著者 朝香 知己
雑誌名 基督教研究
巻 69
号 2
ページ 45‑57
発行年 2007‑12‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011753
セクシュアリティの神学的再解釈の諸相
Some Aspects of Theological Reinterpretation of Human Sexuality
朝香 知己
Tomoki Asaka
キーワード
セクシュアリティ、同性愛、創造、恩恵、三位一体、身体
KEY WORDS
Sexuality, Homosexuality, Creation, Grace, Trinity, Body
要旨
同性愛をめぐる議論の焦点の一つは、人間のセクシュアリティに対する神の意図の 解釈にある。ヘーリングは、創造記事に基づいて人間が男と女として創造されている こと、そして男‐女関係に神の似姿性を見ることから、異性間の愛の伝達がその意図 であるとする。それに対しウィリアムズはキリスト教における恩恵が、神が人間を愛 するということ、意味のあるものとして人間を見るということに基づく変化であると し、セクシュアリティが相互に人間の意味を作ることを経験可能にすることによっ て、神の人間への愛を想起させる文脈になるとする。そしてロジャースは、神の三位 一体性とは贈与と感謝の関係を意味し、それによって人間の愛の実現が可能になると する。その上で人間の身体をキリストの体から理解することによって、神の生へと編 入される身体における愛の表現として、セクシュアリティは理解される。ウィリアム ズやロジャースのような再解釈がなされる時、同性愛は必ずしも否定されるものでは ない。
SUMMARY
One of focuses of the discussion on homosexuality is the interpretation of God’s
intention toward human sexuality. Häring sees this intention as communication of love
with the opposite sex, because he understands human beings to be created as man and woman, and the relationship between man and woman as reflections of the image of God, based on biblical accounts of Creation. Williams thinks that Grace is a transformation that depends on seeing humans as significant, as wanted. And, by experiencing to make human sense mutually through sexuality, humans can understand God’s love for human beings, that is, God’s Grace. Finally, Rogers perceives that the triune God means a relation between gift and gratitude, in which human love can be realized. Then, by understanding human body in terms of the body of Christ, sexuality can be interpreted as an expression of love through the human body incorporated into God’s life. In Williams’ and Rogers’ reinterpretations of human sexuality, homosexuality is not always criticized.
序
本稿は、同性愛をめぐるキリスト教における議論について、セクシュアリティの神 学的解釈という観点から考察するものである。
現在、人間の「性」1をめぐる諸々の事柄に対する様々な学問分野における研究の 成果や、実践的なレズビアン/ゲイ・リベレーションの展開によって、同性愛に対す る一般社会の認識は変化を経験している。それと共に、とりわけ西欧、北米を中心と して、キリスト教諸教派においてもその認識の変化を見ることが出来るが、なお肯定 論と否定論の激しい対立、そしてその対立状況への困惑が続いている。
そのような対立は肯定論、否定論の双方が、それぞれの基づくところの論理を共有 することが困難であることによると言えるが2、しかしキリスト教諸教派における議 論においてはいずれも「人間の性的な振る舞い」、すなわち「セクシュアリティ」の 表現(とりわけその行為側面)に対して人間の一定の責任を承認し、その上で、セク シュアリティに対する本来の神の意図に従うことが目指されるという論理展開では一 致している3。つまり、この議論における根本的問題は、人間のセクシュアリティに 対する神の意図の解釈にあると考えられるのである。そうであるならば、諸学問にお いて人間の「性」への洞察が深められている現在において、それを受けてさらなる神 学的考察がなされる必要は十分にあるのではないだろうか。
そこで本稿では以下において、人間のセクシュアリティに関する現代の神学的解釈 を取り上げ、それがセクシュアリティをめぐる問題としての同性愛の議論に対しどの ような示唆を与え得るかを考察する。
1.「男女の創造」によるセクシュアリティ解釈
キリスト教において、人間のセクシュアリティに対する神の意図を考えるために重 要であるのは、伝統的に、禁欲的独身を除いては異性間の単婚的結婚のみがその表現 の規範的形態と解釈されてきたという点である。それではなぜその形態が、キリスト 教徒が実現すべき神の意図すなわちセクシュアリティの本性にかなうものであると解 釈されるのだろうか。
現在もそのような伝統的解釈を維持し、主張している代表的存在としてローマ・カ トリック教会を挙げることが出来るが、現代カトリックの倫理神学者ベルンハルト・
へーリング(Bernhard Häring)は、同時代の哲学、科学などにおける様々な議論を 踏まえながら、古典から現代までの神学的テキストと第二バチカン公会議の決定を中 心とするカトリック教会の公式見解に基づき、この問いに答えている。
ヘーリングはまず、人間は「肉体を持った精神であり、精神を持った肉体」であ り、「愛の中に語られた神のみことばであり、血となり肉となった言語」であるとす る4。そして神は人間が「聖体の姿で神の栄光をほめたたえ・・・、つまり変容した イエズスの体によって永遠に神と共にあるように」人間を招いていると述べる5。 彼は、そのような人間の「からだにはからだの語る言語」があり、「重要な意義や 目的を伝えるすべがある」とし6、人間のセクシュアリティをそのような身体の言語 と捉える。そしてその根源的意味は「真実の愛を伝えること」にあり、そのような真 の対話が可能であるのは、そこで愛し与え合う精神全体が体現される場合においてで ある7。この時、人間のセクシュアリティとは「真理の実現に至る過程であり、愛に おける相互認識、とりわけ三位一体の神の愛の反映」であると解釈される8。
このようにヘーリングは、人間のセクシュアリティの理解が人間の身体の理解の仕 方にかかっていると考えているが、この時、そのような身体とは神に創造された身 体、男と女に創造された身体、神の似姿に創造された身体、であると説明する9。こ こから、セクシュアリティという身体の言語によって伝達される愛とは、単なる物質 的なものとしての身体によって伝達されるのではなく、神の似姿性を満たすものとし ての男と女である物質的身体によって、そしてその間で伝達されると考えられるので ある。
ここで重要なことは、ヘーリングがこの男女の二元性の基盤を生物学的なものに置 いているということである。そのために、セクシュアリティの解釈は身体の生物学的 理解に決定的な意味を与えられた上でなされるものとなり、それは生物学的な異性間 の関係に帰結するものとなる。しかしこのことはセクシュアリティの意味が単なる生 物学的機能(生殖)に還元されるということを意味するのではない。なぜなら、人間 の生物学的現実それ自体が「肉体と精神の全体性の結果として愛に対して無関係では
ない」のであり、この異性間の関係においてなおそれが正当化されるのは、愛に役立 つ場合のみだからである10。そしてそのような相互に与え合う愛の共同体であるもの が(異性間の)結婚であるとされるのである11。
つまり人間のセクシュアリティとは本来、真実の愛の伝達としての生物学的男女の 相互献身と忠実による愛の実現(であるところの結婚)のためにあるものと考えられ ていると言える。そしてそれは、人間が男/女として創造されているということ、そ してその二元性を生物学的に基礎付けること、また男‐女関係において人間であると いうことに神の似姿性を見ることによって、この現実において人間が実現すべきセク シュアリティの形態は生物学的な異性間(結婚)しかあり得ないと考えられるのであ る。
2.「恩恵」によるセクシュアリティ解釈
上記のような解釈に対し、ローワン・ウィリアムズ(Rowan D. Williams)がカン タベリー大主教就任(2003年)以前の1989年にセクシュアリティを主題として行なっ た講演「身体の恩恵(The Body’s Grace)」12には、異なる解釈の可能性を見ることが 出来る。彼はこの講演において、なぜキリスト教は性を正しく理解するという課題に 運命付けられるのかを問うことによって、人間のセクシュアリティの意味についての 神学的考察を行なっている。
ここでウィリアムズが注目するのは、「恩恵(grace)」という概念である。言うま でもなく恩恵はキリスト教にとって決定的に重要な概念であり、神学において絶えず 考察され続けてきたものであるが、彼は、恩恵とは意味のあるものとして、求められ るものとして、自分自身が見られていると認めることに基づく変化(transformation)
であると述べる13。そして、キリスト教における創造、受肉、キリストの体における 親交(fellowship)への結合の物語全体は、神が人間を欲するということを人間に教 えているのであり、人間はこれに巻き込まれるために創造され、それで人間は神が神 を愛するように神が人間を愛することを学ぶことによって、神の心からの愛に適する ようになり得るとする14。
それゆえ彼は、キリスト教共同体がその原理的根拠として、人間が求められるも の、喜びの機会として自分自身を見るように自分達の関係を律する方法を人間に教え る任務を持つと述べる15。そして彼はこのような人間の知覚(perception)が聖書の 内外で性的な比喩的表現で語られていることに注目し16、恩恵と人間のセクシュアリ ティの関係を考察するのである。
まずウィリアムズは、そのような性的な比喩的表現の使用にもかかわらず、なぜ実 際には人間の性的欲望の事実(人間のセクシュアリティの具体的な物語)が積極的に
恩恵の問題として語られないのか、あるいはなぜ諸々の条件下においてのみそれと認 められるのかを問う17。そしてこの問いに答えるために、彼は人間の性的欲望の性質 がどのようなものであるのかについての哲学者トマス・ネーゲルによる考察を参照す る18。
ネーゲルによると、性的欲望とは、二者間の相互的な要求というその典型的なケー スでは、相互における対象の単一的な知覚だけではなく、同時に自己を知覚すること もまた含んでいる19。つまり「私」が「他者」を欲望することで、「私 」 はその「他 者」によって欲望させられている「私」に気付かされる。「私」が 「 他者 」 を欲望す る時、「他者」を欲望する「私」とは、「他者」によって欲望させられている「私」な のである。
この私が欲望(興奮)させられるということによって、私は私の身体と結び付けら れると言えるが、さらにそのような性的欲望が持続し、関係として成就に向かうため には、私の欲望が相手にとって意味のあるもの(望ましいもの)として、相手の欲望 の根拠とならなければならない。換言すれば、私が相手にとって意味を持つことへの 私の欲望とは、相手がその私の欲望を理解することによって、相手の私への欲望が喚 起される時に成就するのである。その時、私は私の身体と結び付けられるだけでな く、さらに私の身体が意味と結び付けられるものとなると言える。
ウィリアムズは、このような性的欲望の持続に基づく関係すなわち相互認知として の性的関係が成就するには、絶えず私が他者からの知覚に晒されるというリスクを負 わなければならないと述べる。つまり、性的関係とは私が私であることに責任を持ち 得ない状態に私を置くリスクを伴うものなのである。それは私が「他者における喜び の創造に引き渡される」ことを意味し、「私の喜びを欲望することは、私が欲望する その人の喜びを欲望すること」なのである20。
しかし現実における多様なセクシュアリティの表現形態は、必ずしもそのような自 己を超えたところから自己認識が変えられていくような経験を実現するものではな く、むしろ自らの統制によって自らの意味を創造しようとする試みであるものをも含 んでいる。それゆえ、ある種の性的な生の様式についての決定、すなわち「どのよう に我々の身体が我々自身とお互いのために『人間の意味を作ること』の計画全体に至 らせられるのかについての決定」が求められるのである21。
つまりセクシュアリティの本性とは、我々の物質的自己全体の意味を作る共同的方 法に入ることと言えるが、それはリスクを伴うものである。そしてセクシュアリティ がリスクを伴うものである以上、その正しい成就とはそのリスクを回避することでは なく、むしろそれから逃げないことによって達成されるものなのである22。それが、
セクシュアリティの実現において求められるものが、忠実の約束すなわち他者の知覚
から逃げないという約束であることの理由であり23、そしてそれによって、人間の意 味は作り続けられるのである。それゆえにセクシュアリティは忠実において、人間が 全体として意味あるものとされ続ける経験であることによって、この意味において、
人間が神によって求められていることを知覚しそれを感謝する場、そこに恩恵が満ち 得る文脈を創造するものとして解釈されるのである。
3.「神の三位一体性」によるセクシュアリティ解釈
そのようなウィリアムズの恩恵としてのセクシュアリティ解釈に基づいて、ユー ジーン・ロジャース・ジュニア(Eugene F. Rogers Jr.)は、さらに考察を進める。
ウィリアムズにおいて人間のセクシュアリティが恩恵であると解釈され得るのは、第 一に神が神を愛するように、神によって人間が愛されるという知覚に基づいていると 言えるが、そこでロジャースはまさにその神の生、すなわち神の三位一体の生から考 察を始める。
ロジャースはまず、神が三位一体であるということが「贈与と感謝の交換としての 他者性のパラダイムあるいは完全な事例」であると述べ24、この神がその内に他者性 を有するということが、神が愛であることを可能にするとする25。この三位一体の内 在的な愛はそれだけで完全なものであり、そのために何も必要とするものではない が、神はそのような三位一体における他者への贈与という特性によって、まさにその 外部へ恩恵として創造をなすのである26。そして神と創造がそのようなものであるこ とが、被造物である人間もまた神の恩恵への感謝の応答の生、すなわち愛の実現の可 能性に開かれるということを意味するのである27。ロジャースは、このような被造物 である人間同士における愛の実現として結婚があるのであり、それは空間と時間(有 限性)においてであるとしても、三位一体の生との類比(analogy)を持つと述べる28。 この結婚と三位一体の生の関係は、三位一体における父と子の間の無条件の愛と感 謝の応答が愛し合う二者の愛の根拠であるという点においてだけではない。ロジャー スは、それがまさに三位一体であること、そこには第三者であるところの聖霊が必要 であることを問題にする。三位一体において、聖霊は二者の愛を目撃し、祝福し、喜 ぶものとしてあるのである29。それゆえにこのことは、キリスト教的解釈において は、結婚もまた愛しあう当事者二人だけではそれが完成しないということを意味す る。人間の二者の愛もまた、それを目撃し、祝福し、喜ぶものを必要とするのであ り、結婚とは二者を越えたより広い交わりの内に基礎付けられるものなのである30。 また、このような結婚における愛の実現は、人間が被造物であることから空間と時 間において実現するものであるために、まさしくその身体を必要とする。それゆえ次 にこの愛の基礎となる身体について、キリスト教徒が信じるべきなのはどのような身
体的事柄なのかが問われるのである31。
そこでロジャースが注目するのが、「キリストの体」をめぐる神学的考察であり、
彼はそれがまさにキリスト教徒にとって重要な身体理解を告げているとする。ロ ジャースは、類比の理論を用いてキリストの体から人間の身体を考察することによっ て、それがキリストの体への編入の出来事すなわち神による人間の救済において意味 を持つものであると述べる32。彼はキリストの体とは三位一体の神のペルソナの一つ によって引き受けられた身体、したがって神の身体であるとし、そしてまたこの体 は、イエスにおける歴史的な人間の身体、教会、聖餐式において捧げられたパンとし て、多様に語られてきたと指摘する33。このことが意味するのは、キリストの体とは 受肉、十字架上の死、復活において示される出来事、すなわち救済に関わるものであ るということである。このようなキリストの体をめぐる理解から人間の身体の意味が 引き出される時、ロジャースは身体がそれによって神が人間をとらえ、聖化するとこ ろの方法であり、換言すれば、身体は救済のためにあると述べるのである34。
このように身体は、三位一体の神の救いの経綸におけるイエス・キリストの出来事 において、神の生へ編入され得るものとしてあり、それを通して人間は、神の三位一 体に内在する贈与と感謝とその祝福の生すなわち愛の実現の可能性としての結婚を持 つのである。つまり、人間のセクシュアリティとは、結婚という形態において「聖化
(sanctification)のため、すなわち神のために」あり、「それはそれによって神が人間 存在を神の霊の共同体と神の子のアイデンティティに巻き込むところの方法」として 解釈されるのである35。
4.同性愛議論への示唆
それでは、これらの解釈から同性愛をめぐる議論に対して得られる示唆はどのよう なものであるだろうか。これらの解釈はすべて、禁欲的独身を除いては単婚的結婚を キリスト教において目指されるべきセクシュアリティの表現形態として理解している 点では共通している。そして彼らはすべて、セクシュアリティが神の愛のためにある と理解しており、また、へーリングとロジャースは明確にその基盤として創造に言及 する点において接近する。それにもかかわらず、結論から言えば、同性愛に関して彼 らの至る結論は正反対のものとなるのである。
ヘーリングの解釈は異性間結婚しか正しい表現形態を導き出し得ないために、当 然、同性間のいかなる関係も認められないという立場に帰結する36。これに対し、
ウィリアムズの解釈においては、彼自身はこの講演の中で明確に表明していないが、
セクシュアリティの表現形態が異性間に限定されない可能性が示されており37、そし てロジャースにおいては、自身の解釈から同性間の関係が肯定され得ると結論してい
る38。
このような異なった帰結を生む分水嶺は、神が創造した身体とはどのような身体 か、という点にあると言える。ヘーリングは生物学的男/女としての身体を基盤にす るのに対し、ウィリアムズやロジャースは相互関係の実現基盤としての身体、相互関 係の実現の唯一の方法として身体を捉える。それでは同性愛という課題を議論する上 で、それぞれが持つ身体理解の問題点は一体何であろうか。
まず、ヘーリングは創造記事を引きながら、人間は「まさしく男か女である」と述 べた上で39、その男女の二元性を生物学的に理解していたが、ヘーリングに限らず、
そのような生物学的二元論からセクシュアリティを解釈する方法には、現在において は重大な問題が含まれていると言わざるを得ない。それは人間の男女の二元性が自明 の事柄ではないということが諸々の学問的成果によって明らかにされているからであ る40。それが自明でないという批判は何もジェンダー論的な視点からのみもたらされ るものではなく、むしろこの論拠の決定的な難点は、人間の身体の生物学的事実それ 自体が完全な二分割を示さないという点、すなわちインターセクシュアルが存在する という事実から提起されるものなのである41。
この解釈が生物学的身体に基盤を置く以上、あるいはそうするならばこそ、それが 身体上の生物学的事実と矛盾があることは看過されるものではないだろう。このよう な指摘に対して、例えば確率上の問題からそれを「例外」として処理するなど、様々 な反論が可能であろうが、この論理それ自体における論理的首尾一貫性、あるいは説 得性という点においては、弱さを含んでいることは否定出来ないのであり、この点を 克服する論理がさらに展開される必要があると思われる。
それに対して、ウィリアムズやロジャースの行き方は、そのような問題を回避する ものであると言えるだろう。しかしそのことは逆に、まさに同性愛を含めたセクシュ アリティの問題が、現実には主として生物学的な身体的性別の上で展開されるイメー ジ(意味)をめぐる関係性であるということを無視していると批判されるかもしれな い。当然この点は、先述のヘーリングの解釈においては問題にならない。
このような批判から、ウィリアムズやロジャースにおいては、男女の二元性をその 考察の中にどのように位置づけるのかという問題が残されているように思われる。こ の点について、ウィリアムズもロジャースも明確な回答を与えていないが、彼らはセ クシュアリティの本性が身体的構造や機能にあるのではなく、他者との関係の構築に あると捉え直すことによって、つまりセクシュアリティの意味それ自体が生物学的身 体よりも関係性にその核心を持つと理解することによって、セクシュアリティの議論 において男女の二元性を問題にすること自体を回避すると言える。
それゆえ彼らは関係性の問題として非生殖的なセクシュアリティの神学的正当性を
論証することによって、基本的に男女の二元性を従来の生殖的なセックスに基づいて 理解しながらも、異性間結婚以外の(とりわけ同性愛の)神学的肯定の可能性を示唆 していると言えるだろう42。ただしこれに対しては、セクシュアルな関係とその他の 人間関係の差異は何かという問いを立てることが可能であり、この点についてさらに 考察を必要とするだろう。
しかしそのように指摘してもなお、彼らの論理が人間の現実に対して論理的一貫性 を保つと考えられるのは、彼らの身体理解があり得るあらゆる物質的身体を含む可能 性を有しているためである。そこには、従来の生物学的な二分法に適合する男/女の 身体も、インターセクシュアルのようなそれから外れていくような身体も、さらには 生物学的事実だけでは捉えきれないトランスの身体も、例外なく内包することが可能 なのである。
この「広さ」において身体が解釈される時、それはキリスト教において目指される セクシュアリティの表現形態が「多く」なるということを必ずしも要求するものでは ない。それはなお、キリスト教においては、具体的には禁欲的独身と相互献身に基づ く永続的な二者関係(結婚)だけをセクシュアリティに対する神の意図と解釈するこ とを可能にする。ただしそれは、あらゆる人間が例外なくそのどちらにも参与する可 能性を持ち得る、という意味で「広く」なり得ると言えるだろう。そしてこの時、同 性間の性的関係のあらゆる形態が常に非難されるという帰結に至るとは言えないので ある。
結
以上において、人間のセクシュアリティに対する現代の神学的解釈として、三つの 異なる解釈を概観し、それらが同性愛をめぐる議論においてどのような示唆を与える のかを検討してきた。
これらの解釈に関してまず指摘出来ることは、キリスト教の歴史において、人間の セクシュアリティは異性間結婚という形態のもとで概ね肯定的に(少なくとも容認さ れるものとして)捉えられてきたと言えるとしても、それと同時に絶えずペシミス ティックにも解釈されてきたとするならば43、これらの解釈はいずれも人間にとっ て、より肯定的、積極的にその意味を見出しているという点で、セクシュアリティを 神学的に再解釈する可能性を示しているということである。さらに、ウィリアムズと ロジャースはもちろんへーリングにおいても、第一に人間は、神の愛に基礎付けられ る存在であること、そしてそのことによって人間同士における贈与と感謝の関係すな わち愛の共同体の実現可能性を有していると理解されるのであり、ここに彼らが共に 立つことの出来る場があると言えるだろう。そうであるならば、同性愛を含むセク
シュアリティをめぐる諸問題は、この地点から始められ、また絶えずここに立ち戻り ながら議論されるべきではないだろうか。
そしてまた、そのようなセクシュアリティの再解釈は、人間の身体の再解釈に向か うものである。このようなセクシュアリティと身体の結びつきを考える時、どのよう に身体を捉えるのかが問題となるが、これは創造記事において人間を男女という二元 性で捉えることに関係して、キリスト教にとってはより重大な問いになると言えるか もしれない。それは人間の身体の現実が、生物学的観点においては、その二元性を徹 底することに困難を有するためである。しかしこのことは、神学において身体を物質 的に捉えることが不可能だということでも、男女の二元性の放棄が要求されるという ことでもなく、男女の二元性と物質的身体の関係をどのように捉えるのかという問題 を提起するということである。
物質的身体と男女の二元性の結びつきは必然的なものではないということ、これは 我々が保持している「性」概念それ自体の理解の変容を迫る問いである。そしてそれ はまた、「性的」として語られるあらゆるものの意味を問い直す作業でもあると言え るだろう。この時、我々が今セクシュアリティと呼んでいるものは、従来の意味での セックス(すなわち生殖を根拠とした二元的な生物学的性と呼んできたもの)に関係 付けられる必然性は無いのである44。そもそも我々は「性」について全てを知ってい たのではなく、むしろその多くを知らなかった(そしていまだ知らない)のではない だろうか。このことは、単なる伝統的な理解への批判のための批判などではなく、そ のように理解することの方が我々のセクシュアリティの現実をより説明し得る事態に あるということである。
そして本稿において考察したようにセクシュアリティの神学的再解釈は、この事態 に対立するよりもむしろそれを十分に語ることが可能であるように思われる。つま り、セクシュアリティが神の生に招かれる身体という身体理解に基づくと述べること において、生物学的次元では語り尽くせない身体とセクシュアリティの多様な現実を 捉えることが可能になるのである。そしてなおそのような身体は、物質性を否定され るものではなく、むしろそれを前提としているのであり、その上でセクシュアリティ はそのような身体において意味を見出されるものとして説明され得るのである。
このような神の生に招かれる身体という視点から開かれるセクシュアリティの地平 は、諸学問によるセクシュアリティをめぐる洞察を否定するものでも、それらに無批 判に迎合するものでもなく、それらと共にセクシュアリティの意味理解のさらなる深 みを目指すものなのである。
本稿は、2006年9月21日に上智大学で開催された日本基督教学会第54回学術大会における研究発表「セクシュア リティの神学的再解釈の諸相」に加筆・修正を施したものである。
注
1 我々が「性」について語る時にしばしば生じる困難は、この語の持つ多義性によるものである。この
「性」の名のもとで語られる多義的なものを、フェミニズムや社会学はセックス/ジェンダー/セク シュアリティという分析概念によって分類したが、本稿は概ねそのような分類に準拠してこれらの用 語を用い考察を行うものである。ただし、これらの分類は相互に関係を持ったものであり、その意味 で包括的な意味をもたせる場合には「性」という語を用いる。
2 この議論におけるリベラルとコンサバティブの対立点を概括したものとして、以下を参照。Eugene F. Rogers, Jr., Sexuality and the Christian Body: Their Way into the Triune God, Oxford: Blackwell Publishers, 1999, pp.19-25.
3 以下の論文は、仮想の対話という形をとってはいるが、この議論における様々な立場の主張が簡潔に まとめられており、その論理展開の共通性を見ることが出来る。Ronald Nicolson, “A Gay Dialogue,”
Journal of Theology for Southern Africa 121(2005), pp.71-87.
4 ベルンハルト・へーリング 『キリストにおける性の解放』(八城圀衛訳)、サンパウロ、1989年、8 頁。
5 同上、8-9頁。
6 同上、9頁。
7 同上、9-12頁。
8 同上、7頁。
9 同上、15頁。
10 同上、29-31頁、および11-14頁。
11 同上、31頁。
12 Rowan D. Williams, “The Body's Grace,” in Theology and Sexuality: Classic and Contemporary Readings, Eugene F. Rogers Jr. (ed.), Oxford: Blackwell Publishers, 2002, pp.309-321. この講演当時、ウィリアム ズはオックスフォード大学の神学教授であった。また以下のウェブサイトも参照。
http://www.archbishopofcanterbury.org/about/bio.html(2006/08/08にアクセス)
13 Williams, ibid., p.311.
14 Ibid., pp.311f.
15 Idem.
16 ウィリアムズは、これが講演であるという制約からか、その例を余り多くは示していない。言及して いるのは、ホセア書、エフェソの信徒への手紙(5章)の記述や、アヴィラのテレサ(Teresa of Avila)の事例などである。
17 Ibid., p.312.
18 トマス・ネーゲル(Thomas Nagel, 1937-)は、現代アメリカの哲学者。ここでウィリアムズが参照、
引用しているのは、現代の様々な倫理的問題を扱ったネーゲルの著作における「性的逸脱(Sexual Perversion)」について書かれた一章である。トマス・ネーゲル 『コウモリであるとはどのような こ と か 』( 永 井 均 訳 )、 勁 草 書 房、1989年、64-85頁。( =Thomas Nagel, “Sexual Perversion,” in Theology and Sexuality: Classic and Contemporary Readings, Eugene F. Rogers Jr. (ed.), Oxford: Blackwell Publishers, 2002, pp.125-136.)
19 Williams, ibid., p.312. および、ネーゲル、前掲書、73頁。
20 Williams, ibid., p.313.
21 Idem.
22 このように考える時、そのようなリスクのない性的関係こそが性的逸脱となる。なぜなら、「リスク の無い、他の誰かの喜びが私のそれに依存するように、私の喜びが他の誰かのそれに依存するという 危険な承認のない性的活動」は、「私の統制のもとに私の幸福を回復しようとする努力、そして私の 身体を別の人の知覚によって再創造させられることを拒絶しようとする努力」、「共同において、共同 体において、意味を作る人間存在の企てから私の身体を退かせること」であるからである。当然、そ のようなものは神によって意図されるものではないと言えるだろう。Ibid., p.314.
23 ここにもう一つのキリスト教的セクシュアリティ、誓願された禁欲的独身の意味が見出される。つま り、それはもっぱら神に向けられる身体であるということである。Ibid., pp.317-318.
24 Eugene F. Rogers, Jr., Sexuality and the Christian Body: Their Way into the Triune God, Oxford: Blackwell Publishers, 1999, p.198.
25 Ibid., p.198.
26 Ibid., pp.199f.
27 Ibid., pp.200f.
28 Ibid., p.201.
29 Ibid., p.195.
30 Ibid., pp.195-198.
31 Ibid., p.238.
32 Ibid., pp.239f.
33 Ibid., p.240.
34 Idem.
35 Eugene F. Rogers Jr., “Sanctified Unions: An Argument for Gay Marriage,” Christian Century June 15, 2004, p.26.
36 ヘーリング、前掲書、134-137頁。
37 Williams, ibid., pp.318-320.
38 例えば、Rogers, Sexuality and the Christian Body, p.248.
39 ヘーリング、前掲書、14-17頁。
40 人間の「性」の多様性を明らかにしている研究成果は多岐にわたるが、簡潔にまとめられているもの として、例えば以下を参照。ヴァネッサ・ベアード 『性的マイノリティの基礎知識』(町口哲生 訳)、作品社、2005年。
41 インターセクシュアル(半陰陽者)の定義については以下を参照。橋本秀雄 『男でも女でもない 性・完全版』 青弓社、2004年、12-29頁。
42 私もその論証に同意するが、それに加え、身体と男女二元性の関係の曖昧性に目を向けることで、よ り人間のセクシュアリティが生殖的なものに限定され得ないということを指摘出来るのではないかと 考える。
43 このような評価に関して、例えば以下を参照。カレン・アームストロング 『キリスト教とセックス 戦争—西洋における女性観念の構造』(高尾利数訳)、柏書房、1996年。および、ウタ・ランケ‐ハイ ネマン 『カトリック教会と性の歴史』(高木昌史他訳)、三交社、1996年。
44 このことは生殖をセクシュアリティと無関係なものにすることを意味しない。生殖はセクシュアリ ティの原因としてではなく、結果の一形態としてそれとの関係をなお保持する。