一四世紀イタリアの時代状況とペスト
著者 石坂 尚武
雑誌名 人文學
号 190
ページ 181‑248
発行年 2012‑11‑30
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013281
研 究 ノー ト
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
石 坂 尚 武
目 次 第 一 章 ト レ チ ェ ン ト の 時 代 と 危 機 第 一 節 前 史
│
│ ト レ チ ェ ン ト に 先 立 つ 時 代
│
│ 第 二 節 ト レ チ ェ ン ト に お け る 様 相 の 変 化
│
│ ト レ チ ェ ン ト の 危 機
│
│ 第 三 節 ト レ チ ェ ン ト に お け る 大 地 震 の 頻 発
│
│
﹁ 我 々 の ア ル プ ス が 地 震 で 揺 れ た
﹂
│
│ 第 二 章 黒 死 病 と は
│
│ そ の 衝 撃 と 原 因
│
│ 第 一 節 大 惨 事 を 測 定 す る
│
│ フ ォ ス タ ー
・ ス ケ ー ル
│
│ 第 二 節 名 称 の 問 題
│
│ 当 時
﹁ 黒 死 病
﹂ も
﹁ ペ ス ト
﹂ も 使 わ れ て い な か っ た
│
│ 第 三 節 ペ ス ト の 症 状
│
│ 同 時 代 人 の 報 告
│
│ 第 四 節 ペ ス ト の 発 症 と メ カ ニ ズ ム
│
│ ペ ス ト の 原 因
│
│ 第 五 節 同 時 代 人 が 考 え た 疫 病 の 原 因 注 記
・ 略 記
﹁ 石 坂 史 料 集
﹂ の 明 細 は 以 下 の と お り で あ る
︒ こ れ は 石 坂 が 同 志 社 大 学 人 文 学 会
﹃ 人 文 学
﹄ に 二
〇
〇 三 年 か ら 二
〇 一
― 181 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
一 年 に 掲 載 し た も の で あ る
︒ イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 一
︶ 第 一 七 四 号 二
〇
〇 三 年 二 二 頁
〜 七 三 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 二
︶ 第 一 七 六 号 二
〇
〇 四 年 二 六 頁
〜 八 三 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 三
︶ 第 一 七 九 号 二
〇
〇 六 年 一 三 九
〜 二 三 六 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 四
︶ 第 一 八
〇 号 二
〇
〇 七 年 一 三 五
〜 一 七 六 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 五
︶ 第 一 八 一 号 二
〇
〇 七 年 九 七
〜 一 四 七 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 六
︶ 第 一 八 二 号 二
〇
〇 八 年 八 七
〜 一 四 四 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 七
︶ 第 一 八 四 号 二
〇
〇 九 年 二 五
〜 一 八 九 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 八
︶ 第 一 八 六 号 二
〇 一
〇 年 一 九 三
〜 三 一 五 頁 イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集
︵ 九
︶ 第 一 八 七 号 二
〇 一 一 年 一 四 七
〜 二 二 一 頁
・ 本 文 中 の 引 用 文 の な か の 太 字 は す べ て 引 用 者 に よ る
︒
・ 翻 訳 文 で
︽
︾ を 用 い た 場 合
︑ そ れ は 大 意 で あ る こ と を 示 す
︒
・ 掲 載 し た 写 真 は す べ て 筆 者 が 撮 影 し た も の で あ る
︒
第 一 章 ト レ チェ ン ト の時 代 と 危機 第一
節 前史
││ トレ チェ ント に先 立つ 時代
││ 本 稿は
︑様 々な 苦難 に見 舞わ れた イタ リア の一 四世 紀│
│す なわ ちイ タリ ア語 で﹁ トレ チェ ント
﹂︵
Trecento
︶│
│ の時 代の 歴史 的状 況を 概観 して
︑そ の状 況の なか にお いて も︑ とり わけ 最大 の苦 難で あっ た黒 死病 につ いて
︑イ タリ アを 中心 に歴 史的 に展 望す るこ とを 目指 すも ので ある
︒地 方分 散的 な中 近世 イタ リア につ いて は︑ 個々 の都 市・ 地域
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 182 ―
のも つ特 殊な
︑個 別の 性質 が少 なく なく
︑そ れを 一般 化し て語 るの は容 易で はな いか もし れな い︒ とも かく ここ では あく まで 一般 的に 概括 する こと を優 先さ せた い︒ 黒死 病が 猛威 を振 るっ た舞 台︑ 時代 背景 がど のよ うな もの であ った か│
│そ うし たこ との 理解 の一 助に なれ ばと 思う
︒ ま ず︑ 一四 世紀 に先 立つ 時代 はど のよ うな 時代 であ った か︒ イタ リア を中 心に して ヨー ロッ パ全 般の 傾向 も視 野に 入れ て見 てみ よう
︒ 一 二世 紀と 一三 世紀 は︑ それ まで にな く気 候に 恵ま れた 上に
︑水 車の 利用 によ る農 耕用 の鉄 製品 や馬 の蹄 鉄の 生産 など の技 術革 新︑ 耕地 面積 の拡 大︑ 三圃 制農 法︵ この 農法 の有 効性 は か なり 地 域 差 があ る⑴
︶な ど によ り
︑特 に アル プス 以北 を中 心に
︑生 産が 飛躍 的に 高ま った 時代 であ った
︒ そ うし て得 られ た余 剰生 産物 や地 域の 特産 品は 広域 に及 んで 商業 を大 いに 刺激 し︑ 全ヨ ーロ ッパ 的規 模で
︑さ らに は︑ ヨー ロッ パを 越え る規 模で 交易 が盛 んに おこ なわ れ︑ 定期 的に 大市 が開 かれ るよ うに なっ た︒ ここ で大 商人
︵長 距離 交易 業者
︶は 大い に利 する とこ ろが あっ た︒ 北海
・バ ルト 海沿 岸で の商 業活 動で はリ ュー ベッ ク︑ ハン ブル クな どの ハン ザ都 市が 主役 であ った が︑ 地中 海で はイ タリ ア都 市が 主役 であ った
︒イ タリ ア人 は︑ イタ リア の内 部の 都市 間の 商品
︵穀 物等
︶の 交易 をお こな う一 方で
︑地 中海 の中 心部 に突 き出 たそ の半 島を 拠点 にし て︑ 航路 を通 じて 北の ネー デル ラン ト︑ フラ ンド ルか ら︑ 東の アラ ビア 世界 まで を股 に掛 けて 商業 活動 を展 開し た︒ た とえ ば︑ マル コ・ ポー ロ︵ 一二 五四
〜一 三二 四︶ は︑ まだ 少年 の時 に︑ 東方 貿易 によ って 商利 をね らう ヴェ ネツ ィア 商人 の父 や叔 父に 引き つら れて
︑中 国に まで 足を 伸ば して
︑結 局︑ 元王 朝に おい て官 職︵ 揚州 総督
︶を 得て 元王 朝と 深く 関わ るこ とに なっ たが
︑こ の生 涯は こう した 背景 の所 産で ある
︒世 界が 広が る一 二世 紀と 一三 世紀 の中 世後
― 183 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
期の 時代 は︑ 以前 の自 給自 足を 中心 とす る経 済と 比べ て︑ はる かに 広域 な︑ 世界 に目 を向 けた 時代 であ り︑ 経済 規模 が格 段に 広が った 時代 であ った
⑵
︒十 字軍 運動 やス ペイ ンの レコ ンキ ス タ︵ 国 土回 復 運 動︶ や 中世 都 市 の発 展 の 背景 には
︑ヨ ーロ ッパ のこ うし た経 済的 な活 力が あっ た︒ ヨ ーロ ッパ の経 済的 活力 は人 びと の生 活を 豊か にし
︑そ れは 人口 の圧 倒的 な増 加と なっ てあ らわ れた
︒ヨ ーロ ッパ の国 々の 中世 初期 から 黒死 病発 生前 まで の人 口の 発展 は表 1﹁ 中世 西ヨ ーロ ッパ にお ける 人口 の増 加﹂ から 端的 にわ かる
︒こ こで は一
〇〇
〇年 以降 を見 ると
︑イ タリ アの 場合
︑一
〇〇
〇年 頃に 五〇
〇万 人で あっ た人 口は 一四 世紀 初頭 にお いて 二倍 の一
〇〇
〇万 人の 人口 にま で増 えた
⑶
︒他 の国 につ いて 一〇
〇〇 年 頃 の人 口 と ペ スト 直 前 の人 口 を 比べ ると
︑イ タリ アの 増加 率を 凌い でい る︒ フラ ンス と低 地諸 国は 三倍 の増 加︑ イン グラ ンド も三 倍︑ ドイ ツや スカ ンジ ナヴ ィア もほ ぼ三 倍に 増加 して いる
︒ イ タリ アの 中世 都市 につ いて 見る と︑ 表2
﹁中 世イ タリ アの 都市 の広 さと 人口
﹂か らわ かる よう に︑ イタ リア の多 くの 都市 は︑ その 面積
︵市 壁内 面積
︶を 拡大 させ つつ
︑人 口を 飛躍 的に 上昇 させ てい るこ とが わか る︒ フィ レン ツェ の場 合︑ 一二 世紀 初頭 に二 万五
〇〇
〇人 だっ た人 口は
︑一 四世 紀に なる 頃に は︑ 実に 四倍 の一
〇万 人の 人口 に膨 れあ がっ た︒ ジェ ノヴ ァは 二倍
︑ピ サは 三倍 以上 に膨 れあ がっ てい る︒ こ うし たな か︑ 急激 な人 口増 加に 対処 する ため に開 墾と 新た な土 地へ の定 住が 盛ん にお こな われ
︑た とえ ば︑ 中央 ヨ ーロ ッ パ の 場合
︑多 く の 都市 が 建 設さ れ
︑グ ラ フ1
﹁中 央 ヨ ーロ ッ パ の都 市 の 建 設﹂⑷
か らわ か る よう に
︑一 三
〇
〇年 をピ ーク とす る驚 くべ き都 市の 建設 ブー ムを もた らし た︒ ドイ ツの 人口 史の 研究 によ ると
︑ま さに 一二 九〇 年か ら一 三〇
〇年 まで のわ ずか 一〇 年間 に驚 異的 なピ ッチ で都 市建 設が 展開 され
︑一
〇年 間の うち に約 三〇
〇も の都 市が
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 184 ―
表1 中世西ヨーロッパにおける人口の増加
J・C・ラッセルの推定(斜字体部分はW・エイブルによる)
(単位100万)
1340年 10
9 21(1328)
19 3.7 5 14
11.5 A. De Bernardi, S. Guarracino,I tempi della storia,vol.1, E. S. Bruno Mondadori, 1989, 10.
1200年
−
− 12
− 2.2
− 8
− 1000年
5 7
− 6 1.1(1086年)
2
− 4 650年
2.5 3.6
− 3
− 0.5
− 2 国
イタリア リベリア半島 フランス
フランス+低地諸国 イングランド
イングランド・スコットランド・ウェールズ ドイツ
ドイツ+スカンディナヴィア
表2 中世イタリアの都市の広さと人口 人口
1280 1300 200000?
100000 80000 50000 50000 50000 50000 40000 36000 35000 38000 20000 A. De Bernardi, S. Guarracino, 35.
1180 1200 90000 50000
30000
15000 40000 1130
1160
25000
25000 380
11000 面積(ヘクタール)
1280 1300 500?
603
400 110
480
185 1180
1200 200?
97
120 1130
1160
23 53
114 都市
ミラノ フィレンツェ ヴェネツィア ナポリ パレルモ ボローニャ ジェノヴァ ヴェローナ パトヴァ ローマ ピサ パヴィーア
― 185 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
建設 され
︑そ こに 人び とが 入 植 し た の で あ る
︒し か し︑ 人 口 の 急 激 な 増 加 は︑ 食糧 不足 の問 題を 引き 起こ し︑ 特に 凶作 の年 と重 なっ た場 合︑ 深刻 な飢 饉を 招く こと があ り︑ その ため に飢 饉へ の対 処か ら︑ さら に一 層開 墾や 灌漑 が促 され たの で あ る
︒﹁ 人 口 増 加
﹂ と
﹁ 開 墾
﹂は
︑鶏 と 卵 の 関 係 と同 じく
︑ど ちら が先 行し たか は︑ 一概 にい えな い︑ 相関 関係 の性 質の もの かも しれ ない
⑸
︒ め ざ ま し い発 展 は イタ リ ア の北 部
・中 部 に おい て も 認め ら れ た︒ 主役 は 都 市︵ 大 小様 々 の 集 合 的 共 同 体
︶で あ っ た︒ 自治 の獲 得の パタ ーン は様 々 であ っ た が︑ 多 くの 地 域 で﹁ 都市 コ ム ーネ
﹂︵
﹁ 自 治 都市 国 家﹂
︶ が︑ 在来 の 地 域の 豪族
・封 建領 主・ 伯を 抑え て政 治的
︑経 済的 主役 とな った
︒そ の数 は︑ イタ リア の北 部・ 中部 にお いて 二〇
〇か ら三
〇〇 も存 在し たと いわ れる
︒そ のう ち︑ おそ らく 九〇 前後 の都 市コ ムー ネが
︑地 方の 宗教 的中 心地 であ る﹁ 司教 座都 市﹂
︑ つま り高 位聖 職者 であ る﹁ 司教
﹂を 擁す る 都 市 であ っ た︒
﹁ 都市 コ ム ーネ
﹂は
︑商 業 を 本 質的 活 動 にし な が ら︑
グラフ1 中央ヨーロッパの都市の建設
M. L. Bacci, La popolazione nella storia d’Europa, 1999, Rome−Bari, 34.(source : W.
Abel, Geschichite der Landwirtschaft, Stuttgart, 1963, 46)
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 186 ―
政治
・軍 事・ 宗教 のバ ック ボー ンを 備え た統 合体 であ った
︒た だ︑ 軍事 に関 して は︑ 所詮
︑都 市の 人口 はふ つう 数千 人か ら数 万人 程度 なの で︵
﹁ 農村
﹂は 一〇
〇〇 人 以 下の 共 同 体と さ れ︑ ペ スト 前 の 時 代︵ 一三 四 七 年以 前
︶の 世 帯規 模で は 二 二〇
〜二 五
〇 世 帯で あ る⑹
︶︑ フラ ン ス 王や イ ン グ ラン ド 王 のよ う に︑ 大 軍団 の 常 備 軍を 備 え るこ と は でき なか った
︒コ ムー ネに よっ て様 々だ が︑ 多く は︑ 必要 な時 にそ の都 度︑ 傭兵 隊長 と傭 兵を 雇っ た︒ こ の時 代の 中部
・北 部イ タリ アは
︑名 目上
﹁神 聖ロ ーマ 帝国
﹂に 帰属 した が︑ ふつ う都 市コ ムー ネは
︑そ の拘 束や 支配 を受 けず
︑事 実上
︑ま たは 名実 とも に独 立と 自治 権を 享受 した
︒い わば 薄い ヴェ ール をま とっ ただ けの
︑権 力の 実体 の乏 しい この 帝国 にお いて は︑ そこ から 事実 上保 護も 受け られ ず︵ そこ では 帝国 によ る警 察権 力も 治安 も存 在し なか った
︶︑ 各 コム ーネ は︑ みず から 必要 最低 限 の 範囲 を 市 壁︵ 城壁
︶で 囲 ん で外 敵 か ら 身を 守 り︑ そ こで 都 市 貴族 など の有 力市 民を 中心 に自 治を 営ん だ︒ そう した なか
︑一 二世 紀・ 一三 世紀 の都 市は
︑人 口増 加に 応じ て古 い市 壁を 壊し て︑ 新し い市 壁を 築い て都 市を 拡大 して いっ た︒ こ うし た狭 い空 間に 密集 した 市民 の間 で︑ 愛郷 心は 高ま り︵ ひと つの 国で あっ たの で﹁ 愛国 心﹂ とい って もよ い︶
︑ 市民 の矜 持の 念と エネ ルギ ーは
︑ま ず︑ 公共 建築 物に 向け られ た︒ 公共 建築 物は
︑力 のこ もっ た多 くの 傑作 がも たら され た︒ まず
︑俗 人に よる 管理 委員 会︵
Opera d el Duomo
︶が 中心 とな って
﹁大 聖堂
﹂や ドゥ オー モ︵ 都市 の 中 心教 会︒ 司教 のい る大 聖堂 と限 らな い︶ の改 築・ 新築 が着 手さ れ︑ 旧来 の狭 いロ マネ スク 様式 の教 会が 取り 壊さ れ︑ ある 程度 ゴシ ック 様式 を採 用し た教 会が 登場 した
︒市 民の 霊魂 の救 済に つな がる もの とし て︑ 都市 の中 心教 会で ある 大聖 堂や ドゥ オー モの 造営 は︑ 極め て公 共性 の高 い建 物で あっ た︒ ゴシ ック はま さに 市民 の文 化様 式の 象徴 とな った
︒さ らに
﹁国 家﹂
︵ 都市 国家
︶に ふさ わし い立 派な
﹁市 庁舎
﹂︵ 事実 上そ れは
﹁国 会議 事堂
﹂で あっ た︶ が築 かれ た︒ こう
― 187 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
し た都 市へ の愛 郷心 は︑ 現在 もな お多 くの 地方 都 市に も息 づい てい る│
│そ れは 今も イタ リア の 多 く の 地 方 都 市 の 魅 力 の 原 動 力 と な っ て い る
︒ この 都市 コム ーネ のほ か︑ その 周辺 に︑ 多か れ 少な かれ 都市 に従 属し た︵ 時に 都市 を従 属さ せ た
︶﹁ 農 村 コ ム ー ネ
﹂が あ り
︑そ れ も ま た 人 口 の増 加に より 次々 と建 設さ れた
︒農 村コ ムー ネ の場 合に つい ても
︑同 様に 治安 上︑ 防備 が重 要 な要 素だ った こと から
︑地 形的 にそ れを 満た す 場所 が好 まれ たよ うで ある
︒た とえ ば︑ ラツ ィ オ 地 方 の カ ル カ ー タ
︵
Calcata
︶︵ 図1
﹁カ ル カ ー タ﹂
︶ は︑ 断 崖絶 壁 の 軍 事 的 防 備 性 の 高 さ ゆ えに
︑一 二世 紀に なっ て城 壁・ 街区 が形 成さ れ た コ ム ーネ で あ る⑺
︒ また
︑ラ ツ ィ オの 北 端 の チヴ ィ タ・ ディ
・バ ニ ョ レー ジ ョ
︵
Civita di
Bagnoregio
︶︵ 図2
﹁チ ヴ ィ タ
・デ ィ・ バ ニ ョ
図1 カルカータ(Calcata)
コムーネの起源は古く、古代エトルリア人が関与しているといわれるが、12世紀 になってから城壁・街区が形成された。ヴィテルボからバスで行くと、山間に突如 として現われるカルカータの姿は威容そのもの。住民に聞くと、住民(旧市街)の 数は50人程度という(2007年)。町に入ると、年輪を重ねた住居の石の色が実に 重厚である(ラツィオ州ヴィテルボ県。標高172メートル)。
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 188 ―
レ ー ジ ョ
﹂︶ も
︑す で に 六 世 紀 の 史 料 に そ の 存在 が認 めら れる が︑ 一二 世紀 に自 由コ ム ー ネ と な り︑ 繁 栄 と 文 化 的 活 力 を 享 受 し
︑近 隣の オル ヴィ エー トの 勢力 にも かか わ ら ず
︑自 治 を 維 持 し た コ ム ー ネ で あ る⑻
︒農 村
︑都 市 い ずれ の コ ムー ネ に お い て も︑ その 立地 には 地形 が許 す限 り︑ 周囲 か ら隔 絶さ れた 小高 い山 が好 まれ
︑そ の景 観 は今 もウ ンブ リア 州や トス カー ナ州 を走 る 電車 の窓 から
︑我 々を 楽し ませ てく れる
︵図 3﹁ トレ ーヴ ィ﹂
︶︒ 一三 世紀 にお いて
︑都 市コ ムー ネは
︑お そ らく 人口 は数 千人 規模 のも のが 多く
︑一 万 人の コム ーネ はか なり 立派 なコ ムー ネで あ った
︒実 際︑ この 頃の ヨー ロッ パや イタ リ アの 人口 は︑ 大ざ っぱ にい えば
︑今 の時 代 の一
〇分 の一 程度 であ った から
︑当 時の
図2 チヴィタ・ディ・バニョレージョ
12世紀に自由コムーネとなり、経済的、文化的に繁栄した。ラツィオ州のヴィテ ルボの北20キロに位置。建設の起源はエトルリア人によるといわれるが、史料で はこの地名は6世紀末に登場する。現在、住民は8人(Il Borghi più belli d’Italia :
guida 2010, 425)。オルヴィエートからバスと徒歩でアプローチする(ラツィオ州
ヴィテルボ県、標高485メートル)。
― 189 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
一万 人の 都市 は︑ 今の 一〇 万都 市に 相当 する わけ であ る︒ 一三 世紀 にお いて
︑イ タリ アの 北部
・中 部の 経済 的優 位は 高く
︑人 口二 万人 を越 えた 都市 は 二 三 都 市 も あ り
︑一 方︑ 南 部︵ 両 シ チ リ ア 王 国︶ に はわ ず か 三 都市 し か なか っ た⑼
︒ ヨ ーロ ッ パ 全 体 か ら 見 て も
︑ヴ ェ ネ ツ ィ ア︑ フ ィ レ ン ツ ェ︑ ミラ ノな どの イタ リア の中 部・ 北部 のコ ムー ネ は
︑圧 倒 的 な 規 模 の 大 き さ を 誇 っ た
︒す な わ ち︑ 一三
〇〇 年の 時点 では
︑そ れぞ れ八 万人
︑一
〇 万人
︑二
〇 万 人 程度 と 考 えら れ て いる
⑽
︒同 じ 頃︑ ロン ドン の人 口が まだ 四万 人で あっ たこ とを 見る と︵ 二〇 一一 年で のロ ンド ンの 人口 は約 八〇
〇 万人
!︶
︑ イ タリ ア の 中 部
・北 部 都 市 の 活 力 と 規模 がわ かる だろ う︒
図3 トレーヴィ(Trevi)
アッシージ、スポレート(Spoleto)、スペッロ(Spello)などとともに、ウンブリ ア州の魅力的な山岳都市。近くに同じく魅力的な中世山岳都市モンテファルコ
(Montefalco)がある(トレーヴィの旧市街人口は1,070人(Il Borghi, 404.)。ウン ブリア州ペルージャ県、標高412メートル)。 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
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第二 節 トレ チェ ント にお ける 様相 の変 化│
│ト レチ ェン トの 危機
││ 一 三世 紀に おけ る経 済的 発展 は︑ しか しな がら
︑一 四世 紀に 入る 頃か らヨ ーロ ッパ の多 くの 地域 にお いて その 様相 を大 きく 変貌 させ た︒ トレ チェ ント はい くつ もの 危機 と苦 難に 見舞 われ たの であ る︒ それ はど のよ うな もの であ った か︒ 農 業は
︑地 球が 寒冷 期に 入っ て悪 天候 が慢 性化 して 凶作 が続 いた ので ある
︒南 イン グラ ンド のウ ィン チェ スタ ー司 教区 に残 って いる 荘園 の会 計簿 は︑ 作物 の収 穫に つい て記 録さ れて いる ばか りで なく
︑天 候が 作物 に決 定的 に重 要で ある との 認識 から
︑天 候の 様子
︵乾 燥︑ 湿潤
︑晴 雨︑ 洪水
︶が 克明 に記 録さ れて おり
︑天 候の 悪化 と収 穫の 低下 との 密接 な関 係が 細や かな 数値 で確 認さ れて いる
⑾
︒一 二〇 九年 の収 穫率 は
︑小 麦 一粒 の 播 種 量に 対 し て五
〜六 粒 の 割合 であ った のに
︑一 三〇
〇年 には わず か二 粒の 割合 にま で落 ち込 んだ
⑿
︒こ うし た経 済 的 低迷 に よ り︑ 記 録と し て 多く の 都 市で 人口 の減 少が 認め られ る︒ 主に その 深刻 さの ため に︑ 表3
﹁ト レチ ェン トの 危機 とそ の後 の都 市の 人口 回復 率﹂ を見 ると
︑イ タリ アの 一五 世紀
︵ク ァッ トロ チェ ント
︶に なっ ても
︑ヴ ェネ ツィ ア︑ ナポ リを 除い て︑ ほと んど の都 市で トレ チェ ント 前の 人口 を回 復で きな かっ たこ とが わか る⒀
︒ そ うし たな か︑ ひと つの 新た な政 治的 傾向 が現 われ た︒ 大き い都 市が 小さ い都 市を 食う こと で経 済的 低迷 を凌 ごう とし てき
表3 トレチェントの危機とその後の都 市の人口回復率
━━1300年と1450年の比較━━
比 100 70 125 21 60 40 50 85 160 80 De Bernardi, S. Guarracino, 116.
1450年 50000 85000 100000 8000 12000 40000 15000 30000 80000 40000 1300年
50000 120000 80000 38000 20000 100000 30000 35000 50000 50000 都市
ジェノヴァ ミラノ ヴェネツィア ピサ ルッカ フィレンツェ シエナ ローマ ナポリ パレルモ
― 191 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
たの であ る︒ ここ で従 来の
﹁教 皇派
︵ゲ ル フ 党︶
﹂ 対﹁ 皇帝 派
︵ギ ベ リン 党
﹂と い う対 立 の 中 身は 実 質 的変 化 を みせ るよ うに なる
︒一 三世 紀に おい ては
︑確 かに それ は実 質 的 な 意味 を も ち︑
︽神 聖 ロ ーマ 皇 帝 フ リー ド リ ヒ二 世 と その 息子
︾を 支持 する 陣営 と︑
︽ ロー マ教 皇︾ を支 持す る 陣 営と の 抗 争は 激 し い火 花 を 散 らし た
︒そ の 戦い は
︑イ タ リア の多 くの コム ーネ を二 分し
︑さ らに は︑ 時に はひ とつ のコ ムー ネの なか の政 治勢 力を も二 分す るも ので あっ た︒ しか し一 三世 紀後 半の 皇帝 フリ ード リヒ 二世 の死 やそ の子 孫の 敗北 によ る権 力の 低下 に加 え︑ トレ チェ ント
︑特 にそ の後 半に 露骨 にな る大 都市 の拡 大政 策に よっ てそ の抗 争は 意味 を変 えて いっ たの であ る︒ す なわ ち︑ トレ チェ ント にな って から
︑コ ムー ネは
︑自 己の 勢力 の強 化や 保持 に都 合の よい 連携 や同 盟を 重視 する 傾向 を示 した
││ つま り︑ 弱小 であ れば
︑弱 小同 士が 組ん で強 大な 都市 を牽 制し よう とし た︒ この こと を︑ トス カー ナ地 方を 例に して 見て みよ う︒ 大規 模な コム ーネ であ る教 皇派 のフ ィレ ンツ ェは
︑経 済的 混迷 のな か︑ 周辺 の都 市を 征服 しよ うと 動き 出し た︒ それ に対 して
︑東 西 南 北 から 取 り 囲む
︑中 規 模 のコ ム ー ネ のピ ス ト イア
︵北
︶︑ ア レ ッツ ォ︵ 東︶
︑ ピサ
︵西
︶︑ シエ ナ︵ 南︶ は︑ そろ って 連携 して
﹁皇 帝派
﹂と して フィ レン ツェ と対 抗し た︒ それ らの コム ーネ が﹁ 皇帝 派﹂ であ った 理由 は︑ 敵対 すべ きフ ィレ ンツ ェが
﹁教 皇派
﹂で あっ たか らで ある
︒仮 にフ ィレ ンツ ェが
﹁ 皇帝 派﹂ であ った なら
︑反 対に
﹁教 皇派
﹂に 与し て︑ フ ィ レン ツ ェ に対 決 し︑ み ずか ら の 独 立を 守 ろ うと し た こと だろ う︒ 過去 の大 義や 名目 より もみ ずか らの 身を 守る とい う実 質が 大切 であ った のだ
︒ し かし
︑熾 烈な 戦い のな かで 大都 市が 弱小 の 都 市 を食 っ て︑ 大 規模 な コ ムー ネ に よ る︑ やや 広 域 な支 配
︵﹁ 領 域支 配﹂
︶ が次 第に 確立 され てい った
︒そ し て︑ 一 五世 紀 の﹁ ル ネサ ン ス 文化
﹂こ そ は﹁ 領 域 支配
﹂の 土 壌 に花 咲 い た文 化の 要素 が強 い︒ こう して 周辺 の中 小の コム ーネ は大 きな 規模 の都 市コ ムー ネに よる 経済 的搾 取に 苦し むこ とと なっ
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 192 ―
たの であ る│
│こ こで 例と して フィ レン ツェ の東 方に 位置 する アレ ッツ ォに つい て見 てみ よう
︒ ア レッ ツォ は︑ 一三 八四 年に 傭兵 隊長 によ り攻 め 落 と され て
︑同 年 すぐ に フ ィレ ン ツ ェ に売 却 さ れた
︵﹁ 都 市 が売 却さ れた
﹂と いう のも おか しな 話で ある が︑ 傭兵 隊 長 の 圧倒 的 な 軍事 力 は それ を 可 能 とし た の であ る
︶︒ こ の後
︑フ ィレ ンツ ェの 支配 に下 って から
︑年 ごと に進 むア レッ ツォ の経 済的 凋落 は明 らか であ る︒ アレ ッツ ォ史 とフ ィレ ンツ ェ史 の研 究者 が示 した 次の 数値 から わか るよ うに
︑ア レッ ツォ の没 落は
︑ア レッ ツォ の富 裕層 がご っそ りフ ィレ ンツ ェに 引き 抜か れて フィ レン ツェ へ移 住を 余儀 な く さ れた こ と から 始 ま る︒ その 結 果︑ 当 然 なが ら
︑﹁ ア レッ ツ ォ 市民 の平 均収 入﹂ もま た半 減す る︒ 同様 に﹁ アレ ッツ ォの 総収 入﹂ も半 減し てい る︒ ここ での 数値 から
︑支 配に 降っ たア レッ ツォ が急 激に 貧困 化の 道を たど って いた こと がは っき り読 み取 れる
⒁
︒ ア レ ッ ツ ォ の 人 口 の 下 落 一 三 九
〇 年 約 七
〇
〇
〇 人 一 四 二 七 年
四 一 二 三 人 ア レ ッ ツ ォ の 平 均 収 入 の 下 落 一 四 二 三 年 四 五 五 フ ィ オ リ ー ノ 一 四 四 三 年 二 五
〇 フ ィ オ リ ー ノ 一 四 八
〇 年 二
〇
〇 フ ィ オ リ ー ノ
― 193 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
ア レ ッ ツ ォ の 総 収 入 の 下 落 一 四 二 三 年 五 二 万 九
〇
〇
〇 フ ィ オ リ ー ノ 一 四 四 三 年 三 七 万 一 五
〇
〇 フ ィ オ リ ー ノ 一 四 九
〇 年 二 一 万 九 二
〇
〇 フ ィ オ リ ー ノ ア レッ ツォ と同 じ道 を歩 んだ のが ピサ であ った
︒表 3﹁ トレ チェ ント の危 機と その 後の 都市 の人 口回 復率
﹂に 示さ れて いる よう に︑ ピサ は一 三〇
〇年 の時 の人 口︵ 三万 八〇
〇〇 人︶ の何 と二
〇パ ーセ ント
︵八
〇〇
〇人
︶に まで 落ち 込ん だの であ る︒ これ も主 にフ ィレ ンツ ェの 領域 支配 に屈 した こと によ るも ので ある
︒ ト レチ ェン トの 時代 は︑ 戦争 によ って 大き なコ ムー ネが
﹁領 域支 配﹂ の拡 大を 推進 して いっ た時 期で あっ た︒ この 頻 発す る 戦 争 を背 景 に︑ 兵 器に つ い ても 大 き な 変化 が 認 めら れ た︒ 一 四 世紀 初 め から
︑殺 傷 力 の強 い 大 砲 が 登 場 し た︒ それ がど の程 度イ タリ アで 活用 され たか はわ から ない が︑ 戦争 はい っそ う熾 烈な もの へ進 むこ とと なっ たの であ る︒ しか も︑ 戦争 に従 軍す る者 は︑ 多く の場 合︑ 愛国 心ゆ えに 命を かけ る市 民で はな く︑ ただ お金 目的 のた めに 戦う 傭兵
︵傭 兵隊 長︶ であ った から
︑彼 らへ の給 与の 支払 いは 大変 であ った
︵国 庫に おけ る傭 兵へ の支 出の 割合 につ いて モ ルホ の 研 究 があ る⒂
︶︒ コ ムー ネ は︑ 防 衛や 攻 撃 の 必要 な 時︑ そ の都 度
︑彼 ら との 間 で 契 約を 一 定 期間
︵た と え ば 一年 間︶ 交わ した が︑ その 編成 は︑ たと えば 一〇
〇〇 人か ら数 千人 の規 模の 集団 であ った ので
︑彼 らを 一定 期間
︑た とえ ば一 年間 の契 約で 食べ させ
︑戦 に向 けて それ なり の準 備を させ て︑ 命が けの
︵?
︶戦 争を させ ると なる と︑ 破格 の費 用が かか った のは 当然 であ る︒ 手当 てを けち れば
︑敵 に陥 落さ れて しま うか もし れな かっ た︒ 一四 世紀 末か ら一 五世 紀初 頭︑ フィ レン ツェ はミ ラノ との 相次 ぐ戦 争で 戦費 の調 達に 苦し み︑ 公債 や強 制公 債を それ に充 てる が︑ なお
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 194 ―
不足 し税 制そ のも のの 大改 革を 迫ら れる こと とな った
││ この 新し い租 税調 査・ 税制 度が
﹃カ タス ト﹄
︵ 一四 二七 年︶ と呼 ばれ るも ので
︑こ れに よっ て財 産と 人口 の詳 しい 調査 が実 施・ 記録 され
︑当 時の フィ レン ツェ 領の 財産 のあ り方 や家 族状 態を 知る こと がで きる
︒ 兵 士の 主力 は︑ イタ リア 人も いた が︑ ふつ う主 にイ タリ ア出 身以 外の 者か ら構 成さ れた
︵ド イツ
︑ボ ヘミ ア︑ イン グ ラン ド
︑ハ ン ガ リー
︑ス イ ス︑ コ ルシ カ
︑カ タ ルー ニ ャ 等 々⒃
︶︒ も と も と傭 兵 は 祖国 の た め でな く
︑生 き る た め に職 業と して 働い たの で︑ それ で命 を落 とす よう な戦 争は 避け た︒ 傭兵 隊長 は︑ 事前 に敵 の傭 兵隊 長と 通じ て戦 争を 操作 した り︑ 契約 違反 や寝 返り も珍 しく なか った
︒そ れで 雇用 主で ある 都市 に逮 捕さ れ首 をは ねら れた 者も いた
︒し かし
︑時 に︑ 強大 な武 力を もつ 傭兵 隊長 のな かに は︑ みず から の意 思で コム ーネ を征 服し たり
︑先 のア レッ ツォ のよ うに 征服 した コム ーネ を他 のコ ムー に売 る者 もあ った
︒お 金に 困る と︑ コム ーネ
︵シ エナ など
︶を 恐喝 して お金 を持 ち帰 る傭 兵隊 長も 多か った
⒄
︒ま た︑ 支配 した 都市 で居 座っ てそ のま ま君 主と なる こと もあ った
︒ 今 も︑ ヴェ ネツ ィア やベ ルガ モや フィ レン ツェ など には
︑傭 兵隊 長の 栄光 を称 えた 記念 物│
│騎 馬像 や礼 拝堂 や墓
││ が残 って いる が︑ 当時 にお いて
︑そ れが どこ まで 真意
││ つま り本 当の 賞賛
││ によ るも のか 疑問 であ る︒ たと え真 意に よる 賞賛 であ って も︑ あく まで 軍事 力が もの をい う現 実を 前提 にし たも ので
︑必 要悪 とし て傭 兵隊 長の 存在 を認 識し てい たで あろ う︒ 傭兵 隊長 の記 念碑 は︑ 良か れ悪 しか れ︑ この 時代 にお ける 傭兵 隊長 の存 在の 大き さを 伝え る記 念碑 であ る︒ トレ チェ ント にお いて は︑ 兵器 があ れば
︑そ れを もっ てあ らゆ る不 合理 が押 し通 され た︒ 傭兵 隊長 とそ の手 下ど もは
︑苦 難と 混乱 ゆえ に正 義が 通ら ない トレ チェ ント の社 会を いい こと にし た︒ 傭兵 隊は
︑不 合理 な社 会に 巣く う悪 の企 業体 であ り︑ どこ か日 本の やく ざに 似て いる
︒傭 兵の 横暴 は︑ まさ にト レチ ェン トの 苦難 の象 徴の
― 195 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
ひと つで ある
︒ こ うし たな かで
︑下 層の 都市 民の なか には
︑戦 費・ 傭兵 への 支払 い等 によ って 高額 化す る税 金が 払え ず︑ それ が罪 と し て コ ム ー ネ に よ っ て 投 獄 さ れ る 者 も 出 た︵ 一 三 九 六 年 の フ ィ レ ン ツ ェ の 靴 修 理 業 者 ニ ッ コ ロ・ デ ィ・ サ ル ヴ ィ⒅
︶︒ また
︑次 の よ う にプ リ オ ーレ
︵最 高 行 政官
︶に 対 し て︑ 困 窮に あ え ぐ人 び と がい る こ と を深 刻 に 訴え る 者 も いた
││ 強 制 公 債 や 臨 時 徴 収 と い っ た フ ィ レ ン ツ ェ の 貧 民 が 支 払 わ ね ば な ら な い 諸 税 に つ い て 対 策 を 講 じ る べ き で す
︒ そ れ ら の 強 制 公 債 や 臨 時 徴 収 が 低 減 さ れ な け れ ば
︑ 反 乱 が 起 こ る で し ょ う
︒ と い う の は
︑ こ こ に は 大 変 な 窮 乏 が あ る か ら で す
︒ 市 民 は ほ と ん ど 稼 ぎ が な く
︑ 物 価 が 一 三 か 月 以 上 も 急 騰 し て い る の で
︑ 窮 乏 の な か で 暮 ら し て い ま す
︒ 三 人 か 四 人
︑ も し く は 五 人 の 子 ど も た ち を 抱 え
︑ 二
〜 三 フ ィ オ リ ー ノ
﹇ 税 金
﹈ を 課 さ れ
︑ 労 働 で 生 き て い か ね ば な ら な い 者 の こ と を 考 え て く だ さ い
⒆
︒ ま た︑ 傭兵 の利 用は 別の 深刻 な弊 害を もた らし た︒ 彼ら は持 って いる 武器 をい いこ とに
︑お 金に 困る と︑ 都市 の内 外 で勝 手 に 略 奪行 為 に 走っ た の であ る
︒こ れ は トレ チ ェ ント の 時 代 に限 ら ず︑ 常 に傭 兵 に 付着 す る 本 質的 要 素 と し て︑ ずっ と後 まで 続く こと にな る︒ 小説 では ある が︑ 現実 の出 来事 を示 唆し たも のと 思わ れる もの とし て︑ 一七 世紀 のペ スト の時 代を 扱っ たマ ンゾ ーニ の﹃ いい なづ け﹄ の記 述が ある
︒す なわ ち︑ ドイ ツ人 の傭 兵が やっ てく ると いう の で︑ 村人 は 逃 げ る前 に
︑自 分 たち の お 金を 傭 兵 か ら守 ろ う とし て
︑庭 の 無 花果 の 木 のそ ば に 穴を 掘 っ て お 金 を 隠 す︒ しか し傭 兵に 見事 に発 見さ れ︑ 穴は 掘り 起こ され お金 は奪 い取 られ てし まっ たの であ る⒇
︒ ト レチ ェン トの 時代 では
︑主 に﹁ 都市 コム ーネ
﹂と
﹁都 市コ ムー ネ﹂ とが お互 いに 争っ たが
︑都 市コ ムー ネ内 部で
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 196 ―
も 争い が 絶 え なか っ た︒ そ のひ と つ に
︑﹁ 階 層
﹂と
﹁階 層
﹂の 争 い が あ っ た
︒そ の ひ と つ と し て﹁ 市 民﹂ と﹁ 豪 族﹂ の争 いが あっ た︒ イタ リア の北 部
・中 部 の 場合
︑ふ つ う 商業 に 従 事す る 人 び と︑ つま り
﹁大 商 人﹂
︵長 距 離 貿易
︶に よ って 都 市 は その 圧 倒 的な 富 を 獲得 し て い た︒ 彼ら は 同 時に 羊 毛 を 輸入 し て それ を 加 工す る 毛 織 物産 業
︑絹 織 物 産 業︑ 両替
・銀 行業 にも 従事 して いた
︒実 はそ のど れも がす べて 密接 に関 係す る業 務で あっ た︒ こう して
︑大 商人
・織 物産 業家
・銀 行家 は一 体の 場合 が多 かっ た︒ 都市 では 商人 を中 心と する 市民 は政 治と 経済 の中 心勢 力で あっ た︒ こ う し た 商 人 の 優 位 の な か︑ フ ィ レ ン ツ ェ な ど で は
︑都 市 の 政 治 は
﹁市 民
﹂︵
﹁ 平 民
﹂︑
﹁ ポ ー ポ ロ
﹂︶ が 加 入 す る
﹁ アル テ﹂
︵﹁ 組 合﹂
︑ギ ルド
︶に よっ てお こな われ るべ きと の規 定が なさ れて いた
︒そ こで は︑ ふつ う﹁ アル テ﹂ は都 市の 最富 裕層 の市 民が 属す る﹁ 大ア ルテ
﹂と それ に次 ぐ富 裕層 の市 民の 属す る﹁ 中ア ルテ
﹂が 政治 権力 を完 全に 掌握 して いた
︵下 層市 民の
﹁小 アル テ﹂ や︑ アル テに 加 入 す らで き な い労 働 者・ 貧 民は 政 治 か ら排 除 さ れた
︶︒ こ う して 大市 民︵
﹁ ポー ポロ
・グ ラッ ソ﹂
︶が 主体 の政 治体 制に よっ て︑ もと もと その 地域 で特 権的 地位 にあ った 封建 領主
││ 豪族
﹇マ ニャ ーテ
﹈│
│を 政治 から 排除 しよ うと した ので ある
︒ こ うし て﹁ 市民
﹂対
﹁豪 族﹂ とい う対 立の 構図 が都 市内 でう まれ た︒ 豪族 は︑ 多く は︑ 封建 領主 とし て旧 来の 中世 の騎 士階 級の 末裔 であ り︑ 都市 に入 り込 んで は︑ しば しば 武器 を用 いて 武力 を行 使し た︒ 時に は彼 らは
﹁塔 仲間
﹂を 結成 し︑ 都市 に高 い塔 を築 いた
︒古 くは 身を 守る ため にそ こに 立て 籠も った り︑ そこ から 投石 して 攻撃 した
︒豪 族の 塔は
︑そ の反 社会 性か ら多 くが 取り 壊れ たが
︑サ ン・ ジミ ニャ ーノ など には 現在 も残 って いて
︑中 世都 市の シン ボル とし てそ びえ てい る︒ また
︑豪 族と その 家来 ども の横 暴ぶ り と 犯 罪性 を 示 す公 文 書 の記 録 が ト レチ ェ ン トの 時 代 や︑ さら にそ れ以 後の 時代 にお いて さえ 数多 く残 って いる
︒例 とし て︑ ここ でフ ィ レ ンツ ェ の 豪 族の 四 つ の事 例 を 挙げ
― 197 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
る
︽ ︒ フ ィ レ ン ツ ェ 市 の 多 く の 男 女 を 傷 つ け
︑ そ の 場 に 居 合 わ せ た 人 が 抑 え な か っ た ら
︑ き っ と 人 を 殺 し て い た は ず の
︑ 平 和 に 暮 ら す こ と を 望 む フ ィ レ ン ツ ェ 市 の ポ ー ポ ロ や ア ル テ の 組 合 員 を 無 視 す る ノ フ リ
・ デ ー リ
・ ス ト ロ ッ ツ ィ
︒︵ 一 三 八 一 年
︶︾
︽ 人 妻 を 強 姦 し よ う と し 失 敗 し た 後 に
︑ 次 に そ の 夫 に 繰 り 返 し 槍 を 投 げ て 殺 そ う と し た バ ル ト ロ メ ー オ
・ デ ィ
・ リ ナ ル ド
・ ド ナ ー テ ィ
・ ダ
・ フ ィ レ ン ツ ェ
︵ 一 三 八 一 年
︶︾
︽ ジ ョ ヴ ァ ン ニ の 娘 を 妻 に し た が
︑ そ の 妻 を 虐 待 し た う え に
︑ さ ら に 妻 を 殺 そ う と し た と こ ろ
︑ 義 父 ジ ョ ヴ ァ ン ニ が 正 式 の 手 続 き を 得 て 自 分 の 家 に 連 れ 戻 し た の に 恨 み を 抱 い て 義 父 を 殺 害 し
︑ さ ら に
︑ 六
〇 人 以 上 の 武 装 集 団 で
︑ 残 さ れ た 家 族 を 威 嚇 し
︑ そ の 家 族 が 耕 作 で き な い よ う に し て い る 一 人 の 人 物 ド ゥ ッ チ ョ
・ デ ィ
・ ア ゴ ス テ ィ ー ノ
・ ド ゥ ッ チ ョ
・ デ
・ ベ ネ ー リ
︵ 一 三 七 七 年
︶︾
︽ 仲 間 と と も に
︑ 民 家 に 押 し 入 り
︑ そ こ に 住 む 妻 の 首 を 剣 で 切 り 落 と し
︑ さ ら に
︑ そ の 一 五 歳 の 娘 を 強 姦 し
︑ 衣 類 を 盗 み
︑ 娘 を 連 れ 去 っ た カ ル ロ
・ デ ィ
・ ル イ ー ジ
・ ロ ベ ル ト
・ ア デ ィ マ ー リ
︵ 一 四
〇 四 年
︶︾ し か し︑ ト ス カー ナ 地 方の コ ム ーネ に お い て︑
﹁市 民
﹂︑ す なわ ち
﹁大 商 人﹂ の政 治 的 優 位 は 揺 ら ぐ こ と は な か っ た︒ むし ろ豪 族の なか にも
︑早 くか らみ ずか ら商 業に 転向 して 富を 得る 者が 多く 出て いた
︒有 名な アル ベル ティ 家や スト ロツ ィ家 など の都 市貴 族は
︑そ うし た転 向を 果た した 家で ある
︵一 方︑ 地域 によ って は︑ 豪族 が独 裁的 君主
││
﹁ シニ ョー レ﹂
││ とし て﹁ 市民
﹂を 支配 した とこ ろも あっ た︶
︒ ま た︑ 豪族 と大 商人 とは 都市 のな かで 争っ たが
︑豪 族も 大商 人も それ ぞれ が所 属す る同 じ階 層の なか でも 他の 家と 争っ た︒ シェ イク スピ アの
﹃ロ ミオ とジ ュリ エ ッ ト﹄
︵ 一五 九 五 年頃
︶は
︑ヴ ェ ロ ーナ の 有 力 家族 の 争 いに よ っ て悲
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
― 198 ―
劇的 な最 期を 遂げ る若 い男 女の 架空 の話 であ る︒ シェ イク スピ アは
︑こ の戯 曲の
﹁プ ロロ ーグ
﹂で この 話の こと をこ う紹 介し てい る│
│﹁ いず れ劣 らぬ 名門 の兩 家を めぐ り︑ 古き 遺恨 は新 しき 不和 を招 き︑ 血で 血を 洗ふ 忌ま わし き物 語﹂ であ ると
︒こ の﹁ 血で 血を 洗ふ 忌ま わし き物 語﹂ は︑ この 時代 の イ タリ ア の 都 市内 の
﹁家
﹂同 士 の抗 争 を 見事 に象 徴化 して いる
︒ ふ つう 都市 空間 は狭 かっ た︒ これ が特 殊な 心理 の支 配す る世 界を つく った
︒ 我 々 日 本 にい る 者 がそ の 広 さを イ メ ー ジす る た めに 京 都 市の 中 央 に 位置 す る 京都 御 苑 を基 準 に 考 える と い いだ ろ う︒ 京都 御苑 は︑ 南北 は丸 太町 通り と今 出川 通り
︵約 一・ 三キ ロメ ート ル︶ の間 に︑ 東西 は寺 町通 りと 烏丸 通り
︵約 七〇
〇メ ート ル︶ の間 に囲 まれ た空 間で
︑約 六三 ヘク ター ルの 広さ の都 市公 園で ある
︒東 京の 皇居 の場 合は
︑そ の広 さ は︑ 京都 御 苑 の 約二 倍 の 一一 五 ヘ クタ ー ル で ある
︒ト ス カ ーナ 地 方 で 比べ る と︑ 一 二世 紀 の フィ レ ン ツ ェ の 広 さ は︑ 京都 御苑 より やや 大き い約 八〇 ヘク ター ル︵ その 後 一 四 世紀 に 六 二〇 ヘ ク ター ル に ま で拡 大
︶︒ ト スカ ー ナ 地方 の強 国シ エナ
︵や や変 形し たか たち
︶は
︑東 西一
・三 キロ
︑南 北一
・八 キロ 程度
︵一 一八
・七 ヘク ター ル︶ で︑ 京都 御苑 の一
・八 倍で あり
︑皇 居と ほぼ 同じ 広さ であ る︒ 市壁 が現 在そ のま ま見 事に 残っ てい るル ッカ は︑ 南北 九〇
〇メ ー トル
・東 西 一 キ ロ半
︵一 八 五・ 五 ヘク タ ー ル︒ 一五 世 紀 に はこ れ よ りま だ 狭 か っ た
︶で あ り
︑京 都 御 苑 の 三 倍 程 度︒ 多く の中 世・ ルネ サン ス都 市が
︑端 から 端ま で歩 いて もせ いぜ い二
〇分 程度 であ った だろ う
︒ こ のよ うに
︑ふ つう 都市 には
︑多 くて 一万 人か らせ いぜ い数 万程 度の 市民 が︑ 数十 ヘク ター ルか ら百 数十 ヘク ター ル程 度の
︑市 壁に 閉ざ され た狭 い空 間に 住ん でい た︒ そう した 環境 では
︑共 同体 意識 が高 まる とと もに
︑共 同体 での 個人 や家 の名 誉や 名声 が刺 激さ れ︑ 覇権 争い
︑勢 力争 いが 起き やす くな るも ので ある
︒こ れは トレ チェ ント に限 らず
― 199 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
次世 紀に も続 く︒ そ して この 狭い 空間 にあ って は
︑婚 姻 な どで 結 ば れた 同 じ 親族 か ら 形 成さ れ た﹁ 家﹂
︵ 一族
︶は 立 派 な﹁ 党派
﹂を 構成 した ので ある
︒彼 らに とっ て︑ いか に自 己の
﹁家
﹂の 権勢 と名 誉を 守る かが 最大 の関 心で あっ た︒ こう した なか にお いて
︑子 孫の ため に書 き残 した 記録
︵商 売の 心得
・教 訓︑ 先祖 の生 没の 記録
︶や
︑広 く読 者を 想定 した 家族 のあ り方 を示 唆し た著 書は
︑こ の時 代の 市民 の価 値観 を知 る格 好の 研究 史料 とな って いる
︒レ オン
・バ ッテ ィス タ・ アル ベル ティ
︵一 四〇 四〜 七二
︶の
﹃家 族論
﹄や ジョ ヴァ ンニ
・モ レッ リ︵ 一三 七一
〜一 四四 四︶ の﹃ リコ ルデ ィ﹄ など が そう し た 例 であ る
︒な お︑
﹃ リコ ル デ ィ﹄ につ い て 断 って お く と︑ 家族
・一 族 の 発展 を 目 指 すと い う 関心 だ け で な く︑ もっ と 広 く︑ 公 的な も の︵ 年 代記 の 要 素も あ る
︶へ の 関心 か ら も書 か れ て い る︒ し た が っ て︑
︽ リ コ ル デ ィ︾ とは
︑そ の本 来の 意味 にお いて
︑﹁ メ モ﹂ の意 味の
﹁覚 書き
︵備 忘録
︶﹂ でも なく
︑ま た︑ 過去 を振 り返 って 記す
﹁回 想 録﹂ で も な く
︑正 確 に は 単 に
﹁書 き 物
﹂﹁ 書 き 記 す も の
﹂程 度 の 意 味 で あ り︵ そ れ ゆ え 以 下︽ リ コ ル デ ィ
︾と 呼 ぶ︶
︑ 主に 教育 を受 けた 市民
︵商 人︶ がペ ンを 執っ て物 を書 く こ とが 当 た り前 と な る中 世 末 期 から 近 世 のイ タ リ アの なか で︑ 重要 な文 学的 ジャ ンル を形 成す るこ とに なっ たも ので ある
︒ こ うし たな かで 有力 家族 は︑ 自分 の家 の名 誉が 傷つ けら れる と︑ 復讐 や私 闘も 辞さ なか った
︒た とえ ば︑ 一家 の若 い女 性が 性的 暴行 を受 けた 場合
︑そ の女 性の 人権 から とい うよ りも
︑家 長や 一家 の名 誉が 傷つ けら れた とい う理 由か ら熾 烈な 復讐 の応 酬が 始ま った ので ある
︒都 市に お い て︑
﹁ 復讐
﹂は こ の 時代 の 重 要な 価 値 観 であ る キ リス ト 教 的要 素の
﹁平 和﹂ と対 極を なす もの で︑ 托鉢 修道 会の 説教 師が
﹁平 和﹂ を説 く説 教で いつ も批 判し たも ので ある
︒ ト レチ ェン トに おい ては
︑都 市内 の勢 力拡 大の ため に︑ 陰謀 や裏 切り
︑復 讐や クー デタ ーの 試み がな され
︑血 なま
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
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ぐさ い争 いが 絶え なか った
︒こ の政 治的 体質 は︑ 次の 世紀
︑す なわ ち一 五世 紀│
│﹁ クァ ット ロチ ェン ト﹂
││ にも 引き 継が れる
︵一 種の クー デタ ーの 試み とし てメ ディ チ家 の当 主ロ レン ツォ
・デ
・メ ディ チを 暗殺 しよ うと した
﹁パ ッツ ィ家 の陰 謀﹂
︵ 一四 七八 年︶ が有 名 で ある
︶︒ 一 五 世紀 に 書 かれ た ル ーカ
・ラ ン ド ゥ ッチ の
﹃日 記﹄
︵ 一四 五
〇〜 一五 一六
︶を 通読 する と︑ フィ レン ツェ で政 争・ 陰謀 が日 常的 であ った こと が痛 感さ れる
︒次 はそ の日 記の 一節 であ
かど
る︵ 一四 九七 年︶
︒ ラン ドゥ ッチ は︑ 政府 に対 する 陰謀 を画 策 し たと い う 廉で 一 四 七八 年 八 月 一七 日 に 処刑 が お こな われ たこ とを 記し てい る︒ 八 月 一 七 日 パ ラ ッ ツ ォ で プ ラ テ ィ カ
﹇シ ニ ョ リ ー ア と そ れ が 選 出 し た 市 民 が 参 加 す る 執 政 諮 問 会 議
﹈ の 法 廷 が 開 か れ て
︑ 朝 か ら 深 夜 ま で 審 議 が 続 い た
︒ そ こ に は 一 八
〇 人 以 上 が 出 席 し た
︒ そ し て 罪 人 は 口 頭 で 死 刑 判 決 を 受 け
︑ そ の 財 産 は 法 に も と づ い て 没 収 さ れ る こ と と な っ た
︒ そ の よ う に 判 決 が 下 さ れ た の は
︑ 以 下 の 五 人 で あ っ た
︒ す な わ ち
︑ 最 初 に ベ ル ナ ル ド
・ デ ル
・ ネ ー ロ
︑ そ れ か ら ニ ッ コ ロ
・ リ ド ル フ ィ
︑ ジ ョ ヴ ァ ン ニ
・ カ ン ビ
︑ ジ ャ ノ ッ ツ ォ
・ プ ッ チ
︑ そ し て ロ レ ン ツ ォ
・ ト ル ナ ブ オ ー ニ で あ る
︒ 五 人 に 対 し て フ ィ レ ン ツ ェ 中 の 市 民 が 悲 し ん だ
︒ そ の よ う な こ と を す る こ と に 誰 も が 皆 驚 い た
︒ と て も 信 じ ら れ な い こ と だ っ た
︒ 五 人 は 同 じ 夜 に 死 刑 を 執 行 さ れ た
︒ あ の 若 い ロ レ ン ツ ォ
・ ト ル ナ ブ オ ー ニ が 柩 に 入 れ ら れ て ト ル ナ ク ィ ン チ の 角 を 通 過 す る の を 見 た 時 は
︑ 私 は ど う し て も 涙 を 抑 え る こ と は で き な か っ た
︒ そ れ は 夜 明 け の 少 し 前 の こ と で あ っ た
︒ フ ィレ ンツ ェの サン タ・ マリ ア・ ノヴ ェッ ラ聖 堂で トレ チェ ント に書 かれ た﹃ 死者 台帳
﹄の 記録 をみ ると
︑政 争に 敗れ
︑処 刑さ れた 有力 な家 の人 たち の名 前が 列記 され てい る︒ たと えば
︑﹁ 一 月一 四日
﹂︵ 一三 六九 年︶ の死 者の 記載 の欄 には
︑政 変に 失敗 して 処刑 され た者 が七 人も 続け て記 載さ れて いる
︒処 刑は
﹁見 せし め﹂ のね らい から 公開 され
― 201 ― 一
四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
たの で町 中の 多く の人 たち の前 で執 行さ れた
︒都 市の ちょ っと した イヴ ェン トと して
︑市 民に 興奮 をも たら した
︒ 一 月 一 四 日
︵ 一 三 六 九 年
︶ ル ド ヴ ィ ー コ
・ デ イ
・ チ ッ チ ョ ー ニ 殿 サ ン
・ ミ ニ ア ー ト
・ ト ラ
・ レ
・ ト ッ リ 教 区 民 ロ ド ル フ ォ
・ チ ッ チ ョ ー ニ 殿 の 息 子 ビ ア ー ジ ョ サ ン
・ ミ ニ ア ー ト
・ ト ラ
・ レ
・ ト ッ リ 教 区 民 ラ ッ ザ リ ー ノ
・ ボ ッ ロ メ イ 殿 の 息 子 セ ル
・ フ ィ リ ッ ポ サ ン
・ ミ ニ ア ー ト
・ ト ラ
・ レ
・ ト ッ リ 教 区 民 ナ ル ド
・ デ ィ
・ マ ル チ ニ ャ ー ナ サ ン
・ ミ ニ ア ー ト
・ デ ル
・ テ デ ス コ 教 区 民 ア ン ト ー ニ オ
・ デ ィ
・ フ ィ リ ッ ポ
・ マ ガ ニ ー ニ
︑ セ ル
・ ニ ッ コ ロ
︑ セ ル
・ サ ル ヴ ィ
・ ジ ョ ヴ ァ ン ニ
・ グ イ ド ゥ ッ チ ー ニ
︑ 以 上 サ ン
・ ミ ニ ア ー ト
・ デ ル
・ テ デ ス コ 教 区 民 以 上
︑ 処 刑 に よ る 一 族と 一族 の争 いは
︑単 に家 と家 の争 いに 留ま らず に︑ 場合 によ って は︑ その 背後 に︑ 教皇 派︵ ゲル フ党
︶と 皇帝 派︵ ギベ リン 党︶ との 争い が絡 んで いる こと もあ った
︒だ から
︑た とえ ば︑ もし 教皇 派の 一族 が︑ 都市 内の 政争 で負 けた 場合
︑都 市政 府を 牛耳 る皇 帝派 の一 族に よっ て︑ 正式 の法 的措 置を もっ て︑ 教皇 派の 者に 対し て死 刑や 国外 追放 の刑 が宣 告さ れる こと があ った
︒た とえ ば︑ メデ ィチ 家︑ アル ベル ティ 家な ど多 数の 家が この 宣告 によ る苦 難を 被っ た︵ だが
︑一 度挽 回し た暁 には
︑今 度は 逆に 敵対 する 一族 に対 して 苦難 の宣 告を 申し 渡し たの であ る︶
︒ ダ ンテ は︑ フィ レン ツェ の政 争に 敗れ て︵ 一三
〇 二 年︶
︑ 不本 意 に も亡 命 先 のラ ヴ ェ ン ナで 客 死 した し
︵一 三 二一 年︶
︑ 詩人
・人 文主 義者 ペト ラル カ︵ 一三
〇四
〜七 四︶ も ア ルベ ル テ ィも
︑と も に 父親 が フ ィ レン ツ ェ の政 争 に 敗れ た結 果︑ 逃亡 先︵ それ ぞれ アレ ッツ ォ︑ ジェ ノヴ ァ︶ で生 まれ たの であ る︒ もし 皇帝 派の 者が 国外 追放 にな れば
︑逃
一 四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト
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げる 先は 皇帝 派の コム ーネ であ り︑ そこ で迎 え入 れら れ︑ 故国 の政 争を 見守 り︑ 故国 の皇 帝派 の勢 力の 巻き 返し を願 った
︒そ して
︑も し仲 間の 勢力 の巻 き返 しが 果た せた 場合
︑堂 々と 故国 に帰 還す るこ とが でき たの であ る︒ こ のよ うな 都市 の上 層部 の間 で権 力を め ぐ っ て争 わ れ た闘 い の ほか に
︑﹁ 上 層 富裕 市 民﹂ と﹁ 下 層民
﹂の 争 い があ った
︒﹁ ソ ット ポス ティ
﹂︵
﹁ 下に 置か れた もの
﹂の 意︶
︑す なわ ち﹁ 下層 民﹂ は︑ 都市 によ って 異な るが
︑半 数か それ 以上 存在 した
︒特 に一 三四 八年 のペ スト のた めに フィ レン ツェ の人 口が 激減 し︑ 生き 残っ た者 の相 対的 地位 が高 まる なか
︑大 多数 を占 める 下層 民の 動向 は︑ 政治 に対 して 重大 な影 響を 及ぼ した
︒ 一 三七 八年 七月
︑市 政へ の不 満か ら広 場に 集ま って 暴動 を起 こし た多 数の
﹁チ ョン ピ﹂
︵ 毛織 物産 業の 下層 労働 者︶ は︑ 暴徒 とな って 有力 な富 裕市 民の 家を 次々 と焼 き打 ちし
︑市 庁舎 にま で火 を放 った
︒暴 動に 加わ った チョ ンピ の人 数は 一万 人と 言わ れる
︒こ の頃 のフ ィレ ンツ ェが 五万 人 か ら 六万 人 で あっ た か ら︑ 大規 模 な 騒 動で あ っ たと い え る︒ そ して
︑﹁ カ ピ タ ーノ
・デ ル
・ポ ー ポロ
﹂︵ ポ ー ポロ 評 議 会 の議 長 で あ る
﹁平 民 隊 長︵ 警 察 隊 長︶
﹂︶ を さ ら し 首 に し た︒ そし て︑ 彼ら は︑ 市庁 舎に 立て こも っ てい た 都 市 政府 を 構 成す る 中 心人 物
︵﹁ プ リ オー レ
﹂︑ 最 高行 政 官﹂
︶ を追 い出 して
︑中 下層 の市 民︵ 中・ 小の アル テの 組合 員︶ と提 携し て︑ 一時 的に 政権 を奪 取し たの であ る│
│し かし
︑過 激な 動き もこ こま でで あっ た︒ チョ ンピ の乱 の指 導者 が富 裕市 民か ら買 収さ れる なか で四
〇日 間で 鎮圧 され てし まっ た︵ こう した 民衆 や労 働者 の反 乱は 大ペ スト 後の 混迷 の一 四世 紀に 多く
︑イ タリ ア以 外で はフ ラン スの
﹁ジ ャク リー の乱
﹂︑ イギ リス の﹁ ワッ トタ イラ ーの 乱﹂ など が有 名で ある
︶︒ 政 治 の 実 権を 握 っ た富 裕 商 人た ち は︑ と り わけ 大 ペ スト 以 後︑ 暴 徒化 す る 傾 向の あ っ た下 層 民 を常 に 警 戒 し て い た︒ その 警戒 心は
︑彼 らの 住む
﹁パ ラッ ツォ
﹂︵ 石 造 り の邸 宅
︑文 字 通り の 意 味は 宮 殿︶ の 建 築様 式 に あら わ れ てい
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四 世 紀 イ タ リ ア の 時 代 状 況 と ペ ス ト