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(1)

メロヴィング時代の宮宰Placitaにみる裁判のかた

著者 岩野 英夫

雑誌名 同志社法學

巻 64

号 3

ページ 477‑541

発行年 2012‑09‑20

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014070

(2)

(   Placita同志社法学 六四巻三号

Placita

岩    野    英   

   )   )   ) Placita  ) Placita   、ネ  maior domus: Hausmeier, majordomeArnulfinger / Pippiniden / Karolinger )   )  ) Placita三 Placita )  ) 四  )  )  ) Placita )  Placita

四七七

(3)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

 はじめに

 私は、これまで、メロヴィング時代のP lacitaを材料にした論文を編公表した。﹁メロヴィング時代の国王Placitaについて﹂同志社法学三四六号(〇年)︹以下、﹁Placita について﹂と略記︺、﹁メロヴィング時代の国王Placitaにみる裁判のかたち﹂同志社法学三三号(〇年)︹以下、﹁国王Placitaにみる裁判﹂と略記︺である。 P lacita は、P lacitum の複数形である。本稿は、P lacita の意味を次のように理解している(拙稿﹁Placita について﹂三四三頁参照)。

広義では、判決を含んでいるウワクンデ。狭義では﹁国王裁判ウワクンデ﹂で、﹁訴訟の全経過を書き記す方式での、国王裁判所の判決︹書︺﹂(Eugen Haberkern / Joseph Friedrich Wallach, Hilfswörterbuch für Historiker, 2. Bd.,

Francke Verlag, München1964, S. 482)、﹁国王裁判所における裁判が終了した後に判決を書面にしたものである、種のウワクンデがplacitum と呼ばれている﹂(R. C. Van Caenegem, Kurze Quellenkunde des Westeuropäischen

Mittelalters, 1962, S. 56.)。   Pfalzgrafenzeugnis)﹂ )  六 Placita七 Gerichtsurkunde八  四七八

(4)

(   Placita同志社法学 六四巻三号  したがって、編の論文で対象にしたのは狭義のP lacitaである。それに対して、本稿における対象は広義のP lacitaのつで、宮宰を裁判長とする裁判に関係したP lacita である。例えば、Die Urkunden der Arnulfinger, hrsg. von Ingrid Heidrich, 2001は、宮宰裁判所の﹁判決︹書︺﹂をPlacitaと呼んでいる(S. 39ff.)。Andrea Stieldorf, Zum“Verschwinden” der herrscherlichen Placita am Beginn des9. Jahrhunderts, in : Archiv für Diplomatik, Schriftgeschichte, Siegel― und Wappenkunde, Bd.53, 2007, S. 1―26も、﹁メロヴィング時代およびカロリング時代の Placita 覧表﹂(“Tabelle 1: Placita der merowingischen Könige, der karolingischen Hausmeier und Herrscher”)の中に、国王の﹁判決︹書︺﹂と並んで宮宰のそれも入れている(S. 23)。 本稿の目的は、﹁国王P lacita ﹂との違いに留意しながら、﹁宮宰P lacita ﹂の特徴やそこに見ることができる裁判のかたちを明らかにすることである。 本稿では、先の文献に加え、次の文献も略記で引用する。 ①Clavis Mediaevalis: Clavis Mediaevalis, hrsg. von Otto Meyer, Wiesbaden1966. ② Heidrich-Titulatur: Titulatur und Urkunden der arnulfingischen Hausmeier, in : Archiv für Diplomatik, Schriftgeschichte, Siegel― und Wappenkunde, Bd.11 / 12, 1965 / 66. ③ Heidrich-Urkunden: Die Urkunden der Arnulfinger, hrsg. von Ingrid Heidrich, Bielefeld2001. 本文や注でHeidrichとだけ書いてあるものも本文献のことである。 ④ Hilfswörterbuch für Historiker: Eugen Haberkern / Joseph Friedrich Wallach, Hilfswörterbuch für Historiker, 1., 2. Bd., München1964. ⑤ Hübner: Rudolf Hübner, Gerichtsurkunden der fränkischen Zeit, Neudruck der Ausgabe Weimar1891

, 93 -

四七九

(5)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

Aalen 1971. ⑥ Kölzer1., Kölzer2: Monumenta Germaniae Historica. Diplomata Regum Francorum e stirpe Merovingica(Die Urkunden der Merowinger), Erster Teil, Zweiter Teil, Nach Vorarbeiten von Carlrichard Brühl, hrsg. von Theo Kölzer unter Mitwirkung von Martina Hartmann und Andrea Stieldorf, Hannover 2001︹Erster TeilをKölzer1と Zweiter TeilをKölzer2と略記︺。 ⑦Lexikon: dtv Lexikon des Mittelalters, Bd. I―IX, München2003. ⑧Niermeyer: J. F. Niermeyer & C. Van de Kieft, Mediae Latinitatis Lexicon Minus, Leiden, Nederlande 2002. ⑨ Pertz: Monumenta Germaniae Historica. Diplomata regum Francorum e stirpe Merowingica, hrsg. von K. A. F.

Pertz, Hannover 1872. ⑩﹃西洋史辞典﹄:京大西洋史辞典編纂会編﹃新編西洋史辞典﹄(東京創元社、昭和八年)。 ⑪ミッタイス:ミッタイス=リーベリッヒ著、世良晃志郎訳﹃ドイツ法制史概説 改訂版﹄(創文社、九七年)。 本文や注の︹ ︺とそこに書かれている記述・説明などは、断りのない限り、私の手によるものである。また、ママというルビを付けているが、その意味は原文のママということである。

 本稿は、かつて取得した科学研究費平成四年度― 平成六年度

四〇〇 <

る。 よる研究成果の部であ > に 四八〇

(6)

(   Placita同志社法学 六四巻三号  試訳と解説

() 地名(1) ことわり 本稿末に、地図Ⅰ~Ⅲを掲載している。地図Ⅰには、写本やオリジナルで伝承されている宮宰P lacitaの試訳や解説に出てくる地名を番号にして載せている。具体的には開廷地、P lacita 作成地、係争対象所在地などである。ただし、

P lacitaの中に出てくる地名で、現在のそれと同定できないものは載せていない。 地図Ⅱには、その存在があれこれの史料等の伝える情報でしか確認できない宮宰P lacita に出てくる地名を番号にして載せている。地名に付けた番号は、地図Ⅰのそれと差別化するために四〇番台にした。また、技術的に地図Ⅰに入れることができなかったT ertry には番号

。いいう思とかであるら 図れらの地あを成るい、こもずらわかか借にれそ。いなは作用少、したえ伝に手み読もでしいを地ジのは、た的イメ理ー ののう程度把大雑なもといで、かいなはり辺のこいたしでるかわれしなかいてしを解誤ぬも思確、い位置。認に際して 、て地図ⅠとⅡについ位も、地名の置はだいまた。う対い このよに、地図Ⅲ本稿がは象にならなには重代時るいてし 地収いなきでがとこるⅠにⅡと図地、がるあで、名め地の域。たし載掲、用借でしる記名どがなされてい 七時の)年四八~八六Ⅲ位在(帝大ルーカ、はの図代にもる のいならな重はに代時いのてし象対が稿本、りあで地 50。るいてせ載てけ付を

四八

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(   同志社法学 六四巻三号Placita

(2) 地図Ⅰ――宮宰Placita関係地名 1. A miens, 2. Attiniaco villa︹A ttigny︺, 3. C ompiègne, 4. Duna villa︹D üren︺, 5. G ozin-s ours-B eauraing, 6. H ainaut, 7. Lethernau︹L ierneux︺, 8. Malmundario︹M almedy︺, 9. Marigilo︹M aroilles︺, 10. Marolio︹M areil-M arly︺, 11. M etz, 12. P ondrôme, 13. S edan, 14 S ept-M eules, 15. S oissons, 16. Solemium︹S olesmes︺, 17. Stabulaus︹S tavelot︺, 18.

T euven, 19. Vernum︹V aires-s ur-M arne︺, 20. Vertino︹V ertain?︺, 21. Uuassoniaco︹W assigny︺. 以上の地域のうち現在のベルギーに所在しているのは、以下の七地域である。5、6、7、8、

12、 17、

。特場にはそのことを合に断ることはしない フがきれそ、ンラしスに所在ているすと出ラン在しているのは4。残りはフをスに本名地で注や文。にるいてし在所所 18ツイド。

(3) 地図Ⅱ――散逸Placita関係地名 40. Cadolacio ︹C haalis ︺, 41. K öln, 42. M arseille, 43. S ens, 44. T rier, 50. T ertry. 以上のうち、

41と

。断いるこを特にとるとはしないこ 名す出をや地で注きと在、フランスに所本して文、フスしている。残りは、はランに所所在している。後者について在 44にツイドの在現は

(4) 地図Ⅲ―― アウストラシア、ネウストリア、ブルグントなど この地図の出典は、ヨーロッパ中世史研究会編﹃西洋中世史料集﹄四〇頁(東京大学出版会、〇〇〇年)である。 四八

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(   Placita同志社法学 六四巻三号 () 宮宰(maior domus: Hausmeier, majordome)そしてArnulfinger / Pippiniden / Karolinger 以下は、宮宰についてのミッタイスの説明である。﹁宮宰は、もともとは宮内行政の長にすぎなかったのであるが、メーロヴィンガ朝時代後期になると︹帝国︺統治の首長になった。この時代になると、帝国の各部分に、それぞれつの宮宰職が生まれている。この官職は最初まず罷免不可能なものとなり、アウストラージエンではカーロリンガ家の宮宰時代に世襲化するまでになってしまった。六八七年以後は、フランク帝国全体についてつの統的な宮宰職が成立している。このようにして、帝国統治権はアウストラージエンの太公職と不可分に結合されることになったのである。メーロヴィンガ朝の下で瓦解した帝国は、かくして、カーロリンガ家出身の宮宰によって再び統された﹂(〇九頁)。 ﹁帝国の各部分﹂とは特にアウストラシア︹Austrasia =アウストラージエン(Austrasien )=Austrien ︺、ネウストリア︹Neustria=ネウストリエン(Neustrien)︺、ブルグント︹Burgund︺のことである︹地図Ⅲ︺。 引用文中の﹁六八七年﹂とは、(中)P ippin (中ピピン︿Pippin der Mittlere ﹀。図1参照)がネウストリアの宮宰を T ertry︹地図Ⅱ―

のとこるあで 1 のむ含をトングルブもそしかし王らがなけ受全宰国い年たっなと期画くてのし得獲を位地の抗宮を抵トングルブてしで 50年した、であり負か的ち打にた定決でい戦のま︺、るそし張主を権導主けそおに土全国王、あのと

。T ertryは、パリから東北東へ六〇㎞ほどの所にある。 (中)P ippin がアウストラシアの宮宰の地位に就いたのは六四〇/六〇年頃で、七四年まで在位している(Lexikon, Bd. VI, S. 2167) (中)P ippinの祖父の人はM etz︹地図Ⅰ―

arpinarl MKllteipPの)供の人が中( 子。で説の﹄典辞史洋明あであ西、﹃は下る以。る lterer Äde)。るあでて位〇~六三九/六四年﹀。の間宮宰とし在? 11pinrnPipipulfpinAP教司ので、もう人の祖父︿ンピピ(大︺は

四八三

(9)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

 ﹁カール・マルテル(Karl Martell 六八八頃~七四)フランク王国の宮宰(七四~七四)。ピピン(中)の子。父の十分に果しえなかったザクセン︹Sachsen︺、アラマン︹Alamannen︺、バイエルン︹Bayern︺諸族の討伐を続行。七三年にはトゥール︹Tours︺・ポワチエ︹Poitiers︺間の戦によって、イスラム教徒のヨーロッパ侵入を阻止し、翌七三三年以降ブルグント︹Burgund︺、プロヴァンス︹Provence︺、セプチマニア︹Septimanien︺に遠征して、イスラム教徒と結んで反抗した部の南仏地方権力を掃。七三七年以後はメロヴィング王位空位のまま全王国に号令、カロリング家の実権を確立して、その子ピピン(小)の正式に王位にのぼる素地をつくる。︹以下略︺﹂︹八三

―八四頁。地図Ⅲ。アラマンはアレマニアを、ポワチェはポワティエを、セプチマニアはセプティマニアを参照︺。

 以下は、(小)P ippin (小ピピン:Pippin der Jüngere. 宮宰として七四~七年)についての﹃西洋史辞典﹄の説明である。

 ﹁フランク国王(七―七六八)。カロリング王家初代の王。七四年父カール・マルテルの死後ネウストリアの宮宰となり、七四三年には七三七年以来空位の王座にヒルデリヒ三世をつけ、七四七年兄カールマンが修道僧になるとアウストラシアの宮宰を兼ね、全フランク王国の実力者となり、前代以来の教会領没収をめぐる紛争を解決して、教会の十分の税徴収権を広範に承認。七年ローマ教皇ザカリアスの黙認を得て王を廃位、ソワソン︹Soissons :地図Ⅰ―

四再アリタイてったわお度の遠年六七びよ七、や年にに征ドポ。ンペの岸沿海アリタアナびヴェンラ総督領およ にがランゴバルト国王救圧迫されて援を求める世ス。式をもあせて行って即位七ヌ四年つぎの教皇ステファわ 15︺式ゲ、れさ戴推に王に正マてっよに議会侯諸のルン儀かの油塗の側会教、にほ古の式儀る乗に楯の式 四八四

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(   Placita同志社法学 六四巻三号 リス地方を教皇に寄進、寄進状を聖ペテロの墓に捧げ、世俗国家としての教皇領を国際社会における公認された存在とする﹂(六〇― 六頁)。

 これまでの引用文中で使われている﹁カーロリンガ家﹂﹁カロリング家﹂、ドイツ語でいうK arolinger ︹カロリング家の人、カロリング家の人たちとも訳せる︺は、K arl M artellの名に由来するものである、という(Lexikon, Bd. V, S. 1008 ) 2

。 そして、K arolingerと呼ばれるようになる以前の、K arl M artellまでの人たち、すなわちK arolingerの祖先たちは、講学上、A rnulfinger 、P ippiniden と呼ばれている。K arolinger につながる人たちを確認できるぎりぎりのところまで溯ったところにいるのが、司教A rnulfとそして(大)P ippinだからである(Lexikon, Bd. V, S. 1008)。

(三) 残存数 Heidrich によれば、A rnulfinger / P ippiniden ︹ここでは、K arlmann やフランク国王になる以前の(小)P ippin も含まれる 3

︺のウワクンデは三四通伝承されている。そのうち通は偽ウワクンデであったり、ひどく改ざんされたりしている(S. 121

146, Nr. 25 -

ererulfingArnngulfirnAたし較比と書文た場し広係の関にちた族の外以 合貴違るのい分とさ多の数の書文布係には、 なに的人個、は通書文の九計進寄まな含以。るいてれもど書文私る係に上  H16eidrich, 147―S. 9, Nr. 36―91(るあ)。 Da. diteperの存がそ確録らかて記の他がたっましでし逸散 認在きウで通六は)デンクワ逸る散、下以(デンクワウ 8S. 1135, N24r. 通)。ウワクンデ以外には手の紙が伝承されている()。 -

四八

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(   同志社法学 六四巻三号Placita

さで、このことからも、A rnulfingerが実質的に国王といえる地位にあったことを読み取ることができる、という(Heidrich, S. 9)。 オリジナルで伝承されているのは、(小)P ippinに係る通のウワクンデだけとのことである(Heidrich, S. 13. Nr. 22, 23)。通とも、聖D enis聖堂に交付されたものである。 ウワクンデのほとんどは財産贈与に関係している。贈与財産が私有のものか国庫のものかを区別することはほとんど不可能である、という(Heidrich, S. 22)。 財産贈与関係ウワクンデに次いで多いのはP lacitaで、散逸ウワクンデ︹以下、散逸Placita. Nr. 59, 60, 66, 69︺を含め九通のP lacitumが確認されている。(中)P ippinの息子G rimoald I I. に係るP lacitumが通(Nr. 59, 60)、K arl M artell に係るそれは三通(Nr. 10, 66, 69 )、K arlmann に係るそれは通(Nr. 16 )、(小)P ippin に係るそれは三通(Nr. 18, 21, 22)である。いずれも、宮宰の職責に基づいて作成、交付されたものである。(Heidrich, S. 23)。 以下、特にHeidrich-Urkunden とHeidrich-Titulatur を参考にして、関係ウワクンデの邦訳と解説を試みたい。試訳する各P lacitumの番号(

deunHeidrich-Unrkつにの。てもるかわ、日年付い月はしるい作て示い従にを地成 KlacitumrigopiealinPOcitumlaP の該か交の(当かオリジナル)、なの別なの該あとの( )内はそ当のが)写(し Nr.ricnHeidrneübHh-Urkundeれその、あ、はでそる︹ 番録目)は︺の。とあの号番の号の

(四) 試訳と解説(1) Nr. 10 〔58 〕(Kopie, 720 Dezember, Glamau villa )要旨:尊き人である宮宰K arl(M artell)は、ある裁判において、TofinoとSilvestriのか所のv illaにつき、それらの 四八六

(12)

(   Placita同志社法学 六四巻三号 v illaは自分︹=原告代理人Wolfrannus︺の妻Richilde︹=原告︺の先祖RotgisusがかつてS tavelot / M almedy修道院からベネフィキウム︹=貸与地︺として与えられたものである、という、妻Richilde ︹=原告︺を代理してのWolfrannus︹=原告代理人︺の主張を退け、それらのv illaは我われの財産であるとのS tavelot / M almedy修道院の主張を認めた。司教︹であり同修道院の大修道院長である︺Rabangarius ︹=被告︺は、多くの証人たちやPippin (中ピピン?)が確認した、︹同修道院の︺大修道院長Bobolenusの時代のプレカリア ウワクンデ(carta precaria)によって、Rotgisus︹=原告の先祖︺は彼代限りということでそれらのv illa に対する用益権を有していたことの証明ができた。

Glamau villa︹Glains südlich von Stavelotか?︺七〇年月  試訳 尊き人である宮宰K arl が、多くの人びとと共に、Glamau v illa に、あらゆる訴えを聞きそして公正に審理をすることにより︹その訴えに︺決定を下すべく(ad universorum causas audiendas vel recta iudicia terminanda)いる時、そこに、Wolfrannus なる者︹=原告代理人︺が、自分の妻Richilde ︹=原告︺のために(in causa coniugis sue

Richilde)、その妻︹=原告︺の証人(adprobator)たちであるTancradus、Fastradusと緒に来てStabulaus︹S tavelot ︺とMalmundario ︹M almedy ︺にある聖P etrus 修道院の、使徒の後継者Rabangarius 司教︹=被告︺や︹被告の︺証人(testator)たちを訴えた際、彼︹=原告︺等の先祖の故Rotgisusが保有していたTofinoと呼ばれているあるv illaとSilvestri v illaを、Rabangarius司教︹=被告︺等は彼︹=被告︺等の下に留 め置いている(contradiderit)・否むしろ(vel plus)略奪した(sibi retinuerit)、と宮宰に申し立てた(repetebat)。しかし、同Rabangarius司教︹=被告︺は多くの人びとの手を経て来た(per plures personas)︹そしてまた︺︹中?︺P ippinの手で確認されたプレカリ

四八七

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(   同志社法学 六四巻三号Placita

 ウワクンデ(carta precaria)を、︹すなわち︺TofinoそしてSilvestri v illaと名づけられている先の箇所のv illaを、それによって、同Rotgisus︹=原告の先祖︺がStabulausとMalmundario︹S tavelot / M almedy︺の聖P etrusの同修道院に対する寄進(beneficium: Seelgabe an eine Kirche; pious gift to a charch)の代償としてRabangarius司教︹=被告︺の前任者Bobolenus大修道院長からそしてまた同修道院の僧侶(monachus)たちから獲得した(tenere)、そのプレカリア ウワクンデを、︹また︺そこ︹=プレカリア ウワクンデ︺に、Rotgisus︹=原告の先祖︺はその箇所のv illaをRotgisus︹=原告の先祖︺が生きている間契約上の取り決めに従い(ordine)用益権に基づいて所有すべきものとし・また将来に亘り(exinde)所持することで損害を生ぜしめてはならず、またRotgisus︹=原告の先祖︺が死亡した場合には、改良されることで産み出された諸々の物、すなわちRotgisus︹=原告の先祖︺が同v illaにつき何であれ付け加えあるいは増やすことができた物と共に、Rotgisus ︹=原告の先祖︺の死亡の日から、同修道院のために、僧侶たちや修道院の指導者たちは、Rotgisus︹=原告の先祖︺の相続人たちや誰であれそうしようと欲する者たちからの反対なしに、証人たちの面前で誓約が行われ引き渡される(testata traditione )ことにより、彼らの所有・就中グルントヘル(領主)としての所有の下に受け取る(in eorum reciperent potestatem ac dominationem)、と書き込まれている、そのプレカリア ウワクンデを読むために直ちに差し出した。さてそこでそのあと(sic )この訴え(causa )は規則に従い(pro ordine)余や︹余と共に居る多くの︺先の人びとによって入念に調べられ、︹そして︺同Wolfrannus︹=原告代理人︺は、Rotgisus ︹=原告の先祖︺の相続人たちの誰であれこのプレカリア ウワクンデに対して申し立てるべき事・あるいは異議を唱えるべき事があるか否か、と質問された(interrogatum fuit)が、しかし、Wolfrannus︹=原告代理人︺たちはこのプレカリア ウワクンデに対して直ぐに申し立てをし・あるいは異議を唱えることが全くできなかったばかりか、同プレカリア ウワクンデが真正であることを完全に認め、また、同v illaを何 にせよ適法に所有す 四八八

(14)

(   Placita同志社法学 六四巻三号 ることができるいかなる根拠も述べることができなかった。そのあと、余は、偉大な人びとや余の誠実の士たちと共に、

―― 誠実の士たちとはGaribertus, Ingisus, Racanarius, Martinus, Amalbertus, Aluezus そして余の勤務者(iunior ) Bobelenusそしてその他多くの人びとであるが――、同Wolfrannus︹=原告代理人︺やRotgisus︹=原告の先祖︺の相続人たちすなわちTancradus 、Fastradus は同プレカリア ウワクンデに対して異議を唱えたり、申し立てをすることができる根拠を何も述べることができなかったし・同v illaをそれが故に所有することができる根拠を何ひとつ述べることができなかった・また同プレカリア ウワクンデが真正であることを完全に認めたが故に、先のRabangarius 司教︹=被告︺やStabulaus︹S tavelot︺とMalmundario︹M almedy︺にある聖P etrus修道院の側あるいは修道院の指導者たちは先に名前の挙げられたTofino およびSilvestri v illa を、何ひとつ欠けることなく(omni integritate )、同

Rotgisus︹=原告の先祖︺が同v illaに売却したり(detrahere: verkaufen)買い入れた(comparare)物全てと共に、同プレカリア ウワクンデ以前に︹戻り︺、Wolfrannus ︹=原告代理人︺、その妻Richilde ︹=原告︺あるいはRotgisus ︹=原告の先祖︺の相続人たちのTancradus、Fastradusや、さらにまた、これ以外の者たちに対抗して、いつまでも(omni tempore )、引渡されて所有するものとし、そして、この者らの間でこの件につき訴訟は︹こののち︺放棄されるように、との判決を下したことは明らかである。 国王C hilperich の治世年、十月六日に作成したものが授与された。

解説 【形式など】宮宰K arl(M artell)が関与した、現在のベルギーにあるS tavelot︹地図Ⅰ―

1510r. NNr. , 16るそ。情あ)ら(れウ伝るいてれらえてワし係関にデンク通ほに地かののこはデンクワウる係に域 17edy―/ Malm8︺︹地図Ⅰ︺

四八九

(15)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

報は、このNr. 10のそれが番少ないようである。その理由はおそらくSilvestri v illaは別にして、このNr. 10に出てくる場所があとの時代の、修道院の諸ウワクンデの中に登場しないことや、またこのv illaが修道院の全所領の中で大きな意味を有していないことに関係しているとのことである(Heidrich, S. 78)。 Niermeyerは、試訳中に傍線を引いた﹁彼︹=被告︺らの所有・就中領主的所有の下に受け取る(in eorumreciperent potestatem ac dominationem)﹂のなかのpotestasにBesitz, posessionの訳語を、dominatioにgrundher-rlicher Besitz, seigniorial posessionの訳語を当てている。直訳に過ぎるとの思いはあるが、領主的所有という訳語を用いた。 丹下栄によると、﹁スタヴロ・マルメディ修道院は七世紀の半ば、聖レマルクによって創建された。スタヴロ、マルメディをそれぞれ根 拠とした つの修道士団を人の修道院長が統括する﹂修道院である(丹下栄﹁中世初期アルデンヌ高原領主制の面:スタヴロ、マルメディ修道院土地取引文書解読のために﹂下関市立大学論集三〇巻号六頁、昭和六年)。丹下栄の労作﹃中世初期の所領経済と市場﹄(創文社、〇〇年)はスタヴロ/マルメディ修道院について詳細な情報を提供している。 ﹁プレカリア ウワクンデ﹂のプレカリア(precaria )には三つの種類がある(以下、ミッタイス九〇頁)。所有地を贈与した贈与者が、その贈与地を受贈者から改めて借地・小作地として借り戻すタイプ(precaria oblata)、寄進―借り戻しタイプではあるが、贈与者が贈与地よりも広い土地、または贈与地とは別の土地を受贈者から借り戻すタイプ(precarila renumeratoria)、寄贈―受贈関係無しで、土地所有者がその所有地を直接的に貸与するタイプ(precariadata )。地代の授受がある場合と無い場合とがある。 【宮宰】K arl M artell. 四九〇

(16)

(   Placita同志社法学 六四巻三号  【国王】C hilperich I I. Lexikon des Mittelalters, Bd. II,2003, S. 1826によると、C hilderich I I. の息子である。Danielという名前で聖職にあったが、D agobert I II. の後継者として四~四歳で七六年︹七年という説もある︺に王位に就いている︹七年まで在位︺。メロヴィング王国における﹁名ばかりの国王﹂の人である。 C hilperich I I. のそもそもの宮廷は、C ompiègne ︹地図Ⅰ― 3︺である。C ompiègne は、パリから北東へ七〇㎞ほどの所にある。 【開廷地】Glamau v illa. Halkin, Joseph et Roland, Recueil des chartes de l’ abbaye de Stavelot-Malmedy, Bd. 1, 2, 1909, 1930はGlamauをGlaniacoのことだと推定している。Müller-Kehlen, Helga, Die Ardennen im Frühmittelalter, 1973 は、そこを、現在はその地名が残っていない、S tavelot ︹地図Ⅰ―

ri laesilv, Snoofi. Tri istveSilo, finTotrvilSilvestあでい。】在い所象対争係【 な地処るて何の在現はとかの同定はでき vGlamauilla. 】地成作【  るに。あ所在い線直の上図地、てて離しの所にーギルベの距で現北どほ㎞〇九へ東東︹らかリパ︺じ同下以在 17tlovetaGSlains 、との南のだい考えてはる。︺

v illa とはSevescourt だとする、世紀の欄外の注があるとのこと。Heidrich, S. 204 はSilvestri をSevescourt / Fescourtではないかと推測している。現在のベルギーにあるP ondrôme︹地図Ⅰ―

12︺だとする見解もある。 P ondrôme は、現在のベルギーに所在していて、パリから東北東寄りへ四〇㎞ほどの所にある。 Maurits Gysseling, Toponymisch Woordenboek van België, Nederland, Luxemburg, Noord-Frankrijk en West- Duitsland(voor1226), Bd. 2, 1960はTofinoをT euven︹地図Ⅰ―

18Hh epos, Jinalket。︺掲るいてえ考とだ前 Rolandは、間違いかもしれないという前提付でG ozin-s ours-B eauraing︹B eauraingの下 のG ozin:地図Ⅰ―5︺ではないかと推測している。地名に関する以上の説明はHeidrich, S. 78

Tnveeu79ル現在のベギ、。るあでのもるよには -

四九

(17)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

ーに所在していて、パリから東北東寄りへ三〇㎞ほどの所にある。G ozinは、現在のベルギーに所在していて、パリから東北東寄りへ四〇㎞ほどの所にある。

(2) Nr. 16〔61〕(Kopie, 747 August 15〔Mariä Himmelfahrt〕, Duna villa)要旨:(尊き)宮宰K arlmann・すなわち故K arl(M artell)の息子は、S tavelot / M almedy修道院の大修道院長 Anglinusと彼︹=K arlmann︺自身との間の、彼︹=K arlmann︺の祖父・すなわちP ippin︹中ピピン(Pippin der Mitttlere)︺がウワクンデにより同修道院に寄進したL ierneux v illaをめぐる争いを、偉大な紳士たちと緒に調停した。 P ippin︹中ピピン︺のウワクンデは提出され、真正であると認められる。同修道院は判決によって所有地を取り戻す。判決人は四人の司教、人の大修道院長、宮中伯Hugbert である。

Duna villa︹D üren︺七四七年八月日(マリア被昇天︹の祝日︺)

試訳 宮宰である尊き(Illuster )K arlmann ︹=被告︺。故K arl (M artell )の息子にして主が統治の職を委ねし者。公正(iusticia )が合致しない判決(sententia)がいずれか方の当事者に有利に与えられることが無いように、審理を通して(examinatione )あらゆる訴訟を入念に調べねばならない。それ故に、余︹=被告︺が、神の御名において偉大な紳士(optimas)たちや司教(pontifex)たちそして尊き人(illuster vir)たちと共に、Duna villa︹D üren︺に、あらゆる訴え(causae )を聞きそして公正に審理をすることにより(iusta iudicia )︹その訴えを︺調べるべくいる時、そこに、

Anglinus大修道院長︹=原告︺・すなわちS tavelot / M almedy修道院の指導者(rector)が来て、支配者(domnus︹= 四九

(18)

(   Placita同志社法学 六四巻三号 宮宰︺)にして余の祖父の故P ippinは彼︹=P ippin︺の死後寄進ウワクンデ(testamentum)によってLethernau︹L ierneux ︺と呼ばれているあるv illa を、Brastis 、Feronio 、Unalia そしてAldanias という名前のあれこれの帰属物やあれこれの付属物と共に(una cum appenditiis et adiacentiis)聖P etrusと聖P aulusの、S tavelot / M almedyにある聖所(casa )に贈与しあるいは譲与した(condonasset vel delegasset )のだが、しかし余︹=被告K arlmann ︺が同v illaを不法、不当に略奪した(post nos malo ordine retineam et iniuste)、と余︹=被告K arlmann︺に申し立てをし(asserebat nobis dicens )、そしてこの申し立てのために、当該死後寄進ウワクンデを手元に所持している、と断言した。

; Anglinus大修道院長︹=原告︺は余︹=被告K arlmann︺に︹そのウワクンデを︺読むために差し出し(adrelegendum tradidisset )、余︹=被告K arlmann ︺はそれが真正なものであることを知った(invenimus eumveracem)。而して、余︹=被告K arlmann︺は、当然にも、脆 き人事によくよく思いをめぐらせ(cum iusticiaconsiderantes casum humane fragilitatis )、余︹=被告K arlmann ︺の霊魂の救済と余︹=被告K arlmann ︺の王国の安泰のために(pro salute anime nostre vel stabilitate regni nostri)、同Lethernau︹L ierneux︺v illaをそのあれこれの帰属物やあれこれの付属物と共に余︹=被告K arlmann ︺のwadium 4

を用いて同Anglinus 大修道院長︹=原告︺に返還をし、そして、棒(festuca 5

)を用いてまるごと(in omnibus)引き渡したことは明らかである。そのあと(Proinde)、余は︹=被告K arlmann ︺、いまでは(dum )本件訴訟がかように行われそして遂行されたことを認め(hanc causamsic actam vel perpetratam cognovimus)・また当該死後寄進ウワクンデが真正なものであることを知ったが故に、余︹=被告K arlmann︺の誠実の士(fidelis)たち、――それは司教たちのFenaldus, Hildebaldus, Hrodericus, Christianusそして大修道院長のErmenerusと余︹=被告K arlmann︺の宮中伯のHugbertus、あるいはその他の多くの人びとであるが――、と共に判決を下したことは明らかである(visi fuimus iudicasse)、そこで(ideo)余︹=被告K arlmann︺は、

四九三

(19)

(   同志社法学 六四巻三号Placita

(domnus)である同Anglinus大修道院長︹=原告︺やその後継者たちあるいはかの修道院の指導者(rector)たちは同Lethernau︹L ierneux︺v illaをそのあれこれの帰属物やあれこれの付属物と共に全き︹権利︺・完全な権利を以て(cumomni integritate iure)同修道院のために所有することを命じる。然るにもし余︹=被告︺の相続人たちや後位相続人(proheres)たちの誰であれ、余︹=被告K arlmann︺のこの贈与ウワクンデ(donatio: Schenkungsurkunde, deed purporting a bestowal)に反して行動しようと欲する者が出てくるならば、余︹=被告K arlmann︺はその者に判決を下すことを余︹=被告K arlmann︺の後継者である統治者たちに委ねる(successorum nostrorum regibus eumiudicandum relinquimus)。国王C hilderichの治世の年目、八月十日に作成したものが授与された。 宮宰K arlmannの署名。 私Childradus が署名した。

解説 【形式など】試訳の中で、最初にアンダーラインを引いたregni︹主格はregnum︺と番目にアンダーラインを引いたregibus ︹複数の主格reges ︺はそれぞれ﹁王国﹂、﹁国王たち﹂と訳すことができるし、この訳語を用いるのが普通である。しかし、当該P lacitumは七四七年に作成されていて、この時の国王はC hilderich I II.である。そのために、第のアンダーライン上のregibus を﹁︹余の後継者である︺国王たち﹂と訳すことにかなりの違和感があり、﹁統治者﹂と訳すことにした。最初のアンダーライン上のregniについても﹁王国﹂を避け、﹁支配﹂と訳すことを考えたが、違和感の程度が低かったので、ここは、﹁余の王国﹂と訳しておいた。しかし、国王ではない宮宰が自分や自分の後継者に関係づけてregnumあるいはregesという用語を使わせていることは、王国の実質的な支配者が誰であるかを示して 四九四

(20)

(   Placita同志社法学 六四巻三号 いて興味深い。 【宮宰】K arlmann :メロヴィング朝フランク王国の宮宰。以下は、Lexikon, Bd. V による説明のあらましである。 K arlmannは七四年以前、七〇六年か七〇八年の生まれで、七四年に死亡。父親はK arl M artell。K arlmannとその弟P ippin I II. (小ピピン:Pippin der Jüngere )は父親の死(七四年)後、異母兄弟Grifo を排除して、七四年王国を分割し、K arlmannはA ustrien, T hüringen, A lemannienの支配権を獲得する。 K arlmann は、七四~七四六年、時には(小)P ippin と緒に、A quitanien やB ayern 、A lemannien において勢力を持つライバル﹁太公﹂たちと戦い、また支配領域の境界をめぐるS achsenとの戦いを指揮した。これらの戦いはフランク王国(Regnum Francorum )の周辺地域に対するカロリング家の不安定な支配の安定化をもたらした。 この周辺地域に、支配の正当性の強固な基盤をつくろうとして、七四三年初め、メロヴィング家のC hilderich I II.が王位に就けられる︹七三七年にT heuderich I V. が死亡したあと、王座は空位であった︺。七四七年の夏の終わりか秋に、 K arlmannは、宗教上の、もしくは政治上の理由から息子Drogoに支配権を移譲した。しかしそのDrogoは(小)

P ippin によってまたたく間に排除されてしまう。 支配権を手放したあとまず、K arlmannはローマに行き、そこで教皇Z acariasによって聖職者に叙任される。それから、ソラッテ山︹Monte Soratte :ローマから北へ四㎞ほどの所︺に聖S ilvester 修道院を建立する。七〇年頃、

M ontecassino︹ローマから南東へ〇㎞︺に戻り、修道僧の誓願を行う。 七年に国王の座についた弟の(小)P ippinが教皇S tephan I I. と決めたイタリア政策に反対するために、七四年にフランク王国に帰るが、幽閉され、恐らくは重い病気のせいで、義姉妹の保護を受けるなかで死亡する(S. 995)。 【国王】C hilderich I II.︹在位七四三~七年︺。

四九

参照

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