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東アジア研究の旅

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研究ノート

東 ア ジ ア 研 究 の 旅

タイ︑シンガポールの日本工場を訪ねて

清 水 嘉 治

はじめに‑途上国自立の問題点

タイに進出した日本企業

213

(六)伍)(四)(三){二)

六 五

H

r

(2)

は じ め に 途 上 国 自 立 の 問 題 点

﹁途上国の経済は永久によくならない﹂﹁途上国は貧困の悪循環である﹂﹁貧困とたえず同居し︑貧困そのもの

が途上国である﹂﹁中心国が周辺国を支配する﹂﹁周辺国は中心国に吸収される﹂﹁途上国は永久に先進国の搾

取︑収奪の対象となり︑自立できない﹂という表現で一〇年前の﹁進歩派﹂といわれる国際経済研究者は途上

国を描写してきたように思われる︒また﹁保守派﹂は︑現状追随主義でこれまた展望をもたなかったと思われ

る︒

一九六〇年代︑ヒ○年代︑八〇年代の初め頃までの先進国の経済学者の思想には︑途上国貧困永久論が支配

していたように思う︒

一方︑世界経済の研究者の間における世界経済の基本的課題は︑先進国と途上国の所得格差をどのように克

服するかにあった︒こうした目的で先進国による途上国へのさまざまな経済援助︑とくに途上国自立のたあの

経済援助が実行されてきた︒アジア︑アフリカ︑中南米などがその対象とされてきた︒こうした中で︑共通し

た途上国貧困論の認識は次のようなものであった︒第一に︑途上国を貧困化に導いたのは︑先進国の過去の植

民地政策に遠因があったこと︑第二は︑第二次大戦後︑多くの途上国は政治的に独立したが︑かつてのモノカ

ルチャi経済から脱出できず︑経済的に先進国に﹁従属﹂せざるをえない状況におかれたこと︑第三に︑先進

国の経済援助によって︑部分的にインフラ整備がされても︑工業化の発展に連動しなかったこと︑第四に︑途

上国の一次産品の輸出にあたって︑先進国が世界市場でコントロールし︑たえず低価格で供給せざるをえず︑

貿易収支は赤字に直面し︑その分︑世界銀行などから借金をし︑累積債務をもたらさざるをえなかったこと︑

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東 ア ジア研 究 の旅 215

第五に︑主たる途上国は政治的に︑﹁軍事独裁﹂国家であり︑先進国の経済援助が︑政権支配の手段とされ︑民

衆の経済救済にまわらず︑﹁貧困の悪循環﹂(G・ミュルダール)にさらされたこと︑第六に︑先進国の経済援助

が︑先進国の大企業援助であったこと︑経済援助の目パ体化にあたって︑途上国の政府は︑先進国の大企業プロ

グラムによる開発に依存したこと︑第七に︑先進国と途上国の貿易も︑先進国の農業保護政策に直面し︑﹁従属﹂

貿易を強いられ︑経済自立化を困難にさせられたこと︑第八に︑先進国の経済援助は︑工業化援助中心で︑教

育︑病院︑福祉︑環境保全援助を軽視したこと︑第九に︑途上国の市民の自血のたあの援助でなかったこと︑

したがって途上国の自航のための経済政策を選択しなかったこと︑第一〇は︑世界の金融︑財政︑通貨などの

システムが先進国中心の利益誘導になっていることなどである︒

こうした制約のもとで︑途上国は︑経済的自立の道を選択することが困難であった︒だがこうした厳しい条

件の中で︑NIEs︑東アジア︑中国は︑先進国の経済援助を自らの経済的自立に活用し︑逞しい経済発展の

道を︑普渋の中で切り開らきつつある︒先進国の民闇資本を自国の発展の条件の中で受け入れ︑自立の経済計

画を立て︑地域の経済連帯を高め︑﹁成長﹂を実現したのである︒

わたくしは︑途上国についての従来の研究成果がなんであり︑それがどのように活かされ︑途上国の発展に

役立っているかを︑既存の文献を素材にして研究してきた︒

わたくしは世界経済の研究を深める中で︑米国でも︑EUでも︑この日本でも︑改めて︑東アジアの﹁成長﹂

とは何かを研究しない限り︑世界経済のあり方︑日本経済のあり方がわからなくなるのではないかと考える︒

それほどまでに東アジア︑とくに中国と日本とのかかわりについて︑従来の経済学︑応用経済学の知識を踏え

て再検討せざるをえない︒この日本の﹁成熟﹂社会のあり方を問いつつ︑東アジアの課題を究明する必要性に

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かられるのは︑日本の経済学者にとって当り前のことである︒

わたくしは︑同僚の研究者と研究会を重ねつつ︑その結論は︑日本企業の東アジアでの活躍を︑この眼でみ

ることにあった︒現地調査を踏まえて︑改あて︑東アジアを考える︒したがって︑ザッハリッヒに︑わたくし

たちの限られた情報の中で︑東アジアに進出している三つの企業を見学することから始めた︒もちろん︑さま

ざまな資料を通して︑日本企業が︑円高不況の中で︑東アジアへの進出を考えた経済政策を理解したい︒本来

企業にとって︑﹁自国﹂で︑企業収益があがり︑経営がそれなりにうまくいっていれば︑海外進出を図る必要は

ないというひともいる︒にもかかわらず︑企業にとって︑競争原理にさらされ︑国内市場を問わず︑企業の成

果を図るとすれば︑国境こえて生産拠点を海外にみつけ︑自らの足場を確定していかなければならないのであ

る︒国際的自由市場の原理に対応して︑自らの企業のあり方を求め︑したがって﹁成長﹂を志向せざるをえな

い︒日本の企業が東アジアにおいて︑生産︑流通の拠点の一部を志向するのは︑こうした理由からである︒

わたくしは︑こうした問題意識のもとに︑東アジアにおける二∴二の日本企業の生産拠点の姿を調査したの

である︒それがタイのミネベァであり︑シンガポールの中小企業岡本工作機械であり︑テスコンであった︒以

下問題を進めよう︒

二 タ イ に 進 出 し た 日 本 企 業

eミネベア・ロップリ工場を見る

タイにおけるミネベアの事業活動は活発である︒ミネベアは︑タイの首都バンコクから北へ約七五キロメー

トル離れたアユタヤに︑一九八〇年に工場を設立し︑首都から五〇キロメートル離れたバンパインに︑一九八

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東 ア ジア研 究 の旅 217

四年に工場を作り︑八八年︑約一三五キロメiトルあるロップリに︑工場を設けた︒ミネベアのこれら三工場

が︑いま東アジアにおける同社の最大の生産拠点である︒ミネベアはもともと航空機器(ジャイロ)のベアリン

グとして発足した︒この分野の注文が限定され︑コンピュータへの進出により彪大な注文を獲得した︒

わたくしは︑ミネベアのタイの生産拠点を︑東アジアにおける日本の製造業の進出のひとつのモデルとして

注目していた︒石崎昭彦教授の紹介で︑このたびタイのロップリ工場とバンパイン工場を見学することができ

たのは︑わたくしにタイ経済に対する新しい見方を促す契機を与えてくれた︒同教授に感謝したい︒以下︑は

じめに日記ふうに書く︒

一九九四年九月七日(水)︑午前f時五五分︑JL七一七便で成田を発ち︑午後一五時二〇分︑バンコク空港

に到着︒午後四時︑アマリブールバードホテルに直行︒二時間程ロビーで︑石崎昭彦教授︑海道勝稔教授と打

合せる︒相互にクールな討議をする︒

打合せの内容は︑少し学問的になった︒第↓に東アジアにおける経済発展の意味について議論した︒第二に︑

NIEs︑ASEANの連動的経済発展︑雁行的経済発展を吟味する︒第三に︑日本における東アジア研究の

問題点とは何か︒格差是正のための経済発展なのか︑経済成長至上t義の経済発展でよいのか︒成長と環境︑

開発と環境の問題は両立できないのか︑できるのか︒低所得者層の中所得者層への移行はどのような条件で可

能なのか︒﹁中所得者層﹂の増大の意味をどう考えたらよいか︒タイに進出している日本企業の課題とはなに

か︒日本企業は現地の風土的︑歴史的︑経済的︑社会的条件をふまえて︑現地との協力関係の中で︑どのよう

に定着しているのか︑現地優先の中で︑日本企業の逞しい活躍をどのように評価したらよいか︑日本企業の東

アジアにおける役割をどう考えるか︒以上の諸問題を︑自由に論じて打合せを終えた︒とにかく個別企業の工

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場の実態をみることによって各人の問題意識を構成する以外にないと思った︒

九月八口(木)午前七時起床︑八時︑朝食を済ませてホテルロビーに︑ミネベアの専務取締役の尾木竹七氏

と企画部取締役水上龍介氏が迎えにきてくれる︒私たち三人は緊張のまま車で︑混雑した市内を経て国内空港

に到着する︒ロップリ工場までは︑ヘリコプター(以ドヘリ)で行くことになった︒騒音の少ないアエロスパシ

アル(フランス製)のヘリに乗り︑上空から首都バンコクを見る︒三〇〇万人の都市が小さく見える︒上空から

みた首都は大・中・小のビル︑その間を無数の車が雑然と走行する︒これでいいのかと考えたくなる︒首都の

周辺は・私たちの住んでいる横浜と違って丘陵地が少なく︑のどかで一面田園風景である︒それは米作中心の

農園である︒それは二毛作の米づくりの農村風景である︒ヘリは容赦なく進み︑田園のなかで︑実に自然環境

を整備しているロップリ工場のヘリコプタi基地に着く︒神奈川県内で︑何度か県全体の環境調査のためにヘ

リに乗った経験もあるが︑このヘリは︑穏かに離陸し︑運転もうまい︒安心して乗れるという感じである︒タ

イ出身の運転七と直接会話するためのヘッドホーンをつけ︑両者とも第.一外国語である英語で話す︒眼下に定

着しているソニーや目立の工場の説明を聞いているあいだに︑ロップリ工場に着く︒日本では見られない田園

の中の工場という感じである︒同乗した尾木専務︑水上取締役︑石崎教授︑海道教授ともにロップリ工場の応

接室で︑山岸孝行工場長(常務取締役)から説明をきく︒現在従業員数は六︑五〇〇名︑ここでは︑FDD(フ

ロッピーディスクドライブ)︑FDD用磁気ヘッド︑磁気ヘッドキャリッジアセンブリ︑スイッチング電源︑イン

ダクタ・ハイブリットーCの生産を行っている︒⊥場長の話によると︑この土地は一五万四千坪︑建物一階部

分が三〇〇〇坪︑二階部分が同じく三〇〇〇坪︑全部で三棟で︑床総面積は一万五〇〇〇坪であるという︒さ

らに一万坪の拡張計画を予定しているという︒

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東 ア ジア研 究 の旅 219

工場長の親切な案内で︑主要な工場現場を見た︒平均年齢二三才の女性が中心で︑実によく働いている︒労

働環境もよく︑タイ女性が落着いた態度で︑自信をもって仕事に集中していた︒各現場の作業長はタイの女性

である︒クーラーの設備もよく︑廊下は広く︑各工場には︑自巾な談話室もあり︑ゆったりとした雰囲気で仕

事に励んでいる︒日本のある工場のような緊張感はない︒したがって労働効率もあがっているようである︒

では︑仕事に集中し︑同時に人間味あるタイ女性の賃金はどの位なのかと聞いたところ︑平均四〇〇〇バー

ツ(一バーッ四..両)から一万五千バーッであるから︑日本円に換算して約一万七千円から六万円である︒これ

には技能︑働きぶり︑効率性を含めての話である︒五万円から六万円の賃金取得者は︑大学卒の技術職をもっ

ている方である︒であるから一般女子従業員の賃金は平均二万円と考えてよい︒このロップリ工場附近の生活

から考えて︑かなり高い賃金であると思った︒わたくしが︑一九五七年頃日本の大学で︑大学院修士を終了し

て︑二年後専任講師になった初任給が八〇〇〇円であった︒それに比較して高い方である︒このロップリ工場

の周辺の生活ぶりをきいた限り︑一九五七年の日本の農村より豊かである︒

工場長の話によると︑ロップリ工場は︑一工場としてみると三・五インチFDDの生産工場としては世界最

大級である︒モーターからプラスチックパーツ︑磁気ヘッドなど部品の大半を内製しており︑その内製化率は

部品点数(.60〜...○○)ベースで九五%(すべてタイエ場)︑金額ベースで八〇%と高い︒外部から購入してい

るのは︑コンデンサー︑抵抗器などの汎用電子部品︑IC︑プリント基板︑ワイヤなどある︒FDD用磁気ヘッ

ドの生産もこのロップリ工場で行っている︒その生産規模は世界一で︑なんと月産三〇〇万個であり︑バルク

タイプとラミネートタイプの︑一種類を生産している︒

この工場長によると︑タイの物価上昇率は約五%であり︑それに対応して賃金も上げているという︒その外

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女子労働者の四〇%が高卒で︑六〇%が中卒である︒技術者は︑大学卒で︑各企業は︑技術者を採用するのに

競争状態で︑技術者不足であることを訴えていたようである︒大学も不足で︑これから大学の工学部などがで

きればよいと希望を語っていた︒ここの工場の女子労働者は︑明るく︑仕事に集中していただけでなく︑廊下

で会っても礼儀正しく︑挨拶もよい︒

この点は︑同じく見学したある国の機械工場の女子労働者とは違う︒それは労働環境︑労働者教育のゆきと

どいたせいなのであろうか︒彼女たちは進んで仕事をし︑楽しんでいるように見受けられた︒工場全体を見る

だけでも二時間以上かかる︒

⇒ミネベア・バンパイン工場を見る

十二時近くにロップリ工場を離れ︑ヘリでバンパイン工場に着く︒ヘリから見たロップリ工場からバンパイ

ン工場までの所要時間は約三卜分である︒この間︑タイの田園が広大に見え︑すべてが米作農家であり︑.一毛

作で︑実に整然と区画ができている︒日本の米の優良品種をもって耕作すれば︑ねばりとコクのある米作がで

きるのではないかと思ったりした︒不思議なことは︑上空から見た田園のところどころにある樹木に囲まれた

家々はよく見えても︑人影がない︒おそらく︑稲の生長を待って休んでいることであろう︒

ところでバンパイン工場を見学する前に︑ミネベアの宿泊所で皆さんと昼食をとる︒この工場の管理者は︑

タイ人で︑早大の大学院で工学を専攻した四〇才近くの技術者である︒彼はこの工場の野球の監督でもある︒

この工場も広い︒工場専用の軽電気車で︑工場を案内して貰った︒ステッピングモーターを作り︑ロップリ

とこの工場合わせて︑月産約四〇〇万個を生産している︒実に精密な部品である︒FDDの磁気ヘッドキャ

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東 ア ジ ア研 究 の旅 221

リッジアセンブリに社内使用するほかに︑大部分をプリンター︑ワープロ︑フアックス等の用途に向けて販売

しているという︒モーターも内製化率が高く︑購入しているのは︑ワイヤーや汎用電子部品や基板のみを作り︑

さらにベアリング︑ギア︑シャフト︑モールド部品も作っている︒バンパイン工場はロップリ工場ともスピン

ドルモーターを作っている︒FDD用とHDD用のスピンドルモーターの生産はもちろんであるが︑この工場

では︑HDD用スピンドルモーターに力を入れ︑なんと月産一〇〇万個を︑本年末までにその倍の二〇〇万個

を作る計画で︑それを実行している︒この種の注文も︑昨年に比べて三〇%から四〇%も多くなっているとい

う︒この工場では︑軸流ファンモーターも作っている︒これは電子機器等の冷却に使われるもので︑おそらく

その生産規模は世界一であろう︒この工場における軸流ファンモーターの熱の入れ方は並々ならぬものが感じ

られた︒説明する方が︑この軸流ファンモーターの生産を誇りにしていたのが印象的であった︒

その他︑多種類の製作品をみせていただいたが︑機械工学の知識に乏しいわたくしにとって︑理解力に欠け

ていると反省した次第である︒

ここで︑わたくしは︑現地の風俗︑歴史︑慣習︑文化︑土着性︑言語︑人間性︑血縁︑業縁︑族縁などの現

地の歴史的社会的環境を踏えて︑工場を作り︑現地になじむ苦悩を知りたかった︒

ミネベアは︑この点を十分に考慮して︑社員教育体制を確立したように思える︒もちろん他人事ではない︒

わたくし自身︑大学の現場で︑学生たちと︑合宿ゼミや講義︑通常ゼミで︑学生の気質や学習状況を把握する

のに苦労していることを自覚して︑工場長に質問した︒

この工場の社員の研修制度はどうなっているのか︑幹部は︑どのように取り組んでいるのか︑などが気に

なった︒

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わたくしは今度の現地調査を通じて︑ミネベア工場をみる限り︑九九%タイ人を雇用し︑現地から歓迎され

ている︒さまざまな問題点をもちながらもこれは立派な現地貢献であると思った︒ここの工場長は社員教育に

かなり力をいれている︒これまで工場が軌道にのるまで︑延べ約五〇〇〇人のタイ人が︑日本の工場で訓練し︑

研修を受け︑技術やノウハウを自分のものにして現地で仕事をする方式を取っている︑という︒この点でタイ

人の技術習得欲と学習態度に敬服した︒この研修の充実ぶりは︑たぶん︑上からの仕事の強制でなく︑彼女た

ちの自発的意欲によるものであるように思われた︒実に立派な社員教育をしていると思った︒

いまどんな組織でも︑組織にいる人々の内発的欲求に基づいた研修でない限り︑本物ではない︒この点︑わ

たくしがみた日本の機械工場の現場とは︑かなり違っていた︒ミネベアの工場長は︑社員の自主的欲求を︑見

事に仕事に活かしていると思った︒工場長によると︑タイ工場で︑新しい作品を世に出すにあたって︑数年間︑

日本で研修をし︑仕事のノウ・ハウを身につけ︑タイで仕事をするという︒この際︑あくまでも︑タイ人の自

由と自発性を喚起しつつ仕事を身につけさせている︒わたくしは︑フランスの哲学者アランの言葉を想い出し

た︒﹁どんな仕事でも︑自分で支配する限り︑楽しみであり︑支配される限り不愉快である﹂と︒この工場は︑

労働者が自分の仕事を統治しているという感じである︒

なんと︑タイ工場の社員数は約一万八千人であり︑日本人は一%未満であるという︒工場のオペレーション

はタイ人社員が中心である︒工場長︑部長などのマネージャーは約四〇名で︑その四分の一がタイ人社員であ

り・年々増加し︑マネージャー以下の幹部メンバ!は殆どがタイ人社員である︒タイの三工場のうち︑最も古

いアユタヤ工場は世界最大のミニチュアベアリング工場であるがタイ人社員が四年前から工場長を勤めている

という︒

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こうした現地人を役員に採用することによって︑社員に希望をもたせ︑社員の志気の高揚になり︑一九六〇

年代のアメリヵ多国籍企業が欧州で生産拠点をもったときも現地人を採用し︑現地社長も現地人を登用した方

式と似ている︒

なお︑タイの三工場のタイ人の勤務態度は︑極めて良好で︑無断欠勤はゼロに近いという︒さらに離職率も

月○.六%と極めて低く︑その理由は︑夫の転勤など家庭の事情によるといわれている︒

労働環境も良く︑女性は活きいきと働いている︒結婚した女性社員が妊娠して働く場合︑その希望に応じて︑

働きやすい部門で仕事をさせているという︒この方式も社員に評判が良く︑労働意欲をましているようだ︒

東 ア ジア研 究 の旅 223

㊨ミネベアの東アジァ進出を考える

ところでミネベアが海外生産の拠点をもったのは︑一九七二年である︒はじめにシンガポールに進出し︑ミ

ニチュアボールベアリングの生産から始った︒この企業の先見性である︒

一九七〇年は高度成長期で︑ミニチュアボールベアリングの需要は高く︑国内での需要はもちろん米国から

の需要が多く︑とくにその生産品の七〇%を輸出した︒その製品の輸出力は一ドル三六〇円という為替レート

に支えられ︑価格競争力があり︑かなりの収益をもたらすことが可能であった︒

だが一九七一年八月の米国のニクソンの新経済政策は︑ドル防衛策にあった︒当時米国は︑国際収支の赤字

三〇〇億ドルに直面し︑自らドルー金の通貨体制を放棄し︑固定為替相場制から変動為替相場制を選択したの

である︒日本と米国の為替交換率一ドル三六〇円のシステムはなくなり︑一ドルが三〇〇円︑二五〇円︑一〇

〇円という変動相場制に移行したのである︒

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ミニチュアボールベアリングの輸出中心のミネベアは︑為替問題が収益に大きな影響を与えた︒国内では︑

労働力の確保が困難になる︒為替相場と労働力不足に直面したミネベアは︑海外進出を試みた︒そのためには︑

東アジアに生産拠点を移すことを企図したのである︒

ミネベアが︑一九七〇年︑シンガポールに進出した理由を同社の文書はこういっている︒﹁①良質の労働力が

確保できること︑②政情が安定していること︑③政府が企業誘致に熱心だったこと︑④英語圏であること︑等

である﹂︒

企業の論理から見れば当然であろう︒同社は︑シンガポールに進出した当時︑一一〇人の採用に当って︑六

〇〇〇人が応募したという︒これは︑当時のシンガポ!ルの賃金が安く︑日本企業が︑現地の平均賃金より高

い賃金で公募したからであろう︒同社の資料によると︑その後日系企業の進出が続出しているなかで︑相対的

に賃金が﹁高騰した﹂ので︑﹁中国人︑マレーシア人︑インド人︑タイ人などシンガポール人以外のアジア人を

雇用するようになり︑八〇年以後には︑シンガポールの工場に働く社員四五〇〇人の約七〇%が︑シンガポ!

ル以外のアジア人になった﹂という︒これに対して︑シンガポール政府が︑外国企業にシンガポール人の比率

を六〇%以上にすることとしたことによって︑同社は︑他のアジアに生産の場を移転することを検討したとい

う︒それが一九八〇年にタイ国に進出することになったという︒すなわちシンガポールの賃金が相対的に高く

なったこと・シンガポール人が減少したことなどによってタイ国に進出したのである︒タイ国でも︑バンコク

付近や工業団地は︑いずれ人手不足になるという懸念からバンコクから七五キロメートル離れたアユタヤに工

場を作り︑そのたあに自力で電力︑上下水道︑通信等のインフラを整備したという︒

この会社のユニーク性はここにあると思う︒自社でインフラを整備をしつつ︑工場を作った︒現地で聞く限

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り︑女性労働者は︑送迎バスで︑工場に通勤している︒ミネベァのタイエ場についての状況璽部を書いたが・

経営者は︑物凄い努力をしていると思.た︒私たち研究者はあのような精力的で・真摯な態度で教育している姿をみて反省さサりれた︒タイエ場を見学したあと︑工場長と女子労働者の︑生産に対する真暫な態度と活力に学ばされた次第である︒

225東 ア ジ ア 研 究 の 旅

四農業国タイから工業国タイヘ

タイの国土面積は五万平方キ・イトルである︒合は五八七︑万人であり︑撃率は九三%である﹄

人当りGDPは︑天○○ドル(天万円)︑労働力人・は三〇八七万人で︑肇人・は六二%・工業三%・商

業=%︑サ壱ス業(公務員をA凸む)西%であり︑基本的には︑肇の比重が高い・タイの産業の中心は・

農業である︒だが工業化の進展は早い︒

私たちのタイ経済発展の印象は︑崖物や加工品を輸出し︑外貨を稼ぎ︑それを国内の工業に投資してきたよ.つに思った︒芳元六〇年頃︑コメ︑天然ゴム︑スズといった戦前からタイ特有の伝統的商品は輸出の七

〇%を占め奈七〇年代にそれが低下し︑八〇年代に再び増加する︒と‑にコメの輸出をみると・八九年に七

〇年の二五億バ←かわ四五四億バ←に増加している︒ゴムの輸出も︑七〇年の二二億バ←から八九年に二六四億バ←に増加している︒新興農産物では家畜飼料タピオカの原料の輸出が急増した・冗七〇年色

二億バ←か.り八九年.五〇億づツへと約︑δ倍以上の増加である︒さらにタイの主要商品別輸出金額の推

移をみると︑アグ・インダストリあ部門に入る冷凍エビはなんと冗七〇年の七億四千万バ←から九一年に二六六億バ←に三〇倍以上の増加である︒またブ・イラたついてみると︑八〇年の六億五千万バ←か

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(‑‑§ζけΦ一︽じ︒==

少し横道に入ってみると・日本のトリ肉生産量は︑九舜度で︑三五万九〇〇〇トン︑▼﹂れに対して輸入

量は三九万二〇〇〇トン・自給率は七九三%であったが︑自給率,は減少し︑タイに依存している︒タイか,り

の輸入が急増している・日本におけるトリ肉の輸入シェアの四〇%がタイのブ・{フ産業であるといわれて

いる・私たちが利用する街角の鷲屋のやき鳥繁にタイ産なのである︒︒フ・{フ産業はcp社とともに成

長し・cp社を支えているのが藩栞である︒この輸出の急増は︑私たちの食卓にも浸透している︒トリ肉

の三〇%はタイ産とみてよいであろう︒タイのブ・イラ産業は︑cpを中︑心に六大グルLフによって支配さ

れている・タイ産の焼き鳥用の肉は︑チェ←化している居酒屋︑ファ︑︑︑ー.レスtフン︑スーパ薯などに

おかれている 

ともあれ・タイのブ︒イラあ輸出が︑日本の居酒屋の焼き鳥として並目及してい登しとを改めて記しておき

工業製品の‑類では・衣類の輸出増加が響である︒七〇年の一︑五〇〇万バ←かり九一年の八六六億

バーツへと異常な輸出増である・九〇年に入って黒・たのは些年︑宝石︑集積回路のそれぞれが三五九億

バ←・三ハ○億バ←である︒そして︑工業製品H部門に当たるコンピュ多部口㎜がダントツで四六七億

バーツを輸出している︒

こうしてみると・タイ経済は・農産物輸出から工業製品輸出に︑漸次転換しつつあるのである︒半導体︑カ

ラーテレビ・コンピュータの部品の輸出の中味は︑タイに進出した外国企業にたよっているし︑︑︑︑ネベアも︑

その環としての役割藁しているのではないか︒この点で︑タイの輸出と工業化に︑︑︑ネベアは立派に貢献し

(15)

ているといってよいのではないかと思う︒ 東 ア ジア研 究 の旅

227

㈲ タイのくにづくりとは

ところで︑タイ経済の動向を厳密に調査するには時間をかけなければならない︒いまそれはできない︒ここでは︑文学的発想をもたないわたくしにと.て︑少し学術的めいた現地工場調査希心にした紀行文に限らざ

るをえない︒

とにかく忙しい短時間の旅である︒ホテルで︑真夜中にタイの資料を吟味しているうちに︑すぐ朝がくる︒

いつもわたくしは︑時間を守るきちょうめんな石崎教授︑海道教授との打合せ時間を︑いつも遅らせてしまう︒

低血圧のわたくしは︑朝が辛い︒どつしても︑心でわかっていても︑打合せ時聞に遅刻する・二人の寛容な態

度にいつも敬服する︒

バンコクのまちは︑雑然として多忙なまちである︒わたくしは︑クルマの異常な混雑ぶりについていけな

かった︒クルマの排ガスは︑横浜の数倍にのぼる︒この横浜の環境基準の数倍に当るであろう︒

バンコクの道路も︑でこぼこだらけである︒にもかかわらず︑市民は逞しく働き︑動き・活動している︒タ

イの現実をみないで︑タイを語ることはできないと思った︒わたくしの経験では︑北京︑上海︑長春︑藩陽︑

大連︑そして香港のまちを見たかぎり︑それ・りの都市には︑歴史的︑文化的︑経済的︑風土的個性など多様な

顔をみせていた︒もちろんこのタイも同じである︒

中国での諸都市をみる限り︑画一性と個別性が同居していた︒このタイのバンコクにきて︑﹁君主制﹂のもと

で︑半分の民主主義国家で︑混雑の中に﹁安定﹂政権を維持している九四年の﹁状況﹂に接する限り︑やはり

(16)

﹁儒者﹂の精神がみなぎっていると感じたのはわたくしだけであろうか︒

経済的にみる限り・篁に成長︑第二に成長である︒だが同時に成長の巾にビルトインされている公虫口︑イ

ンフレ・都市問題はこれでいいのかとい・つ疑問にかられる︒とくに環境悪化は深刻だ︒ど・つするのかを見守り

たい︒とにかく忙しい工場見学の旅である︒

タイに行く前に・この国の諸問題についてのさまざまな文献を読んだ︒なかでも︑末廣昭著﹃タで開発と

民主主義﹄(岩婆居二九九三年)︑末廣昭南原虞﹃タイの財閥ーファ︑︑︑リーとビジネスと経営改革﹄(同文舘出

版)・呆消費者連盟編﹃飽食日本とアジア﹄(家の光協会︑一究.年)︑鈴木規之﹃第三世界のもつ;の発展

理論﹄(国際書院二九九三年)︑北原淳﹃タイ農村社会論﹄(禦豊房)などを読み︑それなりのタイ事情を吸収し

たつもりであるが・やはり研究不足を恥じた︒こうした自覚のうえで︑貧しい世界経済研究者として︑東アジ

アのタイの活力と魅力を︑どう位置づけたらよいかに腐心した次第である︒

これは感覚的表現というより︑現地での経済的勤であるが︑タイ社会は︑ヘリで上空からみる限り︑リッチ

とプァーの両極で構成されているのではないかと思いながら︑同時にそのフレームを現実に超えているという

感じをもった・まちの芳で︑豪邸をみると同時に︑チャオプラヤ河の岸辺の人々︑農村で働く貧民層の人々

をみる限り︑﹁所得格差﹂を感じざるをえない︒﹁巾間層﹂をどのように創出するかは︑政府の所得の再分配政

策によらざるをえないであろう︒

現地での英字新聞などをみる限り︑呆資本や欧米資本︑華僑資本を受け入れ︑それ・りをタイエ業化に振り

向け︑成長政策を実現していると思った︒

ミネベアの工場長の話では︑中間所得層が出現し少しつつ﹁安定化﹂をめざしているという︒

(17)

東 ア ジア研 究 の旅 229

中間所得層は︑月二万バーツから五万バーツ(一バーツは約四円)で︑日本円で八万円から二〇万円程度であ

る︒中間層は︑大学出の中間管理職者︑自営業者︑技術者などで︑バンコクの都市部に住み︑クルマ・耐久消

費財を購入し︑郊外に住宅を求めるタイプが多いという︒中間層は︑従来は日本企業に勤め︑日本人の生活水

準に憧れていたが︑最近では︑欧米志向になり︑日本離れをおこしているという︒彼らは国際性を身につけ・

ビジネスに役立つ知識を身につけたいという︒日本語学習も熱心だが︑現在頭打ちになっているという︒ジェ

トロ.バンコクセンターの葛見雅之氏によると︑﹁民主的なルールを重視し︑平等︑透明性を求める彼らに日系

企業に対する評価を聞くと︑﹃努力してもトップになれない﹄との不満が強く︑賃金制度もアンフェアであると

見ている︒このため日系企業に就職しても先が見えていることから︑.一︑三年で辞職し︑給料は半分になって

も,トッフになれる"地元企業や欧米企業に就職する傾向が増えている﹂という︒したがって今後日系企業は︑

彼らの雇用︑賃金制度に気を使う必要がでてくるであろう︒ミネベアの工場長もいっていたが技術者不足が深

刻で︑大学の工学部卒で新技術を身につけた技術者は︑二三年務めて︑給与の高い会社に再就職するというの

である︒一九六〇年代の日本の高度成長期の技術者の引き抜きを想い出さざるをえない︒バンコクの中間層が

広がりをみせることによってタイ経済は︑従来の高所得と低所得の格差構造を少しつつ改革しているように思

われる︒

タイのインテリi︑中所得者層が欧米志向になっていることは︑次の事情でもよくわかる︒九四年九月レ三

日︑タイの新興財閥サハゥィリヤ・グループの最高幹部︑ティエンチャイ・シーウィチットが︑﹁タイで日本の

プレゼンス(存在)が目立つ時代は終った︒今後︑日本は後退し︑英国とフランスが重要な国になるのだ﹂とい

う︒サハゥィリヤ・グループが急成長したのは︑日本のNKK︑沖電気工業など日本企業と合弁・提携による

(18)

ものであるという︒

いま世界は東アジアの急成長を注目している︒だが外国投資企業とそれに連関する現地合弁企業︑外資単独

企業の成長だけでは限界である︒東アジアでは︑インフラ整備が婁課題である︒電力歪︑道路不足︑福祉

施設不足・環境施設不足など深刻である︒このたあの公共投資が︑日本企業から欧州企業へ傾斜しつつあると

いう︒もちろん日本企業への警戒的忠告であろうが︑この国で生まれた市場とインフラ整備をどうするかを問

われている︒

この点はタイだけではない︒インフラ整備は東アジア全体の課題である︒アジア開発銀行によれば︑アジア

で生まれた巨大市場に基づくインフラ整備費用は二〇〇〇年までに一兆ドルから三兆ドルともいう︒

(.)

いったという︒というのは︑円高で過去の借款の返済額が増加し︑途上国を直撃してるという︒なのに日本は

﹁値下げ﹂に応じない︒それなら円借款はもういらないというのだ︒

力をつけたアジア諸国にとって日本は︑特別な存在ではなくなったという︒東アジア諸国のインフラ整備は︑

従来の日本企業よりも欧州に依存したいという︒果してそれでよいか︒東アジアは中国へ傾斜している︒それ

は日本との共同経営でなければ︑いまのところうまくいかないからだという︒だがタイも動いている︒

タイにおける第六次国家経済社会計画(一九八ヒー九一年)をみると︑ω人的資源︑科学技術︑天然資源におけ

る国家の開発効率を高めること︑②財の生産コストを減らすために生産および販売システムを改善し︑基礎的

経済投入物の品質水準を高めること︑そして世界市場での競争力をつける▼︑と︑㈹地方および農村部の低所得

者層が・国の開発過程から必ずや利益を受けるべきセ要目標グループであるという認識を確立することによっ

(19)

て︑地方および農村部に所得や繁栄を分配すること︑などを開発戦略としてかかげた(z魯︒コ巴閏8冒巨︒きに

ω06帥巴OΦ<ΦδOヨoコr↓げΦQ︒騨葺Z鋤二〇ロ巴国8口o量oきαω09巴∪Φ<Φδbヨ①巨勺冨口口u餌口oq評o置6㊤一)︒だが第三の地方︑

農村部の貧困︑都市部における低所得者の問題をどうするかが今後の課題のようである︒さらに環境問題も最

大の課題になるであろう︒主要計画の中で︑﹁人間︑社会︑文化︑開発のプログラム﹂をかかげ︑懸命に努力し

ている点を評価したい︒

東 ア ジア研 究 の旅 231

㈹小さな観光の旅のなかで改めてタイを考える

わたくしたちは︑バンコクでの工場見学を終えたあと︑観光の旅にでた︒時間が限られ︑﹁エメラルド寺院﹂

といわれるワット・プラケオ(乏山睡℃N鋤犀ΦO)に行った︒王宮とはひとつ城に囲まれて︑同じ敷地内に隣り合っ

ている︒この寺は︑国王と王妃専用の神殿といわれ︑タイでかなり格式の高い寺である︒寺院は格式はあるが︑

訪れる人々は少なかった︒だがエメラルドというより︑陶器の細かい破片で形づくった華美なものであるとい

う感じであった︒余裕をもたなかったせいか︑やはり東洋の寺院の代表的なお寺であるという感じをもたざる

をえなかった︒ホテルに戻る途中︑市民はタイの風土に根づいたつつましく︑同時に明るさをもって︑質素な

生活をしている︒彼らは低所得者層だが︑庶民であり︑温和で︑活力をもった人々であった︒彼らは︑今後︑

より﹁近代的﹂な生活を目指してタイのくにづくりにつながっているのではないかと思った︒前にもふれたが

バンコクのまちも車と人の混雑で︑物凄く雑然としている︒とくにクルマの排ガスは︑異様な感じをうけた︒

一日でも早く︑国と市当局は︑排ガス対策をしないと︑市民の健康は︑まもれないのではないかと思った︒と

にかく環境対策を頼むという外からの気持で一杯である︒

(20)

バンコクを去るに当って︑ミネベアの尾木竹七取締役︑水上龍介取締役企画部長のひとかたならぬご好意に

敬意を表する次第である︒

バンコクでのミネベアの経営上の成功については︑さきに書いた︒だがわたくしは︑バンコクに来る二日前︑

九月五口の日本経済新聞で︑ミネベアが︑経営不振のミネベア信販子会社三社の営業債権を米最大のノンバン

クであるGEキャピタル・コーポレーション(GECC︑コネチカット州)に譲渡することを決めたという記事を

読んだ︒この決断は︑ミネベアを改めて生産処点を中心に経営する経営陣のよい選択だと思った︒前述の﹁日

経﹂紙によると︑ミネベアとGEキャピタルの合意内容は︑本社が︑ミネベア信販︑エヌシーカード仙台(仙台

市)︑中間ショッピングサービス(福岡県中間町)の三社の営業債権一︑一〇〇億円相当分のほか︑三五〇人の従業

員︑店舗などをGEキャピタルに譲渡し︑財務体質を大幅に改善したようである︒このことは︑タイ工場にお

ける生産に集中し︑業績を向上させることに専念できるようになったのではないかと思う︒ベアリング︑電子

部品の販売は好調である︒中国︑上海北部での工場建設も︑こうした体質改善をしたから可能であったと言え

る︒経営陣の努力を評価したいものである︒

三クアラルンプールのまちとマハティール

一九九四年九月十日(L)︑バンコクをマレーシア航空(MH)七八三便︑一七時に発ち︑二〇時にクアラルン

プールに到着︒わたくしは︑この国をまえから注目していた︒この国は大きくは中国︑タイ︑シンガポールの

経済発展の中で噛独自﹂の経済発展を考えているからである︒以前からマハティール首相の国益︑東アジア益

にもとつく発.︑雨を気にしていたからである︒マレーシアといえば︑マハティール︑マハティールといえばマ

(21)

東 ア ジア研 究 の旅 233

レーシアを連想する程︑この国に到着した印象は深い︒

マハティールの発想は︑東アジアの連帯的共同的経済発展を考えていることにある︒アメリカの覇権主義に

対して︑東アジアは共同して︑地域経済圏を形成し︑市民の生活を向上し︑相互に仲良くやっていきたいとい

う発想なのである︒立派だと思う︒日本はどうするのか︑いつも問われている︒彼は中国︑日本の協力によっ

て東アジアの平和な経済圏を考え︑行動しているのである︒日本政府はどうしたのかと考えながらこの国に到

着した︒

この国に到着したのは土曜日であり︑以前から予定していた日本の進出工場見学も︑あえてやめた︒土曜日

と日曜日は休みであるからだ︒日本のものさしよりも現地のものさしで行動すべきであると思ったからだ︒

この空港に到着してから︑予約していたメリアホテルまでの沿道はよく整備されていた︒私たちは︑土・日

は︑まちをみることに決めた︒九月卜日(七)とト一日(日)のクアラルンプールは︑まちづくりに精を出して

いた︒市中央部を縦貫するクラン川(ω§αq巴国Φ一きσq)沿いを散策して︑混雑するタクシーと人の群に圧倒され

る︒

話によると︑クラン川とゴンバック川が合流する地点がどうもクアラルンプールといったようである︒クア

ラ目河とルンプールー泥という名のとおり︑かなり赤茶けた水がゆったりと流れている感じである︒

メリアホテルから︑中心街を歩いてみた︒

人きな建物の裏には︑外国との貨物の流通基地としての港の労働者の堀っ建て小屋よりましな住宅や︑質素

な﹁簡易ホテル﹂が散在していた︒それは日本の昭和.一〇年代の裏町のホテルに似ていた︒シャツ一枚の労働

者が宿泊し︑洗面している姿が目にとまる︒こうした労働者がクアラルンプールを支えているのではないかと

(22)

思った︒メリアホテルから旧回教寺院(ζ帥ω﹄置冨ヨΦ)まで歩いた︒途中︑中央鉄道駅の歩道橋で︑物乞いでは

なく︑庶民の装飾品を売っていた人々の鋭い眼にあい︑買おうとしても︑人の群にまきこまれ︑はたせなかっ

た︒

三人は︑異様な考えをもって︑静かに︑旧回教寺院に向った︒近代的な建築でかざっているクアラ.ルンプー

ル事務局ビルの裏手を目指して︑二本の中小河川の合流にあるマスジッド・ジャメは︑実にきれいで︑手をほ

どこした寺である︒室内のパンフレットによれば︑﹁クアラルンプールの代表的な回教寺院で︑建造は一九〇九

年とこの街の歴史にほぼ足並みをそろえている﹂という︒私たちは︑ここでカメラを撮った︒もう二度と来る

かどうかわからない神妙な感じで︑このお寺の写真を撮る︒このお寺の周囲は南国特有のヤシの木が植栽され︑

このヤシの木に囲まれた赤レンガ造りの建物があり︑なんとこれは西洋風ではないかと思った︒赤レンガ造り

の建物は︑無数の小さな尖塔と三基のタマネギ状の白いバルバス・ムードで作られている︒とにかくエキゾ

チックである︒

この建物を見るうちに︑東洋と西洋のどうすることもできない違いを感じた︒

回教徒の影響のせいであろうか︑庶民の生活は質素であり︑人間味に溢れていた︒だが︑このお寺を見てか

らクアラルンプールのまちを散策する限り︑牧歌的な雰囲気を突き破る急激な工業化による都市化を感じざる

をえない︒クルマはなんと︑日本のトヨタ︑日産製であり︑公共中型バスは︑ベンツ製である︒とにかく︑次

第に中間層が︑このまちをかえている︒一体︑混雑するまちの中で︑目本企業のクルマだけでなくデパートそ

の他で︑﹁見事な進出﹂ぶりに︑圧倒される︒このまちの都市計画︑環境︑教育︑文化を主体にした産業の発展

を︑マハティールはどう考えているのか︒

(23)

235東 ア ジ ア 研 究 の 旅

メリアホテルから︑空港へいく途中で︑タクシーの運転手はこういう︒﹁クルマの七〇%は日本製︑とくにト

ヨタのものがいい︒日本企業は︑羨しい︒この国々の人々に︑﹃働き﹄がいを教えた︒わたくしたちは︑日本の

企業の進出を歓迎する︒けんきょであり︑活力にみちている﹂と︒少しお世辞かもしれないが︑タクシーの運

転手の﹁英語﹂は︑私たち三人を励ましたようである︒

だが︑メリアホテルから中心街を散策する途中で︑日本のスーパーマーケット︑百貨店を見学した︒そのと

き︑ヤミタクシーにあってぼられたことも印象的である︒

クアラルンプールのまちは︑環境・文化を前提にどのように︑人間づくり︑しくみづくり︑まちづくりをす

るのかを今後に期待したい︒さらにマハティ!ルの東アジア構想を定着するためにも︑人間の顔をしたマレー

シア経済発展を重ねて期待したい︒メリアホテルから空港に向う途中︑あのざっくばらんなタクシーの運転手

が﹁日本車はすばらしい︒ねだんは高いが︑エンジンが頑丈である︒日本に学びたい﹂といった英語での言葉

があとまで残った︒

四 シ ン ガ ポ ー ル に 進 出 し た 日 本 の 中 小 企 業

e日本占領期殉難人民記念碑を訪ねる

九月一︑一日(月)マレーシア航空六四︑一便に乗り︑長二時二十分に︑シンガポール空港に着く︒三人はヨーク

ホテルに直行した︒やはり東アジアの中で︑もっとも洗練されたまちだなあという印象をもつ︒

シンガポールは︑本島と大小五四の島々からなる群島国家といわれ︑面積は六一八平方キロメートル︑日本

の淡路島に相当する︒人口.一八〇万人の島である︒このシンガポールの市民は︑永い苦渋の近代史の中で︑耐

(24)

え︑そして自立してきたのである︒日本の東アジアの経済分析家は︑東アジアの成長を美化し︑成長至上主義

が格差を解消するという考え方を示したが︑それはきわめて単純な論理である︒同時に成長主義者の中には︑

大きな陥し穴がある︒シンガポールの近代史での反省なしに︑いまのシンガポールを語ることはできないので

はないか︒

この島を支配したのは︑一四世紀にポルトガルであり︑ジャワであり︑その後︑一九世紀初頭に︑英国の東

インド会社の社長ラッフルズが上陸したあと︑英国は﹁東洋貿易﹂の仲継基地として位置づけ︑植民地とした︒

マレーシアのゴムや錫を採取し︑その輸出港とし巨利をえた︒第二次世界人戦の一九四二年から四五年八月ま

での三年半は︑忘れてはならない日本軍の占領下にあった︒この期間シンガポールは︑日本帝国主義の支配下

にあり︑日本軍は現地人に対して虐殺を行い多数の犠牲者をだした︒日本政府はこのことを肝に銘じてシンガ

ポールと交流しなければならない︒当時︑日本軍は︑この島を﹁昭南島﹂と名付けたのである︒この時代の事

実は︑シンガポールの人々にとって悪夢の時代であった︒

私たちは︑洗練されたオーチャード通りを散策したあと︑クルマでエリザベス・ウォークの北側近くの戦争

記念公園に行った︒なんと高さ七〇メートルの塔が凛々しく建ち︑.]度とあってはならない戦争を憶い出させ

るのにふさわしい塔であった︒その台座に日本占領時期殉難人民記念碑ときざまれている︒その台座に献花が

してあった︒わたくしは心からシンガポールの人々の犠牲者に哀悼の意をもって合掌した︒この塔は日本人に

よる現地人の虐殺の記念碑なのである︒

九月十二日の午後は︑散策の日であった︒この戦争記念公園から植物園を経て︑マーライオン公園近くを歩

いてホテルに帰ったのは午後七時過ぎだった︒

(25)

夕食後︑卜三日の午前中訪問予定の岡本工作機械と午後予定のテスコンについて打合せをしてこの日を終っ

た︒

東 ア ジア研 究 の旅 237

⇔岡本工作機械を訪ねる

九月十三日(火)午前九時に︑JETROシンガポールセンター神奈川経済交流部の森雄一氏が来る︒直ちに

岡本工作機械製作所へ行く︒本社は横浜市港北区箕輪町にあり︑平面研削盤のトップメーカーから研削盤の

トップメーカーへめざしている︒一九九五年に創業六〇周年になる︒平面・成形研削盤ではメカトロニクス技

術をいち早く追及︑NC化においては業界でも有名である︒さらに高品位機の開発︑ワイドな品揃え︑加工ソ

フトの提供などでもすぐれている︒同社の案内によると︑現在は︑内面研削盤のシリーズ化︑歯車研削盤のグ

ローバルな事業展開︑半導体関連機械にも手を伸ばし︑その他欧米工作機械の販売もしているという︒精密研

削盤及びシステムを売り物にしているわけであるが︑それは自動車部品︑金型︑電気部品の製作であり︑トヨ

タや日産・東芝・松下などに販売している︒

シンガポールの工場は︑昭和四八年一二月に設立し︑主として工作機械を製造している︒小林茂邦重役と籾

山昌弘工場長から工場の説明を聞き︑作業現場をみせて貰った︒この工場は︑落着いた雰囲気で︑現地の男性

が多い︒本社からマニュアルをもってきて︑この工場で︑工作機械を作り︑東アジアで販売するという︒タイ

のミネベァの工場と違って︑少し油嗅い︒だが現地人は懸命に働いている︒技術者が少なく︑引っぱりだこで

あり︑技術者不足に困っている様子である︒一方︑工場労働者の賃金が上がり︑新しい経営方法を導入したい

ともいっていた︒この工場の詳細なメモによって紹介したいが︑紙数の関係で省略したい︒質素な工場である

(26)

という印象をもった︒

この工場は︑中堅企業である︒従業員は︑一八八名(うち男性︑五〇名女性.一.O名︑日本人八名)平均して勤続年数

は約一〇年で︑全体として落着いているが︑最近では二年以内にやめる方がでてきているという︒工場労働者

の平均賃金は︑七五〇シンガポール(S)ドルから八〇〇Sドルで︑技術者は︑四〇〇〇Sドルから五〇〇〇S

ドルで︑平均すると一五〇〇Sドル(月約一〇万円)である︒基本生産は︑機械の加工︑組立で︑月一.一〇台を

製造し︑その六〇%を日本へ︑三〇%を米国へ輸出しているという︒工場長によると︑現地企業の悩みは︑技

術者の不足︑労働者の不足で︑賃金が高くなっているという︒その他メリットは人種上の差別はないという︒

今後製品は︑東アジア向けが多くなるだろうといっている︒

一方︑なぜシンガポールに進出したかときくと︑当初は︑賃金が安いこと︑法人税二七%(現在︑五%)で日

本の法人税より安い︒政府が外国企業導入に積極的であったこと︑さらに工業団地などを作り︑インフラもよ

く整備されていることなどによるという︒

今後︑シンガポールへの進出企業の一部は︑この地が東アジアで賃金が高く︑中国やベトナム︑タイなどへ

の工場移転を実施しているという︒

日テスコン工場を見る

同日︑午後︑森氏の案内でテスコンの工場を見学した︒この会社の概要から始めよう︒この会社は創業以来

一五年目︑﹁若さ溢れる研究開発型企業﹂である︒本社は︑神奈川県相模原市田名にある︒半導体テスターを手

始めに独臼の技術力により実装プリント基板検査用インサーキットテスターを開発し︑今目の基礎を築いたの

(27)

東 ア ジア研 究 の 旅 239

である︒また五年前から︑電子部品表面実装用チップマウンターと周辺機器も作り始めた︒その製造から検査

までの一貫ラインメーカーに発展したようである︒

その製品の販売先は︑沖電気︑カシオ計算機︑キャノン︑京セラ︑三洋電機︑シャープ︑ソニー︑東芝︑日

本電気︑日本コロンビア︑IBM︑日肱などである︒

同社の海外投資は︑テスコンアメリヵ社︑テスコン電子中国社(北京)そして︑海外営業拠点としてシンガ

ポール︑ロンドン︑マレーシアに小工場をおいている︒

シンガポールの小工場の従業員は三三人で︑日本人は三人で︑中園系人︑マレーシア人︑シンガポール人な

どで構成されていた︒ここでは︑同社の特色を最人限に生かし︑半導体の検査︑評価をきめ細く分析し︑問題

点を明らかにしていく検査工場であった︒

シンガポールの工場長である三浦浩三氏に︑現地の状況をきく︒彼は若く︑温和な中堅技術者であると思っ

た︒プリント基板検査用インサーキットテスタを開発したマニュアルをここで点検し︑その成果を︑商社を媒

介にし︑営業活動を続けているという︒小さなまち工場で︑現地人が中心で︑若い三浦さんが指導し︑﹁家族的﹂

経営指導をやっている感じである︒九二年にマレーシアに小工場基地を設け︑現地の良質な労働力と若年技術

者に依存し︑ひとつひとつ︑半導体の機器が有効に作用しているかどうかを精密に検査する仕事だ︒

その素材は日本から輸入しているという︒現地の若い労働者︑技術者が︑一流メーカーの半導体のテストを

する︒実装プリント基板検査用インサ1キットテスタを開発し︑最大限に活かしていると思った︒

工場での労働者の仕事ぶりは実直で︑小人数のせいか︑製作過程で︑友好的雰囲気で仕事をしている︒賃金

は現地人の平均水準より高いという︒こうした検査技術者を育成するのに時間がかかるともいっていた︒小規

(28)

模工場ではあるが︑若い技術者が相互に討論し︑ひとつひとつ点検をする姿勢に︑目本のまち工場の姿を感じ

た︒現地人と解け合い︑技術の高度化と︑人間性を結びつけて仕事をしているパフォーマンスに敬服した︒日

本にあり触れた中層建の一階が工場部分で︑ここを拠点にして半導体の器械の検査を点検するという仕事場に

改めて興味をもった︒

ミネベア︑岡本機械︑テスコンのそれぞれの大・中・小規模のL場を見学して︑いずれも経営者はそれぞれ

の違った条件を経営方式に最大限に吸収していると思った︒当然のことであろうが︑現地での日本企業の経営

人は︑いずれも︑活力に溢れ︑上から現地人を指導するというタイプではなく︑ボトム・アップ方式で現地人

の仕事に対する意欲を引き出し︑人間の仕事への情熱を醸し出す経営方針を採用している姿を見た︒それは二

場長の発言の中にも伺われたのである︒

大学教授三人の質問に緊張したのかも知れないが︑現地人の二⁝ズに対応して︑いかに現地に解け込み︑工

場の生産性を上げるかに興味をもった次第である︒

大学の研究室で︑東アジア研究の文献を見ても︑こうした個別企業の調査は少ない︒今後東アジア経済研究

は︑現地企業の具体的活動を調査した分析を必要とするであろう︒東アジアへの日本企業進出について︑その

実態を踏まえて︑改めて︑議論すべきではないかと考える︒もちろん︑現地での日本企業の真摯な活躍ぶりに

対して改めて敬意を表する︒と同時に課題も山積していることがわかった︒

こんどの私たちのタイのバンコク︑マレーシア︑シンガポールの調査の旅は︑一方で厳しく︑他方で︑楽し

い旅であった︒これほど厳しい研究の旅とは思わなかった︒と同時に毎日毎日が︑調査︑調査の旅であったか

ら楽しい旅でもあった︒

(29)

東 ア ジ ア研 究 の旅 241

東アジアの旅は︑わたくしたち東アジアの経済に対する従来のイメージを変えさせた旅でもあった︒

五 シ ン ガ ポ ー ル の 経 済 的 特 徴

さいごにシンガポールの経済的特徴をかいて結びとしたい︒

一九九三年の国内総生産(GDP)は八九〇憶六七〇万S(シンガポール)ドル︑国民総生産(GNP)は九〇

二憶三︑.一四〇万Sドルである︒GDPの成長率は︑九〇年八∴二%︑九一年六・七%︑九二年下がって五・

八%︑九三年九・九%と上昇した︒GDPの主要産業別構成をみると︑金融・ビジネスサービス業が二八・八

%と高く︑次は製造業.一七・五%︑商業︑一七・八%︑運輸・通信業︑一二・一%︑建設業七・四%︑農漁業

○・一%となっている︒ここで注目したい点は︑一般的認識として︑シンガポールは︑金融・サービス︑運輸

の拠点とされてきたが︑なんとマレーシアとの結びつきを強めながら︑製造業の拠点ともなっている︒製造業

二七・五%の中身をみると︑電子機器四〇・九%︑輸送機器七・二%︑石油製品︑七・○%︑金属加工︑六・

四%などとなっている︒シンガポールの産業が先端技術においていかに秀れているかを改めて知った次第であ

る︒岡本にしろ︑テスコンにしろ︑電子機器メーカーの一翼を担っていることを︑シンガポール全体の産業の

発展の中で︑改めて認識した次第である︒

ところで︑あの淡路島程度の面積で︑貿易も活発である︒九三年の貿易(通関ベース)は︑輸出が前年比一五・

六%増の一︑ 九四億七︑三〇〇万Sドル︑輸入が同一七二%増の一︑三七六億三〇〇万Sドルで︑貿易収

支の赤字幅は}八一億二︑九〇〇万Sドルとなった︒輸出の内訳をみると国産品輸出が;丁七%増の七五三

億九︑四〇〇万Sドル︑再輸出が同一九・一%増の四四〇億七︑九〇〇万Sドルとなった︒国産品輸出の中で

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も︑石油輸出が同八・六%増の一四五億11︑七〇〇万Sドル︑非石油輸出が同一四・九%増の六〇八億三︑七

〇〇万Sドルとなっている︒主要輸出品[としては︑コンピューター︑同部品・周辺機器︑半導体︑ディスク

ドライブなどがあげられる︒主要輸入品目としては︑電了部品︑石油製品︑食料などである︒

シンガポールへの外国投資をみると︑政府が誘致を促進している資本集約型産業︑高付加価値産業︑知識集

約型産業への投資が伸びている︒外資の国別内訳をみると︑九〇年以降四年連続で︑米国がトップ︑続いて目

本︑ECの順で︑これら三か国で︑九五・三%を11口めている︒九三年の製造業投資(内外資を含む)を業種別に

みると︑トップが電子製品・部品で︑以下︑工業用化学品︑輸送機器︑その他化学口⁝︑機械機器(電気関係を除

く)と続いている︒前述した投資のシェア︑米国第一といったが目本との差は○・八%であり︑九〇年末の投資

残高をみると︑米国七八億Sドル(︑.︑‑︒・八%)︑日本ヒ五億Sドル(︑...︑・○%)︑オランダ︑︑一八億Sドル(八・

..一%)︑英国︑二六億Sドル(七・九%)の順になっている︒

ここでついでにふれておくが︑シンガポールの消費物価上昇率は︑八九年︑二・四%︑九〇年三・四%︑九

一年三・四%︑九二年一・三%︑九三年︑一・四%である︒物価は︑比較的安定している︒ただし︑くるまの購

入にあたっては︑政府の制限規制があって︑登録順番によって購入する方式になっていて︑一般的に︑四百万

円の日本車を購入するに当って︑順番をまたずに購入すると︑八百万円になるという︒矛盾した話を聞いた︒

わたくしがオーチャード通りの地下のスーパーマーケットで買物をしたが︑日本の︑]分の一のねだんであっ

た︒たしかに実感として物価は安い︒

ところで︑日本とシンガポールの経済関係をみてみよう︒

一九九三年の統計によると︑日本に対する輸出額は約八九億Sドル︑輸入額約三〇一億Sドルで︑シンガ

参照

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