24 FIELDPLUS 2018 07 no.20
フロンティア
史料とフィールドが「交差」する時
バルカン半島にトルコ系遊牧民の足跡を求めて
岩本佳子 いわもと けいこ / AA研ジュニア・フェロー
オスマン朝の歴史を研究する私の 主なフィールドは、史料がたくさん残る イスタンブルやアンカラといったトルコの 大都市の公文書館や図書館になるだろう。
しかし、文書館や図書館を飛び出して 史料に登場する土地を実際に訪れてみると、
予期せぬ出会いがそこにはある。
ヴ ィ ゼ 城 跡 の 高 台より。田舎町の ヴィゼの向こうに は広大で青々とし たトラキア平原が 広がっていた。
アタテュルク博物館への案内標識。
1902年にイタリア人建築家の 設計で造られた「新モスク」は、
筆者が訪れた際にはテサロニ キ市立博物館付属の展示会場 として使われていた。
序:バルカン半島に残るオスマン朝の足跡 「私はバルカン半島のトルコ系遊牧民の歴史を 研究しています。」と言うと、たいていは怪訝な 顔をされる。しかし、現在はブルガリア、ギリシ ア、トルコなどの国に分かれているヨーロッパ南 東部のバルカン半島には、アナトリア西北部で誕 生したオスマン朝により、500年近く支配された 歴史がある。オスマン朝の支配下で、バルカン半 島の各地にはモスクや隊商宿が建てられ、トルコ 語を母語としイスラームを信仰する人びとが住み 着いていった。そういった人々は、しばしば「遊 牧民」を意味する「ユリュク」や、遊牧生活を送 るトルコ人を意味する「テュルクメン」と呼ばれ た。
しかし、オスマン朝の領土は、17世紀以降は縮 小し、20世紀にはオスマン朝そのものが消滅して しまう。現在のバルカン半島で、オスマン朝時代 の建物やユリュクはどうなっているのだろうか。
テサロニキ:コジャジュク・ユリュクと トルコ建国の父
現在はギリシア第二の都市であるテサロニキは、
20世紀初頭までは、ギリシア系のみならず、ユダ ヤ系、トルコ系、スラヴ系といった様々な人々が 住む都市であった。テサロニキは、トルコ共和国 建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルク の生まれた町でもあり、彼の生家は博物館として 公開されている。その向かいの店では「聖地巡礼」
に訪れたトルコ人観光客を対象に、アタテュルク の顔がプリントされたミラーや栓抜き、名刺入れ といったアタテュルク・グッズが売られている。
博物館のアタテュルクの幼少期を紹介するコー
ナーを何気なく見ていて、一つの展示の前で私 は息を呑んだ。そこには「アタテュルクの父、ア リー・ルザー・エフェンディは、マナストゥル州
…(中略)…コジャジュク郷で生まれた…(中 略)…この郷に住むトルコ人は、『コジャジュク・
ユリュク』として知られている。このユリュクは オスマン朝によりバルカン半島に定住させられ たテュルクメンの子孫である。」とある。確かに、
ビトラには今でも「コジャジュク」という名前の 村があり、アリー・ルザー・エフェンディの生家 が博物館として公開されている。そして、この
「コジャジュク・ユリュク」は、ユリュクの歴史 を研究するためにトルコの公文書館に残る16世 紀に作成されたオスマン朝の財務帳簿を調査する 中で、私が何度も目にした言葉であった。16世 紀のビトラにコジャジュク・ユリュクが生活して いたことを示す明白な記録は残念ながら未発見だ が、後の17、18世紀の史料には、ビトラ一帯に ユリュクが生活していたという記録がいくつもあ る。時代の違いはあるものの、まさか、トルコ建 国の父の生家で、私が研究で追っている「ユリュ ク」に出くわすことになるとは、予期せぬことで あった。
ヴィゼ:地平線まで広がる耕地から気付いたこと オスマン朝の帝都であったイスタンブルのトプ カプ宮殿から西に30キロメートル離れたところ にあるブユクチェクメジェ(大入江)地区には、
石造りの優美な橋がある。この橋は、ユネスコ世 界文化遺産であるエディルネのセリミイェ・モス クを建てた建築家ミマル・スィナンにより設計さ れた。人々に今も利用されており、橋の中央には、
1567年に橋が完成したことを記念する銘文が掲 げられている。
ブユクチェクメジェ橋の建造にあたってはオス マン朝各地から様々な人が動員された。その動員 された人々の中には、橋やモスクといった大規模 な建造物の建設現場で働く代わりに税金を減免 されていた、バルカン半島に住むユリュクの姿が あった。イスタンブルの文書館に残る公文書から は、1566年2月27日に、ブユクチェクメジェ橋 の建設現場で働くよう「ヴィゼ・ユリュク」に命 令が下されたことが分かる。
この命令に登場する「ヴィゼ」とは、イスタン ブルから北西に120キロメートル、ブルガリア国
黒海
エーゲ海
ブルガリア
ギリシ ア
トルコ マケドニア
ソフィア
イスタンブル スコビエ
ビトラ ヴィゼ
シュメン
テサロニキ
25 FIELDPLUS 2018 07 no.20 ブユクチェクメジェ橋。優雅なこの橋は、
今でも徒歩で渡ることができる。
ブルガリア建国1300周年記念碑。シュメンの 町を見下ろす高台に、第一次ブルガリア帝国建 国から1300年を記念して、1981年に建てら れた。ブルガリアの偉大な王をモデルにした彫 刻のはずだが、ロボットアニメのキャラクター に見えなくもない。
朝霧に煙るシュメンのトンブル・モスク。私が訪れたときは 修復中であった。
境にほど近い場所にある町の名前である。現在の ヴィゼは、ヴィゼ出身の知人に「あの町にわざわ ざ見に行くほどのものなんて何もないよ」と酷いこ とを言われてしまうほどのトラキア平原の田舎町で あるが、城壁が残る高台に登ると、どこまでも黒々 とした土を蓄えた豊かな畑の緑が広がる光景がよ く見える。16世紀の財務帳簿の記録からは、ヴィ ゼ一帯には耕地が広がり、豊かな農業生産があっ たことや、ヴィゼには多数のユリュクが住み着き、
農地を耕し家畜の放牧を行いつつ、ブユクチェク メジェ橋の建造のように、政府の命令に応じて様々 な仕事を請け負っていたことが分かる。元々は「遊 牧民」であったユリュクが、ヴィゼにやって来た後、
移動生活をやめて農業や牧畜を行うようになった 理由が史料を読むだけではよく分からなかったが、
現地でこの豊かな農地が地平線まで広がる風景を 見て、はっきりとした根拠ではないものの、ユリュ クがヴィゼに定住して農業を始めた理由がふと分 かった気がした。
結びにかえて:シュメンのオメルは故郷が大好き バルカン半島に残るオスマン朝時代の文物を見 て回ろうと、濃い緑に覆われたブルガリア北東部 の都市シュメンを私は訪れた。今でもここは、人 口の3分の1がトルコ系という、ブルガリアでも有 数のトルコ系住民が多い町である。他地域では、
重い税や仕事の負担を嫌ってユリュクの人口が減 少していき、ついには周囲の人々に同化して消え 去っていく中で、シュメンの町があるバルカン山 脈北麓は17世紀においても依然として多数のユ リュクが住んでいた。シュメン一帯に住むユリュ クが、帝都イスタンブルから課せられた仕事への
動員命令を拒否したり、送られた先から逃げ帰っ たりした記録が、今もイスタンブルの文書館に 残っている。
シュメンのランドマークであるオスマン朝時代 のトンブル・モスクや、オスマン朝時代の文物の 展示が多数ある博物館を見て回り、残すは町の高 台にあるブルガリア建国1300周年記念碑のみと なった。道で拾ったタクシーに乗り込み、「建国 記念碑へ。シュメンを出る最終バス発車時刻の午 後4時までにはバスターミナルに戻って下さい。」
とうろ覚えのブルガリア語で伝えようとしたが、
うまく言葉が出てこない。思わず、トルコ語で「4 時!」と言ってしまうと、タクシー運転手が驚い た顔をしてこう言った。「お前、トルコ語話せる のか! じゃあトルコ語で話そうぜ。俺はトルコ人 だ。」
彼、オメルはシュメン生まれシュメン育ちのト ルコ人だという。
「ところでお前はどこから来たんだ? そして、
なんでトルコ語を話せるんだ?」
「私は日本人。今は東京に住んでいるけど、昔、
イスタンブルに住んでいた時にトルコ語を覚え たの。」
すると、オメルは「イスタンブル」という単語 を聞くや否や、舌打ちした。
ブルガリアのトルコ系住民は、ブルガリア語風 姓名への改名強制といったブルガリアへの厳しい 同化政策に苦しめられ、冷戦終結前後、経済的に ブルガリアより豊かなイスタンブルなどのトルコ の大都市に、「難民」や「移民」としてやってく るようになった。そこでは「同胞」を歓迎する声 の裏で、生活習慣の違いからくる摩擦や安い賃金
でも働くブルガリア出身者を馬鹿にする残念な声 もあった。オメルもイスタンブルに苦い思い出が あるのだろうかと私があれこれ考えていると、オ メルはこうまくし立てた。
「俺はイスタンブルが嫌いだ。だってイスタン ブルは人間が多すぎるだろ! 俺はイスタンブルで 4年働いたけど、シュメンが恋しくて病気になっ てシュメンに帰ってきた! あんな人間が多いとこ ろに住むのは健康に悪い! シュメンを見てみろ!
こんなに緑に囲まれた美しい町は世界で他にはな い。俺たちトルコ人はここシュメンに先祖代々住 んできたんだ。ここが俺たちの故郷だ。ここがブ ルガリアで俺がトルコ人でも、シュメンこそが俺 の故郷だ。イスタンブルのように人が多いところ に住むと病気になる。お前はイスタンブルなんか にはもう住まずに、ずっと東京に住むといい。」
「でも、イスタンブルの人口は約1,500万だけ ど、東京大都市圏の人口は約4,000万だよ。」
「お前……そんな人の多いところに住んでいる と病気になるぞ! 東京には帰るな! 今日から シュメンに住め!」
もちろん、オメルがイスタンブルのオスマン朝 政府との対立も辞さないシュメンのユリュクの子 孫かどうか本当のところは分からない。ただ、イ スタンブルと時に対立しながらも、シュメンに住 み続けたユリュクの「精神」は、オスマン朝が滅 んだ今もこの土地で生き続けているようである。
史料や研究に直接関係があることは滅多にない が、思わぬ発見や出会いがあるフィールド。そう いった予想外の体験を求めて、今日も史料を読み ながら、まだ見知らぬ土地への旅の計画を練って いるのである。
*写真はすべて筆者撮影。