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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository Spafary's Map of Siberia 三上, 正利 出版情報 : 史淵. 99, pp.39-76, 196

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Spafary's Map of Siberia

三上, 正利

https://doi.org/10.15017/2244071

出版情報:史淵. 99, pp.39-76, 1968-01-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

スパフ アリのシベリア地図

正 手

緒 一 一 一 一 口 一︑ スパ ファ リの 使節 旅行

ι

スパ ファ リ凶 の製 作年 代

一二

︑ス

パフ

T

図の 中国 とシ ベリ ア 凶︑ 迂回 でき ない 山脈 の州 結 言

一七世紀にロシアで作製された各種のシベリア地図について︑筆者はこれまで数回にわたり︑

年代順に考察を加えてきた︒本稿はそれらの後につづくもので︑今回論考の対象とする地図は︑ロシアの使節としてシベ

リア経由で清国へ派遣された有名なスパファりの使節旅行︵一六七五

l

一六七八年︶に関係のあるシベリア地図であるU

スパファリが清国への使節旅行から一六七八年にモスグワに帰着して︑モスグヲのロシア外務省

9 0 8 Z

片山

︑有

印w

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へ提出したと息われるシベリア地図は︑かなり早期にロシア外務省から失われたものと考えられていた︒しかるに︑近年

その原図かあるいは複写図かとみられる一葉のシベリア地図が︑古地図の研究者・蒐集家として国際的に有名であったパ

一七世紀初期のものから

グロア︵﹁回

m m 2 4 5 H ∞ ∞

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|居間寸︶の所有に帰したのである︒そしてパグロフは︑この地図の写真版を古地図研究誌﹁イ

マゴ・ムシディ︵

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︶﹂に掲載された自己の論文に付して公表した︒本稿で論ずるのはとの地図で

スパ

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地凶

︵三

上︶

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(3)

スバ

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地図

︵三

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一︑スパフアリの使節旅行

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は︑黒海北西岸のモル

ググィアにおいてギリシア人の家系に生れ︑長じて後︑ヨンスグジチノ!プルおよびイグリアなどで勉学した人である︒

才能豊かであったかれは︑古代および現代のギリシア語︑トルコ語︑アラビア語︑ラテγ語およびイタリア語に通じてお

り︑哲学︑歴史学︑文学︑神学︑自然諸科学︑数学などを学んで︑当時におけるもっとも教養ある人物とみなされていた︒

当時ロシア政府は︑ドナワ川沿岸諸国と連合して︑共通の敵国であったトルコに・あたろうという新外交政策にのりだし

ロシアの当面する外交問題を処理するために﹁東方問題﹂に明るい新人をもとめていた︒そのようなロシア政

たと

きで

府の要求に応ずる適当な人物と認められたのがスパフアザである︒かれは︑ロシア語にもすぐ習熟するだろうということ

でロシア政府へ推薦されて︑一六七一年六月にロシアに到来し︑同年一三月にはロシア外務省のギリシア語やラテン語お

よびその他の諸国語の通訳官に任命された︒

ロシア政府は清国へ使節を派遣することを決定した︒使節の目的は︑当

時アムール川上流の露清国境方面で発生していた両国間の紛争を解決し︑清固との通商関係を開始し︑またそれと同時に︑

露清聞の交通路のうち最短距離でもっとも便利安全な交通路について︑正確な情報を入手することなどであった︒ちょう

どこのとき︑前述のようにロシア外務省の通訳官として校低していたスパフアリは︑この道清使節団の主席

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大使

に任命されたのであるω さて︑その後数年たって一六七五年の初めに︑

使節スパファリの主要な任務は上述のような諸問題を解決することであったが︑なおそのほか︑使節旅行の途中で通過

する沿道のシベリア︑モンゴルおよび清国の地理︑民族︑政治状態などあらゆる事情を調査したうえで︑

一切 の事 実を 正

(4)

確に記述すべきこと︑などを命じられていた︒そのうえ木稿と直接関係があるので特に注意を要するととは︑γ

ベリ アの

地図を作製することも︑かれの任務のうちにあったのである︒すなわち︑ロシア外務省からスパファりにたいして一六七

五年二月二豆日にあたえられた命令のなかには︑﹁トポリスグから中国の国境町にいたるまでの沿道の土地︑誇都市およ

び道路を︑すべて地図に描くこと﹂も指令されており︑またそれと関連することと思われるが︑スパフ7リはモスグワで

﹁種々の天体観測器具と羅針盤﹂を受取ったのであった︒

スパファリ等の遺清使節団は一六七五年三月三日にモスグワを出発して︑この時代にそスグワからシベリアへ行く普通

の交通路であった北東にむかう道をとって︑ロストフ︵岡山

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︶を経由し︑ここからワラル山脈を越えてヴェルホトゥリエ

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一六七五年三月三

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︶に 到着 した

使節団はトボリスグに約一カ月滞在した後︑豆月三日にここを出発し︑イルチγ川を下航しオビ川を上流にのぼり︑連

水陸 路を 越え て︑ 七月 九日 にイ エニ セイ スグ

︿吋 何回 目的

巾UW

︶に 着い た︒

ここを八月一八日に出発し︑船でアジガラ川を上

流へさかのぼり︑プヲ

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ツグ 柵︵ 回

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︶をとおり八月三

O

日に パラ ガシ 柵︵ 民間 同仰 向山 口︶ を通 過し て︑ 九月 五自 にイ ルグ

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同吋

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︶に 到着

九月七日にイルグ

l

ツグを出発した一行は︑船でパイカル湖を渡るのに苦労した後︑九月二二日にセレンガ川の川口に

はいり︑この川を上流へさかのぼって−

O

月二日にセレシギシスグ柵︵

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にたちょった後︑ウグ川の岸を上

流へむかつて陸路を行進して︑二一月四日にネルチシスグ︵

Z

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白W︶に到着した︒ここを一二月一九日に出発して東

進し︑アルグエ川を渡りハイラル

︵同 月同 包宮 司︶ の北 方を 通過 して

︑翌 一六 七六 年一 月末 ごろ 現在 のチ チハ ル

︵ 叶

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スパ

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︵三

上︶

(5)

スパ

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地図

︵三

上︶

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スパフアリの旅行記では

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と記載︶に着き︑ここに約二カ月半ほど滞在した︒

し︑満州を南へ通過して︑一六七六年︵康照一五年︶五月一五日に北京に到着した︒ 使節団は四月一七日にこの地を出発モスグヲ出発いらい実に一年とニカ

月半 の旅 行で ある

スパ

TF

等の使節団は︑間年九月一日まで北京にと

E

まって清固との外交交渉に努力したが︑なんらの成果をあげる

ことができず︑往路とほぼ同じチチハルからシベリアを経由する道をとって帰路についた︒その途中シベリアとモy

ゴル

との国境の要地セレシギンスグでは︑一一月初めから翌一六七七年五月三日まで約六カ月間滞在したりして︑

一月五日にモスクワに帰着したのであった︒

一六 七八 年

ニ︑スパフアリ図の製作年代

使節スパファりは北京からそスグワへ帰着すると︑自己の旅行記・およびその他の地理的著述をロシア外務省へ提出したc

それらのうちで本稿に関連のある特に注目すべきものの一つは旅行記で︑その標題は﹁トポリスグ市からキグイ国境まで

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行記

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ア旅行記﹂は︑その後ただ一つの手写本のまO︶﹂となっている︒スパファリのこの﹁シベ︸

まで 約二

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年間ロシア外務省の古文書室に埋れていたが︑ようやく一八八二年にロシア地理学会によって︑

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理学会報告︑民族誌部︑第−

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巻一号︵

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N︶﹂に印刷して公表された︒その

当時スパフアリの諸著作に通暁していた学者アルセエエフ

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2

ー︶ が︑ 序文 をか き注 釈を つ

スパフアリのこの﹁シベリア旅行記﹂には︑シベりアを通過して往復旅

行をした使節団一行の交通路が詳細に記述されてあり︑旅行途上でスバフアリが実見した山︑川︑湖︑小流︑および集溶

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(6)

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の名 称を やめ げて その 間の 距離 も一 不し であ って

︑シ ベリ

アの地理的記述としてこれほど詳細なものは︑

ロシ

で初めて現われたのであったQ遺憾ながらわれわれに

スパファリのシベリア地図I(1678年?)

とっては︑この古い文献を直接参照することは容易で

ないが︑幸にパッドレ

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長文にわたりそれの抜玄を英釈しているので︑その片

貌を知ることができる︒しかしパッドレーはこの英訳

では︑非常に多くの地理および地形の記述を省略した

a︑ 目 ︑ ︐

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さて︑スパファリはこの﹁シベリア旅行記﹂ととも

に︑多分︑使節の旅行路を示したシベリアの地図をも︑

ロシア外務省ヘ提出したものと考えられる︒しかし︑

この地図はかなり早期にロシア外務省から失われたも

第l図

のらしく︑自らロγア各地の古地図類を捜索したパグ

ロフ の記 載に よる と︑

﹁ロシアの図書館にはこの地図

の原図もなければ襖写図もない︒しかし︑この地図の

予措のものが一枚︵原図か複写図か?

l

パグ

ロフ

住﹀

偶然私の所有に帰した﹂のである︒パグロフは︑かれ

が入手したその地図を︑多年にわたってかれが刊行を

(7)

スパ ファ リの シベ リア 地凶

︵三 上︶

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つづけてきた国際的な古地図研究誌﹁イマ

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表 旨

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この地図の実物の大きさは︑五一一・五×

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・五セシチメートルであるという︒

第一図をみると︑方位盤はないが南を上に

して描かれてあり︑アジア大陸の大部分とヨ

ーロッパ・ロシアとをふくむ広範囲な内容の

地図である︒図の右下隅にはロシアの首都モ

スグワがあり︑図の左上には清国の首都北京

︵司自宮︶が描かれていて︑モスグワからシベ

リアを横断して北京にいたるまでの交通路

が︑点線で地図上に記入されている︒この点線を丹念にた

f

ってみると︑それはさきに第一節で記述しておいた使節スパ

ファリの旅行路に合致している︒図の右下のカマ川とクスチュウグとの間で︑旅行路をしめす点線が南北にわかれて二重

になっているのは︑おそらく往路と帰路とがこの部分では相違したのであろう︒

しかし︑図の左方の北部満州において︑チチハルと推定される都市からアムール川北岸のロシアのアルパジシ柵︵﹀

5

目 ・

江戸一六六五年建設︑中国側文献の雅克薩城﹀まで搭かれている点線は︑スパファリの旅行路ではない︵第二肉参照︶︒か

れはその往復路ともにアルパジシにはたちよらなかったからである︒地図上の点線がスパファリの旅行路をしめすものと

すれば︑この区間については疑問が生じてくるが︑これは︑当時アルパジンは露清聞の重要な係争地となりはじめており︑

(8)

スバ ファ

p

の使節行の使命とも深い関係があったので︑アルパジツとチチハルとの問を連絡する交通路を特に描きいれた

とでも解釈しておくべきであろう︒

この地図には︑標題はないようである︒闘の右下摘にある長方形の枠のなかには︑ロシア語で六行にわたる文章が書込

んであって︑一見したところではこの地図の標題かと疑われる︒しかし︑そこに書込まれている文章をよんでみると︑﹁モ

スクワから陸路トポリスグにいたり︑トポリスグから水路でセミパラチシスグ柵にいたり︑セミパラチシスグから陸路で

シナの国境にいたり︑そして北京市にいたるところの細い交通路︵ロ

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﹀﹂ と書 かれ てい る︒

このトポリスグから船でイルチシ川をさかのぼり︑セミパラチシスグを経由して︑陸路モンゴルから北京にいたる交通

路は︑スパファリより一二年前に清国へ派遣されたロシア皇帝の使節パイヨフ︵司−H回巴宮与が︑一六五四年に通過し

た交通路であって︑スパフアリのとおった道ではないし︑地図上にもこの交通路をしめす点線は描かれていない︒要する

にこの長方形の枠のなかには︑スパファリの旅行路を点線で描いているこの地図とは直接関係のない︑以前にパイコフが

利用した道を参考のために簡単に記載しているだけのことで︑ここにはこの地図にたいする図名も地図作者名も製作され

た年紀も︑記載されてはいないのである︒

の作 者に 関し ては

︑ソ 連の ベロ フ︵ 宮・ 円切 何回

O︿

︶は 次の よう に考 えて いる

それゆえ︑以下この地図の作者および製作年代その他について︑しばらく考察してみることにしよう︒まず︑この地図

この地図がスパファリの清国旅行に直接関

係をもつものであることに疑問はないが︑しかしその作者がスパフアリであるか否かは不明である︒なぜならば︑地図の

凡例のなかには︑このことについて何等の記載がないからである︑と︒

また アン ドレ

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地図を誰が作ったかを礁証することは今はできなかったが︑この地図はその内容において︑前記のスパファリの報告書﹁ト

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シベ

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地凶

︵三

上︶

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(9)

スパ

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リの

シベ

リア

地図

会一

上︶

四六

ポリスグの町からキグイ国境にいたるγベりア旅行﹂に︑はなはだ近い︑とのべている︒

以上記述したところによると︑この地図の実際の作者がスパファリ自身であるか否かは︑厳密にいうと断定できないが︑

スパファりの使節旅行に非常に密接な関係をもっ地図であるこ左は間違いないのである︒そして右のアシドレ

i

フが 言う

ように︑また本稿でも後で論述するように︑この地図の描図とスパファリの諾著作にみえる記述内容とが対応しているこ

となどを考慮にいれてみると︑この地図をパグロフにしたがって﹁スパフアリのシベリア地図﹂とよんでおいても︑取扱

い上ほとんど支障はおこらないように思われる︒

巻 また︑この地図の製作年代については︑前述のように地図自体には年紀がない︒パグロフは﹁イマゴ・ムシディ︑第四

一九四七年﹂に初めてこの地図の写真版を公表したときに︑その図版の下につけた説明文には一六八二年とかき︑本

文の 六九 頁で は︑

一六七五年スパファリが中国への使節旅行中にシベリアの地図を作ったとかき︑同じ論文のなかで前後

矛盾するこつの年代を記載した︒これにたいしてベロフは︑パグロフのこれら二つの年紀を誤りとし︑地図上に使節の旅

行路が記入されているから︑この地図はスパファりが使節旅行からそスグヲに帰着した後に︑すなわち︑かれがロシア外

務省へ旅行記と地図とを提出した一六七八年に︑製作されたものであると主張した︒アンド

νl

フも︑パグロフの−六八

二年という記載は誤りであるとし︑上記のベロフの見解に賛成している︒

これについて私見をのべてみると︑後で第三節において考察するように︑スパフアリ図のシベリアの描図には旅行で見

関された新しい資料が盛りこまれていて︑従来のシベリア地図より格段に詳細正確となっているQまたスパファリ図のな

かの中国の描写には有名なマルチ

︵ 冨

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地図

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一六五五年﹂のなかにある中国全図が使われて

いるが︑そのマルチユの地図帳をスパファりは北京で入手したらしく推測されるのである︒このような諸事情を考慮する

と︑スパファリ図の基礎的な地形が描かれうるのは早くとも︑使節団がシベリア旅行を終えて北京に到着した一六七六年

の後半から後のこととなるむそのうえ︑地図上には使節の旅行路が往復ともに描きいれてあるので︑使節団がまだ北京へ

(10)

向う往路にあった一六七五年という年紀を採用するととは︑いずれにしても無理である︒

次に︑パグロフの提案している一六八二年というもう一方の年紀である︒パグロフ自身はこの年紀の根拠を何も示して

いないので︑われわれはただ推測するほかはない︒筆者は︑この年紀はスパファリの著作とされる﹁ロシアの村を中国人

から分界する大河アムールの物語︵

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﹂の年紀と一致させたものではないか︑と推測する︒この﹁物語﹂の著者がスパファリであることは︑すでに

古くアルセニエフ

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3

−八八二年︶およびミハイロアスキーQ−

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﹁一 七世 紀の シベ リア

礎としたものが公刊されており︑またパッドレ

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ド公 共図 書館 所蔵 の別 の写 本︿ の句 切・ 同

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から英訳したものを︑その著書のなかに掲載していお︒したがって﹁物語﹂の内容はそれらの刊本によってよく知られて 今日では一般に認められているところである︒

﹁大 河ア ムー ルの 物語

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いるけれども︑しかしその著作年代は学界でも不明確であるらしく︑アジドレ

l

フは著作年代については何も言及してい

ないし︑ベルグ︵F・

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︶はこれを一六八九年︵ネルチシスグ条約締結︶以前の著作であるとだけ言ってお関︑また

︻ 間

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︿︶の著書では一六七五年としているから︑そういう見解もあるとみえる︒

o

パグロフは︑上述のようにかれの一九四七年の論文においては矛盾する二つの年紀を提示したが︑その後一九五五年に

発表した論文のなかでは︑﹁大河アムールの物語﹂の年代を−六八二年とし︑スパファ

p

図の年代も一六八二年としてい

る︒その論文のなかでバグロフは︑スバファり図に描かれているパイカル湖付近から北東方へのびて海中にまで突出して

いる特色ある山脈の表現︵第二国参照﹀︑およびそのかたわらに記入されている説明の文句が︑﹁物語﹂のなかの記載︵木稿

第四

節︑

資料

V︶に合致することを指摘しているので︑このように地図と﹁物語﹂とが一致している事実が︑スパファリ図

の年代を一六八二年とするパグロフの根拠ではないかと推測される︒かれがスパファリ図の年代として裏に主張したいの

スパ

ファ

リの

シベ

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地図

︵三

上︶

(11)

スパ

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シベ

リア

地閣

︵三

上︶

同 j¥.. 

は︑この年代であろう︒

この異様な山脈の表現は︑従来の一七世紀シベリア地図には見られず︑スパフアリ図にいたって初めてあらわれた顕著

な特色であり︑本稿でも後で第四節において詳細に論及する予定である︒この特色ある山脈の表現が﹁物語﹂の記事に照

応することは注目すべきで︑スパフアリ図の年紀をこの﹁物語﹂の年代に合致させたと推測されるパグロフの見解は一応

考慮に値しよう︒しかし今の筆者には︑﹁物語﹂の著作年代をどの程度まで健実に一六八二年と決定できるのか明らかで

ない︒パグロフは前記のアルセエエフの論文︵一八八二年︶を参照しているので︑そこから示唆をうけたかとも推測され

るが︑年代の決定方法については何も言及していないのである︒したがってその確実な根拠が明らかになるまで︑パグロ

フの一六八二年という年紀は今の筆者としては保留しておくほかはない︒

このようなわけで︑本稿ではスパファリ図の年紀としては一応ベロフやアンドレ

i

フの 主張 にし たが うこ とと し︑ ス. ハ

フアりが使節旅行からモスグヲに帰着して︑シベリア省へ﹁シベりア旅行記﹂とそして多分シベリア地図をも提出したと

考えられる一六七八年を︑採用しておくことにする︒

最後にこの地図の所在である︒スパファリによってロシア外務省へ提出されたこのシベリア図は︑いつの時代にかロシ

ア外務省から失われてドイツへ渡?たものらしい︒第一図の右下をみると︑そこに円形︑長方形および楕円形の三個の蔵

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︶﹂ と読 める し︑ 他の 二個 もア シド レ

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フによるとベルリン図書館の押印であるといテ︒ 番印が押されている︒

﹁王 立地 図学 研究 所︑ ベル リシ

それらの図書館ならびに研究所を転々としたこのシベリア地図が︑ついにパグロフの所蔵に帰するにいたった事情も︑

またパグロフが一九五七年に死去した後はどこに所蔵されているのかも︑いま筆者には明らかでない︒しかし︑パグロフ

蒐集の他の古地図類が︑たとえば︑一七世紀末から一八世紀初めにわたるころの代表的なシベリア地図帳の一つである︑

レメプフ︵

ω

・ロ 河内

g R

O

︿︶の﹁コログラフィ

i

地図帳︿

5 5 5 m g

n

v g E 3 w E

︶﹂の原本が︑アメリカ合衆国の

b

(12)

ハー

グァ

l

ド大

学︵

出向

円︿

m E d E

︿ ・ ︶

図書館の所蔵に帰したことを思えば︑あるいはこのスパファリ図もアメリカへ渡

っているかとも推測される︒

一︑スパフアリ図の中国とシベリア

つぎ

には

スパファリ図がシベリア地図としてもっている内容の検討であるが︑それに移るまえに︑この地図のなかの

シベリア以外の中国その他の描図について

てお きた い︒

スパファリ図の中国の部分は︑何を資料として描かれているかという問題である︒パγドレーによると︑スパフ

アリの中国に関する著作7

中国 誌︵

1 8

巾℃

巾吋

︿

3

6 n v a t g

巾 戸 内 ロ

3 1

8 3

戸 巾

5 0

可﹀

N F

・:

︶﹂ は︑ その ほと んど

大部分が有名なマルチニハ宮内

W 2 E 5 E R

忌 子

H O E

H G O N

﹀の﹁中国新地図帳︵

Z 2 5

﹀己

g

55F

5

2 q E F

の逐語訳に近いものであるとい円︒またアシドレ

l

フにまると︑スパフアリの﹁ググ

l

ル誌

︵↓

E m g W 3 d w E

まず

日 切 ︶

H O

N E g m

︶﹂は︑やはりマルチ品の﹁髄担戦記︵

U m

回 巾 ロ

o

H J R

仲 間 ユ 円

0

E

4 3

召 ・

52

︶のロシア語訳であるし︑

リは﹁轄担戦記﹂のなかの中国図E

E

O

︿ 山 口 巳

m 2 5 H S H

︶巾

吋比

巴巳

巳屈

町内

・を

も︑

とで

ある

ノ、

シベリア省へ提出したというこ

スパファリは北京にいた耶蘇会土

GZ

Z

︶から入手し

なお パ

yド

1

は︑上記二つのマルチユの著作を︑

︵ 却

たものであろう︑と推測している︒そしてスパファリはその旅行中に︑既述のようにセレシギyスグその他で長期の滞在

をしているので︑使節旅行の問でも︑中国で入手した種々の資料を翻訳したり︑中国やシベリアに関する自己の著述を進

めたりする時間的余裕もあったことと息われる︒たとえば︑スパファリによる前記マルチ一一の﹁中国新地図帳﹂の翻訳と

八 回

﹁中国誌﹂の著述とは︑明らかにかれの旅行中におこなわれている︒

そこで︑この時代にヨーロッパ人が作った種々の中国図以︑スパファリ図の中国の部分とを比較してみると︑予測した

とおりスパファり図の中国の部分は︑やはりマルチ=の﹁中国新地図帳﹂のなかにある中国全図

E F H 6

2

ロ巴

S 2 5 5 5

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

四JL 

(13)

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地凶

︵三

上︶

円 同 町 臼 の 円

U山

to

−− と描 図が ほと んど 同じ であ って

このマルチ一一の中国全図を利用して描いたものであるととが断定できるの

であ

る︒

︵ 同

O

0 3 m O

O そのほかスパファり図では満州の地形もかなり詳細に描かれてあり︑朝鮮半島も描かれであって︑この半島には朝鮮国

またスパファりは北京への使節旅行のときにアムール川は航行しなか

と記 載さ れて いる

ったのであるが︑スパファリ図では︑アムール川疏域の描図も幾分改良されたような印象をうける︒地図をみるとこの川

の名は単にアムールとせず特に大河アムール︵︿己目付

m q

m

w

吋 巾

w m

﹀自民るとしるされ︑これに流入する左岸の諸支流には︑

川口 に近 いも のか ら上 流へ とそ の河 名ハ ムシ 川︵ 同何 回目 ロロ

P

これ はア ムグ エ川

︹﹀ 自民 ロロ

︺に 比定 され る︶

︑プ イス トラ ヤ

川︿

切可

乞話

可向

r

これはプレヤ川︹切戸店ヨ凶︺に比定される︶︑およびズィ

l

ヤ川

N q p

これ はゼ

1

ヤ川

N 3 d

︺に比定

される︶がしるされ︑そこからすこし上流のアムール川畔には既述のアルパジシ柵︵﹀厚足首臼

r

︶が描かれている︒また

右岸の明らかにスンガリ川

︵ ∞ ロ ロ

m m

﹁松

花江

と息われる大きい支流には︑

チシ

ガル

︵同

E

巳 ︶

O

と付記されている

︵第

二図

参照

︶︒

パグ ロフ は︑

スパファリの著作﹁大河アムールの物語﹂の記述やスパファリ図のアムール川の描図資料としては︑多分

い ポ

る号ヤ

J

コ フ

J

O

8

4

とハ

パロ

フ︵

ペ巾

・関

何回

R

O

︿ ︶

とのアムール川探検報告が利用されたであろうと推測して

スパフアりのアムール川およびサハリシ島︵樺太︶に関する知識は︑

一 六

また

ポレ

︑グ

方イ

︵回

・句

HU

己 巾

40

吋︶

は︑

五二年ごろにアムール川の下流域で活動していたことのあるポりヤコフ︵

ω

・ ︿ −

P

S

︿ ︶

ていお︒以上のようなパグロフおよびポレヴ才イの推測は︑それを基礎づける文献的資料が挙示されていないので︑かれ から得たであろうと推測し

らの推測をいまここで確実なことと断定はできないが︑そのような諸資料がスパファリ図のアムール川流域の描写に利用

されている可能性は︑大いにあることを認めておかなければならない︒

さて︑以下スパファF図のシベリアの部分の考察に移ることとしよう︒この地図のシベリアの描図は︑これ以前の一七

(14)

世紀ロシア製シベリア諸地図︑すなわち一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂や︑

たものとみられているパルムグヴィストのシベリア全図 一六七三年シベリア地図およびそれを複写し

︵一

六七

l

七四年︶︵第四図参照︶などに比較して︑スパフアリ

使節団が通過したシベリア沿道の描図が︑格段に詳細となり正確にもなっていることが一見して明瞭に認められる︒特に

シベリアにおけるパイカル湖の位置と︑パイカル湖から流出してイエエセイ川に合流するアシガラ川流域との描図は︑大

いに改良されている︒以前の諸地図ではパイカル湖の位置は︑イエエセイ川を下流から真直ぐ上流へたどって行くとその

ままパイカル湖に突きあたるような位置にあって︑アシガラ川の存在は無視されていた︒ところが︑スパフアリ図ではパ

イカル湖︵回巳

w g w o u

﹁ 巾

5 0 3

と記載︶の位置が正しく東方へ移されており︑そこから流出する長いアシガラ川がイエニ

セイ川に合流するように描かれていて︑アンガラ川の沿岸には︑パラガシスコイ

︵ 回 出 回

問 問 山 口

w o u

A

︐日

の切

H 凶

m m

田 口 切 片

およびプラ

1

ツコ

イ︵

切門

m Z H S

M

﹀今日の回

EZ

片︶ が記 載さ れて いる

︵第 一図 と第 二図 参照

︶︒

またシベリア北方の北極海沿岸と東方の太平洋沿伴とは︑以前のシベリア諾地図では︑出入の少ない平滑な海岸線が描

かれていたが︑スパフアリ図では地図らしい感じのするかなり出入の多い複雑な海岸線となっている︒このことは︑シベ

リア北部や北東部に関して何か新しい地図資料が利用されたことを推測せしめる︒特にレナ川口以東の海岸線は︑改良が

著しい︒以前の一六七三年シベリア地図やパルムグヴィスト図などにおいては︑シベリアの北極海岸はレナ川口のすこし

東方で南へ直角にまがってしまい︑この直角にまがった海岸はゆるやかな液状の曲線を描いてそのままアムール川口に達

していた︒そして︑実際には北極海へ流入しているアラゼヤ川︵﹀宮認可知︶とその東方のコルィマ川︵同己ヨHHm

︶と

は︑

その地図上では︑この一見したところ太平洋側とみえる直角にまがった方の海岸へ流入するように描かれていた︒しかる

にス パフ ァリ 図で は︑

コルィマ川口の東方までが北極海岸のつづきとして描かれている︒

と記

載︶

すなわちスパファリ図を入念にしらべてみると︑レナ川口の東方にはオモロイ川

があり︑その東方には長く︑海上へ突出した多分現在のスヴィヤトイ・ノス岬 ︵O

EO

ωコ地図上には︒

− ︒

5 0

O M

﹃ 巾 ︿ 同

ω 4

M

F E M

Z O

臼︶と推定される岬

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

(15)

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

があり︑その先端ちかくには︑パリショイ・リヤホアスキー島

ている︵第二図と第三岡参照﹀︒北極海岸はなお東方へつ︒ついて長大なコルィマ川の川口に達し︑

突端で直角に南へまがるのである︒この北極海側へ流出するようにみえる最後の長大な川には︑河名の記載はないが︑こ

︵ ︿ OH

印F

OM

FM刊 州 島 町

O︿ 印

WU

可︶とおもわれる一大島が描かれ

その東方に隣接する岬の

れがコルィマ川であることは︑その上流の支流にプル

l

ドナ ヤ川

︵戸 国古 門古

3 1 H

H

︶と記入してあることから確定できる︒

後で次節において引用するように︑一六七三年シベリア地図の説明書

3 1

O

F

−︶

には

コルィマ川はレナ海︵北極海|三上注︶

﹁プ

l

ドナヤ川はコルィマ川

へ流

入し

へ流入する﹂という一句があるからである︵次節の資料E

参 照

︶ ︒

スハ

ファリの著作とされる﹁大河アムールの物語﹂あるいは﹁大河アムールの記述﹂にも︑同様の記載がある︵次郎の資料V

参照

C

このように︑レナ川以東の北極海沿岸がコルィマ川の東方まで張りだしているようにみえる描図の仕方は︑筆者がこれま

で考察してきた従来の一七世紀ロシア製シベリア諸地図にはみられなかったもので︑実にこのスパフアリ図にいたって初

めて現われた新しい表現である︒

コルィマ川の東方で直角にまがった海岸は︑やがてりマ︵ピヨ何回︶と警かれた川を流入させた後︑大きい半島となって

突出する︒その先端へ流出する川には︑アナパラ川︵同・﹀ロ与回目︶と記入されている︒その南方にもう一つ半島があり︑

その半島の南側へ流出する川にはグワラ︵ロ釦ロ日︶としるされている︒その南方には︑パイカル湖の東方にはじまる長大

な山脈が遠く海岸に達し︑さらに海上へながく突出して︑地図の図郭外にまでのびている︒そしてこの長大な山脈の海岸

ちかくには︑ダワラ川のすぐ上のところに山脈の両側にわたって︑﹁連水陸路は一日で越えられる︵︿OHOWEEEg

g

︶ ﹂

と付記されてあり︑また同じこの山脈の中央部のところには︑

ミ︵ の oC

t w

m H H

何回

目色

︒目

︒ミ

j m 巴

仙︿目︒吋巾︶﹂という説明の文句が書かれている︒以前の一六七三年シベリア地図ではコ ﹁パイカルから海にいたり︑さらに海中にまで達する山脈

ルィマ川までしか描かれていなかったから︑上記のようなコルィマ川から長大な山脈の岬にいたるまでの北東アジア沿岸

の描 図も また

スパフアリ図にいたって初めて現われた新しい表現である︒

(16)

またスパファリ図には︑ロシア人によって発見されたアナドゥイり川が︑

ソ連 のベ ロフ は︑

ロシアのシベリア地図としては早期に描かれ

たと解釈できるように思われるG

ジア北東端の回航を証明しようとして︑貴重な研究書﹁セミヨシ・デジエヨフ

たが︑そのなかでベロフはスパファリ図に記載されている前記のアナパラ川をアナドゥイリ川と解釈して︑ここにアナド −六四八年のデジェョフ︵

ω

U R

ロ 可

V

04・あるいは

U R

2

V

の ア

ω

g

ヨロ ロ巾 NF ロ凶 己〆 出回

︶﹂ を発 表し

ウイリ川が初めて拙かれ記載されたとし︑次のように主張している︒すなわち﹁スパファリのシベリア地図では︑レナ川

のかなたには巨大な陸地の突出部が描かれ︑その突出部は北東にむかい︑ついで南方へアムール川のほうへ急に方向を変

︵ の げ ロ

S

Z W

可︶半島のように拙かれた︒

発見されたアナドゥイリ川が初めて描示された﹂と︒ この突出部はあたかもチュコトスパフアリ図には︑デジ=ョフによって

ポレヴォイも右のベロフと同様に︑スパファリ図のアナパラ川をアナドゥイリ川と解釈している︒すなわち今日のシベ

リア地図をみるとレナ川の西方にアナパル川︵﹀ロえ百円︶があるが︑スパファリ図のアナパラ川はコルィマ川よりも東方

に描かれているので︑それは今日のアナパル川ではないとし︑スパファり図のアナパラ川は一六七三年シベリア地図の説

などに出てくるナナボラ川︵

富 山

Z M

σ 0

︶と同じものであり︑

5

ウイリ川の別名であったと解釈している︒以上のようにアナパラ川をアナドゥイり川とみるポレヴォイ並びにベロフの解

釈は大体妥当と思われるので︑ベロフの見解にしたがって︑スパフアり図にはアナドゥイり川がシベリアの地図として最 明

書︵ 次節 の資 料直 参照

このナナボラ川というのはアナド

初に描かれたとみることもできそうである︒

﹁一六七二年シベリア地図﹂

るようになったが︑かれはこの地図を一六七四年の作製と考えており︑そのことを近く論文に書く予定という︶のなかに しかしポレヴ方イによると︑いわゆる︵これは最近では一六七三年シベりア地図とよばれ

という川の名があって︑これはスグドゥヒシの請願書などでアナドゥイリ川を指すのに使われてい

るアドゥイリ︵﹀仏官︑︶の歪曲された形であるとい戸︒このようなボレヴォイの主張にしたがうならば︑この地図の方が ア

ルド

ゥイ

︵﹀

吋︻

HM﹁ ︶

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

(17)

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

スパファリ図より早いアナドゥイリ川の描図ということになろう︒

しかしまた後述するようにポレグ庁イは︑これまで一般に右の一六七三年シベリア地図の複写であるとみなされていた

スク

l

デシのパルムグヴィストの複写図と︑スパルグエシフェルトの複写図とを︑いわゆる﹁ゴドゥノフ図︑

一六

六七

年﹂と同年に作られた別のシベリア地図を複写したものとみる新しい意見をだしており︑これら二つのスウェーデンの複

写図にみえるアジ

l

ル川

をアナドゥイリ川であると考えている︒

るなら︑これらスクェ

1

デシの複写図の原図となった一六六七年のんシベリア地図というものが︑おそらく最初にアナドゥ

イリ川を描きいれたロシア製の地図ということになろう︒このように考察してくると︑スパファリ図にアナパラ川として

拙かれたアナドゥイり川は︑必ずしもベロフの主張するようにシベりア地図上における最初のものであるとは言えなくな

るが︑しかし比較的平期の表現であることは認めてよいであろう︒ ︿kpもしそのようなポレグォイの見解が是認され

最後に︑スパファリ図のアジア東岸には︑さきにものベたように遠く︑海中に突出している長大な山脈が描かれている︒

この描図もまた︑スパファリ図にいたって初めて現われた特別に興味深いものである︒これについては幾らか詳細な考察

を必要とするので︑つぎに節右改めて論ずることにし主ぅ︒

四︑迂回できない山脈の岬

スパファリ図の地形にみられる著しい特徴の一つとして︑パイカル湖東から北東

方へのびる長大な山脈が︑海上速く岬となって突出している異様な表現がある︒そしてこの山脈には︑既述のように﹁パ

イカルから海にいたり︑さらに海中にまで達する山脈﹂という説明文と︑﹁連水陸路は一日で越えられる﹂という説明の

文字が付記されている︒この山脈は地図の図郭によって途中で切断されているので︑山脈は図郭外へどこまで延びている 第一図をみるとすぐ気がつくように︑

のか︑その末端は不明であるような印象をうける︒一七世紀のシベリア地図上において︑このようなシベリア北東部の﹁末

(18)

ザコ

勺 ー リ ン グ 海

チニL コ ト 海

朱シペミリ 7'毎

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

500 K1

端の知れない山脈Lの突出あるいは﹁迂

回できない岬﹂の顕著な表現は︑スパフ

アリ図が初めてである︒この地図を一見

すれば当然のこととして︑この長大な山

脈の岬は何であるのか︑スパファリ図に

このような特異の描図がおこなわれたそ

; J <  

の基礎的な資料は何であったか︑という

の 疑問 がお こっ てく る︒ ア

筆者がそのような疑問を解決しようと

/崎、

冨 一民:六

F

四 三:九 九 年

印 、♀ 過 ミ

色 ノ 、

廿 イ

ノレ

ス グ ド

して

ん 米

ヒ ン

の請 願書

;[I:; 

n r

吊 一 ︻

O

一六六七年シベリア

第3['.61 

地図 の説 明書

一六七三年シベリア地図

の説明書︑およびスパファリの著作﹁大

河アムールの物語﹂などを資料として考

究しつつあったときに︑

y

連のボレグオ

イ︵

回・

MMOH205M M

が一 九六 四年 に︑

ゴ七世紀におけるアジア北東端に関す

る地理的観念の形成史︒﹃山脈の障壁﹄

五五

(19)

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

五六

に関する報道︑﹃迂回できない岬﹄に関する伝説の発生と後代におけるその変払 v﹂というかなり長い論文を発表した︒そ

の論考には従来の通説をくつがえした独創的な見解もみられるので︑本節では主としてその論文の要点を紹介しつつ︑ス

パファリ図に描かれたこの長大な山脈の突出について論述することにした︒

まず筆者の管見によると︑アジア大陸北東部に存在する﹁末端の知れない山脈﹂あるいは﹁迂屈できない岬﹂に関係す

るとみられる最初の資料は︑前記ミハイル・スグドゥヒシの一隊が一六四九年七月にコルィマ川口から東方へ航行したと

c

スグドゥヒン等は初めコルィマ川畔に

そこから順風の航海三日余の︑ところにある黒テシの豊富なボグィチャ川ともコヴィチャ川左もよばれる大河

︻ 括

︵ 可 ︒

m M

H P

問 ︒ ︿

u E F P

これは後で説明するようにチャクン川︹︵

U F

山口口︺またはアナドゥイリ川と思われる︶の存在を伝

聞によって知った︒そして︑この川を発見するためにコルイマ川口から東方へ七昼夜帆走したが︑川を発見することがで

きなかった︒それで部下を派遣して︑沿岸に居住するコリャグ族から捕虜をとらえて来させ︑大河の所在を尋ねたが︑捕 い

ると

き︑

北極海沿岸のコリャグ

0

︿ 同

4

W

族から聞いた情報のなかに見出されるWQ

虜たちはそのような川は知らぬと答え︑そして次のようにのべたのである︒

資料

I

︵ス タド ゥヒ ンの 謂願 書︑

一六

四九

年︶

﹁海に近く断崖の山脈があって︑この山脈の末端は誰も知らない︵・:く

O N r s

﹃ 可

o

m Z N E

片付曲目

5 3

己 M

B F W O

白 山

E

E B

ロ吋

ロロ

N

山 一

可 ロ

ハ ︶

﹂ と

それを聞いたスグドゥヒシ等の一行は食糧も不足してきつつゐったので︑そこからコルィマ川へ引返えした︒かれらが

引返えしたその地点は明確ではないが︑多分現在のシェラグスキ

l

岬︿

ω

H m 伊 巾

m

W M 1 5

3

︶付近であったろうと推測され

てい

る︵

第三

図参

照︶

突出しているとは言われていないけれども︑あるいはシェラグスキ

l

岬のととかも知れないし︑あるいはこの岬からベ

l

そして︑上記のようにコリャグ族の捕虜が言ったという﹁末端の知れない山脈﹂は︑それが海中に

リシグ海峡の南方まで延びているチュコト山脈︿アナドゥイリ山脈︶を指すのかも知れないωいずれにしてもこのスグド

(20)

ゥヒシの請願書によって︑コルィマ川の東方に存在する﹁末端の知れない山脈﹂のことが︑一七世紀の半ばごろにヤグ

1

ツグ方面のロシア人にも伝わったことが考えられるのである︒

さてツ連において︑いわゆる﹁迂回できない岬﹂に関するロシアの最初の文献を指摘して論じたのは︑有名な地理学者

ベルグ︵﹁

ω

・図

︒司

畑町

﹀で

あっ

Q

かれ

はチ

トフ

︵﹀

・﹀

・寸

伊丹

︒︿

編著﹁一七世紀のシベリア﹂のなかに入れて公刊され

た一六七三年シベリア地図の説明書

3 1 8 w

n

Z Z R F m ω 5

E 苫 −

N 2

己むから︑次の資料

E

および資料

E

の部 分を

指摘

した

資料

E

︿一六七三年シベリア地図の説明警︑第五章︶

﹁ア ムー ル海

︵﹀ ヨロ 日付

0 3 5 0

吋巾︶によってキグイ帝国にいたる航路はない︑なぜならばマシガゼヤ海︵昌

g m

足 早

∞︸内

OM

B

PO酉シベリア北岸を洗う北極海|三上注︶

その山脈は海中へ延びていて︑これを迂回することは巨大な氷塊が強圧したり粉砕したりするので誰も不可能である︒人

がこの山脈に登ることはできないが︑キグイ帝国への通路はあム﹂ からアムール海までの全土の周辺には山脈

︵ −

258

︶が

あり

右の記事を引用して︑ベルグは次のようにいう︒ここに初めて︑誰も迂回することの不可能な﹁山脈︵

E 5

3

﹂の

摘があらわれており︑そしてそれ以来この山脈は︑シベリア北東部を描いた多くのロシア製ならびに諸外国製の地図上に

あら われ てい る︒

この﹁迂回し得ない山脈︵ロ

g σ w F

o

包可

E W 5 2

︶﹂

は︑

その後の諸文献においては岬︵ロO

印︶

とよ

れているが︑これは一六四九年にスグドゥヒジを阻止したシェラグスキ

l

岬であるか︑あるいはチュコト半島である︑と︒

さらにベルグは︑同じ一六七三年シベリア地図の説明書のなかで︑右の引用文のすこし後にでてくる左記の部分をも指

摘し てい る︒

資料

E

︿一六七三年シベりプ地図の説明書︑第七章と第八章﹀

﹁コ ルィ マ川 口か らコ

︑グ ィチ ャ

︵ 開

︒ ︿

三 時

岡 山

︶ ︑

ナナボラ︵

z m

m w t o

吋印

﹀︑

イリ

ヤ︵

ロ吋

悶︶

︑ド

ゥヲ

U

R m

︶諸河川の川口

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

F

(21)

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

} 

のかたわらを通り︑陸地をまわって︑山脈の障壁︵

w m

巾 ロ

B

m M

2

m g

倉一︶までは︑氷塊が時々そんなことがあるよう

に通航をゆるすならば︑帆走して一一具で到達できるが︑氷塊が通航をゆるさなければ三年を要寸る︵説明書の第七章﹀︒

そしてその山脈は一日で越えられるが︑人が山脈の頂上に登るとその人には二つの海

l

レナ海︵

F m g w

3

5 0 H 4

とア

ムール海とが見える︒山脈を越えるとアナドゥイリ川に到達し︑そこでは魚の骨︵海獣セイウチの牙|三よ注︶が猟獲さ

れている︒そしてその地方には︑ギリヤシスキ

1

人︵ の口

u B

島円

一ぽ

一ぜ

戸門

戸ギ

リヤ

1

グ族

l

三上注︶が住んでいる︒そして

カムチヤ?カ川の川口の前面には︑途方もなく高い石の塔︵凹

E G W 2 5

ロ ロ

0 5

が海からそびえたっており︑これには誰

も登った人がない︒そしてギリヤジスキ

l

地方の誇河川にも名前が与えられている︒そしてアナドゥイリ川にはラマ川

︿

F

m B P

オホグ川︹OWVO仲間︺を指す|三上注︶とプル

l

ドナ

ヤ川

︵巴

ロ己

ロミ

m r −

オモ ロシ 川︹ OE O−

︒ロ

︺を 指す

|三 上

注﹀とへ通ずるこつの連水陸路︵︿

OH

ε

がある︒そしてラマ川はアムール海へ流入し︑プル

l

ドナヤ川はヨルィマ川へ

流入し︑コルィマ川はレナ海へ流入している︒そしてナナボラ川之コグィチキ川︵チャウシ川︹

n r m g

ロ︺|三上注︶との

聞には︑山脈の岬︵ロ

g w n B

ロ己が海中へ延びており︑その岬は辛うじて迂回することができる﹂︵説明書の第八章︶︒

g

右の資料

E

のほうには︑資料

E

にみえる﹁迂回できない山脈﹂の岬という表現はないが︑しかしここにでてくる﹁山脈

の障壁﹂は︑資料

E

の﹁迂回できない山脈﹂の岬と同じものを指しているとベルグはみている︒そしてかれの考えによる

と︑ここには互に矛盾するこつの資料が混合しているのであって二方はヨルィマ川からアナドゥイリ川までの航路に﹁迂

回できない岬﹂の存在を確言するものであり︑他方は

l l

チュコト半島を回航したデジニヨフ︵

ω

U R V 5 1 0 4

のも の

かも知れないが

1 1

1

困難ではあるが通過しうる航路について物語っている︑と解釈するのである︒そして﹁山脈を越える

とアナドゥイリ川に到達する﹂のであるから︑﹁迂回できない岬﹂あるいは﹁山脈の障壁﹂はチュコト半島であろうと考

えるのが︑ベルグをはじめ従来の学者の一般的な考え方であった︒

しかるに︑ポレヴォイは右のような考え方に反対する︒かれは資料阻の文章の意味をもう一度よく検討するために︑同

(22)

じ一六七三年シベリア地図説明書の未刊の他の写本を参照してみた︒それは一六七九年にゾログリョフ

2

NO HO

仲間

円ち

がアストラハンにおいて著作した﹁アストラハシとシベリアとに閲する本︵関口紅問︒﹀三

E E E E

日 目 E

ユ︶

﹂の なか に収

録きれているもので︑この写本は現在はレニシグラ

l

ドの国立公共図書館に所蔵されているという︒この写本によると︑

資料亜の初めのところで﹁イリャ︑ドゥ一フ﹂というこつの河名がつづくようになっているところは﹁巴・古

d E

吋﹂ とな っ

ている︒ととろで︑最近発見されたデジニヨフの一六五五年の報告書のなかでは︑アナドゥイり川はある一カ所において

﹁アナ二アィルイ︵﹀

E

ロ亘

3 2

とよばれているの明︑ポレグォイは︑前記の﹁イ−

F

ゥル

C R E 3

どはこの﹁アナ

ニディルイ﹂の歪曲された名称ではあるまいかと推測し︑したがって資料

E

の初めの部分は︑以前には﹁

Z m

ω σ 0

円 山 ︑ 弓

マ マ

g

ヨ・とと書いてあったのが︑不注意な写字生によって﹁亙﹀ ロ

gd

m σ R M

﹁円

E d

ユ﹂となり︑後には﹁

E

Z S

o

ニ 戸

山口口門戸﹂と変ったのではあるまいかと推測する︒つまり︑さきにものべたように︑ベルグはナナポラ川はアナドゥイリ川

の別名と解釈していたが︑まさにその通りに︑以前には﹁ナナボラすなわち︵円︶アナニドゥイリ﹂と書いであったのが︑

転写の誤りによって仮空のイリヤ川とドゥラ川というこつの河名が生じ︑資料

E

のような﹁ナナボラおよびイリヤおよび

ドゥラ﹂という文章になったのでは為るまいかと︑ボレヴォイは推測するのであるQさらにかれは︑もしもっと古い資料

においては︑アナドゥイリ川を指していう﹁﹀ロ凶ロ

d

可岡 山﹂ の代 りに

︑ス グド ゥヒ ンが 書い たよ うな

﹁ア ドゥ イリ

︵﹀ 門ゲ ミ﹀

が便われていたとすれば︑ロγ

ア垣

間の

﹁すなわち﹂とか﹁あるいは﹂を意味する接続詞﹁イ

l

リ︵円どはそれにつづく

次の語﹁

kH

円山

吉︑

﹂の

顕初

の文

字﹁

kF﹂と一緒になって容易に﹁イリヤ︵ロ.

3

︶﹂ と読 まれ

︑後 の﹁ 仏官

︑﹂ ある いは

﹁仏 首ど は﹁

E

ロ・どとなって残るのであり︑誤写によるそのような混乱は︑なお一層発生する可能性があるとい︵戸︒

﹁コルィマ川口からコヴィチャ︑ナナボラすなわちアナドゥ右のような推測が可能であるとすれば︑資料

E

の文

章は

イり諸河川の川口のかたわらを通り︑陸地をまわって︑山脈の障壁までは:::﹂となって︑

り川よりも先の方︵南の方︶にあることとなる︒かくてポレヴォイは︑この﹁山脈の障壁﹂とか﹁迂回できない岬﹂とか ﹁山脈の障壁﹂はアナドゥイ

スパ

ファ

リの

シベ

リア

地図

︵三

上︶

五 九

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