﹁ 看 督 長 見 不 注 進 状 ﹂ (九 条 家 本 ﹃延 喜 式 ﹄ 紙 背 文 書 )
に 関 す る 基 礎 的 検 討
前 田 禎 彦
は じ め に
101
検非違使庁は︑平安時代から南北朝時代に至るまでの長期にわたって平安京(京都)の警察・司法を担っ
た重要機関として知られている︒検非違使庁の構成員としては︑別当および佐・尉・志・府生からなる官人
かどのおさらとともに︑その下に雑任として看督長なる者たちが存在し︑さまざまな業務にあたっていた︒看督長につ
いては︑すでに膨大な数にのぼる検非違使研究の中でもしばしば言及されているが︑その多くは概説的記述
にとどまり︑彼らの勤務形態・勤務内容あるいは存在形態について必ずしも十全な検討が行われてきたわけ
ではない→)︒全体の考察はあらためて別稿で行う予定であるが︑本稿では︑そのための準備作業として︑従
来から存在はよく知られている長元八(一〇三五)年の﹁看督長見不注進状﹂を取り上げ︑その内容につい
て基礎的検討を加えておきたいと思う︒
九条家本﹃延喜式﹄の紙背文書には十世紀末から十一世紀前半にかけての検非違使庁関係文書が多数含ま
表1長 元8年 「看督長見不 注進状」(九 条 家本 『延喜式』紙背文書)
番 号 月 ・ 日 内 容 署 名 者 書 式
ー ー ー ー
;
; ー ー ー a b C d e f g h l ー ー ( ー ー ー
♂
」
「 覧
ー ー
529 530 531 532 533 534 535 536 537
616 7i
口 ・ 口
?X6 82 8・1口 9.1 9・16 1Q28
6月 上 番 6月 下 番
〔〕月 上 番 7月 上 番 7月 下 番 8月 ヒ番 8月 下 番
左 衛 門 府 生 坂 上 時 通 左 衛 門 府 生 坂 上 時 通
Al Al A2 Al Al Al Al B A2 左 衛 門 府 生 坂r ̲時 通 左 衛 門 府 生 坂 上 時 通 左 衛 門府 生 坂 上 時 通
10月 下 番 左 衛 門 府 生 上 村 主 重 〔]
れているが︑﹃平安遺文﹄は︑そのうち長元八(一〇三五)年の計九通の文書を﹁看
督長見不注進状﹂と題し︑一括して収載している(表1)(2)︒これらは︑長元八
年(一〇三五)六月から十月までの看督長の勤務状況を記録した文書で︑看督長
に関する最もまとまった史料であるにもかかわらず︑従来︑その利用は部分的な
ものにとどまっていた︒そこで本稿では︑この九通の文書を一つの文書群と把握
し︑全体として︑そこから如何なる情報が得られるかを見てゆきたいと思う︒
﹁見 不 参 注 進 状 ﹂
と﹁ 番 闘 注 進 状 ﹂
まず︑文書の書式から検討を始めよう︒﹃平安遺文﹄は︑この一連の文書を﹁看
督長見不注進状﹂と一括して題しているが︑その書式を見てみると︑次のA1︑
A2︑Bの三種に分類できる(表1参照)(3)︒
A1注進左右看督長番役見不参事
左
見参○○○○○○○○○○○○
不参○○○○○○○○○○○○
右
「看 督 長見 不 注 進 状 」(九 条 家 本 『延 喜式』 紙 背 文 菩)に 関 す る基 礎 的検 討 XO3
A2
B 見参○○○○○○○○○○○○
不参○○○○○○○○○○○○
右︒今月上(下)番十五(十四)日番役見不参注進如件︒
年月日左(右)衛門府生○○○○
注進左右看督長今月上(下)番見不参事
見参
左○○○○○○○○○○○○
右○○○○○○○○○○○○
不参
左○○○○○○○○○○○○
右○○○○○○○○○○○○
今月上(下)番十五(十四)日見不参注進如件︒
年月日左(右)衛門府生○○○○
注進番閾看督長事
左○○○○△度△月上(下)番
○○○○△度△月上(下)番
右○○○○△度△月上(下)番
○○○○△度△月上(下)番
右︒注進如件︒
年月日左(右)衛門府生○○○○
まず︑Al︑A2は書出・書止および左右・見不参の別の記載順序に相違があるが︑ともに各月の上番・下
番それぞれにおける看督長の見参・不参の歴名を記した文書であり︑内容上の差異はまったくない︒そこで︑
本稿ではAl︑A2をともに﹁見不参注進状﹂と呼ぶことにする︒その記載内容は末尾に別表として掲載し
たのでご確認いただきたい︒このうち︑Alにあたる六通の文書は六月上番から八月下番までの看督長の見
参.不参の状況を記し︑A2の二通は︑㈲の五三一号文書が某月上番の︑ωの五三七号文書が十月下番の看
督長の見参.不参の状況を記録している︒それぞれの文書作成責任者の署名を見てみると︑不明の㈲︑ωの
二通をのぞき︑六月から八月までのA1では﹁左衛門府生坂上時通﹂であるのに対して︑十月のA2では﹁左
ハゑ 衛門府生上村主重口﹂に変化していることが分かる︒したがって︑A1とA2の書式の相違は︑九︑十月以降
に文書作成の責任者が坂上時通から上村主重基に交替したことに起因する可能性が高い︒
いっぽう︑書式Bにあたる一通の文書は︑六月上番から九月上番までの看督長の﹁番閾﹂︑すなわち欠勤の
回数を記したもので︑Aの文書の記載内容を集計した文書である︒そこで︑Bは﹁番閾注進状﹂と呼称して
Al︑A2の﹁見不参注進状﹂と区別することにしよう︒
要するに︑﹃平安遺文﹄が収める九条家本﹃延喜式﹄紙背文書の﹁看督長見不注進状﹂には︑各月の上番・
下番における看督長の見参.不参を記録したAの﹁見不参注進状﹂と看督長の﹁番閾﹂11欠勤の回数を記録し
たBの﹁番闘注進状﹂の二種が存在しているのである︒
「看 督 長 見 不 涯 進 状 」(九 条家 本 『延 喜式 』 紙背 文 占)に 関す る 基 礎 的 検 討
105
二 看 督 長 の 勤 務 形 態
次に︑A・Bの各文書にもとづき看督長の勤務形態について検討してみよう︒まず︑A﹁看督長見不注進
状﹂から看督長の姓名︑各月における見参・不参の状況を抜き出した上で︑B﹁番閾注進状﹂における﹁番閾﹂
の記載を加え︑長元八年(一〇三五)六月から十月までの看督長の勤務状況をまとめると表2のようにな
る?)︒この表から︑他官司に属する雑任の場合と同様に︑看督長は一ヶ月を上番(前半の十五日間)と下番
(後半は月の大・小により十四[口間または十五日間)との二組に分けて︑グループ別に番上するという勤務形
態をとっていたことが確認できる︒ただし︑表2によると︑長元八(一〇三五)年の場合︑そのグループ編
成は①六月上番から八月下番までと②十月下番との間に変化の存在したことが判明する︒そこで︑各グルー
プの編成のあり方を見てみよう︒
まず︑前者の六月上番から八月下番までは︑上番が十七名(うち左は九名︑右は八名)︑下番が十七名(う
ち左は九名︑右は八名)の計三十四名によって構成されており︑その間に構成員の変化が若干見られるものの︑
左・右および上番・下番の問に異動は確認できず︑この間︑看督長はほぼ同一編成で勤務していたことが分
かる(5)︒
これに対して︑後者のf月下番のω五三七号文書は計卜六名(うち左は八名︑右は八名)からなり︑前者
表2長 元8(1035)年6月 〜10月 に お ける看 督 長 の 勤務 状 況
状進注閥番 上8L
上66 下8︑
下下7h6 状進沈閥番 上9伝
上ヒ888 D口儒口虫下78
︑︑ト下下ド下86688
月ヒ某 一一x一一〇△=一〇一﹁一一〇一〇△期 上一{OO一一=}=一=一⁝△○
月下10上△ 一一〇一}}△﹁一△OOO}x}一月 .下10上⁝一一一一=一O△△△△x△○} 月下9上月F9ト 月下8ヒ
△ xO△O△OO OxxOOOO×△月ド8上
一xOOxxO× xxx△x×△0 月下7LL△△OO△0△○△ OxOOOOOO△月ド7LL
○○○OOOOO OxOOO△△○
月下6‑r.△OxO△○OOx OOO一〇〇一x﹁月下6止△△一〇〇〇〇△ Qxx一〇〇〇〇
名
姓 松松友武吉光友行高行 吉正吉時今行重常部
原茂蔵 下使 縣大賀紀内 日調伴伴
重信正兼信時信包高成常時信助兼豊成重
上原原原済橋
石猪大川紀清清 百高
重春野
匡 名姓 成重時則延安光延清春久松秋種守安野倍 毛原上井井
安 上清坂秦秦藤藤
本信成延頼頼松景
是光宮高 重信友残,
智済部米守守田
恩 百雀多津津水山
.'⁝口
O=
南123456789O123456781量1111書ムLll19陥12345678910111213141516 70011
左上下右L下
見 参 ○ 不 参:有 故 △ 無 故x
「看 督 長見 不 注 進 状 」(九 条 家 本 『延 喜式』 紙 背 文 書)に 関 す る基 礎 的 検 討 107
では上番であった看督長三名(左恥1縣行松︑恥5内蔵時吉︑恥9伴常高)が下番に異動しているという変
化が見える︒次に︑某月上番の㈲五三一号文書を十月下番のω五三七号文書と対比してみると︑ともにA2
の書式であること︑横⁝成員に重複のないことの二点から判断して︑㈲五三一号文書のメンバーとω五三七号
文書のメンバーは︑両者あいまって上番・下番一組を構成していたと見なすことができる︒史料の残存状況
から考えれば︑㈲五三一号文書は十月上番または十一月上番︑強いて言えば十月上番の看督長の勤務状況を
記した文書であったと推測してもよいだろう︒以上の点を踏まえた上で︑あらためて㈲五三一号文書のメン
バーを見てみると︑計十一名(うち左は七名︑右は四名)のうち六月から八月まで下番であった左看督長三
名(左恥11猪常信︑恥16清原豊信︑恥18高橋重高)が上番へと異動していることが判明する︒
さらに︑六月から八月までの旧メンバーと十月以降の新メンバーを対照すると(表3)︑右から左へと異動
した一名の看督長(右恥2︑左恥19の上毛野春重)や︑六月から九月までの期間には姿が見えながらも十月
以降には消えてしまった七〜九名の看督長(左翫2大原吉松︑恥4紀吉武︑恥8伴重行︑恥11石上成重︑右
漁‑安倍清成︑恥5秦秋延︑恥6秦種安︑恥7藤井守光︑恥8藤井安延)の名前を確認することもできる(6)︒
つまり︑九条家本﹃延喜式﹄紙背文書から︑長元八(一〇三五)年六月から十月までの間に二組の看督長
のグループが存在し︑その間に︑①構成員の交替(三十四名から二十七名へ)︑②左・右および上番.下番の
問における構成員の異動をともなった編成替えの行われたことが確認できるのである︒
それでは︑この編成替えはいつ実施されたのだろうか︒書式Bの九月十六日の﹁番闘注進状﹂は︑六月上
番から九月上番までの﹁番閾﹂を記した文書なので︑そのグループ編成は六月上番に始まり︑少なくとも九
表3長 元8(1035)年 に お け る看 督 長 の 新 旧構 成 員
左 旧 新 右 旧 新
上 1縣 行 松 3賀 茂 正 友 ヒ 1安 倍 清 成 3清 原 久 時 2大 原 吉 松 6日 下 部 今 光 2上 毛 野 春 重 4坂 ヒ 松 則
3賀 茂 正 友 7調 使 行 友 3清 原 久 時 17〔==コ 信
4紀 吉 武 11猪 常 信 4坂 上 松 則 18〔=====コ
5内 蔵 時 吉 16清 原 豊 信 5秦 秋 延
6日 下 部 今 光 18高 橋 重 高 6秦 種 安
7調 使 行 友 19ヒ 毛 野 春 重 7藤 井 守 光
8伴 重 行 8藤 井 安 延
9伴 常 高 下 9恩 智 是 本 9恩 智 是 本
ド 10石 上 成 重 1懸 行 松 10百 済 光 信 10百 済 光 信
11猪 常 信 5内 蔵 時 吉 11雀 部 宮 成 11雀 部 宮 成
12大 原 時 正 9伴 常 高 12多 米 高 延 12多 米 高 延
13川 信 兼 12大 原 時 正 13津 守 亟 頼 13津 守 重 頼
14紀 助 信 13川 信 兼 14津 守 信 頼 14津 守 信 頼
15清 原 兼 時 14紀 助 信 】5水 田 友 松 15水 田 友 松
16清 原 豊 信 15清 原 兼 時 16山.,‑7景 16山 零 景
17百 済 成 包 17百 済 成 包 18高 橋 重 高
月上番までは続いていたと見なすことができる(7)︒
Bの﹁番閾注進状﹂は︑看督長の勤務状況を番ごとに
記したAの﹁見不参注進状﹂にもとづき作成された文
書で︑看督長の編成替えのために作成され︑新たなグ
ループ編成を行う際の資料として利用された文書だっ
たのであろう︒したがって︑この年の新たなグループ
編成は九月下番を機に実施されたと考えられる︒そし
て︑以後︑文書の作成責任者が坂上時通から上村主重
基に変化しているのも︑グループの編成替えにともな
い同時に担当者も交替したためであったと判断できる
のである(8)︒
以上︑A﹁見不参注進状﹂とB﹁番閾注進状﹂から
看督長の勤務形態を概観してきたが︑それでは︑これ
らの文書は検非違使庁において︑どのように利用され
たのであろうか︒別稿で論じたように︑検非違使庁の
業務は︑本来︑佐・尉・志・府生の各検非違使官入が
参加する︑着欽政をはじめとした︿政﹀の行事によっ
「看 督 長 見 不 注 進状 」(九 条 家 本 『延 喜式 』 紙 背 文 菩)に 関 す る基 礎 的検 討 109
て処理されることになっていたが(9)︑︿政﹀においては﹁看督長見不参帳﹂あるいは﹁看督長見不参文﹂な
る文書が佐以下の検非違使官人に供覧されていたことが知られる(‑o)︒これは︑その時の︿政﹀における看督
長の見参・不参を記した文書である可能性もなくはないが︑これまでに見てきた看督長の日常の勤務状況を
記録したA﹁見不参注進状﹂やB﹁番闘注進状﹂を指すと考えることも可能である︒とすれば︑佐以下の検
非違使官人たちは︑これらの文書により看督長の勤務状況の把握に努め︑看督長たちの監督にあたっていた
と言えるだろう︒すなわち︑A﹁見不参注進状﹂やB﹁番閾注進状﹂などの文書は︑随時行われる看督長の
任免・編成のための資料として活用されたと考えられるのである︒
三 看 督 長 の 勤 務 内 容
天慶五(九四二)年閏三月二十八日検非違使別当宣に﹁看督長之職︒難晶秩卑微︒随公務之役︒逐・日繁多﹂
とあるように(n)︑看督長の職掌はじつに多岐にわたり︑その業務は多忙をきわめる︒諸記録からは看督長が
検非違使官人の指示下で犯人の捜査︑追捕︑取り調べ︑刑罰の執行︑獄直など検非違使庁の警察.司法活動
の第一線で活躍していたようすがうかがえるが︑その活動の詳細は別稿に譲ることにして︑ここでは︑﹁見不
参注進状﹂に付記された見参・不参の事由に関する注記に即して看督長の勤務内容について検討してみたい︒
﹁見不参注進状﹂では︑不参の場合︑その理由を記した注記が多く存在しており︑見参の場合にも一部に注記
が認められる︒表4はその内容を列挙したものである︒
表4長 元8(1035)年 「見 不 参 注 進状 」 に み え る見 参 ・不 参 の 事 由
fl̀tf一モ 日 参(530猪 常 信 、 恩 智 是 本) 七 日 参(532秦 種 安)
一日 参(534伴 常 高) f21直 役 畏(533雀 部 宮 成)
獄 直(535清 原 豊 信) (3}弓 場(535紀 助 信 、 川 信 兼) i41馬 場(535山 寄 景 〕
〔5)伊 勢(535清 原 兼 時) (1}無 故 ・無 故 不 参
② 病(529・532・534内 蔵 時 吉 、532伴 常 高 、533津 守 信 頼)
〔3坤 假 城 外(533高 橋 重 高)
假(535高 橋 重 高 、 水 田 友 松 、 多 米 高 延)
141長 斎(529・532・534縣 行 松 、532・534調 使 行 友)
〔5}使(533水 田 友 松)
(斗 勺(平)
右 尉 手 使(537大 原 時 正)*右 尉 手=,.直 方 。
左 志 忠 方 使(529藤 井 安 延)、 忠 方1吏(532大 原r,松) 、 左 志 忠 使(532秦 高 口)
*左 志 忠 方=惟 宗 忠 方 。
右 志 成 使(537百 済 光 信)*右 志 成=中 原 成 通 。
左 府 生 重 基 使(531調 使 行 友)*左 府 生 重 基=上 村 主 重 基 。
右 府 生 貞 澄 使(537伴 常 高)、 右 府 生 〔==コ(531〔==コ 信)
*右 府 生 貞 澄=秦 貞 澄 。
(6)左 志 豊 道 共(537津 守 重 頼)*左 志 豊 道=粟 田 豊 道 。
{7)河 内 国 追 捕 官 人 供 給 使(529E毛 野 春 煎)
ごも
大 和 供 口 催 使(537雀 部 宮 成 ・水 田 友 松 ・縣 行 松) (8}候 左 獄 政 所(529安 倍 清 成)
各守次第の可勤獄直Lという原則に
もとづき︑看督長は五日ごとに交替しな
がら順番に獄直を務め︑理由なく務めを 非違使別当宣によると︑﹁左右看督長等︒ 宿直︒応和(九六三)年七月十三日検 吻の﹁獄直﹂・﹁直役畏﹂は︑検非違使
庁が管理する平安京の左右獄所の警護・ 示している︒ た︒﹁某日参﹂は︑その看督長が遅参して︑
番上期間の途中から勤務を始めたことを から月の大・
は三十日まで
番 小
に上いてっなりまきるす 九いるあ日じ十二て応に ︑でま日五十ら日↓は番か べ︑にうたよ述先︒ていに まω︑ずめ︒いた始をのヨ
下 看督 某
長は︑上
番は十六日 1﹁見参﹂の事由
最初に﹁見参﹂に関する注記から検討
「看 督 長 見 不注 進状 」(九 条家 本 『延 喜式 』 紙 背 文 書)に 関す る 基礎 的検 討 111
怠ること三度に及べば︑その職を解くことになっていた(12)︒この別当宣は﹁他役﹂を盾に看督長が獄直を怠
ることを戒めたもので︑平安京近郊の津に赴き京周辺にある場合や﹁他事﹂に従っている場合であっても︑
つまり公務に従事している場合であったとしても︑﹁獄門﹂にいったん戻って﹁本直﹂11獄直を務めなければ
ならないと規定する︒獄直が看督長の職務として何よりも重視されていたことがうかがえるだろう︒長保五
(一〇〇三)年十一月二十八日検非違使別当宣にも﹁看督長職者︒獄直為レ最︒従レ政為レ善﹂と見えているよ
うに(13)︑多岐にわたる看督長の職掌の中でも︑この獄直こそが最も基本的な任務であった︒
偶﹁弓場﹂は左衛門府弓場のこと︒別稿ですでに検討したことであるが︑左衛門府弓場は本来射芸を教習・
披露する場であるが︑十世紀中・後期以降は勅裁(天皇の裁き)の対象となる訴訟や事件の当事者・関係者
を拘禁・勘問(取り調べ)する場としても利用されていた(14)︒そのため︑獄所の場合と同様に看督長が配置
され︑その警護・管理に当たっていたものと思われる︒また︑㈲の﹁馬場﹂は︑﹁弓場﹂と同じく衛門府馬場
とも考えられるが︑検非違使官人が衛門府馬場をその業務に利用した事例は目下のところ確認できないので︑
検非違使官入が勘問の場として利用していたことが知られる左近衛府馬場であるのかもしれない(15)︒いずれ
にせよ︑﹁弓場﹂と﹁馬場﹂は︑ともに検非違使官人が警察・司法活動にあたって利用する場であり︑そうし
た場における看督長の勤務は﹁獄直﹂に準じて理解することができるだろう(16)︒
2﹁不参﹂の事由
いっぽう︑﹁不参﹂の事由をめぐって﹁番閾注進状﹂は︑ω﹁無レ故﹂・﹁無レ故不参﹂の場合︑すなわち理由