる 結訳者
目 次
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の模索︿一九五六
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十大関係品(一九五六年四月二十五日﹀・E
大躍進・人民公社の民間(一九五八
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進 成都会議における講話︿一九五八年.一一月﹀・:: 一 二 月 十 日 の 講 話 ︹ ス タ ー リ ン 批 判 に さ い し て ︺ : : : ・ j i -: ・j i -: ・: : : : j i -: : : : お 撃 - ・ ・ ・ : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : ・ ・ ・ ・ ・ : : ・ . . . . . . . . . . ・ : ・ ・ ・ U A 三月二十日の講話門意気どんで高い目標をめざせ︺ : : : : -j i -: : : : : : : j i -j i -G三月二十二日の講話︹皇帝を馬から引きずりおろせ︺・
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詞整と前進
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第 二 次 鄭 州 会 議 に お る講話(一九五九年二月二十七日﹀::: 党 内 通 信 ハ 一 九 五 恥 ハ 年 三t
十 月 ﹀ ・ 一 内 三月九日︹六級幹部大会を聞け︺ : 丙 三月十五日︹採算単位をどこにおくか︺: 日 内 三月十七日門三級所有制を︺・ ゐ 三月二十九日︹都市 ・ 工 業 の 問 題 ︺ ・ 四月二十九日︹筏槌 ・ 機 械 化 な ど ︺ ・ - 内 + 月 十 一 H H ︹ 漆 豚 事 業 の 発 肢 を ︺ ・ : ﹁ 評 五 川 選 ご 九 五 ヘ 山 引 引 っ ・1
・:・ :ji--・ : : 問 - 内 部 竹 大 地 明 報 告 へ の 評 路 ハ 一 九 五 九 年 八 H n z u ﹀ ・ ・j i
-内 王国路公社報告への評語︿一九五九年八月十六日):: -的 現物支給制にたいする意比三九五九年九月):・ -仰 鞍山市の工業戦誠における技術草新執行への評語︿一九六
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年 三 月 ﹀ ・:
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-、 戸 内 山西省の農村の労働カ問題についての報告(一九六
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年 十 月 二 十 七 日 ﹀ j i -j i -・ : : : 川3
逆 流 盛山会議における講話 ︿ 一 九 五 九 年 七 月 二 十 三 日 ) : : : : :4
掛 川 路 線 の 総 括 ﹁司 , 総路線についての談話ハ 一 九五九年七月十日 ﹀-F
十年間の総括︿一九六O
年 六 月 十 八 日 ﹀j
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理論と工作方法 スターリン﹃ソ同盟における社会主義の経済的活問題﹄ についての講品(一九五八年十一月中旬) 'h ﹄ “ . -j i -j i -- : j i -j i -4 吋 工作方法十六条に つ いてご九五九年五月﹀ 160 - 川 いくつかの重要指示 ハ 一 九 五 九 年 六 月 二 十 九 日 、 七 月 二 日 ﹀ " I6
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市 川調整期から文革へ
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六 六 年 ﹀危機のなかで
七千人大会における講話︿一九六二年一月三十日﹀ : : 1 : :2
社会主義教育運動 八期十中全会における講話ハ一九六二年九月二十四日﹀ 210 社会主義教行迎動についての指示(一九六三年五月﹀:・ 二十三カ条についての講話(一九六四年十二月二十八日﹀・:: 階級区分問題についての指示(時期不祥﹀::・ 四清運動についてのある講話(一九六五年一月三日﹀・:: : : 2232
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お9 計画経済と農業 計画委此会指郡小組が報告をしたときの挿話(一九六四年五月十一日﹀j
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三次五カ年計画についての説話︿一九六四年六月六日﹀::: ・j
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農業機械化問題にかんする指示の手紙 ︿ 一 九 六 六 年 三 月 十 二 日 ﹀-j i
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毛 沢 東 の社会 主 義 建 設 論 -m 人 名 ・ 容 名 紫 引 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 捌 解 説-、
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‘ F中国の逃」の敏索
十大関係論ハ一九五六年四月七十五日﹀
︿ 解 題 V 原 題 は 、 ﹁ 鈴 十 大 関 係 ﹄ 、 ﹃ 万 歳 ﹄ T 本 所 収 ・ な お ﹃ 万 歳 ﹄ 乙 本 に も 同 じ テ キ ス ト が あ る が 、 第一節の最後の二段務︿国民経済全体にたいする農業の軍要性および結論の部分﹀が欠けておp
、 ま た 第 六 節 と 第 七 節 の 順 序 が い れ か わ っ て い る 。 この﹁十大関係鈴﹂あるいは﹁十大矛盾稔﹂は、﹃社会主義への中国の道﹂あるいは﹁社会主義建設 期 の 毛 沢 東 凶 ね ﹂ の 郊 . 念 と 方 法 と を は じ め て 体 系 的 に 、 縦 績 に 路 っ た も の と し て 、 き わ め て 忠 商 慣 な 意 味 をもっ。この泌鋭にしばしば﹁一部の社会主総凶の骸p
﹂として指摘されているのは、いうまでもな く 、 すぺてソ遂のマイナスの教訓である。重工業偏重政策、農業集団化の強行、集団化後の袋業政策 の欠陥、過度に中央集権的な計画体制、粛消の問題、少数民族政策など、社会主義建設のおもな問題 点すべてについて、ソ述裂山地ぷ方式を批判しつつ、その克服をめざす中同社会主義の理念と方法とを 諮っている・中国の第一次五カ年計副︿一九五三 I 五七年﹀は基本的にy
述型を筏倣したものであp
、 こ の 減 税 は 、 ﹁ 模 倣 か ら の 脱 出 の は じ ま り ﹂ を 示 す 記 念 碑 的 な も の と い え よ う ・ 最近ニカ月来、政治局は中央の経済・財政など三十四部門の工作報告をそれぞれ聴取し、 いくら.
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か意見を交換した。政治局はその後、 に な る 。 いく度か討議をかさねた。総合すると、十の問題、 十の矛盾 寸大関係~ との十の問題を提起する目的はただ一つだ。つまり、すべての積極的要素・利用できるカを動員 し、より多く ・ はやく ・ りっぱに ・ ム ダ な く、社会 主義を建設するためだ。 すべての積極的要素 ・ 利用できるカを動員することは、われわれのかねてからの方針である。過 去にこの方針を実行したのは、人民民主革命を勝利させ 、 帝国主義 ・ 封建主義 ・ 官僚資本主義の支 配をおわらせるためであった。とれからは新しい革命 、 つまり社会主義革命のため、社会主義国を 建設するためだ。革命においても、建設においても、同じくこの方針を実行すべきだ。これはみな さんよくどポ知のとおりだ。しかし、一部の問題はやはり語っておく必要がある、そのなかに新し いものが合まれているからだ。われわれの工作にもまだ、欠点 ・ 不十分なところがある。話してみ て、これらの問題を考え、これらの矛后を正しく処理すれば、回り道を少なくできる。 まず十の問題を焼みあげてみよう。 第一工業と農業、重工業と軽工業との聞係 第二沿海工業と内陸工業との関係 第三経済建設と国防建設との問係 第 四 国 家 ・ 生産単位と生産者個人との関係 第五中央と地方との関係 5「中闘の滋」の模自民 第 六 党 と 党 外 と の 関 係 第七漢民族と少数民族との関係 第八革命と反革命との関係 第九円花と非との関係 第十中固と外国との関係 これらの関係は、すべて矛盾である。世界のいたるところに矛盾がある。矛盾がなければ、 はない。いまから 、 上にのペた十の矛府のことを話そう。 世 界 第 一 工業と農業、重工業と軽工業との関係 貫工業が露点であり、優先的に亮肢させなければならないことは、みなさんも異議はないだろ う。京工業と軽工業、工業と農業との関係を処理するうえで、われわれは原則的な誤りをおかしは しなかった。一部の社会主義国のような誤りをおかさなかった。かれらは重工業を 一 面 的 に 重 視 し、軽工業 ・ 民業を軽視したので、市均の品物 ・ 生活必需品が不足し、通貨が安定しなか っ た。わ れわれは軽工栄・品業も比較的監視してきた。わが市場の品物か比較的十分であるのは、一部の闘 の革命後の情況とはちがう。わが生活必需品はまにあっている。そんなに十分だというのではない が、かなり世富に人民の生活のための日用品があり、価格 ・ 人民幣︹ 一 己 は 安 定 し て い る 。 こ れ は、いまや問.砲がなくなったということではなく、問題はなお残っている。つまり軽工業 ・ 農 業
、
-、 は、これまでよりももっと注意する必要がある。ほ工業と軽工業、工業と農業への投資の割合をほ どよく調整し、工法業の投資金体における軽工業 ・ 農業の投資比学をほどよく増加させなければな ら な い 。 十大関係論 こういうと、重工業中心ではなくなるであろうか?否である。重工業を重視しなくなるのであ ろうか?こういったとしても、投資の重点はやはり革工業マある。 これからは軽工業 ・ 農業の投資をやや多くし、この比率を大きくする必要がある。これは、忌点 をおさかえることであろうか?重点は変えない。重工,来はやはり重点だが、軽工業 ・ 農業の函を より貫視するのだ。 重視すればどうなるのか?重工業はより多く ・ りっぱに発肢し、生産手段の生産はより多く・ りっぱに宛 M 脱 す る だ ろ う 。 革工業を発 M m させるには、資金帯税が必挺だ。訴税はどこでやるのか?面工業でもできるし、 軽工業 ・ 能楽でもできる。しかし、職工業 ・ 由業のほうが、より多く ・ はやく帯棋できる。 ここで問地がおこる。鼠工業を}体全体性河川胤させたいのかどうか?モノスゴクか、それともマ アマアか?発以させたくないなら、峰工業 ・ 出業に打撃をあたえたらよい。マアマア程度の発悦 なら、軽工業 ・ 設業にちょっぴり投資する。モノスゴク宛脱させようというのであれば、軽工業 ・ 良提を発 M m させ、生活必需品をより多くする。そうすれば蓄積はより多くなるのだ。数年後、重工 業に投資する資金が多くなる。だから、これはほんとうに発展させたいとおもうかどうかの問題 5
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f中聞の滋Jの俊索 だ むろん、重工業をほんとうに発展させたいのかどうか 、 といういいかたは穏当ではない。ほんと うに発肢させようとおもわない人などいるだろうか ? つ ま り 、 モノスゴクとおもうかどうか、と いうことに。孟t
誌をモノスゴク ・ ほんとうに 、 とおもうなら 、 軽工業への投資を増やすべきであ る。そうしないなら、ほんとうに 、 ではなく 、 モノスゴクでもない。重工業を十分重視しないこと になる。+分抵観するなら、軽工業を発展させる。というのは、それこそ人民の生活を満足させ、 より多く ・ はやく蓄積ナる条件を提供するからだ。 -農業開d
で、一部の社会主義国の経験はつぎのことを証明している。農業集団化をやっても、や りかたがまずいと増産できないし、州制柴機械化をやっても、やりかたがまずいと同じく州産できな い。一部の国の長業が増産のできない後本原因は、聞の農民にたいする政策に問題がある。農民の -負担する税金が汽く、農産物価格は安く ・ 工業製品価格が高い。われわれは工業とりわけ亘工業を 一発民主せるとM
時に、品業に一定の位置づけをあたえ、正しい此刷業税政策 ・ 正しい工業製品価終政 -策を実行しなければならない。 国民経済全体にたいするは阿呆の重要性は 、 われわれの経段からみて、明らかである。解放後数年 決の予兆 d 、世作の与は 、 暮しやすいことを証明している。これは法則みたいなものだ。 結論はこうだ。軽工業・農業をあまり発展させないで 、 重工業を発展させるやりかたが一つ。軽 工 柴 ・ 設業を大いに究燥させることによって、重工業を発以させるやりかたが一つ。前者は重工業崎 、 を一面的に発展させ、人民の生活を配慮しない。その結果、人民は満足せず、貫工業もほんとうに りっぱにはやれない。長い自でみると 、このやりか たは逆に、軍工業の発展を、よりおそく ・ ま ず くする。数十年後に総決算すると、勘定がひきあわない。後者は、重工業を人民の生活を満足させ ることを基礎として発展させるので、重工業発展の基礎がより固まり、その結果、より多く ・ り っ ぱ に 発 展 す る 。 寸大関係鎗 第二沿海工業と内陸工業との関係 内 陸 了 川 氏 き 発 h k させるのは正しく ・ 主耐火なことだが、沿海工業にも配臨しなければならない。 この問題でわれわれは、根本的な・大きな限りはおかしていないが、いくつかの欠点がある。 この数年、沿海工業をあまり設視しなかったが、これは改める必要があろう. まえからある工業のうち、貫工栄であれ、軽工業であれ、沿海にどれくらいある戸ろうか? 沿海というのは、定等、何北、北京、河市京部、山束、安依、江蘇、上梅、斯江、栢弘、広京、 広西である。わが国の全工業の七
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パーセントはとれらの沿海地方にある。重工業の七O
パーセン トもこれらの、治海地方にあり、三O
パ ー セントだけが内陣にある。 この具体的事尖を監視せず、沿海E
柴を十分評価せず 、 その生産能カを十分利用しないならば、 まったく誤りだ。 われわれは使える時聞をできるだけ利用して 、 沿海工業を発展させるべきだ。新工場をみな沿海 7ア
γ につくれ、というのではない。新工場の九O
パ ー セント以上は内陸に建設すべきだが 、 沿 海 に も 一 部を建設してよい。たとえば鞍山鉄鋼公司 ・ 撫順炭鉱は沿海にある。大連には造船業、唐山には鉄 鋼業 ・ 建築材料工業 、 塘治には化学工業 、 天津には鉄鋼業 ・ 機械工業、上海には機械工業 ・ 造 船 業、南京には化学工業のほか多くの工業 、 がある。いま広東省の茂名︿そこにはオイル ・ シ エl
ル がある﹀で人造石油をつくる準備をしているが 、 こ れ も 重 工 業 だ 。 こんど、大部分の重工業、九O
パーセントあるいはもっと多くの重工業を内陸に建設し、全国の 工業配置を一歩一歩均衡化させ、合理的配置とすべきことは、まったく疑いない。しかし、一部の 重工業はなお沿海に新設 ・ 拡充する必要がある。 過去に工業の拠点は主として沿海にあったので、沿海工業を重視しなければ損をする。沿海工業 の設備・技術を+分利用して沿海工業をりっぱに発燥させれば、内陸工業をより強力に発展 ・ 支援 できる。沿海工業にたいして消極的態度をとるのはまちがいだ。この消極的態度は、沿海工業の十 分な利用をさまたげるだけでなく 、 内陸工業のすみやかな発腿をもさまたげる。 われわれはみな内陸工業を発版させようと務えている。問題は、ほんとうにそう考えるかどうか だ。ほんとうにそう考えるのなら、沿海L
業をもっと利用し、一部の沿海主業、とりわけ軽工業を もっとやらなければならない。 いまえられる資料によると、 ペての生産能カを発嫁すると、 「中間の道Jの模型R 一部の軽工業工場はたいへんはやく建設できる。生産をはじめてす 一年で全投資を回収できる。そうすると、五年で、本工場のほか+
、
に、一ニ、四の工場を増設できる。五年で二、三工場増般できるのも、一工場増設できるのもあり、 少なくとも工場半分は刑設できる。これも沿海工業を利用することの誼.要性を示している。 われわれの長期計闘では四十万人の技術幹部が不足しているが、沿海の労句者 ・ 技術者のなかか ら養成できる。技術幹部はかならずしも大学出身者である必要はない。ゴリキl
は小学校に二年か ょっただけだし、魯迅は大学を卒業しなかったので、旧社会では講師にはなれても教授にはなれな ︽ 2 V かった・繭楚女同志は学校に入学さえしなかった。技術労働者が実践のなかで学び、りっぱな技術 幹部になれることを碗いすべきである。 沿海工業は技術水協が商く、製品の質がよく、コストが低く、新製品をたくさん出している。そ れが発展することは、全面の工業技術水準・製品の質の向上を促進する作用をもっ。この問題を十 分重視しなければならない。 要するに、軽工業を発泌させなければ、活工業を発肢させえず、沿海工業を利用しなければ、内 陸工業を建設できない。沿泌工業は維持するだけではダメで、ほどよく発悦させる必誕がある。 十大関係論 第 三 経済建設と国 防 建 設との 関係 国防はもたないわけにはいかない。軍敵をすべてなくしてしまってよいだろうか?よくない。 敵がいて、その敵はわれわれをかたづけようとしており、われわれは敵に包囲されているからだ。 われわれは、すでにかなりの問防カをもっている。抗米援朝戦令門一九五01
五 三 年 ︺ を た た か つ て わ 9が軍隊はより強大になったし 、 自己の国防工業も建設されはじめた。盤古の天地問間以来われわれ は自動車、飛行機のつくりかたを知らなかったが 、 いまや自動車、飛行機をつくれるようになりは じめた。わが
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動車工集はまずトラックをつくり、乗用単はつくらない。そこでわれわれはね日外 事で会ぷに出かけるほかない 。 愛凶的であろうとしても、そんなにはやくはできない。いつの日か 国産-みで会議に出かけられればそれでよい。 ︿ 3 ﹀ われわれはまだ原爆をもって い ない。しかし 、 過去には飛行機、大砲さえなく 、 われわれは粟プ ラス小何で、日中糸口町略者と勝介石とをうち負かしたのだ。われわれはすでにかなり強いが、こんご もっと抱くならなければならない・このために頼るべき方法は、刊勺 宇 都・行政費をほどよい比率にす ることで、その比率を段階を追って国家予算のこO
パーセント前後に下げることだ。こうして経済 建設の費用を地やし、経済建設をより大きく ・ はやく発展させる。これを基礎とすれば、国防建設 もより大きな進歩をえられる。こうすれば速からず、多くの飛行船、大砲だけでなく、自分の . m 郎 燥 ももてるようになる。 原政がほんとうにほしいか ? もしそうなら軍事 ・ 行政費の比皐を下げ 、 経 務 建 設 に カ を い れ る 。 原爆がほしいというのはウソか?もしそうなら軍事 ・ 行政費の比率を下げず 、 経済建設にカ 'をいれない。いったいどちらがよいか、みんなで研究してほしい。これは戦略方針の問題である。 一 九 五O
年、わが党の七期一-一中全会で、すでに出家機関を柑鋭化・制府知化し、波容 ・ 行政設を減 らす問題が提起されている。しかもこれはわが国の財政経済情況を根本から好転させる三条札の一 「中国の滋Jの校'ぷつであると符えられていた。しかし 、 第 -次 五 カ 年 計 同 訓 ︹ 一 九 五 一 一
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七 年 ︺ の 軍 事 ・ 行 政 貨 は い 間 家 予算の支出総制の三ニパ ー セントである。つまり三分の一のぷ出が中生旅而に川いられるわけて、 この比一手は大きすぎる。第二次五カ年A
-幽 門 一 九 五 八t
六二年︺では、やりかたを行えてこの比串・を下 ド 、 より多くの資金を経済建設 ・ 文化建設にふりむけるようにすべきである。 寸った関係2曲 第 四 国 家 ・ 生 産単位 と生 渡者個 人との 関係 最近われわれが各省の同志と請したところ、かれらはこの問題にたいして比較的多くを掛ってく れた。労働者についていえば 、 労働生産性が向上し 、 一労働日あたりの生産高が増えたら 、 賃金む ほどよく調整する必要かある。この点に注意しないのはよくない。解放以来、労的抗告の生活が大山 1 に改普されたことは、ご承知のとおりである。過去に一部の家持以だれも就業していなかったが、 いまはだれかが就業するようになった。かつて一人しか就業していなかった泌が、いまはこ、一一人 就業するようになった。わたしはこんな家族に出会ったことがある。かつてはかれらのうちだれも 就業していなかったが、のちに夫婦二人のほか娘が一人職業をもつようになったので、生活はむろ んよくなった。われわれの訂金は 、 一般的にいえば、また向いとはいえないが、就業している人が 多く、物価も安く ・ 安定しているので、生活は安定している。労働者の生活水品μ
、解放前とはま るでくらべられないほどよくなった。労働者大衆の積極性は一貫して高い。 上にのべたことは、労働者の主動性 ・ 積極性を発揮させるよう注意せよ 、 11 と い う こ と だ 。 工 場 ・「中間の泡」の彼自民 生産単位全体にも主動性 ・ 積極性の問題がある。いかなるモノゴトにも統一性と独立性があり 、 統 一性と差異性がある。統一性だけがあって、独立性 ・ 差異性がないというのはありえない。たとえ ば、いま会識を附いているのは統一性で、散会すれば独立性である。散歩にいく人も、沼市する人 も、メシを食う人もあるが、それぞれその独立性をもっている。ずっと会識をつづけ、休みなくつ づけることなどできるだろうか?そんなことをしたら会議ぜめで殺されてしまう。だから、どの 生産単位 ・ どの人も、主動性 ・ 一定の独立性をもたねばならず 、 統一位とむすびついた独立性をも たねばならない。 生産者個人に必要な利益をあたえ、生産巾位に一定の独立性をあたえることは、国の工業化全体 にとってよいことであろうか ? いっそうよくなるはずだ。いっそうわるくなるのであれば 、 む ろ んやめる。なんでもかんでも集中して 、 工場の減価償却費さえもちさるのでは、生産単位の主動性 をまったく奪うことになり、不利である。この問題についての経験は少ない。この席にいる川志の 経験もおそらく少ないだろう。われわれは、い支研究しているところだ。たくさんの工場があり、 将来はもっと多くなるが、これらの制緩性が十分発揮できるようになれば 、 わが国の工業化にとっ て 、 かならず大きな利益となろう。 農民についていえば、われわれと政民との削係は、これまでずっとうまくいっていた。しかし、 食刷出題では、かつて誤りをおかしたことがある。一九五四年、全国が水容のため減産となったの に、七
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億 斤 門 三 五O
万トン︺供出量を増やした。減産だというのに供出量を増やしたので、農民が不出酬をもった。われわれには欠点がないと汚えではならない。経験がないため、情況をは っ きりと らえきれず、供出祉を七
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億斤増やしたのは、欠点である。この欠点に気づいたので、一九五五年 は供出量を七O
億斤少なくし、﹁三定﹂︹生蕊盆 ・ 供 出 量 ・ 食 糧 不 足 農 家 へ の 飽 給 誌 の 三 つ を 動 か さ な い こと︺政策をやった。くわえて豊作だったので、期産にたいして供出減となり、農民の手もとの食 糧が百数十億t
ニ百億斤増えた。こうして 、 かつて不満をいだいた農民が満足するようになり 、 ﹁共産党はまったくすばらしい﹂とみないった。この教訓を全党が銘記しなければならない。 農民の集団経済組織は、工場と同じく生産単位である。集団経済組織のなかでの集団と伺人との 関係も、うまく処理しなければならない。やりかたがまずく、農民の制利に注・試しないと 、 集団経 済はうまくいかない。この間砲で、一部の社会主義国は議りをおかしたようだ。その集団経済組織 は、一部はだいたいうまくいったが 、 一 部はあまりうまくいかなかった。やりかたがまずいと、農 業生産がそれほど発展しない。集団は蓄積が必要だが、農民からとりすぎて 、 苦しめないよう注意 せよ。不可抗力の災害にあったとき以外は、農業生産の増加を基礎として、農民の収入を前年より 増 加 さ せ よ 。 十大関{f:必 われわれは、各省の同志と互の収穫 ・ 秋 の収穫の分配問題を話しあった。分配問題というのは、 ①同がどれだけとるか、@集団がどれだけとるか、@農民がどれだけとるか 、 という分けかたの問 題である。同は税として 、 銀問経済組織は暫税 ・ 経営管理費として、例人は食椀 ・ 現金として、で あ る 。 13「中国の逃J の til~官 集団経済はすべて農民に服務するものだ。生産費はいうまでもなく、管理費も、必.畏だ。公共樹立 金は拡大再生産のため、公益金は農民の福利のためである。生産費・管理費・公共積立与一・公益金 については、農民とともにほどよい比率を研究すべきである。 国も集団も芯加が必要だが、多すぎてはならない。国の蓄積は、おもに税収を通じてであって、 価格政策を通じてやるのではない。工業製品と農産物との交換は、われわれは、シェ
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レを縮小さ せ・等価交換あるいはそれに近い政策をし幻。工業製品については、薄利多売政策・物価安定政策 を と る 。 要するに、固と工場、国と労働者、工場と労働者、固と集団経済組内、国と農民、集団経済組犠 と農民、これらの関係はいずれも双方に配慮すべきであって、一方だけではダメだ。ここにはいく らか新しいものがある。これは大きな、六億人民にかかわる問題であり、全党に重視させなければ な ら な い 。 第五中央と地方との関係 中央と地方との問係も、一つのが加である。この矛加を解決するために、いま注意すペ3
こ と に地方の積施性をも っと発仰させることだ。 中央の統一的計画のもとで、地方にもっと多くのこ とをやってもらう。 みたところ、おそらく地方の権利をもっと鉱大する必裂がある。地方の棺利が小さすぎるのは、,
寸大関係治 社会主線建設に不利た。わが憲法は、地方には立法摘はないと規定し、それを全同人民代委火会に 集中させている。しかし、中央の政策に背かず、法律の規定している範囲内では、情況と工作の必 要に応じて、地方もいくらかの規則 ・ 条例を定めてよい。この面で慾法は拘束していない。 重工業も軽工業も、発展させるには市場 ・ 原料がいる。この目的を達成するには、地方の積極性 を発部させなければならない。中央の指導を強化するには、地方の利益に注意せよ。 いま数十本の手︹中央各留の命令 ・ 指示を指す︺が地方にはいりこんで、地点の仕事をやりにくくし ている。各部は純日、省・市レベルの部品に命令を出している。これらの命令は、中央も国忌院も 関知していないのに、みな中央からということで、地方への大きな圧力となっている。文む ・ 報告 の洪水におぼれそうだ。これは改めるべきで、調整の方法を相践しなければならない。 中央の各部の仕事はニ担額に分けられる。一つは、その指導が山桜企業レペルまで及ぶもの。中 央各部が地方に設けた管理機構・企業は、地方が監督する。もう一つは 、 その任務か指埠方針の提 起 ・ 工作計聞の策定だけであるもの。仕事は地方がやり、地方が主になってやる。 地方と相談して仕事をやる作風を提唱しよう。党中央が仕事をやるときは、いつも地方と相談し た。地方と相談することなしに、盲目的に命令を出すことはなかった。この商で中央各部はよく注 意し、およそ地方と関連する事柄は、まず地方と相絞し、相肢ができてから、命令を出すようにし て ほ し い 。 われわれには統一が必臨 M が、特殊性も必要だ。地方の積話性を十分発抑させるには、各地方が 151
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「中I司の道」の{見集 その情況にふさわしい特殊性をもたなければならない。この特殊性は、高摘が独立王国をつくった 特殊性とはちがう。全体の利益のため、全凶の統一を強めるために必定な特殊性である。 省 ・ 市は中央部門にたいして少なからぬ意見をもっているが、それを提出させよ。専区-m -m
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-郷も行 ・ 市にたいして少なからぬな凡をもっているかもしれな い ので、省 ・ 市も注立して耳をか たむけ、かれらの積極性を発揮させる。正当な積極性 ・ 独立性は 、 省 ・ 市 ・ 専区 ・ 県 ・ 区 ・ 窃がみ なそれぞれもつべきだ。中央は省・市にたいして 、 省 ・ 市は噂区 ・ m m ・ 区 ・ 帽 切 に た い し て 、 あまり にひどくワクにはめることはできないし、そうすべきでもない。 む ろ ん 、 下級の同志にたいして 、 みだりにではなく慎冠に、と話すことも必要だ。統一できるも のは、統一すべきであり、統一しなければならない。統一できないものは 、 統一すべきではなく、 統一のムリ強いはできない。 双万が積極性をもつのは 、 一方だけが積極性をもつよりはるかによい。地方主義 ・ 利己主義から 出発するのではなく 、 同全体の利益から出発し 、 国の利益のためにこそ 、 ﹁ 地 位 ﹂ を 争 い 、 争 う べ き はφ
ぅ 。
中央が認めた独立性は 、 正当な独立性であり 、 ﹁ 独 立 王 国 騒 ぎ ﹂ と 呼んではならない。 要するに、地方がほどよい権力をもつことは、強大な社会主義国の建設にとって、むしろ有利な のだ。地方の稼カを 小 さくするのは 、 おそらくそう有利ではない。中央 と 地方との関係の問題で 、 われわれの経験はまだ少なく 、 成熟していないので 、 みんなで研究 ・ 討論してほしい。、
十大関係協 第 六 党 と 党 外 と の 関 係 これは中同共産党と民主党派・無党派民主人士との別係のことだ。これはなにも新しい問題だと いうのではないが、ここまできたので、この関係も話すべきだろう。 いったい一党だけでよいのか、複数党がよいのか?いまみるところ、やはり複日以党がよい。過 去にそうであったばかりでなく、将来も、すべての泊旅が自然に消滅するとさまで、ずっと,τ
フ で あろう。共産党と各民主党派が公期に共存し、相互に監朽しあうと、益するところが多い。 党派は歴史の産物である。世界には、歴史の産物でないものはない。これが第一。第二に、およ そ歴史の産物は歴史とともに消滅する。共産党は歴史の産物であるから、いずれかならず消滅する 口がくる。民主党派も向じ迎命た。 プロレタリア政党、フロレタリア独裁はやがて消滅するだろう。しかしいまは、なくてはならな い。さもないと反革命を鎮圧できず、帝国主義に抵抗できず 、 社会主義を建設できない。これらの 任務を実現するため、プロレタりア独裁は 、大 きな強制カをもたねばならない。しかし、官僚主義 に反対せねばならず、機構を大きくしすぎてはならない。 党 ・ 行政機構を大いに簡ぷ化し、三分のこを切りすてるよう、わたしは挺策したい。 話はもどるが、党 ・ 行政機構の簡素化というのは、民主党派をなくすことではない。 いまわが国には民主党派が林立していて 、 そのなかの一部は、われわれにたいして多くの意見を 17「中間のittJのf完封: もっている。これらの人にたいしては、団結も、闘争も 、 と い う 方 針 を と り 、 服務するよう動員する必要がある。 中国では、かたちのうえでは反対派はおらず、すべての民主党派が中国共産党の指導を受けいれて いる。しかし、これらの民主党派の一部の人は、事実上反対派である。﹁革命を最後までやること﹂ 、 外 交 政 策 で の つ ノ 道 ︺ ﹁ 一 辺倒﹂、抗米援朝戦争 ・ 土地改革などの問題で 、 かれらはいつも、反対し た り 、 反対しなかったり 、 であった。反蕊命鎮圧にたいしても 、 意見をもっていた。かれらは共同 綱領はすばらしいといい、憲法をつくろうとしなかった。しかし窓法が起草されるや、双手をあげ て賛成した。モノゴトはよくその反面に転化するものだが、民主党派の一部の人の多くの問題にた いする態度も同じである。かれらは反対派であるとともに、反対派ではない。かれらが愛国的であ ろうとすれば、反対から反対しないほうへ転化するからだ。 共政党と民主党派の関係にも改替すべきところはある。われわれは民主党派の人びとに自分の意 見を出してもらい、それが型にかなっているかぎり、だれのいったことでも受けいれよう。これは 党 ・ 凪 ・ 人民 ・ 社会主践にとって、たいへん有利である。 だからわたしは、わが向志が統一戦線工作をしっかりとつかむよう希望する。省香
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会の将記は 一定の時間をさいて、点検・配臨し、この工作を推逝してほしい。 かれらが社会主義に十*-関係 第 七 漢 民 族 と 少 数 民 族 と の関係 この問題にたいするわれわれの政策は、安定しており、少京民族の賛成をえている。われわれは大 漢民族主義反対に重点をおく。地方民族主義はたしかにあるが、それは重点ではない。重点は大漢 民族主義反対である。人口では漢民族が大多数であり、漢民族が大漢民族主おをやり、少数民涜を 排斥するならば、きわめてよくない。そこで、漢民族のあいだで、プロレ夕日ア民族政策の教育を 広くおこなう。漢民族と少数民族との関係を点検せよ。一一年まえに一度点検したが、これからもう 一度やるべきだ。その関係が不正常なら、正すべきであって、口先だけのおしゃべりではダメだ。 いま多くの人が、大部民族主能はいけないと蹄っているが、口先はりっぱだが、実際にはなにもや っ て い な い 。 少議民族地区で、経済管理体制・財政制度は 、 けっきょくどうやったらよいのか、研究してみる 必 要 が あ る 。
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少数民族地区は、地大きく ・ 物博しであり、漢民族は、人口が多い。少数民族地弘は地下資源が 多く、これは社会主義建設に必要なものだ。漢民族は少数民族を積極的に援助し、社会主義の経済 疋放 ・ 文化建設をおこなわれなければならない。民族関係を改善し、社会主線建設に布利なすべて の要紫を、人の耐火山献も物の援楽も含めて、すべて動n H
せ よ 。 19‘
「中国の泡」の復策 第八革命と皮革命との関係 反本命とはどういう要素か ? 消極的要紫 ・ 政壊的 d k H 酷である。税純的要素ではなく、その反対 のカだ。では 、 消極的要紫 ・ 破緩的要紫は梢概的製品鼎に転化できるだろうか ? 反革命分子は変え られるだろうか ? それは社会 的 条件いかんによる。あ く までも頑固な ・ 往生ぎわのわるい反革命 分子は、たしかにいる。しかし 、 わが社会的条件のもとで 、 かれらの大多数は 、 やがて変るR
がく る 。 むろん一部の人は 、 変るまえにエンマ大主が迎え に き て し玄うかもしれない。 一 部の人がいつ変 るのかは 、 だれにもわからない。 人 民のカが強く 、 われわれの反革命分子にたいする政策が正しか ったために、労倒のなかでかれらを拘己改造させることがで島. 、 少なからぬ反氷命分子が反革命で なくなった。かれらは農業労働 ・ 工業労働に参加しているが 、 一部の人はたいへん制緩的で 、 有益 な工作をおこなっている。 反政命館庄の工作については 、 いくつかの点を確認しておくべきだ。たとえば一九五一年、五 二 内 H M 年の反革命鋲圧は、やるべきであったのかどうか?あの反革命鎮圧はなくてもよかった、という 意見があるようだ。 こ うみるのはまちがいだ。あの反革命鋲圧は必要であったこ と を認めるべきで あ る 。 反革命分子を扱う方法は、 死刑 ・ 投獄 ・ 執行約千 ・ 釈放 ︹ 以 文 は 殺 ・ 関 ・ 体 u ・ 放 ︺ で あ る 。 死刑がどういうものかはご承知のとおりである。投獄とは 、 獄にいれて労働改造をやること。執行猶予とは シャパにおいておき、大衆が改造を監仔すること。釈放とは、逮捕してもしなくてもよいものは逮 捕せず、あるいは逮捕後、態度がよければ釈放することだ。情況のちがいに応じて、反撃命分子に たいしてさまぎまの処置をするのは 、 まったく当然である。これらのやりかたを庶民には っ きり話 してやる必要がある。死刑にしたのは、どういう人か?庶民の憎んでいる、血債の重い分子だ。 六億人民の大革命なのだから、﹁束の大ボス﹂ 、 ﹁商の大ボス﹂どもを死刑にせず、かれらにたいし て寛大であれといっても、庶民は納得しない。かつてこいつらを死刑にしたのが正しかったことを 確認することは、いま現尖的意義をもっている。この点を確認しないのはよくない。これが第一点 で あ る 。 十大関係沿 第二に、社会にまだ反革命分子の残っていることを確認すべきだ。すでにずっと少なくなってい るけれども。わが社会妖序はよくな勺ているが 、 替戒をゆるめるな。反革命分子が一人もいなくな った、枕を高くして眠れる、というのはまちがいだ。少数の反革命分子はなお破線活動をやってい る。たとえば牛を死なせ、食拙を焼き、工場を破縦し、情報を盗み、反動的なスローガンを貼る 、 などだ。こんご社会における反準命鋭圧は、逮捕 ・ 死刑を少なくし、反革命分子の大部分は農業協 同組合にひきわたし、監好のもとで生産に従事させ、労働改造をさせよう。しかし、われわれはま だ、一人も死刑にしないと立言することはできないし 、 死刑制度をなくすととはできない。もしか りに、ある反革命分子が人を殺し 、 あるいは工場を爆破したとしたら 、 死刑にするかどうか?死 21
刑にすべさ戸。 第三に、機関・学校・部隊で反革命鎮圧工作をやるには、つぎのととを確認すペきである。延安 ではじめた一条を
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持すること 、 つまり一人も叫 'さず,、大部分ば逮捕しない、という原別である。 一部の人を死刑にしないのは、死刑とすべき界がないからではなく、死刑にしてもなんのたしにも ならないからだ。生かしておけば 、 かえって使い道がある。一人も死刑にしないと、なにか害があ るだろうか?労働改造できるものは 、 労働改造にいかせ、廃物を役に立つものに変えるのだ。そ れに、人の廿はエラとちがって、一度切ったら、もう伸びてこない。切りまちがえたら、品りを正 そうとしても手がないのだ。 機聞の反革命 H 4 t で 4 人も死刑にしない方針を尖行することは、以革命分子にたいしてきびしい 態度をとることを、さまたむることにはならない。しかし、ー川りをおかさないよう保証し、おかし たら改めることができるよう保征すれば、多くの人を安心させられる。死刑にしない 、 と い う の は、メシを食わせることだ。すべての反弘 A W 分子にたいして、生活の班をあたえ、はりあいをもた せる。こうすれば、人民の事業にも、国際的イメージにもプラスだ。 反革命を鋲伍するには、なお長く、悶難な工作が必張であり、 畑 、 「中悶の滋Jの僕主総 みんな気をゆるめではならない。第 九 是 と 非との関係 党の内外を問わず、是と非をはっきりさせる。誤りをおかした人をどうあっかうかは、
2d
な問 題である。正しい態度は、人が革命をやるのを許すことだ。人がぶりをおかしたら、﹁失敗をいま しめとし、病気を治す﹂方針をとり、かれらが改めるのを註助すべきだ。﹃阿 Q 正伝﹄はすぐれた 小説だ。これを日叫んだことのある同志はもう一度読むよう、読んだことのない同志は読んでみるよ う、すすめたい。稔迅はこの小説で、主としておくれた、めざめていない成民を描いている。阿 Q がいちばんさらいなのは他人から批判されることで、批判されーとすぐケンカした。かれの碩には か MFAV 務 ・ い り ハ グ が い く つ か あ っ た ・ か 、U
1
、 げでもそれに触れたがらず、他人がそのJ
をするのもさらった。 しかし、そうであればあるほど、人はますますはやしたて、かれは受身となった。魯迅はこの小説 ︽ 同 MV で﹁革命を許さず﹂という一章をわざわざ替いて、ニセ毛唐は阿 Q が革命をやるのを許さなかっ た、とのペている。じつは阿 Q のいう革命とは、ものをひったくるだけなのだが、こういう革命で さえ許されなかった。 十大関係& 過去にわが党内で、この問題で誤りをおかしたことがある。主明をはじめとする故条主義者が実 情派であったとき、かれらの好みに合わない人にたいして、かれらはかつてに、これこれの弐りを おかしたという邦名をかぶせた。人が山本命をやるのを併さす、多くの人に打麟在あたえ、党に大き な損得をあたえた。われわれはこの教訓を銘記すべきだ。 23「中肉の泊Jの{提然 人が革命をやるのを許さないとしたら、よくないことだ。入党している人が諜りをおかしたばあ い、それを改めるのを許さないのも、よくないことだ。 われわれは人が説命をやるのを許すべきだ。誤りをおかした人にたいしては、かれがそれを改め るかどうかをみよ、という人がある。これは正しいが、半分だけ正しいにすぎず、残りの半分があ る。つまり、かれらにたいして工作することだ。誤りを改めるのを援助し、その機会をあたえるの で あ る 。 誤りをおかした人にたいしては、まず﹁凡守﹂り、それから﹁助﹂けるべきだ。限りをおかした 人に、仕事をあたえ、援助をあたえるべきであって、他人の不幸を暫んではならない。扱助 ・ 工作 をあたえないのはセクト主義だ。 説命は、やる人が多いほうがいい。誤りをおかした人のうち、誤りに国執し、改めない少数の人 をのぞけば、大多数は改めることができる。それはチフスにかかった人が免疫になるみたいなもの だ。誌りをおかした人が、誤りから教訓をえて、棋凪になりさえすれば、限りを少なくできる。誤 りをおかした人が免疫性を身につけるよう希望する。誤りをおかしたことのない人のほうがかえっ て危険であり、警戒が必要だ。この免疫性がないと、自信過剰になりがちだからだ。 つぎのことに注意せよ。限りをおかした人にたいして、過度に正そうとすると、よくれ分の身に ふりかかってくる。石をもちあげて自分の日必を打つことになる。その結果、転んだままおきあがれ なくなる。誤りをおかした人を好意をもってあっかえば、人心をえられる。誤りをおかした同志に
たいして、けっきょく敵視するのか、援助するのか?これは、ひとりの人か好意をもっている か、悪意をもっているかを判断する一つの基準である。 是と非は、はっきりさせよ。是と非との関係をはっきりさせると、人を荻育でき、全党を団結で きる。党内の論争・批判・闘争は必要だ。情況に応じて、適度な、実際に合った批判をし、ぱあい によってはいくらか闘争する。これは繰りを改めるのを助け、人を助けるためだ。 十った関係幼 第 十 中 国 と 外 国 と の 関 係 われわれは外国に学ぶというスローガンを括起する。このスローガンは正しいとおもう。このス ローガンをあえて挺起せず、提起したがらない出家指導者もいる。勇気をもつべきであり、拝台に おけるそれのようなミエをすてるべきだ。 われわれは世界のすべての削の長所、すべての民族の長所を学びたいとおもう。どの民族にも長 所がある。そうでなければどうして作在 ・ 発以できるだろうか?どの氏族にも長所かあると認め ることは、欠点・短所がないということではない。すぐれた点と欠点、刊誌所と短所、この両方があ るはずだ。わが支部今
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、町隊の中隊長、小隊以は、小さなノl
トにこう骨いであるのを知ってい る。きょうの会践の目的は経験を総括するためである、経験にはすぐれた点と欠点とT
フニつがあ る、と。このニつのあることがわかっているのに、どうして一つだけ、すぐれた点だけをあげるこ とができようか。できるはずがない。一万年たっても二つあるし、どんなときにもその時点でのこ 25r
中国の道」の僕然 つがある。いまはいまの 、 個人には個人の二つがある。要するに 、 二つあるのであって 、 ない。一つだけというのは 、 一を知ってこを知らないものだ。 外国の長所を学ぼうというのは 、 むろんその短所を学ぶのではない。過去にわが一部の人は、こ のことがはっきりわからず短所も学ぼうとした 。 学びとったものが相当なものだと自認するころに は 、 向こうではもうダメになっていた。その結果 、 トンボがえりに失敗し 、 孫悟空のようにひつ く りかえった 。 一 つ で は 一郊の人はどんなそノゴトにも分析をくわえず 、 まったく風向きしだいだ。きょう北風が吹けば 北風派であり、あす荷風が吹けば丙風泳にたる.あさって北風がまた吹けば、申告たもや北風派、白 分の考えが少しもない。絶対主義はしばしば、ある極端からもう一つの極端に変る。とれではダメ だ。盲目的に学ぶのではなく 、 分析的 ・ 批判的に、学ぶ。外国のものをそっくりマネしたり 、 機按的 にもちこむ偏向に陥ってはならない。 われわれは、ある時期に教条主詩的だったととがあるが、この教条主義にたいして長期の闘争をお こなってきた。しかし 、 いまでも学術界であれ 、 経済界であれ、教条主韓が一部残っているので、 批判工作をつづけるべきだ。 われわれは問題をこう提起した。普遍的真理を学び 、 中国の現実とむすびつけよ 、 と。われわれ の理論は 、 マ ル ク ス ・ レl
ニン主義の普遍的真理を中国革命の具体的実践とむすびつけることだ。 われわれは独立して考えることができなければならない。われわれは、外国に学ぼう と い う ス ロ ー ガ ン を公然と提起する。外国のすぺての先進的な 、 す ぐ れたものを学び 、 しかも 、 永遠に学 ん で いく。わが民族の欠点と他の民族のすぐれた点を公然と認 めよう。外国から学ぶには 、 外国語 を ま じ めに学ぶ 必 要がある。いちばんいいのは数カ国語がわか る こ と だ 。 斗τ大関係諭 中国にはこつの欠点 ︿ 同時に す ぐれた点 で も あるのだが ﹀ があるとおもう。第一は 、 わが国が過 去に植民地 ・ 半値民地であり 、 帝国主義に 抑 圧され 、 工業が発達せず 、 科学技術の 水 準が低いこと だ。地大きく ・ 物博く 、人 口が多く ・ 歴史が長いととをペっとすれば 、 多くの点で外国におよば ず 、 胸をはれず 、 誇りをもてなかった。長らく奴隷でありつづけると、すべてにつけて他人におよ ばないと過度におもいこむ。外国人のまえで加を上げることができず 、 法 門 寺 の 叫 ん 舵 と
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じ で 、人 が坐れといっても 、 立ちなれているといい 、 坐ろうとしない。この面ではがんばって 、 わが人民に ︽ 刊 u v 自似をつける必一段がある。孟子のいう﹁大人に税くには 、 こ れ を 軽 ん ず ﹂ が 必 . 必 で あ り 、 抗米扱刷 のなかで提唱した﹁形回主殺を軽視する﹂精神を発川町させなければならない。われわれの方針は 、 すべての外国人の長所を学ぶことだ。政治 ・ 経済 ・ 科学 ・ 技術 ・ 文学 ・ 芸術のすべてのいいものを 学 ぶ こ と だ 。 第二は 、 われわれの革命が後進的であることだ。辛亥本命︹一九二年︺で息阜市を打倒したのは ロシアよりもはやかったが、当時はプロレタリア政党がなく、革命は失敗した。人民て命の勝利は 一 九 四 九 年 で 、 ソ連の十月革命門一九一七年︺より三十数年おそかった。この点でも 、 われわれは誇 27.
、
「中国のiIlJの模索 ほかの植民地国よりは革命が一歩はやかったけれども 、 るわけにはいかない。むろん 、 め ね ば な ら な い 。 前述の三点は、欠ぷであるが、長所でもある。われわれはとても貧しく、知識も少ない 、 とわた しは諮った。一に﹁窮﹂、こに﹁白﹂だ。﹁窮﹂とは、エ均がいくらもなく 、 農業も発達していると はいえないこと、﹁白﹂とは、白紙であり、文化水準・科学水準の低いことだ。窮すれば変をおも い 、 革命をやり、発暫して強くなろうとする。白紙は字を引くのにもってこいだ。むろん、わたし はおおよそのことをいっているのだ。わが労働人民には般かな知忠があり 、 一群のすぐれた科学者 もいる。知識がまったくない、というのではない。 一 に 窮 で あ り 、 二に白であるため、われわれは大きな顔をできない。将来、工農業が大いに発腿 し、科学文化水準が高まったとしても、やはり謙虚な ・ 附 山 首 な 柑 川 区 を 保 ち 、 人 き な 閣 を せ ず 、 他人 から学びつ.つけよう。一万年学ぶのだ。それにふつごうがあるだろうか? おごりを戒 あわせてト点について話した。要するにわれわれは、すべての税制的製ぷi
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山桜的要紫 ・ 川接 的要索 ・ 也 接 的 積 極 要 場 開 ・ 間接的税械製泌ーーを動 H M し て 、 位大な社会主発国を辿設するため訴闘 しようではないか!社会主義陣営をよりいっそう強め ・ 間めるために 、 国際共産主義運動の勝利 をかちとるために 、 掘 削 凶 し よ う で は な い か !十大関係~ { 1 ) 霊工業と軽 工業、工業と農業への投資の 割合中闘の第一次五 カ 年 計 一 間 ( 一 九 五 一 二
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五七年﹀では 、 総投資のうち工業への砲分 が 四 五 ・ 玄 パ ー セント、農業への配分が七 ・ 六パーセント、工業 内部では重工業への配分八五パーセント、軽工業への配分一五パ ーセント、となっていた。ソ速の第一次五カ年計回(一九二八t
三二年﹀では 、 工業四九 ・O
パーセント、農業一九 ・ 一 パ ー セ ン ト、重工業八六パーセント、軽工業一間パーセントとなってお り、中ソの投資パターンは基本的に同じであった。これはいうま でもなく、中国がソ連モデルを踏襲したからである。 ( 2 ) 書酬楚女一八九五 I 一九二七年。湖北省出弐広州で没す。初 期の中共幹部。給客であP
、 由 討 民 運 動 鱗 習 所 教 務 主 任 な ど を つ と めた。勝介石の反共クーデターで殺害された。 (う}原爆中国の第一回核実験は一九六四年十月十六日におこなわ れ た 。 ( 4 } 軍事・行政費をほどよい此率にする国家財政支出の推移は下 表のとおり ・ ( 3 ) 七期三中会会 一 九 五O
年六月、北京で聞かれた。おもな報告 は、毛沢東﹁国家財政経済の慈本的好転のためにたたかえ﹂、劉 少奇﹁土地改革の問題について﹂、周悠来﹁外交工作と統一戦線 工 作 に つ い て ﹂ 、 陳雲﹁財政経済工作について﹂ 、 濡栄残﹁忽事工 国家財政支出 (1950-ω年〉 単位:(宮元 ( )内構成比% 年 度 制 強 制i
i
士 会 文 化 努 │ 国 防 鍵 行 政 管 理 資 │ そ の 他 1950 17.4(25.5) 7.5(11.1) 28.3~4 1. 5) 13.1(19.3) 1.8( 2.6) 1951 35.1(29.5) 13.4(11.3) 50.6(42.5) 17.5(14η 2.4( 2.0) 1952 76.3(45.4) 22.8(13.6) 43.7(26.0) 17.3(10.3) 7.8(4.7) 1953 86.5(40.2) 33.6(15.η 56.8(26.4) 21.2( 9.9) 16.8( 7.8) 1951 123.6(50. 2) 34.6(14. 1) 58.1(23.6) 21.6( 8η 8.4( 3.4) 1955 137.6(51.1) 31.9(11.9) 65.0(24.1) 21.5( 8.0) 13.2( 4.9) t鉛6 159.1 (52. 1) 46.0(15.0) 61.2(20.0) 26.6( 8.η 12.9(4.2) 1957 149.1(51.4) 46.4(16.0) 55.1(19.0) 22.7( 7.8) 16.9( 5.8) 1958 262.7(66.9) 43.5(11.1) 50.0(12η 22.7( 5η 14.2( 3.6) 1959 321.7(66. 5) 58.6(12. 1) 58.0(12.1) 29.0( 6.0) 16.I(3.3) 19ω 429. 1 (66.8) 86.2(13.4) 58.0( 9.0) 31.7( 4.9) 37.2( 5.8) 資料:19.ω-58年『伶大約十年J1959年.1959-ω年『人民回線』ゆ00年4月l日. 29F中国の道Jの伐匁 作 に つ い て ﹂ な ど 。 { 6 ) 財政経 済情況好転の三条件 的凶繋 、 を 析 す 。 ( 7 ) 価格政策を通じての蓄積
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述の一九二0
年 代 、 一 二0
年代と中国の一九五0
年代、六0
年 代 は と も に ﹃社会主義的原者期﹂にあったとみてよいが 、ソ速 では工業製品を高価格で銭民に売り 、 他方農産物を安 く買上げて務税の源泉とした。中国でも客観的条件のため基本的にはこのパターンにしたがわざるをえな か っ た が 、 ソ 速の鈴民収立政策の失敗を教訓として、毛沢東は可能なかぎり袋民の生活に配慮するよう強 調 し て い る 。 ( 8 ) シ ェ l レを紛小させ、等価交換政策をとるシ ェ l レとは、資本主線経済において鈴鹿物価絡が工業製 品価椛よりも低くなP
、両者がハサミ状になることをいう鎖状俗務遣ともいう・ここでは、革命的の旧 社会からひきついだ農産物の低価絡・工業製品の尚価格という偽造会、的行の価終引上げ ・ 後者の価絡引 下げによって、徐々に解消していく必要性を桁摘している。 ( 9 ) 曹間関一九O
五︿一段にO
ニ ﹀ I 五四年。侠西行横山県出身、中共幹部であり、四九年八月東北人民政 白川主席、五二年十一月国家計画委員会主席となった。当時の五大行政区の一つである東北行政区におい て 、 ﹁ 独 立 王 国 ﹂ を つ く っ た と し て 、 五 一 -一 年 末 か ら 鋭 激 石 と と も に 批 判 さ れ た が 、 こ の 背 中 件 は ス タ ー リ ン の対中国政策と深くかかわっている。﹁成都会議における講話﹂の三月十日の講話︿三九頁﹀参照。( ω )
共 同 綱 領 中 務人民共和凶の同家目的を規返した最初の基本紙章。新中国の樹立に参加した中国人民 、 共産党および民主諸党派とのあいだでむすばれた人民協定である。一九四九年九月二十九日 、人 民民主紘 一 戦 線 の 印 刷 縦 で あ る 中 間 人 民 政 治 協 商 会 総 に よ っ て 採 択 さ れ た ・ { U ) -九 五 一 年 、 五 二年の反 革命鎮圧一九同九年・に金制を解放すると新小川の政権はただちに新しい秩作u m
資削減のほか伐りの二条件とは、①土地改革の光成 、 ②商工誌の合理-、 の再建と反革命分子の鎮圧工作をおこなった。この過程で四百万人あまりが審査の対象となり、そのう ち十六万人が容疑者とされ 、 そ の う ち 三 万 八 千 人 が 反 革 命 分 子 と 削 判 定 さ れ た ・ Q 万 歳 ﹄ 了 本 、 一 九 五 買 ﹀ (ロ)=セ毛唐﹃成都会議における総話﹂の訳注 ( M ) 参 照 ハ 六 七 頁 ) 。 (日)王明一九 O E I 七四年。本名は陳紹宙開。モスクワ留学総の指導的人物 。 一 九 三
0
年代前半、三0
年代 後半に二度にわたりいわゆる王明路線の誤り︿前者は極左冒険主義 、 後者は右翼ひよりみ主義)をおかし た。一九五七年からその死にいたるまでソ遮に住み 、 文掌期には毛沢東路線を攻撃する論文を発表した。 ( M } 法門寺の賀経﹁法門寺﹂は明朝正徳年間の朱玉妓の許婚者 ・ 捕時期の完罪事件をあつかった有名な京 創 。 田 H 径は道化役のコニ花験﹄として登場する。 { ひ } ﹁ 大 人 に 践くには 、これを軽んず ﹂ 瓜 文 は ﹁ 説 大 人 則 的 制 之 ﹂ 。 ﹃ 孟 子 ﹄ 尽 心 窓 句 下 に み え る 。 十大関ff:ミ論 31E
大躍進
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人民公社の展開
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34 撃 大庭進・人民公社の展開ー→盆成都会議における講話(一九五八年三月)
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原題は﹁在成都会議上的秘結﹂、﹃万歳﹄了本所収。﹁三月二十二日の鯵穏﹂は﹃文選﹄にも 所収一各務話の表題は訳者が付したものである。 一 九 五 七 年 秋 の モ ス ク ワ 紡 出 か ら れ 抑 制 す る や 、 毛 沢 米 は 、 杭 州 、 防 相 守 、 成 都 で た て つ づ け に 中 央 工 作会滋を測さ、スタl
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ン批判(一九主六年﹀後の同際情勢を分析するとともに、第一次五カ年計一山 期ハ一九五三t
五七年﹀のソ辿一辺倒政策が小川社会主務総紋にもたらした欠陥を鋭く批判しつつ、 独自の社会主持総紋を目ざして特力的に大蹴巡を呼びかけた・一-一月十日の携話は、スターリン批判後 の内外情勢を分析し、一二月二十日の総括は、淡淡の大脳巡を呼びかけ、三月二十二日のm
話 は 、 ﹁ 弘 帝 を馬から引きずりおろす﹂気概をもて、と訴えている。全体を通じてじっにm m
玄しい巡撃のラッパと な っ て い る ・-、 一一月十日の説話 ︹スターリン批判にさいして︺ 成初会議における鴫隠 規則 ・ 制度は一つの問題であり、これを例として 、 思想方法の問題││原則を堅持することと独 創精神を発揮することについて話そう。 間際的には、ソ述、すべての人民民主国家、各国共産党、労働者帰結との友好が必.拠である。国 際主殺を諮り、ソ述、その他の外国の長所を学ぶこと、これが一つの.ぬ則でめる。ただ、学習には こつの方法がある。一つはもっぱらマネることであり、もう一つは独創精神である。学習は独創と むすびつけるべきであり 、 ソ連の規則 ・ 制度をそのままもちこむのは、独創精神の欠如である。 ハ l ﹀ わが党は建党期から北伐期までハ一九二一
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二七年)は、陳独秀のマルクス主義の衣を着たブル ジョア思想があったとはいえ、わりあいいきいきとして活発だった。十月革命が勝利してから三年 円 2 vn
にわれわれは述覚したが、党に参加したのは、すべて﹁五阿迎動﹂に会加して影響を受けた出円年 である。十月革命後、レl
ニンが存命中は、階級闘争が鋭く、スターリンはまだ権力を撮っておら ず、ソ連もいきいきとして活発だった。陳独秀主義の根源は圏外の社会民主党と届内のブルジョア ジーである。この時期に、陳独秀主義の誤りが生まれたとはい‘ぇ 、 一般的にいえば、教条主義はな か っ た 。 内戦期から遵義会議までハ一九二七t
一ニ五年)に、中向の党には三回の極左路線が生まれ、 九大
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三五年のそれがいちばんひどかった。当時ソ連では反トロッキー派が勝利したが 、 理捻上で 内 5 V は、デボl
リ ン 山 下 派 を 打 倒 し たr
けであった。中川の掩友ひよりみ主総者は、ほとんどすべてソ連 で影響を受けたものだ。むろんセスクワにいった人が、すべて教条主務者になったというのではな い。当時ソ速にいた多くの人のうち、一部の人は教条主義であり 、 一部はそうでなかった。一部の 人 は現実につながっていたが、一部の人はつながらず、外国ばかりみていた。そのうえ 、 ス タl
リ ︽ 6 V ンの支配が強化されはじめた︿ほんとうに強化されたのは反革命粛清後である)。コミンテルンに ︿ 7 V ︽ Q O V 当時いたのは、プハパゲン、ピャタコフ、ジュノグイエフであり、東方局長はクl
シ ネ ン 、 梅束局長は A V M M 叫 し 甲 ミフであった。×××はよい川志で、持・川氏であり、独創柿神があった。ただ 、 ちょっとまじめすぎ た。ミフの役割か大きかった。これらの条件のために教条主義が形成され、一部の中闘の同志も彫 響を受けた。極左は知識青年のなかにもあった。当時、主明らは﹁二八 ・ 五人のポリシェグ J将 ﹂ というのをやったが、数百人がメ連で学んだのに、なぜ二八 ・ 五 人 だけなのか?かれらは 、 は な はだしい極左で、自分で自分をか たづけ 、孤立させ、党のサークルを縮小した。 中同の教糸主義には中刊の特色があり、戦φ
と富良問題にあらわれた。訂曲肢は数が少ないので、 原則的には動かさず、町伐には段歩するよう決定したのだが、極左派は賛成せず、﹁- M
燥にはわるい 悶を分けてやり、地主には卸を分けない﹂ょう主張した。その結来、地主はメシが食えなくなり、 一 部は迫られて山にのぼり、緑色ゲリラ︹赤色グロラにたいする反革命︺をやった。ブルジョアジーの 問題では 、 かれらはすべて打倒するよう 、 政治的のみならず経済的にも消滅させるよう主張し、民 E 36E史郎会問における~::h 主革命と社会主義革命とを混同した 。 帝国主義にたい し て も 分 析 せ ず 、 同民党を支持していると考えた。 全国解放後( 一 九五