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北京再建と梁思成 ―建国当初から反右派闘争まで ―

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(1)

北京再建と梁思成 ―建国当初から反右派闘争まで

著者 名和 又介

雑誌名 言語文化

巻 8

号 1

ページ 1‑27

発行年 2005‑08‑25

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007591

(2)

北京再建と梁思成

―建国当初から反右派闘争まで―

名 和 又 介

はじめに

当論文は、梁思成の北京都市計画案を詳細に紹介し、梁思成の北京観を理 解するとともに、現代建築と伝統建築に造詣の深い彼が北京の何を守り何を 発展させようとしたのか、同時に党の都市計画と如何に関係したのか、など を問題意識として論じたものである。さらに反右派闘争が始まる時の共産党 擁護発言などの経緯に関心はあったものの、事実の詮索はやはり難しい問題 を含んでいるようだ。梁思成を知るにつれて、父親・梁啓超の教育的配慮や 配偶者林徽因の文化人としての面白さ、さらには民族遺産として中国伝統建 築のもつ重さなど、梁思成を取り巻く文化の厚さのようなものを考えさせら れた。

以下、Ⅰ章では、「中央人民政府行政センターの位置についての建議」を 中心に北京の都市計画案を紹介しながら、北京の全体像を把握し、Ⅱ章では

「北京の城壁の存廃問題に関する討論」「北京―都市計画の無比の傑作」な どを中心に検討しながら、北京の特徴を理解し、Ⅲ章では、梁思成批判から 反右派闘争にいたる過程を見ていきたい。

Ⅰ章

「中央人民政府行政センターの位置についての建議」は、1950年2月に梁 思成・陳占祥の名前で関係者に配布された。(今後これを本稿では、「行政セ ンター建議」と称することにする。)後に刊行された全集で16ページ分にも なる建議であった。百部以上印刷され、中央人民政府・中共北京市委員会・

「言語文化」8-1:1−27ページ 2005.

同志社大学言語文化学会

©

名和又介

(3)

北京市人民政府などの関係部署に配布された。以下、典拠は特に明示がない 限り、『梁思成全集』(中国建築工業出版社、2001年4月出版)によることを お断りしておく。

最初に「行政センター建議」の内容が記載されている。

「建議:首都の行政センターの所在地を早期に決定すること、実際の要請 と発展に有利な条件を考えて、旧城と西郊新市区の間を開発して新センター を建設し、目下の財政状況に配慮しながら徐々に建設していくこと。」

ここにある旧城とは、北京の内城のことを意味している。北京は明の時代 に、内城と外城が整備された城郭都市として発展してきた歴史がある。現在 内城の城壁部分は、地下鉄の環状線になっている。各城門の地名は、地下鉄 の駅名になって残った。(以下4、5頁の地図参照)この後には以下の文章 が続く。

「土地面積が城壁により制限された城内は使用可能な空き地が極端に少な く、他方、西郊の日本支配下に開発された『新市区』は内城から遠く、実際 上必要な条件にも欠け、行政センターを建設するのは困難である。従って、

城外西の公主墳以東、月壇以西の適当な地を開発して、政府行政機関の必要 とする地域を計画的に整備して、首都行政センターと定めることを建議す る。」

日本占領時代に、中国人居住地域として旧城を整備し、日本人居住地域と しては、その西5キロの地点を中心に新市街を整備する計画があった。現在 の東西長安街を延長した五 松を中心に南北軸を考え、この南北軸を紫禁城 の南北軸と並行させて新北京を建設するという雄大な計画であった。しかし、

日本は敗北し、この計画を完成させる段階には至らなかった。公主墳は、東 西長安街の延長と第三環状線が交差する地点の名称で、唐時代の公主(皇帝 の娘)の墓があったことから名づけられた地名である。月壇とは、紫禁城の 中心を東西に延長して構成された二つの祭壇のうち西側の月を祭る祭壇を指

(4)

し、東側は太陽を祭る日壇である。紫禁城は、南北軸(天を祭る天壇と地を 祭る地壇がある)とこの東西軸の交差する偉大な皇帝の居所に相当するので ある。

「西は連接して既に基礎のある新市区があり各レベルの行政人員の住宅や その附属の建物を建造するのに便利である。今後の発展にも有利であろう。」

公主墳は現在西のターミナルであり、第3環状線と東西長安街が交差する 交通の要衝である。この東西長安街の延長線上には、政府の重要な施設が配 置されていて、役人・公務員の住宅街そのものではないものの、梁思成など の構想が一部実現している地域でもある。

「東は4本の主要な幹線道路で、西直門、阜成門、復興門、広安門を経て 旧城と通じている。復興門を通る幹線道路に入れば、旧城の長安街の幹線上 にある人民政府、新華門の中央人民政府、天安門広場などに直結する。」

西直門・阜成門・復興門は内城の西側の門であり、広安門は外城の西側の 門である。復興門と建国門は、東西長安街の延長線上に新に設けられた出入 り口である。新華門は中南海の入り口で天安門の西に位置する門である。内 城と中央人民政府行政センターは、4本の幹線道路で緊密に連絡できること を強調している。

「新センターは城内の文化財集中地域、博物館地域、祝祭の大広場、商業 の盛んな地域、市行政区の役所や北城・西城の元からの住宅地域とも緊密に 連絡し、適当な距離にある。新センターの中軸線は復興門から1キロもない。」

行政センターは内城と至近の距離にあること、さらに北部や西部の住宅街 とも近い距離にあり通勤に便利であることを述べている。梁思成は、アメリ カやヨーロッパの大都市住民の通勤時間を無駄な時間と考え、できるだけ職 住接近の環境を保証しようと努めている。また住居の付近に緑地帯を設定し、

(5)

『梁思成全集』第五巻、2001年

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(7)

市民の憩いの場となるべき文化施設・公園なども視野に入れた計画となって いる。このような視点は、文革後に都市計画の中で採用されるようになって いったが、当時は極めて先進的な意味合いがあり、時代を先取りしていたと いえるかもしれない。

「この新行政区の南側は未来の総合駅に面することとなる。南北に展開し て、新たな南北の中軸線を構成し、地域が発展するに従い旧城内の狭隘さを 解決することとなる。北端は政府各レベル機関の用地を確保し、南端はこれ から生ずる全国的な商工業企業の展開に必要な地域を確保できるだろう。」

現在の北京西駅が、梁思成の描いた総合駅に相当すると思われるが、今ま さに北京の総合駅としてその機能を発揮しつつある。彼の計画は50年後に一 部実現した訳である。紫禁城の南北中軸線に並行する新たな南北の中軸線を 想定し、この場所に行政センターが完成すると、旧城から過剰人口40万人が 移動すると推定している。それは旧城自体の維持に貢献するだけでなく新た な発展の準備にもなると考えていた。行政センターの北部は、官庁街、南部 は商工業街として地域を区分している。

「目的は支障のないバランスで大北京市を発展させることである。行政区 が必要とする面積と適当な位置を合理的に解決すること。交通にも便利で、

すばやくまた確実に建設できる建設計画。以上のようにすれば、政府の業務 も解決し、城内の高すぎる人口密度も徐々に分散させることもでき、その他 の地域にも有益で、工業の進展にともない、行政区の合理的な関係もあずか り、同時にあるいは前後して発展することであろう。」

都市計画のキーポイントは、無理のない平衡感覚で徐々に都市づくりを進 めることだと説明している。またそこに実際に暮らしている住民の生活を考 慮することも忘れてはならないと強調している。職住接近の住居と通勤に便 利な交通機関の存在を確認している部分である。城内の人口密度の高さは、

梁・陳両者の度々指摘する北京のウイークポイントであった。本稿の扱う50

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年代は、北京の人口が倍増し、第一次五カ年計画終了時の人口は梁・陳建議 時の倍に膨れ上がっていた。その問題は今世紀まで持ち越されてなお解決の 見通しは険しい。

以上が前段の説明であり、以下三節に分けて詳細な説明が加えられている。

第一節は、行政センターを早期に決定しなければならない理由。

第二節は、城外西方の郊外に新センターを建設しなければならない理由。

(一)首都の行政機関を建設するための客観的条件は何か?

(二)旧城内に政府行政機関を建築するについての困難と欠点。

(三)地域面積の割り当てを先送りして、一方的に無理に官庁街をつくるこ とは問題の解決にならず、北京市全体の重大問題を増やすだけである。

(四)西郊の旧城に近い空き地に行政センターを建設すれば、全面的に問題 を解決し、現実に即した計画になる。

第三節は、西郊に行政区を展開するには、徐々に計画を実施すべきであり、

それが目下の財政状況に見合い、旧城改造より経済的に合理的であると思わ れると述べる。

多少煩雑ではあるが、梁思成達の文章を引用して、彼らの基本的な考え 方を見ていきたい。梁・陳の行政センター案は、当時の世界の都市計画と比 較しても遜色がないことは、現在改めて確認されつつある状況である。以下 は第一節の冒頭部分である。

「政府機構の中心や行政区の位置は、北京の全体の都市計画の鍵になる先 決条件である。北京は、普通の商工業都市に止まらず、全国の中枢となる首 都である。我々は北京を生産都市として計画するだけではなく、北京の地理 条件に合理的にのっとり、東郊に工業を建設して、旧城の東北・東南とつな ぎ、同時に首都建設の設計をたてて、合理的な位置の地域を計画し、政府行 政の各機関の建物を作り、効率的な政治のセンターを作り上げる。」

行政センターの位置付けは、北京改造の要であった。しかし行政センター

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をどこに設定するかの問題は、きわめて選択肢の限られた問題でもあった。

この問題をめぐる過去の経過をみても、行政センターの位置は旧城内か西郊 かの選択肢しかなかったのである。

また、北京改造の問題は、古くて新しい問題でもあった。先述したように、

日本占領時代の北京改造は、西郊に新北京を建設する計画であった。しかし、

やがて日本の降伏と国民党の進駐が続き、何思源(前山東省主席)が北平市 長(国民党は北京を北平と称した。)となるが、まずは北京に山積していた ごみ掃除から取り掛からねばならなかったという。政権が交代する移行期は 大混乱がつきもので、秩序の維持が難しいことから、日常生活のライフライ ンが大きな影響を受けることとなった。国民党の北京改造も北京西郊の開発 が中心であり、ある意味では日本の北京改造を踏襲したと言えるかもしれな い。それが実行に移される前に、人民解放軍の北京包囲が始まり、多数の 人々の協力もあり、北京は戦禍にさらされることなく人民政府に引き継がれ た。

何思源は北京の破壊を望まない市民と協力して傅作義将軍を説得し、北京 解放に貢献した人物であり、娘がその犠牲になったことは周知のことである。

梁思成も北京解放の際、北京の保存すべき建築物のリストを作成して人民解 放軍に手渡し、北京の文化財を守ろうとした。さらに解放軍が南下する際に は、保護すべき文化財のリストを依頼され、『全国重要建築文物簡目』を作 成して、全国の文化財を守るために努力した。1960年代に、全国重点文物保 護の条例が作成されるが、その基礎資料になった文献でもある。1

「行政センターの決定は、同時に北京旧城改善の政策を決定することとな る。北京の現状で注意すべき二点がある。その一は、人口が旧城内に密集し、

限りある土地が住宅建造に過度に使用されている。必要な公園、広場、緑が 極端に乏しく、これらの占有率が低すぎる個所が多い。その二は、北京は古 都および歴史的名城として、多くの過去の建築物が今記念的な文化財となっ ている。それらの形体は美しく、傷つけてはいけないし、それらの位置にあ る秩序と物件の環境は、まさしくこの名城の荘重な特色の構成物件で、保存 の対象となる。勝手に不調和の形体を付け加えてもいけないし、破壊しても

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ならない。そういう次第で、目前の政策は早期に確定されねばならない。」

旧城内の人口過剰と空き地の不足を指摘し、旧城の歴史的価値を述べてい る部分である。中国とりわけ都市部の住宅不足は、繰り返し強調されてきた ポイントであるが、その問題は既に建国当初に現れていた。今でこそ緑地面 積の拡大を話題にするものの、半世紀前にそれを指摘した梁・陳の発想は、注 目に値する。梁思成は、アメリカの大都市の都市政策に造詣が深く、陳占祥 はイギリス・ロンドンの都市政策の体験を有していた。2 当時の大都市が抱 えていた問題を熟知していた建築家といっても過言ではない。とりわけ、北 京旧城をそのままの状態で保存しようとする計画案は、大胆な提案であると ともに、批判を受けかねない観点でもあった。

遺跡の保存や文化財保護の問題は、一部の知識人以外関心をもちにくい領 域に属していたと思われる。保存や保護の対象になる建築物や文化財は、皇 帝や貴族の邸宅であったり、寺院や道観の本堂さらにはそれらの付属物であ ったりする。共産党が主唱する克服すべき封建主義の典型であり、打倒の対 象であった宗教的シンボルを、何故守らねばならないのかという問題は意外 と深刻であった。「宗教はアヘンである」という言葉は、今なお多数の中国 人を呪縛しているように思われる。文化大革命の初期、紅衛兵達が四旧打破 を叫び、多数の文化財を破壊した記憶はいまだ新しい。

第二節の冒頭では、ソ連の都市計画を紹介する過程で、北京都市計画のポ イントを指摘している。説明にあたって、『ソ連被占領区回復後の再建』3 の文章を次のように引用している。

「都市計画を担当する建築家は、計画する地域の暮らしぶりと建築の伝統 を考えねばならない。設計の中に、合理的・歴史的価値のすべて―建物の 形状や都市計画上の特徴のすべて―をとりいれねばならない。同時にこの 都市は自然環境の一部分になるべきである。…

俗悪なステレオ化は避けるべきで、現地の住民が大切にするすべてを採用 しなければならない。最初に遵守すべきルールは、人民の役に立つこと、人

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民の経済や美観の条件に沿うこと、習慣や文化的要請に沿うこと。最後の計 画は、これらの要件にもとづき決定される。」

都市計画が作成可能な建築家は、解放当初は数えられるほどしかいなかっ た。4 梁思成や陳占祥は、その貴重な一人であり、先進国の都市計画にも造 詣の深い第一人者であったといえよう。しかし東西冷戦の政治状況と朝鮮戦 争の勃発は、いやおうなく中国と欧米を敵対関係に導いた。中国ではソ連を 社会主義国の模範として、すべてをソ連に学ぶ体制ができていった。梁思成 達も必然的にソ連専門家の風下に立たざるをえなかったのである。しかし梁 思成には、都市計画のポイントである地域住民の習慣や歴史意識の重視さら には古都保存の問題など、ソ連専門家の意見を積極的に引用しながら、北京 改造・保存の自説に導くというしたたかさも見受けられる。

この節で、強調されているのは、北京城の成り立ちを説明した以下の文章 である。

「北京城の秩序ある配置は、大部分は過去の政治制度に即応している。そ の特徴は皇城の中心性であり、主要な建築群は南北の中軸線上に集中してい る。分布している区域は6キロほどの皇城である。内城のその他の区域は、

この皇城を取り巻くか左右から補強する狭くて長い地域であり、その他の中 心はない。中軸線の左右は、東西に向かい合う南北に走る大通りで、東単東 四・西単西四などの牌楼のあるところ、いわゆる商業地域である。この大通 りから分かれて東西に走る小さい横丁(いわゆる胡同)が、住民の住居であ る。この配置のせいで、今日の北京旧城は超過密状態であり、行政センター の機能をもち現代の生活に相応しい官庁街を別に設けなければならない。」

北京城の成り立ちは、金の中都、元の大都に始まる。中国の都城の歴史は 古く、春秋戦国時代からさらに殷・周時代まで遡ることができる。基本的な 都城の構成は、現在に至るまで大きな変化はないようである。5 北京の内城 は、明・清両王朝の都城として六百年近い歴史を刻んできた。明の時代に基 礎ができた北京城は、南北の中軸線を中心に展開した構成になっている。こ

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の中軸線は、紫禁城の北にある景山の頂上から見れば、よく分かる。北京城 を構成している主要な建築物は、ほぼこの南北の中心軸上に配置されている。

最南端の外城の永定門から北上すると、右手に天壇、左手に先農壇(先農 は神農であり、中国の農業の神)があり、前門を越えて内城の正陽門(内城 の正門)の箭楼と正陽門をくぐり抜ける。さらに北にある大清門(明代の中 華門)を抜けると正面に天安門(皇城の正門)が現れ、左右に長安右門、長 安左門が見える。この正陽門から天安門までの間は千歩廊と称された歩道で、

その左右に明清両朝の役所が集中していた。天安門以北は、皇城で左に社稷 壇(現中山公園)右に太廟(現労働人民文化宮)があった。さらに北上する と紫禁城の入り口・午門に行き着く。ここからは宮城で太和門・太和殿・中 和殿・保和殿と続いて、後宮に入り神武門が紫禁城の北門となる。その北に あるのが景山で、さらに北上すると皇城の北門・地安門に続き、北端の鼓 楼・鐘楼に行き着き、ここでこの中軸線は終る。北京は典型的な城郭建築の 都城であり、その中心が南北の中軸線なのである。北京の神経繊維がはしる 背骨と言っても過言ではない。

北京は城郭構造をもつ都城だが、その構造は三重になっている。内城の城 壁の中に、皇城が入れ子箱のように存在している。その南門が天安門であり、

北門が地安門である。現在中国の要人達が住居としている中南海は、宮城

(紫禁城)の外側であり皇城の内側にあたる地域になり、以前はまさしく皇 族が生活していた場所であった。皇城は城壁こそないものの、赤い壁を境界 として外界と区切られていた。その皇城の中に、紫禁城が入れ小箱のように 存在していた。紫禁城の南門が午門で、北門が神武門であることは既に記した。

Ⅱ章

「北京の城壁の存廃問題に関する討論」は、『新建設』(第二巻第六期)に 掲載された。6

北京の城壁を撤去するか保存するかの問題は、北京改造の問題とも直結し ていたし、Ⅰ章で紹介した行政センターの位置の問題とも関わっていた。梁 思成は、この記事を書く前に周恩来に書信を送り、行政センターの位置決定 を早めるよう要請している。その中で、行政センターの決定がないので、各

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レベルの建設が遅れていること、一方では各レベルの組織が勝手に建設を進 めて将来に禍根を残す可能性があると懸念を表明している。この懸念は事実 となり、中央政府の機関が内城の皇族の屋敷を占拠する状態が続いた。

この討論には、北京の城壁の撤去派の論点と梁思成の反論を並べて論じて いる。撤去派の論点は、城壁そのものが封建君主の防御用であり社会主義社 会に相応しくないこと、また交通の妨害になることである。梁思成は、城壁 は労働大衆の血と汗の結晶であり、市民の憩いの場として利用できること、

また城壁は交通の妨げにならないばかりか、交通の規制に利用できることを 主張している。最後に、「撤去には人力を浪費するし、同時に北京を巡る国 宝―北京の姿の壮麗さと深い関わりのある古代の施設や北京の衛生に大き く貢献するお堀―を破壊することは、驚天動地のでき事であり、犯罪的行 為そのものでもある。」と非難の言葉で終えている。

行政センター建議も「北京の城壁の存廃問題に関する討論」(以下「城壁 討論」と略称する)も梁思成達が北京の都市計画委員会のメンバーで、行政 センターの位置をめぐり公開討論が行われていたことと関係している。北京 の都市計画委員会は、1949年の5月に成立している。

当初の課題は行政センターの位置に関する問題で、ソ連の専門家の意見な ども聴取しながら進められたが、その結果、官庁街は内城に建設されること に決まった。当時のソ連崇拝の影響から、ソ連専門家の意見が支持されたと みなす見解もある。ソ連の経験(モスクワ再建をめぐる論議で、郊外に新政 府のセンターを再建する原案がスターリンにより否定され、旧モスクワの再 建が決定した。)にのっとり、ソ連専門家は、旧城に政府のセンターを設け ることを提案した。重要都市の計画立案にはソ連の専門家が顧問として参画 した。1952年に訪中したムーチンは、「中華人民共和国編成城市企画設計和 修建設計程序」を作成し、これは後に「城市企画編成暫行弁法」の原案とな った。ソ連専門家の手になる文章が中国の法律になる時代であった。7

ソ連の専門家にすれば、モスクワ再建の記憶は新しいし、伝統的な南北の 中軸線は無視しがたい問題であった。北京の背骨ともいえる南北の中軸線の 存在は、北京改造を考える建築家を悩ませたであろうと想像される。戦時中

(14)

の財政問題を考慮しても、また民族的伝統を尊重する立場からも、旧城を中 心として北京改造を計るのが無難であったと思われる。中国人建築家も旧城 を中心に行政センター建設を主張する意見が多く、梁思成・陳占祥達は少数 派であった。8

ここで共産党の都市政策を検討しておく必要がある。51年に提起された

「中共中央政治局拡大会議決議の要点」の中の5節目都市工作では、以下の ように総括している。

1、各中央局・分局・省市区の党委員会は今年かならず都市工作会議を二回 招集し、議事日程は中央の通知したとおりにし、中央に特定題目の報告を 二回おこなわなければならない。

2、党委員会の都市工作に対する指導を強化し、七期二中全会の決議を実行 せよ。

(以下省略)

省略した部分は、工業化に関する部分である。2項にある七期二中全会の 決議とは以下のような内容である。「毛沢東は革命の急速な全国的勝利を促 進し組織するための方針を提起するなかで、党の活動の重点を農村から都市 に移さなければならないこと、中国を農業国から工業国に転化させること、

新民主主義社会から社会主義社会に転化させるべきことなどを述べた。」9 毛沢東は、北京を消費都市から生産都市への転換という視点で捉えていた。

この消費都市から生産都市への転換は、共産党の都市政策となり、繰り返し 強調されたテーゼであった。50年から始まった朝鮮戦争の帰趨が、中国の工 業化の進展と深い関係にあったことも重要な事実として記憶しておかねばな らない。抗米援朝運動は、当時の中国最大の課題であり、この失敗は新中国 の崩壊を意味していたのである。朝鮮戦争の見通しがつくまで、中国の総力 は戦場と後方に注がれていたのであり、新中国の建設さらには北京の建設は 二の次の問題・戦後の問題として、先送りされる状態にあったと思われる。

にもかかわらず、行政センターの位置の決定は、北京再建の青写真として決 定が急がれた問題でもあった。

(15)

北京の都市改造に決定的影響を与えたのはやはり毛沢東と共産党であっ た。毛沢東は天安門楼上で中華人民共和国の成立を宣言した。荒廃していた 天安門周辺は、開国大典のため北京市民の義務労働で30日以上の時間をかけ て整備された。東西の長安左右門と中華門で形成されたT字型地域が16万人 収容可能な広場として新たにお目見えしたのである。10 この天安門は明清両 朝から重要な大典の挙行される中国の舞台だった。新しい中国の開国大典が、

ここ天安門で挙行されたことは、歴史的伝統に沿う方向であり、共産党の態 度表明でもあったと考えられる。つまり、共産党は伝統を尊重しつつ新しい 中国を建設する用意があるというアピールである。

この広場を中心に行政センターを建設することが、毛沢東及び共産党の決 定であった。前記のソ連人専門家の意見もスターリンの方向を踏襲し、毛沢 東の意向にそう決定であったことは、当然というより仕方のないことだった かもしれない。天安門広場を中心とした都市計画は、この後大きく前進する こととなる。ともあれ、毛沢東が旧城を中心とする北京改造を構想したこと は、その後の北京の発展を決定づけるとともに、旧城の保存という視点は希 薄化していった。五百年続いた南北の中心軸の線上に、新中国の建築物が整 備されていったのは歴史の重さを感じさせるのに十分な例示といえよう。

比較的早い段階で、行政センター建議は否定され、旧城内に行政センター が建設されることとなった。都市計画委員会のメンバーによる北京の都市計 画が検討され、甲・乙2案の採択が決定された。甲案は、華攬洪のフランス 型都市計画案であり、乙案は陳占祥の手になるイギリス型都市計画案であっ た。11 しかし両案は、実行に移されることもないまま、反右派闘争の時期に 原案作成者の二人が右派として批判されたことで、忘れ去られた。この経過 に関しては、後にふれる予定である。

梁思成の関心は、行政センター建議が否決されたことにより、北京の旧城 保護の問題に移行したように見受けられる。50年の城壁討論、51年の「北京

―都市計画の無比の傑作」(『新観察』第七・八期)、52年の「祖国の建築 の伝統と当面の建設問題」(『新観察』第16期)などを検討すると彼の意図が よく理解できる。「北京―都市計画の無比の傑作」の前書き部分で、彼は

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以下のように述べている。

「我々はこの貴重な遺産を継承したからには、的確に北京を隅から隅まで 理解しなければならない―発展の歴史、過去の役割、今日的意義など。北 京の個別の文化財を深く認識するとともに、北京の都市構造そのものの知識 を高め、将来の建設の高まりの中で、我々民族独自の精華を保護し、北京に 取り返しのつかない損失を与えないよう努めねばならない。」

内容の紹介を兼ねつつ、以下各節のタイトルのみ列挙していく。北京を理 解するには最適のテキストになっている。

我々の祖先はこの土地を選んだ。

北京城は千年で四度改造した。

北京の水源―北京城の生命線 北京の都市構造―中軸線の特徴 北京の交通システムと街頭システム 北京の土地使用―分区

北京城は計画的に構成された統合体である。

我々はこの膨大で偉大な傑作を如何に護るのか?

北京の都城の変遷から、水の確保に苦労した過去の歴史(北京オリンピッ クを控えた現在も苦労は続いている、大同取水計画や揚子江送水計画など)

を踏まえて、南北の中軸線の構成などは欠くことのできない部分であろう。

内容の独自性で注目されるのは、分区の観点である。梁思成は、北京城は中 軸線を中心に構成されていて、東単東四・西単西四の並行する通りは、商業 地区として整備されているとし、猪市大街・羊市大街・馬市大街などの名称 に当時の分区の痕跡を見出している。江戸の町が、武士の居住する武家屋敷 や町人・職人の住む地域に截然と区別され、桶屋町や弓矢町というふうに職 業別に町名が付けられたのと同じである。封建時代の都城が、一定の方向性 を持って建設されていた事実を分区という観点で紹介したのは一工夫であっ

(17)

た。ただし、それが専門家の検証に耐えうるかどうかは別問題である。全体 を読めば、北京城の統合体としての姿が浮かんでくるように工夫されている と言えよう。最後に、北京城壁を市民散策の場所とした想像図が掲載されて いる。12

続いて、梁思成の建築家としての経歴にふれておこう。「祖国の建築の伝 統と当面の建設問題」の冒頭で以下のように述べている。

「建築は本来民族的特徴をもつものであり、それは民族文化の中で最も重 要な表現の一つである。新中国の建築は民族の優秀な基礎の上に打ち立てら れるべきであり、このことは今日の大多数の建築家達の認める原則でもある。

都市計画に参画する建築家達は、三つの大きな任務を背負っている。多くの 都市に見られる過去の半植民地状態の恥ずべき醜悪な姿を払拭すること、建 築上の我々の民族的特徴を回復させること、祖国の高度な芸術性を有する建 築体系を総括し発信すること。」

梁思成の建築家としての思想が十分に窺える文章である。ソ連の建築家と 意気投合する論点である民族的特徴は、梁思成の建築家としての確信でもあ り、建築家として精進してきた彼自身の履歴を語ることでもあった。恥ずべ き醜悪な姿とは、大連・青島・上海やアモイ・広州の西洋建築と混在してい る植民地都市の姿であり、さらに民族的特徴を無視した中国人建築家の粗製 濫造ぶりを非難する言葉でもあったと思われる。

民族的特徴を強調する梁思成その人の履歴をここで見てみよう。1901年に、

父梁啓超の亡命先東京で生まれた。横浜・神戸と移住して1912年に帰国する。

帰国後は、北京に居住して、清華学校(梁啓超は清華大学の国文教師を勤め る)で学び、24年から28年までアメリカのペンシルバニア大学・ハーバード 大学で建築学を専攻する。帰国して東北大学の建築学の基礎をつくるものの、

満州事変で北京に引き上げる。31年から日本敗退まで、営造社で伝統建築の 調査・研究に努め、中国各地の寺院・道観などの建築物を精査している。46

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年から、清華大学の建築学の主任教授となり、1972年に死去している。

梁思成の年表を見ていて特徴的なことは、滞米中に父から送られた『営造 法式』(宋代の李誡著)に惹かれたことと、32年に『清式営造則例』を書い て清代の建築構造を現代的に解釈したことである。さらにその後20年間、伝 統建築の調査・研究に打ち込み、中国古代建築の第一人者と称されたことで あろう。梁思成のライフワークが、『営造法式』の読み解きと現代的再現で あったことは、父親の梁啓超と二代続けての民族的特徴の探求といった因縁 を思わせる。梁思成は、中国の建築界で民族的特徴を主張するに相応しい人 物であったといえる。

「祖国の建築の伝統と当面の建設問題」で紹介されている中国の文化遺産 は、ほとんど梁思成夫婦によって発見・調査された建築物であった。山西省 五台山仏光寺の正殿(857年建造)、河北省の独楽寺の観音閣(984年建造)、 山西省仏宮寺の木造塔(1056年建造)河南省嵩岳寺の磚塔(520年建造)な どは、写真で大きく紹介されている。アメリカ帰りの梁夫婦が赴任したのは 東北大学であった。夫婦二人で大学の建築学科に迎えられ、その基礎を作る こととなった。新設大学で、アメリカの建築学を教授し、多数の建築家を養 成しようと意気込んでいた。13 現存する東北大学の図書館は、梁夫婦の遺作 となっている。この時期、父親梁啓超の墓や王国維の記念碑の制作もある。

ところが満州事変が勃発し、二人は早々と北京に引き上げざるをえなかっ た。北京で二人を迎えたのは営造社という中国の伝統建築を調査し、建築設 計もする組織であった。14 中国の伝統建築を調査しながら、夫婦は中国各地 を精力的に歩いた。アメリカの中国学者フェアバンク夫婦との交際もこの時 期のことであり、一緒に調査旅行した想い出が、フェアバンクの回想録に記 されている。中国人でありながら、キリスト教会のネットワークを利用して 調査した梁思成の屈辱感と愛国精神も紹介されている。15

これら中国の文化遺産の紹介は、「祖国の建築」で強調している民族的特 徴を理解してもらうためでもあった。中国人民は、唐代に遡る文化遺産を所 有するだけでなく、建築物は現在まで存在するだけの強靭さをもち、木造建

(19)

築の技術は世界最高のレベルにある。斗拱構造に見られる中国独特の建築様 式は、ここに紹介されている建築物にも典型的に現れており、反り返った美 しい屋根をしっかりと支えている。16 世界最古の木造建築の威容とその美し さは、中国人民に伝統建築のもつ意味と民族のプライドを教えたものと思わ れる。

また、この建築方法は現在でも応用可能で、建築材料の違いはほとんど問 題にならないと強調している。梁夫婦が手掛けた建築に、この斗拱構造と反 り返った屋根が反映していたことは言うまでもないことである。民族的特徴 をもった建築物をより多く作ることで、「高度な芸術性を有する建築体系」

を確立していきたいという梁思成の願いは、実現しつつあるように見受けら れた。しかし、朝鮮戦争が終了し、祖国の建設が本格化した途端に、梁思成 の作った建築物とその姿勢が批判の矢面に立たされることとなったのは皮肉 である。

Ⅲ章

梁思成批判の記事は、「建築の派手さと浪費傾向に反対する」(北京日報 1955年3月28日、揚正彦)が比較的早く、市民が梁思成批判をうかがい知る 契機になったと想像される。しかし、実際の批判はこの一ヶ月前に遡る。こ の記事には梁思成の名前は一字も出てこないが、読んでみると彼を批判して いることが即座に分かる内容である。冒頭の記事を引用するだけで、一目瞭 然であろう。

「ここ数年、北京の新建築の中で、宮殿式の『大屋根』が日々に流行し始 めた。褒め称える人は、『民族文化』の体現や表現であり、『祖国の感覚』を 伝え、古都に『美しさ』を付け加えた、と言う。咎め非難する人は、どこで も『大屋根』を採り入れるのは、機械的な模倣で、『復古』であり、今日の 新社会と新生活を反映しているとは言えず、したがって『美しい』などとは とても言えないと述べる。」

この後で、揚正彦は「大屋根」を現代建築の上に重ねることで、どれだけ

(20)

の費用がかさむかを詳細かつ執拗に述べている。最後の部分では、以下のよ うに締めくくっている。

「お聞きしたいが、我々民族の固有のものは、良かれ悪しかれ、損得抜き で、すべて残さねばならないのか。そうなれば、男の辮髪や女の纏足などは

『光栄に』受け継いでいかねばならない。…解放以後、北京の新建築で、百 万平米の面積にわたる建築に『大屋根』をかぶせたが、普通の平屋根やセメ ント製の彎曲屋根に比べて600万元余計にかかった。この金で、10万平米の 労働者住宅が建設でき、2000家族の労働者が居住できる。このような情況を 我々は、見て見ない振りができようか。どこでも『大屋根』を採用する悪弊 は、断固として中止する段階に来ている。」

伝統建築の保存を辮髪や纏足と同列に論じる乱暴さと、無駄な費用を労働 者・農民住宅で換算する偽善者振りは、批判のための文章の常用するところ である。

大屋根の問題は、古くて新しい問題である。新中国以前にも、大屋根を採 用した建築物は、燕京大学(現在の北京大学)や協和病院などで採用され、

その建築様式は北京市民にとって慣れ親しんだ風景であった。梁思成は、最 初このような中洋折衷の建築を嫌悪していたが、伝統建築の研究の蓄積やソ 連人建築家と交流する中で、大屋根の採用を民族的特徴として推奨するよう になった。大屋根と言えば梁思成という偏見があったようだが、百家争鳴・

百花斉放に基づく座談会の談話には、その責任はソ連人建築家と指導者のソ 連一辺倒に帰せられるべき問題であると指摘する声も紹介されていた。17 指 導者に、大屋根の付加と設計図の訂正を求められたケースもあったようであ る。梁思成自身も同時期の記事で、批判は納得できないと不満を述べている。18 大屋根そのものは、この時期に否定的見解が表明されたものの、58年の十 大建築の時期19 には再び解禁されていて、今日でも見られる建築様式であ る。この時期に問題化された原因は、第一次五ヵ年計画の二年目から始まっ た増産節約運動と関わっている。朝鮮戦争の停戦条約が成立し、国内建設に

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全力を注ぎたい共産党は、工業化を進める段階で生じた浪費現象に驚愕し、

計画の成功を保証するため、全国的な増産節約運動を推し進めた。上述した 揚の記事が、経済問題に集中しているのはその現れである。

さらに、54年末にソ連で開催されたソ連工業化に関する会議でのフルシチ ョフ報告の影響が加わる。20 スターリン批判の過程で、かつて建築分野で提 唱された「民族形式」と建築物に表現された伝統スタイルが「復古主義」と して否定された。その影響はすぐさま中国におよび、共産党の政治運動の動 員のもと、「形式主義」「復古主義」として、梁思成達が厳しい批判の対象と なったのである。同時にソ連人建築家の関係した友誼賓館などが非難をあび ることになった。21 前年に施工された北京市百貨大楼やソ連展覧館などは

「民族形式」の建築物として、人民日報に華々しく紹介されていたのが嘘の ようである。22

この政治運動の途中で完成した四部一会(財政部など四部と一委員会)の 事務棟は、両脇の建物の大屋根をかぶせた段階で大屋根批判が始まった。中 央の建物に大屋根をのせるか否か注視の的となったが、結局主任設計士の判 断で大屋根は廃止され、アンバランスな姿を今日までさらしている。23 大屋 根の存在そのものが「民族形式」を踏襲したものであると、批判の対象とな った。大屋根と「民族形式」の関係は詳細な議論がなされないまま、大屋根 を設計した建築家のみがその批判を受けたことになる。数年後、建国十周年 を記念して十大建築が施工された時、大屋根は何の問題もなく復活する。

「復古主義」の批判も同様の問題を孕んでいる。伝統建築の保存と重要文 化財の保護は、民族共通の遺産として、当然手厚く保護されるべきである。

しかし共産党政権は、急速な工業化を優先し、古都の保存を軽視してきたこ とは否めない。反右派闘争の過程で、北京の副市長・呉 の「北京市の文 物保護政策」と題した記事が北京日報に掲載されている。24 そこに挙げられ ている団城の保護と文化財の避雷針の工夫は、まさしく梁思成が北京市の幹 部と争う過程で守られた内容であった。25 梁思成の抵抗がなければ、団城は 消滅していただろうし、避雷針の設置もなかったことになる。お寒い文物保 護政策というより、文物保護の政策はなく、その場その場の対応しか存在し

(22)

なかったのが当時の状況であった。26

その梁思成が、「復古主義」の提唱者にされてしまうことが、政治の不可 思議な点でもある。北京城の保存は民族遺産の継承であり、今日北京城壁の 消滅を怨嗟する市民の声は大きい。天安門周辺の建築物の低層化を主張し、

現在の景観を守ったのも梁思成の努力の結果であろう。古都の全体像を把握 しつつ、建築物の配置・空間の確保などに配慮し、景観論争の先取りをして いたことになる。27 天安門の傍に高層建築ができることは、平面的広がりか らできている紫禁城そのものの均衡が破れ、北京城の均衡が破れることにつ ながる。北京城の均衡が破れると、北京全体の構成が破壊されることにつな がる。これは、京都の景観論争などを思い浮かべてみると、分かりやすいだ ろう。

ともあれ、毛沢東が梁思成批判を命令した以上、共産党員はその命令に従 わざるをえない。その役割は、北京市長・彭真に担わされ、彼は百通以上の 批判書を梁思成に提示して、自己批判を引き出した。彭真の政治家としての 手際のよさで、梁思成に対する批判は政治批判に拡大することなく学術批判 の範囲内で決着することとなった。梁思成批判は、胡適批判・胡風批判・梁 漱溟批判と同じく政治批判に拡大する可能性もあったが、梁思成周辺の働き かけと梁自身の自己批判で政治的な決着をみたように思われる。以下に梁思 成の自己批判の一部を紹介する。(「我々の党から二度と離れない」人民日報 1956年2月4日)。

「(前略)しかし、都市計画や建築設計では、私は一貫して党と対抗し、

積極的に私の誤った理論を伝え、それを北京市の都市計画・建築審査や教学 にまで貫徹させ、首都から全国にまで影響を及ぼし、建築界に毒気のある形 式主義や復古主義の誤りを広め、広範な労働者・農民が血と汗で積み立てた 建設資金を浪費し、祖国の社会主義建設を阻害し、同時に数百人にもなる青 年―新中国の建設家の跡継ぎ達に―悪影響を及ぼしてきた。(後略)」

梁思成の全面的敗北宣言である。建築家としての自己否定は、梁思成自身

(23)

の全否定でもあったはずである。配偶者林徽因の死と梁自身の入院で体力、

気力の限界を感じたのかもしれない。しかしこの部分は、政治的決着の結果 以外の何ものでもない。百家争鳴・百花斉放の下で、北京日報の訪問記者の 質問に対して、民族形式・復古主義の批判は、相当する部分と相当しない部 分があると慎重に答えながらもしたたかに反論を記事として掲載させてい る。天安門周辺の高層か低層かをめぐる論争で、高層建築の谷間の牌樓なぞ 問題にならないと呉 が批判したのを受けて、伝統建築を「秋風が落ち葉 を掃除する」ように破壊するのはよくないと反論するとともに、暴君のよう に邪魔をすると彭真に非難されて、歴史は自分に味方するだろうと自信のほ どを述べてさえいる。

整風運動の過程で、北京の都市計画に関わる座談会が数回開催され、共産 党への不満や要求が北京日報などに掲載されている。興味深い記事も多いの だが、一部のみの紹介に留めておく。四部一会の主任設計者張開済は、大屋 根の問題に触れて、設計図段階ではなかった大屋根が指導者の命令で付加さ れたこと、拒否すれば「愛国主義思想に欠ける」「ソ連の先進的経験を拒否 した」と批判される状況や当時の雰囲気を紹介している。華攬洪は、建築界 の「復古主義」は指導者の教条主義とソ連の建築芸術理論の鵜呑みが原因だ と指摘し、解放後、北京で大量の建築物が作られたが、庶民の住む住宅建築 の占める割合が低すぎたと共産党の都市政策を非難している。28

陳占祥は、都市計画委員会が都市規制委員会に改組された際、幹部はほと んど党員・団員で占められ、前委員会の非党幹部は他の部署に移され、以後 意見の聴取もないと不満を表明した。この種の発言と重複する発言も多く、

共産党の一党独裁化が一段と進んだことを意味している。29 さらに規制委員 会が、各部・委員会に土地を分配するのは、国有地の「私有制」であると厳 しく指弾した。国有地という名目で市民所有地を強制没収しながら、他方で は高級幹部の思惑で土地が勝手に使用された事実を、「私有制」のようだと 非難した訳である。センター建議で懸念した役所の勝手な土地所有が弊害と なって現れたことになる。30

(24)

共産党の改革を促進するための整風運動は、やがて党批判者の市民権を奪 う反右派闘争に転換していく。反右派闘争の始まりは5月の中旬であり、上 記の記事が新聞に掲載された頃には、既に反撃の用意が整えられていた。梁 思成は勿論、華攬洪も陳占祥も右派に認定される可能性が高かったことは、

上述の発言内容から推し測っても不思議ではない。事実、梁思成を除いて二 人は右派に認定された。しかし梁思成は右派に認定されなかった。それどこ ろか、高名な知識人を入党させる党の政策にのって、共産党員となり、党の 知識人政策に協力したのである。その華麗な転身に関わるものが、「整風一 ヶ月の会得」と題する人民日報の記事である。記事は、前半で自己の体験を 踏まえて、共産党に対する不満を述べている。しかし後半では、一転して共 産党の成果と整風運動を褒め称え、批判を受け入れて欠点を克服すれば、さ らに素晴らしい党になることを述べ、最後は高等教育における党委員会の主 導権を認めている。高等教育とりわけ大学の運営をめぐり、共産党と党委員 会の権限を縮小させる方向で議論が進んでいたのだが、反右派闘争では党委 員会の権限縮小は反党的行動とみなされ、議論は一変した。党に批判的であ るとみなされる高名な大学教授が、党委員会支持の発言をしたことの意味は 測り知れない。共産党と梁思成の妥協の産物であるとみなされても、不思議 ではないだろう。記事が掲載されたのは6月8日であり、党が本格的な反撃 を始めた時、すなわち反右派闘争の幕が切って落とされた初日なのである。

反右派闘争で梁思成が演じた役割は、文化大革命で郭沫若が演じた役割と よく似ている。共産党と妥協したと受けとられることにより、彼の声望は地 に落ち、学者として研究室にこもる生活が続くことになる。反右派闘争の過 程で、梁思成が複雑な立場に立たされたことだけは間違いない。31 思想改造 の表明で、知識人の威信に傷がつかないかと質問され、「批判されてからも 北京市の都市規制委員会の副主任と全国および北京の人民代表である」と、

答えているのは痛々しく思われる。32 梁思成の受難はさらに深まり、文化大 革命期は彭真攻撃の罪状作りのため、過去の妥協が繰り返し尋問され、命を 縮めることとなった。

反右派闘争時の大衆動員は外城の破壊に使われ、文化大革命の四旧打破の 紅衛兵動員は内城の破壊に使われた。さらにソ連との戦争準備のための塹壕

(25)

堀は内城を完全に取り壊して、地下鉄を完成させた。李輝の文章を引用して この稿を終ろうと思う。「50年代の復古主義批判から、文革中の四旧打破が 導いた文化の大破壊で、梁思成は大切にしている沢山のものを―物と心とを

―なくした。そしてわれわれは何をなくしたのか?中国は何をなくしたの か?」33

中国がなくしたもの、北京がなくしたものを振り返る思いの中から、改め て梁思成の北京観や民族的伝統を再評価する動きが出てきた。それらが中国 の歴史・伝統の見直しにつながっていく可能性に今後も注意したいと思う。

1:営造社以来の梁思成の弟子、羅哲文は現在まで文化財保護の責任者であった。

古代建築の権威で、古建築専家組組長・中国長城学会副会長を勤め、万里の長城 の研究者として有名である。

2:『城記』三聯書店、王軍著のp73からp78に詳細な陳占祥の紹介がある。陳は 1916年上海の商人の子どもとして生まれる。1938年イギリス・リバプール大学・

大学院で都市計画を専攻する。1946年に帰国。中央大学建築学部の教授となり、

解放を迎えた。その後梁思成の推薦で、北京都市委員会のメンバーになった。

また『梁思成』河北教育出版社、林洙著p120からp128に梁思成の米国滞在の 紹介がある。ここでは、梁思成全集の年譜から引用しておく。

「アメリカから大量の建築・都市計画の関連書籍を持ち帰る。例えば、《Space, Time  and  Architecture》、《Can  Our  City  Survive》、や抽象デザインの教授用掛図

《Elements  of  Design》など。当時国際的建築の新理論や建築教育の新観点を選択 的に清華建築学科の教学に導入し、世界一流の建築学科にする決心であった。」 3:N・窩羅寧著、梁思成・林徽因訳。

4:解放当初、都市計画のプランナーはわずか数名であった。『中国の都市化と農 村建設』龍渓書舎、小島麗逸著p49。

5:『梁思成』p141で、林徽因(梁の妻)は林洙(林の姪で梁の後妻)に古典を 引用して教授している。

北京は、《周礼》、《考工記》の「匠人営国、方九里、旁三門、国中九経九緯、

経途九軌、左祖右社、面朝後市」という内容に沿って作られた城郭都市であるこ と、三門とは東西南北の各城壁に三ヶ所の門を設置すること、九経九緯は東西南 北に九本の幹線道路を設けること、南北の朱雀大路の広さは九台の馬車が併走で

(26)

きること、宮城から見て左手に太廟右手に社稷壇があること、宮城の北側に商業 地域があること、など病身をおして解説した。林徽因の北京保存の熱意の一端を 紹介するくだりである。

6:1950年7月出版。

7:『中国の都市化と農村建設』p50。

8:『城記』p63や北京日報1957年6月3日。

9:『解題注釈毛沢東選集第五巻』三一書房、竹内実監修p147。

10:『北京通史』第10巻 北京市社会科学院p11。

11:『城記』p112からp115に両者の設計図が掲載されている。

12:『柳絮降る北京より』東方書店、陳真著p46には、北京都市計画の公開討論会 の有様や梁思成の熱弁ぶりが紹介されている。

「片方は、梁思成氏ら学者グループ。北京市全体が貴重な史跡であり、かけが えのない宝ものである。城壁、城門を含めて、そっくりそのまま保存し、北京市 の西側の広大な区画に新しい政治の中心としての新北京を作って、官公庁や党、

軍の機関、議事堂などを建設する―これが梁氏などの主張だった。もう一方の 人びとは、政治の中心は、あくまでも歴代の皇帝の宮殿であった故宮の正門一帯 におくべきであり、今の北京市を近代的な都市に改造すべきだと主張している。

双方一歩も譲らず、激しい論争がくりひろげられていた。」 13:『梁思成』p41に詳しい記述がある。

「僅か3年間の建築学科の時期に、劉致平・劉鴻典・張 ・趙正之・陳繹勤な どの優秀な建築学者や大先生を養成した。」

14:『城記』p63に詳しい説明がある。営造社社長は朱啓 で、1914年内務総長の 時に中央公園(今の中山公園)を開いた。中国の伝統建築の保存と修理に貢献し、

当代一流の学者・梁思成や劉士能などを招聘した。

15:『中国回想録』みすず書房、フェアバンク著p157。

「教会の接客・宿舎機能は印象的だった。どの町にも教会があり、予約なしで どんな時刻にもわれわれを受け入れる用意があり、地方のニュース、案内、紹介 を提供し、しかも経費としてわずかな現金の寄付を受けるだけなのである。…梁 夫妻は、私達と同様に、教会の助けに感謝していたが、自国で外国人に頼らなけ ればならないことには、強い困惑を感じていた。」

16:梁思成は斗拱構造を中国建築の特徴と考え、このため反り返った大きな屋根を 支えることができると、古代の技術や大工を高く評価している。

17:北京日報1957年5月20日と30日。

18:北京日報1957年5月17日。

19:建国十周年を記念して建設された十大建築物。人民大会堂・中国歴史博物館・

中国革命博物館・中国人民革命軍事博物館・民族文化宮・民族飯店・北京駅・北 京工人体育場などの大建築物。

(27)

20:1955年1月12日の人民日報にその詳細が掲載されている。

21: 人民日報1955年4月28日、範栄康。

22:北京市百貨大楼、1954年4月28日。ソ連展覧館、1954年9月10日。

23:『城記』p126からp130にその詳細が掲載されている。三里河行政中心工程は、

ある意味で梁・陳建議の再生であったものの、推進者・高崗の自殺のため建設中 止となり、四部一会の建築は残ったが、初期計画の十分の一に縮小したと紹介さ れている。

24:北京日報1957年11月14日。

25:『城記』p180。「梁はソ連専門家を説得し、周恩来を探し、団城の破壊活動を 止めるよう懇願した。1954年6月周恩来は、団城調査に赴き、道路を変更してこ の重要な文化遺産の保護を決定した。」

26:注25に引用したように、決定力のある指導者に懇願するしか、文化財を保護す る方法はなかった。重点文物保護法は1964年に成立したが、文革の勃発で施行は かなり遅れたと思われる。

27:『城記』p264からp285に天安門広場の拡張が紹介されている。

28:北京日報1957年5月20日。

29:北京日報1957年5月28日。

30:人民日報1955年5月28日には、役所の無責任な土地所有の問題を非難した漫画 が掲載されている。

31:『梁思成』p281。文化大革命の政治審査で、梁思成は彭真の誘導で「整風一 ヶ月の会得」を記したことを認めるよう執拗に逼られた部分が紹介されている。

林洙が梁に問い質すと、偶然来宅していた劉仁(北京の指導者)が読んで気に入 り翌日の新聞に発表したと答えている。

32:光明日報1957年7月31日。

33:『梁思成』大象出版社、李輝著p68。

「  」

(28)

The Reconstruction of Beijing and Liang Sicheng

Matasuke N

AWA

Key words: Beijing Castle, Liang Sicheng, Critical Formalism

Бе

(29)

参照

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