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韓国映画の「植民地もの」における脱ナショナリズムの隘路 : 『軍艦島』の「親日派」表象をめぐって

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Academic year: 2021

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Citation 国際広報メディア・観光学ジャーナル = The Journal of International Media, Communication, and Tourism Studies,26: 3-19

Issue Date 2018-03-20

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/68725

Type bulletin (article)

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam

韓国映画の「植民地もの」における

脱ナショナリズムの隘路

─『軍艦島』の「親日派」表象をめぐって─

北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 学術研究員

芳賀 恵

北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 准教授

玄 武岩

The narrow path to de-nationalisation

of South Korean ‘colonial piece’ films

On the representation of ‘pro-Japanese

collaboration’ in “Battleship Island”

HAGA Megumi, HYUN Mooam

This article examines the narrow path to de-nationalisation in South Korean films dealing with the Japanese colonial period since the 2000s that we call ‘colonial pieces’. Based on Ryu Seung-wan’s “Battleship Island” (Gunhamdo, 2017) situated during Korean mobilization under colonial rule, we argue that it is possible to clarify the style and strategy of visual representation used to replace the dichotomy of victimizers (Japan) and victims (Korea) in recent ‘colonial piece’ films. By focusing on the representation and its stylistic aspects of “Battleship Island” in relation to the empire of Japan through the periodical transition of political, social and cultural meaning, this article explores the way in which these films act on the process of reproducing colonial memories in Korean society and the historical issue between Japan and Korea, as a postcolonial problem of cultural and social politics.

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶1 日本のメディアは映画の封切り前 から敏感な反応をみせた。「反日 映画」と決めつける保守系メディ アばかりでなく、非保守系メディ アも「軍艦島」からの脱出劇とい う物語そのものに異議を唱えたの である。「反日」色が強い予告編 映像や、ポスターの「地獄島」な どの刺激的な文言が引き金になっ たのであろう。封切り後には、『産 経新聞』が「韓国人の反日感情 を強く刺激する作品」だと批判的 に伝えた。さらに菅義偉官房長官 が「史実を反映した記録映画の 類いではない」とコメントすると、 韓国外交部の趙俊赫報道官は、 「かつて数多くの韓国人らが本人 の意思に反し、過酷な条件の下、 軍艦島で強制労働させられたこと は周知の事実だ」と応酬した。 ▶2 パク・ミョンジン「植民地の記憶、 または馴染みない読み方につい て 」『 黄 海 文 化 』2008年 夏 号、 349頁、イ・スンファン「『植民 地近代』の映画的再現を通して みる韓国社会の認識─『青燕』 と『奇談』を中心に」『映画研究』 41号、2009年、107頁、キム・ジ ヨン「情念と近代─映画『奇談』 の植民地時代の再現方式研究」 『韓国文学理論と批評』第54輯、 2012年、371頁、チョン・ヨングォ ン「脱冷戦時代の映画『力道山』 が語らなかったもの─ 世界人 の亀裂とトランス/ナショナリ ズム」『映画研究』72号、2017年、 272頁(以上、韓国文)。 ▶3 平井由紀恵「映画『青燕』をめ ぐるポストコロニアル状況─現 代韓国の大衆文化と「記憶」の 表象」斉藤日出治・高増明編『ア ジアのメディア文化と社会変容』 ナカニシヤ書店、2008年、クォン・ ウンソン「『青燕』─新女性再現 における民族主義とフェミニズ ムの競合」『映画芸術研究』11号、 2007年(韓国文)、イ・スンファ ン「『植民地近代』の映画的再現 を通してみる韓国社会の認識」。

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はじめに─言説としての『軍艦島』

 本稿は、植民地支配下の朝鮮人強制動員を歴史的背景とする韓国映画『軍 艦島』(監督・柳昇完、2017年7月韓国公開)を題材にして、近年の「植民地 もの」映画において試みられた加害(日本)/被害(韓国)の対立構図に代 わる映像表現の様式および戦略と、その試みの限界が浮き彫りにした植民地 の記憶を再現する韓国映画を取り巻くポストコロニアルの文化表象の変容に ついて考察する。本稿では、2000年代以降に製作された、日本帝国の植民地 支配下にある朝鮮半島(日本・中国への拡張を含む)を舞台とする作品を「植 民地もの」、そのうち独立運動や抗日闘争をテーマにする作品を「抗日もの」 と呼ぶ。  韓国映画の「植民地もの」に定型化された(とされる)日本帝国の植民地 支配の歴史表象における加害/被害の構図からの脱却を表明した『軍艦島』 は、映画の表象する歴史的事実をめぐって、韓国社会のみならず、日本をも 巻き込みながら議論を呼び起こした1。「親日」と「反日」、歴史的事実とフィ クションをめぐる議論に巻き込まれ、結果的に興行に失敗したことは、同作 が作品としてという以上に、言説として生産・流通・消費されたことを意味 する。  『軍艦島』は、「軍艦島」の通称で知られる長崎県端島に炭鉱夫として戦時 動員された朝鮮人労働者の集団脱出を描くアクション映画である。端島炭鉱 は、日本と韓国の「徴用工」の表現をめぐる確執のなか、2015年7月に「明 治日本の産業革命遺産」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文 化遺産への登録が決まることで、日韓でともに注目された。こうした歴史的 事実をモチーフにする『軍艦島』は、当初圧倒的な観客を動員したものの、 まもなく、朝鮮人同士の軋轢を浮き彫りにして強制動員における日本帝国の 責任を見えなくするとして批判にさらされた。客足も次第に遠のいた。  韓国映画で「植民地もの」が表象する加害と被害の問題設定については、『力 道山』(2004)や『青燕∼あおつばめ∼』(2005)、『1942奇談』(2007)など いくつかの作品が俎上に乗せられてきた(表1参照)。これら2000年代中盤の 「植民地もの」の活況が示す第1次ブームのナラティブの特徴は、グローバル 市場をにらみ、植民地支配に抵抗する民族的主体であるよりも、個人的欲望 の実践を表明することで、植民地時代に対する既存の再現方式を迂回して脱 歴史化したと一般的に評価される2  その代表的な作品と言える、韓国初の女性飛行士を描いた『青燕』は、自 己実現のために帝国主義に包摂されていく主人公の近代的主体の表象に観客 から批判が向けられた。同作をめぐっては、インターネットを中心に「親日」 論争に巻き込まれ興行に失敗する顛末を、ナショナリズム批判の視点からア プローチした研究がある3。『軍艦島』も『青燕』と類似する現象に遭遇した と言える。しかし『青燕』が製作された第1次ブームと、『軍艦島』が製作さ

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam れた最近の第2次ブームをつくり出す韓国の政治的・社会的・文化的状況は 同じではなく、批判の的となった「親日」の意味も決定的に異なる。  というのも、後述するように第1次ブームと第2次ブームのあいだには、植 民地時代を描く様式の違いが確認できるのである。最近の「植民地もの」は、 独立運動家や抗日武装闘争をテーマにする「抗日もの」が幅を利かせている。 加害と被害、善と悪の対立的構図はアクション映画だけにひときわ強調され るが、注目すべきことは「個人的欲望の実践」としての「親日」ではなく、「民 族の裏切り者」としての「親日派」という新たな植民地時代の対日表象が含 まれていることである。だとするならば、『軍艦島』をめぐる「親日」論争も こうした第2次ブームの文脈から考察されなければならない。  さらには、第2次ブームで「植民地もの」が「親日派」を登場させるのは、 ひとつの様式として定着している。つまり、『軍艦島』に向けられた争点のい くつかは第2次ブームの他の作品にも共通するが、評判に影響するような騒 ぎにはならなかったのだ。したがって、なぜ「親日派」への批判が『軍艦島』 で突出したのかを突き止めれば、韓国映画において「抗日もの」の様式と「親 日派」の表象の行き詰まりが示す、「植民地もの」に交錯する「脱民族」とナ ショナリズムのポストコロニアルの社会的実践を明らかにすることができる。

2

「植民地もの」における脱ナショナリズム

の試み─分析の枠組みと方法

2-1

方法としての「脱民族」─テクストとその文化

的コンテクストからのアプローチ

 韓国において「植民地」は、南北の「分断」とともに民族的悲劇を内面化 するナショナリズムの対象として、映像表現の主要な舞台であった。しかし、 屈辱の時代である「植民地」を映像化するには、それを解放と勝利の物語に 転換する読み替えの方法が必要となる。反共主義の退潮とポストコロニアリ ズムの導入によって、はじめて抗日の歴史を描く条件が整うのだ。  近年の「植民地もの」は「抗日もの」が中心になっていることから、第1次 ブームの「脱民族」の傾向から第2次ブームは「民族主義」に回帰している と言えなくもない。しかし、その延長で『軍艦島』を「抗日もの」としての みアプローチするなら、第1次(脱民族)から第2次(独立運動)への動きを「反 日」の強化としてしか把握できず、この変遷は退行的な現象に映るだろう。 すると日韓の歴史対立による緊張関係が映画産業に飛び火しているという短 絡的な結論へと向かう。だが、第2次ブームの「抗日もの」の要素に含まれ る「民衆レベルの連帯」による「国家への対抗」の視点や「親日派」の表象 の効果について掘り下げれば、2000年代以降の「植民地もの」の表象の様式 が変化し、戦略が多様化していることが見て取れる。  言い換えれば、韓国映画における「植民地もの」は反日ナショナリズムに 呼応して出現したというよりも、「規制」として働いてきた反共主義が緩み、

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶4 グレアム・ターナー『フィルム・スタディーズ─社会的実践とし ての映画』松田憲次郎訳、水声 社、2012年、187-188頁。 ▶5 チュ・ユンタク「映画社会学研 究序説」『映画教育研究』Vol.2、 2000年、291-292頁(韓国文)。 ▶6 「クッポン(国ポン)」とは、韓国 社会における自民族中心主義を 批判・嘲笑する造語で、「国」と 覚せい剤の「ヒロポン」を結合し た表現。ナショナリズムを鼓吹す る映画を「クッポン映画」と呼ぶ が、これは「抗日もの」だけを指 すのではなく、保守政権のもとで 作られた反共映画に回帰する国家 主義にも批判が向けられている。 ▶7 『軍艦島』は公開初日に97万352 人の入場者数で歴代の記録を塗 り替えた。歴代最多の2027のス クリーンで上映され、占有率は 37.1%に達した。上映回数の占 有率は55.3%。こうしたスクリー ンの寡占も批判の対象となり、 興行成績に影響したとみられる。 「封切り初日97万新記録『軍艦 島』…スクリーン『独占』批判も」 『中央日報』2017年7月27日。 植民地時代を描写する方法を手に入れることでブームになったのだ。第1次 ブームでは主体として「民族」より「個人」を、第2次ブームでは悪役として 「日帝」よりも「親日派」を正面に出すことで「植民地もの」は成立するので ある。  だとすれば、「脱民族」の傾向は後退しているのではなく、「植民地もの」 が様式と戦略を手探りしながらも多様なかたちで「脱民族」を実践している、 という仮説を設定することもできなくはない。こうした仮説のうえに立つな らば、第1次から第2次ブームへの様式的変化を政治情勢を踏まえて議論する ことで、『軍艦島』が引き起こした「親日」論争の意味をより立体的に捉える ことができる。そのためには、テクストに焦点をあてるアプローチと、映画 産業のあり方を決定する文化的、政治的、制度的、産業的な要因に注目する コンテクストのアプローチを結合したイデオロギー分析が有効であろう4  大衆文化としての映画は観客への依存度が高いことから、作品のテクスト と受容者の対話的関係がきわめて重要である。映画生産の主体は、監督を含 む製作者、シナリオ作家、撮影はもちろん、芸術としての生産および技術の 構造、作家の知識体系をも含む。そこで映画は必然的に収益性を前提とする 産業的側面に規定されながら、作家とテクストのイデオロギーを共有し、製 作者の経済的目標や監督個人の芸術的ビジョンおよび表現様式をともなうこ とで、歴史的変化のなかで多様な社会的含意を表象するのである5。『軍艦島』 をめぐる一連の事態は、まさしくこうした社会文化的対話の劇的な展開を示 したものと言える。  『軍艦島』は歴史的事実を基盤にし、集団脱出というフィクションをとおし て「抗日」を表現した。しかし、その「抗日」は支配と被支配の二分法で描 かれてはいない。そこに「親日」的な人物や対日協力者を登場させ、むしろ 支配と被支配の構図を揺さぶるのである。このように「脱民族」が底流にあ る第2次ブームの「植民地もの」の特性を十分に意識していたであろう監督は、 封切り前の段階から、自作が従来の「抗日もの」とは一線を画す映画である と公言した。その一方で、予告編には旭日旗を切り裂く場面が含まれること から過剰なナショナリズムを投影する「クッポン映画」ではないかとも疑わ れたように6、『軍艦島』は矛盾するイデオロギー的布置を巧みに活用した。 独立記念日を間近に控えナショナリズムが高まる時期に当てた映画の成功は 確実視された。  それが一転、封切り直後からインターネット上で同作への批判が殺到した 原因は「親日派」の表象を抜きにしては考えられない。『軍艦島』では、日本 帝国の加害のシーンはトーンが抑えられる一方、日本側に協力する朝鮮人の 存在が際立った。朝鮮人同士の陰謀と軋轢が物語展開の主軸となることで、 「反日」どころかむしろ「親日」的であり、「植民史観」を反映しているとい う非難もみられた。主要メディアも批判的な論調で取り上げ、ここに同作を 配給する最大手チェーン企業がほとんどのスクリーンを寡占することが追い 打ちをかけた7  このように『軍艦島』は、一方では第2次ブームとしての「脱民族」の流 れに便乗しながらも、もう一方ではナショナリズムの磁場が映画のナラティ

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶8 ターナー『フィルム・スタディー ズ』188頁。 ▶9 「植民地もの」の第2次ブームで 主要人物に「親日派」の表象が 共通してあらわれるのは、韓国 社会における植民地批判の現状 の反映でもある。歴史問題をめ ぐって日韓の対立が激しくなる 一方、一例として文学研究者朴 裕河の『帝国の慰安婦』が日本 軍「慰安婦」問題において帝国 日本よりも朝鮮人協力者の責任 を強調することで議論が沸騰し たように(朴裕河『帝国の慰安 婦─植民地支配と記憶の戦い』 朝日新聞出版、2014年)、植民 地時代の「内なる敵」は加害/ 被害の境界を揺さぶっている。 また、2013年に帝国軍人であっ た朴正熙元大統領の娘である朴 槿恵が大統領に就任してから、 「親日派」をめぐる議論が再燃 した。「親日派」は現実の政治 問題でもあるのだ。

10 Kevin M. Smith, Vicarious Politics:

Violence and the Colonial Period in Contemporary South Korean Film , The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, Vol. 15, No. 3, June 15, 2017. http://apjjf.org/2017/12/Smith.html. ▶11 チョン・チャンフン/チョン・ スワン「植民地時期を背景にす る映画の商品美学のイデオロ ギー批判」『人文コンテンツ』 45号、2017年(韓国文)。 ブや表象などテクスト内在的に響くこともあれば、映画の批評などテクスト 外在的に作用したりもすることがわかる。『軍艦島』が言説として生産・流通・ 消費されたというのは、映画産業とテクスト、製作過程と受容過程のそれぞ れ両方が何らかのかたちでイデオロギーに関係していることを示すが、それ は映画のテクストとその文化的コンテクストを補完的に扱うことで明確に捉 えることができるのである8

2-2

「植民地もの」のなかの「親日派」─政治美学と

商品美学のイデオロギー分析

 『軍艦島』に対するインターネット上での批判は「親日派」の表象をめぐっ て展開された。同作が製作された「植民地もの」の第2次ブームでは、第1次 ブームでメインのテーマにならなかった独立運動が前景化する一方、日本帝 国と戦うよりも「親日派」という「内部の敵」との対立構図を設定することで、 加害と被害の二項対立を乗り越えようとする。だとするならば、近年の日本 の植民地支配を背景とする韓国映画は、「歴史もの」>「植民地もの」>「抗 日もの」>「日帝の弾圧」>「親日派」という方向で、イデオロギーを取り 除きながら最終審級へと収斂するテーマ性を備えていると言えよう。  「植民地もの」のブームの背後には、日韓関係をめぐる諸問題が強く意識さ れる韓国の政治情勢があると考えられる9。最近の「抗日もの」がイデオロギー を取り除くことで成り立つというのは、韓国映画の「植民地もの」が「抗日」 を表明しながらも、実際はそのアクションが何らかの政治的意味を隠蔽して いることを示す。第1次ブームの『モダンボーイ』(2008)を含め、第2次ブー ムの『暗殺』(2015)、『密偵』(2016)、『ラスト・プリンセス∼大韓帝国最後 の皇女∼』(2016)を中心に「植民地もの」を分析したケビン・スミスは、 これら「抗日もの」の表象に潜む現実政治のイデオロギーに注目する10  スミスは、映画が現実と虚構との溝を拡大させ、政治的に無害なヒーロー による非現実的な物語に回収されることで多様な抵抗の形態を単純化する政 治的効果を指摘する。こうした主張は、植民地主義の残滓と現代の持続する 不平等にどのように関与できるのかについて問題を投げかけるには有効であ る。だが、植民地の状況が暴力シーンに呑み込まれる表象の政治美学の様式 を質すだけでは、韓国映画の生産と消費におけるポストコロニアルの問題は 見失われてしまう。  「植民地もの」の第2次ブームは現実政治に影響されるが、産業的な側面か らも「親日派」の表象は必要とされている。チョン・チャンフンとチョン・ スワンは、『暗殺』および『密偵』に登場する「親日派」の商品美学のイデ オロギーの側面に注目する。「内部の敵」である親日的な人物を中心にナラティ ブが展開することでアクションやスリルのジャンル的文法が実現されるとい うのだ。ここでは、「親日派」は清算されなかった歴史としての「反日」的表 象ではなく、文化産業的にみれば刺激と緊張を維持させるゲーム的リアリティ の力学的装置となる11  そして物語のなかで「親日派」を「処断」することで民族の言説は無菌化 される。そうすれば、「植民地もの」は時代背景としても、人物描写において

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶12 同上、49-54頁。 ▶13 ポール・ドゥ・ゲイ他『実践カ ルチュラル・スタディーズ─ソ ニー・ウォークマンの戦略』暮 沢剛巳訳、大修館書店、2000年、 8頁。 も、そしてジャンル的にも監督の想像力を刺激する空間性に富むことになる。  こうした商品美学からのイデオロギー分析は、「植民地もの」において「抗 日」のナラティブが獲得する文化商品的価値の所在をとおして、表面の歴史 的事実と深層の商品美学との矛盾するイデオロギーの作用を明らかにする。 さらに、最近の「植民地もの」が、歴史解釈の衝突地点に対する美学化を試 みることで、公論空間における社会文化的スキャンダルとしてあらわれると いう指摘は12、のちの『軍艦島』事態を予見している。  しかし、「植民地もの」の文化産業的な誘因は「反日」よりも「脱民族」で あるという本稿の方法的視座からすれば、「抵抗と解放」のナラティブを前 提にするかれらの分析は、矛盾するイデオロギー的布置の別の仕組みを示し ている。したがって、「抗日」と「脱民族」の矛盾するイデオロギー的布置を 究極のかたちで追求した『軍艦島』が、受容者の能動的な社会的実践に遭遇 し「親日」論争に陥ったことについての有効な説明は見出せない。  重要なのは、「植民地もの」を構成する政治的・社会的・文化的な諸力の せめぎ合いが、ブームを構成する作品群をどのように方向づけ、意味を生産 しているのかを明らかにすることである。ポール・ドゥ・ゲイらが指摘する ように、送り手が作品にどんな意図を込めたのかというような生産のプロセ スの一面をもってみるだけでは、文化的産物の分析は不十分である。したがっ て本稿では、韓国映画における「植民地もの」「抗日もの」が流通するメカニ ズムを考察するにあたり、文化の意味の生産と交換が行われる、表象・生産・ 消費・規制・アイデンティティの5つの「文化の回路」から分析を試みる13  以下では、韓国映画を取り巻く文化産業やナショナリズムの磁場にある『軍 艦島』のテクストとコンテクストを、「植民地もの」ブームの変遷(縦軸)と 同時期の他の作品との対比(横軸)をとおして考察する。具体的には同作で「親 日派」が最終審級となる「植民地もの」の表象の問題を、第1次や第2次の他 の作品と比較しながら示し、それがどのように生産・消費・規制・アイデンティ ティの「文化の回路」を縦横しながら増幅し全体の構造に影響しているのか を明らかにする。  その前に「親日派」について定義しておこう。政治的な意味での「親日派」 は、日韓併合条約(1910年)に加担して授爵した政府高官、日本統治時代に 一定以上の職位についた官僚・軍人・警察、戦争遂行のために献金した企業 家、率先して戦時動員のプロパガンダを行った知識人など、帝国日本の支配 に積極的に協力した反民族行為者を指し、とくに独立運動を弾圧するなど民 族構成員に危害を与えた者を民族反逆者と称す。  次節で詳述するように、第1次ブームで「親日」と批判された主人公は、 自己実現のために無意識的に帝国へ包摂される存在であり、厳密には「親日 派」とはいえない。反面、第2次ブームに登場する対日協力者は、意識的に 出世のため独立運動を弾圧する民族反逆者といえる。本稿では「植民地もの」 における「親日」論争に重点をおくため、政治的定義とは離れて、意識的か 無意識的かにかかわらず日本帝国に迎合するという広い意味で「親日」「親日 派」を使用する。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶14 クォン「『青燕』─新女性再現 における民族主義とフェミニズ ムの結合」。 ▶15 韓国映画で反日闘争を可視化す る映画は、1945年解放直後の 「光復映画」や1960年代の「満 州アクション映画」にさかのぼ ることができる。これらの作品 は、日本軍に対抗して武装闘争 を展開する韓国人の英雄的な戦 いを反復することで民族主義を 発現する「抗日映画」として、 本稿のテーマである「植民地も の」「抗日もの」とは区分する。 「満州アクション映画」につい ては、アン・ジンス「満州アク ション映画の模糊たる民族主 義」『満州研究』8号、2008年12 月(韓国文)参照。もちろん、 一例として、作家の梶山季之の 同名の小説を映画化した『李朝 残影』(監督・申相玉、1967年) や『 族 譜 』( 監 督・ 林 権 澤、 1978年)など、植民地時代を描 いた優れた韓国映画と評価され る作品もある。川村湊「解説 梶山季之『朝鮮小説』の世界」 川村湊編『李朝残影−梶山季之 朝鮮小説集』インパクト出版社、 2002年、331頁。

3

「植民地もの」とナショナリズムの磁場

─『青燕』と『軍艦島』のあいだ

3-1

.脱ナショナリズムとしての第

1

次ブーム

 第1次ブームの「植民地もの」として研究者の注目を集めた『青燕』は、 植民地という政治的・民族的意味を転覆するかのように、民族的主体を通り 越し個人的主体に焦点を当てた。同作は、立ち向かうべき支配的構造が植民 地主義ではなく家父長制であり、それが帝国主義に包摂される主人公の表象 が「親日」フレームに巻き込まれる原因になったとして、とくにフェミニズ ムの視点から批判が向けられた14 ■図1 『青燕∼あおつばめ∼』 ©コリアピクチャーズ  1990年代末からの韓国映画のニュー・ウェイヴは、2000年代に入り、植 民地という時代性をアクションや伝統・貧困のバックグラウンドとしてのみ 設定する過去の作品とは異なる15、「植民地もの」と言える領域的傾向性を生 み出した。植民地時代を支配と被支配の暴力的構造としてナラティブに組み 込みながら、SF・アクション・日常・ミステリー・コメディなど多様なジャ ンルの作品が作られた。  すると『青燕』に「親日」批判が向けられたのは、「植民地もの」という領 域的範囲が確立されていく過程で起きた出来事だといえる。つまり『青燕』は、 「抗日」よりも、植民地時代を生きる主人公の民族的・個人的葛藤を描写す る表象の可能性と戦略の必要性を指し示した作品なのである。  ただ、『青燕』の主人公は個人の夢を追いかけながらも、否応なく独立運 動に巻き込まれる。同時期の作品として、日本で奮闘する朝鮮人武道家を描 いた『力道山』や『風のファイター』(2004)もまた自己の成功のために日 本へ包摂されていく存在でありながらも、民族としての意識を失うわけでは ない。すると、第1次ブームの「植民地もの」の特徴を、「民族を越えない範 囲で個人にフォーカスする脱民族的なナラティブ」として位置づけることが できるだろう。このように韓国の「植民地もの」は、民族問題にとらわれな

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶16 日本帝国の支配と被支配の暴力 構造を、より巨大な戦争の暴力 のなかに取り込み、二人の青年 がスポーツ(マラソン)によっ て結ばれる「民族を越えた友情」 という同作のテーマは、観客を 納得させることはできなかっ た。日本人と朝鮮人の葛藤の描 き方が不十分で、和解に至る過 程が説得力を欠いたからである との分析もある。カン・ソンリュ ル「日帝強占期背景映画の脱植 民主義的読解─ファノンによる 『マイ・ウェイ』と『暗殺』分析」 東国大学映像メディアセンター 『シネフォーラム』22号、2015 年、479-483頁(韓国文)。 がらも、脱ナショナリズムの流れとともに始まったのである。  『青燕』の「脱民族」的な登場人物の表象が批判されたことは、受容のレ ベルにおける韓国社会のナショナリズムの発現といえる。しかしそれよりも 重要なことは、第1次ブームの「植民地もの」が、「抗日もの」としてではなく、 多様なジャンル的特性を備えてあらわれたことである。そして第1次ブーム は、植民地時代を再現する方法と戦略を確立しえないまま、受容者に見放さ れて方向性を見失っていく。それを象徴するのが、巨額の製作費を投入した 『マイウェイ∼12000キロの真実∼』(2011)の興行的失敗であろう16  すると第2次ブームは必然的に、「抗日もの」としての影が薄く、支配と被 支配の植民地構造における人物表象の戦略が不在であった第1次ブームに対 するアンチテーゼとして展開しなければならなかった。第2次ブームの「植 民地もの」は主要人物が帝国主義と熾烈な戦いを展開するが、同時に第1次 ブームとは違うかたちで加害/被害の対立構図からの脱却を表明する。 第1次ブーム 2000〜2011年 製作年 動員数 (万人)第2次ブーム 2015〜2017年 製作年 動員数 (万人) アナーキスト 2000 23* 京城学校〜消えた少女たち〜 2015 35 ロストメモリーズ 2001 85* 隻眼の虎 2015 176 爆烈野球団! 2002 56* 暗殺 2015 1270 風のファイター 2004 144 愛を歌う花 2015 48 力道山 2004 101 鬼郷 2015 358 青燕 〜あおつばめ〜 2005 49 雪道 2015 13 1942奇談 2007 64 空と風と星の詩人 〜尹東柱の生涯〜 2016 117 ラヂオ・デイズ 2007 21 密偵 2016 750 グッド・バッド・ウィアード 2008 668 ラスト・プリンセス 〜大韓帝国最後の皇女〜 2016 559 ワンス・アポン・ア・タイム 2008 154 モダンボーイ 2008 76 お嬢さん 2016 428 史上最強スパイ Mr.タチマワリ 〜爆笑世界珍道中〜 2008 62 朴烈 2017 235 軍艦島 2017 659 影殺人 2009 189 アイ・キャン・スピーク 2017 326 マイウェイ〜12000キロの真実〜 2011 214 大将 金昌洙 2017 36 ※ 日本発売がないものは原題を日本語訳した。植民地時代を背景とする映画ではないが、『アイ・キャ ン・スピーク』は元日本軍「慰安婦」が主人公であり、『大将 金昌洙』は独立運動家の金九の 青年期を描いたものであるため、「抗日もの」として表に含めた。 ※ 動員数は、韓国映画振興委員会傘下の映画館入場券統合電算網(KOBIS)のまとめによる(10000 人未満は切り捨て)。2004年以降は発券統計、それ以前は韓国映画年鑑の統計。2000∼02年 の*印はソウルのみの動員数。 ※KOBISのホームページアドレスはhttp://www.kobis.or.kr(最終参照日:2017年10月28日)。 ■表1 2000年代以降に製作された主な「植民地もの」

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.加害/被害の構図を越える第

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次ブームの新たな様式

 第1次ブームの「親日」論争の中心にあったのが『青燕』ならば、第2次ブー ムの論争の中心にあるのが『軍艦島』である。第1次ブームでは「抗日もの」 は周辺的で、『青燕』も同様であった。『軍艦島』は第2次ブームの中心であ る「抗日もの」として名乗りを上げた。二つのブームの特徴的な差異のひと つが「抗日」のナラティブである。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ▶17 「日韓、単純な「善悪」構造で なく─『ラスト・プリンセス─ 大韓帝国最後の皇女─』」『The Asahi Shimbun Globe』2017 年 6 月 24 日、http://globe.asahi.com/ news/2017061700001.html  独立運動をテーマにする『暗殺』(2015)、『密偵』(2016)は必然的に日本 帝国と独立運動勢力との対立のシーンが随所にあらわれる。『空と風と星の 詩人∼尹東柱の生涯∼』(2016)、『朴烈』(2017)は人名をタイトルにしてい るように、植民地暴力に個として立ち向かう一人ひとりの生き方に焦点を当 てるが、独立運動家として名をはせた人物たちだ。『ラスト・プリンセス』は、 史実とは違って抵抗的要素を加味したことが歴史の再現をめぐる議論を呼び 起こした。  日本軍「慰安婦」をテーマにした『鬼郷』(2016)はクラウド・ファンディ ングによって製作された。原作のミステリーの背景を日本支配下の朝鮮半島 に移した『お嬢さん』(2016)のように「抗日」の要素が希薄なものもあるが、 第2次ブームの「植民地もの」の多くは「抗日」が前景化していることが見て 取れる。しかしそのことは、「抗日」が第2次ブームのテーマであることを意 味しない。  「抗日もの」の口火を切った『暗殺』は、日本の軍人や「親日派」をターゲッ トにして京城(ソウル)の中心部で繰り広げる武装闘争に日本人アナーキス トとも「連帯」し、現実では果たせなかった「親日派」の処断で結末を迎える。 しかし同作の主題は、「抗日」よりも「親日派」によって導かれる。対立の構 図は対日抗争よりも「内部の敵」との戦いによって築かれるのだ。こうしたテー マ性は、日本帝国の警察官となって独立運動を弾圧する朝鮮人の分裂するア イデンティティを描く『密偵』で、より鮮明に打ち出された。  武装闘争する「抗日もの」ではない、個々の人生を題材にした『空と風と 星の詩人』『朴烈』では加害と被害の対立がその生き様によってくっきりと刻 まれながらも、それゆえに錯乱も起こる。『空と風と星の詩人』で主人公の詩 人尹東柱の才能を高く評価し、詩集の出版に奔走するのは日本人である。『朴 烈』は日本人の金子文子がヒロインであるだけでなく、法廷で二人のために 熱弁をふるう弁護士も、刑務所を激励に訪れる者も日本人である。検事も善 良な人として描かれ、悪辣な刑務所長も徐々に主人公らに心を寄せる。『ラ スト・プリンセス』のホ・ジノ監督は『朝日新聞』のインタビューで「日本 が悪で韓国は善だという単純な構造では描きたくはなかった」と語っている ように、同作で直接的な「悪役」は朝鮮人であり、日本の登場人物は一貫し て「悲運の皇女」を思いやるのだ17  だとすれば、「抗日もの」が幅を利かせる「植民地もの」の第2次ブームを、 「生産」の面においてナショナリズムへの回帰として断定することは妥当では ない。第1次ブームの特徴が、さまざまなジャンルを装いながらの「民族を 越えない範囲で個人にフォーカスする脱民族的なナラティブ」であるならば、 第2次ブームのナラティブの特徴は「独立運動をテーマにしながらも、支配 者側と被支配者側の連帯・共感・反転をとおしてその対立的な構図を揺さぶ る」、とすることも可能であろう。  『軍艦島』も『暗殺』『密偵』と同様、「親日派」を重要なテーマとして扱っ ている。抗日的要素が少ない『愛を歌う花』(2015)も、ライバル歌手への 復讐のため朝鮮総督府警務総監の妾になる主人公が解放後に「親日派」とし

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam て糾弾される。この「親日派」と、その合わせ鏡としての「良い日本人」(「日 朝民衆の連帯」)が第2次ブームの「植民地もの」のキーワードとして、第1 次ブームと区別される「親日」論争のもうひとつのポイントである。  以上、2000年代以降の韓国映画における「植民地もの」を第1次ブームと 第2次ブームに分け、それぞれのナラティブの特徴をあぶり出した。次節で は『軍艦島』が何をどのように描いたのかを、とりわけ「親日派」に注意を 払いながら分析し、植民地時代を描く映画の生産と消費が、一方では新しい 表象の様式を求めながらも、ナショナルなアイデンティティを傷つけること で規制が作動する様相について考察する。 ■図2 『暗殺』 ©ケイパーフィルム ■図3 『密偵』 ©ワーナーブラザー ズコリア、映画社クリム

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「親日」によって崩れ落ちた『軍艦島』

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.表象─失敗に終わった「親日派」の表象戦略

 終戦間際の1945年、京城の楽団長イ・ガンオクは仕事があるという話に乗 せられ、幼い娘ソヒを連れて日本に渡る。ところが、実際は端島で働く炭鉱 夫を甘言を弄して集めていたのだった。端島行きの船には、ソウルの繁華街 一帯を仕切るやくざの親分チェ・チルソン、中国で慰安婦として働かされて おり端島では遊郭に送られるオ・マルニョンらも乗っていた。甘言や詐欺に よる連行は朝鮮人戦時動員の「強制性」をめぐる近年の研究状況に符合する。  朝鮮人用の宿舎や仕事場となる海底炭鉱の環境は劣悪である。坑道は立ち 上がれないほど狭く、ガス爆発や落盤による死亡事故も頻発する。耐えかね て島からの逃亡を試みた労働者は脱出中に撃ち殺されるか、捕まって溺死さ せられる。映画の宣伝用ポスターや予告編で「軍艦島」は「地獄島」と形容 されており、そうした過酷な状況は手加減抜きに描かれているといえよう。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam ■図4 『軍艦島』のポスター。前列左からチルソン、ガンオク、ソヒ、ムヨン、 マルニョン。 ©外柔内剛  炭鉱会社の幹部の日本人は朝鮮人労働者を虐待する。ガンオクは娘を守る ため日本人幹部の機嫌をとるのに必死だ。ここでは支配者に従順な態度を見 せることで生き延びようとする被支配者の戦略が表現されている。他方、朝 鮮人労働者が直接的に対立する相手には朝鮮人が配置される場面が多い。ミ スをしたり指示に従わなかったりした労働者に暴力を振るうのは労務係のソ ン・ジョングである。ジョングの強圧的な態度に反発したチルソンは浴室で 戦いを挑んで勝利し、一度は主導権を手中に収めるが、帝国の暴力の代行者 であるこの「内部の敵」との対立関係は、物語の一方の軸となる。  物語を構成する主要人物のなかにはもう一人の「内部の敵」がいる。労働 者の精神的支柱である独立運動家イトウことユン・ハクチョルである。ハク チョルは映画の前半では朝鮮人の待遇改善を会社側に申し入れるなど同胞の ために尽力する人物として描かれ、この人物を救出するために光復軍所属の OSS(米戦略事務局)要員カン・ムヨンが島に潜入する。ところが、ハクチョ ルは裏で日本人と結託して朝鮮人労働者の給与の一部を着服していたのだ。 「同志」から「裏切り者」への180度の反転は、まさしく物語に刺激と緊張を もたらす装置である。  ハクチョルの存在は、「親日派」という同作のテーマ性を明確に示すはず であった。しかしその試みは失敗したと言わざるをえない。というのも、ハ クチョルにしても労務係のジョングにしても、なぜ彼らが親日行為を行って いるのかの必然性がまったく示されていないのだ。『暗殺』では、元独立運 動家であった「親日派」の転向せざるをえない理由が述べられ、『密偵』で も主人公は権力に迎合しながらも、独立運動の手助けをするといった葛藤が 表現されていた。  ところが『軍艦島』は「親日派」を最大の敵に据えながらも、それはただ 日本帝国の暴力を代行するにすぎない。こうした戯画的で表面的な「親日派」 の描き方は、そのテーマ性の意味をそぎ落とし、逆に後述する「劣等な朝鮮人」 「悪いのは同じ朝鮮人」の言説を補強する役割を担うのである。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam  さらに言うならば、『軍艦島』をめぐる「親日」論争の本質は「親日派」の 存在そのものではない。「親日派」は「処断」すればよいが、そこには容易に は断罪できないものがあるのだ。「内面化された植民地主義」である。これは 戦後清算できなかった「親日派」以上に今日の歴史認識の根底にある精神状 態として韓国社会を縛りつけている。「親日派」が清算できなかったコロニア リズムの問題だとすれば、いわゆる「植民史観」は継続するポストコロニア ルの問題なのだ。  「植民史観」は以下のような台詞にあらわれる。日本の敗色が濃厚になると、 炭鉱会社は口封じのため、朝鮮人たちを坑道に閉じ込めて爆破しようと企て る。これに気づいたムヨンが皆を集めて島を脱出する計画を打ち明けると、「日 本人はわれわれよりも意識の高い人たちだから、話し合ってみたらいいじゃ ないか」と言い出して脱出をためらう者が出てくる。これに対しガンオクは「だ から朝鮮の性分はダメなのさ。(中略)四六時中踏みにじられて生きてきたか ら、へつらうのが当たり前になったんじゃねえのか」とたしなめる。  この場面は同胞間の葛藤を描きながら、被支配の地位を甘んじて受け入れ る「奴隷根性」に対する自己批判とも解釈できる。ところで問題は、「朝鮮の 性分」という自虐的な表現は、「民度が低い」劣った存在だとする支配者の 論理を内面化していることにある。前述の「日本人は意識が高い」という台 詞のように、植民地主義的な劣等意識を内面化させた人物に自虐的表現を繰 り返し語らせるのである。  さらに、マルニョンが「慰安婦として送り出したのも朝鮮人の面長(町長 に相当─引用者)で、部隊が退却する際逃げた私を捕まえてここに送ったの も朝鮮人の抱主」だとして朝鮮人への不信感をむき出しにする言葉は、「慰 安婦」動員の朝鮮人仲介業者の役割に対する論争状況を参照した現在の価値 観の投影であろう。日本軍「慰安婦」問題における争点を安易に歴史的事実 として映像化しているのだ。  一方で、日本人と朝鮮人の直接的な対決を注意深く避ける意図は一貫して いる。日本人所長シマザキの命を奪うのは所長の座を狙う日本人ヤマダで、 「親日派」のハクチョルを「処断」するのはムヨンである。ムヨンはハクチョ ルに対し「民族の敵と内通し指導者のふりをして民衆を欺いた罪で、貴様の 反民族行為を朝鮮の名において処断する」と通告して処刑を実行する。片や、 日本人と朝鮮人が入り乱れて銃撃戦を繰り広げる集団脱出シーンでは双方に 多くの死者が出るが、ここで日本側の加害者はいわば「顔の見えない」存在 であり、日本と朝鮮の対立構造における憎悪は捨象される。  「親日派」の断罪は、第2次の「植民地もの」の二項対立を越える様式では 儀式としてついてまわる。しかし『軍艦島』の「内部の敵」は、ハクチョル のように可視化された「親日派」ではなく、内面化することで見えなくなっ た「悪いのは同じ朝鮮人である」という言説であった。このように悲劇の原 因が「親日派」、あるいは朝鮮人同士の軋轢にあることを示す表現を多用した ことが「植民史観」を反映しているとして『軍艦島』は批判にさらされる。「内 部の敵」は「民族の名の下」に「処断」されたものの、集団脱出の快感によっ ても「悪いのは同じ朝鮮人である」という不気味さは解消されなかった。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam  『軍艦島』の二項対立を越える方法は無菌化されることなく観客の心に澱 んだのだろう。こうした反応が「親日映画」や「歴史歪曲」との表現をともなっ てネット上にあふれ、それにメディアも追従することで同作に対する批判的 な評価が拡散していった。柳昇完監督が「『親日』によって崩れ落ちた」と 語る事態が展開するのだ18

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.生産─二項対立からの脱却と「愛国マーケティング」

 『軍艦島』の表象分析で明らかになったように、演出は加害/被害の構図 を越えることを強く意識している。「親日派」のキャラクターが際立つものの、 それだけではない。日本帝国の暴力におびえる朝鮮の民衆は、生き残るため に諦念し、順応し、変節し、裏切るという多面的な群像をあらわすのだ。  こうした多面的な群像は、もとより監督が意図したところであろう。封切 り直前の7月19日のメディア試写会で、柳監督は「軍艦島の資料を調べてみ ると、悪い日本人、良い朝鮮人だけがいたのではなかった」としたうえで、「こ うした素材を二分法的にあるいは左右の論理をもって刺激的に表現すること がむしろ歴史を歪曲するには都合の良いやり方」だとして、同作が支配/被 支配の構図を越える作品であることを強調した。  封切りの前月には完成報告会(6月16日)および3000人が参加する大規模 な公開前イベント(6月26日)が開かれた。公開前イベントで監督は「反日 感情・民族主義の情緒を刺激して宣伝・扇動する、興行のための映画にみら れないよう注意した。歴史のなかの個人に重点をおいた」と語った。それに 先立つ完成報告会では、監督は「ドキュメンタリーではなく、サスペンスや 迫力など映画的快感を重視した映画」であると語っている。日本の記者から 同作が日韓関係に及ぼす影響について問われると、「言うべきことは言わなけ ればならない」としながらも「極端な民族主義に寄り添うようなクッポン映 画ではない」と強調し、映画が公開されれば日韓関係への懸念はなくなるだ ろうと述べた。  このように監督らは、関心の高い歴史問題をテーマにしながらも、映画は あくまでも創作物であることを唱えた。7月19日の試写会で監督が「痛ましい 歴史を伝えることも目的のひとつだが、それが第一の目標ではない」と語っ たのも、同作が「民族の物語」に回収されることを危惧し、スペクタクルも のであることを打ち出すねらいであっただろう。  そうした発言とは裏腹に、予告編の映像は、旭日旗が引き裂かれるなど「反 日」をむき出しにする。「軍艦島全国民知らせ隊結団式」と銘打たれた先の 公開前イベントでは、映画を歴史の記憶と結びつける仕掛けがふんだんに用 いられた。「軍艦島を忘れないでください」を合言葉に、俳優たちは巨大な 垂れ幕を掲げ、バッジや腕輪などのグッズも登場した。アパレル会社と手を 組んでTシャツを製作し、収益金を長崎の平和関係団体に寄付するキャンペー ンも展開した。  娯楽映画であることを強調した監督らの事前の発言とナショナリズムに訴 える「愛国マーケティング」は矛盾するが、このような一見ちぐはぐな宣伝 活動は結果的に裏目に出る。公開された映画では、事前には言及されていな ▶18 「映画『軍艦島』柳昇完監督─「親 日」によって崩れ落ちた」『デ イリアン』、2017年8月7日(韓 国 文 )、http://www.dailian.co.kr/ news/view/651260

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam かった「親日派」の存在が際立ち、朝鮮の民衆は分裂的な存在として表象さ れた。これは、「歴史もの」>「植民地もの」>「抗日もの」>「日帝の弾圧」 >「親日派」の構造の最終審級としての「親日派」が民族反逆者として「処断」 されたところで解消されるものではなかった。  商品美学からすれば、「親日派」は「反日」的表象ではなく、刺激と緊張 を維持させるゲーム的リアリティの力学的装置となると先に述べたが、同作 は政治美学をもってマーケティングに活用した。つまり、マーケティングに おいては政治美学に依拠し、作品においては商品美学を追求したことが、齟 齬をきたすことになったのだ。

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.消費─朝鮮人強制動員が映像化されることへの期待

 これまで、韓国の商業映画で植民地時代の強制動員を扱うものは製作され てこなかった。戦時の朝鮮人強制動員については、日本政府だけでなく韓国 政府も1965年の日韓協定によって解決したという認識であった。  それが、新日本製鉄(現新日鉄住金)・三菱重工業を相手取って起こされ た損害賠償請求訴訟で、2012年に韓国の大法院(最高裁)が原審を破棄し て原告の一部勝訴判決を下すことで、歴史問題として新たに浮上した。こう して強制動員の問題が浮上し、端島炭鉱の世界遺産登録における「徴用工」 の表現をめぐって日韓が対立するなか「軍艦島」の存在が知られはじめるが、 それまで強制動員への関心は低かったのである。  端島炭鉱の世界遺産登録に対する韓国側の問題提起を非難してきた『産経 新聞』が2017年2月8日に早くも製作中の『軍艦島』を批判したように、この 時期にはすでに同作は話題となっていた。製作者側もそうした雰囲気を活用 しないはずはなく、積極的に「愛国マーケティング」を展開した。ブロック バスター映画としてナショナルな感情に依拠するのは興行の成功を保証する ひとつの公式でもある。  ところがいざ公開されると、予告編にあった旭日旗を引き裂くシーンは脱 出にロープが必要になったからであって、積極的な抵抗の意味よりも脱出の ■図5 『軍艦島』の旭日旗を引き裂く場面。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam 道具として活用する消極的な意味と受け止められた。同作には日本の強制労 働の厳しさや、搾取や暴力など日本人の残虐性をあらわす場面は少なくない。 しかし悲劇の島として「軍艦島」が描かれるよりも、創作であるクライマッ クスの集団脱出こそが最大の見せ場なのだ。監督が得意とするアクション場 面のために悲劇の歴史がただ利用されているだけではないか。こうした疑問 を突き付けられた『軍艦島』は、まず「抗日もの」を期待した観客に失望さ れることになる。

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.規制─日本市場への忖度

 『軍艦島』をめぐる言説にはナショナリズムにもとづいた「規制」の影響が 指摘できるが、ここでは映画の表象から窺える「日本市場への忖度」という「規 制」を検討する。  『軍艦島』は製作段階から日本側に牽制されたように、言説として流通した。 グローバル市場をも視野にいれる映画産業からすれば、日本の反応は無視で きない。だとすれば、同作が「反日映画」でないことを示すのは重要である。 近年の「植民地もの」における「脱民族」の傾向は好都合であったと言える。  完成報告会で監督が「映画が公開されれば日韓関係への懸念はなくなる」 と語ったのは、言説としてはともかく作品としては一方的に日本を糾弾する ものではないことの自信のあらわれであろう。それは、言い換えれば、「反日」 の表象の抑制もまた「植民地もの」において「規制」として働いているとい うことでもある。  「抗日もの」の属性上、「反日」の表象を排除することはそもそもできない。 それでも「親日派」を登場させ、対立構造の軸を帝国支配から朝鮮人同士に ずらすことで加害/被害の二項対立を越えて「反日」は回避できるのだ。こ のような物語構成は日本市場を忖度したものでもあろう。  ヒロインのオ・マルニョンを演じたイ・ジョンヒョンは封切り前のインタ ビューで「日本がすべて悪い、と言わないのが気に入った。実際の歴史をみ ても朝鮮人が同じ朝鮮人をだますこともある」と語ったことが19、監督の自信 を裏付ける。  近年、韓国の文化商品が日本で広く受け入れられる状況で、「反日映画」 に出演すれば日本でのイメージに影響する。これまでも歴史問題や領土問題 に関するイベントに参加した韓国の芸能人が日本で非難されることはたびた びあった。実際、『軍艦島』も日本でのイメージを考慮して出演を断られるこ ともあったという。第2次ブームの「植民地もの」には日本人俳優も多く登場 するが、『軍艦島』ではそれが叶わなかった。

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.アイデンティティ─受容者の要望と製作者の応答

 「親日映画」との批判を受けてから柳監督は釈明に追われる。封切り直後 の7月28日に監督は「映画『軍艦島』に関連する日本の意図的な歪曲につい ての立場」と題する報道資料を発表し「日本がいまだに自らが犯した戦争犯 罪と清算されていない暗い過去に向き合う準備ができていないことに失望を 禁じえない」とコメントした。さらに「私が取材した事実にもとづいて当時 ▶19 「イ・ジョンヒョン、『軍艦島』 1000万突破よりも大事なこと は」『韓国経済新聞』2017年7月 27日。

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam の朝鮮人強制徴用の惨状と日帝の蛮行、そして日本に寄生した親日派の反人 倫的行為を扱おうとした」とも述べるにいたる。  それでも『軍艦島』への「親日」批判はやまず、監督は新聞や放送局のイ ンタビューに相次いで応じて火消しをはかった。インターネット新聞『オー マイニュース』のインタビューでは「親日派という表現はわざと使わなかった」 と弁明している20。実際、独立運動家のハクチョルが「親日派」であるとい う反転はナラティブの重要な要素であるので、事前にそれを伝える必要はな かっただろう。封切り前から「悪い日本人、良い朝鮮人だけがいたのではなかっ た」としていることからも一貫性は窺われる。『韓国経済新聞』のインタビュー では「『親日映画』という解釈は不当」だとしたうえで「映画の親日清算の意 志は明らか」であると訴えた21  ところが柳監督の発言は徐々に「過激」になる。『ノーカットニュース』の インタビューでは、戦後の韓国で「親日派」の清算に失敗したことを取り上げ、 「それを覆い隠そうとするから、もっと語らなければならない」と述べた22 民放SBSのインタビューでは「私はこの映画を通じて植民地支配の痛みがど こから始まり、どのような過程をへているのかを描き、健康的な議論が行わ れることを期待した」と語った(8月13日)。このニュースのタイトルが「柳 昇完はなぜ『軍艦島』で親日清算を叫んだのか」であるように、メディアも『軍 艦島』が当初から「親日派」の清算をテーマにした映画であったかのように 伝えた。  こうした監督の対応は、『軍艦島』が「親日映画」であり「歴史を歪曲」し ているという非難を防ぐ必要に迫られたからにほかならない。監督だけでな く、「日本がすべて悪い、と言わないのが気に入った」と言って批判を浴びた イ・ジョンヒョンも、銃を手にとって戦う自らの役柄について「ワンダーウー マンのように素敵」としていたのが、「慰安婦被害者が銃を撃ちまくるのが痛 快」と語るようになる。  『軍艦島』が「親日」論争に巻き込まれて監督が釈明に追われる事態は、「植 民地もの」や「抗日もの」の対日表象に対する受容者の厳しいまなざしが根 強く存在していることを露わにした。「親日」論争に巻き込まれた監督や出演 者は、そうしたアイデンティティの要望に応えて、民族的主体であることを 表明しなければならなかったのである。

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おわりに

 第2次ブームの他の「植民地もの」がその最終審級において、「親日派」の「改 心」や日朝民衆の「連帯」を示すことで「内部の敵」という異和を払拭する ものであるならば、『軍艦島』は「親日派」を表象することの目的意識を欠い たまま集団脱出のスペクタクルが展開することで、強制動員の歴史はアク ション映画としてのみ消費された。それにともない各審級の連結方式の関係 ▶20 「柳昇完 たやすい方向にいくの は扇動 、再び作っても同じ選択 を」『オーマイニュース』2017 年8月8日、http://star.ohmynews. com/NWS_Web/OhmyStar/at_pg_ w.aspx?CNTN_CD=A0002349030 ▶21 「柳昇完監督『軍艦島』は現在 進行中、日本政府の意志を破る」 『韓国経済新聞』2017年8月1日。 ▶22 「柳昇完監督が明らかにする『軍 艦島』の誤解と真実」『ノーカッ ト ニ ュ ー ス 』2017年8月16日、 http://www.nocutnews.co.kr/ news/4831615

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芳賀   恵・玄   武岩 HA GA M egumi, H YUN M ooam 構造が崩れることで、解消されない違和感が残り、結果的に「歴史歪曲」と して批判されたのが『軍艦島』をめぐる出来事であったと言える。  一方では「反日映画」と牽制され、もう一方では「親日映画」との批判に さらされたアイロニカルな状況は、「抗日もの」が主流でありながらも、加害 /被害の二項対立を越えようとする第2次ブームの日本帝国を表象する様式 と戦略の模索が壁に突き当たったことを意味する。『軍艦島』の興行の失速は、 「親日派」をとおして植民地時代における民族内部の矛盾や葛藤を描き出す 方法に、より慎重で深い問題意識が求められることを指し示したのである。  柳監督は先の『韓国経済新聞』のインタビューで「親日映画」という評価 の不当性を訴えながら、劇中の「親日派」がみな悲惨な最期をとげることを その根拠としてあげた。娘のために日本人にすり寄りながらものちに抵抗の 姿勢を鮮明にするガンオクまでが死を迎えることをもって「親日清算の意志」 の表明だとするなら、多様な「親日派」の群像を示した意図がどこにあるの かわからなくなる。監督の発言は、「親日派」はすべて抹殺されるべき存在で あるということに等しいからだ。  これでは結局、「民族」を善、「民族の裏切り者」を悪とする二分法に陥っ てしまう。実際、同作の戯画的で表面的な「親日派」の描き方は、監督の意 図にかかわらず善悪の二分法を補強したと言える。こうした曖昧な帝国主義・ 植民地支配への視点をもって朝鮮人強制動員を扱ったことが、歴史的事実を 朝鮮人の集団脱出というスペクタクルに読み替える表象のアクロバティズム とは釣り合わなかったと言えよう。  史実や実話を題材とする韓国映画を分析した野崎充彦は、現代韓国映画の 傾向を「『価値観の相対化』であり、『韓国史の再検討』であり、それが必然 的にもたらす『歴史正義』や『社会正義』実現への強烈な希求」であると分 析している23。換言すれば、韓国映画はそれが生産される段階から歴史や社 会の「あるべき姿」「理想的な姿」を追求しているのである。「あるべき姿」 の追求は消費者(観客)のアイデンティティにもとづく期待や要望の反映で もあり、映画は各種の規制のあいだを揺れ動きながら多様な表象を生み出そ うと模索を続けている。  本稿は、「植民地もの」の韓国映画における表現様式と表象戦略がいかに 変化し、いかなる意味を生み出したのかを、日韓の歴史問題をめぐる政治的・ 社会的状況に照らして考察した。そこからは、2000年代以降の「植民地もの」 が、ナショナリズムへ向かうという単純な図式では捉えきれない、対日表象 の様式と戦略を手探りしながら多様なかたちで加害と被害の対立構図を越え ようとする社会的実践としての韓国映画の隘路が見えてくる。『軍艦島』がそ の限界を示したことで、後続の「植民地もの」はまた別の表現様式を見出す ために試行錯誤を繰り返すであろう。 ▶23 野崎充彦「記憶の作法─現代韓 国映画の地平」『韓国朝鮮の文 化 と 社 会 』 第14号、2015年、 183頁。

参照

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