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中東和平とイスラエル経済 : 90年代の発展と2000 年以降の低迷

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中東和平とイスラエル経済 : 90年代の発展と2000 年以降の低迷

著者 佐藤 千景

雑誌名 同志社商学

巻 60

号 5‑6

ページ 102‑119

発行年 2009‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007401

(2)

中東和平とイスラエル経済

──90年代の発展と

2000

年以降の低迷──

佐 藤 千 景

はじめに 平和の配当 和平の後退 新たな課題

おわりに

世界的な景気後退の波がイスラエル経済を直撃し,中でもこれまでこの国の経済の牽 引役として急成長したハイテク部門に苦戦を強いている。その理由は第

1

に同部門が極 めて輸出指向的な産業で構成されていることに求められるであろう。2000年代初頭に 世界規模で

IT

バブルが崩壊したときも,この国は

2

年連続でマイナス成長を経験した が,それは海外でのハイテク製品に対する需要が低下し,同部門の輸出額を大きく減少 させたことが一因となっていた。当時,イスラエルのハイテク部門は製品の

6

割以上を 輸出向けに生産する程,海外市場に依存していたのである。現在その比率は若干低下し ているものの,2008年夏以降継続して見られている製造業製品の輸出の減少も,同様 にハイテク分野の輸出減少が影響しているものと考えられ

1

る。

また他の産業と比べて外資の比重が高いことも,この部門が対外的な環境変化の影響 を受けやすい状況にしている。特に研究開発部門については産出額の

60% が外資に由

来するものである

2

が,HP,マイクロソフト,インテル,IBM,シスコシステムス,グ ーグルなど,約

200

カ所存在する海外企業の設立した

R & D

センターのうち,2008年 の間だけですでに

9

カ所が閉鎖されている。景気後退の中で親会社が直面している売り 上げの低迷がその主な理由であるが,最近の著しいドル安もここに影響している。

多くの企業がイスラエルに開発部門を設置したのは,単に優秀な人材に引きつけられ たことのみならず,比較的人件費が安かったことにあるとされている。しかし現在,イ

────────────

Israel Central Bureau of Statistics, Main Economic Indicators, September−November 2008, http : //www.cbs.

gov.il/hadaot 2008 n/22_08_277 t 1.pdf(2009/01/01)

Israel Central Bureau of Statistics, Multinational Enterprises Activities in Israel : Israeli affiliates of foreign companies, http : //www.cbs.gov.il/www/hodaot 2008 n/09_08_223 t 20.pdf(2009/01/01)なお,数値は2005 年現在のものである。

2(294

(3)

スラエル人エンジニアの賃金はアメリカ人とほぼ同額であり,東欧やアジアに比べれば 遙かに高い。事実,エルサレムの

R & D

センターの閉鎖を決定したアムドックス社 は,解雇した

200

人のイスラエル人の代わりにより賃金の安いインド人のプログラマー やエンジニアを採用することを示唆してい

3

る。

そうでなくてもここ数ヶ月でイスラエルの労働市場は著しく悪化しており,求人数は

2007

年の同じ時期と比べてすでに

57% も下落してい

4

る。イスラエル政府は危機に対応 するため,直ちに緊急の経済対策を発表して雇用や公共事業への支出を大幅に増加する ことを決定し

5

た。またイスラエル中央銀行も

2008

9

月に

4.25% であった政策金利を

段階的に引き下げ,2009年

1

月には史上最低の水準となる

1.75% にまで低下させてい

6

る。

しかしこうした景気対策が,直ちにこの国の経済指標を上向かせることは難しいであ ろう。なぜなら今回の危機が「100年に一度」と言われる程深刻であること,そして何 よりも,2008年

12

月末以降,約

3

週間に渡って展開されたガザの大規模な軍事作戦 が,再びイスラエル経済に大きな負担を課そうとしているからである。作戦開始直後,

イスラエルのハ・アレツ紙は,「概算にはまだ早い」としながらも,今回の軍事作戦に かかる直接的な費用は数億から数十億シェケルに上るのではないかと予想してい

7

た。こ の概算通りであれば,イスラエルの財政赤字は一層拡大することとなる。加えて今後も 治安状況が完全に回復しなければ,通貨の下落や株式市場の崩壊,外資流入の減少,石 油価格の高騰などを招く恐れもあるだろう。かつてのアラブ・ボイコットが全世界レベ ルで展開し,再び取引の縮小をもたらす可能性もある。

1948

年の独立以降,イスラエルの経済は数度の戦争と頻発する民族間衝突に常に足 を取られてきた。この状況を大きく変化させたのが

90

年代に進展した中東和平であっ た。結果,イスラエルはアラブ地域を初めとする諸国との関係改善を果たし,通商面を 大きく好転させたのみならず,カントリーリスクが著しく低下したことによって,多く の外資を呼び込むことにも成功した。こうして

90

年代のイスラエル経済は,年平均

5

────────────

Haaretz,Dec. 14, 2008, http : //www.haaretz.com/hasen/spages/1046228.html(2008/12/15)

Haaretz,Dec. 12, 2008, http : //www.haaretz.com/hasen/spages/1046098.html(2008/12/13)

Ministry of Finance(Israel)

(ロニー・バロン財務相,世界的な景気減速に対して積極的に経済を加速化させるための一連の政策,

「加速化計画」を経済閣僚に紹介),Nov. 19, 2008, http : //www.dover.mof.gov.il/Mof/Dover/MofDoverTop- Nav/MofDoverSubjects/MofDoverSubjects_2008/MofDoverSubjects_2008_11/News 2008_11_20.htm(2008/12/

01)

Bank of Israel,Rates of interest published by the BOI, http : //www.bankisrael.gov.il/deptdata/monetar/interest/

bointcre.htm(2009/01/04);Bank of Israel, The Bank of Israel reduces the interest rate for January 2009 by 0.75 percentage point to 1.75 percent, http : //www.bankisrael.gov.il/press/eng/081229/081229 b.htm(2009/01/

04)

Haaretz,Dec. 28, 2008, http : //www.haaretz.com/hasen/spages/1050466.html(2009/01/04)

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 295)1

(4)

%を越える高い経済成長率を可能としたのである。ところが,当初順調に進むと考えら れていた和平交渉は

2000

年前後から停滞し始め,それと同時に経済状況も再び一進一 退の状況を続けている。

情勢の安定が経済に多くの利益をもたらすことをすでに経験しているにもかかわら ず,そして経済状態の悪化が一層治安の改善を困難にする原因となりかねないにもかか わらず,なぜ交渉は合意に至らないのか。本稿ではまず

90

年代における和平の進展が イスラエルにもたらした様々な恩恵とその背景を整理した上で,2000年以降交渉を停 滞させているいくつかの事情について紹介したい。

平和の配当

1.オスロ合意

1993

9

月,イスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスチナのヤセール・アラフ ァト議長(当時)との間で,パレスチナ暫定自治原則合意が調印され,長年にわたるパ レスチナ問題に解決の糸口が示されることとなった。一般的にオスロ合

8

意と呼ばれるこ の合意は,まずガザ地区およびヨルダン川西岸のエリコで先行自治を開始し,次に自治 地域を拡大し,さらに当面

5

年間と定められた自治期間終了後のガザ地区や西岸地区の 最終的な地位を決定するための交渉を行うという

3

段階の枠組みで構成されていた。約 半世紀にわたりお互いを交渉相手としてどころか,その存在さえも認めることがなかっ た両者が,将来的な

2

国間国家の可能性を示唆するこの合意に至った背景の

1

つに,両 サイドの経済事情があるとされている。

90

年代初めの湾岸戦争時にパレスチナはイラクを支持したが,それはこれまで同地 域の独立を応援し,経済的な支援を行っていたアラブ産油国を敵に回すということを意 味していた。それゆえ多くのパレスチナ・アラブ人は主要な出稼ぎ先であったクウェー トをはじめとする産油国から追放され,さらには資金援助さえ打ち切られてしまった。

その結果,湾岸戦争直後の

PLO

の年間収入は以前の

3

億ドルから

4000

万ドル程度に まで激減し,職員に対する給料の未払いを初めとして,その組織運営に大きな支障を来 してい

9

た。当時の

PLO

は,故アラファト議長によって設立されたファタハを最大派閥

────────────

オスロ合意とは,暫定自治と最終的地位交渉に関するスケジュールを定めた原則宣言(19939月) ガザ・エリコにおける暫定自治を先行的に行うことを合意したカイロ合意(19945月),暫定自治区 の拡大と総選挙を実施して正式に自治政府を発足させることを規定したパレスチナ拡大自治協定(1995 9月),ヘブロン市街からのイスラエル軍の撤退を決めたヘブロン協定(19971月),西岸からの イスラエル軍の追加撤退に合意したワイリバー合意(199810月),和平交渉を仕切りなおしたシャ ルム・シャイフ覚書(19999月),難民の扱いに関するタバ協定(200012月)など,一連の協定

・覚書の全体を指すものである(臼杵陽『世界化するパレスチナ/イスラエル紛争』岩波書店,2004 年,71ページ)

立山良司『中東和平の行方』中央公論社,1995年,51ページ。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

4(296

(5)

としていたが,資金難が続く中で

PLO

内部ではイスラム原理主義組織ハマスなど,他 組織の勢力が拡大しつつあった。それゆえ,ファタハがこれまで通り

PLO

内部で主流 派を維持し,また中東の中で孤立し始めたパレスチナ・アラブ人が生き残っていくため には,もはやイスラエルとの和解を足がかりとすることしか残されていないという状況 であったのだ。

他方で長年にわたり財政赤字に苦しんできたイスラエル政府も,安全保障のためにも はやこれ以上の費用を維持することはできないという結論に達していた。第

4

次中東戦 争時に

GDP

の約

30

パーセントを占めていた軍事支出は,その後徐々に縮小しつつあ ったものの,1980年代前半においても

GDP

の約

20

パーセント前後で推移していたか らであ

10

る。とはいえ当初イスラエルは,同国が「テロリスト集団」と考える

PLO

を相 手に,いかなる交渉も妥協も考えてはいなかった。しかし

1992

年のイスラエル総選挙 で労働党が躍進して和平推進派の連立政権が樹立され,他方でハマスなどパレスチナ側 の和平反対派の勢力拡大が懸念され始めると,ついにイスラエル政府は「唯一交渉能力 を持っている

PLO

と直接交渉をすべき」と考えるようになったとされてい

11

る。

2.域内協力の進展

オスロ合意の締結は,イスラエルとパレスチナとの間にのみ和平実現の可能性を生み 出しただけではない。両者の対立が継続する中で,これまでイスラエルとの関係を築く ことができなかった諸国との関係改善にも大きく貢献した。事実,2008年現在イスラ エルと外交関係のある

162

カ国のうち,69カ国はマドリードで中東和平会議が開催さ れた

91

年以降,新たに増加または更新された部分であ

12

る。

こうした諸外国との関係改善は,イスラエルの政治面のみならず,経済面にも好影響 を与えた。たとえば

1991

年に

4.1

パーセント減を記録したアジア地域への輸出は,92 年には

52

パーセント,93年には

49.6

パーセント,94年には

25.8

パーセント,95年に は

24.4

パーセントの増加を示している。また

95

11

月にはかねてからの念願であっ た

EU

との自由貿易協定も締結され

13

た。

近隣アラブ諸国との関係にも変化が生じている。エジプトに加え,92年にはヨルダ ンとの国交正常化も達成された。モロッコ,チュニジア,オマーン,カタールにはイス

────────────

Israel Central Bureau of Statistics,Statistical Abstract of Israel 2008, p. 27およびp. 612の数値を利用して 計算。

1 同上書,50ページ。

Ministry of Foreign Affairs(Israel),Israel’s Diplomatic Missions Abroad,http : //www.mfa.gov.il/MFA/About

+the+Ministry/Diplomatic+missions/Israel−s+Diplomatic+Missions+Abroad.htm(2008/12/13)

Ministry of Foreign Affairs(Israel),The Fruits of Peace, Aug. 22, 2000, http : //www.mfa.gov.il/MFA/Peace

%20 Process/Guide%20 to%20 the%20 Peace%20 Process/THE%20 FRUITS%20 OF%20 PEACE(2008/12/

13)

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 297)1

(6)

ラエルの通商代表部などの出先機関が開設され,イスラエルの閣僚がこうした諸国への 公式訪問を行うことも可能となった。

イスラエルとアラブ諸国間との関係改善は,中東全域での経済発展の可能性を模索す ることにもつながり始めた。たとえば,1994年

10

月にはモロッコのカサブランカで第

1

回中東・北アフリカ経済サミットが開催され,世界各国から

1200

人を超えるビジネ スマン,政府関係者が参加したが,その中にイスラエル,アラブ諸国双方の代表者の姿 が見られた。このサミットで採択された「カサブランカ宣言」には,アラブ・ボイコッ ト撤廃の必要性,中東・北アフリカ経済共同体の創設の検討,中東・北アフリカ協力開 発銀行を含む資金循環メカニズムを検討するための専門家の会合の開催,観光資源開発 と観光産業育成のための地域観光委員会の創設,地域商工会議所およびビジネス協議会 の創設などが盛り込まれていた。翌年にはヨルダンのアンマンで第

2

回目となる経済サ ミットが開催され,さらに踏み込んだ議論が展開される中で,中東・北アフリカ開発銀 行,中東・地中海観光連盟,地域ビジネス委員会などの創設も決定され

14

た。

3.国内経済の好転

(1)軍縮政策とハイテク産

15

業の発展

和平は対外的な経済状況の改善のみならず,イスラエル国内の経済にも直接的な好影 響を及ぼした。その第

1

にあげられるのが,政府による軍縮政策とそれに伴うハイテク 産業の発展である。イスラエル政府は財政難が継続する中で,すでに

80

年代後半頃か ら軍事費の削減を余儀なくされていたが,和平に対する楽観的ムードが漂い始める中 で,90年代後半には

GDP

に占めるその比率を一挙に

8

パーセント台にまで引き下げる ことに成功していた。それはイスラエル政府が長い間必要に迫られつつも,安全保障上 の理由などから実施することのできなかった公的部門の民営化をも促し,経済の自由化 にも寄与することとなった。同時に軍事部門も縮小されたのであるが,その際,最先端 の軍事技術が民需用に転換されて国全体の技術力を引き上げ,イスラエルのハイテク部

────────────

4 畑中美樹「中東・北アフリカ経済サミットの動向分析」(中東経済研究会編『中東開発』名著出版,1998 年),65−71ページ。

5 イスラエル中央統計局では製造業を技術水準別にHigh Tech, Medium High Tech, Medium Low Tech,

Low Tech4つに区分し,それぞれHigh Tech:電子部品・コンピュータ,制御装置,航空機,医薬品

など,Medium High Tech:石油精製品,化学製品(医薬品をのぞく),機械,電気モーター,輸送機器

(航空機をのぞく)など,Medium High Tech:鉱業,ゴム・プラスチック,その他金属・鉱物,宝石類

・装身具など,Low Tech:食品・飲料,たばこ,テキスタイル,衣料,皮革製品,製紙,印刷,木材製品

・家具などに分類しているが(

イスラエル中央統計局『統計28 製造業1990−2001』,20028月, http : //www.cbs.gov.il/statistical/indust 01_h.pdf(2009/01/01),本稿ではこのうちHigh TechおよびMedium High Techに分類されているもの の一部,および情報通信技術,医療機器,マルチメディア・エレクトロニクス,バイオテクノロジー,

代替エネルギーなども加えた,一般的に高度な科学技術が応用されていると考えられる項目を全体的に ハイテク部門として捉えている。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

6(298

(7)

門の発展に大きな影響を与えることとなったのである。

イスラエルは常に準戦時体制下に置かれていたため,国の存亡をかけて独立直後の

1940

年代末からすでに兵器の国産化を目指していた。すでに第

1

次中東戦争の最中 に,現在イスラエル軍の要請に従って各種研究開発プロジェクトを遂行している軍事企 業ラファエルの前身である国防軍科学軍団が創設され,また

1954

年にはイスラエル航 空機産業会社(2006年

11

月よりイスラエル航空宇宙産業会社に名称変更:以下

IAI

社)が軍用機の機体・エンジンの補修と整備とを行う機関として設立されている。その 後第

3

次中東戦争時にイギリス,フランスによる対イスラエル全面的武器禁輸措置が取 られたことによって,武器の自給が一層重要視されることとなったが,第

4

次中東戦争 以降は,自国の軍事的自給を満たすのみならず,国産の兵器輸出にも積極的姿勢を示す ようになっ

16

た。

その結果,イスラエルでは戦闘機やそのエンジン,小型艦艇,装甲車両,ミサイルな どの先端技術兵器を大規模に生産することが可能となっていたが,軍縮政策の下でそれ らの技術が様々な民生用途に応用されていったのである。たとえば既述の

IAI

社は,

軍事技術を民間で利用するためにメディス

EL

というベンチャー企業を設立し,人間の 免疫システムを利用したガン診断システムを開発し,最先端の医療技術分野で活躍して い

17

る。2007年に日本でも使用が認められたギブン・イメージング社のカプセル型内視 鏡は,まさにミサイルを誘導する技術が転用されたものである。

軍事技術の民間への移転は軍事企業自らによるものに加えて,軍事部門が縮小される 過程で解雇された技術者たちによって設立されたベンチャー企業によって行われること も多かったとされている。こうした企業の多くはセキュリティ・ソフトやデータ通信技 術など,インターネットに代表される情報通信技術の分野が中心となっている。

ところでハイテク・ベンチャーの設立にはイスラエルの軍事部門に従事していた者だ けではなく,ロシアからの大量移民も関与していた。ロシアからのイスラエルへの移民 は

1989

年にユダヤ人の出国制限が緩和されてから急増し,90年以降の流入移民のうち

8

割以上は旧ソ連出身者が占めるまでとなっていた。彼らの大半は母国において既に高 等教育を受けており,またその約

10

パーセントがソ連においては技術者・エンジニア であった。この数値は,医師などの科学技術系専門職をすべて含めると約

20

パーセン トに達している

18

が,その中には軍や国の研究機関で最先端の技術に携わっていた者も多 く含まれてい

19

た。こうした専門知識を有する移民が入国後直ちに国内各地の研究所に吸

────────────

6 池田明史「軍産複合体」(池田明史編『現代イスラエル政治』アジア経済研究所,1988年),118−126 ページ。

7 川西剛『イスラエルの頭脳』祥伝社,2000年,71および112ページ。

Israel Central Bureau of Statistics,Statistical Abstract of Israel 2000,pp. 5−6.

9 畑中美樹「イスラエル・ハイテク産業の発展の背景」(アジア経済研究所『現代の中東 no. 23』,1997 年),20−21ページ。

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 299)1

(8)

収されるか,新たに企業を起こすことでイスラエルのハイテク部門の拡大に大きく貢献 したとされている。

(2)外資の急増

ハイテク部門の振興は,和平の結果この国のカントリーリスクが減少し,イスラエル へと向かう外資が急増したことによっても促された(第

1

表参照)。こうした動きは,

特にアメリカを中心とした

M & A

およびベンチャー・キャピタル投資(以下

VC)の

活発化によるところが大きいとされている。

イスラエルにおける

M & A

1994

年頃から目立ち始めているが,大規模なものは

96

年にアメリカのメドトロニック社が,医療機器の製造会社であるインステント社を

2

億 ドルで買収したことに始まる。その後も

AOL

によるミラビリス社(インターネット上 のチャット技術を開発,買収額

2

9000

万ドル),GEメディカル社によるエルシント 社(CTスキャンなどの医療診断機器を扱う,買収額

1

億ドル),BMCソフトウェア社 によるニュー・ダイメンション・ソフトウェア社(生産管理や情報管理システムを開 発,買収額

6

5000

万ドル)などの買収が行われている。また

99

年にはインテルによ って,DSPコミュニケーションズ社(次世代通信分野における

DSP

技術を開発)がイ スラエルのハイテク産業分野においては当時史上最高額となる

16

億ドルで買収され

20

た。

イスラエルへの資本投下を促したのは,以前から同国と強い結びつきを保持していた アメリカだけではない。フランスやドイツ,カナダ,オランダなど欧米の企業を初め,

4

次中東戦争の勃発とそれに続く石油危機によって,これまでイスラエルとの経済的 な取引に躊躇していた日本企業も,和平が進展し,アラブ・ボイコットが形骸化してい くとともに積極的な姿勢を取り始めた。その結果,80年代には素材や食品を中心とし

────────────

0 日本貿易振興会『イスラエルの投資環境』,2000年,6−7ページ。

1 イスラエル向け投資 単位:100万ドル

直接投資 証券投資

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000

151 346 589 605 442 1,351 1,398 1,635 1,738 3,211 5,270

−171 221

−252 2,137 2,716 1,723 3,774 4,128 2,388 2,363 4,613 出所:CBS, Statistical Abstract of Israel 2008, p. 642のデータより作成。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

8(300

(9)

て数社程度しか見られなかった日系のイスラエル進出企業数は,90年代末までに

37

社 にまで増加してい

21

る。

直接投資の増加は単に国際収支上の数字に影響を及ぼすのみならず,海外の市場と国 内の雇用先を確保する要因となりうるものである。加えてソフトウェア,通信,コンピ ュータ・電子部門を中心に

VC

投資が急増したことも,イスラエルのベンチャー企業 をさらに成長させる背景となった。イスラエルにおける

VC

投資は

1993

年に政府が主 導した官製

VC,いわゆる YOZMA

が呼び水となり,その後欧米の

VC,投資銀行,大

企業からも多くの資金を集めてい

22

る。VC投資は通常の投資と比べて高いリスクを伴う にもかかわらず,その額は

1997

年に

4

2900

万ドル,98年に

5

6800

万ドル,そし て

99

年には

10

100

万ドルに達してい

23

る。現在,約

70

社のイスラエル企業がナスダ ックに上場している

24

が,その中にはこうした投資を受け,成功したベンチャー企業が多 く含まれているとされている。

和平の後退

1.オスロ合意の破綻

このように見てくると,和平条約の締結が如何にイスラエルの経済に大きな影響をも たらしたかと言うことが明らかであろう。しかし

2000

年代に入ってこの国の経済は再 び厳しい状況に置かれ,その実質

GDP

2001

年にはマイナス

0.4

パーセント,2002 年にはマイナス

0.6

パーセントと,史上初の

2

年連続マイナス成長を記録し

25

た。この理 由については繰り返しになるが,まずハイテク部門に依存したイスラエル経済が,工業 先進国を中心とした

IT

バブルの崩壊から影響を受けたという側面があげられる。事 実,第

2

表より

2001

年の製造業全体で見た輸出額は前年と比べて

14

億ドル以上,2002 年はさらに

13

億ドル近く減少しているが,その減少分の大半はハイテク部門に由来す るものであることが明らかである。

それに加え,90年代半ば頃からささやかれるようになった和平実現に対する悲観的 なムードも,この国の経済に暗雲をもたらすこととなった。和平への取り組みは,1996 年の総選挙で政権が労働党からパレスチナに対し強硬な姿勢を取るリクードへと引き継 がれた頃から徐々に後退しつつあった。99年

5

月の首相選挙でエフド・バラクが当選

────────────

1 同上,8ページ。

YOZMA, About YOZMA(http : //www.yozma.com/overview/)(2008/12/01)。なお,YOZMA )とは,

発起,企画,先導の意味を持つ。

3 日本貿易振興会『イスラエルのソフトウェア産業』,2000年,19−20ページ。

NASDAQ International Companies, http : //www.nasdaq.com/asp/NonUsOutput.asp?page=I&region=mid-

dleeast(2009/01/03)。ナスダックに上場するイスラエルの企業数は,アメリカに次ぐ第2位である。

Israel Central Bureau of Statistics,Statistical Abstract of Israel 2008,p. 43.

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 301)1

(10)

し,政権が労働党を中心とした左派連立に戻った際には,和平交渉が再び軌道に乗るの ではないかという期待もあった。しかし結局,双方の妥協が合意点に至ることはなく,

2001

年の総選挙で労働党が政権を追われた時点で,オスロ合意は事実上破綻した。

和平の後退は,再び近隣アラブ諸国との間の溝を深めることとなった。既述の中東・

北アフリカ経済サミットは,1997年まで連続して実施されたもの

26

の,その後は開催さ れていない。98年

12

月にはアンマン・サミット時に創設が決定された「中東・北アフ リカ経済協力開発銀行」のカイロ事務所も閉鎖されてしまった。慎重な姿勢を示しなが らもイスラエルとの関係改善を模索し始めていたアラブ諸国ではあったが,モロッコ,

チュニジア,オマーンは

2000

10

月に,ナイジェリアは

2002

4

月に外交関係を中 断するなど,状況の変化を目の当たりにして様子見の状態が続いている。

2.アル・アクサ・インティファーダ

多くの努力にもかかわらず,オスロ合意の枠組みが崩壊してしまった理由には様々な 事情があげられているが,その直接的な引き金となったのは,2000年

9

月,当時リク ード党首であり,後の首相となったアリエル・シャロンが武装した護衛とともに東エル サレムの「神殿の丘」を訪問したことにあるとされている。

「神殿の丘」とは,かつてソロモンの神殿が存在していたユダヤ人の聖地に当たる場 所であるが,その痕跡を残すのはすでに西側の壁(嘆きの壁)の一部のみとなってい る。他方で現在,神殿のあった場所には,この地がイスラムの勢力下にあった時代に建 設された岩のドームやアル・アクサ・モスクが存在している。つまり「神殿の丘」は,

現代においてもユダヤ人の重要な聖地である一方で,「ハラム・アッシャリーフ」とし てイスラム教徒にとっても譲ることのできない聖地となっているのである。それゆえ,

中東和平を実現するための最終的地位交渉においても,この聖地を含む東エルサレムの 帰属問題は,ユダヤ側,パレスチナ側の双方とも譲ることのできない最大の焦点となっ

────────────

6 ただしその名称はサミットから会議へと変更され,内容もアンマン・サミットまでと比べるとすでに縮 小された規模となっていた。

2 技術レベル別製品輸出額 単位:100万ドル

1990 1995 2000 2001 2002 2003

High-technology industries Medium-high technology industries Medium-low-technology industries Low-technology industries

製造業全体(ダイヤモンドを除く)

2,278 2,390 1,537 1,492 7,697

4,549 3,388 2,542 1,823 12,302

11,188 4,833 3,171 1,812 21,005

10,064 4,709 3,101 1,707 19,582

8,798 4,639 3,147 1,725 18,309

9,000 5,087 3,561 1,803 19,450 注:それぞれの項目に分類される製品は,脚注15の内訳による。

出所:CBS, Statistical Abstract of Israel 2008, p. 678のデータより作成。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

0(302

(11)

ていた。

したがって,シャロン氏の行動はパレスチナ・アラブ人にとって東エルサレムに対す るイスラエルの主権をアピールするものとして捉えられ,それに対する抗議が「アル・

アクサ・インティファーダ」と呼ばれる暴動を引き起こすこととなった。この暴動は直 ちに西岸・ガザ地区に拡大したのみならず,イスラエル軍とパレスチナ側の武装集団と の大規模な軍事的衝突へと発展した。

3.経済への影響

治安の悪化は,観光収入やパレスチナ自治区に対する輸出などを激減させ,経済に直 接的なダメージを与えただけではなく,ITバブルの崩壊で事業の縮小を考え始めてい た外資にも決定打を与える要因となった。たとえば,2000年にはイスラエル企業が対 象となった買収総額は

105

8600

万ドルと記録されていたが,2001年には

13

5700

万ドルと激減し,2002年も

12

5400

万ドルへとさらに減少してい

27

る。直接投資の流 入にも同様の傾向が見られ,2000年に

50

億を超えていたその額は,2001年には

35

6300

万ドル,2002年には

16

1100

万ドルにまで縮小してい

28

る。

2001

年当時,イスラエル中央銀行はインティファーダが直接的に経済に与える損失 額は,GDPの

2

パーセント程度であろうと試算していた。しかし双方の衝突が繰り返 される中で,その後この値を

4

パーセント近い数値へと修正し,「2002年に経済活動の 縮小をもたらした主要因はインティファーダである」と結論づけてい

29

る。

治安の悪化はその時点のみならず,この地域の将来の情勢に対する不安をも拡大させ る要因となるであろう。実際に,インティファーダの影響がある程度落ち着き始めた

2003

年頃から再び外資が流入し始めたが,その内訳は直接投資ではなく,証券投資が 中心となっていた。たとえば

2004

年における証券投資は

67

9300

万ドルとなってお り,2000年の

46

1300

万ドルを上回る水準を記録しているのに対し,直接投資はそ の約半分の

23

5400

万ドルにとどまってい

30

た。こうした傾向は,一連の情勢不安が一 段落したにもかかわらず,外国の投資家達がイスラエルの今後に対して不信感を持って いることの表れではないだろうか。

事実,この地域の情勢は悪化の一途をたどっている。2006年夏のガザ及びレバノン 南部への攻撃,2008年末のガザに対する空爆など,いずれの事態もイスラエル政府が 全面的に関与することによって,衝突は常に大規模な紛争へと発展している。和平の推 進と治安の安定が

80

年代までの経済的な閉塞状況に終止符を打ち,また今後の発展に

────────────

7 日本貿易振興機構『ジェトロ貿易投資白書2003年度版』,373ページ。

Israel Central Bureau of Statistics,op. cit.,p. 642.

Bank of Israel,Annual Report 2002, pp. 2−4.

Israel Central Bureau of Statistics,op. cit.,p. 631.

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 303)1

(12)

とっても最低限必要な要素であることをイスラエルはすでに経験しているはずである。

特に世界的な不況が国内経済を直撃している現在において,戦争どころではないはずで あるにもかかわらず,なぜ彼らは再び歴史をさかのぼるようなことをするのであろう か。おそらくそれは,単に状況が後退しているというよりも,和平交渉が積み重ねられ ていったことによって表面化し始めたいくつかの事情が影響しているものと考えられ る。

新たな課題

1.現実路線への転換

2003

4

月にオスロ合意の破綻を受けて提示された新たな和平実現のための枠組 み,いわゆる「和平ロード・マップ」が再び行き詰まりを見せ始めていた頃,当時のシ ャロン首相は突然の方向転換とも思える政策を打ち出していた。ガザ地区からのすべて の入植地および西岸の一部入植地を撤去するという「一方的分離政策」であ

31

る。この計 画はアメリカを初めとする

G 8

諸国からもロード・マップを促すものとして支持を受 け,2004年

6

月には閣議決定され,翌年

9

月にはガザ地区からの全入植地撤去が完了 した。

ガザからの撤退は,パレスチナ国家を樹立するために不可避的な要素であり,和平実 現に向けた第一歩であることには違いない。ただ注意すべきことは,それがパレスチナ との対話に基づくものではなく,あくまでも「一方的」な分離であったことだ。かつて は「入植の父」と呼ばれ,大イスラエル主義を声高に主張していたシャロンが,ネタニ ヤフを初めとする党内の右派を抑え込み,政権内の反対派を切り捨ててまでも一方的分 離政策を実施したのは,建国後半世紀を経て,様々な状況が変化する中で,イスラエル という国をユダヤ人の国家として維持し続けるための条件整備の

1

つであったと考えら れている。

彼が大イスラエル主義を放棄した最大の理由として考えられているのが,領土内にお ける民族別の人口比問題であ

32

る。イスラエルがユダヤ人の国家であるためには,ユダヤ 人がその多数派を占めていなければならない。それゆえこの国では「移民してきたユダ ヤ人を如何に国内に留め置くか」ということが常に最優先課題とならざるをえなかっ た。政府が建国当初から慢性的な財政赤字に苦しみながらも,住民の高い生活水準を保

────────────

1 一方的分離に関する構想は,閣議決定される以前から複数のパターンで存在しており,2003年の議会 選挙においては労働党も主張していた(松山健二「イスラエルの安全保障と「一方的分離」構想(国立 国会図書館調査立法考査局編『レファレンス Vol. 53 No. 5』,20035月号)参照)

2 立山良司「パレスチナ問題の現状と展望」(みずほ情報総研『中東諸国における政治情勢および経済等 の現状と今後の展望』,2006年),47ページ。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

2(304

(13)

障するために広範な補助金や福祉サービスを導入し,社会主義的な政策を展開せざるを えなかったのは,こうした事情による。しかし,現在でこそユダヤ人が

8

割弱を占めて いるイスラエル国籍を持つ民族別人口比率も,人口増加率の高いアラブ人によって将来 的に逆転される可能性がある。その上で,さらにイスラエルが約

400

万人のパレスチナ 人が生活する占領地を自らの統治下に置き続けるならば,今後この国での民主的な国家 運営は不可能となるであろう。なぜならその場合,多数派を占めるアラブ人の権利を無 視しなければ,イスラエルはアラブ人の利害を反映する国家となってしまうからであ る。

また,わずか

8200

人のユダヤ人が点在するガザ地区からは完全に撤退し,他方で約

23

万人が面の中で生活する西岸の入植地を維持する方が,経済的な負担を緩和するだ けではなく,治安維持を容易にすることができるというメリットもある。ガザからは完 全に撤退する一方で,2002年

6

月ごろからグリーンライン(第

1

次中東戦争時の停戦 ライン)を大きくはみ出して西岸の入植地を取り囲むように分離フェンスを建設すると いう,一見相反するように思われる行動も,このように考えれば納得できる。つまりシ ャロンの唱えた一方的分離政策とは,占領地を切り離すことで「ユダヤ人のための国 家」を維持する試みであったと捉えることができよう。

ただし,当時シャロンが在籍したリクードには,いまだ大イスラエル主義に執着する 極右派が存在していた。そのため,彼は計画の実現に向けて新党を結成した。シャロン とともにリクードを離党した党員のみならず,労働党のシモン・ペレスやハイム・ラモ ンなどもここに参加したことから,新党カディマは右派リクード,左派労働党に対して 中道主義的な政党として捉えられ,様々な世論調査でもリクードの人気が続落する一方 で,同党への支持は急増していった。

誕生したばかりのカディマが国民の支持を集めることができたのは,シャロンのカリ スマ性や同党が単に中道的であったことのみならず,和平政策に関して現実的な方向性 を掲げていたことにあったとされている。というのも,「労働党であれリクード連合で あれ,90年代以降は新自由主義的な政治経済政策以外の選択肢はなく,双方の基本的 相違は対パレスチナ和平政策をめぐるものとして現れざるを得なかった」が,右派の主 張する大イスラエル主義に対しては「『占領継続は非現実的』とする批判」が,またパ レスチナ側との交渉を重視する左派に対しては「『交渉相手が存在しない』との批判」

が高まりつつあっ

33

た。それゆえ,カディマの掲げた一方的分離による和平達成は,唯一 実現可能な政策として国民に支持されたのではないかと考えられる。

────────────

3 池田明史「パレスチナ情勢の構造的転換」(中東協力センター『中東協力センターニュース』,20066 /7月号,70−71ページ。

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 305)1

(14)

2.ユダヤ人内部の問題

2005

12

月,そのカディマ結成の立役者であったシャロンが脳卒中をきっかけに第 一線を退き,翌年

1

月のパレスチナ総選挙でイスラエルの存在を否定する強硬派のハマ スが大勝したことから,支持率に若干の変動はあったものの,当初の予想通り

2006

3

月の総選挙ではカディマが第

1

党となり,シャロンの後を継いだエフド・オルメルト が首相に就任した。

とはいえ,カディマの獲得議席数は予想をはるかに下回る

28

議席(120議席中)に とどまっており,安定多数を確保するために労働党や年金者党,シャスなどとの連立政 権樹立を余儀なくされた。また予算審議を控え,同年

10

月には極右政党イスラエル・

ベイテヌ(我が家イスラエル)をも連立に参加させている。福祉政策に重点を置く年金 党や一方的分離政策に関しては一定の共通点を持っている労働党はともかく,ユダヤ教 超正統派のシャスやイスラエル・ベイテヌはそもそも入植地からの撤退には反対の立場 を示している組織であり,オルメルト政権はきわめて難しい政権運営を迫られることと なった。しかし,同じ和平反対派でもリクードではなく,シャスやイスラエル・ベイテ ヌが連立の相手として選ばれたのは,彼らこそが現在のイスラエルでキャスティング・

ボードを握る存在となりつつあるからであろう。

本来イスラエルはヨーロッパ系ユダヤ人を中心に建設されたものであるが,イスラエ ル独立前後から大量に移民してきたのはアジア・アフリカ系のユダヤ人であった。この 両者を人口比で見ると,独立以前にはヨーロッパ系がその

8

割以上を占めていたのに対 して,60年代頃までに同規模になり,70年代以降はアジア・アフリカ系の占める割合 の方が大きくなっている。両者の間には出身地域の文化,生活面での差が明確に存在し ていたが,とりわけそれは識字率などの教育面に明確に現れたとされてお

34

り,結果,そ れぞれが従事する職業も,ヨーロッパ系はホワイトカラーに,アジア・アフリカ系はブ ルーカラーに集中する傾向が見られた。

この国では独立以来政権を担っていた労働党が社会主義的な政策を展開してきたこと から,当初両者間の給与や生活に関する格差は小さく,アジア・アフリカ系の所得は,

ヨーロッパ系よりも

12

パーセント程度の低さにとどまっていた(1951年当時)。しか し

1960

年代に入るとこの格差は

26

パーセントを超

35

え,その後

70

年代にはヨーロッパ 系のみが富裕層となり,アジア・アフリカ系ユダヤ人は明らかに経済発展から取り残さ

────────────

4 たとえばアジア・アフリカ系ユダヤ人に対する欧米系ユダヤ人の識字率は約10倍,中学卒業者は2.5 倍,大学修了者は7倍とされている(R. Roter & N. Shamai, Social Policy and the Israel Economy 1948−

1980,Economic and Social Policy in Israel,ed. by M. Sanbar, University Press of America, 1990, p. 161) 5 この格差はイスラエルの教育制度の下でアジア・アフリカ系の教育水準が高まったことにより,1980

年に20パーセントにまで低下していた(Ibid., pp. 162−163)。しかし近年再び格差は拡大しており,現 在,ヨーロッパ系ユダヤ人の収入はアジア・アフリカ系よりも40パーセント以上高いとされている

(Haaretz,Dec. 14, 2008.(2008/12/16)

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

4(306

(15)

れた存在となってしまっ

36

た。こうした不満が

77

年の総選挙で労働党からリクードへと 政権を動かす原因の

1

つとなったとされている。

しかし実際には,そのリクードも労働党と同様にイスラエル建国を担ったヨーロッパ 系ユダヤ人を中心とした特権階級を代表する政党であった。それゆえ,リクードが政権 を取った後もアジア・アフリカ系ユダヤ人の状況が改善されることはなく,90年代に 訪れた「平和の配当」もヨーロッパ系の利益を増やすだけに終わった。アラブ諸国との 壁が取り除かれ,世界中の注目を集めた中東・北アフリカ経済サミットも,その成果を 期待したのは彼らだけであったとされてい

37

る。

この状況下で急速に成長したのが,宗教政党である「トーラーを遵奉するスファラデ ィー同盟」,通称シャスであった。1980年代初頭に結成された同党は,初めてアジア・

アフリカ系ユダヤ人の利害を代表する団体として登場し,彼らの支持を集め始めた。シ ャスが

2006

年春の総選挙でリクードに並ぶ

12

議席を獲得できたのは,こうした事情に よるものであると考えられる。同様に,イスラエル・ベイテヌが

11

議席を獲得できた のも,それが

90

年代以降急激に増加したロシアからの移民の利害を代表する政党であ ると考えられているからであろう。

他方で,たとえばシャスがパレスチナとの和平の消極的であるのは,それが単に超正 統派を代表する宗教政党であるからだけではなく,支持者であるアジア・アフリカ系住 民とイスラエル国内で働くパレスチナ人との労働内容が重なっていることにあるとされ ている。既述の通りその多くがブルーカラー労働者である彼らにとって,パレスチナ人 は求職上のライバルであり,どうしても敵対心を抱きやすい存在となっているからであ

38

る。イスラエル・ベイテヌが主張するアラブ系イスラエル人のトランスファー,すなわ ちイスラエル国籍を持つアラブ人が多く居住する地域と西岸におけるユダヤ人入植地と を交換するという提案も,同じ文脈で考えることができるであろう。

3.対立構造の変化

エフド・オルメルトはこうした背景の中で首相に就任した。それゆえ,選挙には勝利 したものの,彼は就任直後から厳しい状況に置かれていた。既述の通り,公約に基づく 和平を進めつつ,他方で方向性の異なる政党で構成される連立を維持していかなければ ならなかったからである。彼をさらに厳しい状況に陥れたのは,就任直後にハマスおよ びレバノン南部に拠点を置くシーア派組織ヒズボラによってイスラエル兵士が拘束さ れ,その対処に迫られたことであろう。2006年

6

月末,イスラエル政府は兵士を救出

────────────

6 松本弘「世俗と宗教の相克−イスラエル内政の基盤とその変質−」(日本国際問題研究所『イスラエル 内政に関する多角的研究』2002年),74−75ページ。

7 同上,74ページ。

8 同上,75ページ。

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 307)1

(16)

するために,撤退したばかりのガザ地区を封鎖し,その後同地区への全面攻撃を開始し た。また

7

月半ばにはヒズボラとも戦闘状態に突入し,レバノン南部への越境攻撃も開 始した。イスラエルによる大規模な軍事行動によって早急に終結するであろうと考えら れていたヒズボラへの攻撃は,それに応酬する数千発のミサイルやロケットがイスラエ ルの北部に打ち込まれる中で停戦までに約

1

ヶ月を必要とし,最終的にイスラエル側に 約

160

名,レバノン側に

1100

名を超える犠牲者を出すに至っ

39

た。

公約である和平推進に逆行するようなこの事態は,おそらくこの地で見られる対立の 構図が,80年代頃までのものとは徐々に異なりつつあることによる。これまでのパレ スチナ問題とは,その多くが「アラブ対ユダヤ」という非常にわかりやすい構造の下で 語られていた。しかし,和平交渉が進展してその実現が近づいてくると,民族間の対立 と共に民族内での利害対立も強調されるようになってきたからである。1995年

1

月,

和平への道筋を整備した立役者の

1

人,イスラエルのラビン首相がユダヤ人青年に暗殺 された事件は,まさにその幕開けとなる出来事であった。その

10

年後に実施されたガ ザ入植地からの撤退の際には,退去に反対するユダヤ人達を,同胞であるはずのイスラ エル国防軍が強制的に立ち退かせている。また,そもそも

2005

11

月にカディマが結 成されたのも,一方的分離政策に関するリクード内部の対立が原因であった。

パレスチナ側も同様である。2006年

1

月に実施された評議会選挙でイスラエルに対 する武装闘争を放棄することはないと明言しているハマス政権が誕生すると,同派と故 アラファト議長によって設立されたファタハとの間で対立が激化し,自治政府の運営は 完全に混乱してしまった。欧米や親米アラブ諸国から一定の支持を得ているファタハの アッバス自治政府議長は,和平の実現に向けてハマスに対し再三イスラエルを承認する よう働きかけ,一時,合意は秒読み段階にまで達した。しかしハマスによるイスラエル 兵士の拉致とその後イスラエル政府によって実施された大規模な軍事作戦によって,正 式な調印に至ることはなかった。

イスラエルがかつては交渉相手として認めなかった

PLO

を承認し,共に和平の道を 模索しようと考えたのは,何よりも独立以降,この国に多大な被害と損害を与え続けた 紛争や対立に終止符を打つためであった。しかし

2007

6

月にハマスがガザを制圧し た後,イスラエルはパレスチナ自治政府との交渉継続が本当に和平を実現させるのかと いう疑問を一層強めているようである。というのも,パレスチナが事実上,ハマスの支 配するガザと自治政府の統治するヨルダン川西岸とに分割されたことで,窓口となって いるアッバス議長の求心力が著しく低下しているからである。2008年

12

月末に開始さ れた大規模空爆も,ガザからのロケット弾攻撃を停止させるためには自治政府との対話

────────────

9 榊原櫻「レバノン・イスラエル紛争を通してみる中東の悲劇」(三井物産戦略研究所『THE WORLD COM- PASS』20069月号),10ページ。

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

6(308

(17)

よりも,武力でハマスを弱体化させた方が有効であるとイスラエル政府が考えた結果で はないだろうか。

4.リーダーのジレンマ

国際社会の非難にもかかわらず,イスラエルがガザへの攻撃を継続したのは,上記の 理由に加えて,この国特有の事情が関係していると思われる。2006年夏にオルメルト 首相が過剰なまでの大規模攻撃を遂行しなければならなかったのは,まずはイスラエル 兵士の救出が最大の目的ではあるが,それ以上に国民に対し「戦時に強い指導者」とし ての側面をアピールしたかったからではないかと見ることができるからである。建国当 初から四方を敵に囲まれていたイスラエルでは,国家の存続を脅かす存在に対して常に 危機感を持っていた。それゆえ,この国のリーダーには第

1

に非常時における対応能力 が求められている。事実,かつての首相,イツハク・ラビンもアリエル・シャロンも共 に過去の中東戦争では輝かしい軍歴を有しており,こうした経歴が彼等の主導したパレ スチナに対する「妥協」を国民に納得させたという側面もあるだろう。他方でオルメル トは,ゴラン機甲旅団の将校として兵役に就いた経験はあるものの,負傷によって前線 から離脱し,残りの任期は軍雑誌の記者として全うしたとはいえ,前

2

者と比べるなら ばいわゆる兵士としての経歴は浅いものであっ

40

た。オルメルトがカディマ党首を引き継 いだ後,同党に対する支持率が低下し,総選挙において

28

議席しか確保することがで きなかった背景には,このような彼の軍事的経歴も影響していると思われる。

同様に今回のガザに対する空爆についても,2009年

2

月の総選挙を前に支持率の低 下しつつあるカディマが巻き返しを図るために実施された可能性があるとされている。

数件の汚職疑惑が浮上する中でカディマ党首を辞任したオルメルトに代わり,その座を 引き継いだツィピ・リブニ現外相は,就任当初国民の間でも人気が高く,イスラエルで はゴルダ・メイヤに次ぐ第

2

の女性首相候補として注目されていた。しかし最近の世論 調査によれば,右派リクードが最も支持を集めてお

41

り,また次期首相としてもリクード 党首のネタニヤフを推す声の方が高

42

い。近年の総選挙では,治安の悪化が見られるとき にはパレスチナに対して強硬な姿勢を示すリクードが勝利することが多いが,この世論 調査はまさにこうした傾向を示すものであろう。

イスラエルとハマスはエジプトの仲介で半年間の停戦協定を結んでいた。しかしその 協定が

2008

12

19

日に失効した後,ガザからのロケット弾攻撃が再び急増した。

ハマスによる攻撃の再開に対し,リブニ党首は「ハマスはイスラエルがこの状況を放置

────────────

Yedioth Ahronoth, Jul. 31, 2006, http : //www.ynet.co.il/english/articles/0,7340,L−3283691,00.html(2008/12/

31)

Haaretz,Dec. 10, 2008, http : //www.haaretz.com/hasen/spages/1045107(2008/12/12)

Yedioth Ahronoth,Dec. 7, 2008, http : //www.ynetnews.com/articles/0,7340,L−3634801,00.html(2008/12/08)

中東和平とイスラエル経済(佐藤) 309)1

(18)

しないと理解する必要がある」とコメントしていた

43

が,その意図するところが今回の大 規模空爆であったのだ。支持率が思わしくない中で,この攻撃が選挙を意識し,現政権 の「強さ」をアピールするための「賭け」であった可能性は十分に考えられる。なぜな ら

2006

年夏の軍事作戦は,政府が主張していた「ヒズボラの殲滅」など戦闘を拡大す るための目的を

1

つも達成させることができないまま停戦に至ったが,そのことが政権 に対する支持率を急速に低下させる原因となってしまったという過去があるからであ る。

とはいえ,最終的に

1300

人を超えた犠牲者には,多くの一般民間人が含まれてい る。仮に今回の作戦が現政権の期待通りの成果をもたらしたとしても,ガザの住民を中 心にイスラエルに対する深い憎しみと不信感が継続することになるであろう。そうした 感情が近隣アラブ諸国や国際社会と連帯したとき,イスラエルは再び困難な局面に置か れることとなる。

90

年代にアラブ,イスラエル双方の代表を交えて中東・北アフリカ経済サミットが 開催されていた頃,中東地域では数多くの共同開発プロジェクトも提案されていた。特 にイスラエルは,シモン・ペレス現大統領が首相時代に提唱した「平和の谷」プロジェ クトに代表されるように,東地中海地域を中心とした道路,鉄道,電力,通信,水資源 を初めとする様々な大規模インフラ事業計画をいち早く取りまとめ,他国に対して積極 的な参加を呼びかけていた。

この時期のイスラエルが意欲的に共同開発に関する提案を行っていたのは,進展し始 めた和平を一層確実なものにするための手段であったと考えられている。なぜなら「ア ラブ諸国とイスラエルが共同で取り組むプロジェクトを作れば,両者の間には経済面で の共通の利害関係が生じるので,新たな対立は起こりにくくなる」からであ

44

る。

しかし少なくともこれまでのところ,こうした計画が和平の実現を促しているように は感じられない。2006年

7

月に小泉首相が中東を訪問した際に提案した「平和と繁栄 の回廊」構想も,ヨルダン渓谷における域内協力を通じて同様の成果を目指すものであ る

45

が,現時点においてはイスラエル,パレスチナ,ヨルダンが共同でプロジェクトを遂 行すること自体,不可能な状況にあるといえよう。共同事業は確かに和平を確実化させ

────────────

3 『日本経済新聞』,20081229日。

4 畑中,前掲論文,71−72ページ;畑中美樹「中東経済開発プロジェクトの分析」(中東経済研究会編

『中東開発』名著出版,1998年),95−96ページ。

5 外務省(日本)「イスラエルとパレスチナの共存共栄に向けた日本の中長期的な取り組み」http : //www.

mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0713 b_3.html(2009/01/03)

同志社商学 第60巻 第5・6号(29年3月)

8(310

(19)

る要因となりうるが,それは相互の信頼関係を基にしなければ始めることのできない計 画だからである。

とはいえ急速に進展するグローバル化の中で,この地域の情勢が不安定な状態を続け れば,今後イスラエルが世界経済から取り残されてしまう可能性もありうる。そうでな くともこの国の経済はすでに輸出と外資に依存する構造をもっており,それらはいずれ もカントリーリスクに大きく左右される要因だからである。今回のガザ攻撃直前にイス ラエル中央銀行が予測した

2009

年における同国の経済成長率は

1.5

46

%。世界的な景気低 迷の影響を受けて計算された値であり,2008年の

4.1%,また 2007

年の

5.4% をすで

に大きく下回っている

47

が,「はじめに」でも述べたとおり,今回の軍事作戦と今後の治 安動向を考慮するならば,この値はさらに低下することが予想される。ガザへの侵攻 は,目算通りカディマを中心とした政権の支持率を改善することに成功しているようで あ

48

る。しかし,真に問われているのは政権の存続ではなく,国際社会の中で如何にイス ラエルが生き残っていくかということではないだろうか。

────────────

Bank of Israel,Address by the Governor of the Bank of Israel, Professor Stanley Fischer, to the Annual Con- ference of the Institute for National Security Studies, Dec. 17, 2008, http : //www.bankisrael.gov.il/press/eng/

081228/081228 c.htm(2008/12/20)

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参照

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