沖 縄 の 米 軍 基 地
−復帰20周年雑感一
野 原 全 勝
[I]沖縄の祖国復帰
今年は、沖縄が祖国に復帰して20周年にあたる。沖縄では、今年の5月15日をはさんでさま ざまなグループが、さまざまな形で復帰記念の行事を計画している。多くの県民は、真剣にそ の足跡を検証しようとしているが、政府・自民党、財界筋は東京で、当時の米国高官をも招聰 して復帰をお祭り騒ぎで祝うという、沖縄県民の立場とはかけはなれた行事も計画している。
1.平和憲法の下へ
では、沖縄の祖国復帰運動が全県民的な運動として盛り上がった原因は何処にあったであろ うか。去る沖縄戦で、県民の四人に一人が殺され、その後、27年もの長期にわたる米国の直接 軍事占領支配が続いた。その間、ゆみ子ちゃん事件や国場君事件など、多くの事件事故が発生 したが、犯人の米兵の多くが無罪ないしは迷宮入りであった。訓練中のジェット機が宮森小学 校に墜落し、一瞬にして多くの小学生が殺された。このように沖縄県民の基本的人権は奪いさ
られ、虫けら同然の扱いをうけ、米軍支配の重圧に苦しみ続けたのである。朝鮮戦争後に集中 した新たな基地拡張と、それに伴う農地の再取り上げによる農業生産の破壊の問題が「島ぐる みのたたかい」という一大運動に発展していく。
ここで、沖縄の米軍基地はどのようにして形成されたか、その軌跡を見ることにする。1945 年3月26日に慶良間諸島に、4月1日、沖縄本島の北谷・読谷一帯の海岸線に米軍が上陸を開 始した。沖縄の戦後は部分的にはこの段階から始まるが、全面的に占領し終えたころには、米 軍は投網を掛けるようにいくつかの収容所(キャンプ)に県民を集め、本土攻撃にそなえて主 として旧日本軍の基地を中心に軍事基地を構築した。米軍は必要な基地を確保して、収容され ていた県民を残りの部分(元の村)に帰村させて営農を許すことになる。
しかし、戦禍に荒れ果てた耕地を農民は懸命に整備し、収穫をあげはじめたのもつかのま、
1953年(朝鮮戦争の停戦)以降、「沖縄の恒久基地化=太平洋のキーストン」という米軍事戦略 の確定によって、基地拡張のための新たな農地の再取り上げを開始した。那覇市の具志・天久、
宜野湾市の伊佐、伊江島などの農地が一斉に収用の対象となった。農民たちは、厳しい沖縄戦 を命からがらくぐり抜け、そして、やっとの思いで生産をはじめたわけだから抵抗も激しいも のとなった。米軍は、この激しい農民の抵抗に銃剣とブルドーザーで襲いかかり、強引に土地 を確保した。そして米国は、地料の一括払いによる軍用地の永久確保を企る。農民たちの激し
2 沖 縄 の 米 軍 基 地
い闘いは全県民の心を捕え、半永久的な土地とりあげの企ては全県民の怒りを呼び、ついに「島 ぐるみの闘い」に発展する。この闘いの出発点は経済問題、土地問題であったが、これに限定 されたものではなかった。続発する米軍人による事件事故、基本的人権の剥奪、貧困など米軍 占領支配に対する県民の不満、抵抗が有機的に統合して爆発した。やがてこのエネルギーは、
「核も基地もない平和で豊かな沖縄」をめざして、大きなうねりとなって「復帰運動」へと発 展する。熾烈な沖縄戦=地上戦を経験し、朝鮮戦争では出撃基地として土地を提供させられ、
今またベトナム人を殺すための基地をこの沖縄の地に許すことはできないという、戦争の被害 者と加害者の立場からの素朴な、しかし基本的な「反戦の思い」が県民の心の底流にはあった のではなかろうか。
当時の沖縄の人々の暮らしをみることにする。農地の主要な部分を軍事基地に囲われ、狭院 な土地しか残されてないわけであるから、いきおい米軍基地建設と基地関連の仕事が生ずるこ ととなる。ガリオア援助物資(アメリカの余剰農産物の供与)の売上代金で県民の生産基盤の 整備にあてるという、占領政策(あくまでも基地維持が主目的)が始まる。航空機の残骸(ジュ ラルミン)を溶かして鍋釜を造って生業とする者や米軍基地から材木や生活物資を盗みだして 闇市で販売する者、米兵相手に小間物を販売する者、基地のゲート前に門前市をなす飲食店な
ど、極端な基地依存の経済が始まった。
1950年代後半に入ると、空前の基地建設ブームとスクラップブームがやってくる。これは、
朝鮮特需によって立ち直りつつあった日本独占資本(清水建設、間組、大成建設など)の沖縄 上陸であり、鉄鋼資本による屑鉄購入である。沖縄が「ドル箱」といわれたのもこの時期であ
る。このことは、日本経済の1960年代における高度成長の基礎づくりの一環となった。
まさに基地と戦争にきっちり結びついて展開しはじめた経済活動であったが、経常的な軍雇 用者の需要増大と建設労働者の需要の拡大は、低迷をつづける沖縄経済にとって少なからざる 刺激となった。このようにいびつな形で展開し始めた沖縄経済も、それなりの展開を示した。
しかし、その陰には銃剣とブルドーザーによる農民からの土地強奪、人権無視、差別賃金(例 えば、同一職種でアメリカ人10に対して、フィリピン人5、日本人3、沖縄人2の割合の賃金 差別)や事実上の自治権剥奪など屈辱的軍事支配が長期にわたって存在していたことを忘れて
はならない。
農地強奪に端を発した「島ぐるみの闘い」は、基本的人権の回復、民族の尊厳の回復へと昇 華していき、ついには「平和憲法の下へ帰ろう」そして「核も基地もない平和で豊かな沖縄を 実現しよう」の大合唱となり、このことを「祖国復帰に託そう」という一大運動として発展し ていった。この大合唱は本土の心ある人々の共感を得て大きく盛り上がり、日米両政府を動か した。そして、ついに沖縄の祖国復帰は実現した。
2.正しかった沖縄県民の復帰要求
祖国復帰によって、沖縄県民は晴れて日本国民となった。失われた諸権利は回復し、教育、
福祉、医療、年金等の諸制度の適用は、27年もの長期にわたって米軍占領下という憲法の外に
放置された沖縄県民にとって、あたかも母の懐に久々に抱かれた思いであった。しかし大きく 立ち後れている農業基盤、道路、公園、港湾、住宅、校舎、病院、水資源などの産業・社会・
生活基盤の整備は、制度の適用で即座に充足できるものではない。わたしたちは、沖縄振興開 発計画を策定し、沖縄復帰特別措置法、沖縄振興開発特別措置法の立法を国に要求し、これを 実現させた。
これらの諸制度、法律の後押しを得つつこの20年間、県民はたゆまぬ努力を積み重ねて産業・
社会・生活基盤を整備してきた。1人あたり県民所得も1972年度の全国平均の55%という低い 水準から1991年度には71%と向上させた。公立小・中・高校の校舎設備は全国並みに整備され
1人あたり県民所得の推移
単位;千円、%(「沖縄県のあらまし」 77〜91年度版より算出)
年沖全格 度縄国差
65 141 268 52.6
71 341 625 54.6
73 575 950 60.6 72 410 740 55.4
74 720 1,047 68.8
75 808 1,115 72.4
76 833 1,245 66.9
年沖全格 度縄国差
77 914 1,334 68.5
78 1,032 1,447 71.3
79 1,143 1,654 69.1
80 1,195 1,728 69.2
81 1,280 1,780 71.9
82 1,345 1,828 73.6
83 1,480 1,901 74.1
年沖全格 度縄国差
84 1,481 2,000 74.1
85 1,544 2,072 74.5
86 1,604 2,134 75.2
87 1,675 2,235 75.0
88 1,742 2,378 73.2
89 1,892 2,775 68.2
90 1,999 2,786 71.4
(千円)
3,000 2,800 2,600 2,400 2,200 2,000 1,800 1,600 1,400 1,200 1,000 800
600 400
1人あたり県民所得 全国との格差(%)
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75
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65
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人あたり県氏ノリT信
令園平均(千円) 60
55
50
200
(年度)'65'7I'72'73'74'75'76'77'78'79'80'81'82'83'84'85'86'87'88'89'90(年度)
4 沖縄の米軍基地
たし、琉球大学は国立に移管し、私立大学等も私学振興財団を通じての補助や融資が受けられ るようになった。農地改良事業や道路整備、港湾建設、ダム建設等も着々と進められており、
その完成は、今年度から始まる第3次沖縄振興開発計画(10年計画)に期待されるところであ る。大量輸送システム(鉄軌道)や公園の建設、離島交通の整備等残された問題も多々あるが、
復帰前とはぜんぜん違う。沖縄県民の復帰要求は正しかったことになる。
3.未だ解消されない27年の歪み
沖縄の経済社会は、この20年間で見違えるような発展ぶりを示した。とはいえ、あらゆる経 済指標は未だ全国最下位の状態にある◎経営規模も沖縄の場合、零細企業がほとんどであり、
大手といえども本土の中小企業規模である。労働条件も悪く、低賃金の上に1990年度の沖縄の 年平均労働時間は2,168.4時間で、全国の2,015.8時間より116.6時間長く、単位時間あたりで見 るとますます低賃金ということになる。流通・サービスの面でも、本土大手資本との競争で地 元業者は窮地に追い込まれている。この20年間で、とくに大きく成長しているのが観光産業で ある。年間約300万人の観光客が沖縄を訪れる。これは復帰前に比べると3倍近くの増大である。
したがって観光収入も県外受取りに大きな比重を占めている。ここでも本土大手のリゾート開 発による海浜の独占や土地買占めによる地価高騰、開発による海岸の汚染など、地元住民に悪 影響をおよぼし、零細宿泊業者は経営が苦しくなるなど、困難も生じている。
復帰後20年間で沖縄の経済規模は大いに拡大したが、ここ5年間で大型倒産も増えている。
88年の倒産件数は144件、負債総額は153億円だったが、91年にはバブルの煽りもあって268件、
負債総額は834億円に達している。
失業率の高いのも全国一。復帰後5〜6%台で推移していたが、ここ数年は改善され、90年 度は3.9%だった。全国の2.1%に比べるとやはり2倍近くになる。居住条件も不十分である。
最低居住水準未満率は全国が11.4%であるのに対し、沖縄県が19.9%、1人当たり畳数9.6に対 し沖縄県が7.7であり全国最下位にある。
その他にも、さまざまな厳しい状況が生じている。離婚率の高さが全国一という記録もその 一つである。企業倒産から一家離散、あるいは生活苦からサラ金そして離婚といった現実もそ の背後にある。過労死も高い比率を示している。
ただし、これら統計指標をみる上で注意しなければならないのは、ひとり沖縄県だけが全国 平均を大きく下回っているのではなく、多くの県が沖縄県と同様、大都市と大きな格差がある ということである。ちなみに、1990年度の県民所得統計で全国平均を上回る都府県は、わずか 9都府県であった。わが国の過度の大都市偏重を示しているのである。
4.自主的経済発展をはばむ軍事基地
沖縄のこのような厳しい現実は、沖縄が日本の中央から遠く離れた辺地だからであろうか。
それとも、戦後27年にもおよぶ米軍の全面占領支配下にあったことの歪みによるものであろう か。確かに、これまでのわが国の政治は、辺地切り捨ての政治であった。したがって、他の辺
地の道県の現実も沖縄県と同様の厳しい状況下にある。しかし、沖縄県の地理的条件は、必ず しも辺地だということだけでは片付けられない面があるのではなかろうか。まず、亜熱帯とい う有利な気候的条件がある。それに、日本では最南端の県かも知れないが、アジア諸国に一番
軍関係受取および対県内総生産比
単位;%、億円(「沖縄県のあらまし」 77〜91年度版より算出)
年 度 受 取 額 比 率 年 度 受 取 額
比 率
73 760 20.0
83 1,397 7.7
74 975 13.5
84 1,513 7.8
75 1,025 12.2
85 1,473 7.7
76 1,076 11.9
86 1,378 6.3
77 1,020 9.6
87 1,316 5.7
78 1,009 8.4
88 1,352 5.7
79 1,048 7.7
'80 1,128 9.1
81 1,341 8.4
82 1,374 8.0
注:軍関係受取は、軍人・軍属の消費支出等、軍雇用者所得、軍用地料(自衛隊を含む)
(億
|,600 1,550 1,500 1,450 1,400 1,350 1,300 1,250
1,200 1,150
1,100 1,050 1,000 950 900 850 800 750 700 650
600 550 (億円)
I
の合計である。
I
閏 1 禾 安 月 X 誌 の 椎 程 ■ ロ
鐺坪堅
(年度)'73'74'75'76'77'78'79'80'81'82'83'84'85'86'87'88(年度)
円)
6 沖縄の米軍基地
近い出入口の県でもある。
また戦後27年の歪みは、たしかに、ずしりと重いものがある。しかしこの歪みは国の当然の 義務として、また県民の当然の権利として、一定期間の特別措置の適用と県や自治体の真剣な 取り組みによって、ある程度解決できるものと思われる。
しかしいま、沖縄の振興開発にとって最大の障害となっているのは、復帰後20年を迎える今 日でもなお、広大な米軍基地が県土の枢要な地域を占拠していることである。米軍全面占領下 にあっては、全面的に軍関係受取に依存する経済構造であった。そういう中にあっても、沖縄 経済はそれなりに発展し、復帰の5年ほど前の軍関係受取の県民総生産に占める比重は30%、
復帰時の72年度には20%、88年度には5.7%と、その比重は低落している。軍関係受取の総額は 年々増大しているにもかかわらずである。いまでは、軍事基地の存在は、沖縄の自主的振興開 発を根底から阻害し、都市計画を台なしにし、基地被害をばらまくという、まさに「無用な長 物」となっている。いまや軍事基地の存在は、沖縄県民の平和の願いと真っ向から対立するも
のとなっている。
広大な軍事基地を撤去させ、その跡地を有効に活用し、亜熱帯沖縄、東アジアの中心点沖縄 にふさわしい産業を造りだし、アジアの人々との平和友好の架けはしとして、経済交流の拠点 として活用すれば、県民所得の向上も疑う余地はない。
[II]アメリカの軍事戦略に即応する基地「オキナワ」
1.アメリカの軍事戦略の沖縄基地
「核戦争からゲリラ戦まで」、「太平洋から中東・アフリカまでをにらむ」総合基地オキナワ は、今回の湾岸戦争に対し即座に反応し、出動・補給基地の役割をいかんなく発揮した。沖縄 の米軍基地の最大の特色は、米軍事戦略に即応できるアジアの最重要拠点基地のひとつである、
ということである。
米軍事戦略は、宇宙から空中、地上、海洋にいたる戦略・戦術核戦力、通常戦力、特殊作戦 能力で、ソ連を凌ぐ戦力を確保し、強大な戦力を「前進展開」しておく、という戦略である。
これが「戦争の抑止」だとして兵器の近代化(ハイテク技術の導入)を着々と進めている。そ して、「抑止」が破綻して紛争が発生した時には、米国と同盟国をもひきこんで、核兵器の使用 をも辞さない構えで、紛争の水準をエスカレートせしめる、というものである。
このアメリカの戦略は、ソ連脅威論が崩壊するなかで、第三世界に干渉・介入する「世界の 憲兵」としての役割をエスカレートさせている。今回の湾岸戦争時におけるアメリカの対応や、
昨今の沖縄における米軍基地の機能強化と演習激化が、このことを証明している。
沖縄基地では、こうしたアメリカの軍事戦略に必要な戦力を整え、そして、「極東から中東・
アフリカまで」をにらんだ、さまざまなレベルの戦争に備える演習や訓練が激しく繰り返され ているのである。
2.第三世界の政治的・経済的支配と抑圧のための前方展開
米軍戦略のなかでも特に注目すべきは、低水準紛争(LIC=LowlntensityConflict)戦略の重 視である。「LIC戦略」について、米国防報告は、「あいまいな侵略」(1989年度国防報告)と か、「テロリズム、暴動、破壊工作、麻薬取り引きという隠れた戦争」(1990年度国防報告)と 規定し、「アメリカの利益に影響を及ぼす地域紛争に効果的に対応するため」(1992年度国防報 告)と位置づけている。
第二次世界対戦後、植民地における民族独立・解放運動のたかまりによって、戦前型の植民 地は、音をたてて崩壊した。しかし、アメリカを中心とする先進資本主義諸国は、これら「途 上国」を金融・貿易面で繋ぎとめ、新たな収奪・搾取の機構を構築し、「途上国」の自立的発展 を妨げ、莫大な利益をあげてきた。さらに、民族紛争を利用しての武器輸出によっても莫大な 利益をも獲得してきた。その結果、「途上国」のなかには生産と生活基盤は破壊され、農村の砂 漠化と都市への難民の流入などにより、都市機能は麻揮し、飢餓は進み、悲劇的状態にある国 も少なくない。これら「途上国」の多くは、先進資本主義国等の犠牲に喘ぎ、膨大な累積債務 など経済は破綻状態に陥っている。
「LIC戦略」の真の狙いは、第三世界の上のような不当な現状の克服・変革を求める動き(民 族独立・解放闘争や親米独裁政権反対闘争)を先制的に撃破し、親米ゲリラ等にテコ入れする ことにある。しかも、テロや麻薬取り引き等とごちやまぜすることによって、これら第三世界 の動きに軍事力を発揮して干渉・介入する、という犯罪行為を国際世論からカモフラージュし ようとしている。
沖縄基地においては、このような「LIC戦略」の拠点としての機能と役割が急速に増大して いる。これは沖縄基地が「戦争の抑止」どころか侵略と干渉、新たな戦禍の「火付役」として の危険な役割を担っていることを示すものである。
湾岸戦争では、核兵器や生物兵器・化学兵器などの大量殺りく兵器の使用が公言されたが、
沖縄基地にNBC(核・生物・化学)関連のセクションや施設もここ数年来増強され、空軍、海兵 隊、海軍にそれぞれ実践部隊が配備されていることは重大である。在沖縄米軍の27の部隊にNBC セ ク シ ョ ン が 存 在 し て い る こ と が 明 ら か に な っ て い る 。
防毒マスクや防護服を着用した米兵が、航空機の整備やミサイルなどの脱着作業をしたり、
不発弾の点検処理をするという訓練がここ数年来、嘉手納飛行場や読谷補助飛行場などで頻繁 に行われている。
在沖縄米四軍調整官スタックポール少将は昨年7月5日、在沖縄商議所での講演で、「沖縄は 今後とも 太平洋の要石 として認識されなければならない。沖縄は世界の東西南北にまた がる広大なシーレーン地域に位置しているからであり、それゆえに死活的に重要だ」と指摘し ている。またチェイニー米国防長官は、ソ連がアジア・太平洋地域に関与してなくても、「アメ リカがアジアからの撤退を考えることはできない」と言明し、「アメリカのアジアにおける軍事 的存在はこの地域におけるわれわれの経済的関与のための舞台を設ける」ことだと言いきって いる。
8 沖 縄 の 米 軍 基 地
このことについて1992年度の国防報告は、「アジア太平洋地域において安定した安全保障環境 を確立することはアメリカの政治的、経済的利益にとって不可欠」だとし、この地域における アメリカの配備構造が将来変化するとしても、「ひきつづくアメリカのプレセンスとこの地域へ のアクセスは、戦略的利益と地域的安定を維持するために依然として必要」だと強調している。
これら一連の発言や国防報告は、アメリカの利益のためにアジア・太平洋に「前進展開」さ せる必要性を指摘し、「世界の憲兵」戦略を前面にうちだしているのである。
湾岸戦争と沖縄基地(日誌)
(1990年)
8月7日 8月8日 8月15日
8月20日
8月21日
8月22日
8月23日 9月7日
9月10日
9月12日 10月26日
10月27日 10月31日
嘉手納基地からC130が完全武装米兵を乗せて出発
嘉手納基地からE3B空中早期警戒管制機(AWACS)二機が発進
第一海兵航空団所属の攻撃機など航空部隊の一部も山口県・岩国基地や沖縄の普天 間基地からフィリピンなどを経由してペノレシャ湾に向かった、と報道される。
嘉手納基地の海軍駐機場に燃料タンク車、救急車その他の車両、軍事物資と見られ る迷彩模様の網をかぶせた大小のコンテナが大量に置かれる等の動きが始まる。
サンバーナデイノがホワイトビーチに入港、物資を積み込んだ後、同夜レッドビー チに移動。
サンバーナディノが、早朝からM61A戦車やM198型155ミリ榴弾砲、弾薬を積んで いると見られるトラック、医薬品を載せたジープなどを積載しレッドピーチを出港。
セネクタディがホワイトピーチに寄港し弾薬類を積み込む。
普天間基地の第36海兵航空群がフィリピンでの演習を終え、中東に出動した、と報 道される。
セネクタディがレッドヒーチに寄港、ジープなどを載せる。
デビュークがホワイトピーチに入港、物資や車両を積み込んだほか、100人以上の海 兵隊員も乗り込む。
セネクタデイがレッドビーチを、デピュークがホワイトビーチを出港。
沖縄から出動した第13海兵遠征ユニット2500人を乗せた水陸両用艦5隻が、北アラ ビア海に向かっていると報道される。
米軍チャーターのクウェート船籍貨物船ダナーが那覇軍港に入港、同月初め頃から 次々と運び込まれていた砂漠戦用と見られるベージュ色に塗装したトラックや工作 車を積み込んだうえ出港。
在沖米海軍工兵隊が中東に向け出発したと報道される。
セントルイスがホワイトビーチに寄港。海兵隊員約200人とLAV25軽装甲戦闘車そ の他の車両を積み込む。
セントルイスがホワイトビーチを出港。
嘉手納基地所属の第909空中軽油飛行隊と第376組織整備中隊の中東派遣が開始され
る。
12月22日沖縄の海兵隊4個大隊と岩国の第231海兵攻撃中隊が、6週間以内に中東に派遣され ると報道される。
12月25日砲兵部隊の第3海兵連隊第2大隊と第7海兵連隊第3第隊が中東に向け出発すると 報道される。
12月31日米国の貨物船ケープ・エドモンドが那覇軍港に入港し、砂漠戦用のベージュ色に塗 装した車両などを積み込み、1月2日にホワイトビーチで給油して同4日中東に向 かった。
(1991年)
1 月 9 日 セ ン ト ル イ ス が ホ ワ イ ト ビ ー チ に 入 港 、 車 両 な ど を 積 み 込 む 。 1月10日セントルイスがホワイトビーチを出港
1月11日サンバーナデイノがレッドビーチに入港、12日に出港。
嘉手納基地からチャーター機で、海兵隊員が中東に向けて飛び立つ。
1月15日嘉手納基地からチャーター機で、海兵隊員が中東に向けて飛び立つ。
1月16日在沖米4軍調整官のスタックポール少将が、沖縄からすでに8000人が中東に派遣さ れ、その代わりに予備役兵2500人が沖縄に配備されていると公表。
1月27日沖縄から出動した第12海兵連隊第1大隊が、サウジアラビアとクウェートの国境沿 いに駐留し、イラク軍に砲撃したと報道される。
2 月 3 日 サ ン バ ー ナ デ イ ノ が 那 覇 軍 港 に 入 港 2 月 4 日 デ ビ ュ ー ク が 那 覇 軍 港 に 入 港
2 月 5 日 サ ン バ ー ナ デ イ ノ と デ ビ ュ ー ク が ホ ワ イ ト ビ ー チ に 入 港 、 6 日 出 港 。 2月11日サンバーナデイノがホワイトピーチに入港、12日出港。
3月14日嘉手納基地の376戦略航空団の兵員の帰還が10日から始まっていると報道される。
3月20日在沖米海兵隊の75人が嘉手納基地に帰還。
(沖縄県平和委員会まとめ)
3.湾岸戦争と日米安保条約
湾岸戦争では、8,000人以上の米兵が沖縄から発進した。在沖縄米軍基地が安保の枠をはるか に超えて、「中東、アフリカをにらむ自由発進基地」であることが、この湾岸戦争であらためて 裏づけられた。また、沖縄県平和委員会の監視行動でもそのことが確かめられた。
沖縄県平和委員会は、イラクのクェート侵攻直後の1990年8月6日から11日までの6日間24 時間体制で嘉手納基地を中心に監視行動を実施した。そのなかで、8月7日在沖縄米軍第1陣 の完全武装の米兵がC130輸送機で中東へ発進するのを目撃した。(また、これより先の同年3 月に行われた1週間の監視行動でも中東と直結する米軍の動きや、これと連動して自衛隊のC 1輸送機が米軍の肩代わりで米兵や物資の輸送をするのを目撃している。)
10 沖 縄 の 米 軍 基 地
1992年米国防報告によると、1990年度の8月7日〜9日は、湾岸戦争の第一段階で、「前進展 開している海軍部隊を増強し、制空権を確保しうる部隊を編成し、地上部隊を投入した」時期 である。この時期に全米の先陣をきって在沖縄米軍の地上部隊が出動し、嘉手納基地からE3B 空中早期警戒管制機2機が発進している。
「空対空戦力と空対地戦力、ならびに海軍の配備が図られた」といわれる8月10日〜30日の 第二段階においては、岩国基地や普天間から攻撃機が発進し、嘉手納基地では迷彩模様の網を 被せたコンテナなどの物資輸送の動きが活発になり、那覇軍港やホワイト・ビーチ、レッドピー チでも兵員や物資の輸送が頻繁になった。
8月31日〜11月7日の第三段階では、第13海兵遠征ユニット2,500人と在沖縄海兵工隊、海兵 隊員約200人と軽装甲戦闘車などが海路中東へ、嘉手納基地からは空中給油部隊が発進し、「防 御と継戦に必要な充分な兵力を確保」した。
そして、11月8日以降の第四段階では、沖縄の海兵隊4個大隊と岩国の海兵隊攻撃中隊をは じめ、「あらゆる選択肢を保障する後続部隊」が、軍用機やチャーター機、チャーター船など多 数配備され、実際に戦闘に参加した。
このように、在沖縄米軍基地は湾岸戦争のすべての段階で深くかかわったのである。
1992年度米国防報告は「東南アジアに配備されている米軍は、今後域内外でより広範な役割 を担うことになりそうだ」と指摘し、今後さらに在日米軍の行動範囲を広げる意図を露骨に示 している。このことは、日米安保条約の地球的規模への拡大を画するものであるといえよう。
4.沖縄基地の機能強化
沖縄では、NBC部門や嘉手納基地の再編による即応体制の強化、さらに輸送部門や低水準紛争 (LIC)関係など、米軍基地の全般的な再編強化がすすめられている。
在沖縄米軍の各部隊にNBC部門とEOD(爆発性兵器処理部隊)が増え、NBC機能が強化されて いることが明らかになっている。すなわち「在日米軍沖縄地域電話帳」によれば、侵略・干渉 を専門とする第1特殊部隊(空挺隊、グリーン・ベレーなど)をはじめ155ミリ榴弾砲を使って 実弾砲撃演習をしている第12海兵連隊(ズケラン)や多数の核専門要員が常駐する嘉手納、辺 野古、普天間など27の部隊に核兵器や生物・化学兵器を取り扱うNBC部門と、核兵器の事故な
どを取り扱うEODが8部隊も常駐していることが明かになっている。
基地の強化は、NBC部門だけにとどまらない。嘉手納基地が、アメリカの新戦略に即応できる ように再編強化されている。嘉手納基地の再編は、第313航空師団と第376戦略航空団を解団し、
第18航空団に統合するものである。「1人の指揮官のもとに戦闘機部隊、早期警戒管制機部隊、
空中給油部隊を有して、共に訓練し、危機に対してより効果的に即応」(太平洋空軍指令官ア ダムス大将)でき、「戦時出動体制の編成」(第18航空団司令官ハード準将)となる、と高官達 が指摘するように、これは、即応体制の強化と戦闘作成能力の向上をねらったものである。
このほか、フィリピンのクラーク基地から特殊作戦部隊や輸送部隊が嘉手納に移駐し、特殊 作戦ヘリコプター部隊が普天間基地に移駐している。嘉手納の特殊作戦部隊のMC130機は、湾
思いやり予算(沖縄関係)の推移
(単位・百万円)
(防衛庁資料より作成)
(92年度は概算要求の額)
600
550
500
450
400
350
300
250
200
150
100
50
合 計
P L
凡
億 円 七八年 七九年 八○年 八一年 八二年 八三年 八四年 八五年 八六年 八七年 八八年 八九年 九○年 九一年 九二年
年 度 労 務 負 担 費 提供施設整備費 合 計
1978年 2.061 2.061
1979年 3.901 2.087 5.988 1980年 3.963 2.699 6.662 1981年 4.412 7.473 11.885 1982年 4.787 18.683 23.472 1983年 4.931 19.961 24.892 1984年 5.198 25.504 30.702 1985年 5.442 27.908 33.350 1986年 5.673 28.025 33.698 1987年 10.705 29.167 39.872 1988年 12.626 32.316 44.942 1989年 16.761 33.503 50.264 1990年 22.278 40.751 60.029 1991年 26.173 27.193 53.366 1992年 30.888 30.852 61.740
合 計 159.801 326.122 482.923
12 沖 縄 の 米 軍 基 地
岸戦争で特殊作戦ヘリコプターとともにフィリピンから出撃し、イラクの防空システムの破壊 や心理作戦ビラの空中投下などの特殊作戦任務に従事したものと同機種である。これらの部隊 の嘉手納や普天間への移駐は、一時的なものと説明されているが、常駐体制を取っている。他 国への軍事介入・干渉を任務とするこれらの部隊が常駐することになれば、西太平洋地域の緊 張を激化させ、沖縄基地が戦争の「火つけ役」になる可能性が大である。
さらに、嘉手納基地のKC135空中給油機が従来のA型からR型に変わり、給油能力が50%向 上し、その機能が大幅に強化された。
5.軍事演習の激化
防毒マスクと防護服を着用した米兵が、航空機の整備やミサイルの脱着作業をしたり不発弾 の点検や処理をするNBC関連の訓練が1987年以降急激に増え、一昨年は湾岸戦争をにらんたゎ でのNBC訓練がホワイト・ビーチで行われた。
核・非核両用の155ミリ榴弾砲を使っての実弾砲撃演習についても同じことが言える。実弾砲 撃演習は復帰後年々増えつづけているが、1987年以降は、回数、日数、発射砲弾数とも大幅に 増えて、昨年は1年間で13回、34回、3,655発という過去最悪の記録を示した。
年 度 実弾砲撃演習
回 数 日 数 弾 数 1973(昭和48) 5 5 − 1974(昭和49) 4 4 235 1975(昭和50) 0 0 0 1976(昭和51) 1 1 134 1977(昭和52) 5 5 386 1978(昭和53) 5 5 608 1979(昭和54) 7 7 702 1980(昭和55) 7 7 722 1981(昭和56) 8 8 859
1982(昭和57) 8 8 882
1983(昭和58) 7 7 698 1984(昭和59) 4 5 621 1985(昭和60) 6 8 668 1986(昭和61) 3 4
1987(昭和62) 6 13 1.948 1988(昭和63) 7 15 2.630 1989(平成1) 12 30 2.883 1990(平成2) 10 21 2.500 1991(平成3) 13 34 3.655
合 計 118 187 20.131
パラシュート降下 回 数 人 数 1回平
均 人 数
一 −
− 一
− − −
− − −
一 −
一
6 47 7.8
一 一 −
24 316 13.2
6 88 14.7
2 88 24.5
2 35 17.5
5 123 24.6 7 250 37.5 5 254 50.6 38 1.403 37.0 13 663 51.0 17 901 53.0
− − −
125 4.168 −
の資料より作成)
原潜寄港 回 数 隻 数
復帰前(1968〜1972.5)
の 寄 港 回 数 は 4 年 間 で 55回(年平均13.75)その 後1975年まで寄港がな
く、76年から再開。
1 1
1 1
0 0
1 1
4 5
1 1
0 0
0 0
0 0
0 0
3 3
10 10
11 11
3 3
9 9
3 3
− −
1992年度アメリカ国防報告は、湾岸戦争勝利の要因として「戦闘装備の近代化や訓練」をあ げ、「戦闘部隊の有効性を維持するためには、実践に則したきびしい訓練が不可欠である。訓練 こそ即応性の柱」であると強調し、今後、さらに軍事演習を強化しようとしている。
6.軍用地の部分返還
アメリカのこのような方針にもかかわらず、日米両政府間で在沖縄米軍基地の部分返還が合 意されている。
1990年4月19日に国防総省から米議会に提出された報告書「アジア・太平洋の戦略的枠組み」
を受けて、同年6月19日に日米合同委員会で合意されたものである。返還が合意されたのは恩
本県の米軍基地の状況 米軍基地面積の推移
(1991年4月発行の「沖縄の米軍基地」より)
(昭和47年5月15日〜平成2年3月31日現在)
年 施 設 数 面積(ha) 割合(%)
昭和47年 87 28.661 100.00
48 83 28.387 99.04
49 72 27.671 96.55
50 61 27.048 94.37
51 57 26.653 92.99
52 54 26.302 91.77
53 51 25.926 90.46
54 51 25.862 90.23
55 49 25.587 89.27
56 48 25.401 88.63
57 48 25.191 87.89
58 48 25.376 88.54
59 47 25,360 88.48
60 47 25.373 88.53
61 47 25.361 88.49
62 46 25.307 88.30
63 45 25.027 87.32
平 成 元 年 45 25.026 87.32
2 45 25.024.3 87.31
1.昭和47年5月15日(復帰)時点の沖縄県における提供施設面 積については、防衛庁告示第12号による告示面積を採用し、こ れに対する各時点の割合を算出した。
2.平成元年までの施設面積は、小数点1位を四捨五入した整数 である。
なお、平成2年から小数点1位まで記載した。
[参考]在日米軍兵力の現況(沖縄を含む)(平成元年9月30日現在)
総数:(約)49,900人
陸 軍 2 , 0 0 0 人 空 軍 1 6 , 0 0 0 人 海 軍 7 , 1 0 0 人 海 兵 隊 2 4 , 8 0 0 人
14 沖縄の米軍基地
納通信所や泡瀬ゴルフ場、普天間飛行場の一部など17施設にある23個所で、全軍用地の4%に しかすぎない。それも日米両政府が沖縄県民の立場に立って返還に合意したものではない。国 頭村安波や恩納村、宜野座村など、地元や県議会の意志を無視して行われる米軍演習や基地強 化に押された日米両政府が、米国の経済事情とも関連して、在沖縄米軍基地の「安定使用」を 確保するために、県民の反米反基地感情を和らげる材料として、不要不急の遊休化している部 分を返還する、という「整理・縮小」である。しかも、この「整理・縮小」は、あくまでも「戦 闘能力を維持あるいは強化」する範囲内での合理化であることはいうまでもない。
このことは、チェイニー米国防長官は「重要なのは、われわれが撤退への第一歩を語ってい るのではない、ということを強調することである。われわれの構想の基本的な趣旨は、すでに 効率的な戦力構造をなおいっそう費用効率の高いものにする一方で、アジアでの安定を確保す るのに必要な戦闘能力を維持していくことである」と強調し、ウォルフォウィッツ国防次官は
「われわれは沖縄の地元住民と米軍との関係を改善するために資産を返還する目的で米国の基 地と施設の使用を合理化するつもり」だと証言している。
これらの発言は、アメリカはアジアから撤退する意志はないが、県下各地でおきている基地 反対闘争と県民世論が、米軍駐留に対する政治的圧力になっていることを如実に示しているも のと言えよう。
[III]安保条約の根幹に迫る県民のたたかい
米軍・自衛隊基地の強化と軍事演習が激化するなかで、幾多のたたかいが取り組まれている。
そして、そのいくつかは住民側が勝利している。
国頭村安波のハリヤー基地建設反対のたたかいは、米軍工事用のブルドーザーの前に区民が 体をはって阻止し、建設を諦めさせた。宜野座村と恩納村では、都市型戦闘(ゲリラ)訓練施 設反対のたたかいがつづけられている。区民総出で長期にわたって徹底してゲート前に座り込 み(無抵抗の抵抗)、恩納村では、ついに米軍の工事を約半分で中断させ、いまなお、陸路から の演習場入りを完全に阻止し、訓練場の移設を約束させた。このたたかいのなかで、軍用地の 区民一括契約を個人の自由意志にまかせる個人契約に切替え、そのなかから新しい反戦地主が 生まれている。地元金武町議会や県議会の全会一致の反対抗議決議を無視して、月に1〜2度 の頻度で行われる県道封鎖の155ミリ榴弾砲などの実弾砲撃演習に抗議して、キャンプ・ハンセ
ン演習場前で毎回早朝の抗議集会と抗議デモが行われている。
沖縄の復帰時点で20年の賃貸借契約に応じた契約地主との契約が、1992年5月14日で期限切 れとなる。政府は、これら地主との契約をスムーズに行わせるために、「予約」契約を地主に求 めた。しかし、恩納村の都市型訓練場に反対する地域ぐるみのたたかいをはじめ、県民の基地 反対闘争の高まりのなかで、80名余の新たな契約拒否地主が現れた。今回の軍用地強制収用問 題は、これら新反戦地主の土地の強制収用問題である。
沖縄の基地闘争は、住民の生命と財産、安全を守るたたかいであると同時に、日米安保条約、
米軍基地に打撃を与えるたたかいでもあるわけである。
1.反戦地主のたたかいの意義
反戦地主の所有地は、嘉手納基地の滑走路の一画や嘉手納弾薬庫内の米空軍第400弾薬整備部 隊のより機密性の高い弾薬庫(核兵器や毒ガス兵器が貯蔵されているといわれている)や普天 間基地の指令部建物の中などに点在している。
このように契約拒否軍用地は、場所によっては1坪でもアメリカ軍の基地機能を麻痒させる という、まさに日米安保条約の 根幹 をゆるがすことになりかねないものである。
2.新局面をむかえる軍用地問題
今回、「米軍用地収用特借法」による強制収用の対象となっているそのほとんどが、1972年の 復帰に間に合わせて、日本政府がさまざまな手法をつかって民法に基づく20年の契約にこぎつ けた「契約軍用地主」の土地である。これらの内訳は、従来からの「契約軍用地主」および親 からの相続人、あるいは売買により新しく「契約軍用地主」になった人々である。
では、なぜ80人をこす新たな契約拒否地主が生じたのであろうか。
第一に、ここ4〜5年来の基地機能の強化と新たな施設の建設、演習激化に伴う基地被害の 続出によって、基地の存在に疑問が生じたこと。
第二に、県民所得の増大と基地収入の相対的後退により、基地の存在が都市計画など県民生 活にとって「無用の長物」化してきたこと。
第三に、「リゾート・ブーム」による地価高騰、宅地取得が困難になってきたこと。
このように、これまで「成功」してきた政府の金銭による「基地維持政策」の矛盾と限界が ここにきて顕在化してきたことが、軍用地に対する「価値感」に変化をもたらしたといえよう。
以上のような基礎的条件の変化に加えて、契約拒否という勇気ある具体的行動をとらしめた最 大の動因は、これまでの「反戦地主」の不屈のたたかいと、県民世論の盛りあがりに励まされ たからであろう。
契約拒否地主のたたかいが、米軍事戦略に重大な影響を与え、日米安保条約を根底からゆる がしつづけているなかで、政府・那覇防衛施設局の契約拒否地主への締めつけも執勘さをきわ めている。
政府の「基地維持政策」は、まず、地料を引上げ(復帰時点で5倍に、周辺地価の変動に合 わせて地料の見直しによる定期的引き上げ)、契約地主にたいしては手厚い協力謝金などの湯水 のような「札束攻勢」カヌかけられる。契約拒否地主に対しては、地域知名士や地縁・血縁から の直接・間接の圧力(村八分)があり、さらに差別的支払方法(契約地主は毎年払、契約拒否 地主にたいしては一括払い、したがって契約拒否地主は累進課税)による契約拒否地主の租税 高負担という、不利益の強要がある。そのために主要な幹部が運動から身をひく事態も生じた。
政府のこの「基地維持政策」は、一定の効を奏し、復帰前においては二千人をこす契約拒否 地主がいたが、現在、「反戦地主会」に属している地主は、60人前後に減少した。
16 沖 縄 の 米 軍 基 地
しかし、この数は、米軍のいう「死活的拠点」を確保しようとしている日米両政府にとって 決して少ないものではない。加えて、今回80人前後の新たな契約拒否地主が誕生したのである。
県収用委員会は期限切れを憂慮して、2月に公開審理を打ち切り、3月には採決を強行した。
しかし、政府の10年強制収用申請にたいして、5年に短縮しての採決である。これは前回(1987 年)旧反戦地主の土地の10年収用の期限切れとなる1997年と重なり、さらに、組織・運動体は 別であるが、「一坪反戦地主」の土地の期限切れとも重なることになり、軍用地収用問題は、新
たな局面にさしかかることになる。
本県の自衛隊基地の状況(1991.4月発行の卿 (1)自衛隊基地面積の推移
(昭和47年5月15日〜平成2年3月31日)
『沖縄の米軍基地』 より)
(注)1.面積は、平成元年まで小数点一位を四捨五 入した整数を用いていたが、平成2年度から は小数点一位まで記載することとした。
2.面積は精査の結果異動することがある。
年 施 設 数 施 設 面 覺個 割 合 側 昭和47年
89012345678901234455555555556666
平成元年
2
3856999111122222355122222333333333333 158
193 340 339 359 337 342 369 368 370 378 593 585 587 597 577 597
5 654 655
226235592233582899●●●●①●●●●●●●●●●■●●
100 122 215 214 227 213 216 233 232 234 239 375 370 371 377 365 377 413 414