〈研究ノート〉
沖縄島中部うるま市における出土遺跡のジュゴン骨について
-考古学資料からみた民俗学調査への提案-
前 田 一 舟
はじめに
うるま市は、 ジュゴンに関する民間伝承が数多く残されている。かつて、 勝連半島の島々 では沖縄戦後間もない頃まで村びとたちがジュゴンを捕獲し、それを御嶽へ供物にし、食 していた。その生活のなかで、ジュゴンとの関わりはいつ頃から始まり、どのようにジュ ゴンを利用していたのか、知りたくなった。その過去の生活の痕跡を知るうえで、貴重な 資料がある。それは考古学の手法により遺跡を発掘し、発見されたジュゴンの骨である。
これまでのうるま市では、沖縄県教育委員会やうるま市教育委員会等によって25 ヶ所 の遺跡でジュゴンの骨の出土が確認された。その出土した遺物は、主に遺存骨と骨製品に 分けられる
(註1)。
日本の古生物学や動物の考古学に詳しい直良信夫は、早くから沖縄の遺跡で発見された ジュゴンの骨に注目していた。直良は『古代の漁猟――考古学及び化石動植物学上より見 たる日本古代の食糧と漁猟の話』 (1941年)のなかで「史前の人々が私共と同様此の海獣 を人魚と見たてて、特別な存在としての取扱いをしていたかどうかはわからないが、とに かく貝塚からは他の獣骨類と共にうち砕かれたまま、片々として出土する所をみると、ど ちらにしても食用とされたものであることは争い得ない。」と述べている[直良 1941:
43]。また、沖縄の動物遺存体に詳しい金子浩昌も沖縄県下の数々の遺跡から出土した動 物遺存体について調べている。金子によれば、沖縄の発掘で出土する海棲獣類の代表的な 種類はジュゴンであり、その「骨も、特に数多く出土するというわけではないのですが、
小さなリュウキュウイノシシしかいない沖縄の石器時代の貝塚では、目立つ存在」と指摘 している[金子 1984b:148]。近年の研究では盛本勲等がいる。とくに盛本は縄文時代 から近世に至る各時代の遺跡より
出土したジュゴンの骨を整理した が、 「時期的な出土状況について であるが、各時代における各期ご との詳細な量的変遷などは明らか にすることができなった」と反 省した[盛本 2004:35]。また、
盛本は捕獲したジュゴンの運搬方 法と調理についても首里城跡・右
掖門周辺地区の出土事例より「捕
図1 沖縄島とうるま市の位置獲されたジュゴンの生体を丸ごと城内に運び込んで解体、調理されたであろう、ことが推 測される。 」と述べている[盛本 2014:41]。
そこで、本文はこれまでの見解を参考に民俗学側から考古学資料を援用する予備知識と 今後の調査研究の課題を浮き彫りにすることが目的である。まず、従来の考古学の見解と 重複するが、うるま市内25 ヶ所の遺跡の報告書をもとに遺跡の地理的環境とジュゴンの 遺存骨と骨製品の情報を整理する。次は捕獲したジュゴンの運搬と遺跡の立地について言 及したい。 それらは今後の民俗学調査における民間伝承の収集の目標をねらいとしている。
一、うるま市の位置と環境
うるま市は沖縄島中部東側にあり、有人の離島を5島も有する(図1) 。その位置は北 緯26度22分45秒、東経は127度51分27秒となる。市の面積は87.01km
2ある。
完新世の沖縄島は現在の形となったが、うるま市の地形も沖縄島の北部と中南部の特徴 を持つ。その代表的な地形は本市中部辺りの天願川である。その川の境界と同じく、うる ま市は沖縄島の北部と中南部をわける「天願断層」がある[小西 1965]。その境界線から 北側には、沖縄島北部のヤンバルのような高い山や赤土等がみられる。一番高い山は石川 岳の204mである。その岳は名護層群や国頭れき層の地層が集中している。一方、南側は 中南部の特徴の低い山とカルスト残丘、青灰色でシルト質の泥がみられる。もちろん、そ の境界線は植生や生き物の生息も変わってくる。シルト質の泥等は中国大陸と沖縄島が陸 続きで、今の沖縄島の中南部が海だったころに堆積した土である。その土は第三紀の島尻 層群に属し、クチャ(泥の岩)がみられ、それが風化してジャーガルという肥沃な土壌と なっている。また、天願断層の南側の地域は、第三紀の島尻層群を不整合におおって第四 紀の琉球石灰岩も形成している。それらの特徴は赤道集落から天願集落にかけて目立つカ ルスト残丘や沖縄市古謝集落から勝連半島にかけてそびえる分水嶺が確認できる。その琉 球石灰岩は大きな岩で成り立ち、雨水を透す特徴があるため、市内の所々に湧き水がみら れる。そのような場所をうるま市の貝塚人たちは生活圏とした。
さて、海の環境は沖縄島においてうるま市が一番の干潟の面積を有する
(註2)。それは 沖縄島の東側と西側をわけて比較すると、東側の干潟が1,076ha(内消滅332ha)と多 く、西側の干潟が836ha(内消滅194ha)と少ない。逆に沖縄島の西側はサンゴ礁が多い 環境となっている。ちなみに東側の内訳は、うるま市の与那城地域を筆頭に609ha(内消 滅237ha)で、沖縄市が206ha(内消滅51ha) 、名護市(東地区)が86ha、南城市の佐敷 61ha(内消滅23ha) 、うるま市の勝連地域37ha、中城村32ha(内消滅18ha) 、うるま市 の具志川地域32ha(内消滅3ha)、北中城村7ha、国頭村6haの順となっている。また、
それと比例し、藻場の面積も与那城地域243haが一位である。
おおむねうるま市の自然環境は市面積の大半が琉球石灰岩の地質とその地形を有し、そ
の他の地域と比べても広大な干潟が特徴である。
表1 うるま市のジュゴン骨に関する出土遺跡一覧
№ 遺跡名 海抜
(m) 時代区分 出土遺物
備考 出典
土器 骨製品等
1 古我地原
貝塚 60 沖縄貝塚時代
早期~前期 面縄前庭式土器 骨製品18点
実用品3点
沖縄県第84集 装飾品3点
(腕輪)
その他6点 千枚岩の蝶 形骨器模倣 遺存骨39点
2 伊波城跡 87
前期 先史時代の土器
遺存骨16点
肋骨10点
うるま市第5集
後期 類須恵器 その他5点
グスク時代 輸入陶磁器 グスク土器 歯1点
3 東恩納
美川原遺跡 60
前期 室川式土器
獣骨64点
獣骨(ジュゴン)
の出土した層序 明記なし。
うるま市第1集 大山式土器
中期
宇佐浜式土器 室川上層式土器
ジュゴンの肋骨 カ ヤ ウ チ バ ン か?
タ式土器 4 東恩納
美川原遺跡 60 中期 室川式土器
遺存骨1点 椎骨1点 うるま市第7集 宇佐浜式土器
グスク時代
5 宇堅貝塚 2~ 10
後期 山ノ口式土器
遺存骨2点 獣骨2点 具志川市
(1980年)
後期~
グスク時代
免田式土器 浜屋原式土器 弥生系土器 6 アカジャン
ガー貝塚 5 後期 山ノ口式土器
遺存骨40点 ほとんどが肋骨 具志川市
(1980年)
弥生系土器
7 地荒原貝塚 60 前期 実用品15点 骨錐15点 具志川市
(1986年)
遺存骨88点 肋骨か? 88点
8 地荒原遺跡 60
前期 伊波式土器
遺存骨14点 ジュゴンの骨 具志川市第3集 大山式土器
中期
カ ヤ ウ チ バ ン タ式土器 宇佐浜式土器
9 大田貝塚 66 中期
カ ヤ ウ チ バ ン
タ式土器 遺存骨1点
ジュゴンの肋骨
か? 具志川市
(1978年)
宇佐浜式土器 獣漁骨1点
10
具志川グスク 崖下地区
(下層) 20 ~ 30
後期 弥生系土器
骨製品6点
骰子2点(内1 点は加工中)
うるま市第4集 鏃(銛?)1点
具志川グスク グスク時代 輸入陶磁器
肋骨1点(加工中)
その他2点
(ヘラ状、柱状)
11 平安座島
ハンタ原貝塚 80 中期
宇 佐 浜 式 土 器
か? 骨製品1点 図版Ⅰ出土物の 中にジュゴンの 肋骨を加工した 製品等有。
友寄・嵩元
(1971年)
カ ヤ ウ チ バ ン
タ式土器か? 遺存骨1点
12 シヌグ堂遺跡 112 中期
室川式土器か?
宇 座 浜 式 土 器 か?
仲原式土器か?
骨製品17点
骨錐13点
沖縄県第67集 ヘラ状1点
傷痕2点
遺存骨72点
肋骨20点 肢骨片9点 椎骨3点 その他34点 火をうけたもの有。
若い個体よりも 成獣が主。
13 高嶺遺跡 120 中期
室川式土器か?
宇 座 浜 式 土 器 か?
仲原式土器か?
骨製品9点
骨錐4点
沖縄県第92集 その他5点
主に肋骨を加工
(簪?)
焼けた骨か?
(黒褐色)
遺存骨71点
下顎骨1点 肋骨54点か?
椎体骨1点 棘突起2点 破片13点
14 勝連城跡
第一次発掘 98 グスク時代
後期土器
獣骨419点
骰子3点
多和田ほか
(1965年)
グスク土器 肋骨製品1点
須恵器 その他製品(不
明)
輸入陶磁器 ジュゴンの骨の
点数不明。
15 勝連城跡
二の郭 80 グスク時代
骨製品4点
加工した痕跡有 4点
勝連町第11集 鏃(ジュゴンか?)
ジュゴンの骨製 品(錐状?)
遺存骨76点
未加工製品1点 垂飾品2点 簪5点 16 勝連城跡
三の郭 80 グスク時代 輸入陶磁器 骨製品33点
骰子6点
(内未完成5点) 勝連町第11集 鏃27点
17 勝連城跡
北貝塚 80 グスク時代 骨製品2点 ジュゴンの骨か? 勝連町第6集
18
勝連城跡 二の丸 北地点
80 グスク時代 輸入陶磁器
骨製品53点
ジュゴンの骨ら しき製品
勝連町第6集 鏃12点
骰子1点 刃物痕跡有の骨 片41点 肋骨が盛んに利用 グスク時代に至 る存在 遺存骨15点 二の丸 遺存骨2点 二の丸(ロ- 2サ
ンプリグリット)
19 勝連城
南貝塚 72
後期 後期土器
骨製品1点 ジュゴンの肋骨 と思われる骨で 麻雀牌の形に切 り取られている。
勝連町第6集 グスク土器
グスク時代 須恵器
遺存骨24点 輸入陶磁器
20
勝連城跡 四の曲輪 北区
83
前期 面縄前庭式土器
骨製品7点
(未成品含む)
骨錐5点
うるま市第14集
後期 後期系土器 肋骨1点
グスク時代
(主な時代)
グスク土器 その他1点
カムィヤキ
遺存骨70点 その内32点が 輸入陶磁器 肋骨。
その他
21 南風原古島
遺跡 10 ~ 64 グスク時代~
近世
フ ェ ン サ 下 層 式土器 フ ェ ン サ 上 層 式土器 輸入陶磁器 カムィヤキ その他
遺存骨2点 頭蓋骨1点
肋骨1点 うるま市第5集
22 平敷屋
トウバル遺跡 7 後期
後期土器
遺存骨23点 その内肋骨が
18点。 勝連町第22集 浜屋原式土器
大当原式土器 アカジャンガー 式土器
23 平敷屋
トウバル遺跡 7 後期
(主な時代)
後期土器 その他
骨製品8点
骨錐?1点(肋骨)
沖縄県第125集 装飾品2点(肋骨)
その他5点
(肋骨を含む)
遺存骨158点 肋骨が158点出 土。
後期の文化層よ り出土。海岸近 くの場所で多く 出土。
24 津堅島
キガ浜貝塚 3~5
前期 伊波式土器
骨製品10点 骨錐1点
沖縄県第17集
荻堂式土器 彫刻骨器9点
中期
大山式土器
遺存骨3点 そ の 他( 肋 骨 ) 3点
カ ヤ ウ チ バ ン タ式土器 その他
25 津堅貝塚 3~5 後期
大 当 原 式 土 器 アカジャンガー 式土器
遺存骨9点
内肋骨5点
勝連町第23集 頭蓋骨は儀礼的
使用か?
全身の骨が出土。
※各出典物のなかで金子昌浩[金子 1984a;1985;1996]や樋泉岳二[樋泉 2005]、菅原宏史[菅原 2008;
2011]が報告するジュゴン骨は具体的な数値で示されているが、それ以外の出典物は図版や文面で紹介され ている。この表はあくまでも数量的把握というより出土確認の整理にとどめた。
二、ジュゴンの遺存体
うるま市における25 ヶ所の遺跡でジュゴンの骨製品と遺存体の情報を整理したのが表 1である。その表1では、ジュゴンの遺存体及び骨製品の特長がみえてくる。
遺存体の骨は、主に肋骨が全体遺跡25 ヶ所の内17 ヶ所で確認でき、約68%を占めてい る。不明が8ヶ所である。その不明はジュゴンの肋骨と思われる骨を加工した製品である。
その条件ではほぼ全体でジュゴンの肋骨が使用されていることになる。特に平敷屋トウバ ル遺跡の報告は、沖縄貝塚時代後期の層からジュゴンの肋骨がまとまって出土し、158点 の肋骨を確認されているのがとても興味深い。それは沖縄県内の動物遺体が詳しい金子浩 昌も指摘している[金子 1996:176] 。また、その肋骨が海岸近くで多く出土している点 も民俗学の視点でおもしろい。実はその場所が当時の貝塚人とジュゴンの関係がより深く 表れているように思え、海岸の場所が貝塚人にとって欠かせない生活空間であったと考え られる。
そして、沖縄貝塚時代後期の津堅貝塚では平敷屋トウバル遺跡と同様にジュゴンの全身 の骨が確認されている。 特に津堅貝塚の立地よりジュゴンの頭蓋骨が発見されている点は、
民俗学の視点で興味をひく。その貝塚の動物遺体を調査した樋泉岳二は、ジュゴンの「頭 蓋、四肢骨、肋骨などの全身の骨(M7区以外から椎骨も得られている)が出土している 点が特徴」とした。ジュゴンの出土地と骨は「儀礼的な扱いの可能性」があると、樋泉は 仲松弥秀の報告[仲松 1977]を参考に示唆した[樋泉 2005:52-53] 。
以下の図2は、各遺跡から出土したジュゴンの遺存体の骨を分別し、数量を表してみた。
図2で浮かび上がってくる要点は、沖縄貝塚早期~前期、後期、グスク時代の区分で圧倒 的にジュゴンの肋骨の出土数が多いことである。ジュゴンの骨格は肋骨が多いのも特徴が ある為、 その他の骨と比べると差が出やすいかもしれない。しかし、 各時代の貝塚人がジュ ゴンの肋骨を意識的に他の骨と違った扱い方をしているのがみえてくる
(註3)。
三、ジュゴンの骨製品
さて、ジュゴンの骨は様々な製品がみられる。その骨の遺跡を時代系列に列挙すると、
3点の特徴があげられる。それが①彫刻骨器(蝶形骨器) 、 ②骨錐の骨製品、 ③鏃と骰子(賽 子)の骨製品の文化的特徴である
(註4)。時系列に分けた遺跡は、表3となる。
1.彫刻骨器
島田貞彦が提唱した蝶形骨器[島田 1932:58]は、うるま市においてジュゴンの骨製 品でないけれども古我地原貝塚より千枚岩で加工した製品を確認することができる(図3
-①) 。時代区分は、沖縄貝塚時代早期~前期である。その後、後期では津堅島キガ浜貝
塚において古我地原貝塚の蝶形骨器と類似する骨製品が出土した(図3-②③④) 。その
製品を比嘉春美は「彫刻骨器」と名づけた[沖縄県教育庁文化課編1978:38] 。それら
が沖縄貝塚時代早期~前期にかけて確認できるジュゴンの彫刻骨器と千枚岩の蝶形骨器で
図2 時代区分におけるジュゴンの遺存骨の出土量
※骨の分別は各報告書の遺存体による数量をもとにしたが、現物標本をみているわけではない。
また、遺跡によってはジュゴンの骨の種類が不明なものもある。
図3 彫刻骨器・錐状の骨製品・骰子と鏃の骨製品
①は古我地原貝塚、②③④は津堅島キガ浜貝塚、⑤⑥は地荒原貝塚、⑦⑧⑨⑩はシヌグ堂遺跡、
⑪⑬は具志川グスク、⑫⑭は勝連城跡三の郭。
あり、ひとつの文化的特徴をもつ。
その彫刻骨器は沖縄市の室川貝塚、宜野湾市の安座間原第一遺跡、読谷村の吹出原遺跡、
嘉手納町の嘉手納貝塚、那覇市の崎樋川貝塚等においても類似品が発見されている。その 文化的背景の論証は、島袋春美の「いわゆる『蝶形骨器』について」 (1991年)等に詳し いので、解説を省く。
2.骨錐の骨製品
次は25 ヶ所の遺跡の内、8ヶ所の遺跡からジュゴンの肋骨を利用した錐状の製品が沖 縄貝塚時代早期~グスク時代にかけて目立つ。不明の遺跡は2ヶ所ほどである。
大方の出土品は、このジュゴンの肋骨で加工された骨錐(大型の針)である。骨の錐と いっても現在の我々の生活で利用している錐とは異なり、針の部分で太いのが特徴である
(図3-⑤⑥⑦⑧⑨⑩) 。上江洲集落の地荒原貝塚(沖縄貝塚時代早期~中期)は、骨錐が 15点確認できる。そのうち1点は灰褐色であることから火を使った形跡があり、 興味深い。
また、 火の痕跡を残す骨錐が宮城島のシヌグ堂遺跡(沖縄貝塚時代中期)でも確認できる。
さらにシヌグ堂遺跡は骨錐が13点出土している。特に沖縄貝塚時代中期の高嶺遺跡とシ ヌグ堂遺跡の製品は、何らかの道具として完結された遺物と考えられ、同時代中期以降の 各遺跡より類似する骨製品である。それが2点目の文化的特徴である。
次に気になる遺跡は、グスク時代の勝連城跡(四の曲輪北区)である。その遺跡でも骨 錐が5点確認できる。主にジュゴンの骨で製作に利用されただろう製品は鏃と思われる。
骨錐は用途が不明である。そのなかには簪も想定されようが、大型で針状の骨錐は頭部を 穿つ特徴がある。そして、その頭部に2本ないし、3本以上の横線を刻んでいる。そのよ うな状況から推測すると骨錐は紐で結び、首などにかけたり、何かを製作する用具として 使用されたりしたのかもしれない。特に近世以降の遺跡ではジュゴンの骨製品、とりわけ 骨錐が出土していない点に注目したい。
3.鏃と骰子(賽子)の骨製品
3点目の文化的特徴は、沖縄貝塚時代後期~グスク時代にかけて出土するジュゴンの肋 骨で加工された鏃と骰子である。その製品は主にグスク時代の間で確認される。それは中 世の琉球において欠かせない製品であった。その時代は琉球諸島において稲作や鉄が普及 し始める社会的特徴をもち、各地に按司と称するリーダーが割拠する。勝連城跡では鉄製 品の鏃も多く出土しているが、ジュゴンの骨の性質を知っていた貝塚人は貴重な鉄を少し でも消費しないように、その骨を代用した点に工夫があり、当時の社会的情勢を物語って いるだろう。
そのような状況のなかで、勝連城跡は圧倒的にジュゴンの肋骨で加工した鏃が多いのに
興味を引く。また、具志川グスクからもジュゴンの鏃のような、銛とも言ってもよい骨製
品が出土している。双方の遺跡は一連の関わりをもつ動きがあったのであろう(図3-⑬
⑭) 。さらに双方の遺跡は骰子(賽子)も出土している点も共通している(図3-⑪⑫) 。 勝連城跡で出土した骰子は、第一次発掘で3点、三の郭で6点の内5点が未完成の製品、
勝連城二の丸北地点で1点である。それらの遺跡に近い南風原古島遺跡は出土していない 状況である。おそらく、その古島はグスク時代を含む近世の遺跡である為、骰子が出ない のか、 それとも城跡の内と外での生活または活動の空間で変わってくるようである。また、
南風原古島遺跡においてジュゴンの遺存体が少ない点は、階層社会を物語っている。
具志川グスクの骰子の出土は2点である。その内1点は加工中の製品であった。
四、遺跡の立地とその時代的特徴
今のところ、うるま市でジュゴンの骨が出土した遺跡は、25 ヶ所である。それらの報 告書より遺跡の立地とその時代区分の情報を整理したのが表2である。それぞれの遺跡の 標高は、大方10m以内が6ヶ所、10m以上60m以内が4ヶ所、60m以上が15 ヶ所である。
時代区分における各遺跡は、沖縄貝塚時代早期~中期11 ヶ所、後期が5ヶ所、グスク 時代が8ヶ所、近世が1ヶ所となる。主にジュゴンの遺存骨や骨製品が多く出土する時代 が沖縄貝塚時代早期~中期であった。しかし、その後期5ヶ所とグスク時代の遺跡8ヶ所 は、時代が異なると件数はほぼ変わりがないかもしれない。逆に言い替えると、この時代 からジュゴンを捕獲する技術が向上し、捕獲高も増したと言えよう。特に平敷屋トウバル 遺跡や勝連城跡(四の曲輪北区)等の遺跡は、ジュゴンを捕獲する技術と道具を兼ね備え ている集団がいたと思われる。
勝連半島の平敷屋トウバル、津堅貝塚、勝連城跡等は、ジュゴンの捕獲に適した条件を 持っていた。 それは伊江島ナガラ原西原貝塚と平敷屋トウバル遺跡を比べた金子浩昌が 「本 島での複雑な地形的条件を利用することによって捕獲が可能になったのであろう。 」と指 摘している[金子 1996:177] 。さらに津堅貝塚と平敷屋トウバル遺跡等を比較した樋泉 岳二も「ジュゴンは砂泥底浅海域の藻場を餌場としており、そうした環境が発達する中城 湾内が主な猟場であったと推定される。 」と述べ、今後は「この地域における貝塚時代後 期の猟漁文化の性格や遺跡間の関係性を考える上で重要なポイントとなるように思える。 」 と課題を提供している[樋泉 2005:53-54] 。ジュゴンが食する海草のアマモ等は勝連半 島の南側と北側の干潟に多くみられる。
さて、特に遺跡の立地となる標高に注目すると、10m以内が6ヶ所、10m以上60m以 内が4ヶ所、60m以上が15 ヶ所となる。それらは大きくわけて10m以内が6ヶ所、10m 以上が19 ヶ所となる(表2) 。
シヌグ堂遺跡の調査によって沖縄貝塚時代中期の貝塚人は、ジュゴンを若い個体よりも
成獣を主に捕獲していることが明らかになっている[金子 1985:194] 。海獣類に詳しい
神谷敏郎によれば、ジュゴンの完全成熟した個体は「体長は3~4m以下、体重が300 ~
500㎏」としている[神谷 1980:45] 。また、勝連城跡の南貝塚では出土した骨から測
量して全長2.3m程の個体だと確認されている[金子 1984:199] 。それらの条件から考
表2 うるま市の沖縄貝塚時代における出土遺跡の標高
標高 早期~中期 後期 グスク時代 近世 小計
10m以内 1 5 0 0 6
10 ~ 60m以内 3 0 1 0 4
60m以上 7 0 7 1 15
小計 11 5 8 1 合計25
※遺跡数は25 ヶ所であるが、時代区分によっては重複する遺跡もある。しかし、今回は主な時代の 遺跡で設定し、振り分けた。
表3 うるま市における出土遺跡とジュゴンの骨製品
※①の枠は彫刻骨器が出土した遺跡、②は骨錐の骨製品が出土した遺跡、③は骰子や鏃の骨製品が 出土した遺跡を含む。