昭和如年度における特別史跡﹁平城宮跡﹂の発掘調査は第旭次︵補 足︶・溺次・次・鎚次・犯次にわたり︑このほか奈良簡易保険保養
センター連投予定地の緊急調査を奈良県教育委員会に協力して尖施し
た︒
第皿次補足調査は︑第二次内裏周辺の整備計画にともなうものであ
る︒第茄次・犯次調査の目的は︑前年度からの継続である宮城四黍を
明らかにすることにあった︒さらに第次・肥次調査は︑今まで調査 をしていない第一次内裏想定地域を中心としておこなった︒それぞれ
の調査同次︑地区名︑期間︑面稔については第1表を参照されたい︒
第枢次補足調査第2次内裏南面築地回廊
調査地域は︑これまで四回にわたり調査した第二次内裏内郭の中央
南部で︑昭和詑年の調査では︑南面築地向廊の北側雨落溝まで検出し
たが︑今圃の補足調査によって︑卿廊基壇と閤門との規模を明らかに
することが出来た︒ただし基壇南側は後世の破壊をこうむっており︑
基壇北縁も大正過年の保存工事の際作られた溝で削り取られていた︒
南面築地回廊の○言っ回廊は複廊︑すなわち築地の両側に廊をそ
なえた形式である︒門の東西に接続する皿間分と2間分とを検出し
た︒東西柱間はほ箕等間隔で︑平均少認︑ある︒築地本体の幅員は︑
平城宮発掘調査概報
昭和伽年度平城宮発掘調査概報
東部で﹈・gm︑門の両脇で﹈・馬
︑あり︑門の附近がや上広くな
っている︒寄柱礎石の大きさ
は︑ほ壁方如廻厚さ圏.︑皿を
測る︒その中の一箇には小柄穴 があった︒築地本体の構築は︑畑
Iまず築地位置の雑底面を叩き間縮
め︑添柱を立て︑約卵︑の高さ郷まで版築を重ねる︒そして凝灰度
岩の寄柱礎石を据えつけ︑廊床癖 面とそろえたあと︑本体を祇梁跡
あげたものである︒寄柱礎石の
外側は︑築地の壁面にそろえて俵
いる︒廊の部分は︑東部では地第
山面を削り︑第9次調査によっ
て確認した神明野古墳の周濠部
にあたる西部では︑盛土をする
ことによって︑東西の高さを調
平城宮跡発掘調査部
磯R二R餓器二:l4q724‑4L,』71669 醤 |調
梅地区|昭和縁月奪,期器M月日│制
27
12(補足)l6AAQ−B.D・F 40.10.15‑40.12.115.6a
.'().7.7−40.7.2117
駐ンタ塗l6ADG−MN
6AAI一M.N、O・P.Q、R 40.12.1−41.4.15160 6 A D E − K . L 、 M
6ADD−Q
25 、10.3.27−40.9.13137.2
6 A C C − C ・ F
31
鵬 40.9.16−41.3.18132
削り
壷 ; 〜 J b 極 り
および南側柱の柱間は﹄.鼠ある︒親柱の根石に北接して凝灰岩寄柱
礎石痕跡があるところから︑門は一間分のみで︑築地がそのすぐ脇に
とりついていることがわかった︒また門の北半の床には︑敷石をしき
つめたらしく︑その三間分に凝灰岩の粉末が散布しており︑回廊床面
舗
濡
奈良国立文化財研究所年報sAO248
= = = 言 L 一 一 へ 一 々 淵
「r言1−
『 ‑ | 佃
盃 、 ' 屋
講蕊蕊溌蕊鼠
一一﹁ !
一 パ 写 司
…露…蜜『1
より約加m低くかつた︒なおこの痕跡は南側にはない︒
出土遺物には︑土器と軒瓦加数点と埴輪がある︒瓦のなかには表層
より出土した﹁超昇寺口堂﹂と記した軒丸瓦が一点あった︒
前向までの調査によって︑第二次内裏の掘立柱回廊は︑二回の建て
かえのあったことが確認されているが︑今同の調査では︑築地回廊に
それはなかった︒すなわち︑門から東へ9間目の柱列は︑内裏正殿を
囲む掘立柱回廊の○﹄喝の西側柱列と一致し︑m間目の柱列は︑の○
台﹃より新しい柵のシ心浅とも一致する︒このことから︑この南面築地
向廊が少くとも二時期にわたって存在したと思われる︒
u r 0 誼 L 三
−
201V
│【0
!
●
. 1 . . . . 1
整し︑その上に黄色土をの
せ叩き間めてあり︑北面仙
廊とちがって︑蚊荷の存在
は確認出来なかった︒床面
は︑築地をはさんで両側に
廊緩るく傾斜している︒廊の
岨側柱位置は築地心から函・震
醇mにあり︑東部で検出した
癖掘方三箇の中二箇には︑方
納形に並べた根石がのこって
輝いた︒他方西部では︑埋士 iのため︑礎石位置を壷掘り
叉.潮し︑その中に︒ハーフスと粘土
を互層にして地固めをおこ
なっている︒しかし置かれ
た根石は︑大部分が取り去
られていた︒
悶門の園笥9この門は
内裏中軸線上にあって親柱
昌一
向廊が少くとも二時雄にわたつ
第閥次調査宮城西面中門
第妬次調査は︑宮城西面の
中門とその内側に沿う細長い
区域を発掘した︒その結果西
面中門︑掘立柱建物4棟︑柵
列7条︑井戸2荘︑溝3条を
検州した︒
西面中門の︑患gは基鱒一西
側の大半が道路の下にあるた
め︑東半部だけを発掘した︒
雅聴上部は︑かなり後世の削
平を受けていたが︑掘り込み
の韮礎地固めを検出すること
ができた︒基礎地固めは基底
一 雰 穂
館2図第25次調査宮城西面中門附・近
飼 舗 審 議
」32
‑J、矧電薗占騨導、ふ朝唾幸由虹凸ら&唾■5
平城宮発掘調査概報 ヴヰ 部で約㈹mほど残っており黄褐色粘土︑バラスなどで交互に版築されている状況が明確にゑられた︒韮埴の大きさは南北幅約圏改︑︑東四幅は門の西半が道路下にあるため不明である︒第妬次調査の四面南門では南北約犯︑︑東西幅は築地大垣の復原から皿︑と推定している︒それに較べるとこの門の東西幅は︑や入小さい規模であったと考える︒
門にとりつく西而築地大垣は︑築地本体が道路の下にあり調査でき
なかった︒また犬走りも門を中心とした南北の大部分のところでは︑
完全に削平されていた︒しかし調査地域の南では︑約nmにわたって
確かめることができ︑その一部では掘込み地固めの版築の少忌日を認 めることができた︒
秋篠川水系の旧河道の〆扇忍は︑調査地域の南半部を占めており︑
宮城造鴬の際には埋立てていることがわかった︒河道はこの地点で西
から南方向へ折れ曲り︑南に接する第肥次調査地域へ続いている︒
柵のシ誤gとの診窃gは門の東妬mのところで﹈き︑以上にわたっ
ている︒の少尉gの北端は土壌の宍窓gに切られており︑確認するこ
とはできなかった︒しかし門に対しての少$gの南端と対称の位置に
第 3 図
第27次調査木樋暗渠
あったとすれば︑3間分が削除され︑巾門の正面で8間分が開放され
ていたことになる︒この柵は門と同時期のものと考えるが︑柵列の南
端部では︑奈良時代の整地層とされる茂柵色土の下から柱穴が穿れて
いるので︑平城宮造営の比較的古い時期のものとすることができる︒
これに東へ卯︑隔てての捧窃認・誤雪・韻密が平行して走っている
が︑いずれもその相互関係は明らかでない︒そのうちの捧誤雪は第肥
次調査で検出された柵列に続く可能性がある︒なおこの柵は①画誤g
に先行するものである︒これらの南北方向の柵列に対し︑のシ窃雪と
のシ患侮は東西方向に連続するものである︒前者は掘立柱建物の国
韻gと柱並びの一致から︑同時期と考えられる︒掘立柱建物のうちの
画韻gを除く3棟は︑いずれも前後関係を明らかにできるものはなか
った︒ほかにこの地域では︑平城宮以前および以降の遺樵がある︒
平城宮以前の遺椛としては︑発掘地域のほ賀中央を斜めに二条の溝
のロ忠呂・韻ざが横切っている︒この種の満の形態は︑第皿次闘在で
住居杜群と共に検川されたものに類似している︒遺物は上屑遺物に弥
生式土器︑土師器など混在していた︒秋篠川旧河道には堆積砂層を堀
り込んだ土壌の侭誤gがあり︑そこからは布留式︵土師器︶の土器が川
土した︒
平城宮以降のものとして発掘地域の各所に瓦器の包含層があり︑平
城宮廃絶後の生活面を検出することができた︒掘立柱建物の国誤宕は
柱穴も小さく︑中から瓦器の出土もあり︑その時期の建物とされる︒
井戸の固忠g・誤呂は極めて小規模なものである︒前者は方1mの木
枠がわずかに残り︑後者は底に曲物の痕跡をとどめていた︒
33
2 7 − 9 . . z FEA。』41口
奈良国立文化財研究所年報
域東南で検出した柱穴2個の〆雪麗がある︒ひとつの底には礎板がの
こっていた︒南北大溝にかかる橋の〆雪gの年代はわからないが︑そ
の西の道路敷を東西柵の陸雪琶の門と関連させるならば︑A期からは
じまっていたと考えられる︒
B期 lI00lIFJb0DrⅢ0ⅡIIIlLW︑
111111
昌
〃へ一一 岳昌
〃へ一一 岳
伽I
剖呂
11
1
剖呂5 日 T n丁qq
#廿山
#廿山 s o 。 7 9 0
く K a 7 g g
且A同PJ4K●pnTR品 9A■配【◆声
園
尾r凸rケガ」 S D a T 7 昌。798 ロ 、
全体として出土遺物は少堂で土器︑屋瓦のほかはなかったc
第四次調査第一次内裏
第次調査地域は︑宮城のほ壁中心部北半にあたり︑第一次内裏想
定地域である︒
検出した主な遺構は︑建物3︑柵5︑廊1︑築地2︑溝︑︑橋1︐
門︑土壊などである︒基本的には少くとも︑造営期をA・B.Cの三
時期にわけることが出来る︒
A期
A期に属する遺構には︑南北築地・築地西側の二条の東西柵︑築地
東側の東西柵︑それに付属する門︑東西溝︵下層︶︑凝灰岩暗渠︑玉
石積暗渠︑南北大溝︵下層︶その他がある︒
南北築地の少舘gは︑発掘地域の中央を南北に貫ぬいており︑さら
に北と南とに延びる︒発見したのは︑基礎固めのみである︒築地本体
は幅2mで︑東西に犬走り︵幅︒.︑︑︶と溝︵幅◎・岳︶とをそなえてい
る︒築地西側にある二条の東西柵の缶麗9.の缶舘扇は︑皿︑間隔で
平行し︑いずれも柱間四・3mある︒東端は南北築地の少麗gにとりつ
いており︑西端は発掘地域外に延びている︒築地の東には柵のシ舘急
のほ竺東延長線上に柱間函.急m等間の東西柵の少雪gがある︒その西
端は築地にとりつき︑東端は南北大溝のロ雪扇にたっしている︒この
東西柵の中央に柱間吟函mの門がある門の柱穴には礎板がのこってい
た︒柵の跨召gの南側には︑築地の西側からはじまり︑南北大溝のロ
雪扇に注ぐ東西溝のロ雪詞︵幅っ・﹃︑︶がある︒この溝は︑門の前では
玉石積暗渠となっている︒その他A期に属する遺構としては︑発掘地
こ X 同 乃 眠 階
醸 ● 1 尾 V 古 ロ レ
5 , ヨ フ R Z gJL。aIE
民XbQW馬40 '。、
'。、
9 , . 7 四 目 9 , . 7 四 目
5姫Eコ7凹冒 5姫Eコ7凹冒
q…。。
こ X 同 乃 眠 階
二N 二N
琴参多鐸
5,コ77C一甚弓了に
5Kコ76巴 訂 q 陸 F る い I 車
10 垂0
1 、 U U 1.0M
第4図第27次調査地域実111図
○0
34
平城宮発掘調査概報 C期
C期に属する遺構には︑築地︑柵等がある︒築地の少麗らは︑調脊
地域中央を北から延びて西へ曲った現存の土塁がそれである︒東面の
築地は︑B期の南北廊基壇を利用したものであり︑南面の築地は︑二
条の東西柵の少舘gとの匪諸扇の中軸線上に築成したものである︒南
面築地は比絞的良く基底部︵鵬2m︶がのこっている︒この南面築地
の南に接して溝︵幅1m︶があり︑さらに南に犬走り様の基壇︵慨鱒い
︑︶をそなえている︒南面築地の東端近くには︑凝灰岩暗渠のロ諾忌
があるが︑これに接続する溝は削平をうけて︑築地の南︑北にも現存
していない︒当地域南半部には︑直角に曲る画.湯m等間の柵のシ雪き
がある︒その束而には︑門とみらられる柱間切迫mの個所がある︒以
上あげた遺構のほかに︑画期とC期との間のものとして︑南西部の轍
の〆笥観︑石敷南北満の西方一面に敷かれたバラス︑南面築地南側の
不整形の濠のロ閏霞があるが︑これらは発掘の所見から︑C期の構築
に関係あるものと想定される︒
A・B.C各期のうち︑B期については︑南北廊東犬走り上で多量
に検出した軒瓦が密9.s震.留置ICであることから︑その年代を
第2次内裏の時期にもとめることができる︒したがってA期は第1次
内裏の時期に︑またC期は平城上皇の年代に想定できる︒
従来第1次内裏の築地回廊痕跡と想定していた現存の土塁は︑時期
のさがるものであることが判明した︒しかしその築地の直下︑および
南延長線上に︑南北築地の基底部を確認したことは︑第1次内裏・朝
堂院の東を画する築地の可能性がある︒また南面築地をはさむ2条の
35
B期に属する遺構には︑南北廊︑石敷南北溝︵下層︶︑素掘南北
溝︑土城などがある︒
南北廊の○雪司は︑韮壇中央に柱間催.②m等間の柱列が一列あるだ
けの廊で︑A期の築地のシ諾gと重複して検出した︒廊は発掘地域の
南北に貫き︑その北と南は発掘地域外に延びている︒基壇︵幅6m︶の
築成には一部旧築地を利用している︒唯垣の両側には︑幅函函mの犬
走りとみられる部分があり︑東側では素掘り南北溝のロ雪囲がある︒
B期に属する遺構としては︑他に東北部に土城の汽雪圏・の属雪認︒
東南部にの屍雪ざ︑中央に①宍雪雪がある︒
画期
臼期に属する遺構には︑木樋暗渠.石敷南北溝︵上層︶︑南北大溝
︵上層︶︑握舎等がある︒
木樋暗渠の己署ざは︑南北廊の○笥司基埴西側の石敷南北溝のロ雪
gからの流れをうけて︑東の南北大溝のロ雪忌︵上勝︶に注ぐ東西虹
mの暗渠であって︑木樋7本をあいつらねている︒石敷南北溝のロ雪
呂︵上層︶の木樋暗渠への取水口は︑石敷を一部低め︑その南︑北端 を︑特に喋を縦波承に縁どりし︑水の流入を容易にしている︒南北廊
の○雪弓基壇上に︑画・画m等間の南北柱列のシ雪器が5条検出された︒
これは握舎︵仮設建物︶の柱列とみられる︒東二条が一対をなし︑西
の三条のうち︑東の一条︵五条の中央の条︶と西の二条とがそれぞれ対に
なっており︑都合3回の仮設があったと考えられる︒他にこの画期に
属すると考えられるものに︑南北溝のロ雪扇の西に沿う柱問い・諾m等
間の柵のシ雪gがある︒
弓 2 面 ■ 9 ● Z ■
奈良国立文化財研究所年報
集する土壌がひとつになったも
ので︑局部的に著しい敵の凡堆
積を検出した︒削平をうけて底
石だけをのこす玉石溝のロ舘段
は︑流出口と考えられる場所に
合掌作りの木組施設のあるとこ
ろから︑暗渠であったことが推
察される︒
そのほか︑発掘地域中央にL
字状に曲る溝︵幅︒・爵︶の口笛
急と西端に地域外に延びる東西
溝Sb舘酋がある︒
平城宮以前かと思われる遺構
に︑発掘地域中央を斜めによぎ
る溝のロ鵠乞︵幅﹈・鼠︶があり
溝底より弥生式後期の土器片を検出した︒
出土遺物は少ないが︑おもなものとして︑南北溝のロ麗圏から︑木
製百万塔未完成品1基︵︑絵参照︶︑木製漆製柄頭︑木簡辺点がある︒
そのほか土器・瓦︑円座︑滞等があった︒以上の発掘結果から︑遺跡
の性格を判断することはむずかしい︒遺構・遺物がきわめて少ないこ
とが当地域の特徴であり︑さらに今後の隣接地域の調査成果をまつも
のである︒
第魂次調査宮城東南隅
#b】掴【・野B,
1 5
""↓
1 … ,。
. 0
1↓
蕊 蕊
&・】角VEY。
&・】角VEY。
,¥。】閏V二▼L ,¥。】閏V二▼L
東西柵は︑内一髪内部を画するものであろう︒
以上の結果のほかに︑平城宮以前の遺構として︑西南部の溝のロ雪 忌︑土嬢の属雪忠︑方位を無視した建物二棟の国雪認・の国雪亘︑西 北部の土鱗の属雪麗・の宍笥署がある︒溝︑土壌は古墳時代に属して
おり︑この建物もその年代にさかのぼる可能性がある︒
出土遺物は︑瓦︑噂.土器︑木簡︑柱根︑礎板︑木樋などがある︒
瓦の組み合わせの中で︑新に密9.s震19置○の組合わせを象と
承た︒木簡は︑土城の属雪ざから検出したものが2点あって︑1点に
は﹁角俣﹂の墨書があった︒木樋は建築材を転用したものがほとんど
で︑柱のほか︑桁を転用加工したものもある︒なお木樋の一部︵3本︶
は︑東京国立文化財研究所保存科学部と協議し︑防腐処置の上現地に
保存することにした︒
第羽次調査第1次内裏西方隣接区
調査地域は︑佐紀池の南にあたるいちだん低い区域であって︑小字
﹁池尻﹂に属し︑第一次内裏想定地域の西側である︒遺構としては︑
溝︑土城のほか︑柵三条を検出したにすぎなかった︒
発掘地域東部では︑南北に走る柵のシ舘留I缶︵柱悶・鴎︑︶との
シ認認1国︵柱間画・鴎︑︶を重複して検出した︺また︑これらから酉
へ約﹄.の︑はなれて︑南北の柵のシ舘剖︵柱間2m︶があった︒
本地域西部は東部より約1mほど低く︑束よりに︑発掘地域外に延
びる南北溝の口笛圏︵約3m︶がある︒西方からこの溝に注ぐ東西溝2
条の口笛鵠︵約骨・岳︶︑のロ鵠$︵約︼.︒︑︶は︑その東半部で土壌の
肉麗鵠によってほとんど破壊されている︒土壌の口笛忠は︑重複し群
!
一 ー 戸 =
#b】掴【・野B,
#b】掴【・野B,
驚驚三 昼・】楓LP姫
砂9コ。』⑤
Zn気圏。L鶏
9 1 P . 苧 . ¥ D M
鋪5図第28次調査地域実測│当
36
発掘地域は宮城の東南隅で︑東一坊大路と二条大路の交差する場所
にあたる︒その一部が国道型号線等ハイ・ハス予定地となったため︑緊急
調査を行った︒
発掘の結果︑この地域は後世の削平にあっていたが︑東一坊大路・
二条大路蚊︑掘立柱建物4棟.柵2列︑築地2条︑溝8条︑橋2基︑
井戸1基の各遺構を検出した︒
発掘地域の北西部では東西に流れる溝︵上側縁幅画・儲︑以下の数価は
同じ部分の溝帆︶が走っている︒これは第哩次調在︵宮城西南隅︶の際
に発見された溝のロ届呂に連らなり︑宮城南面の外堀と考えるもので
ある︒溝はさらにのロ豊己︵﹃・用︶と合流し︑東へ⑫mを隔て坐調査
地域を南北に貫通する溝の口乞9s・垣︑︶に接続している︒前者は︑
第躯次南地区︵宮城東面巾門︶調査で検出されたのロ置己の南延長線上
の末端部にあたり︑後者は宮城束面の外堀となるものである︒合流地
点は水流のため︑広範囲にわたって側壁が挟り取られている︒また
溝の中には数条の杭列があり︑この部分は少なくとも3同の護岸工事 ロ旨gとのロ色急の間には顕箸な遺構がないので︑この間が東西に連らなる二条大路の路面幅であることがわかった︒のロ$認はめロちgと4m隔てて平行する溝で︑南北溝に合流している︒この4mの間には盛土があり︑南北溝の西縁に沿って南へ恢角に通っている︒盛土面には帯柱列もあり︑築地のシ色呂と考える︒溝のロ窓認は築地の下を石組暗渠のロ諺怠で通しているが︑後に使用不能となったようでその南に木樋暗渠が設けられている︒
南北溝の東側上縁から東へ約加mの位置で︑南北に走る溝のロ窓巨
1A︵﹈・用︶を検出した︺この溝は2時期にわけることができる︒す
なわち︑東から西行する満のロ怒呂I少︵﹈.︑︑︶がのロ$﹈﹈l陸に接
続し︑それを切って溝のoggl国︵帥叩︶が直角に曲り南行してい
る︒瀧のロ$急の南縁からさらに︑溝の東側上縁に沿って南へ続く盛
土があった︒この部分は築地のシ$呂律・儲︶であるが︑ここでは築
地寄柱列は認められなかった︒また南に続く大部分は︑潅慨用水路の
下になっているため全体の様相を確認することはできなかった︒この
築地は築地のシ乞呂と同一東西線上にある︺なおこれらの溝は素掘り
で︑特別な護岸施設はなかった︒
のロ色gとのロ窓匡IPとの間は︑中肱の瀧一条が南北に蛇行して
いるほか︑遺構は認められなかった︒この間は約加︑あり︑南北に通
じる東一坊大路の路面幅であるし築地と大路の関係をみると︑築地の
少ちgは三条一坊の北東を限るものとなり︑築地の缶$gは三条二坊
の北西を限ることになる︒
二条大路と東一坊大路との交差点は︑南北溝が貫通しているため︑
平城宮発掘調査概報
鱒 6 図 枠 付 柱 根
があったと推定され
る︒
溝のロ届呂の南側
上縁から南へ閉封m
のところに︑東西溝
のロ色呂︵1m︶が
あり︑東に流れて南
北溝と合流する︒の
37
4芸一癖一:極Ii−釜静である.残存している柱
根には︑径約帥皿の十字L
奈良国立文化財研究所年報
? l o z o 。 。 M
第7図第32次i凋盗地域実測図
に組んだ枠木が柱の下端にはめこんであった︒柱根の残っていない柱
穴でも枠木が残っていた︒これは柱を安定するために組んだものと思
われる︒全体に柱穴を深く穿ち︑また柱が太いことなどから考える
と︑高い楼のような性格の建造物であったと想像される︒この種の建
物は︑これまでの調査では発見されなかったものである︒掘立柱建物
の園窓sは二条大路上にあったことになるが︑西妻正面の位置に長さ
函.︑mの橋の〆$gがあり︑両者は一連のものと考えられる︒また︑
三条二坊西北隅に掘立柱建物の国務弓・罵言がある︒
このほかの遺構として︑の画窓計の南に柵列の少$雪・$ご・窓巴
がある︒柵は東西方向に二条が井列し︑井戸の画ぢぢの掘方が切って
いる︒井戸は底部に肢下段の木枠組がわずかに残り︑二条の瓦製土管
を配して導水している︒土管には半載される前の丸瓦が利用してあっ
た︒
R 5 読
二条大路の中央に橋の〆きgを架している︒橋幅は岳・﹄mあり︑橋杭
7本︵桁行い・爵︑杭間名画・器︶の橋台2雑からなっている︒僑杭の数︑
位置などからして︑少なくとも3回の改修があったことがわかった︒
橋下には水流が淀む個所があったためか︑溝の側壁に沿って有機物の
堆積層があり︑出土した木簡の大部分はここから発見した︒また︑こ
の附近より大型の瓦製擬宝珠が出土しており︑橋の欄干に用いられた
0寓擢iI4丈6尺B I O 』 坦 心 相 屋
7ズ
0 0
1
, .
= 些 夫 t Z カ ワ 式 宮 唖 遜 6 尺
,畷...大獅is尺
五 0 4 尺
38
U■
鞭蝋r蕊醗耀郡
群識考えられる︒︵時期およ
俸軸麺ぴ規模については第2表︶
癖該稲そのうち一一条一坊の東北
︽平く隅にあるの園忠司陳持柱 淡r
唾弱 齢い蝋︾可袖溌蝿灘恥硝鯛
平城宮発掘調査概報 とである︒肺凹も各種にわたり和銅銭をはじめとした各種の銅銭︑銅鏡片︑海老錠︑帯金具︑飾り金具︑鉄鎌・錨・釘・針.針金︑玉類などがある︒隆平永宝のごときは︑一括してこつ枚以上の出土があった︒とくに金属製品や大並の鉱津の出土は附近に鍛治関係︑宮工房があったらしいことが推測される︒
溝のロ色呂は出土遺物から染て・かなりの年代にわたって使用され
ていたと考える︒また埋士中より少なくとも叩世紀を降らない唾壷︑
緑紬水瓶︑土師器︑須恵器が出土している︒これらのものは溝の埋没 時期を暗示させるものである︒
この地城では明らかに東一坊大路を検出し得たが︑宮城東面北門︑
中門の東位置にあたる第塑次北・南地区の調査では大路の推定位置に
冊列︑掘立柱建物︑井戸などの遺椛が発見され︑大路として認め雌い
ところもあった︒このことは東一坊大路との関係について︑重要な疑
問を提起するものである︒
奈良簡易保険保養センター建設地調査宮城西面外堀
この場所は第辿︑応次調査地域のほ箕中間で︑県道を陥てた宮城西
面外堀にあたる︒ここは簡易保険郵便年金福祉事業団による奈良簡易
保険保養センターの建設地となったため︑小規模なトレンチ︵東西㈹
m︑南北6m︶を穿って遺構の存否を検討した︒
その結果︑西而の築地大垣の中心より嬬地を隔てて西へ約廻mのと
ころで︑溝の西側上縁を検出した︒溝の東半部は道路の下へ統いてい
るため溝幅︑東側上縁を確認できなかったが︑宮城西而の外堀と考え
るものである︒
39
平城宮以前の遺椛として︑弥生式時代の溝一条が調査地域の東で南
北に蛇行しているのを検出した︒
以上︑各遺構について略述したが︑これを平安召東南隅と比較して
承ると︑この両者は極めて類似している︵第7剛︑第8図参照︶︒すな
わちのロ届呂は宮城南面の外堀となり︑のロちgが宮城東面の外堀と
なっているなど同じである︒平安宮との連いはのロ置己の溝がないこ
と︑宮城東面の外掘は二条大路を災通して南に流れていること︑その
ため束一坊大路の道幅が同じであることなどである︺また平安宮の築
垣心灸距離は大宮大路で廻丈︑二条大路のr丈に対して︑平城宮では
東一坊大路の鵬が1丈短かくなっている︒
路面については第皿次調査の朱雀門︑第躯次北地区調査では一部バ
ラス数面が認められ︑路面の状態が推定されている︒ここでは問頭に
も述べたように後世の削除をうけ︑道路敷にはその痕跡を認めること
はできなかった︒しかし三条一坊附近の土質と︑二条大路とではかな
りの相違がみられる︒このことは両者の埋没時期に差があったことに
よるものと推定される︒
遺物は重要なものが数多く出土したが︑とくに溝からの出土肺が大
部分を占めている︒溝のうちでものoちぢから賎も多く出土し︑屋
瓦︑土器︑木製品類︑金属製品︑石製舶など多種にわたる︒そのうち
顕著なものをあげると土馬︑土錘︑六百数十点にわたる木簡.墨書土
器︑木製人形︑硬玉製勾玉︑緑紬軒瓦がある︒緑紬軒茄などはこれま
で平城宮内では︑出土を承なかったものである︒︵躯頁挿閣参照︶
そのほかとくに注目に価することは︑金属製品が大戯に出土したこ
橋 礎板あり、
門あり 築 地
A
掘の上縁から西へ約釦mの間は︑造機を認めることができなかっ
た︒更にこの西には︑幅約P﹃mの浅い溝状の凹みがあり︑部分的に
溝底とみられる砂の堆積があった︒これにより釦mの間が︑南北に通
5.3m 柱 間 寸 法
地 区 │ 時 期 | 造 樵 | 柱 職 備 考
§ r 籾 ノ 呈 1 斗 | I エ 』 | 桁 行 | 梁 行
ASA355516以k間'2剖、
第2表発見建造物遺播
I
奈良国立文化財研究所年報 S A 3 5 5 7 1 5 以 上 2 . 2
SA3590126以上 2.6
第妬次・両面中門
S A 3 6 4 0 1 3 × 3 1 2 1 2 1 北 踊 SA364214以上? 2.1
S A 3 6 8 0 1 1 1 以 上 2 . 6 S B 3 6 9 0 5 以 上 × 2 2 . 6 1 2 . 6 S B 3 5 6 0 7 × 2 1 2 . 3 1 2 . 3
B9.
S A 3 5 6 7 1 7 以 上 2 . 8
表中の時期区分A・B.Cば︑同一地区での相対的な序列であって︑た︒出土遺物は土器︑屋瓦のほか︑各地区に共通したものではない︒また柱間寸法は概数値を示す︒緊血可巳E1.よば一八らっこ︒
S B 3 5 9 9 1 3 × 2 1 1 . 7 1 1 . 8
10以上 10以上 35以上 12以上 32以上
40
なものを検出することができなかつ
緑紬陶器片などがあった︒
︵石井則孝・三輪嘉六︶
B
A以前 1.6
2
46●■11
34︽八U800−︐85︿U︵UOハU27070515nU1
77268001954170026778027
777778R︾87778899q﹀Q︺999︿U︑︶8
3ndndno33q︶nO3nonoq︺ndndnon︒nononoQ︺443
BBXKAAAABAAABABXAABAAXB
︹ロQ︺Q︶︵︒︒︶︵ご︹︒︹︑Q︶Q︺Q︶Q︶︵︒Q︶Q︺Q︶︵︒︹︒Q︶︵ごQ︶Q︶S 22××42
築地 東西順?
築地、寄柱なし
橋
第詑次・宮城東南隅第次・第
23 9以上?
55240
車■●●■
33223
棟持柱15m
次内裏
BC
握 舎3以上×2 2月 2 4 8以上?
1×1 6以上?
6以上?
6 2以上×2以上
築地寄柱 橋 北 廟
5 3?×3以上 2.812.8
A 全体に後世の削平を受けているのと︑小規模なトレンチのために明確 この西に接して︑わずかな盛土の痕跡を認めた︶しかしこの地域は じる西一坊大路の路而幅であり︑溝は大路の側溝と推定できる︒また
1