大学令下における仏教系私学の 連合大学設立に関する考察
─ 教育目的・学部組織の変化に着目して ─
雨宮 和輝
キーワード:大正期、大学令、仏教系私学、大正大学、教育目的、僧侶養成、学科課程
【要 旨】1918(大正7)年に大学令が制定されると、私立高等教育機関(以下私学と表記)が大学へと昇 格する法的基盤が形成される。ただし、大学令はその規定によって、私学に対し、学問研究に基づいた大学 となるために学内組織や諸条件の整備を行うことを求めていた。筆者は大学昇格に際して私学が教育目的・
教育内容をどのように変化させ、いかなる大学を目指したのかを究明することを目的として研究を進めてい る。その一環として、本論文では、教育目的・学部組織に大きな変化のあった仏教系私学の間で生じた連合 大学設立運動及びその成果として設立された大正大学を取り上げ、教育目的・学部組織の変化を明らかにす る。大正大学は浄土宗・天台宗・豊山派真言宗の三宗派を母体としており、設立までに宗派間における協議 が行われ、教育目的・教育内容は宗派間の協議によって設定された。こうして設定された教育目的は、大学 昇格に際して他の仏教系私学においても課題となっていた仏教の社会化、つまり、閉鎖的な僧侶養成機関か らの脱却、そして、大正大学独自の教育目的として、宗派を超えた仏教教育を行うというものであった。宗 派を超えた仏教教育を実施するという教育目的は、学部組織・学科課程にも反映されており、連合大学設立 運動時に設定された教育目的が大正大学設立後にもその中心となったと言える。大正大学の大学昇格は他の 仏教系私学の大学昇格とは異なり、宗派の連合による教育機関の設立という点に独自性がある。つまり、教 育史的には、仏教系私学が僧侶養成特化の組織から脱却し、教育・研究を行う高等教育機関として成立した 事例として捉えることができ、仏教史的には、複数の宗派が共同して一つの教育機関を設立したという事例 として見ることができると言えるだろう。
はじめに
1918(大正7)年の大学令制定以降、従来専門学校であった私立高等教育機関(以下私学と表 記)の大学昇格が可能となった。ただ、大学令では大学設立に際して、多額の供託金を国庫に納 めることや、一定数の専任教員を確保することなどの諸条件を満たす必要があった。そして、私 学が大学昇格をするには、学問研究を中心とする大学になるための学内組織や教育内容の整備が 課題とされたのである。
筆者は、私学に対して大学として相応しい教育機関になるように整備を求めた大学令を、日本 の私立高等教育機関の重要な転換点であったと捉えている。筆者の研究の全体像は、戦前の私学 が専門学校から教育・研究機関である大学に昇格したその転換点において、教育目的・学部組織 をどのように変化させたのかを把握し、どのような専門性を備えた大学を目指そうとしたのかを 究明するものである。本論文では、大学昇格した私学の中でも、特に教育目的・学部組織に大き
な変化を確認できた仏教系私学に着目する。従来、仏教系私学の教育は僧侶養成のための仏教教 育を中心としてきたが、大学昇格に際して、僧侶以外の人材養成も行うようになったという大き な変化が確認できるため、仏教系私学の教育目的・学部組織の変化に着目するのである。そして、
大学昇格した仏教系私学の中でも、唯一3つの宗派の合同により設立した大正大学の設立経緯と 設立に至るまでの教育目的・教育内容の整備の過程を明らかにすることを試みる。
大学令が制定されて以降、私学は大学令が求める規定を満たすために、学内における課題を解 決する必要に迫られたが、各私学の状況は異なっていた。つまり、既に教育機関として大学と同 程度に整備された私学や、大学に昇格する準備をしていた私学は、大学令に対応することができ たのである。これに対して、聖職者の養成を教育の中心にしてきた宗教系私学は、その教育目的・
教育内容を大学令が求めるように、大学として相応なものへと変化させる必要があった。とりわ け、従来僧侶養成に特化されてきた仏教系私学は、仏教教育の継続と大学教育の導入を巡って、
大学昇格後にどのような教育を行うかが問題となったのである。
ただ、大学昇格に向けて動き出した各仏教系私学には、単独の宗派で大学昇格を行おうとする 動きと、複数の宗派が連合して一つの仏教系私学を設立しようとする動きが存在していた。例え ば、大谷大学や駒澤大学などは、それぞれ浄土真宗大谷派、曹洞宗といった単独の宗派によって 大学を設立することができている。その一方で、1926(大正15)年に設立された大正大学は、浄 土宗・天台宗・豊山派真言宗といった3つの宗派を母体として設立されている。つまり、仏教系 私学の大学昇格には単独昇格と連合大学設立という大きな2つの動きが存在しているのである。
本論文では、この2つの動きの中で、連合大学設立運動を多数の宗派が関わった重要な動向であ るとして、単独昇格とは別に取り上げる。また、連合大学設立の経緯及び、その母体となった三 宗派の仏教系私学が設立までにどのような教育目的を設定し、どのような実状にあったのかに関 して、宗派立私学ごとの実態を明らかにする。
先行研究では、大正大学の設立前後に焦点を当てている代表的な研究として『近代日本の大学 と宗教』(2014年、江島尚俊・三浦周・松野智章)が挙げられる。同書では大正・昭和初期の仏 教系私学における学科課程の変遷が分析されており、その対象として大正大学とその母体となっ た三宗派の私学が取り上げられている。ただ、カリキュラムに関しては詳細に分析されているが、
大正大学がいかなる教育目的のもとに、どのような経緯を経て設立されたかまでは言及されてい ない。また、大正大学の沿革史として『大正大学五十年略史』(1976年、大正大学)があり、母 体となる三宗派の私学に関しても触れているが、各学校においてどのような教育目的を以て連合 大学設立が目指されたのか、また、大正大学設立に至るまでの議論も明示されておらず、連合大 学設立の経緯は概略的に示されるに留まっている。
そこで本論文では、連合大学設立に際してどのような教育目的が設定されたのか、また、母体 となった宗派立私学はどのような実態にあったのかを、仏教関係者及び学校関係者の言説、史料 をもとに整理し、把握する。さらに、大正大学は最終的にはどのような教育目的を設定すること で、連合大学での教育の統一を図ったのかを明確にする。
1.大学令制定後の仏教系私学の動向と連合大学設立運動
連合大学設立に際しての教育目的・学部組織の変化を見る前に、まず、連合大学設立運動が起 こった当時の仏教系私学の状況を明確にしておきたい。
1918年に大学令が制定されて以降、多くの私学が大学昇格にむけて動き出した。その中で、仏 教連合大学設立の動きは、大学昇格運動の高まりと同時に発生したものであった。ただ、全ての 仏教系私学が連合大学設立を目指したのではなく、単独宗派での大学昇格を目指した宗派も存在 した。つまり、大学令制定後、仏教系私学においては、単独宗派による大学昇格と、複数の宗派 による連合大学設立という2つの動きが存在していたのである。
連合大学設立運動の実態は、1918〜1920年頃における仏教関係雑誌の記事に見ることができる。
真言宗が発刊している『六大新報』は、連合大学設立に関して「新時代の機運に乗じて仏教各宗 共同の宗教大学を建設すべく運動する方有意義にあらずや(中略=筆者)仏教各宗にして自覚し 協力して一大教育機関の設立に努力せば将来日本仏教の権威を発揚するに至るべきを確信す」1 と連合大学設立運動を肯定する意見を述べている。また、仏教関係の記事が多く散見される『中 外日報』では、連合大学設立の際には禅宗・真言宗・天台宗・浄土宗・日蓮宗といった複数の宗 派が連合すべきであり、宗派が単独昇格することに対しては「各宗派が独立して不完全なる学校 を維持し此上学生に愛想をつかさるゝより完全なる連合大学を編製して優良なる人物を養成せん とする」2べきであると、連合大学設立の必要性を述べているのである。
このように連合大学設立が主張されていた背景には、設立を望む仏教系私学の財政面における 問題が存在していた。連合大学設立に参加を表明していた宗派の多くは、単独で大学昇格をする だけの設備も財源も備えていなかったため、協力して一つの連合大学を設立しようとしたのであ る。つまり、1920年以降、単独宗派による大学昇格を選択した私学は、単独昇格が可能な程度の 財源と設備を備えていたということであり、財源や設備のない宗派が連合大学の設立を選択せざ るを得ない状況だったのである。
また、連合大学設立運動が開始された時期には、多くの仏教関係者が仏教系私学の今後の教育 方針に関する言説を述べている。仏教関係者の言説を多く確認できる雑誌『中央佛教』を見ると、
連合大学設置に関して問題視されているのは、仏教系私学の教育面及び学力面の問題であること がわかる。文学博士の谷本富は「今日寺院多数の徒弟は、果して堂々大学生として遣つて行く丈 の能力なり資力なりがある者と観られるかどうか。恐らくその多分は不合格と成らう」3と述べ ており、仏教系私学の教育内容や学生が、大学という教育機関に相応しいレベルに到達していな いと述べている。また、仏教学者である高島米峰も仏教系私学が教育機関として不完全であるこ とを指摘した上で、そこで行なわれている仏教教育に関しても「坊さんとしても物足らなく、教 員にも向かず、会社にも務まらず、巡査にもなれず、労働者にもなれず、中途半端な羽織ゴロ的 なものが多いといふ世評を、如何ともすることが出来ない状態ではないか」4として、仏教教育 の現状を問題視している。さらに高島は、各宗派が仮に単科大学へと大学昇格しても「その設備 と内容とが何うして充実することが出来るのであるか。かくの如きは名は即ち単科大学であらう けれども、その實は旧態依然として、ボロ学校、坊主学校と呼ばれなければならないものではな いか」5と危惧しているのである。以上のように連合大学設立運動が盛り上がった時期は、仏教
系私学において従来の教育のあり方を改善する必要があるという主張が起こった時期でもあっ た。連合大学の設立は、自宗派のみの僧侶養成に特化した仏教系私学が新たな教育機関へと転換 する契機となる提案だったのである。
ただ、連合大学設立に関しては、利点だけでなく問題点も指摘されている。後に真宗大谷派の 参事を務める石川成章は、仏教連合大学を設置するに際して利点と問題点を列挙しており、利点 として「各宗の碩学は、一堂に介して、互いに議論研鑽して大に仏教の蘊奥を極め、各自の識見 を広め、且つ親睦を敦うする事を得べし」6と述べているが、問題点として「各宗派における大 学又は宗門道場等の今後の処置を如何にすべきか」7と述べている。つまり、連合大学の設立に よつて各宗派の閉鎖性が解消される一方で、従来の仏教教育を大学教育の中でどのように継続し ていくのかを問題視しているのである。
仏教教育を継続して行うべきとする意見の一方で、従来の仏教系私学の教育を変革すべきとす る意見も存在する。仏教学者である土屋詮教は、僧侶養成に特化された仏教系私学の現状を打開 するために連合大学の設立が必要であると主張している。土屋は従来の仏教系私学で行なわれて きた養成方法を「人形細工に類して居つて、古い型に入れて形像を造らうとするものである」8 と非難しており、対して連合大学における教育目的は「仏教の精神を根本主義とする学府より各 方面の人材を産出すると云ふことになる」9と述べている。さらに土屋は、連合大学は各宗派そ れぞれが仏教色を深めるのではなく、むしろ社会において貢献する宗教家以外の人材養成をすべ きであると主張しており「各宗の為と云ふ観念を離れ宗教の為と云ふ念も離れ、所謂、利己主義 とか、佛教に最も忌む自我の年を離れて、廣く社会の為に教育の為にと云ふ理想の下に進まなけ ればならぬと思ふ」10と述べている。
以上のように、当時の仏教関係者、仏教研究者の多くが、従来の僧侶養成を中心とした仏教教 育を問題視しており、各宗派の私学は僧侶養成特化型の教育から脱却し、社会に貢献する人材を 養成すべきであると述べている。大学令において僧侶以外の人材養成の必要性が主張されたのは 筆者のこれまでの研究で明らかになっているが、各宗派による連合大学の設立に際しては、それ と共に、宗派間の閉鎖性を解消するという目的が存在したことが窺える11。では、連合大学の母 体となった三宗派の私学は連合大学設置に際してどのように対応していたのか。
2.専門学校令下における3つの宗派立私学の動向
連合大学は母体となる3つの宗派立私学によって設立されたが、各宗派の仏教系私学は実状も 異なっており、連合大学設置に対する態度も当初から同様ではなかった。それでは、三つの宗派 立私学はどのようにして大正大学設立へと方針を固めていったのか。以下連合大学がどのような 目的を以て設立されたのかを3つの宗派立私学の専門学校令下における動向を見ることで明確に する。
(1)宗教大学
宗教大学の沿革を見ると宗教大学は「主トシテ浄土宗教師ヲ養成スルヲ目的」とする学校とし て設立されたと述べられている。『中央佛教』に掲載されている宗教大学学長望月信亨の言説を見
ると、仏教教育の今後の展開について「一宗一派に拘泥するよう様な狭いものではなく、仏教と 云ふ広い立場に立つて、所有社会の事業に翼賛し、改善の道を講じて行かなければならぬ」12と、
宗派のためだけでなく、仏教界全体が社会に対して貢献すべきと述べている。ただ、望月は大学 昇格及び連合大学設立に関しては「労おして其効少く、甚だ覚束ない事の様に思ふ(中略=筆者)
他の単科大学に比して各宗大学が、より以上に勝れた者になろうと云ふ様の事は、甚だ至難であ ると思ふ」13として、宗派の大学設立そのものに関して、非常に難しいと考えていたことが窺える。
また、望月は「各宗派が大学を一々宗門のみに依つて、維持するは容易ならぬことであるから(中 略=筆者)僧侶専門の大学を止めて、一般的に開放し、自由な大学を造らんとするのも一方法で ある」14と述べており、従来までの僧侶のみの宗門学校の延長線にある大学ではなく、一般市民に も大学を開放することで大学設立を目指そうとする考えを持っていたことがわかる。そして、こ の開放的な大学の設置に関して「先づ開放の道か、連合の方向に進むかの、二者択一を選ぶべき ものかと思ふ(中略=筆者)若し連合大学の方面に向ふとすれば、浄土宗は主動になつても、大 いに努力を惜しまぬと云ふ意気込みを示して居る様である」15と、連合大学の設置に積極的な発 言をしている節を見ることができる。
(2)豊山大学
豊山大学がどのような状況にあったのかという点は、『中央仏教』の「豊山大学評判記」とい う記事から窺うことができる。豊山大学は「新義真言宗豊山派の教師僧侶を養成する最高機関で ある。とは言へ建物は頗る貧弱で木造二階建一棟、それで講堂から教室から、事務室、教員控室、
学長室、応接室、宿直室何もかも間に合わせである」16と評されており、また、学内の状況に関 しても「学術の研究の方には、設備が足らぬし、指導も充分でなし、叉、学生自身自発的に研究 心の盛んなものも現在に於ては少いやうである」17として、その現状を指して「書庫はあるけれ ども、遥か隔つた杉林中に孤立してゐて、閲覧室もなければ、研究室もない(中略)東都におけ る密教最高の学府としては誠に遺憾ではないか」18と評している。また、学内での授業に関して も「宗乗余乗─即ち仏典に関するものを除く外の科目は以上の通り、何れも他からのお雇ひ先生 ばかりである」19状況であり、そのような状況下にあって「学生一般の興味を惹き且智識を満足 せしむる課目が、十人中の七八又は八九迄が宗乗余乗の以外であることを答へるのは、宗門教育 を中心とすべき筈のこの種の学校としては頗る皮肉ではないか」20と仏教的教育が疎かになって いる現状が嘆かれている。
また、豊山派は連合大学設立に至るより前に真言宗一宗派による大学を設立しようした動きが 確認できている。豊山派の発行雑誌である『新興』には1920年時点で「現在の状態では例へ大学 に昇格するとも宗教教育としては無意味である。先づ其の根本を定め教科大学の道をを開き、而 して後に進むべきである。去りながら各宗統一未だ不可能ならば、真言の徒は真言一宗だけでも 一校に集めて、密教の力を顕はすべきである」21という記事が見られる。豊山大学は連合大学設 立だけを大学設立の方法と認識していたわけではないことが窺える。
しかし、豊山派宗務長の小林正盛は連合大学の設立に関して「各宗派は当分現状を維持して徐 に佛教各宗大連合の完成を企画するか、又は絶対に私立大学設立の希望を放抛するの外別に妙案
もあらざるべし」22と、連合大学の設立は仏教系私学にとって大学を設立することができる唯一 の方法であると述べている。さらに「吾人は、各宗別に新大学令に依りて、其の昇格を無理にす ることが必ずしも善美の策とは思はず、佛教各宗共通の大学設けられんことを希ふものなり」と 連合大学の設立を強く主張しており「各宗門の教育は、全く一大連合の捻を開きて、日本佛教の 教育を施すに如かず(中略=筆者)或は斯くの如き昇格問題の如きは、美名のみを貪るものなら んも然らず、時代の標準を忘れて何事を施設するも、遂には退廃的の宗門となり、自滅の淵に陥 ゐらずんば止まざる底のものとなす」と、仏教系私学による連合大学の設立が行われない場合は、
各宗門の衰退を招くと危惧しているのである23。
(3)天台宗大学
天台宗大学は1924(大正13)年の学則では、その教育目的は「本大学ハ宗内僧侶ニ高等ノ宗余 乗及ヒ須要ナル学術ヲ教授スル所トス」24となっている。教育目的を見ると、大学令制定以前は 僧侶養成に特化した仏教系私学であったことがわかる。1919年、大学令に対して天台宗の総務の 大森亮順は「之が実施に依り真に宗門的教育を目的とする各宗現行の宗門大学を改廃すること能 はず、依然之を存続し、名前の如何に拘らず一層其内容を充実せしめ、愈々其目的の達成するに 努むべきものと信ず(中略=筆者)各宗は宗門教育を目的とするものの外、別に先づ文科大学を 建設し、佛教主義に依り人格の陶冶及思想の涵養に力むるは、佛教徒の国家的事業として最重要 務なりと認む」25と述べている。この言説を見ると天台宗大学は当初から連合大学設立に参加す ることを明言していなかったことが窺える。さらに「新大学令に対する天台宗の意向は未だ定か ならざれども現在の専門学校令に依る宗門大学の現状を維持するの外途なしと做す者多数なるが 如く」26といった言説も見ることができ、大学令に対しては消極的な態度であったことが窺える。
実際天台宗大学では「他の稍整頓せる仏教的大学ですら中々昇格を難しとしてゐるのに(中略=
筆者)実現するのは何の道その解決が十分に出来た上のことで目下の処直接の問題になつて居ら ぬ」27として大学昇格に対する態度は非常に消極的であったことがわかる。こうした天台宗の消 極的な態度は連合大学設立に参加することが決定した後も続くことになり、1925(大正14)年1 月の時点においても天台宗大学内部において連合大学設立の参加に反対を受けている状態である ことが、大森によって述べられている28。そして、1925年3月20日に最終的に天台宗大学が連合 大学設立に参加することが確定するのである29。
このように専門学校令下では宗派立私学の状況はそれぞれ異なっており、最終的に意思の統一 が図られたのは大正大学設立の直前であったことがわかる。ただ、学校関係者の言説を見ると、
3つの宗派立私学それぞれが大学令制定後は、従来の仏教教育に変革が必要であると考えていた ことがわかる。では、これら3つの宗派立私学を母体として設立した大正大学は、その教育目的・
学部組織はどのようなものとなったのだろうか。
3.連合大学設立運動の成果としての大正大学の設立
(1)大正大学設立までの動向
先に述べたように、仏教系私学において単独宗派及び連合大学設立の動きが盛り上がったのは 1918年以降であり、大正大学設立の動向も1918年以降、大きく展開することになる。まず、連合 大学設立までの経緯を表1として整理した。
表1にあるように、連合大学、つまり、大正大学設置までに於ける重要な出来事が「各宗教育 調査会」の設置及び『仏教各宗派連合大学設立私案』(以下『私案』と表記する)の作成であった。
特に『私案』は、1922年11月に各宗派が連合大学設立のため、連合大学における教育目的や学部 組織に関する規定を示し、作成された冊子である。そこで、以下『私案』を連合大学設立の重要 な指針であったと捉え、その教育目的がどのようなものであったのかを明確にする。
まず、連合大学においてどのような教育目的を設定し、どのような教育内容を教授するのかと いうことについて『私案』では、宗派合同による連合大学の設置が、仏教の社会化につながるも のとして述べられている。大学昇格に際して仏教系私学は、従来の仏教教育のみに特化した僧侶 養成機関から教育・研究を行う大学へと発展するために、仏教教育以外の非宗教的な教育を取り 入れ、閉鎖的な状況にあった教育機関を宗門外に開放する必要があったのである。このような仏 教系私学の動向は、仏教系私学の社会化と言える。つまり、連合大学においても社会化が必要と されていたのである。『私案』においては仏教の社会化に関して「仏教の社会化を怠ることは其 の命根を断つと同様であります。東西本願寺の大学が出来ても、それは彼の宗派内に限る学校で あつて、各宗派並に一般社会の要求を充すことはできません。況や他宗派及世間一般の人に対し 全く門戸を開放しても、研究志望者は其選択に迷ふ有様であります、連合大学の設立は此方面で も甚だ有意義であります」30と述べている。つまり、『私案』においては一宗派による大学昇格は あくまで宗派内部における動向であつて、仮にそれで大学設立を成し遂げても、閉鎖的な体質は 変わらないと述べているのである。それに対して連合大学の設立は、研究志望者に門戸を開く有 意義なことであると述べている。
さらに『私案』では仏教各宗派が連合する意義に関しても述べている。従来までの仏教界内部 において宗派が対立していた事実を指摘しながら「各宗が対立し各々其司祭教化の分野を守ると 云ふ時代は、既に過ぎて終ひました。今や基督教、回々教等の各教との角逐に力を注ぐべき秋で
表1 大正大学設立までの経緯 1918年12月6日 大学令公布
1922年10月30日 神田中央仏教会館において、仏教連合大学設立準備のための「各宗教育調査会」が設 置される。
1922年11月15日 「各宗教育調査会」、「仏教各宗連合大学設立私案」作成。
1923年1月17日 中央仏教会館で各宗派の代表の協議会が行われる。
1924年12月1日 豊山派宗務所で開かれた天台・豊山・浄土の代表員会で、連合大学設立の覚書が協約 される。
1926年4月5日 大正大学の設立が認可される。
あります」31として、むしろ他宗教に対抗する力を養成しなければならないと述べている。その 上で「仏教の各宗派が従来の如く対立贅食して行くことは佛教の自滅を図るものと云はねばなり ません。(中略=筆者)学校の統一は、やがて僧侶、教階、寺院、服装、法式等の統一をも予想 出来るのであります」32と、連合大学の設立は仏教界全体の統一の契機になると述べているので ある。このことから、宗派合同による連合大学の設立が、仏教界にとっても重要な出来事であっ たと言うことができる。
以上のように『私案』は、連合大学設立に際して、その指針を示したものであったことが窺え る。『私案』が作成されて以降、連合大学設立運動も大きく展開することになる。まず、各宗派 の代表者が集まり連合大学設立に関しての協議会が行なわれた。この協議会には多くの宗派が参 加し、最終的に連合大学設立の母体となる3宗派だけでなく、それ以外の宗派も参加しているこ とがわかっている。そして、協議会では「時代の趨勢と教界の実状とに鑑み、適材教養の実を挙 げんが為め」33に、連合大学の設立を行うことが決議文として述べられている。このように、協 議会の時点では三宗派だけでなく、他宗派との協力による連合大学の設立に意欲を見せていたこ とがわかる。しかし、最終的には大正大学を設立するのは浄土宗・天台宗・豊山派真言宗の三宗 派のみとなってしまうのである。
この原因に関しては、まず挙げられるのが、連合大学設立までに幾つかの宗派が単独昇格を選 択してしまったことが挙げられる。当初は連合大学設立運動に参加の意を表明していた曹洞宗大 学(現在の駒澤大学)も、1925(大正14)年には大学昇格しており、連合大学設立の構想が大き く変化してしまったのである。また、大正大学設立直前までに参加の意を表明していた智山派真 言宗も、1925年5月12日の『智嶺新報』で「今や連合大学は全く当初計画せられたる各宗連合の ものに非ずして、僅かに浄土天台二宗と、豊山派と合同のもとに其の設立を策し、而も未だに猶 合同確立せざるものなることを知れり」34として参加を見送っている。
結果として、大正大学の母体となるのは三宗派の私学となったのである。三宗派は1924年には 豊山派宗務所において覚書を交換する。覚書の内容は天台宗、豊山派真言宗、浄土宗の三宗派が 連合大学を設立するために仏教連合財団を設立するというもので、この覚書の交換により、明確 に連合大学の設立は上記の三宗派によってなされることが決定したと見ることができる35。そし て、この後は、三宗派主導で連合大学の設立運動が展開されていくことになり、1926年4月には 大正大学の設立が認可される。
(2)大正大学設立までの教育目的・教育内容に関する議論
連合大学の母体となる3つの宗派立私学が決定すると、連合大学ではどのような教育目的・教 育内容を設定するかが議論されることになる。それらの議論は大学として認可された後の大正大 学の教育目的や方針を形成する原型となったと。では、学校関係者は連合大学としての大正大学 でどのような教育が行われるべきであると考えていたのか。以下、本項では、大正大学の教育目 的や教育内容に関する言説が多数確認できた宗教大学発刊の雑誌をもとに、大正大学ではどのよ うな教育目的・教育内容を設定しようとしていたのかを明らかにする。
『浄土教報』には、大正大学設立に際して大正大学関係者の言説が掲載されている。まず、後
に大正大学初代学長となる澤柳政太郎は、大正大学の設立の意義に関して「人材の輩出と育英上 とに最も必要な事で、現在のまヽで各宗が夫々の宗門努力の裡で教育機関を維持して行つたなら ば将来益々人材は局限され人物は低下して行くの明な事実であらう」36と人材養成の面で連合大 学の設立が必要であることを述べている。また、澤柳は連合大学における仏教教育の具体的な方 法に関しても言及しており「之について自分の考へでは連合大学の中に一種の治外法権的な宗門 教育の設備を加へたらよいと思ふ」37と述べており、澤柳の考えとしては、大正大学では一週間 の内に宗門教育の時間を何時間か設定し、宗派の僧侶として資格を得る事ができるようにすれば 良いと述べているのである。澤柳においても、各宗派での宗門教育の限界を指摘しており、宗門 のみに限って教育を行う選択を続けた場合、澤柳は「徒に狭い宗門の範囲に閉ぢ籠り、宗門萬能 の教育に陥る者は時代に落伍するより外はない」38と述べている。宗門のみに限定した教育では なく、各宗派が連合することが必要であると主張しているのである。
さらに浄土宗務所が発行している『宗報』においても、連合大学の教育のあり方に関して議論 されている部分を見ることができる。1925年3月5日に行われた第二十五次定期宗議会の議事抄 録の中ではある議員が連合大学での教育のあり方に関して「連合大学ガ昇格シテ大学令ニ準ズル トシタナラバ、種々ナ分科的ニ分レ、殆ド一般大学ノ其ト異ラヌデアラウ。学科ハ一般的、学生 ハ一般的ガ大部分ヲ占メ、宗教方面ノ学生ハ或ル片隅ニ遠慮シテシマヒ、一般的学問ニ依ル思想 ハ、念佛ノ信念ヲ衰ヘシムルコトハ自然ノ理デハナカラウカ」39と、連合大学が大学令により認 可を受けると、仏教系私学特有の仏教教育が失われ、一般的な学校と変わらないものになってし まうのではないかと懸念している。この結果として「宗門ノ青年ハ愈々自家ノ宗風ヲ蔑視スルノ 結果ヲ拓クノデアラフ」40と宗門における信仰心が低下してしまう危険性を述べている。
この懸念に対して宗教大学教学部長の見山任達は、連合大学が大学令により認可されることに 対して「国家ニ有要ナル人物ヲ養成スル目的ヲ以テ施ス教育デスカラ、其根本思想ガ違フデアリ マセウガ、併シナガラ、佛教家ノ見ル国家ト一般ノ所謂一政治、経済モ主ナル要素トノミスル一 国家トハ自ラ内面的実質ヲ異ニスル、当然異ナラネバナリマセヌ。従ツテ大学令ニ依ツテ沸教者 ガ設ケタル大学デアレバ、施スベキ教育ノ内容ハ自然ト佛教ニ対スル必要ナル方針ニ依リ、選ン デ施スモノト信ジマス」41と、仏教各宗派合同で設立される連合大学は、通常の大学とは異なり、
そこで行われる教育も仏教者のための教育であり、その方針のもとに行われるものであるとして、
一般的な大学とは差別化が図れると見山は述べているのである。
さらに、見山は大正大学における仏教教育のあり方に関して次のように述べている。1926年3 月11日に行われた第26次宗議会において「三派連合大学ハ、他宗ノ学生ト同時ニ本宗学生モ教養 サレ、而シテ僅カニ宗教教育ガ付加的ニ施サル状態デアリマスカラ、斯クテハ果シテ自信アル宗 教家ト成リ得ルカ、ドウカ甚ダ疑問デアル」42という指摘に、見山は今後の連合大学のあり方に 関して「三派ノ中デ養成サレテ居リマシテモ、或ハ又連大ノ内容ガ更ニ拡張サレテ五派、七派ニ ナリマシテモ、サウシタ宗門以外ノ間ニ養成セラルヽコトハ却ツテ学生ガ温室デ育ツタ弱々シキ モノデ無クシテ、サウシタ廣ク複雑ナル波トウノ中デ養成セラレテ、充分ナル試練ヲ経テ却ツテ 宗門精神ヲ養成スルニモ便宜点ガ多イト思ツテ居リマス」43として、他宗派との間での仏教教育 は連合大学における仏教的教育にとって重要なことであると述べているのがわかる。
このように、宗教大学内部で発刊されていた雑誌の言説を見ると、『私案』でも見られたよう に、大正大学は仏教の社会化と関連して、仏教教育だけでなく一般的な学問の教授も行い、さら に、宗派を超えた仏教学の教授を目的としていたことがわかる。では、大正大学ではこのような 背景のもと、どのような教育が行なわれたのだろうか。以下、学部組織・学科課程を見ることで、
その実態を明らかにする。
(3)大正大学の学部・学科組織及び学科課程について
ここまで『私案』や大正大学の教育目的・内容を巡る議論を見ると、大正大学の教育目的のあ り方が幾度の議論によって形成されていったことがわかった。では、教育目的の変化に伴って、
学部組織及び学科目はどのように変化したのだろうか。以下、大学設立前後の変化を明確にする ために、専門学校令下の宗派立私学と大学令下の大正大学の学部・学科組織及び学科課程を取り 上げる。
まず、大正大学の母体となった宗派立私学の専門学校令下における学科課程を分析する。大正 大学の母体の一つであり、大正大学の教育についての議論も多く行われていた宗教大学の学部組 織及び学科課程を見てみると、専門学校令下で宗教大学は、宗教部と教育部を設置していたこと がわかる。
宗教部を見ると仏教関係の学問を中心に教授が行なわれ、学科課程の中心は宗乗・余乗という 自宗派と他宗派に関する仏教学であり、仏教学以外の学科目としては国語・漢文・哲学・歴史・
英語といった学科目が設置されている。このような宗教部の学科課程の編成は、専門学校令下の 天台宗大学の大学部や豊山大学の本科と同様に、仏教学を中心とした学科課程が設置されており、
豊山大学も本科において仏教学中心の学問が教授されていた。
ただ、宗教大学は他の2つの私学と異なり、教育部を設置している。教育学・心理学といった 非仏教系の学科目が設置されている点で宗教部の学科課程との大きな違いが見られる。1924年時 点での宗教大学の学則を見てみると「本大学ハ浄土宗教師タラントスル者並ニ中等教員タラン トスル者ニ須要ナル高等教育ヲ施ス所トス」44と教育目的には示されており、明確に「中等教員」
を養成しようとしていることを窺うことができる。こうした点からも、宗教大学では専門学校令 下において、僧侶以外の人材養成に取り組もうとする動きが存在していたと見ることができる。
しかし、教育部においても仏教学が時間数全体において大きな比重を占めているため、教育の中 心にあったのは仏教であったと見ることができる。
では、大学令により設立された大正大学の学部組織及び学科課程はどのようなものとなったの であろうか。まず、専門学校令下の3つの仏教系私学及び大正大学の学部組織の系統図を、以下 の図1に示した。
図1を見ると、専門学校令下の宗派立私学の学科組織と、大正大学の学部組織が大きく異なっ ていることがわかる。大正大学は文学部一学部の単科大学として設立されたが、学科としては仏 教学科・哲学科・宗教学科・史学科・文学科(国文学専攻・漢文学専攻・英文学専攻)となって いる。専門学校令下の宗派立私学の学科組織とは異なり、より広範囲な学問を教授しようとして いることがわかる。なぜ大正大学では、専門学校令下の仏教系私学とは異なり、より広範囲な学
問を教授しようとしたのだろうか。その背景には連合大学設立運動の過程で作成された『私案』
で提唱された学科組織構造が影響している。
まず『私案』における連合大学の学科構想は予科・本科・専門科の三部から成り立つとし、本 科にて開設する学科として仏教学科・宗教学科・哲学科・史学科・純文学科が設定されている46。 この私案で提唱されている学科構想は、設立時の大正大学に設置された学科と同様である。つま り、『私案』の連合大学の学科構想が大正大学の学部組織に引き継がれたと見ることができる。
また、専門学校令下と異なり、幅広い学問が教授されるようになった背景にも『私案』で同様に 示されていた仏教の社会化という方針が影響していると考えられる。つまり、大正大学がこのよ うに幅広い学問を教授する学科を設置した理由は、仏教教育を中心としながらも、非仏教的な一 般教育を教授しようとする方針が存在していたからと言える。
以上のように、幅広い学科が設置されたことにより非仏教的な教育が試みられたことはわかっ た。では、従来行われてきた仏教教育は大正大学ではどのように変化したのだろうか。その点に 関して、以下の表2に示した大正大学文学部の仏教学科の学科課程から分析する。
仏教学科の学科課程を見ると、必修科目として仏教学概論、仏教学各論、仏教史といった学科 目が設置されており、単位数としても大きな比重を占めている。仏教学関係の学科目は他の学科 においても設置されているが、学科課程全体の単位数の中で仏教学科目が最も大きな比重を占め ているのは仏教学科である。よって、大正大学の仏教学科は仏教学を中心として教授する学科で あったと言えるが、専門学校令下における宗派立学校の学科課程と、大学令下の大正大学の学科 課程では、仏教学の位置付けが大きく異なっているのである。専門学校令下では、宗教大学にお いても、仏教学科目は宗乗・余乗といった自宗派と他宗派の区別があったのに対して、大正大学 の学科課程では「仏教」という名称の学科目として設置されているのである。専門学校令下にお ける宗派立学校では自宗派、他宗派の教義を教授する際は、異なる学科目として設置し、教授が 行なわれてきたのである。しかし、大正大学では自・他宗派といった面での区別がされていない。
さらに、仏教学を教授する講師に関しても、天台宗大学学長の浮岳暁充と、宗教大学の望月信亭 が共に仏教学を担当していた。つまり、宗教大学において提唱されていた宗派を超えた仏教教育
大正大学 文学部
(仏教学科・哲学科・宗教学科 史学科・文学科)
宗教大学
(宗教部・教育部)
豊山大学
(予科・本科別科・研究科)
天台宗大学
(大学部・高等部)
図1 専門学校令下の三宗派仏教系私学及び大正大学の学部組織系統図45
が、大正大学では宗派に依らず教授するという点で実現されていると言うことができる。
このように、大正大学の母体となった三宗派の仏教系私学は、専門学校令下において、宗教大 学のように教育部を設置していた事例もあるが、主に仏教学を中心とした教授を行っていた。そ の一方で、大正大学設立に際しては、仏教以外も多くの学科が設置された。この背景には『私案』
に示された仏教の社会化という教育目的が影響していたと見ることができる。また、従来教授さ れてきた仏教学も『私案』に示された、宗派を越えての仏教教育の実施という教育目的を反映し て、仏教学という名称のもと、宗派を区別せずに教授されたことがわかる。以上のように、大正 大学の学部・学科組織及び学科課程が『私案』に示された教育目的の影響を大きく受けており、『私 案』に示された学科構想を反映して設置されたという点で、大正大学は連合大学設立運動の成果 であると言うことができるだろう。
おわりに
上述してきたように、大正大学は、多数の宗派が連合することで一つの大学を設立しようとし た連合大学設立運動の成果として設立され、その過程における協議や作成された『私案』の影響 を受け、教育目的・学部・学科組織及び学科課程が形成されたことが明らかになった。以下、本 論文の考察結果を概略的に確認しておきたい。
はじめに、第1節で述べたように、大学昇格に際して、仏教系私学では複数の宗派による連合 大学設立の動きと、単独宗派による大学昇格という2つの動きが存在していた。連合大学設立は 単独で大学昇格をすることが難しい宗派が大学を設立するために主張された方法であった。ただ、
連合大学設立運動の問題とされたのは、従来行われてきた宗門独自の仏教教育をどのように取り 扱うのかということであった。また、閉鎖的な状態であった各宗派が合同することができるかも 疑問視されていたことがわかった。
表2 大正大学文学部仏教学科の学科課程
必修科目 単位数 選択科目 単位数 選択科目 単位数
仏教学概論 2 心理学概論 1 西洋美術史 2
仏教学各論 8 倫理学概論 1 日本史特殊講義 2
仏教史 2 教育学概論 1 東洋史特殊講義 2
印度哲学 1 教授法 1 巴
パーリ
梨文学
巴梨語学 2
支那哲学 1 社会学概論 1 西
チベット
蔵文学
西蔵語学 2
西洋哲学 1 西洋倫学 1 宗教哲学 2
宗教学概論 1 東洋倫理学 1
梵文学
梵語学 2 宗教史 2
外国語 一週間
4時間 東洋美術史 2
※国立公文書館所蔵『大正大学(東京)第十六の一冊』47をもとに筆者作成
つぎに、第2節では、実際に大正大学の母体となった3つの仏教系私学である宗教大学、豊山 大学、天台宗大学が専門学校令下ではどのような状態にあり、どのようにして連合大学設置を目 指していたのかを明確にすることを試みた。これら3つの仏教系私学の実状は異なっており、連 合大学設立運動の足並みは大正大学設立直前まで揃わなかったことがわかった。また、三宗派の 仏教系私学は学校としての設備や教育内容が充実していない状態で、こうした現状を打開するこ とを目的として連合大学設置を目指していた。
そして、第3節では、大正大学が設立されるまでの動向及び議論、そして、大正大学の学部組 織・学科課程の変化を分析した。本節では、連合大学設立運動の過程で作成された『私案』が大 正大学の教育目的及び学部・学科組織、さらに学科課程に大きく影響を与えていたことが確認で き、連合大学設立運動の過程で作成された『私案』が大正大学の方針及び組織を形成する根幹と なったと見ることができた。
このように大正大学は連合大学設立運動の一つの成果として設立された大学であり、運動の過 程における協議や言説は、教育目的及び学部・学科組織、学科課程にも反映された。特に宗派を 越えて仏教教育を行うという教育目的は、複数宗派を母体とする大正大学にのみ設定された教育 目的であったと言うことができる。
以上、大正大学は唯一複数宗派によって設立された仏教系私学であるが、では、他の単独宗派 での大学昇格を果たした私学と比較した際、どのような点で違いが見られるのか。そこで、大正大 学の設立事例が他の仏教系私学とは異なることを明確にするために、単独宗派で大学昇格した仏教 系私学の教育目的及び学部・学科組織及び学科課程に焦点を当てて比較してみたい。まず、単独 宗派での大学昇格は、新たな人材養成のための大学教育の必要性が教育目的の中心となっていた。
大正大学設置の動機は、閉鎖的な各宗門における仏教教育の改善であり、仏教の社会化と関連して 仏教以外の学問を教授するという点は単独宗派と共通しているが、閉鎖的な各宗門の性質を打開し、
宗派を超えて一つの大学において仏教教育を行うという教育目的は大正大学独自のものである。
また、学部・学科組織や学科課程に関しては、単独宗派では僧侶以外の人材養成という教育目 的に則して、非仏教的な学科目が多く取り入れられた。大正大学においても仏教の社会化という 目的のもとに非仏教的学科目は取り入れられたが、単独宗派では見られない動向として、宗派を 区別せず仏教教育が行われていた。よって、大正大学が単独宗派で大学昇格した仏教系私学と異 なるのは、大学において宗派という存在をどのように取り扱うのかという課題に取り組み、宗派 によらず仏教教育を行った点にある。つまり、大正大学の設立の意義は、仏教系私学が僧侶養成 特化の教育機関から脱却したというだけでなく、仏教界において複数の宗派がその隔たりを解消 し、共同で教育機関を設立した事例であるという点にあると言えるだろう。
本論文では大正大学の設立母体となった三宗派の仏教系私学と、設立後の大正大学を取り上げ た。連合大学設立運動には当初、多くの仏教系私学が参加の意思を表明していたことに触れたが、
今後は参加の意思は表明したものの設立には同意しなかった仏教系私学や、連合大学設立に当初 から賛同しなかった仏教系私学にも着目する。そして、それらの仏教系私学の動向や大学昇格へ の対応などをさらに詳細に見ることで、大学令下における仏教系私学の連合大学設立運動の位置 付けを明確にしたいと考える。
註
1 六大新報社『六大新報』(第821号、1918年7月13日)1頁。
2 中外日報社『中外日報』(第6028号、1918年10月22日)3頁。
3 中央佛教社『中央仏教』(第3巻第3号、1919年3月1日)21頁。
4 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)33頁。
5 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)34頁。
6 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)25頁。
7 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)26頁。
8 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)30頁。
9 中央佛教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)31頁。
10 中央沸教社『同誌』(第6巻第3号、1922年3月1日)31頁。
11 雨宮和輝「仏教系私学の大学昇格前後に見られる教育理念の相克 ─ 駒澤大学を中心に ─」『関 東教育学会紀要 第43号』(2016年)1
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11頁。12 中央仏教社『同誌』(第6巻第3号、1919年11月3日)37頁。
13 中央仏教社『同誌』(第6巻第3号、1919年11月3日)37頁。
14 中央仏教社『同誌』(第6巻第3号、1919年11月3日)38頁。
15 中央仏教社『同誌』(第6巻第3号、1919年11月3日)38頁。
16 中央仏教社『同誌』(第3巻第9号、1919年9月1日)84頁。
17 中央仏教社『同誌』(第3巻第9号、1919年9月1日)85頁。
18 中央仏教社『同誌』(第3巻第9号、1919年9月1日)85頁。
19 中央仏教社『同誌』(第3巻第9号、1919年9月1日)85頁。
20 中央仏教社『同誌』(第3巻第9号、1919年9月1日)84
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85頁。21 新興社『新興』(第3巻第2号、1920年2月12日)12頁。
22 中外日報社『中外日報』(第5929号、1919年1月22日)1頁。
23 中央仏教社『同誌』(第4巻第5号、1920年5月)96
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97頁。24 天台宗務庁総務局『現行天台宗制規類纂』(1924年)331頁。
25 中外日報社『同誌』(第5832号、1919年1月25日)1頁。
26 中外日報社『同誌』(5830号、1919年1月23日)2頁。
27 中央仏教社『同誌』(第3巻第7号、1919年7月1日)70頁。
28 浄土教報社『浄土教報』(1600号、1925年1月1日)6頁。
29 浄土教報社『同誌』(1608号、1925年3月20日)7頁。
30 各宗教育調査会『佛教各宗派連合大学設立私案』(1922年)8頁。
31 各宗教育調査会『同誌』(1922年)9頁。
32 各宗教育調査会『同誌』(1922年)9頁。
33 中外日報社『同誌』(1923年、1月21日)2頁。
34 智嶺新報社『智嶺新報』(290号、1925年5月12日)17
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19頁。35 六大新報社『同誌』(1093号、1924年12月7日)18頁。
36 浄土教報社『同誌』(1600号、1925年1月1日)3頁。
37 浄土教報社『同誌』(1600号、1925年1月1日)3頁。
38 浄土教報社『同誌』(1600号、1925年1月1日)3頁。
39 浄土宗務所総務局『宗報』(97号、1925年9月25日)10頁
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11頁。40 浄土宗務所総務局『同誌』(97号、1925年9月25日)10頁
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11頁。41 浄土宗務所総務局『同誌』(97号、1925年9月25日)12頁。
42 浄土宗務所総務局『同誌』(105号、1925年9月25日)7頁。
43 浄土宗務所総務局『同誌』(105号、1925年9月25日)8頁。
44 国立公文書館『大正大学専門部(東京)』(請求番号・3
A-
010-
06・01426100)。また、この宗教大 学の教育部は中等教員の無試験検定許可の取扱を受けていることが『大正大学五十年略史』に示 されている。45 図1は『私立宗教大学一覧』(1916年)、『天台宗制規類纂』(1924年)、『豊山派法規類纂』(1920年)、
そして、国立公文書館『大正大学(東京)第十六の一冊』(請求番号・3
A-
010-
04・01286100)を もとに筆者が作成した。46 各宗教育調査会『同誌』(1922年)17頁。
47 国立公文書館『同誌』(請求番号・3