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坂東三津五郎家の 「娘道成寺」-初代から三代目へ-

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(1)

坂東三津五郎家の 「娘道成寺」‑初代から三代目へ‑

はじめに

宝暦三年(1七五三)三月江戸中村座において、初代中村富十郎が「京鹿子娘道成寺」

(以

下'

「京

鹿子

」と

略称

)を

初漬

した

。数

ある

歌舞

伎所

作事

(舞

踊)

 の

うち

'こ

の「

康子」は常に人気を博し、今日まで女形舞踊の代表曲として上演が重ねられてきたこ

とは周知の通‑である。近代では五代目中村歌右衛門以降、成駒屋の襲名披露狂言と

位置付けられ、また一方で立役の六代目尾上菊五郎も得意とした。よって現在では富

十郎家、歌右衛門家'菊五郎家のお家芸としての認識が強い。

しかし菊五郎と括抗Lt 「踊りの神様」 の誉れ高かった七代目坂東三津五郎の ﹃舞踊

(‑)牽話﹄ では、道成寺を巻頭に据えた上で、次のような記述がある。

(前略) 坂東三津江は何しろ九十九歳の長寿を保っただけに、ほんとうの昔の踊を

よ‑知っていました。(中略) ある時、私が三津江に「今まで見たうちで誰の道成

寺を一番巧いと思いましたか」と訊‑と、言下に「それや永木さんです」と答え

ました。「では拙いのは」と重ねて訊‑と、「‑さんです」と答えました。この名

前は一寸申し上げられませんが、この三津江の返辞から推して想像するのに'永

木三津五郎の ﹃道成寺﹄ はよほどたいしたものだったようです。

右にある三津江は、三代目三津五郎の弟子であったお狂言師の娘。自身も幼時の短期

間ながら三代目の弟子となり、その舞台姿に接した人で、「永木さん」は深川永木に住

まった三代目三津五郎のことである。また七代目の後継である八代目≡津五郎も武智

(‑)鉄二との対談集 ﹃芸十夜﹄ の中で'次のように言う。

三津五郎 僕は「道成寺」というのね'あたしの家に三代目≡津五郎の伝書があっ

て、それを僕は子供の時に読んじゃったんですが、それによると、三代目三津五

郎は娘道成寺にこだわっているんですよ。(後略)

三代目三津五郎は化政期の江戸歌舞伎を代表する役者であ‑'所作事の名手であった。

しかし三代目は立役であり、器量に優れた二枚目の実事師として活躍した人である。

右に見える伝書は ﹃道成寺秘伝﹄といい、惜し‑も関東大震災で焼失したが'七代目

IT,J/もその存在を報告している。秘伝書を残すほど、三代目三津五郎は娘道成寺を重‑認

金     子

め'その伝承に心を砕いていた。その熱意の源はどこにあるのであろうか。

最大の理由として考えられるのは、三代目の実父初代三津五郎からの芸脈である。

初代富十郎の「京鹿子」を、立役として初めて踊った第1人者こそ、初代三津五郎で

Vあった。このことは既に渡辺保氏の大著﹃娘道成寺﹄ で指摘された後、近年では公演

⁚1二解説書等でも触れられてきている。右にみるように近年の芸談類を少し紐解くだけで

も、三津五郎家における娘道成寺の重要性が見え隠れしている。

G3筆者は、既に初代三津五郎から三代目への'朝比奈役の継承について報告した。こ

の親子は芸風も共通し'和実の役柄を本領とするが、朝比奈はその範噂に含まれない

役ながらも三代目が父の芸を継承すべ‑、意識的に受け継いだものであった。女形の

娘道成寺も'同様の意識が働いていたのではないか。

本稿では当時の資料を用いつつ'初代二二代目三津五郎の娘道成寺上演について、

改めて検証したい。

「初代三津五郎の娘道成寺 ‑「中富を其ま,」 の上演

初代三津五郎(一七四五〜一七八二) はもと大坂で竹田巳之助を名乗‑、竹田芝居

の人気役者として青年期を過ごした。その後、上坂していた初代坂東三八の弟子とな

り'明和三年(一七六六) 十一月の顔見世から三津五郎と改名、江戸歌舞伎の役者と

して再出発した人である。竹田芝居に身を置いた時代は様々な役柄をこなしたが、江

戸の大芝居の役者となってからは和事や美事を本領とした。例えば初春恒例の曽我狂

言では'十郡が持ち役である。

そのような彼が女形に扮し、娘道成寺を踊ったのは、安永九年(一七八〇) 三月中

は つ も ん び く る わ そ が                                           ひ け や て ん で に つ り が ね び い き           (

‑ )

村座であった。「初紋日艶郷曽我」二番目大詰、外題は「曳各鐘魚層」。辻番付︻図

1︼ では「来ル三日よ‑」 (役割番付、絵本は管見に入らない) とあ‑、翌年正月刊

(U)﹃役者三ケの角文字﹄ ≡津五郎芸評のうちにも「三月三日よ‑」と見える。正月から続

演の曽我狂言に、二番目大詰として追加された舞台であった。当時、≡津五郎は数え

:c a

三十

六歳

 (

以下

、年

齢は

すべ

て数

えと

する

)。

立川

蕎馬

の 

﹃歌

舞妓

年代

記﹄

 に

「三

月三

日よ‑三津五郎道成寺大当‑大評判也」と記録され'遡っては上演年の初冬に出版さ

(2)

( S)

れた ﹃役者新東名鑑﹄ にも次のようにある。

坂東三津五郎ハ実事ぬれ事の名人な‑ 至て道成寺に妙を得たり

「実事ぬれ事の名人」と紹介しながら、あえてそれとは全‑異なる'女形の所作事であ

る娘道成寺に言及している。そのことからも、いかに彼の道成寺が褒評をもって迎え

( ‖)

られたかが察せられる。更に長じて'毅後追善に出された ﹃追善その悌﹄ では、生涯

最大のトピックスとして'この娘道成寺の成功を挙げる。

三月三日より中村富十郎いたされし京鹿子娘道成寺の所作事則三津五郎相勤慶子

丈の恩人にて女形の大所作大あたりにて日々の大入大はんじゃう也これまった‑

三津五郎のてがら也此時三津五郎の発句に

竜頭へもとゞけ心の桜かな 是業

か‑吟じた‑此道成寺の大あたりは三津五郎生涯のほまれな‑と見物もきもをつ

ぶしたる程の大でき也

初代は三十八年の短い生涯であった。中でも江戸役者としての芸歴は十六年間に限ら

れ、娘道成寺を手掛けたのは一回よ‑ほかない。しかしその上演が人々の記憶に鮮烈

に残‑、「生涯のはまれ」として彼の一生を飾る舞台となった。

では、なぜそれほどまでの好評を得ることが出来たのであろう。確かに'初代三津

(1,川)五郎は所作事の名手であった。しかし理由はそれだけではなかろう。右に引用した﹃追

善その悌﹄ には「慶子丈の恩人にて」とある。慶子は初代富十郎の俳名'この場合の

恩人とは心情表現のそれではな‑「富十郎のつも‑で」「富十郡を意識して」という意

味に解される。また当時の評判記も'

囲去春三月三日よ‑中村座にて女形の道成寺大々当‑中富を其まゝとの評判古

今の大入な‑Lを五月節句よ‑お勤な‑さ‑とハ残念引続て致されたならバ秋迄

もは

んじ

ゃう

成へ

きを

 (

後略

) 

(前

掲﹃

役者

三ケ

の角

文字

﹄)

と「中富を其まゝ」 の娘道成寺であったことを伝える。観客は三津五郎の道成寺に、

富十郎の傍を重ね合わせていた。立役でありながら、富十郎そのままの道成寺を見せ

たところに'人気の秘密があったことが伺えるのである。

( 13 )

初代の踊った「曳各鐘最展」は'長唄正本が残されている ︻図2︼。表紙には版元

として、村山源兵衛と本屋儀兵衛が名を連ねる。この二人の名義による中村座正本の

出版は安永六年から天明二年の間に限られるので'この資料は上演当時出版の正本

(

1

4

)

(

1

5

)

と見てよかろう。なおこの上演を ﹃近世邦楽年表﹄ では正本に拠るとして、外題を

ひ け や ひ け か ね ひ き ど う じ ょ う じ

「曳各鐘晶屑道成寺」、長唄連名未詳とした上で出演者のなかには ︻図2︼ に掲げた正

本にはない 「住僧 尾上松助」 の名も含む。このような別版の正本が存在したのか疑

問が残るところだが、音曲正本を体系的に整理した最新研究成果である ﹃正本による

( 3)

近世邦楽年表(稿)﹄にも'「曳各鐘晶眉」の正本は報告されていない。いずれにしても、 資料的価値の高いものと言える。

表紙には振袖姿に烏帽子を着、右手の中啓を逆手にして、桜木に吊るされている鐘

を見込んだ立ち身の三津五郎 (幸左衛門妹おたつぼうこん) が措かれ、その舞を見上

げる形で五代目市川団十郎(熊谷連生入道)、二代目市川門之助(うつの宮弥三郎れん

セい) が配されている。辻番付の給紙も共通するが、三津五郎は少しも加役然とした

雰囲気がな‑、女形らしい清列な美しさを湛えた姿であるのが印象的である。

( S)

また、詞章を「京康子娘道成寺」 のそれと比較すると、殆ど異同がない。詞章の異

同は二点'一点は現在で言う鈴太鼓の件りの始ま‑、「花に心を深見草園に色よくナ」

が「曳各鐘晶虞」 では(吉野初瀬のはなもみぢいつも色よくなァ」と差し替えられて

いる。またもう一点'「裾や裸を濡らした皐月」 が「裾や枚をぬらしたさっさ‑\」

となる。そして、続‑(吉野初瀬の花紅葉」から始まる石橋の件りがな‑'(花のす

がたのみだれがミおもへば ‑ 恨めしやとて龍ずに手をかけ飛ぞと見へしが引かつい

でぞ夫にけり」と鐘入‑になる。

これらは一見「京鹿子」と「曳各鐘魚層」とにおける異同に思われるが'そうでは

ない。「皐月」1「さっさ」 への変化へ そして石橋の割愛は「京鹿子娘道成寺」そのも

のの伝承過程で生まれた移行である。この点については岸辺成雄氏の「京鹿子娘道成

S^ i

寺正本考」 に詳しいが、端的に言えば「京鹿子」正本も再版を重ねるにつれ'元来の

' t]

詞章ではな‑「曳各鐘最屑」 に近い詞章が定着するのである。したがって今日の我々

から見れば'むしろ「曳各鐘晶眉」 に見える詞章のほうが「京鹿子娘道成寺」詞章と

して馴染み深い。

そしてこの詞章移行は、初代富十郎が再演を重ねる間に既に為されていた。

富十郎が「京鹿子」を初演後、「曳各鐘晶屑」まで二十七年もの歳月が経過してい

る。しかし富十郎は老年に及ぶまで各地で上演を続け'江戸では安永六年三月中村座

(

2

0

)

「鐘掛花振袖」が再演であった。この正本については「長唄正本研究272」に扱われ、

三種の正本が報告されている。注意すべきなのは'そのうちの1種'上下二冊本の版

面が︻図2︼に掲げた「曳各鐘晶屑」と同一であることである。むろん表紙や版外(「花

ふり袖上 (下)」とある) は異なるが、内題を差し替えたのみで詞章は同一である。初

代三津五郎による「曳各鐘晶虞」上演はこの僅か三年後、正本は版木をそのまま流用

しての出版と考えられる。そしてこの詞章によって踊ったとすれば、富十郎自身がす

でに石橋抜きの演出に改訂していたことになる。また渡辺保氏は前掲﹃娘道成寺﹄ に

おいて、宝暦九年大坂角の芝居「九州釣鐘岬」 で富十郎が用いた鐘入‑部分の詞章を

紹介し'既に石橋の件りが省略されていることを指摘された。富十郎は初演後まもな

‑石橋抜きの演出を始め、それを江戸再演「鐘掛花振袖」 にも用いたのであろう。宝

暦三年の初演当時、三津五郎は恐ら‑大坂にあ‑、九歳の少年だった。しかし「鐘掛

(3)

花振袖」上演時の中村座では、三津五郎も同座している。「京康子」初演を知る由もな

い三津五郎にとって、この「鐘掛花振袖」 こそ自身の眼に残る、手本とすべき富十郎

の道成寺であった。正本版木の流用は単にコストダウンを狙う書昏倒の事情によるも

のとは言い切れないのではないか。異同がみられない正本の詞章からは'〝富十郎の道

成寺″を踊ろうとする初代三津五郎の意識が伝わってくるのである。

この三津五郎の姿勢は、道成寺といえば当然「京鹿子」を指す今日からすれば、さ

したることでもなく思われるかもしれない。しかし当時は、女形の踊る道成寺として

も富十郎の「京鹿子娘道成寺」 のほか'瀬川菊之丞家の 「百千鳥娘道成寺」も上演さ

れていた時代である。大別してこの二系統の娘道成寺が伝承されていたわけであるが'

( 55 )

それらに限ってさえ上演毎に工夫が加えられ'詞章が疋していない。まして立役の

場合は、後章で触れるように女形の大切な演目である「娘道成寺」は遠慮するのが礼

儀であった。このような時代に、富十郎そのままの道成寺を踊ったということは大い

に注目してよい。

その陰には富十郎に対する、三津五郎の深い私淑の念が指摘される。

富十郎は初代芳沢あやめの三男、寛延三年(一七五〇) 三十三歳の若さで極上々大

書に位付され、三都で人気を集める当時随一の名女形であった。初代三津五郎よ‑ち

二十六歳年上の大先輩だが'明和七年十一月森田座へ最後の江戸下りをしてからは、

安永七年までの八年間、三津五郎と同座している。特に江戸下り直後の森田座は役者

ぎ が し ら ( S 3 )

が少な‑、女形でありながら実質上富十郡が座頭を勤めた。この後富十郎は立役、し

かも荒事まで手がけ人面六腎の活躍を続けるが、しかし彼は座頭となっても周囲に気

を配る性格だったようだ。

此度其兄弟富士姿視に大磯のとらにて造酒太夫上る‑にて是業新車三人のせ‑也

しきれい ‑ 所作事ハ申ハおろか祐成に成かハり工藤へ対面までさしたる事もな

I ;. I

. I

けれどしゞう若手を引立ての仕打 (安永五年正月刊 ﹃役者男風流﹄)

引用中に見える是業とは三津五郎、新車は二代目市川門之助のことである。江戸下‑

の時点ですでに「無類」 の位に上‑詰めている富十郎は'実力があるゆえに若手の役

者が映えるよう配慮を忘れなかった。初代三津五郎も富十郡の引き立てを受けた一人

であって'八年もの間同じ舞台に立ったことがいかに貴重な経験であったか想像に難

( 3)

くない。しかも妻の縁によ‑身内となった森田座であり'初代は公私共に富十郎の世

話になったと推測される。芸道の先輩としても、また1座を牽引する座頭としても、

初代は富十郡を尊敬していたであろう。そして安永五年の顔見世から富十郎が中村座

へ移るにあた‑'三津五郎もともに異動している。

この八年間、≡津五郎は富十郡の芸を学び取った。例えば、富十郡が江戸を去った

もとみしゆきさかえはちのき直後の顔見世'安永七年十l月中村座「膿雪栄鉢木」では、三津五郎は富十郎の風を 慕った葛の葉の芸を見せた。

∴、ご三津五郎、女形葛の葉狐のふ‑、富十郎生うつし大当り(﹃江戸芝居年代記﹄)

豊前太夫浄る‑の幕。万作狐(三津五郎)女房の所作。慶子が葛の葉の恩人(﹃歌

l .( .

I ),

舞伎

年表

﹄)

富十郎の「芦屋道満大内鑑」葛の葉は、娘道成寺や石橋とともに再演を重ねた代表芸

である。そして例えば'宝暦九年九月市村座(大蚊上‑)、明和三年九月京都小川善太

郎座 (大坂下‑) のように、異動の際はお名残狂言として上演していた。中でも宝暦

九年上演時は、﹃新刻役者綱目﹄ 五之巻によると

九月九日より大坂上‑の暇乞に、「芦屋道満」 の葛の菓役大当‑にて、江戸中の見

物おしもわけられぬ大入にて'置土産とて菊の花薄に盃を一枚つゝ箱人にて付ケ、

合紋にて十箱づゝ毎日出し、我1にとらんと見物の賑ひ、十月中旬まではやりつ

め、

前代

未聞

の大

あた

‑(

後略

)

という記念碑的な興行であった。この富十郎の当‑芸を'三津五郎は万作狐という役名

ききょうぞめおんなうらかたで観客に披露したのである。三津五郎は二年前、安永五年七月森田座「桔梗染女占」

で相手役の保名を勤め、富十郎の葛の葉と共演している。観客の記憶にも'未だ富十

郎の葛の葉は鮮明に残っていたであろう。「曳各鐘最虞」も葛の葉同様、富十郡を意識

しての上演であった。「中富を其まゝ」 の評判に、三津五郎は満足したに違いない。

安永七年に大坂へ上った富十郡は、もう江戸に戻ることはなかった。江戸では、富

十郎をもう一度見たいという観客の声も高かったであろう。三津五郎は聡‑もその要

望に応え、大当‑を取ったのだと考える。富十郎の道成寺が強‑観客に印象付けられ

ている時点での上演、しかも立役としての上演は明らかに挑戦である。しかし却って

この好機に乗じ'初代≡津五郎は娘道成寺に成功したと言えるのである。

二、立役による娘道成寺の濫態 ‑その背景

さらに道成寺上演史上'初代三津五郎の「曳各鐘魚層」が特筆されるべき点は'立

役として初の 「京鹿子」だったことである。確かに'若き日よ‑初代三津五郎は所作

''J]Iを得意とし'女形も大坂竹田芝居に身を置いていた頃には多く手掛けているので'さ

ほど無謀なことではない。

しかし、当時はいかに腕があろうとも、立役が「京鹿子娘道成寺」を踊ることそれ

自体が許されなかった。例えば初代と同時代、随一の所作事の名手として自他共に認

めていた初代中村仲蔵は娘道成寺上演を切望したが許されず、その代わ‑として「双

I?こ面」を創演したと伝えられる。その事情については、三代目中村仲蔵著 ﹃手前味噌﹄

に詳

しい

仲蔵つねに所作事の家に生ひ立ち、じふぶん振事に覚えあれば、例の道成寺の所

(4)

作を勤めて見たき志願あり。しかれどもこの頃は、皆それぞれの法式を守り、何

の所作は誰の家の物とて、あへて他の役者の勤めぬ規則なりしかばへ この道成寺

も立をやま、女形のほか'立役よりするは遠慮あ‑て、空し‑打ち過ぎたりしが、

こゝに仲蔵の姪葦に'河竹新七 (初代) といふ狂言作者あ‑(中略)'或る日、仲

蔵が'年来、道成寺の所作を勤めたきよしを話すに、新七'しばらく考へ 「それ

は真の道成寺をするこそ、女形へ遠慮もあれど、いっそ立役で変化物などで、勤

めたら博かるところもなし'少しそれには'われ腹稿もあれば'どうか纏めて、

そのうちに見せるやう運ぶべし」とて'約して帰‑けり。その後幾程もな‑して、

新七が作にて、大日坊の霊、のち、烹売の娘になりての所作事出来。本読して聞

かせLに、仲蔵ことのほかよろこび (後略)

初代仲蔵が「双面」 こと葱売の所作を初演したのは安永四年、当時は娘道成寺を上演

するのは立女形に限り、ましてや立役は遠慮すべきものとされていた。それでも娘道

成寺を希望する仲蔵は'破戒僧の霊が娘姿で現れ、鐘入‑ののち正体を現すという構

成から成る、惹売を創潰したのである。

仲蔵が道成寺の所作に惹かれていたのは、「双面」を初演する以前からであったよう

HS aS BE

だ。﹃歌舞伎年表﹄安永三年五月中村座の項'「恋女房染分手綱」大切に仲蔵が奴道成

寺を踊ったとあり、また安永六年三月(このとき、前章でふれた富十郎の「鐘掛花振袖」

はつはなゆきのいりあいが中村座で上演されている)森田座で「初花雪入相」 の外題で「道成寺のやつし所作」

の記録がある。また'同時代に所作事の名手であった九代目市村羽左衛門も、明和六

そのかすみつきがねがしら年正月市村座で「其霞撞鐘頭」という道成寺の所作を演じている。これらは正本が確

認できないが、番付に拠れば両者ともに常磐津の浄瑠璃所作事であり'「京鹿子」と

は別作品と判断される。また上方においても、安永八年九月角の芝居で初代嵐雛助が

せんべつがこうのほまれ「鰻別画工誉」という大津絵の所作で「藤の花のおやま」に扮Lt富十郎の道成寺を取

( Si )

り入れて踊った。これも娘道成寺を踊りたい意思の表れであろう。いかに所作に秀で

ようとも、立役が娘道成寺を希望しても未だ叶わなかった。

そのような時代に初代≡津五郎の上演は、娘道成寺の歴史の中でも画期的な事件で

あった。この上演については、前章で触れた富十郎に対する≡津五郎の私淑に加え'

( S3

大いに興行政策上の策略も関係している。仲蔵の ﹃秀鶴日記﹄ には、当時の劇界の状

況が書き残されている。市村座は顔見勢あしく'此度はいづちになり'狂言取組申候ゆへに春狂言十五日

初日評判宜敷人中候。(中略) 三津五郎申出し候は'春狂言隣へ団扇上‑候上は、

何を遺し候共六ツかしかるべし。三月節句よ‑、娘道成寺致し可申侯。(中略)富十郎でかしおかれし道成寺なればt でかせば大できなり。しそこなへぼ加役にて

自分の科にはならぬゆへ、表方へ相談致し候所'金主も一六ものなれば'よかる ベLと有けるゆへ、其入日思ふ侭表方よ‑金子を取、三月三日より仕候所、慶子を真似候ゆへに、その姿をしたひ、大繁昌に御座候。

安永九年当時'初代が出演していた中村座は、隣町の市村座に初春狂言の客足を取ら

れていた。その回復のための方策として、初代は娘道成寺の上演を提案し、金主も

「一六もの」 の賭けに出て、見事大入‑をとったのである。この三津五郎を晴夫として、

∴‑∵立役も道成寺を手掛ける流れが出来ることになる。上演を熱望した仲蔵も三津五郎に

え ど が の こ

遅れること三年、天明三年八月市村座で「東鹿子娘道成寺」として踊り、念願を果た

した

ところで ﹃江戸芝居年代記﹄ に拠ると、初代三津五郎の所演も道成寺に至るまでに、 。

複雑な芝居をしている。

幸左衛門娘おたつ 三津五郎'二や‑下人長吉の半道大当り'おたつ主人江れん

ぼして、婚姻の邪魔をするゆへ、団十郎しぼりて置ゆへ'此おんねん下人長吉へ

のり移り'三津五郎半道の姿に而女形の身ぶ‑、しっとゆへ、団十郎が手にか,

り死す仕内は、役者も上手な‑、作者も珍しき案じの作也と、大評判也 (後略)。

叶わぬ恋ゆえに命を落とし'その怨念が道成寺へ現れる趣向は、初代富十郎の娘道成

(

s

i

)

寺でも同様であったらしい。そしてこの趣向は'この後四代目鶴屋南北の ﹃金幣猿島

だいり郡﹄ (文政十二年十1月中村座) まで流れてゆ‑もので新奇ではない。しかし'≡津五

郎が演じたのはおたつという娘の怨念が乗り移る下男(辻番付では長大) であった。

辻番付に拠ればおたつ本人を演じたのは初代山下万菊である。よって三津五郎は「初

ほEaSES紋日艶郷曽我」 の芝居では長大を演じ、大切の娘道成寺に至って初めて女形姿で登場

したのだと思う。三津五郎はおたつの恋心と怨念とを表す女形芸を、半道の扮装で演

じるという皮肉な演技をした。その流れで進めば、個性の全‑異なる両性を1つの身

体に宿しているため、つづ‑道成寺の所作も仲蔵の如‑「双面」 の所作になる可能性

があるところである。しかし三津五郎はそうはしなかった。立役の道成寺として仲蔵

が創造した「双面」然とした要素は芝居の中で打ち切‑'大切所作事は富十郎の 「京

鹿子娘道成寺」そのものを演じたのである。

前掲﹃秀鶴日記﹄ には三津五郎が富十郎の道成寺、すなわち「京鹿子」を希望した

とある。︻図‑︼ 辻番付の乍惜口上にも、「京鹿子娘道成寺」と明記しており'絵組に

は「龍頭までとゞけ心の山さ‑ら」とある。これは富十郎の発句「咲くからに龍頭へ

( 35 )

届け山桜」 のもじりであった。更には、三津五郎扮する白拍子の絵には、左袖に自身

の定紋「三つ大」が'帯には富十郎の定紋「矢車」 が施されており、富十郎そのまま

の道成寺を踊ろうとしている三津五郎の意志の強さが明確に見て取れる。か‑して、

富十郎への憧憶、劇界の状況、初代≡津五郎の芸力が一つとなって、立役による「京

鹿子」 の濫腸が生まれたのであった。

(5)

三、三代目三津五郎の娘道成寺

三代目三津五郎(1七七五〜一八三1) は初代≡津五郎の実子で、文化文政期の江

戸歌舞伎を代表する名優である。初代は天明二年(一七八二) に急死し'当時八歳の

三代目は父の記憶が薄かったと思われ、ましてや直接教えを受けたことはほとんどな

かったであろう。しかし長ずるに及び、三代目は父譲りの芸風で好評を博し、寛政年

l lf : I

間には若手花形の一人として人気を集めるようになる。寛政十一年 二七九九) に三

代目を襲名後、勃興期にあった彼が「娘道成寺」を初演したのは、文化元年(一八〇四)

ち ょ う じ ゃ が ま る か ね い ぎ く ら

三月中村座においてであった。当時、三十歳である。二番目「長者丸釣鐘鋳桜」 の大

はながたみかのこどうじょうじ切に「花管鹿子道成寺」 の外題で'初代の二十三回忌と銘打って踊った。一番目が「一

谷赦軍記」 で、≡津五郎はこれも生涯の当り芸となる熊谷と忠度を初演し、道成寺と

もに大評判となった。結果この年十一月から、若くして座頭の位置に据えられること

になる。実質的な権威は大先輩で立女形の三代目瀬川路考こと'三代目菊之丞が振っ

ているものの、大いなる出世に違いはない。この興行は三代目の芸歴上'特筆すべき

舞台なのである。

三代目はこの前年(享和三年正月) に、同じ‑初代の当‑役朝比奈の継承に成功し

ている。二十三回忌の追善として、初代が生涯随1の評判をとった「娘道成寺」が次

なる候補に挙がるのも'自然な成‑行きと言えよう。

しかし、三代目当人は、「娘道成寺」初演に際して'二の足を踏んだようである。

s ,

辻番

付︻

図3

︼ 

の慣

乍口

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三郎

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、「

三津

五郎

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故人

坂東

津五郎義今年廿三回忌二相当リ候得は亡父三津五郎則於当座甘五年巳前安永九年三月

狂言二相勤申候娘道成寺之所作殊之外御意二叶大入大繁昌仕候間其道成寺のまなび成

共」して追善とするよう三津五郎に持ちかけたが、当人は「取分未熟と申殊二道成寺

所作之義は前々よ‑名人達人之衆中致し被置候」所作ゆえ、「難相勤と達而辞退仕なか

′‑‑承知ふ仕候」。そこを

亡父相勤候所作故悌な‑とも御覧二人候ハゝ是こましたる仏事追善ハ有間敷と私

はじめ惣座中其外芝居掛合候者共迄一同二相すゝめ候二付無是非得心仕日数十五

日之間右追善狂言相勤申候(後略)

と漸‑得心させたとある。このような謙遜の内容は、慣乍口上の常套ではあるが、「日

数十五日之間」とあるところから察するに、三代目本人が進んで道成寺を踊ろうとし

ていないのは事実であるように思われる。

三代目が娘道成寺の上演を蒔曙していたとしても、それは無理ないことであった。

なぜなら彼にとっては、女形の所作は未経験であったからである。所作に限らず女形

の役としても、十四歳の少年時に手がけた「雛形稚曽我」景清娘小糸(天明八年二月 森田座) にまで遡り'少な‑とも成人してからは1切女形を演じていない。三十歳の今日まで和実の立役として歩んできた三津五郎としては、明らかに娘道成寺は挑戦であった。三津五郎は、寛政九年六月の会津若松の巡業で'三代目菊之丞の道成寺に「同

(5 5)

宿あぶつ坊」の役で出、岩井粂三郎の道成寺にも「威徳坊」「大友舎人之介」役で共演

している(享和二年三月河原崎座、四代目半四郎三回忌追善狂言「結倣鹿子道成寺」)。

よって'真女形の踊る娘道成寺も見聞している。また、実父初代毅後、養父八代目森

田勘弥が踊った舞台にも二回接してきた。しかもその上演は、1回は天明六年森田座

ふりのそでそめわけどうじょうじ再建記念興行(「振袖染分道成寺」) であり、あと一回は四代目勘弥五十回忌'六代目

勘弥十三回忌追善狂言としての上演(寛政四年三月中村座「道成寺花の面影」) であっ

た。したがって彼としても'道成寺を踊ることがいかに大きな仕事であるかは痛感し

ているはずである.また近‑は、立役の三代目坂東彦三郎も評判を取っている.娘道

成寺は実父初代の時代と異なり、女形立役ともに名優たちが次々に手がけ、三津五郎

にとっても比較対象が多‑存在する状況となっていた。更には立役でありながら娘道

成寺に成功した第一人者を実父に持ち'その追善という立場では、三代目も不安が拭

えなかったに違いない。

初代の上演時は辻番付に「龍頭までとゞけ心の山さ‑ら」とあったが、今回の三代

目は更に謙遜して「龍頭までおよばすながら山桜」とした。ここで初代上演時の︻図1︼

と比較して頂きたいが、絵組の布置はおろか白拍子の振袖の柄(流水に桜、片肌脱ぎ

した左袖は鶴の模様) まで真似ている。違う点は、帯にあった矢車の紋が消え、また

番付全体を鱗模様で縁取‑したことである。言うまでもな‑鱗はヒロインの本性を暗

示するものであ‑'この興行の眼目が1番目の 「1谷」 でな‑「娘道成寺」 にあるこ

とを如実に語っている。三代目の演ずる白拍子の名は「さ‑ら木」'二人の所化には坂

東八十助こと養父八代目勘弥 (善幸坊) と初代市川荒五郎(市丸坊) が付合い、道行

3 射E

は「

道行

面影

草」

 の

外題

で、

常磐

津で

あっ

た。

また

絵本

番付

︻図

4︼

 に

は蛇

体と

なっ

て鐘に上がる姿が措かれており、後シテまで演じたことが分かる。その周囲には今日

の鱗四天と思しき「と‑て」たち'前述の八十助荒五郎のほか'「浄‑わん上人」役で

山科四郎十郎が措かれる。初代上演の「曳各鐘晶眉」 の折も'第一章で触れたように

﹃近世邦楽年表﹄ では初代尾上松助演じる住僧の名があった。これは ︻図1︼辻番付の

役人替名にも「新清水はせてらの住僧ゑんだんおしやう 松助」とあるほか、柳沢信

∴♪、鴻の観劇記録﹃婁遊日記別録﹄ にも「大切浄瑠璃 曳手々釣鐘晶屑 是業 ≡升 新車 三朝」とあるので、舞台に登場していたと考えられる。今日では歌舞伎十八番の

「押戻」が蛇体の荒れを納めるが'初代や三代目の上演時は'未だその演出が定着をみ

/ == )

ず'能と同じ‑住僧による祈‑によって幕となったことが伺える。

なお'道成寺に先立つ二番目「長者丸釣鐘鋳桜」 では、三代目は道玄坂の遺玄とい

(6)

う破戒僧で'八十助演ずる紙すき平尾次郎蔵に殺される役であった。絵本番付には蛇

体の絵に「道玄ぼうこん 三津五郎」と役名が付され、この破戒僧の怨霊が自拍子桜

木に化けて鐘供養に現れる設定である。しかしそれはあ‑まで道成寺へ至る布石であっ

て'三代目も初代同様'大切所作事としては純粋に「京康子娘道成寺」を踊った。物

語の設定に準じ、初代の時は舞台は新清水長谷寺'三代目は円澄寺(各辻番付に拠る)

となっているが、むろん内容は娘道成寺なのである。一番目で熊谷と忠度、二番目で

道玄を演じた三代目は、この大切所作事だけがらりと変わって美しい娘となった。

彼にとって芸歴上初の女形の所作は、大評判となった。

殊に去春中車三幸両人ぬけふ座の芝居ゆへ一人残りて古是業廿五年以前勤て大当

りせし当年廿三回忌追善として娘道成寺を出されし所大当‑大 ‑ 入ハ大手柄ゑ

( 3)

らいものに成たぞ (文化二年正月刊﹃役者正札附﹄)

評判記の芸評は「ゑらいものに成た」三代目の成長とともに、この舞台の成功が興行

上の危機を放ったことをも伝えている。

思えば、初代の上演も中村座の不況を救っていた。上演時、三代目を取り巻‑状況

はいかなるものであったのであろうか。

この前年の顔見世(享和三年十一月) から既に中村座は幕を明けるのが難しい事態

となっていた。抱えの役者は三津五郎のほか嵐三八'坂東八十助(前名人代目勘弥)、

市川荒五郎、岩井粂三郎といった無人のl座で、中村座はこの年1世l代の披露をし

た三代目市川八百歳に出演を依頼した。しかし八百歳は顔見世番付の座頭欄に名を出

したのみで'実際の出演はなかった。

去‑れ立者衆ふ人故段 ‑ と中村座よ‑の頼故いろ ‑ 辞退いたされても聞入な

くひたもの頼故やむ事を得す番付にハ名前出ましたれ共ぶたいへハ出勤な‑ゆる

( 3)

やか

な春

をむ

かへ

られ

(後

略)

 (

享和

四年

正月

刊﹃

役者

寿﹄

八百

歳芸

評)

かれきにはな).)りしょうはちのきしかし'ともかくも顔見世狂言「裡花御利生鉢木」は幕を明けた。劇中の嵐三八の台

詞にも、浦島太郎明神の御利益を説‑のになぞらえて、

それよりハ出来ない勘三の芝居の顔ミせか出来升たなんとうらしま太郎様ハあ‑

l r 3 ]

難いLやムり升セぬか      (四立目浄瑠璃「よしや男鞄着綿」)

とあり、ようよう開幕の興行であったこと明らかである。但しこの興行も「金づかえ

にて芝居出来かね遅‑始め草‑仕舞候」(﹃歌舞伎年表﹄)とあ‑'不当‑であった。翌

春の曽我狂言も出来ず'この「槻花御利生鉢木」を「正月九日より廿五日迄」(次興

まかりでむらすけにきさらぎ

行「罷出村助花」の辻番付憧乍口上に拠る)再び上演して繋いだ後、二月は「罷出村

とみがおかこいのやまびらき助花」を出したがこれも新作ではな‑初代並木五瓶作「富岡恋山開」(寛政十年正月

桐座初演) の再演であった。外題にもある如くようや‑八百蔵がスケに出たものの、

この興行限りで再び退座する.その上、三月興行を前に嵐三八も一座を抜けてしまっ

た。

右の

 ﹃

役者

正札

附﹄

 で

書か

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'中

車(

八百

蔵)

・三

幸(

三八

) 

が抜

けた

中村

座は、文字通り≡津五郎が「一人残りて」という状況に陥ってしまったのである。こ

れを挽回するために企画されたのが、初代追善を張っての 「娘道成寺」 であった。そ

して父の衣鉢を継いで成功し'見事中村座の景気をも回復し得たのである。仮に三代

目の上演が初代と違う点を挙げれば、自ら希望しての上演ではなかったことになろう

か。とまれ親子二代、娘道成寺を初演したことで'各々中村座の危機を救った。十五

かたきうちしょうぶのくみおび日の約束であった三代目の道成寺も、大入‑のため五月興行「敵討蔚紐帯」 二番目

大切所作事として続潰し'六月まで打ち続ける結果となった。そしてこの成功を機に、

三代目は江戸劇壇きっての人気役者となってゆ‑。

ここで三代目三津五郎「娘道成寺」 の上演を左に纏めておこう。

①文化元年三月中村座「花置鹿子道成寺」 (常磐津「道行面影草」)

②文化十三年三月中村座「京鹿子娘道成寺」 (道行は義太夫)

③文政五年正月角の芝居「春色道成寺」

④文政六年三月中村座 「京鹿子娘道成寺」 (道行は義太夫)

白 拍 子 さ く ら 木 白拍子さ‑ら木 白ひやうし

自拍子さ‑ら子・大館左馬五郎時門

以上四回のうち'③の大坂所演は通行地が不明だが、評判記に「花道上る‑の間うま

( 3)

ひものでムり升た」 (文政六年正月刊 ﹃役者多見賑﹄) とあり、追行が上漬されたこと

( S)

は間違いない。また、早稲田大学演劇博物館には'三代目上演の役者絵二種があり、

lは②上演時︻図7︼'1は④上演時︻図6︼ と考証される資料である。前者は所化

に七代目市川団十郎、三代目尾上菊五郎の人気花形を揃え、大きなびら‑帽子に振袖

姿も艶やかな三代目の白拍子が、問答をしている場面が措かれている。当時四十二歳、

中村座の座頭として名実ともに不動の地位を築いていた時期である。この上演につい

( 3)

て ﹃役者名物合﹄ には次のように伝える。

二ぽんめ娘道成寺さくら木所作の大出来で踊の評判しなやかに五まいがさのたて

見事‑ 画風かねの中へはいらずお‑へぬけられたハ見物をだますやうで見ご

たへうす‑祈る衆は本尊のない寺へ参ったやうな物じゃ

この記述は現行演出と比較すると興味深い。現在、花笠は両手に各三枚の振‑出し笠

だが、当時は二枚であった。そして頭に被る一枚とで都合五枚となる。「五まいがさの

たて」とあるからは、所化二人が絡む振付だったのであろうか。なお﹃江戸近世舞踊史﹄

六十八頁には①上演時の役者絵が図版紹介され︻図5︼、それによっても五枚笠を用い

ている。渡辺保氏﹃娘道成寺﹄ 二百三十二頁にも、初代仲蔵が五枚笠を踊っている役

者絵がある (勝川春章画'天明三年「東鹿子娘道成寺」ヴインツィンガ‑コレクショ

ン)。遡ると'「京鹿子」古版正本と推定される元浜町いがや版(前掲岸辺氏論考に拠る)

上下二冊本には、下の絵表紙に富十郎が両手に1枚ずつの花笠を持って踊る姿が見ら

(7)

れる。現行の'都合七枚の振‑出し笠がいつから用いられたか不明だが、その過渡期

にある五枚笠の演出が記録されている。また鐘入‑後'三代目は裏から抜け、舞台裏

で蛇体へ扮装を変えた。非難こそされているが、今日一般的になっているこの方法を'

当時から三代目が採っていたことが知られる。そして ︻図6︼ は鈴太鼓の件りで'裸

を翻しながら躍動的に踊る三代目が措かれている。彼はのちに坂東流の流祖になるほ

ど所作に秀でていたが、同時に「余り上手過てチト動き過るが此人の庇でムる」 (文政

、「

八年正月刊﹃役者花見幕﹄) と評されることもあり、よ‑身体の効‑芸風であった。こ

の鈴太鼓の姿は、そのような三代目の特徴をよ‑伝えている。本稿の冒頭で触れた坂

東三津江が見たのも'恐ら‑④の上演であったろうか。しかしその一方で、七代目三

津五郎は次のように語る。

永木≡津五郎の残した ﹃道成寺秘伝﹄ といふ一巻には恋の手習等只今演って居る

坂の三分の二位しか坂が御座いません。それが何うして今日のやうになつたかと

申せば、大まかに踊るといふことは余程の名人でないと持切れないので、自然一

( 3)

手入れ'二手入れして今日のやうになったのだと思ひます。(「坂東流の起原」)

三代目の踊った恋の手習の件‑は、振りが少なかった。それを考え合わせると、クド

キに代表される緩やかな局面では締めて踊‑、地が早間に演奏する局面では身体を最

大限に使って踊りぬいたのではなかったか。溜めて踊‑、動いて踊る。三代目はその

両極に対応できる実力を備えていたのだと思う。

また三代目にとって娘道成寺の初演は、女形の所作事の初演でもあった。こののち

七変化をはじめ、数々の変化物において女形の所作を多‑演じ、その中では「汐‑み」

「波枕月の浅妻(浅妻船)」「文売‑」といった現行人気曲を残している。三代目はこの

道成寺初演後も、芝居では女形の役を手がけることは極‑稀であり、生涯を実事役者

として歩んでゆ‑。しかし所作の幕では、役柄の制約から解放されるかのように女形

の所作を度々踊った。そのような芸の広がりを得た突破口としても'この娘道成寺の

成功は三代目の芸歴において重要な契機であったのである。

( 3)

時代下って弘化二年(一八四五)、三升屋二三治は ﹃賀久屋寿々免﹄ に左の如‑書き

残し

てい

る 

(文

化元

年条

)。

中村座'百八十一年の寿興行.三津五郎、道成寺のあた‑狂言。其頃より名人と

いはるる。

二三治は三代目より九歳年下、若い頃から芝居好きで'文化初年に狂言作者を志して

I ;I .

後、三津五郎と同時代を生きた。三津五郎の毅後十四年が経過したとき'二三治はそ (

の出世舞台としてこの道成寺を回想している。好きが嵩じて芝居の世界に足を踏み初

めた二三治には、若き頃に見たこの三津五郎の道成寺が、輝かしい出世芸として記憶

されていた。 おわりに

以上、初代二二代目三津五郎の娘道成寺について述べた。「曳各鐘愚眉」は初代にとっ

てはたった一度の娘道成寺であったが'その芸歴においても'道成寺の歴史において

も忘れる事の出来ない上演であった。実は初代は毅する少し以前から健康を害してい

( H)

たが、亡‑なる興行においても'後幕に追加してもう一度娘道成寺を踊るつもりだっ

( ES )

た。当時六歳であった三田八こと三代目三津五郎に、父の娘道成寺の記憶があったか

は定かでない。しかし初代の追善に三代目は娘道成寺で大当りを取‑、1躍その名を

揚げ親子二代の成功を収めた。そして既述のとお‑、それぞれが上演時に置かれた背

水の陣ともいえる逆境も'共通したものであった。また上演にあたって'初代は富十郎、

そして三代目は実父初代という目標があったことも忘れてはならない。

歌舞伎史を知る基本書﹃近世日本演劇史﹄ でも、﹃江戸近世舞踊史﹄ でも、初代三

津五郎の娘道成寺は一切触れられていない。また現在で、は娘道成寺が三津五郎家の

芸として話題に上ることも稀である。しかし今日まで連綿と伝わる'立役による娘道

成寺の系譜を思う時、その第一人者である初代三津五郎の存在を看過すべきではない.

そして、三代目三津五郎は実父の流れを‑み、自身の芸を後代に伝えようと尽力した。

その姿勢を思い合せたとき'改めて娘道成寺が坂東三津五郎家にとり、大切な所作事

であると認識されるのである。

追記 二〇〇六年九月七日'京都造形芸術大学春秋座において 「もうひとつの歌舞伎

舞踊‑女師匠たちの坂東流」が開催された。同大学田口章子教授を中心とする研究会

の成果として、坂東流の特徴や伝承について実演をまじえつつ報告が行われた。その

中で、拙稿中でも触れた坂東三津江の詳細がはじめて明らかとなり、また彼女が坂東

流の「娘道成寺」伝承に果たした役割も改めて検証された。彼女が母の名を継承して

の二代目三津江であったこと、また生没年が判明したのも画期的な成果であ‑、三津

五郎家の「娘道成寺」 について調査した筆者としても、学恩に浴したことを深謝する

次第

であ

る。

また'本稿作成にあた‑古井戸秀夫先生、和田修先生の御指導'また長唄正本資料

について配川美加氏の御教示を得た。末筆ながらここに付記し、御礼申し上げます。

注(‑) 利倉幸一編著'昭和五十二年九月初版、同五十三年四月二版演劇出版社、十七頁。

(2

) 

昭和

四十

七年

十月

阪々

堂'

百二

頁。

(3

) 

「坂

東流

の起

原」

 (

﹃演

蛮画

報﹄

 昭

和七

年一

月号

、百

二頁

)。

(4) 昭和六十一年三月駿々堂'二百五十六〜九頁.

(8)

(5)古井戸秀夫氏執筆平成十五年四月金丸座プログラム'金森和子氏執筆平成十八年三月石川県立音楽堂邦楽ホール公演プログラム。

(6

) 

「三

代目

坂東

三津

五郎

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‑「

三重

霞嬉

敷顔

鳥」

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いて

」(

﹃早

ll 10 9 8 7

田大学文学研究科紀要﹄第五1輯第三分冊、平成十八年三月早稲田大学文学研究科)。

早稲 田大 学演 劇博 物館 (以 下、 演博 )  ロ<

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‑」 蝣  (O r

演博

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大正十五年八月歌舞伎出版部'三百七十六頁。

国立 国会 図書 館C

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‑( MO OI M

東京大学総合図書館霞亭文庫<00‑霞亭  HOO、但し閲覧は早稲田大学図書館

マイクロフィルム^CO‑hO‑<O(N。なお本書については、立川洋氏が﹃芸能史研究﹄第四十七号(昭和四十九年十月蛮能吏研究会) に掲載された「江戸の劇書‑書誌と書韓」で出版年の考証をされている。現在のところ霞亭文庫蔵本が孤本だが'これを天

明四年四月初代三津五郎三回忌に当てて出版された'後補再版本である可能性を指摘

され た. 殺し た直 後の 天明 二年 五月 刊﹃ 役者 花酒 盛﹄ (演 博ロ  ー

‑,

‑1 00 (N O‑ )に も「 坂

東三津五郎追善 その悌 全壱冊 明和三成年顔見せ森田座江初下りより天明二年まて十七ヶ年之問あたり狂言委し‑しるす」と出版予告があるので、恐らく天明二年中に初版が世に出たと考える。

ll

‑1

/初

代三

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郎が

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6)

 の

拙稿

'ま

た「

三代

目坂

東三

五郎の幼少期」 (﹃楽劇学﹄第十二号'平成十七年三月楽劇学会)を参照されたい。

(1

)内

題「

つり

がね

びい

き」

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京大

学総

合図

書館

霞亭

文庫

<0

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希望

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LO

(3) 吉野雪子氏「江戸音曲正本出版のメカニズムー河東節、長唄正本を中心にして‑」

(﹃音楽研究所年報﹄第九集、平成二年三月国立音楽大学音楽研究所) に拠る。(in)東京音楽学校編、昭和五十二年八月三部合巻復刻版'鳳出版'江戸長唄之部八十八

頁。(2) 近世邦楽研究部門編、国立音大音楽研究所年報第十一集別冊、平成七年、三十八頁。なお同書では「ひ‑やてんでにつ‑がねひいき」とするが'拙稿では辻番付や管見の

正本により「ひけやてんでにつ‑がねびいき」と読む。(」) 日本名著全集﹃歌謡音曲集﹄ (昭和四年十一月日本名著全集刊行会)参照。同書は翻

刻の底本を明示しないが、影印で載せた絵表紙には坂元の記載がない。そこで長唄正

本研

究会

の「

長唄

正本

研究

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OO

0‑

‑t

DO

 (

﹃邦

楽と

舞踊

﹄昭

和六

十二

年六

月〜

十月

号'

邦楽と舞踊出版社に連載) をも参照した。﹃長唄原本集成﹄巻二 「元はま丁いがや」

板が転載され、異板ではあるものの ﹃歌謡音曲集﹄との詞章異同はない。

(2

) 

﹃東

洋音

楽研

究﹄

第三

十九

・四

十合

併号

、昭

和五

十1

年十

月東

洋音

楽学

会o

(2) 現行詞章と比較すれば'(花に心を深見草園に色よ‑ナ」が「曳各鐘晶虞」 では(吉野初瀬のはなもみぢいつも色よ‑なァ」とする異同のみ。

(8

) 

﹃邦

楽の

友﹄

平成

十七

年三

月号

'邦

楽の

友社

(E

3)

 例

えば

「百

千鳥

娘道

成寺

」に

関し

て、

次の

三種

を比

較す

る。

①初代菊之丞上演時(寛保四年正月中村座) の詞章(日本名著全集﹃歌謡音曲集﹄)

②二代目菊之丞上演時(宝暦六年十一月市村座) の正本(東京大学総合図書館霞亭

文庫 霞亭 00

‑‑ HO CT IL O「 長唄 けい こ本 集」 所収

。表 紙に

「市 村」 とあ るの みで 坂元 不明 )

③三代目菊之丞の再演時「再咲花娘道成寺」(天明三年四月中村座) の正本(演博安

田文 庫イ     H C¥ ].

‑I CM

‑C

¥! C<

1J

>‑ 高砂 丁村 山源 兵衛

・長 谷川 丁松 本屋 万寺 坂)

右記三種を比較すると'①②は同一詞章'③との間に次の通り異同がある。

「実に有難き法の庭。笠笛琴整篠。夕日の雲に輝きて」1「ふかきなさけの心のそこ

もなるかならぬかむねの内いハでほどけぬ恋のミちむすぶちかいぞ法の庭た,いたづらにあた桜思ひのたけのちりつもる花の姿のうつくしや」。また、「京鹿子」系の道成寺も挙げる。﹃歌謡音曲集﹄所収の「京鹿子娘道成寺」と、

④四代目岩井半四郎の「吾嬬鳥娘道成寺」(寛政二年三月市村座) の正本(演博安田

文 庫イ i

‑ ii ‑ I ‑i ‑ i OO t

‑ i! M

‑ IM i n )‑ i )

⑤同じ‑四代目半四郎「江戸紫娘道成寺」(寛政五年九月河原崎座) の正本(演博安

田文 庫ィ .‑ i.

‑i

‑.

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。内 題下

「増 補  杵屋 正次 郎」 )を それ ぞれ 比較

する (但し煩雑になるので大きな異同のみに止める)。

まず④は「都育ちは蓬莱なものちやへ」1「東そだちハはすはな物じゃへ」'恋の手習の件りの前半「恋の手習〜どうもならぬ程逢ひに来た」1「山寺の ‑ かねつ‑演

師の時しらぬわかれ鳥はるの夕ぐれきて見れバ入相のかねに花やちるらん‑トうやつ

らや へおとこゑらミにわしや日が‑れてのきのとうろう二度の月菊の節句やとしの

‑れ人のよろこぶ日といへハ (われハ思ひのますか',,ミ丸にそひふすよわもなしと

のご恩ひにしともな‑」。加えて「只頼め」 の一段がすっか‑省略されてお‑、鐘入‑は石橋でな‑「花の姿の‑」 の現行詞章である。また、⑤は二節から成るわきて節

の「 梅と さん  ‑  」  の 一節 日が な‑

、「 菖蒲 杜若

」  の二 節目 のみ

。「 恋の 手習

」  の箇 所

の差し替えや鐘入‑の詞章は④と同文であるが'こちらは④で省略された「只頼め」が含まれている。また、「京鹿子」 の「花に心を深見草」一句1「げにお‑︿のた

ハむれの」に差し替えられている。また'終曲「謹話東方」以下が全‑書替えられて

おり'次の歌詞になる。「たとへげんじゃのほう‑きなりともうらみハつきじ我いち ねんしもとふりたててう‑ト ‑ どんとろとゝろとあしふミしめかねにむかつてつく いきハすさまじくもまたおそろしや (いまぞじゃうぶつとくだつのみのりのこゑに

こんじきの花ふり‑だるそのすがたありがたか‑けるしだいな‑」。

このように、宝暦から天明、寛政にかけ、未だ上演毎に異同が見られる。(S) 富十郎江戸下‑当時、明和七年十1月の役割番付(﹃劇代集﹄東京大学総合図書館秋

葉文庫<00‑芝6) を見ると、表紙の紋付では富十郎が立女形の位置'坂田半五郎が座頭の位置に納まっているが、役人替名では富十郎が半五郎を越して座元の直前へ座頭の位置に名を出している。

(S )  潰博 ロ     ーI WC O^ P

(9)

(S)初代三津五郎は森田座座元六代目森田勘弥の娘このを妻とした。詳し‑は注O)に既出の拙稿「三代目坂東三津五郎の幼少期」を参照されたい。

(8

) 

三田

村鳶

魚編

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刊随

筆百

種﹄

第十

1巻

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和五

十三

年l

月岩

波書

店.

(8)伊原敏郎編、第四巻。昭和三十四年三月岩波書店。

(5

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文字

屋自

笑編

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年刊

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日本

庶民

文化

史料

集成

﹄第

六巻

歌舞

伎(

昭和

四十

年五

月三

一書

房)

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七十

六頁

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暦十

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正月

刊﹃

役者

年越

草﹄

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﹃歌

舞伎

評判

記集

成﹄

第二

期七

巻三

百八

十六

頁)

に「和田合戦女舞鶴」板額の芸評があるほか'宝暦十三年三月刊﹃役者青野山﹄ (同書八巻七十三頁) に「友全染に巴やおため役。女形もしはらしうてよし」と見える。

また江戸下り後も、例えば安永四年十一月森田座「菊慈童酒宴岩屋」で、渡辺女房さよ風という女形を手掛けている。

(8

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正勝

校註

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四十

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十一

月日

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世文

会初出へ ﹃歌舞伎・問いかけの文学﹄平成十年七月ぺりかん社所収) に指摘がある。

(3)吉田瑛二著作集﹃歌舞伎絵の研究﹄ (昭和三十八年十月緑園書房) の翻刻に拠る。

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成寺

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事伝

系」

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劇文

庫﹄

第六

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大正

四年

二月

演劇

珍書刊行会)'九重左近 ﹃江戸近世舞踊史﹄ (昭和五年一月四版寓里閣書房) を参考と

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伎・

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学﹄

所収

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実な資料では関係がよ‑わからないが'安永六年に富十郎が ﹃鐘掛花振袖﹄という名

題で再演した際には'横笛が尾形の三郎惟義の妹になっていて、その尾形に殺されて亡霊となって道成寺にやって‑るという設定になっていたらしい」とある。また渡辺

保氏は前掲﹃娘道成寺﹄ で宝暦九年角の芝居「九州釣鐘岬」 では'富十郎演ずるおみつという娘が殺されて'その亡霊が恋人を追ってゆ‑という筋立てを紹介している。

(8

) 

﹃歌

舞伎

年表

﹄第

三巻

、四

百一

頁。

(&) 三代目三津五郎が初代を偲ばせる芸風で人気を博すことについては、前掲注(6)拙稿「三代目坂東三津五郎の (朝比奈の促偏師)」を参照されたい。

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(S5) 六月二十日〜二十五日「花系図娘道成寺」'六月二十六日〜七月1日「江戸紫娘道成

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外題

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民文

化史

料集

成﹄

第十

三巻

芸能

記録

(二

)、

三1

書房

所収

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(?) 「娘道成寺」に「押戻」が付加されることについては'注(S)既述﹃江戸近世舞踊

史﹄ に研究がある。また同書七十六頁には、次のような記述がある。

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成寺

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道成

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子娘

道成

寺」

(3 ) (4 2)

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Ⅶ醒

50 49 48 47 46 四

等は、ワキ僧を二人とし居‑'住僧'従僧の区別が無いが「曳各鐘晶負道成寺」は住僧一人ワキ僧二人として、能の形式に一番近い。

しかし、初代瀬川菊之丞「百千鳥娘道成寺」 の正本(日本名著全集﹃歌謡音曲集﹄)にも、鐘入りと祈‑の間に「此間七三郎鐘ノカタリアリ」とあって、二代目市川海老

蔵の文覚、初代大谷広次の弁慶の他'七三郎漬ずる住僧の存在がある。役割番付(﹃劇代集﹄) の役人替名でも、七三郎に「ほうらいしきゑんそうず」とあり、延享元年三ふみがみこ月刊﹃役者夫美掃﹄ (﹃歌舞伎評判記集成﹄第二期二巻四百四十五頁)芸評に「小紫にお六が死霊取付Lをなだめ給ふ迄」とある。よって、住僧の登場は「曳鐘各晶屑」以前から存在した演出と言える。

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注 

(3

)参

照。

前掲﹃日本庶民文化史料集成﹄第六巻歌舞伎'六百二十八頁。

右同書所収'二三治の天保十四年著﹃作者店おろし﹄ の凡例に'「初代桜田の門に入て四十歳」とある。四十歳 (午) に信を置けば、入門は文化元年となる。

(i o)  天 明元 年冬 頃刊

﹃役 者茶 目芸

﹄  (東 京都 立図 書館 東京 誌料 Ln i>

‑H Cv i‑ 10 00 )初 代三 津 五郎芸評に「ことによほど病気のよし成をおしてつとめらるゝ所ハゆかりあるもり田

座のおため」と見える。

(i n) 前掲

﹃追 善そ の悌

﹄  (注 1  1参 照)  に

「初 日評 判大 てき にて 此跡 ま‑ ハ清 玄ほ うこ んに て娘道成寺あるよし見物も大あたりならんとたのしミ待Lに時なるかな命なる哉則初

日十日の夜死去いたしぬおしいかな」とあるに拠る。

(10)

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「曳各鐘晶屈」辻番付 演博口22‑7‑61 図1

図3 「花置鹿子道成寺」辻番付 演博X12‑17157‑1‑12

(11)

図2 「曳各鐘最眉」長唄正本(東京大学総合図書館霞亭文庫蔵 AOO一霞亭1095)

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